◎快楽の極限(老子狂言)
『快楽の極限
もはや禅味だけになってしまった。
余りにも、
禅定が神秘で力強いエクスターゼだから。
宗教は阿片だ・・・
神秘体験以上の歓喜は、
この世に存在していないかのようだ。
かつて小麦色のしなやかな肢体の女に、狂喜したように、
今は、ただただ、一切を越えた神秘体験に夢中だ。
これが本当だったのだ。
これが完全なる至福だったのだ。
否、完全なる至福以上のこれ!
何もかもかもが、
本当に本当に
どうでもいいのだ。』
(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)
※禅味:禅を通して得られる、言葉では表現しきれない奥深い体験や感覚や味わい。
※禅定:ダンテス・ダイジは、定と三昧を区別している。定は、見ている自分がある。三昧は見ている自分がない。
※エクスターゼ:エクスタシー。
※どうでもいい:第七身体ニルヴァーナに居る感慨だと思う。【老子狂言のメシアン・ハンドブックの一節が参考になる。
「決して
情熱をやめないこと
情熱なんぞどうでもいいなぞと
カタイことは言わないでくれたまえ
何ものかへの情熱こそ
世界を世界にしているのだから」】
生きる情熱が十分でないと、悟りへは届かないし、いろいろなことが起こる。
また、このどうでもいいは、生きる情熱が十分でない人を安心させたり増長させたりするが、ダンテスの悪影響の原因でもあるように思う。
この詩全体として神秘体験肯定のように読めるが、そうではない側面もほのめかす。