《MAG2 NEWS》
★ 現場教員が「狂っている」とまで言う教育施策のビルド&ビルド
by 松尾英明
教育現場を助けるためにさまざまな施策を練る文科省。しかし、それが現場で歓迎されないのはなぜなのでしょうか。メルマガ『「二十代で身につけたい!」教育観と仕事術』の著者で現役小学校教師の松尾英明さんは、つくり出すのではなく、なくしてくれ、減らしてくれ、と語っています。
★ つくるよりなくそう。増やすより減らそう
前回10月29日発行のメルマガに「善魔」について記事を書いた。
※ 「よかれと思って」が児童を傷つける。学校が、悪魔ならぬ“善魔”になる瞬間
そしてちょうど昨日、11月4日付の産経新聞の社説に「善魔」についての記事が載っていたらしい。
有難いことに、メルマガ読者でもある友人が教えてくれて知った次第である。
やはり遠藤周作氏の造語ということでほぼ間違いなさそうである。
この新聞記事では、政府の様々な施策を「善魔」として批判している。
記事中では、以下のニーチェの言葉を引用している。
「悪意のように見える不遜な善意もある」
そう、悪意のように「見える」のである。しかし、それは紛れもなく善意である。
善意だが、相手にとっては迷惑。
善意なのに実質悪という、哀しいすれ違いである。
例えるなら、もう食べ過ぎて吐きそうなのに「美味しいから」と料理を追加注文されているような状態である。
さて、教育施策にもこれはいえる。
絶対、現場教員を苦しめようと思っているはずがない。
しかしながら、常に減らさず積み上げ方式の各施策は、結果的に苦しいことになりがちである。
今の教育現場が本当に助かる、やって欲しい方向性はただ一つなのである。
それが、「今までやっていましたが、やめます」という決定である。
「ノー残業デー推奨」「勤務実態調査」などは、本来その方向性をもっているはずなのである。
しかしながら、現場で今一つ歓迎されないのはなぜか。
「残業」が悪いのではなく「業務量が多い」の方が問題の本質だからである。
「残業」は「業務量が多い」に対する、現場の苦肉の対抗策なのである。
(ただし、必要以上に無駄に残業しているという実態がゼロではないことも否めない。)
このメルマガでも百回ぐらい書いている気がするが、業務量自体を減らして欲しいのである。
欲しいのは「残業をやめましょう」の呼びかけではなくて「業務を減らします」の決定である。
教員はどれも「善意」でやってしまうからこそ、業務について「撤廃」レベルでやめさせて欲しいのである。
例えば指導要録や出席簿のような法的に定められた各種書類がある。
どちらも、通知表や健康観察板等で代替資料としては十分事足りるものである。
「いざという時にいる」と言われたらそうなのかもしれないが、残念ながらその「いざ」を見たことがない。
「もういいです」となくしてくれたら、全国でどれだけの総業務量が減ることだろう。
更に「作成」と「点検」は業務として常にセットである。
点検者側は立場上厳しく見ざるを得ないため、作成者側は必然的にノーミスの厳密な業務を強いられることになる。
上から下まで、お互いに苦しい状況をわざわざ生み出しているといえる。
現場へのインパクトの大きいものは、学習指導要領の定める授業時数削減である。
ここについては「一人あたりの持ちコマ週○○を目指そう」というのが最近話題になっている。
しかし現実的でないのは、「増員」を前提にしている点である。
担任すら教頭が代替している学校が数多くある現状からして、確実に無理である。
しかしもし、全学年で週あたりたった1コマ減らすことができれば、各校あたり1人の専科教員配置に近い効果がある。
(1学年あたり3学級の中規模校で考えてみる。3×6学年=18学級で、これに特別支援学級2つと仮定して全校で20学級。この全ての学級で1コマ削減されたとすると週20コマの授業時数の削減となる。)
また、当たり前だが単純に持ちコマ数だけで業務量は測れない。
教える教科数が多いほど、準備や評価等の作業も増える。(その点、中学高校の教科担当制度は合理的である。)
学校毎の実態も全く違う。単純に時数で考えて全てを平等にするのは、悪平等ともいえる。
いずれにせよ、まずもって根本的にその業務量自体を減らす必要がある。
業務を減らしたその上で「印刷や〇つけ業務の支援」のような具体的支援策をとってくれると、最高に助かる。
そもそも、印刷物自体を減らせば、あるいはテスト自体の量が減れば、その業務の支援自体すら不要になる。
第一優先が「なくす」。
次点が「減らす」。
それがあった上で「増員する」。
この順番を間違えないことである。
◆ 予算の中で最もハイコストなもの
全予算中、人件費の占める割合が最もハイコストである。
財務省が「教員の増員」案に対し、なかなか首を縦に振らないのは、さもありなんというところである。
端的に言って「先にもっと業務をなくせ、減らせ」という要望である。
「教員をたくさん採用する」よりも先に、できることがかなりある。
例えば「全国学力・学習状況調査」は、予算獲得の上での必要性があるという理論はよくわかる。
「効果検証しないと適切な教育予算を配備できない」という、経済学的視点である。
しかしながら、学校現場に勤める者として本音を言えば、本当に欲しいのは「学力向上」のための予算や人ではない。
不登校支援や、対応が難しく特別な支援を要する子どもが多くいるために、柔軟に対応して動ける人員が必要なのである。
また新規採用の急激な増加に伴って産休や育休が非常に多いのにも関わらず、臨時代替教員がどの自治体にもいないという、どうにもならない状況もある。
度重なる大量新規採用のせいで、どの自治体においても講師登録者のプールは枯渇状態である。
そういう視点からして、例えば先の「全国学力・学習状況調査」などは、必要性が全くない。
学校現場としても(多分各自治体からしても)なければない方がいいものの筆頭である。
元々は良かれと思ってのことなのかもしれないが、「善魔」そのものである。
自治体が勝手にランク付けされるわ教員と子どもは尻を叩かれるわで、散々である。予算の無駄遣いである。
学校には、そういうなくした方がいい粗大ゴミのようなものがゴロゴロある。
「それにも意義がある」と言われたらその通りだが、そのお陰で学校自体が倒れたら本末転倒である。
学校の人手不足問題は、抜き差しならぬ状況なのである。
◆ 問題の本質は、人手不足ではない
そして問題の本質は「人手不足」ではなく「業務量過多」の方である。
また、単に人を増やしたらまた業務が増えるのは目に見えている。
これまで「〇〇教育」などの「新しいもの」について、散々ビルド&ビルドを繰り返してきた実績がある。
その効果検証については、誰にも問われないまま、ただそこにあり続けているというのが現実である。
企業が倒れる構造にも似ている。
規模の拡大と向上を常に目指していれば、いつか無理が生じて倒れる。
見直しによる事業規模の縮小、適正化が必要である。
「もっと成果を上げろ」「優秀な人材を多く確保しろ」よりも、必要なのは業務の焦点化の方である。
人の数は限られているのだから、業務量の方を減らせばいい。
問「40人乗りの大型バスを予約したいけれど、乗る予定の人が20人しかいません。どうしたらよいでしょうか。」
答「20人乗り程度のマイクロバスに変更する。」
小学校の算数レベルの話である。
ここで「乗る人を20人増やす」という回答は、かなり狂っていないだろうか。
そもそもバスの規模が、無駄に大きすぎるのである。
現場を助けるために、人員を確保しようというのは、紛れもない善意である。
それがもしもできるなら、本当に可能なのであれば、確実に助かることである。
(ちなみに小学校だけで、1校当り1人増やすには2万人近く新規で増員し、育成する必要がある。現実を見た時に、果たして、どこにそれだけの人材と資金が埋まっているのだろうか。)
それ以前に、文科省ほどの大きな権限があれば、根本的に業務量自体を減らすことができるのではないだろうか。
どうせ善意であるなら、助かる方向がいい。
何かを新たに与えるよりも、色々となくして欲しいという、現場からの切実なる願いである。
※ 松尾英明 この著者の記事一覧
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『まぐまぐ!ニュース!』(2023.11.07)
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