2016年7月19日
=大阪高等裁判所 第5民事部4C係 御中 準備書面3「はじめに」から=◎ 国旗・国歌の強制は立憲主義の危機
まことに小さな国が成熟期を迎え、坂道を下りようとしている。下り坂の行き先は定かではない。しかし、この国のかたちとして、先の軍国主義に基づく悲惨な戦争への反省をもとに、個人の基本的人権を尊重し、平和国家として歩み続けることの国民的合意が大きく揺らいでいるとは思えない。
一方、近年、国家としてのアイデンティティを強めるために、公立学校における入学式・卒業式等の式典では、式場内に国旗が掲揚され、中にいる教職員に対して国歌を起立して斉唱するよう職務命令が出され、それに抗う者は、式典から排除され、または処分の対象になっている。
現在は、裁判所の屋上に国旗とされた日の丸が翻っているだけで、国旗に対する敬礼が強制されることはない。
しかし、憲法改正が国会での発議可能な政治情勢を考慮すると、そのうち、裁判所内部でも、最高裁事務総長の通達により、裁判官としての規律の維持・厳格化のために、任命式や各法廷においては国旗を掲げ、裁判官はこれに敬礼すべきであるなどという職務命令が出されないとも限らない。
ナチスにおける法廷の実態は、反ナチス抵抗運動のために死刑になった学生を描いた映画「白バラの祈り」やドイツの法学者の著作『第三帝国下の司法』にも見られるとおり、裁判官が「慣例上の儀礼的所作」として、ヒトラー式挨拶と敬礼をし、国家主義そのままに裁判を行っていた。裁判官が率先して、法と正義の名の下にファシズム政治を後押し、実行していたのである。
このような事態に至ったとき、裁判官諸氏は、自己の良心に基づいて、法廷での国旗への敬礼及び、式典における国歌の斉唱を拒否するであろうか。それとも、率先して、あるいは、職務命令に基づく「慣例上の儀礼的所作」としてなされる限り、思想・良心の自由等に対する間接的制約にすぎず、裁判官の地位にある者としてやむを得ないとして面従腹背で臨むのであろうか。
これは、誇張でも架空の話でもなく、大阪府下の公立学校教職員にとっては、現実の問題であり、控訴人のように、「この国の国旗・国歌は、標識及び歌詞の内容が今や国民統合の象徴とされるに至った天皇を崇拝するものであり、アジアへの侵略戦争を鼓舞し、国民の戦争動員の役割を果たしたとの歴史認識から、教え子を再び戦場に送らないとの教育上の信念に基づき」国歌斉唱時、処分の不安を抱えながら不起立せざるをえない教職員を少なからず生み出している。
そして、原審判決のごとく、少数者の人権保障に関わるこの問題を、一部の最高裁判決多数意見の論理そのままに、多数者の視点から安易に本件処分を認めるようであれば、裁判所が人権保障の最後の砦、立憲主義の維持・保全にとって果たすべき役割を十全に果たすことなく、結局は自らの基盤を堀崩し、先に挙げたナチス裁判と同様な状況、教育の自由が奪われ、社会の息苦しさが加速する流れに加担することになることを指摘せざるをえない。
控訴人らが、処分―判決の如何にかかわらず、屈せず、闘い続ける理由はここにある。
(以下略)
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