2008・9・21日表参道にある岡本太郎記念館 に出かけた。例によって 交番経由丁寧に若いおまわりさんに書いていただいた地図つきにもかかわらず、迷子になった。
岡本太郎氏の自宅を改装して造られた記念館。 住宅街にあるので 発見にいたるまで、少々お時間を要する。( のはワタクシだけかもしれない。)
入口 右手壁面 吹き抜けにかかっているタペストリー
入口 正面の写真と 立体造形作品。 以下 『 明日への神話 』 からの抜粋(→まとめたところもある)。
+++岡本太郎が、尊敬した唯一の芸術家がピカソである。初めてピカソの絵の実物を見たのは1932年太郎が21歳の時だった。
「 これだ!」 ピカソとの衝撃的な出会いが、芸術家岡本太郎の新しい出発点となった。
もし、ピカソがいなければ、のちに 『 太陽の塔 』 や 『 明日への神話 』 が生み出されることはなかったかもしれない。+++
一階のお部屋 びっくりのお出迎え、「 うわっ 」 と声をあげたのは ワタシだけではなかった。
アトリエ内 沢山のキャンバスでお部屋が埋まっていた。
+++岡本太郎が青春時代を過ごしたパリは1940年ナチスドイツ軍によって陥落した。10年ぶりに帰国。
徴兵検査・・・ 甲種合格。30代になっていたが、20歳前後の若者に混じり、現役初年兵として中国に向かった。
パリ帰りの自由主義者を”締め直す”ため規律の厳しい中隊に配属される。拷問のような激しい訓練よって血の小便が出る毎日であった。
学科ボイコット、教官に対する危険な言い争いにより乙種になる。しかし 報道班への配属を待つも朗報はなく、やがて考えを180度改める。
「 逃げていてはだめだ。」 兇暴な教官に一番強烈に殴られる役に志願する。あえてぶつかり、恐怖を乗り越えるためだ。
士官適任とされる、が その一方で 自由主義者として目をつけられ、たたき直さなくてはならないと、最前線に送られる。
太郎 「 それからの生活は血と泥にまみれたいちばん辛かった数年間だった。」
終戦後 1年間の収容所生活、1946年4月 日本に還る。実家のある青山は一面焼け野原だった。
「 太陽の塔 」 の後ろに もう一つの黒い太陽が描かれていることは、この歳になって初めて知った。 なぜか ピンボケ写真になった。
そうなんだ。美術館にも行ってみたいけれどね。
この先 記事をUPしたいとh思っているんだけど、メキシコで30年ぶりに発見された「 明日の神話 」という原爆を描いた作品に関しても、お金じゃないよ。みたいなところがあった。
。残したいのはハート、伝えたいのはハート!みたいな感じかな?
そういうところ、とても気にいった。
記念館内、撮影OKだしね。お庭の、ならせない鐘 鳴らしてみた。本当はいけないのかもしれないけれどね。
やっぱり うまく鳴らなかった。
ちょっと 意味はわからなかったけど???
行った事はないんだけど、残された奥さま(確か内縁の)が
記念館になさったんですよね。
↓美術館に行ったのは、姫じゃないんだ...。