写真は お友達のちずママの旦那さまが農業高校の先生をやっていて(公立)生徒さん達と作ってくださっている御米。とてもおいしいし考えられないほど安価。なぜならばお金もうけをしてはいけないからです。私はこの御米を送っていただいて食べています。
この御米の袋の重さは30キログラム。写真を回転する方法がわからないので、このまま載せます。水色のものはとうちゃんの吸っているタバコ。その大きさと重さを想像してください。私は宅急便のおじさんに運んでいただいた後は自宅内ひきずって運びます。
先日、RUNの最中に背中に2.8キロ(およそ3キロ)の食料品をしょって走りましたら足に、体に、ずんと堪えました。最後は小学校の時にジャパンが作ってくれた布製のリュックの紐が切れて結局走れなくなりました。3キロでさえ背中にしょって運ぶのは大変なことです。
本日夜までに何とかネパールの貧しいおかあさんのお仕事の様子UPさせていただきます。
そのおかあさんはおよそ40キログラムの砂袋を一日中運んで生活の糧を得ています。
『 ポカラ の 会 』 と 大木章次郎神父さまのこと
大木章次郎神父・・・1926年1月3日 東京大森生まれ。敬虔なカトリックの家庭に生まれ、横浜にて育つ。太平洋戦争の末期、海軍予備学生として、広島県大竹市にあった潜水学校に配属され、
人間魚雷「 回天 」の出撃訓練中に敗戦を迎える。原爆の閃光を大竹で眺めたという。
六甲学園(神戸)栄光学園(鎌倉)広島学院(広島)で教鞭をおとりになる。
1979年セント・ザビエル校(日本以上のエリート校)で教鞭をお取りになるもその教育に疑問を感じ2年間の契約終了と共に障害児のための学校を始めるためにポカラに行かれる。その後 ネパールの障害児のために活動をされている。たった一人から始めた試み。
それが 「 ポカラ の 会 」
本日 ご紹介させていただくお話は その活動をずっと支えてこられた神父様の友人、倉光 誠一先生のご著書「 広島学院物語 」からそのままうつさせていただきます。
= サリタちゃんの家庭 =
ジョディーケンドラにいる35人の子どもたちは、家庭が貧しく栄養状態も良くないので一般に発育が悪く、小柄で体重が軽いようです。その中の1人サリタという3歳の女の子の話を通して、ポカラの砂利運搬労働者の生活をご紹介したいと思います。
このサリタちゃんは3歳だというのに、元気よく歩き回ることができません。腰が曲がった老婆のような歩き方です。両手を自分の両膝にあてて体重を支えてのよちよち歩きで、急ぐと足がふらついて倒れてしまいます。抱き上げてみると、その軽さに驚きます。それにどうも目も良く見えていないようです。脳に障害があるかどうかは、まだ良くわかりませんが、言葉もあまり話せません。赤ちゃんの時から栄養が足りないのです。
それでもこの保育園に来始めて、5ヶ月のカジャ(給食)のお陰でこんなに元気になってきたとシスターは希望を持って、サリタちゃんが元気に走り回れる日の来るのを祈っています。
ネパールでは貧しさのため飢えや栄養不足で発育が遅れ、5歳迄に死ぬ子供が年間13万人もいるのです。サリタもその1人だと諦めかけていた母親にも、ここの保育園の給食のお陰で生きていく希望がもてるようになってきました。卵などはこの保育園に来て初めて口にする子供も多いのです。
このサリタのお母さんは、とても優しい人です。お父さんはいません。私も彼女の仕事場に行ってみました。保育園から歩いて10分程のところに、大きな河原があります。その川の縁に立つと目もくらむほど高い断崖絶壁の下に広い河原が広がっています。毎年雨期には濁流が逆巻き、すべてを押し流すので1本の木も草もない白い砂か石ころばかりの河原なのです。
100メートルはあろうかと思えるその断崖に、人一人がやっと通れるジグザグの小道があります。それを歩いて河原に降りて、川砂を袋に詰め紐を額にかけて背負い、急な坂道を登って行きます。
トラックの通る道まで登って、道端に砂を移すと、すぐ空の袋と背負い紐を持ってまた引き返し、河原に下りて行って砂を詰めるのです。この砂はコンクリートの原料としてトラックが買いに来ます。
私(倉光先生)も歩いてみましたが、カメラ1つだけ持って1往復しても息が切れる急な坂道です。この道を、50キロもの砂袋を担いで早朝から夕暮まで何度も往復します。体力のある男性は一度に60キロ運ぶ人もいるそうですが、女性では40キロくらいでしょう。サリタのお母さんはこの砂利運搬の仕事をしています。
こんな過酷な重労働をして1日に80ルピーの収入です。これを休むと親子3人(お姉ちゃんが一人います)その日の夕食ができないのです。それでもサリタを保育園に預かってもらったお蔭で、働いて収入を得ることができるし、サリタが日毎に元気になっていく、と母親はいつも感謝し、毎月の始めには1ヶ月50ルピーの保育料をきちんと払っていました。(滞納する人や半額免除の人もいるのです)ところが、7月は保育料を半額免除にしてくださいと申し出ました。夏になると雨期で河原の水かさが増して、砂場がなくなります。
すると、今度はその河原の石をハンマーで割ってバラス(採石)を作って、それを運ぶのです。真夏の日光が照りつける暑い石だらけの河原に座り込んで、重い金槌で叩いて石を砕く仕事も大変です。ある日、右手にできた大きなマメが潰れて痛そうなのを見たシスター川岡は、そのひどさに驚いて治療し、軍手を片方だけあげました。手袋など一度も使ったことのもないこの若いお母さんは、大喜びだったそうです。この石割りの仕事は砂運びよりずっと収入が少ないのだそうです。貧困と戦いながら、このように懸命に働いているサリタちゃんのお母さんに代わって、私はポカラの会の皆さまの寛大なご援助に対し心からお礼申し上げます。
今年の2月に私が現地に行きましたところ、10歳前後に見える裸足の女の子が母親に混じって15kgくらいの小さな砂袋を背負って、途中何度も休みながら急な坂道を登って行くのに出会いました。
学校にも行けず生活のため労働力として働き通す人生を、すでに歩み始めているのです。学校に行かすのは無理だとしても、このような子供たちを集めてせめて文字が読める程度の教育をしてあげることを考えたいのだがとシスター川岡は心を痛めておられました。
* この文章は 1997年にお書きになったもの。
* 保育料50ルピーは日本では缶ジュース1本の値段。
* 日本人は1人でネパール人150人分のエネルギーを使っている。
ポカラの会通信第40号より
後書き・・・
なぜか 何度なおそうとしても赤字が変換できませんでした。
神父さまがネパールにお出かけになってから 28年たちました。
御歳81歳。
母校の同窓生シスター川岡はポカラの地で貧しいおかあさんたちのために保育園を開いています。
在学中は大嫌いな母校でしたが、シスター川岡のような先輩がいらっしゃることをちょっぴり誇りに思えるようになりました。もちろん私はただのおばさんなので、何をすることもできないのですが・・・今日ばかりは聖歌など歌ってこころおだやかなナイト!をすごしたいと思います。
本日もアクセスありがとうございました。

この御米の袋の重さは30キログラム。写真を回転する方法がわからないので、このまま載せます。水色のものはとうちゃんの吸っているタバコ。その大きさと重さを想像してください。私は宅急便のおじさんに運んでいただいた後は自宅内ひきずって運びます。
先日、RUNの最中に背中に2.8キロ(およそ3キロ)の食料品をしょって走りましたら足に、体に、ずんと堪えました。最後は小学校の時にジャパンが作ってくれた布製のリュックの紐が切れて結局走れなくなりました。3キロでさえ背中にしょって運ぶのは大変なことです。
本日夜までに何とかネパールの貧しいおかあさんのお仕事の様子UPさせていただきます。
そのおかあさんはおよそ40キログラムの砂袋を一日中運んで生活の糧を得ています。
『 ポカラ の 会 』 と 大木章次郎神父さまのこと
大木章次郎神父・・・1926年1月3日 東京大森生まれ。敬虔なカトリックの家庭に生まれ、横浜にて育つ。太平洋戦争の末期、海軍予備学生として、広島県大竹市にあった潜水学校に配属され、
人間魚雷「 回天 」の出撃訓練中に敗戦を迎える。原爆の閃光を大竹で眺めたという。
六甲学園(神戸)栄光学園(鎌倉)広島学院(広島)で教鞭をおとりになる。
1979年セント・ザビエル校(日本以上のエリート校)で教鞭をお取りになるもその教育に疑問を感じ2年間の契約終了と共に障害児のための学校を始めるためにポカラに行かれる。その後 ネパールの障害児のために活動をされている。たった一人から始めた試み。
それが 「 ポカラ の 会 」
本日 ご紹介させていただくお話は その活動をずっと支えてこられた神父様の友人、倉光 誠一先生のご著書「 広島学院物語 」からそのままうつさせていただきます。
= サリタちゃんの家庭 =
ジョディーケンドラにいる35人の子どもたちは、家庭が貧しく栄養状態も良くないので一般に発育が悪く、小柄で体重が軽いようです。その中の1人サリタという3歳の女の子の話を通して、ポカラの砂利運搬労働者の生活をご紹介したいと思います。
このサリタちゃんは3歳だというのに、元気よく歩き回ることができません。腰が曲がった老婆のような歩き方です。両手を自分の両膝にあてて体重を支えてのよちよち歩きで、急ぐと足がふらついて倒れてしまいます。抱き上げてみると、その軽さに驚きます。それにどうも目も良く見えていないようです。脳に障害があるかどうかは、まだ良くわかりませんが、言葉もあまり話せません。赤ちゃんの時から栄養が足りないのです。
それでもこの保育園に来始めて、5ヶ月のカジャ(給食)のお陰でこんなに元気になってきたとシスターは希望を持って、サリタちゃんが元気に走り回れる日の来るのを祈っています。
ネパールでは貧しさのため飢えや栄養不足で発育が遅れ、5歳迄に死ぬ子供が年間13万人もいるのです。サリタもその1人だと諦めかけていた母親にも、ここの保育園の給食のお陰で生きていく希望がもてるようになってきました。卵などはこの保育園に来て初めて口にする子供も多いのです。
このサリタのお母さんは、とても優しい人です。お父さんはいません。私も彼女の仕事場に行ってみました。保育園から歩いて10分程のところに、大きな河原があります。その川の縁に立つと目もくらむほど高い断崖絶壁の下に広い河原が広がっています。毎年雨期には濁流が逆巻き、すべてを押し流すので1本の木も草もない白い砂か石ころばかりの河原なのです。
100メートルはあろうかと思えるその断崖に、人一人がやっと通れるジグザグの小道があります。それを歩いて河原に降りて、川砂を袋に詰め紐を額にかけて背負い、急な坂道を登って行きます。
トラックの通る道まで登って、道端に砂を移すと、すぐ空の袋と背負い紐を持ってまた引き返し、河原に下りて行って砂を詰めるのです。この砂はコンクリートの原料としてトラックが買いに来ます。
私(倉光先生)も歩いてみましたが、カメラ1つだけ持って1往復しても息が切れる急な坂道です。この道を、50キロもの砂袋を担いで早朝から夕暮まで何度も往復します。体力のある男性は一度に60キロ運ぶ人もいるそうですが、女性では40キロくらいでしょう。サリタのお母さんはこの砂利運搬の仕事をしています。
こんな過酷な重労働をして1日に80ルピーの収入です。これを休むと親子3人(お姉ちゃんが一人います)その日の夕食ができないのです。それでもサリタを保育園に預かってもらったお蔭で、働いて収入を得ることができるし、サリタが日毎に元気になっていく、と母親はいつも感謝し、毎月の始めには1ヶ月50ルピーの保育料をきちんと払っていました。(滞納する人や半額免除の人もいるのです)ところが、7月は保育料を半額免除にしてくださいと申し出ました。夏になると雨期で河原の水かさが増して、砂場がなくなります。
すると、今度はその河原の石をハンマーで割ってバラス(採石)を作って、それを運ぶのです。真夏の日光が照りつける暑い石だらけの河原に座り込んで、重い金槌で叩いて石を砕く仕事も大変です。ある日、右手にできた大きなマメが潰れて痛そうなのを見たシスター川岡は、そのひどさに驚いて治療し、軍手を片方だけあげました。手袋など一度も使ったことのもないこの若いお母さんは、大喜びだったそうです。この石割りの仕事は砂運びよりずっと収入が少ないのだそうです。貧困と戦いながら、このように懸命に働いているサリタちゃんのお母さんに代わって、私はポカラの会の皆さまの寛大なご援助に対し心からお礼申し上げます。
今年の2月に私が現地に行きましたところ、10歳前後に見える裸足の女の子が母親に混じって15kgくらいの小さな砂袋を背負って、途中何度も休みながら急な坂道を登って行くのに出会いました。
学校にも行けず生活のため労働力として働き通す人生を、すでに歩み始めているのです。学校に行かすのは無理だとしても、このような子供たちを集めてせめて文字が読める程度の教育をしてあげることを考えたいのだがとシスター川岡は心を痛めておられました。
* この文章は 1997年にお書きになったもの。
* 保育料50ルピーは日本では缶ジュース1本の値段。
* 日本人は1人でネパール人150人分のエネルギーを使っている。
ポカラの会通信第40号より
後書き・・・
なぜか 何度なおそうとしても赤字が変換できませんでした。
神父さまがネパールにお出かけになってから 28年たちました。
御歳81歳。
母校の同窓生シスター川岡はポカラの地で貧しいおかあさんたちのために保育園を開いています。
在学中は大嫌いな母校でしたが、シスター川岡のような先輩がいらっしゃることをちょっぴり誇りに思えるようになりました。もちろん私はただのおばさんなので、何をすることもできないのですが・・・今日ばかりは聖歌など歌ってこころおだやかなナイト!をすごしたいと思います。
本日もアクセスありがとうございました。


