《尾形修一の教員免許更新制反対日記から》
◆ 「亡国」の新指導要領
-「過積載」は事業者責任である
8月1日に、中央教育審議会が2020年~2022年に順次実施される新学習指導要領の「審議まとめ案」を公表した。今回の記事は、その案に対して「亡国的」であると批判するものである。
最初に断っておくが、僕は「亡国」という表現を普通は使わない。表現として好まない。大体、ものごとを「国家単位」で測るという発想を取らない。だけど、「国家」なるものが厳然と存在することは確かだし、今回は「国家機関」によるまとめ案でありながらも、あまりにもとんでもない代物だと判断する。正直言って、このニュースに接したときに、「亡国的」という表現が心に浮かんでしまったのである。
今回の新学習指導要領「まとめ案」では、小学校5、6年の英語が教科化される。また、小学校3、4年で「外国語活動」を新設する。また、小学校で「プログラミング教育」を必修化する。
先行して実施されるが、「道徳」も教科化される。そして、小学校でも「アクティブ・ラーニング」を推進するわけである。僕の批判は主に、小学校の教育を対象としている。
だけど、中高の状況も見ておきたい。中学は大きな変化はない。アクティブ・ラーニング、プログラミング教育を進めることは小学校、高校と同じだが、教科のあり方や授業時数には変わりない。なお、中学の英語も原則的には英語で行うとされる。また、道徳の教科化も同様。
高校の場合も小中と似ているけど、旧社会科系の授業が大きく変わる。
地理歴史では「歴史総合」を置き、日本史、世界史を通した近現代史を中心に扱い、必修とする。
一方、公民科では「現代社会」をなくし、「公共」という新科目を作る。
また「理数」という教科が新設される。
「総合的な学習の時間」は「総合的な探求の時間」に名前が変わる。
その他、国語等にも重要な変更があるが、今は省略。歴史総合や公共の内容には関心があるが、今のところはっきりしない。
さて、小学校で英語を教科にする件。
2008年度から「外国語活動」として導入され、2011年度から小学校5、6年で必修化された。まだ10年も経っていないが、当初から「外国語活動」に接していた児童は、もう大学生になっている。必修化された世代も高校生になっている。中学や高校での英語教育は、大きく変わったのだろうか。良く変わったのか、弊害もあったのか。そういう問題を細かく検討する時間もなしに、早くも「教科化」するということは、拙速ではないのか。
そういう意見も根強いと思うが、その「小学校の英語教育をどう考えるか」問題は、別に考えることにする。はい、英語を小学生からやりましょう。それでは「何を減らすのだろうか」。学校の授業数が変わらない以上、本来は何かを減らさないとおかしい。ところが、減らさないというのである。こんなにいっぱい詰め込んで、英語以外の授業を削減しないのである。一体、どうするんだ?
新聞記事によれば、「児童の負担」などから、週当たりの授業数は「28コマ」が限界。ところが、今回の新要領では「総授業時数が1015コマ」、週当たりで「29コマ」になる。
時間割に入らないではないか。では、文科省はどう考えているのか。
「1コマを10~15分程度に分割して、毎朝の始業前に行う」、あるいは「60分授業」を行う、土曜や長期休業を授業に充てるなどを考えているのである。
ここで「コマ」と呼んでいるのは、「一授業時間」のことで、小学校では45分となる。(中高では原則50分。)高校では「単位」になるが、義務制では単位制度を取らないので、授業一回を「コマ」と呼んでいる。
月曜から金曜まで計5日。毎日6時間授業をすれば、30コマとなる。
だけど、それでは職員会議などができない。よくあるのは、水曜と金曜を5時間で終わりにするというやり方である。僕も中学勤務の時はずっとそうやってきて、水曜が職員会議、金曜が学年会になっていた。
小学校高学年の授業数は、かつては1085コマだったが、80年以後に1015コマ、90年以後に945時間となった。これが「ゆとり教育」と言われた時期である。
その後、「ゆとり教育の見直し」が言われるようになり、現在は「980コマ」になっている。一年にどのくらい勉強するかというと、夏休みなんかがあるから、学校がない時期がある。実はこれは「35週」とすることになっていて、こういった教育問題の時間数には「35」が隠れていることが多い。
年間980コマを35で割ると、週あたり28という数が出てくる。これを「1015」にするというのは、週当たり一コマ分増やすことになる。
だけど、土曜は昔と違って休日なんだから、これは月から金に詰め込むしかない。土曜や夏休みになると言っても、今度は別の問題がいっぱい出てくる。そうなると、週の中に入れると、児童や教員の負担が大きくなりすぎる。どうするんだろ。
そういうこともあるけど、小学生は、あるいは小学校の先生は、何を一番やるべきなんだろうか。英語?それとも道徳? いやいや、国語や算数も大事でしょ。あるいは体育も。行事もあるし、そのうえ、プログラミング? 誰が教える? アクティブ・ラーニング? 一体、こんなに何でもかんでもできるのか? もちろんできないだろう。
明らかに、「できる子」と「できない子」の格差が激しくなる。学校の勉強についていけない子が増える。
教員の負担も大きくなりすぎる。教員間の連絡もおろそかになる。教員はどんどん学習を進めないと、やるべき授業が終わらなくなる。教師に課せられた重い負担は、児童の理解、納得を置き去りにすることになってしまう。
こうして、すでに小学校段階で両極分解した子供たちが、中学に上がり、高校へ進む。その時、何が起きるか。少しでも想像力があれば、どんな学校になってしまうか、判るのではないか。一部のエリート層は付いていけるかもしれない。でも、家庭的に恵まれないような子供たちはどうなるだろう。
現在だって、「格差」の深刻化が言われる。今回の新指導要領はそのまま実施されれば、明らかに深刻な格差社会を増幅するに決まっている。
大体、こういう指導要領になって、小学校の教員になりたいか。
小学校の先生というのは、クラスの中でマジメでしっかりとした生徒が、かなりの程度で志望してきた。
しかし、今でさえ大変すぎると思うが、これでは明らかに「燃え尽き症候」が多くの教員に起きる。教員組合を通して、教師の学びという連帯が成り立つ職場も、日本全体では今では極めて少ないだろう。
個人で背負ってしまう教師は、それを児童に転嫁しやすい。
僕は「過積載は事業者責任」だと強く言いたい。事故が起きても、ドライバーの責任ではない。
いろいろ学校が大変になるだろうが、教師一人一人、生徒一人一人の責任ではないと言っておく。まさに「亡国」的である。
『尾形修一の教員免許更新制反対日記』(2016年09月05日)
http://blog.goo.ne.jp/kurukuru2180/e/c7e5c0fcbb1030c3b3fae092eb114c18
◆ 「亡国」の新指導要領
-「過積載」は事業者責任である
8月1日に、中央教育審議会が2020年~2022年に順次実施される新学習指導要領の「審議まとめ案」を公表した。今回の記事は、その案に対して「亡国的」であると批判するものである。
最初に断っておくが、僕は「亡国」という表現を普通は使わない。表現として好まない。大体、ものごとを「国家単位」で測るという発想を取らない。だけど、「国家」なるものが厳然と存在することは確かだし、今回は「国家機関」によるまとめ案でありながらも、あまりにもとんでもない代物だと判断する。正直言って、このニュースに接したときに、「亡国的」という表現が心に浮かんでしまったのである。
今回の新学習指導要領「まとめ案」では、小学校5、6年の英語が教科化される。また、小学校3、4年で「外国語活動」を新設する。また、小学校で「プログラミング教育」を必修化する。
先行して実施されるが、「道徳」も教科化される。そして、小学校でも「アクティブ・ラーニング」を推進するわけである。僕の批判は主に、小学校の教育を対象としている。
だけど、中高の状況も見ておきたい。中学は大きな変化はない。アクティブ・ラーニング、プログラミング教育を進めることは小学校、高校と同じだが、教科のあり方や授業時数には変わりない。なお、中学の英語も原則的には英語で行うとされる。また、道徳の教科化も同様。
高校の場合も小中と似ているけど、旧社会科系の授業が大きく変わる。
地理歴史では「歴史総合」を置き、日本史、世界史を通した近現代史を中心に扱い、必修とする。
一方、公民科では「現代社会」をなくし、「公共」という新科目を作る。
また「理数」という教科が新設される。
「総合的な学習の時間」は「総合的な探求の時間」に名前が変わる。
その他、国語等にも重要な変更があるが、今は省略。歴史総合や公共の内容には関心があるが、今のところはっきりしない。
さて、小学校で英語を教科にする件。
2008年度から「外国語活動」として導入され、2011年度から小学校5、6年で必修化された。まだ10年も経っていないが、当初から「外国語活動」に接していた児童は、もう大学生になっている。必修化された世代も高校生になっている。中学や高校での英語教育は、大きく変わったのだろうか。良く変わったのか、弊害もあったのか。そういう問題を細かく検討する時間もなしに、早くも「教科化」するということは、拙速ではないのか。
そういう意見も根強いと思うが、その「小学校の英語教育をどう考えるか」問題は、別に考えることにする。はい、英語を小学生からやりましょう。それでは「何を減らすのだろうか」。学校の授業数が変わらない以上、本来は何かを減らさないとおかしい。ところが、減らさないというのである。こんなにいっぱい詰め込んで、英語以外の授業を削減しないのである。一体、どうするんだ?
新聞記事によれば、「児童の負担」などから、週当たりの授業数は「28コマ」が限界。ところが、今回の新要領では「総授業時数が1015コマ」、週当たりで「29コマ」になる。
時間割に入らないではないか。では、文科省はどう考えているのか。
「1コマを10~15分程度に分割して、毎朝の始業前に行う」、あるいは「60分授業」を行う、土曜や長期休業を授業に充てるなどを考えているのである。
ここで「コマ」と呼んでいるのは、「一授業時間」のことで、小学校では45分となる。(中高では原則50分。)高校では「単位」になるが、義務制では単位制度を取らないので、授業一回を「コマ」と呼んでいる。
月曜から金曜まで計5日。毎日6時間授業をすれば、30コマとなる。
だけど、それでは職員会議などができない。よくあるのは、水曜と金曜を5時間で終わりにするというやり方である。僕も中学勤務の時はずっとそうやってきて、水曜が職員会議、金曜が学年会になっていた。
小学校高学年の授業数は、かつては1085コマだったが、80年以後に1015コマ、90年以後に945時間となった。これが「ゆとり教育」と言われた時期である。
その後、「ゆとり教育の見直し」が言われるようになり、現在は「980コマ」になっている。一年にどのくらい勉強するかというと、夏休みなんかがあるから、学校がない時期がある。実はこれは「35週」とすることになっていて、こういった教育問題の時間数には「35」が隠れていることが多い。
年間980コマを35で割ると、週あたり28という数が出てくる。これを「1015」にするというのは、週当たり一コマ分増やすことになる。
だけど、土曜は昔と違って休日なんだから、これは月から金に詰め込むしかない。土曜や夏休みになると言っても、今度は別の問題がいっぱい出てくる。そうなると、週の中に入れると、児童や教員の負担が大きくなりすぎる。どうするんだろ。
そういうこともあるけど、小学生は、あるいは小学校の先生は、何を一番やるべきなんだろうか。英語?それとも道徳? いやいや、国語や算数も大事でしょ。あるいは体育も。行事もあるし、そのうえ、プログラミング? 誰が教える? アクティブ・ラーニング? 一体、こんなに何でもかんでもできるのか? もちろんできないだろう。
明らかに、「できる子」と「できない子」の格差が激しくなる。学校の勉強についていけない子が増える。
教員の負担も大きくなりすぎる。教員間の連絡もおろそかになる。教員はどんどん学習を進めないと、やるべき授業が終わらなくなる。教師に課せられた重い負担は、児童の理解、納得を置き去りにすることになってしまう。
こうして、すでに小学校段階で両極分解した子供たちが、中学に上がり、高校へ進む。その時、何が起きるか。少しでも想像力があれば、どんな学校になってしまうか、判るのではないか。一部のエリート層は付いていけるかもしれない。でも、家庭的に恵まれないような子供たちはどうなるだろう。
現在だって、「格差」の深刻化が言われる。今回の新指導要領はそのまま実施されれば、明らかに深刻な格差社会を増幅するに決まっている。
大体、こういう指導要領になって、小学校の教員になりたいか。
小学校の先生というのは、クラスの中でマジメでしっかりとした生徒が、かなりの程度で志望してきた。
しかし、今でさえ大変すぎると思うが、これでは明らかに「燃え尽き症候」が多くの教員に起きる。教員組合を通して、教師の学びという連帯が成り立つ職場も、日本全体では今では極めて少ないだろう。
個人で背負ってしまう教師は、それを児童に転嫁しやすい。
僕は「過積載は事業者責任」だと強く言いたい。事故が起きても、ドライバーの責任ではない。
いろいろ学校が大変になるだろうが、教師一人一人、生徒一人一人の責任ではないと言っておく。まさに「亡国」的である。
『尾形修一の教員免許更新制反対日記』(2016年09月05日)
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