《澤藤統一郎の憲法日記から》
◆ 大阪夏の陣、維新落城を祝する。
大阪都構想は夢のまた夢、露と消えた。維新は落城し、城主はあえなく切腹を約した。まずは目出度い。
目出度いとは、なによりも大阪市民府民のために喜ぶべきだが、憲法の命運にも明るい萌し。「橋下徹-安倍晋三・最悪コンビ」による改憲推進の構想はなくなったと考えて良さそうだ。これで維新内での橋下の重しがとれて、親安倍政権グループの勢力が殺がれ、反政権派がイニシャチブをとるとすれば、ずいぶんマシになるのではないか。
とは言え、住民投票結果の僅差には驚きを禁じ得ない。橋下にもう少しの魅力があれば、ブレーンにもう少しの智恵者がおれば、なんらかもう少しのパフォーマンスが加わっていれば、勝敗の結果は変わり得たと言わねばならない。あるいは支援者の身内を特別秘書にして薄汚い公費を渡すなどのスキャンダルがなければ、あるいは従軍慰安婦問題での馬鹿げた「ホンネの失言」などがなければ、都構想が実現して彼がなお、政治家として居直っていたかも知れないのだ。
げに「民主主義」とは恐ろしいもの。あんなまやかしの、底の浅い提案が紙一重の差で通っていたやも知れないのだ。大阪都構想が半数近くの市民の賛意を得たことについては、今後の正確な検討が必要であろう。
おそらくは、多くの市民府民が大阪の現状には不満を募らせていた。これまでの市政府政の責任は大きい。中央政治担当者も同罪だ。鬱屈して不満な市民の感情は、「どんな方向にであろうとも、ともかく現状の変更を」という思いとなって、クサイクサイ橋下劇場の演技を支持したということなのだろう。橋下のしたことは、鬱屈した市民府民の不満の感情に火をつけたことなのだ。それも、乱暴極まるやり方でである。
民主主義とは、本来が理性にもとづく政治過程である。冷静で知性をもった主権者が、十分な情報を得たうえで、自由な討議を重ねて結論への到達を目指す。その意味では「熟議の政治」である。そのうえで、衆議一決しない場合には多数決でことを決する。そのルールが想定しているものは衆愚政治ではなくポピュリズムでもない。民衆の未成熟な歪んだ感性に訴えて、支持を獲得することは、民主主義の本来が想定するところではない。
橋下流の民衆支持獲得術は、意識的に敵対者を作りだし、その攻撃に鬱屈した民衆を動員して、負の感情を刺激し満足感を与えることにある。その攻撃対象とされる「敵」は、けっして本当に責任のある権力や権威の中枢とはならない。政権や財界や天皇制が、民衆の困窮や不満の根源として指摘され、攻撃されることはない。
「敵」として、バッシングの標的とされるのは、公務員であり、教員であり、労働組合である。庶民にとってほんの少しだけ安定したよい生活をし、ほんの少しだけ気取った生活をしている、嫉視の相手として恰好の階層を、既得権者だと決めつけてイジメの対象とする。これが、庶民のカタルシスとなり、支持獲得に効果抜群なのだ。違憲・違法、あるいは不当労働行為の手段まで使って、徹底してイジメることこそ橋下流であり、維新流なのだ。
これまで維新の勢力拡張は、民衆の中にあるこのような負の感性部分を覚醒し増幅し、カタルシスを味あわせることに依拠してきた。これで、知事選を勝ち、市長選を勝って、都構想でもあわやというところまで漕ぎつけたのだ。
つまりは、民主主義が本来的には想定していない手口での、民衆の支持獲得に、ある程度まで成功を収めた。今回、橋下は政界からの引退を誓約した。橋下はいなくなるが、橋下のような政治家はあとを断たないのではないか。
このような危険な政治家と危険な政治手法を、今後は徹底して警戒しなければならない。それが、投票結果僅差の教訓である。
『澤藤統一郎の憲法日記』(2015年5月18日)
http://article9.jp/wordpress/?p=4893
◆ 大阪夏の陣、維新落城を祝する。
大阪都構想は夢のまた夢、露と消えた。維新は落城し、城主はあえなく切腹を約した。まずは目出度い。
目出度いとは、なによりも大阪市民府民のために喜ぶべきだが、憲法の命運にも明るい萌し。「橋下徹-安倍晋三・最悪コンビ」による改憲推進の構想はなくなったと考えて良さそうだ。これで維新内での橋下の重しがとれて、親安倍政権グループの勢力が殺がれ、反政権派がイニシャチブをとるとすれば、ずいぶんマシになるのではないか。
とは言え、住民投票結果の僅差には驚きを禁じ得ない。橋下にもう少しの魅力があれば、ブレーンにもう少しの智恵者がおれば、なんらかもう少しのパフォーマンスが加わっていれば、勝敗の結果は変わり得たと言わねばならない。あるいは支援者の身内を特別秘書にして薄汚い公費を渡すなどのスキャンダルがなければ、あるいは従軍慰安婦問題での馬鹿げた「ホンネの失言」などがなければ、都構想が実現して彼がなお、政治家として居直っていたかも知れないのだ。
げに「民主主義」とは恐ろしいもの。あんなまやかしの、底の浅い提案が紙一重の差で通っていたやも知れないのだ。大阪都構想が半数近くの市民の賛意を得たことについては、今後の正確な検討が必要であろう。
おそらくは、多くの市民府民が大阪の現状には不満を募らせていた。これまでの市政府政の責任は大きい。中央政治担当者も同罪だ。鬱屈して不満な市民の感情は、「どんな方向にであろうとも、ともかく現状の変更を」という思いとなって、クサイクサイ橋下劇場の演技を支持したということなのだろう。橋下のしたことは、鬱屈した市民府民の不満の感情に火をつけたことなのだ。それも、乱暴極まるやり方でである。
民主主義とは、本来が理性にもとづく政治過程である。冷静で知性をもった主権者が、十分な情報を得たうえで、自由な討議を重ねて結論への到達を目指す。その意味では「熟議の政治」である。そのうえで、衆議一決しない場合には多数決でことを決する。そのルールが想定しているものは衆愚政治ではなくポピュリズムでもない。民衆の未成熟な歪んだ感性に訴えて、支持を獲得することは、民主主義の本来が想定するところではない。
橋下流の民衆支持獲得術は、意識的に敵対者を作りだし、その攻撃に鬱屈した民衆を動員して、負の感情を刺激し満足感を与えることにある。その攻撃対象とされる「敵」は、けっして本当に責任のある権力や権威の中枢とはならない。政権や財界や天皇制が、民衆の困窮や不満の根源として指摘され、攻撃されることはない。
「敵」として、バッシングの標的とされるのは、公務員であり、教員であり、労働組合である。庶民にとってほんの少しだけ安定したよい生活をし、ほんの少しだけ気取った生活をしている、嫉視の相手として恰好の階層を、既得権者だと決めつけてイジメの対象とする。これが、庶民のカタルシスとなり、支持獲得に効果抜群なのだ。違憲・違法、あるいは不当労働行為の手段まで使って、徹底してイジメることこそ橋下流であり、維新流なのだ。
これまで維新の勢力拡張は、民衆の中にあるこのような負の感性部分を覚醒し増幅し、カタルシスを味あわせることに依拠してきた。これで、知事選を勝ち、市長選を勝って、都構想でもあわやというところまで漕ぎつけたのだ。
つまりは、民主主義が本来的には想定していない手口での、民衆の支持獲得に、ある程度まで成功を収めた。今回、橋下は政界からの引退を誓約した。橋下はいなくなるが、橋下のような政治家はあとを断たないのではないか。
このような危険な政治家と危険な政治手法を、今後は徹底して警戒しなければならない。それが、投票結果僅差の教訓である。
『澤藤統一郎の憲法日記』(2015年5月18日)
http://article9.jp/wordpress/?p=4893
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