◎ある一定の時期に達するまでは
(2011-10-16)
さすがに私の本棚には、論語はない。孔子は、晩年に覚醒したのだが、論語は孔子の若い時の言行録であって、未悟なる者の言行は、絶対的なものとして採用することなどできないからである。苦心の経過として参考になるところはあるのだが。
孔子の言行は、荘子などの求道者から見て妙なことを大真面目にやっているようなところがあって、荘子などでは、論語そのものではないが孔子をネタに大ボケをかましている部分がしばしばある。
「論語と算盤」は、明治の実業家渋沢栄一の口述になるものだが、論語の一条一句を説明しているものでなく、論語をネタに処世、人生をコメントしているもの。
渋沢栄一は、悟ってはいないが、私心のない人物とされており、後の三井、住友、三菱などといった、自分の一族郎党の勢力を数世代にわたって拡大しようというような野心を持たなかった。
『わたしは今日でももちろん、争うべきところは争いもするが、人生の半分以上にわたる長い経験によって、少しばかり悟ったところがある。なので若い時のように、争い事をあまり多くは起こさないようになったと自分でも思う。というのはこんな事情があるからだ。
世の中のことは、「こうすれば必ずこうなるものだ」という原因と結果の関係がある。ところがそれを無視して、すでにある事情が原因となってある結果を生じてしまっているのに、突然横からあらわれて形勢を変えようとし、いかに争ってみたところで、因果関係はすぐに断ち切ることができない。ある一定の時期に達するまでは、成り行きを変えることなど人の力ではとてもできない、と思い至ったのだ。
人が世の中を渡っていくためには、成り行きを広く眺めつつ、気長にチャンスが来るのを待つということも、決して忘れてはならない心がけである。正しいことをねじ曲げようとする者、信じることを踏みつけにしようとする者とは、何があってもこれと争わなければならない。このことを若いみなさんに勧める一方で、わたしはまた気長にチャンスが来るのを待つ忍耐もなければならないことを、ぜひ若いみなさんには考えてもらいたいのである。』
(現代語訳 論語と算盤/渋沢栄一/ちくま新書P25-26から引用)
『ある一定の時期に達するまでは、成り行きを変えることなど人の力ではとてもできない』これは、物事の成り行きをその手で何回も変えてきた人物ならではの発言である。魔法や手品のように見えても、その実は物事の成る時節の見極めがきちんとできる人物がタイムリーに動くから成るだけのこと。
人も、精神とカルマの成熟を待って動かないとダメ。ついこの間まで、「道」のことなど関心の端にも上らなかった。ノストラダムスの1999年も実現せぬままに「ある一定の時期」を待っているのだろう。
世の中の行く末のメイン・シナリオは変わることなどなく、クリシュナムルティ、OSHOバグワンなどの有名覚者は世を去って久しい。目覚め、悟りは他人ごとでなく、自分でどう取り組むかにかかっている。取り組み方を変えるのは自分の力だが、それが成るかどうかは、人の力ではないところがある。それは取り組んだ人だけに言えるのであって、取り組まない人があれこれ言っても始まらない。