◆ 信教の自由と合理的配慮
私は3つの処分の闘いを続けています。それは処分撤回闘争というより、この国の悪霊という空気を打ち破る闘いです。不起立(着席)は、教員としてか、信仰者としてか、介助のためか。私の場合これらのことは一体です。根はひとつです。今回は共同訴訟の中での信教の自由についての部分と、人事委員会審理での合理的配慮による着席を認めるべきという訴えについて、述べます。
◆ 信教の自由について
「国歌斉唱」の強制は、思考停止へ導きます。特に宗教的「君が代」は危険です。宗教的方法は思考停止をさせる方法です。実際、国家神道の教組天皇の讃美歌でした。明治以来の国家権力はそれを利用し、原爆投下されて戦争に負けるまで、国を挙げて思考停止しました。そして、今は象徴天皇制という形の中で、宗教的であることを思考停止の方法として利用している。
宗教と信仰とは別です。信仰は神、または神のような存在を仰ぎ信じることです。信仰は悩み祈り求めるので深まります。信仰は「信仰による行い」という結果を生みます。信教とはある宗教を信じることですが、その宗教の形を覚えるだけでは信仰にはならないと私は考えます。信仰は主体的なものだから、国は信仰を押しつけるとはできません。国は一つの宗教を信じること(信教を)を押しつける(強制する)ことはできます。
「君が代」の強制は、信仰を持たない人への強制でもあるのです。キリスト者や仏教徒で信仰を持っている人はその偶像の強制に気が付きやすいが、無信仰の人で「君が代」強制が無信仰の自由を侵されているとは気が付きにくいと思います。
福祉の分野でキリスト教精神は大きな影響を与えてきたと思います。キリストが最も大切な戒めとして二つ教えました。「あなたは心を尽くし、命を尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」と「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。」です。
この後の戒めが社会の福祉を進めてきた思想に繋がると思います。兵士をつくる教育でなく、人を育てる教育でもこの精神が大きく影響していると思います。
◆ 合理的配慮について
特別支援学校での「国歌斉唱」は、その卒業式入学式での教育目標によって考慮されることなく、歌詞の意味も教えられることもなく行われています。
教員の不起立が、教育内容に関することではなく単なる「職務命令」違反として扱われているのは、一般校と同じですが、この教員への強制と児童生徒への教育を通しての強制と保護者への同調圧力による強制が、「合理的配慮」を無視して行われているということが特別支援学校においては大きな問題なのではないでしょうか。
「合理的配慮」を義務付けている障害者差別解消法は、2013年6月に制定されました。
内閣府HPによると、合理的配慮とは、障害のある人と障害のない人の平等な機会を確保し、社会的障壁をなくすために行われる、個別の対応や支援のことです。
障害のある人が「社会的障壁の除去を必要としている」旨の意思表示をしたとき、周囲の人は、その実施に過度な負担が伴わない場合は、必要で合理的な配慮を行うことを定めています。「本人が直接意思表示するだけでなく、通訳や家族、介助者など、障害のある人のコミュニケーションを支援する人のサポートにより本人の意思が伝えられることも含まれます」、とあります。
大阪府は障がい者への合理的配慮に関してHPにおいて『大阪府における障がい者が必要とする社会的障壁の除去のための配慮や工夫の事例について』として、募集したものを公表しています。主旨をまず次のように呼びかけています。
「私たちは、多様なサービスや社会的インフラ、権利行使の機会を様々な場面で利用しながら、日常生活や社会生活を営んでいます。しかし、これらが障がい者には利用できない形でしか提供されないと、日常生活や社会生活から排除されることになってしまいます。これまでは、ともすれば、障がい者の機能障がいの克服の努力に関心が寄せられがちでしたが、今後は、障がいの有無によって分け隔てられることなく、相互に人格と個性を尊重し合いながら共生する社会の実現に向けて、一人ひとりが、障がい者の自立や社会参加を妨げている『社会的障壁』を除去するための『合理的配慮』に取組んでいくことが求められます。」
「教育現場で現に行われている配慮や工夫」については、次のような記述があります。
「起立行為または斉唱行為の一部だけ取り上げ、形式的に判断するのではなく、各職員の起立行為または斉唱行為を総合的に現認し、公務の信頼性を維持するに十分な誠意ある姿勢・態度を各職員がとっているか否かという観点で判断すべきである。」
◆ 2015年3月の私の「君が代」着席の考え
重い障がいを持って、知的発達が暮れ、言葉でのコミュニケーションが難しく、発作が毎日あり、自分で起立できなくて日常車いすを使用する生徒に対する支援者の態度について考える。
学校現場においては、発作を起こしてはならないからと刺激的なことを避けてばかりはいられない。ケースを考えて、行事などの中で、その生徒が一番活躍できるように工夫することが大切である。本人がこうしたいと口で言えない場合、担任教員と保護者が相談し、どうするのが一番いいか決めることになる。
また卒業式のような行事で卒業生として出るときはある程度の緊張は仕方ないと言えるし、その緊張感を味あわせたい。発作が起きないように精神状態を和らげ平安な状態を保ちたい。特に介助歩行で歩いての卒業賞与受け取りや歩いての退場を目標とする場合、式前半での体の緊張と強度の精神的興奮や逆に極端な放心状態は避けたい。そのために、生徒の顔の位置(高さ)に介助者がいて話しかけたり、音楽に合わせて手をたたいたりは合理的配慮と言える。
また卒業生入場の場面で興奮した状態から「国歌斉唱」と移り周りが起立しる中で一人車いすに座っている状態は孤立感から不安な精神状態に陥らせることになる。普段の授業の状態ではなく、予行演習で簡略した形を経験しているだけの初めての体験なのである。
介助をする担任教員が、「発作の対応のために横にいる」だけではなく、この場合「発作を起こす可能性を含めるために横に座る」意味が理解される必要がある。緊急対応が必要な大発作でなくても、卒業式が終わるまで元気が戻ってこない発作は避けたいのである。
20190721 大阪「君が代」不起立被処分者 奥野 泰孝
私は3つの処分の闘いを続けています。それは処分撤回闘争というより、この国の悪霊という空気を打ち破る闘いです。不起立(着席)は、教員としてか、信仰者としてか、介助のためか。私の場合これらのことは一体です。根はひとつです。今回は共同訴訟の中での信教の自由についての部分と、人事委員会審理での合理的配慮による着席を認めるべきという訴えについて、述べます。
◆ 信教の自由について
「国歌斉唱」の強制は、思考停止へ導きます。特に宗教的「君が代」は危険です。宗教的方法は思考停止をさせる方法です。実際、国家神道の教組天皇の讃美歌でした。明治以来の国家権力はそれを利用し、原爆投下されて戦争に負けるまで、国を挙げて思考停止しました。そして、今は象徴天皇制という形の中で、宗教的であることを思考停止の方法として利用している。
宗教と信仰とは別です。信仰は神、または神のような存在を仰ぎ信じることです。信仰は悩み祈り求めるので深まります。信仰は「信仰による行い」という結果を生みます。信教とはある宗教を信じることですが、その宗教の形を覚えるだけでは信仰にはならないと私は考えます。信仰は主体的なものだから、国は信仰を押しつけるとはできません。国は一つの宗教を信じること(信教を)を押しつける(強制する)ことはできます。
「君が代」の強制は、信仰を持たない人への強制でもあるのです。キリスト者や仏教徒で信仰を持っている人はその偶像の強制に気が付きやすいが、無信仰の人で「君が代」強制が無信仰の自由を侵されているとは気が付きにくいと思います。
福祉の分野でキリスト教精神は大きな影響を与えてきたと思います。キリストが最も大切な戒めとして二つ教えました。「あなたは心を尽くし、命を尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」と「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。」です。
この後の戒めが社会の福祉を進めてきた思想に繋がると思います。兵士をつくる教育でなく、人を育てる教育でもこの精神が大きく影響していると思います。
◆ 合理的配慮について
特別支援学校での「国歌斉唱」は、その卒業式入学式での教育目標によって考慮されることなく、歌詞の意味も教えられることもなく行われています。
教員の不起立が、教育内容に関することではなく単なる「職務命令」違反として扱われているのは、一般校と同じですが、この教員への強制と児童生徒への教育を通しての強制と保護者への同調圧力による強制が、「合理的配慮」を無視して行われているということが特別支援学校においては大きな問題なのではないでしょうか。
「合理的配慮」を義務付けている障害者差別解消法は、2013年6月に制定されました。
内閣府HPによると、合理的配慮とは、障害のある人と障害のない人の平等な機会を確保し、社会的障壁をなくすために行われる、個別の対応や支援のことです。
障害のある人が「社会的障壁の除去を必要としている」旨の意思表示をしたとき、周囲の人は、その実施に過度な負担が伴わない場合は、必要で合理的な配慮を行うことを定めています。「本人が直接意思表示するだけでなく、通訳や家族、介助者など、障害のある人のコミュニケーションを支援する人のサポートにより本人の意思が伝えられることも含まれます」、とあります。
大阪府は障がい者への合理的配慮に関してHPにおいて『大阪府における障がい者が必要とする社会的障壁の除去のための配慮や工夫の事例について』として、募集したものを公表しています。主旨をまず次のように呼びかけています。
「私たちは、多様なサービスや社会的インフラ、権利行使の機会を様々な場面で利用しながら、日常生活や社会生活を営んでいます。しかし、これらが障がい者には利用できない形でしか提供されないと、日常生活や社会生活から排除されることになってしまいます。これまでは、ともすれば、障がい者の機能障がいの克服の努力に関心が寄せられがちでしたが、今後は、障がいの有無によって分け隔てられることなく、相互に人格と個性を尊重し合いながら共生する社会の実現に向けて、一人ひとりが、障がい者の自立や社会参加を妨げている『社会的障壁』を除去するための『合理的配慮』に取組んでいくことが求められます。」
「教育現場で現に行われている配慮や工夫」については、次のような記述があります。
・個々の子どもにとってベストの座席位置になるよう配慮している。大阪府教委は学校長に文書で次のように指示している。
・個々の子どもがその特性を踏まえて授業の中で活躍できる場面づくりをしている。
・入学式前に会場を下見し配慮すべき点を確認している。
・運動会や卒業式等各行事での子どもの位置付けを全員で確認し、ルールや参加のための配慮について検討するようにしている。
・活動の時間を区切り、見通しを子どもに常に提示している。
・学校生活や行事などの1日の流れをあらかじめイメージしやすいように明示している。
・気持ちを落ち着けるコーナー、エリアを整備し、態勢を整えている。
「起立行為または斉唱行為の一部だけ取り上げ、形式的に判断するのではなく、各職員の起立行為または斉唱行為を総合的に現認し、公務の信頼性を維持するに十分な誠意ある姿勢・態度を各職員がとっているか否かという観点で判断すべきである。」
◆ 2015年3月の私の「君が代」着席の考え
重い障がいを持って、知的発達が暮れ、言葉でのコミュニケーションが難しく、発作が毎日あり、自分で起立できなくて日常車いすを使用する生徒に対する支援者の態度について考える。
学校現場においては、発作を起こしてはならないからと刺激的なことを避けてばかりはいられない。ケースを考えて、行事などの中で、その生徒が一番活躍できるように工夫することが大切である。本人がこうしたいと口で言えない場合、担任教員と保護者が相談し、どうするのが一番いいか決めることになる。
また卒業式のような行事で卒業生として出るときはある程度の緊張は仕方ないと言えるし、その緊張感を味あわせたい。発作が起きないように精神状態を和らげ平安な状態を保ちたい。特に介助歩行で歩いての卒業賞与受け取りや歩いての退場を目標とする場合、式前半での体の緊張と強度の精神的興奮や逆に極端な放心状態は避けたい。そのために、生徒の顔の位置(高さ)に介助者がいて話しかけたり、音楽に合わせて手をたたいたりは合理的配慮と言える。
また卒業生入場の場面で興奮した状態から「国歌斉唱」と移り周りが起立しる中で一人車いすに座っている状態は孤立感から不安な精神状態に陥らせることになる。普段の授業の状態ではなく、予行演習で簡略した形を経験しているだけの初めての体験なのである。
介助をする担任教員が、「発作の対応のために横にいる」だけではなく、この場合「発作を起こす可能性を含めるために横に座る」意味が理解される必要がある。緊急対応が必要な大発作でなくても、卒業式が終わるまで元気が戻ってこない発作は避けたいのである。
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