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2004年12月20日(月曜日) 乙なもの
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中・高時代、殆んど授業を聞いていなかった。
お粗末な生徒であった。好きな本を読んでいたか、ぼおっとしていた。それでも幾つかの言葉は、不思議と心に棲みついて、一生の記憶となった。時々、その言葉を反芻するからであろう。
社会科の教師が言った。
「十代には、十代の、二十代には、二十代の、・・・・・六十代には、六十代の面白みがある。人生とは、そのようなものだよ」、といった趣旨の話であった。
十代であったから、「年とったら、人生終わりだなあ」、と思っていたから、この言い方は、酷く印象に残った。
五十、六十の人には、近寄りがたい大人の世界という感じがあった。あんなになるということは、当時信じられない未来のことであった。それがいつの間にか、自分の歳が六十を超えている。若者から見たら、異様な人に見える歳になってしまった。
若く、溌剌たる時代に戻りたいと、前日の日記に書いたが、「あんな青春の、訳の分らない自分に戻るのは、真っ平ご免だ」、という言い方も一つの感慨である。
心波風なく、飄々と一日一日を過ごすのも乙なものである。さて七十代には、何があるだろうか。
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2004年12月19日(日曜日) 魂
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今日、夕刻より報告集会を開催した。百二十名の参加。師走の第三日曜日であるに拘らずよくもこれだけの方が、と思い感激した。
挨拶でこう言った。「私個人の問題ではない。市民の誰もが公安に摘発される可能性のある時代である」、との趣旨を述べた。
新聞記者の某氏は、6歳と3歳位の子供二人連れての参加。驚いた。この寒空に、それも暗くなってからよくぞ出席されたと、その真摯なる姿勢に襟を正された。発言者の言葉をノートに書きとめてゆく。子供がむずかるとあやしに行く。二人も連れて、大変だ。この記者魂には、言うべき言葉もない。
四十年ぶりでの友人の登場もあった。道ですれ違ったら、全く分らなかったであろう。K氏である。長く清掃の労働に従事してきた。
20歳位の若者が、卒業生代表格で、意見を述べた。若いということは、なにものにも替え難い特権である。悪魔に魂を売ってでも若さを取り戻したいという真情は、この年になって初めて理解された。
アメリカのヤクザ映画で、ボスが言う。病みだした体を抱えて、「金なんて意味ないよ」、と。
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2004年12月18日(土曜日) 羅臼
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釧根原野は寂しいところである。
そこを過ぎると斜里に至る。斜里の山は、頂上直下まで水が流れている綺麗な山だ。
斜里から宇土呂に向かう。そこに、「地の涯旅館」、がある。「ここは地の涯番外地」である。あの旅館は今もあるだろうか。
その宿から羅臼頂上を目指す。
なんと知床横断道路が発案されたとか。もう出来ているのだろうか。道路を作ったら自然は終りだ。羅臼頂上から遥か国後を眺めたら、車が見えたなんて想像すらしたくない。熊だって困るだろう。
昔、羅臼に向かう最終バス、乗客は次々と降りていって最後に二人となってしまった。暗い道であった。
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2004年12月17日(金曜日) 永劫
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今朝は霞が関に七時半に着いた。風が強い寒い朝であった。
落ち葉を清掃している人がいる。こりゃ、限りがない。掃いたあとから降り注ぐ。この仕事はきつい。シジフォスの石運びみたいなものだが、木の葉が少なくなる分だけ意味がある。
現代、分業と虚業の時代、全く、仕事に何の喜びも見い出せない人が無数にいることであろう。残酷な時代である。
石運びで思い出したが、パチンコの出玉の運び、積み上げはきつい仕事だ。
卒業したY子は、学費稼ぎのため、今パチンコ屋にいる。四箱、いっぺんに運ぶと言う。腰を痛めるのではないかと心配だ。
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2004年12月16日(木曜日) なんと
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九歳の時、朝鮮戦争が始まった。
毎朝の新聞に、戦況の図が載る。両軍、凸と凸、片方が黒く塗られ、向き合っている。それがおもちゃの様、今も記憶の中にある。何百万も死んだ悲惨な戦争であった。
長く、偶発的に起こった戦争かと思っていた。1970年ころ、判然としないが、おかしいなと思い出した。お粗末な世界認識であった。色々本を読んで、なんと金日成の仕掛けた戦争であったと知った。
十年程前、萩原遼氏の著作が出た。アメリカの公文書舘に通い実証的に朝鮮戦争の事実を明らかにした本である。労作である。日本語の本だけ読んでるとえらく間違う。
2004年12月20日(月曜日) 乙なもの
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中・高時代、殆んど授業を聞いていなかった。
お粗末な生徒であった。好きな本を読んでいたか、ぼおっとしていた。それでも幾つかの言葉は、不思議と心に棲みついて、一生の記憶となった。時々、その言葉を反芻するからであろう。
社会科の教師が言った。
「十代には、十代の、二十代には、二十代の、・・・・・六十代には、六十代の面白みがある。人生とは、そのようなものだよ」、といった趣旨の話であった。
十代であったから、「年とったら、人生終わりだなあ」、と思っていたから、この言い方は、酷く印象に残った。
五十、六十の人には、近寄りがたい大人の世界という感じがあった。あんなになるということは、当時信じられない未来のことであった。それがいつの間にか、自分の歳が六十を超えている。若者から見たら、異様な人に見える歳になってしまった。
若く、溌剌たる時代に戻りたいと、前日の日記に書いたが、「あんな青春の、訳の分らない自分に戻るのは、真っ平ご免だ」、という言い方も一つの感慨である。
心波風なく、飄々と一日一日を過ごすのも乙なものである。さて七十代には、何があるだろうか。
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2004年12月19日(日曜日) 魂
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今日、夕刻より報告集会を開催した。百二十名の参加。師走の第三日曜日であるに拘らずよくもこれだけの方が、と思い感激した。
挨拶でこう言った。「私個人の問題ではない。市民の誰もが公安に摘発される可能性のある時代である」、との趣旨を述べた。
新聞記者の某氏は、6歳と3歳位の子供二人連れての参加。驚いた。この寒空に、それも暗くなってからよくぞ出席されたと、その真摯なる姿勢に襟を正された。発言者の言葉をノートに書きとめてゆく。子供がむずかるとあやしに行く。二人も連れて、大変だ。この記者魂には、言うべき言葉もない。
四十年ぶりでの友人の登場もあった。道ですれ違ったら、全く分らなかったであろう。K氏である。長く清掃の労働に従事してきた。
20歳位の若者が、卒業生代表格で、意見を述べた。若いということは、なにものにも替え難い特権である。悪魔に魂を売ってでも若さを取り戻したいという真情は、この年になって初めて理解された。
アメリカのヤクザ映画で、ボスが言う。病みだした体を抱えて、「金なんて意味ないよ」、と。
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2004年12月18日(土曜日) 羅臼
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釧根原野は寂しいところである。
そこを過ぎると斜里に至る。斜里の山は、頂上直下まで水が流れている綺麗な山だ。
斜里から宇土呂に向かう。そこに、「地の涯旅館」、がある。「ここは地の涯番外地」である。あの旅館は今もあるだろうか。
その宿から羅臼頂上を目指す。
なんと知床横断道路が発案されたとか。もう出来ているのだろうか。道路を作ったら自然は終りだ。羅臼頂上から遥か国後を眺めたら、車が見えたなんて想像すらしたくない。熊だって困るだろう。
昔、羅臼に向かう最終バス、乗客は次々と降りていって最後に二人となってしまった。暗い道であった。
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2004年12月17日(金曜日) 永劫
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今朝は霞が関に七時半に着いた。風が強い寒い朝であった。
落ち葉を清掃している人がいる。こりゃ、限りがない。掃いたあとから降り注ぐ。この仕事はきつい。シジフォスの石運びみたいなものだが、木の葉が少なくなる分だけ意味がある。
現代、分業と虚業の時代、全く、仕事に何の喜びも見い出せない人が無数にいることであろう。残酷な時代である。
石運びで思い出したが、パチンコの出玉の運び、積み上げはきつい仕事だ。
卒業したY子は、学費稼ぎのため、今パチンコ屋にいる。四箱、いっぺんに運ぶと言う。腰を痛めるのではないかと心配だ。
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2004年12月16日(木曜日) なんと
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九歳の時、朝鮮戦争が始まった。
毎朝の新聞に、戦況の図が載る。両軍、凸と凸、片方が黒く塗られ、向き合っている。それがおもちゃの様、今も記憶の中にある。何百万も死んだ悲惨な戦争であった。
長く、偶発的に起こった戦争かと思っていた。1970年ころ、判然としないが、おかしいなと思い出した。お粗末な世界認識であった。色々本を読んで、なんと金日成の仕掛けた戦争であったと知った。
十年程前、萩原遼氏の著作が出た。アメリカの公文書舘に通い実証的に朝鮮戦争の事実を明らかにした本である。労作である。日本語の本だけ読んでるとえらく間違う。
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