キラン・デサイ「喪失の響き」
この小説の舞台となっているのは、インド西ベンガル州のカリンポン。ちょっと地図で探してみましょう・・・・・・なんと・・。西に50キロ行けばネパールとの国境。東に50キロ行けばブータンとの国境。南に100キロ進めばバングラディシュとの国境。北に向えば150キロで中国チベット自治区と・・・、まさに民族や文化が複雑に絡み合う十字路です。ヒマラヤ連峰が間近に見られる丘陵地帯で、すぐ隣には紅茶の産地として有名なダージリンがあります。
このカリンポンで、かつてのイギリス植民地時代の名残りである古い館に住む老人ジェムバイ。彼はかつてイギリス、ケンブリッジで大学教育を受けたエリートで、この地域で初めてインド行政府で判事を務めていた人物です。彼の許には姪のサラが居候しています。サラの父親は軍人で、インド人初の宇宙飛行士としてソビエトで訓練を受けていましたが、母親と共に交通事故で他界。それでサラはジェムバイの家に引き取られることに。判事の世話をするのは料理人。彼には一人息子ビジュがいますが、ビジュはアメリカに渡りインド料理屋で不法就労中・・・。サラの勉強は老姉妹ノニとローラが見てくれています。姉妹の家にはジェーン・オースティンの全集があり、P・G・ウッドハウスやアガサ・クリスティのようなイギリスのことを書くイギリス人作家がお好みです。ローラの娘はイギリスでBBCのキャスターを勤めており、姉妹はよくイギリスを訪れクノールスープやマークス&スペンサーの下着を買ってきます。近所にはポティおじさんが住んでおり、昼から酒を飲んでいます。お隣に住む飲み友達のブーティ神父はスイス人。そしてサラには数学を教えてくれる家庭教師ギヤンがいます。サラは彼に夢中ですが、食事中彼はナイフとフォークを使わず手で食べます。
妙にイギリスナイズされたアッパーミドルのインド人の生活と、マンハッタンの底辺で忍耐強く生息するインド人の生活、それぞれの家族の思い出が、そして多民族国家インドの不安な現実が、86年のネパール系インド人の独立運動(ゴルカ民族解放戦線)を背景にコミカルに描かれていきます。民族の違い、宗教の違い、カーストの違い、教育の違い、それぞれが渾然となった大国インド。人がどれだけ争い血を流そうと、雨が止むと無数の蝶が乱舞し、霧が発生すると音も無く室内をも白く包み込むこの丘陵地域の美しい自然の中で、世界第3位の高さを誇るカンチェンジュンガの峰だけが、変わらず輝き、人々の暮らしを眺め続けます。
アジア的な、どこかとぼけた可笑しさと哀しさが漂う小説です。
2006年のブッカー賞受賞作品。
ゴルカ(グルカ)と言えば、イギリス軍に所属するグルカ傭兵部隊が有名ですね。ネパールのグルカ族は心肺能力とともに戦闘技能に優れ、特に白兵戦での能力は随一と言われています。近代以降イギリスが参戦した前線には必ず彼らの部隊の活躍が見られます。