◎地母神の必要性
(2006-03-25)
黒い聖母像は、フランス、スペインだけでなく、メキシコ、ブラジル、フィリピンなど世界的に分布する。フランス、スペインの黒い聖母は、キリスト教がこの地に入ってくる以前に隆盛であったイシス信仰(エジプト神話の豊穣の女神)とか、キュペレ信仰(ギリシア神話の地母神)などの偶像がそのまま持ち込まれたものだとか、ブラジルなどでは土着信仰に近いカンドンブレなどの信仰とキリスト教が混交したものだとか、定説がない。おそらくは、地母神信仰がキリスト教の体裁を借りて生き延びたものではないだろうか。
聖地巡礼で有名なサンチャゴ・デ・コンポステラの像は黒いマリアだとか、意外に有名なところに黒いマリアがある。像だけでなく、ポーランドでは、黒い顔のマリアのイコン(絵画)が民族的な宝として伝承されている。黒い偶像ということならば、日本では大黒天であり、インドでは、カーリー女神(シヴァ神の妻)としてあり、キリスト教に限らず、世界中どこにでもある。
フランスの黒い聖母の多くは、その起源をメロヴィング朝(500~750年)にさかのぼることができる。メロヴィング朝はフン族のアッチラ大王の進入により民族大移動したひとつである西ゴート族の末裔で、聖母マリア崇拝を振興した。
その後12世紀になってシトー修道会のリーダーとなったフランスのベルナールが盛んに聖母崇拝を推進した。ベルナールはテンプル騎士団の創立メンバーの一人であり。旧約聖書雅歌の『エルサレムのおとめたちよ わたしは黒いけれども愛らしい。それ故、王はわたしをお選びになり、みずから、お部屋にお連れくださる』は、黒い聖母崇拝で愛唱される文句だ。
またベルナールはサンチャゴ・デ・コンポステラへの巡礼も推奨した。道中には、ベネディクト修道会や、シトー修道会の宿屋、黒い聖母教会が点在し、その様子は天の川とも呼ばれた。巡礼の四大出発地の一つであるヴェズレーは、マグダラのマリア(黒い聖母のモデルのひとつ)崇拝の中心地なので、黒い聖母の地でもある。
1307年には、テンプル騎士団は異端とされ、黒い聖母崇拝は下火となっていったが、黒い聖母は、その後も連綿として生き延びている。それが生き延びた原因としては、中世的な教条的なスタイルのキリスト教がカバーできない、いわば人間のコントロールできない生命やエネルギーの源の象徴として、黒い聖母を必要とした社会的な心理があるのではないかと思う。それは、とても土俗的な動機だが、キリスト教の持つ特徴の反面を映しているように感じられる。