イアン・マキューアン「土曜日」
ヘンリー・ペロウンは自他共に認める脳神経外科の名医。美人の妻は有能な顧問弁護士として働き、彼女の父は著名な詩人でフランスにシャトーを持っている。その祖父の影響でオックスフォードを出た娘は新進の詩人として文学賞を取り自作の出版も決まっている。息子は音楽を志し、ブリティッシュ・ブルースのジャンルで国を超えて評価を得ている。交通至便なロンドン中心部にセントラルヒーティングが完備した居を構え、エンジン音が自覚できないベンツを愛車とする。そんな何の悩みも不安も無いであろうペロウンの週末の一日は・・・。
ジョン・マグレガー作「奇跡も語る者がいなければ」が、ダイアナ元妃死去の一日を多角的、パノラマ的に描き出したのに対し、この「土曜日」ではヘンリー・ペロウンの目を通して、細密画のように、むしろ高速度デジタルハイビジョンカメラの様に一日が余すことなく記録されていきます。下垂体腫瘍を切除する手術の場面が・・・・、息子の指から迸る旋律の煌きが・・・、スカッシュのラリーでバウンドするボールの軌跡が・・・・、バックミラーにちらりと映る赤い不安が・・・。
語られるのは2003年2月15日の土曜日。イラク戦争を間近に控えたロンドン。ペロウンは夜明け前に目が覚めてしまい窓の外にある目撃をしてしまう。遠くの恐怖と近くの恐怖。恐怖と安堵、不安と安らぎ、興奮と沈静・・・・。年齢、性別、国籍、収入等関係なく押し寄せる、グローバルかつ身近な恐怖と不安に対し、日常生活の中で折り合いをつけていかなければならない現代人のさだめと哀しさ。
久しぶりにイッキ読みをしてしまいました。
ペロウンの自宅はロンドン中心部、フィッツロヴィア地区、テレコムタワーの近くという設定。地図から推察するにフィッツロイ・スクエアに面する一角であろうか。作者マキューアンも実際このあたりに居を構えているということ。最寄の地下鉄駅はウォーレン・ストリート駅。グレート・ポートランド・ストリート駅。ユーストン・スクエア駅。リージェント・パーク駅も徒歩圏内で計6本の路線を利用することが出来る場所。実際この一角の写真はこのサイトで見ることができます。どう見ても庶民が暮らせる場所ではないですね。
http://www.urban75.org/vista/fitzroy.html
読んでいる途中、何故か村上春樹を思い出してしまいました。
手術中、バッハのゴールドベルク変奏曲を流させるというくだりと、次の一節の部分がそうさせたのでしょうか。
~「アンナ・カレーニナ」と「ボヴァリー夫人」という定評ある名作を読み通したこともある。(中略)それで結局、何が分かっただろう。~(土曜日)
~僕は「カラマーゾフの兄弟」と「静かなドン」を三回ずつ読んだ。「ドイツ・イデオロギー」だって一回読んだ。円周率だって小数点十六桁まで言える。それでも彼らは僕を笑うだろうか?たぶん笑うだろう。死ぬほど笑うだろう。~(羊をめぐる冒険)
学生時代、「ドイツ・イデオロギー」がテキストとして使われた演習がありました。ある日、私の番でその数ページ分の発表をレジュメを使って行ったところ・・・、先生から「今のが、大学における発表と呼べるものでしょうか・・・」ととても静かに怒られてしまいました。けっこう自信を持って行った発表だっただけにかなり凹んだことを憶えています。それ以来「ドイツ・イデオロギー」と聞くだけで耳が熱くなります。1年後、同じ先生の原書購読の時間、独語の訳を分担された個所を私が行うと、「流暢かつ完璧な訳ですね」と静かに今度は褒めていただき、これまた耳が熱くなったことを思い出します。