◎見ることでちりあくたを浮かび上がらせる
(2011-10-15)
人には堪えられる出来事と堪えられない出来事がある。死のプロセスにおいてはそれに向き合わねばならないシーンがあることが知られている。
これは、臨死体験でのパノラマ現象。この人の記憶の遡行は今生だけにとどまった。
『7 人生の回想
「その光の存在は私を包み込み、私の人生を見せてくれました。これまでしてきたことをすベて見て、反省するわけです。中には見たくないこともありますけど、みんな終わったことだと思えば、かえってほっとします。とくによく憶えているのは、子供のころに、妹のイースター・バスケットを横取りしてしまったことです。その中のおもちゃが欲しかったものですから。でも、あの回想のときには、妹の失望やくやしさを自分のことのように感じました。
私が傷つけていたのは私自身であり、喜ばせてあげていたのも、やはり私自身だったのです」』
(臨死からの帰還/メルヴィン・モース、ポール・ペリー/徳間書店P7から引用)
カルロス・カスタネダは、臨死体験ではなく、その冥想修行の中で、人生に別れを告げるという修行をやらされた。彼の師匠であるドン・ファン・マトゥスは「自分の人生を反復すると、ちりあくたが残らず表面へ浮かび上がって来る」と説明した。
良かったこと、悪かったこと、なつかしかったこと、恐怖におののいたこと、自分の邪悪に片目をつぶったこと、自分の無力さをかみしめるしかなかったこと、などなどいろいろあるだろう。
この引用文では、妹のことを自分のことにように感じたとしているが、この体験のような修行をカルロス・カスタネダはあらゆる愛着と別れを告げる修行としてやらされたのだ。
修行が深まれば深まるほど、自分の見たくないものに直面させられることになる。人生も老いれば老いるほど見たくなかったものを見せられるのに似ている。
パノラマ現象で人生回顧させられると言っても、見ている人の感受性の深浅高低により、その体験の評価には、実はかなりのバリエーションがあるのではないかと思う。浅い人は浅くしか見れないし、深い人は深く見るのだ。