◆ ある中学校の卒業式での違和感 (滋賀県)
おとといの土曜日は、中学校の卒業式でした。
今年も来賓として出席し、「国歌斉唱」がありましたので、やはり不起立。在日の子どもも何人かいることも含めて、子どもへの強制・押し付けは許せませんでした。
ただ、伴奏は、校歌が教員によるピアノであったのに対して、君が代はCDでした。教員がピアノ伴奏しなかったことについては、議論されたのかどうかはわかりません。
ところで今回は、体育館にステージに向かって真っすぐに15m位のスロープが設置されていました。
校長の説明では、卒業生に車いす使用者がいて、すべての子どもに壇上で卒業証書を渡したいと考えていて、校区内のある企業に相談したら、そこの社長が対応してくれることとなり、スロープが設置できたということでした。
それが、式が始まる前の控室で報告され、その社長も来賓だったので、皆が拍手して歓迎していました。式においても、校長は、冒頭の式辞において、これを「ユニバーサルデザイン」と述べ、社長を立たせて紹介し、謝礼を述べました。卒業生代表の送辞においても代表が感謝の意を表しました。
さて、そんな中で私は、大変違和感を感じていました。
まず、当事者である車いす使用の生徒に相談はしたのかと。
少なくとも本人は拒否はしていないので、了承済みのものだろうが、そのものの大きさと言い、紹介のされ方や、事前に新聞記者記事提供までしていたこと、社長は喜んでその生徒がスロープを使用しているときは何度も写真を撮っていたことなど、まさに誰のためにやっているのかと疑うような状況でした。
健常者の自己満足?
私が保護者だったら、つらい。
また、普通に考えたら、また、「ユニバーサルデザイン」などというなら、フロアーで卒業証書を渡すことを、なぜしなかったのか。
たとえ彼の時だけでも校長が壇上から下りてきていいではないか。障がい者問題についての子どもへの教育においては、障がい者の目線とかその立場に立ってなどと言ってきたのではないか。
なぜ健常者のように、彼を壇上にあげるたがるのか。健常者の位置として壇上の校長は何も変わらず、障がい者をスロープによってあげることが「ユニバーサルデザイン」か。
それは、健常者社会に障がい者がどう合わせるのかという健常者の論理を貫徹することに過ぎないのではないか。
彼のこの3年間の学校生活の最後だけスロープを設置したのか。これまでどうして来たのか。
障がい者のための学校整備をしてきたのか。また、他の生徒に対する教育や学校生活上の取り組みはどうだったのか。
また、これから巣立つ社会はスロープが必ずしもあるとは言えない社会なのに、そのことに対応できる子どもとして彼を育ててきたか。
疑問や複雑な思い、また怒りのようなものさえ感じ、式終了後の控室で、校長などに話そうかと戸惑いましたが、そのチャンスはありませんでした。
しかし、帰り際に、職員室を訪ね。知人の教員に、どうしてフロアーで実施しなかったのかとか、そんな議論は職員室でなかったのか、など問いました。
その知人は、フロアーでの対応は考えていなかったと。その余地がないまま、スロープ設置の話が進んでしまったという。
知人は少し反省気味でしたので、卒業式が終わった後だが、学校教育において議論すべきことなので、ぜひ、みんなで議論してほしい。
今日のスロープ設置はよかったなどということですまさないように提起してほしい旨依頼しました。
「すべての子どもを壇上にあげたい」という美辞麗句をもって、障がい者に対する、まさに「対策」をとったとしか言えないような卒業式。
健常者である、校長や企業の社長の満足、他の教員や私を含めた来賓の後押しないしは傍観、そして生徒全体にまでその光景(偽りの「ユニバーサルデザイン」という光景)の中に取り込んでしまったような卒業式に、重たいものを感じるのは私だけだったのか、何かつらい卒業式でした。
おとといの土曜日は、中学校の卒業式でした。
今年も来賓として出席し、「国歌斉唱」がありましたので、やはり不起立。在日の子どもも何人かいることも含めて、子どもへの強制・押し付けは許せませんでした。
ただ、伴奏は、校歌が教員によるピアノであったのに対して、君が代はCDでした。教員がピアノ伴奏しなかったことについては、議論されたのかどうかはわかりません。
ところで今回は、体育館にステージに向かって真っすぐに15m位のスロープが設置されていました。
校長の説明では、卒業生に車いす使用者がいて、すべての子どもに壇上で卒業証書を渡したいと考えていて、校区内のある企業に相談したら、そこの社長が対応してくれることとなり、スロープが設置できたということでした。
それが、式が始まる前の控室で報告され、その社長も来賓だったので、皆が拍手して歓迎していました。式においても、校長は、冒頭の式辞において、これを「ユニバーサルデザイン」と述べ、社長を立たせて紹介し、謝礼を述べました。卒業生代表の送辞においても代表が感謝の意を表しました。
さて、そんな中で私は、大変違和感を感じていました。
まず、当事者である車いす使用の生徒に相談はしたのかと。
少なくとも本人は拒否はしていないので、了承済みのものだろうが、そのものの大きさと言い、紹介のされ方や、事前に新聞記者記事提供までしていたこと、社長は喜んでその生徒がスロープを使用しているときは何度も写真を撮っていたことなど、まさに誰のためにやっているのかと疑うような状況でした。
健常者の自己満足?
私が保護者だったら、つらい。
また、普通に考えたら、また、「ユニバーサルデザイン」などというなら、フロアーで卒業証書を渡すことを、なぜしなかったのか。
たとえ彼の時だけでも校長が壇上から下りてきていいではないか。障がい者問題についての子どもへの教育においては、障がい者の目線とかその立場に立ってなどと言ってきたのではないか。
なぜ健常者のように、彼を壇上にあげるたがるのか。健常者の位置として壇上の校長は何も変わらず、障がい者をスロープによってあげることが「ユニバーサルデザイン」か。
それは、健常者社会に障がい者がどう合わせるのかという健常者の論理を貫徹することに過ぎないのではないか。
彼のこの3年間の学校生活の最後だけスロープを設置したのか。これまでどうして来たのか。
障がい者のための学校整備をしてきたのか。また、他の生徒に対する教育や学校生活上の取り組みはどうだったのか。
また、これから巣立つ社会はスロープが必ずしもあるとは言えない社会なのに、そのことに対応できる子どもとして彼を育ててきたか。
疑問や複雑な思い、また怒りのようなものさえ感じ、式終了後の控室で、校長などに話そうかと戸惑いましたが、そのチャンスはありませんでした。
しかし、帰り際に、職員室を訪ね。知人の教員に、どうしてフロアーで実施しなかったのかとか、そんな議論は職員室でなかったのか、など問いました。
その知人は、フロアーでの対応は考えていなかったと。その余地がないまま、スロープ設置の話が進んでしまったという。
知人は少し反省気味でしたので、卒業式が終わった後だが、学校教育において議論すべきことなので、ぜひ、みんなで議論してほしい。
今日のスロープ設置はよかったなどということですまさないように提起してほしい旨依頼しました。
「すべての子どもを壇上にあげたい」という美辞麗句をもって、障がい者に対する、まさに「対策」をとったとしか言えないような卒業式。
健常者である、校長や企業の社長の満足、他の教員や私を含めた来賓の後押しないしは傍観、そして生徒全体にまでその光景(偽りの「ユニバーサルデザイン」という光景)の中に取り込んでしまったような卒業式に、重たいものを感じるのは私だけだったのか、何かつらい卒業式でした。
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