アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

まだ、私の何ものかが信じている

2025-02-03 20:46:48 | ダンテス・ダイジの風光

◎すべてのすべてが至福だと(老子狂言)

 

すべてのすべてが至福だと

 

まるで私は

はづれてしまった

 

私の冬に私はいる

私という真夜中に私ははいる

 

ニルヴァーナの想い出と

マーヤーの戯れが

戯れとも気づかずに戯れている

何のためでもなく

 

あのニルヴァーナの絶対無以外に

完全な歓びも安心もエナジーもない

私は曲がった小路を歩いているのかもしれない

 

だが、まだ、私の何ものかが信じている

すべてのすべてが至福だと』

(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)

以下【】内は上掲詩から引用。

 

これは、ニルヴァーナから戻って、まるで迷いの中に暮らしているが如き心境。

 

ニルヴァーナという体験とは言えない体験を経ても【あのニルヴァーナの絶対無以外に

完全な歓びも安心もエナジーもない

私は曲がった小路を歩いているのかもしれない

 

だが、まだ、私の何ものかが信じている

すべてのすべてが至福だと】

と言わなければならないところに、いささか驚きを禁じ得ない。

 

覚者は、みじめで情けない無力な個人とすべてのすべてである神という二重性の体現者。だからこういう

【私の冬に私はいる

私という真夜中に私ははいる】

ネガティブな一節が出てくる。

 

未悟の者にこのようなあけすけな実感を語ってくれるのはありがたいことだ。

 

※ブクログのパブーに上がっていた老子狂言には欠落がいくつかあるが、本詩もその一つ。

 

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ダンテス・ダイジの老子狂言の歩き方

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何もかもが全く見知らぬものと化す

2025-02-03 19:28:31 | ダンテス・ダイジの風光

◎過ぎ去る夢の夢よ・・・(老子狂言)

 

過ぎ去る夢の夢よ・・・

 

楽しみが

一ミリもない時は

どうしたらいいのか?

 

何もかもがわからないということに

気づいた時は

どうしたらいいのか?

 

私は

そうである以外にない。

 

何もかもが

全く見知らぬものと化す。

不安は意味もないのに

不安と感じられる。

 

重苦しい今の夢よ・・・

過ぎ去る夢の夢よ・・・』

(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)

以下【】内は上掲詩から引用。

 

【何もかもがわからないということに

気づいた時は】

これは、中心太陽との合体時の実感と思われる。

 

【私は

そうである以外にない。】

素直であるしかない。

 

【何もかもが

全く見知らぬものと化す。】

これは、覚者の生活実感というべきものだと思う。

 

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朗らかさの中を朗らかに自由に飛んでいけるようにと

2025-02-03 16:10:13 | ダンテス・ダイジの風光

◎センチメンタル・ジャンプ(老子狂言)

 

『センチメンタル・ジャンプ

 

どこにでも、

どこまでも、

朗らかさの中を

朗らかに自由に

飛んでいけるようにと、

私は、

あらゆるもの達に願う。

 

ジャンプ·イン! 

ジャンプ・アウト!

自由自在な

愛と美が踊り狂う!

 

すべてが、

よかったのだ。

渇望の狂暴なパンチが、

あらゆる生命を、

駆り立てる。

 

美と醜のかなた―――

理解と不可解、

安心と不安のかなた―――

孤独な鳥は、

天翔ける。

アメンティーの中心太陽に向かって

アメンティーの中心太陽の中を・・・』

(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)

以下【】内は上掲詩から引用。

 

【どこまでも、

朗らかさの中を

朗らかに自由に

飛んでいけるようにと、】

これは、誰にでもできることでなく、神様の慈悲と、相当に生きる情熱がないとできない。

 

【ジャンプ·イン! 

ジャンプ・アウト!

自由自在な

愛と美が踊り狂う!】

ニルヴァーナにジャンプ·インし、マーヤにジャンプ・アウトし、自由自在な愛と美が踊り狂う。

 

時代は、カタストロフィーを越えて至福千年に向けて【渇望の狂暴なパンチが、あらゆる生命を、駆り立てる。】

それでも、【すべてが、よかったのだ。】

 

アメンティー中心太陽に向かって

アメンティーの中心太陽の中を・・・】

アメンティーは、アトランティス密教の最奥殿で、13人の超人がいた。13番目の超人がダンティス・ポセイダン・アメンティー

中心太陽への突入を描写したのは、ダンテス・ダイジが空前絶後である(ニルヴァーナのプロセスとテクニック)。

 

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限りなき高みを天かける孤独の鳥

2025-02-03 07:00:40 | ダンテス・ダイジの風光

◎鳥は鳥に帰るのだ(老子狂言)

 

『鳥は鳥に帰るのだ

 

鳥は鳥に帰るのだ。

魚は魚に帰るのだ。

 

限りなき高みを天かける孤独の鳥は、

その量り知れぬ意志ゆえに、

空の果てまでも見破って、

永遠の神秘におののく。

 

この魚も、

海の底深く、

深海魚よりも、さらに深く、

まっ暗闇の深海の地獄へ沈んでゆく。

 

鳥が太陽に向かって飛ぶように、

魚は海に溶け込みたいのだ・・・

 

もし、

太陽が鳥を愛し、

海が一ぴきの魚を慈しむのなら、

かれらは、

太陽となり海となるだろう。

 

そうして帰ってくるのだ。

鳥は一ぴきの愚かな鳥として、

魚は一ぴきの無知なる魚として、

帰るともなく帰ってくるに違いない。』

(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)

以下【】内は上掲詩から引用。

 

鳥は限りなき高みを孤独に飛翔し、やがて太陽となり、一ぴきの愚かな鳥として、帰るともなく帰ってくる。

魚は、深海の底深く沈み、やがて海となり、

魚は一ぴきの無知なる魚として、帰るともなく帰ってくる。

 

この円環は、出口王仁三郎の霊界物語第11巻第3章死生観の転生観を思わせる。

ダンテス・ダイジの『死生観』-1

ダンテス・ダイジの『死生観』-2

 

かもめのジョナサンの鳥は帰ってこなかったが、この詩では、【帰るともなく帰ってくる】のがよい。

 

魚行って魚に似たり、鳥飛んで鳥の如し(道元)

 

 

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一切を越えた神秘体験に夢中だ

2025-02-03 06:23:47 | ダンテス・ダイジの風光

◎快楽の極限(老子狂言)

 

快楽の極限

 

もはや禅味だけになってしまった。

余りにも、

禅定が神秘で力強いエクスターゼだから。

 

宗教は阿片だ・・・

神秘体験以上の歓喜は、

この世に存在していないかのようだ。

 

かつて小麦色のしなやかな肢体の女に、狂喜したように、

今は、ただただ、一切を越えた神秘体験に夢中だ。

 

これが本当だったのだ。

これが完全なる至福だったのだ。

否、完全なる至福以上のこれ!

 

何もかもかもが、

本当に本当に

どうでもいいのだ。』

(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)

 

※禅味:禅を通して得られる、言葉では表現しきれない奥深い体験や感覚や味わい。

※禅定:ダンテス・ダイジは、定と三昧を区別している。定は、見ている自分がある。三昧は見ている自分がない。

※エクスターゼ:エクスタシー。

※どうでもいい:第七身体ニルヴァーナに居る感慨だと思う。【老子狂言のメシアン・ハンドブックの一節が参考になる。

「決して

情熱をやめないこと 

情熱なんぞどうでもいいなぞと

カタイことは言わないでくれたまえ

何ものかへの情熱こそ 

世界を世界にしているのだから」】

 

生きる情熱が十分でないと、悟りへは届かないし、いろいろなことが起こる。

また、このどうでもいいは、生きる情熱が十分でない人を安心させたり増長させたりするが、ダンテスの悪影響の原因でもあるように思う。

 

この詩全体として神秘体験肯定のように読めるが、そうではない側面もほのめかす。

 

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太乙金華宗旨の光について-2

2025-02-03 03:45:31 | 覚醒のアーキテクチャー

◎水は下降で、外へ向かう流れ。火は上昇で、“内向”する

 

光とは何か。OSHOバグワンの説明。

太乙金華宗旨の冒頭。

 

ポイントは、以下。

  1. 両目がひとつになったとき、天上の光が見える。その時、光の爆発が起こる。
  2. 洗礼者ヨハネの火の洗礼は、その爆発のこと。
  3. 〝外向〟と〝下降"は同じ意味であり、〝上昇〟と〝内向"は同じ意味だ。下降するものはすべて外にも向かい、上昇するものはすべて内にも向かう。そしてその逆も言える。
  4. 水は下降で、外へ向かう流れ、水の旅は外界の旅。火は上昇で、上に向かって進み“内向”する。
  5. 両目とは、外向の目を内向の目に転じて両目がそろうことで、これが水の洗礼と火の洗礼。

 

(ゴシック体は、経典本文)

天上の光は見ることができない。それは両目のあいだに含まれている。

 

だが、両目がひとつにならないかぎり、あなたはそれに気づかない。それは両目のあいだに含まれている。だが、それを見ることができるのは、両目がひとつになったときだけだ。ひとつになれば、それは解き放たれる。そうなったらすさまじい光の爆発が起こる。ツァラツストラはそれを「火の爆発」と呼ぶ。老子はそれを「光の爆発」と呼ぶ。それは同じものだ。

 

あなたがたは洗礼者ヨハネの言明を耳にしたことがあるにちがいない。彼は弟子たちに言っていた。「私はあなたがたに水の洗礼をほどこす。私の後に、あなたがたに火の洗礼をほどこす人がやって来る」彼が「私の後に、あなたがたに火の洗礼をほどこす人がやって来る」という言葉で言おうとしているのは、その爆発のことだ。

水の洗礼は外なる世界の洗礼だ。洗礼者ヨハネにとって、水とは外へ向かう流れの象徴だ。このことを覚えておきなさい。外向〟と〝下降"は同じ意味であり、〝上昇〟と〝内向"は同じ意味だ。下降するものはすべて外にも向かい、上昇するものはすべて内にも向かう。そしてその逆も言える。水はつねに下に向かって進む。それゆえに水は外へ向かう流れを象徴する。水は水そのものから離れてゆく。水の旅は外界の旅だ。火は上昇し、つねに上に向かって進む。そして〝上昇”と“内向”は同じ意味だ。火の旅はつねに内界へと向かう。

洗礼者ヨハネはこう言っている私はあなたがたに水で洗礼をほどこしている。私はあなたがたに宗教の輪郭を与えている。私の後に、内なる洗礼、火の洗礼をほどこすキリストがやって来る。

 

イエス自身、「悔い改めなさい、悔い改めなさい」と何度もくり返し言っている。だがこの言葉はキリスト教徒たちの手によって、誤った解釈をされてしまった。彼らはそれを「あやまちを悔い改める」と解釈した。それはあやまちとは何の関係もない。「悔い改める」という言葉は、実際には引き返すこと、内へ向かうこと、もどることを意味する。つまりそれは帰ること・・・・自分の本来の姿を取りもどすということだ。「悔い改める」という言葉はメタノイア―回帰すること、一八〇度の転回を意味する。外へ向かって流れつづけたら、あなたは水のままだ。内側に方向を変えれば、あなたは火になる。

そしてこの両目、この二つの炎、あなたの意識のこの両半球がひとつになって、完全に橋がかかり、あなたがひとつの炎になるとき、その炎こそプロティノスが「一者から一者への飛翔」と呼ぶものだ。』

(黄金の華の秘密/OSHO/メルクマールP29-30から引用)

 

火は上昇であり、クンダリーニ・ヨーガ。水は下降であり、只管打坐。洗礼のヨハネは日々の外的生活での善いことをして悪いことをしないことを水と言っている。

 

老子の光の爆発については、老子 第42 道生一に陰陽二気合体して万物生ずとある部分かと思う。
『有無一如の玄なる道は、先ず有なる一としてあらわれる。その有は陰陽の二気に分かれ、更にこの二気は冲気(陰陽二気を中和交流させる気)によって相和し、そこに万物が生じる。』

 

また、OSHOは、この爆発については、内破(implosion、爆縮)としている説明が以下にある。

【131_Tao_The_Three_Treasures_Vol1

p87

(仮訳)

 

内側へ動くとき、あなたは現在の永遠の中へと動きます。外側へ動くとき、あなたは過去へ、あるいは未来へと動きます。

そして、それは空間についても同じことが言えます。空間には、左か右しかありません。もしあなたが左に傾けばそれは外側であり、右に傾いてもまた外側です。しかし、もしあなたがその二つのバランスを取ることができれば、突然あなたは内側にいます。

 

中点はあなたの中にあり、外側の空間の一部ではありません。実際、現在と中点は一緒です。あなたが現在の中にいるときはいつでも、あなたは中点にいます。あなたが中点にいるときはいつでも、あなたは現在の中にいます。中点はあなたの外側の位置ではありません。それは現在のような内的な現象なのです。

 

ですから、私が言うとき、あるいは老子が言うとき、「バランスを取りなさい」と、私たちはあなたの人生においてバランスを静的な現象にしようと言っているのではないのです。それは静的ではありえません。あなたは左へ、右へと動きながら、それを継続的に維持しなければならないでしょう。

 

その動きの中で、あなたは時々、あなたの存在の最も内側の点を通過し、突然あなたは中点にいるでしょう。そして突然、あなたは爆発ではなく、内破を見つけるでしょう。内破。何か内側で内破します。突然、あなたはもはや同じではありません。あなたが内側の中点の位置を通過するときはいつでも、あなたはもはや同じではありません。あなたは強烈に生き生きとし、強烈に無邪気になり、強烈に純粋で神聖になります。その瞬間、あなたにとって暗闇も罪も罪悪感も存在しません。

 

あなたがそのバランスを見つけることができるときはいつでも、あなたは神聖であり、あなたは神です。しかし、あなたはそれを一度だけ見つけることができるのではありません。いいえ。人生は常に絶え間ないバランス、継続性、連続体なのです。あなたはそれを一度購入すれば、常に家にある商品のようにすることはできません。いいえ。もしあなたが気づいていなければ、あなたはそれを何度も何度も見逃してしまうでしょう。】

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