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東京都の元「藤田先生を応援する会」有志によるブログ(2004年11月~2022年6月)のアーカイブ+αです。

東京・教育の自由裁判をすすめる会による最高裁要請(4/4)

2016年06月23日 | 日の丸・君が代関連ニュース
 ★ 3次訴訟第3回最高裁要請 6月29日(水)14:00~(15分前最高裁西門集合)
最高裁第三小法廷 裁判官 御中
◎ 要 請 書
2016年6月14日

 私は、都立の、高校に11年、肢体不自由の障害児学校に20年勤務し、2013年3月に定年退職したものです。現在は、特別支援学校の講師をするかたわら、縁があって貧困家庭の子どもの学習支援もしています。
 私が青春時代を過ごした1960年代から70年代は、ベトナム戦争があり、国内外で学園紛争が吹き荒れ、さらには沖縄返還や公害反対運動と「熱く激しい」時代でありました。その反面、同時に未来に希望を持っていた時代でした。私が子どもの頃にいだいた21世紀のイメージは「鉄腕アトム」が描いたような科学技術が進歩し豊かな生活をおくる時代です。現実にその21世紀がやってきて、特に情報技術は「アトム」のイメージを遙かに超えて進歩しています。
 経済的にも著しい発展が見られます。しかし、すでに10数年が過ぎたにもかかわらず、貧困の子どもが厚い層となっていて、その支援をする必要があるという事態になるとは、自分の子どもの頃には想像することすらできませんでした。
 今、若者が明るい希望を持つことはとても難しい時代です。先日も奨学金の返済に苦しめられる若者の姿が報道されていました。21世紀にこのようなことがあって良いのかという思いを強く持ちます。
 また、二次大戦後、「世界人権宣言」を本格的なスタートとし、1960年代の「国際人権規約」をへて「障害者権利条約」にいたるまで、国連を中心に人権保障の取り組みが世界的に発展してきています。しかし、その発展に対し、テロや内戦により最大の人権である生命の安全すら保障されていないという大きな落差があります。
 この落差は外国だけではありません。日本においても多くの人権侵害がいまだ数多くありますが、本事件の根本にある、いわゆる「10.23通達」も、人権保障の世界史的発展に逆行する前世紀の、しかもその前半の遺物ともいうべき文書です。
 この通達は直接的には教師を統制するものですが、より本質的な問題は教育自体の統制です。この統制が教育内容にどのような影響をおよぼすか、私自身の経験から一例だけ紹介します。
 私は、中学部の一年から高等部卒業までの6年間、同じ学年を担任したことがあります。この学年が卒業したのは、「10.23通達」直前の2002年度でした。6年間のさまざまな思い出とともに、この卒業式についてはひときわ感慨深いものがありました。なかでも「10.23通達」のもとではあり得ない場面が強く印象に残っています
 卒業生の一人に、身体に緊張が入りがちで、手足のコントロールの困難な生徒がいました。この生徒は、軽度の知的障害を併せ持ち、発声も困難でトーキングエイドという機器を使って、コミュニケーションを図っていました。中学部の卒業式の際は手動の車椅子を使用し、教員に介助されて卒業証書を受け取りました。しかし、高等部に入ってからは電動車椅子の練習を始め、場面によって手動と電動の車椅子を使い分けるという形になりました。といっても、電動車椅子は練習途上であり、広い空間で、人や物にぶつかるおそれのない場で使用しました。使用の場は限られていても、本人にとっては自力で移動できるわけであり、それまでとは全く異なる視野が開けたと思います。
 そして、高等部の卒業式においては、学年担任団で協議し、この生徒については、電動車椅子を使用して自力で卒業証書を受け取ってもらうことにしました。卒業式本番に向け電動車椅子の練習を、あらためて集中的に行いました。そして本番です。
 本番では、蛇行して予定のコースをかなり外れながら、本人の必死の努力で何とか自力で卒業証書を受け取り自席に戻りました。式の参列者は、はらはらしながらもその場面を見守り、彼が自席に戻るとひときわ大きな拍手が起こりました。これは卒業して社会に巣立つことを端的に象徴する場面であり、私の目に焼き付いています。
 そして、これは体育館ステージの使用を義務づけられた「10.23通達」のもとでは、あり得ない形です。言うまでもなく、ステージでは転落のおそれが大きく安全が確保できないからです。
 この事例は、実は通達前で良かったという話ではありません。3年後実際に同様の事例が再びあったのです。そこでは、保護者も自力で証書を受け取るためにフロアで渡すことを校長に求めましたが、校長はあくまでもステージにこだわり、やむを得ず教員が車椅子を押して、証書を受け取りました。生徒本人・保護者・教員三者に痛恨の思いが残りました。
 ちなみに先の事例と同じ校長のもとでのことでした。一部の校長証言によれば、例外的にフロアで証書を渡した事例があるとのことですが、障害児学校においては、従来フロアで証書を渡すことが一般的であったのに対し、このように、それが基本的に許されなくなったということが、見るべき事実です。わずかな例外をもって、この通達が画一的な式を強制しているという本質を見誤ってはなりません。
 私たちが、「10.23通達」に関わる一連の裁判において、過去の判例の中で最も重要と考えているのは、いわゆる旭川学テ事件の判決です。この判決は、さまざまな主張に周到な配慮をしており、一義的な解釈が難しいという面はありますが、その核心は以下の点にある、と私は考えています。
 つまり「子どもの教育は、教育を施す者の支配的権能ではなく、何よりもまず、子どもの学習をする権利に対応し、その充足をはかりうる立場にある者の責務に属するもの」である。また、「子どもの教育が教師と子どもとの間の直接の人格的接触を通じ、その個性に応じて行われなければならないという本質的要請」がある、という部分です。
 ここに述べられているように「子どもとの間の直接の人格的接触を通じ」て、教師は教育の内容を考えます。子どもの状態をつかみ、その成長・発達にどのような取り組みが最善であるか、試行錯誤しながらも、それを追求するのが教師の使命であり、責任です。「通達」は教師個々人の「思想・信条の自由」をおかすという問題は確かにあります。しかし、それ以上に重要なのは、子どもの成長に寄り添いたいという教師としての本源的な願いを踏みにじるものであり、ひいては子どもたちの人権を踏みにじるということです。
 最高裁にあっては、学テ判決の基本に立ち返り、このような事態が是正されるような判決を下されるよう切に願うものです。
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