モルモンの泉

個人的に信じていること、感じていることを書いてみました。
気楽に目を通していただけるなら幸いです。

イエスの名

2020-03-08 16:35:19 | 新約聖書
「その名はインマヌエルと呼ばれ…『神われらと共にいます』という意味である」マタイ1:23

アダムという名が神から命名され、ヤコブがイスラエルと呼ばれたように、
イエスと名付けるように指示されたということは、その名に意味があるようです。

「民を罪から救う者となるのでイエスと名付けなさい」と主の使いは言っています。
キリストという呼び名も「この世を救う者」という意味です。

聖餐を受けるときに「御子の御名を受ける」と誓約しますが、
それは「神と共にあって主の救いに働く者となる」という意味のようです。


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啓示

2020-03-08 16:09:40 | 新約聖書
「この事を思い巡らしていたとき、主の使いが…言った」マタイ1:20

一つのことについて心に深く考えることは、啓示を受けるために必要なことのようです。
深く考えるにはどうすればいいのでしょうか。

そのことが自分にとって大切であるほどに心から離れなくなり、
心が悩み、思いを巡らせるようになります。

他のことに気を取られてすぐに忘れてしまうようであれば、
それは「自分にとって重要ではない」ということかも知れません。

御霊に従って生きるようになると、御霊によって疑問が与えられるようになり、
深く考えることができ、その結果として啓示が与えられます。

より深く考え、思い巡らす悩みがより大きいほどに、
答えとして与えられた啓示は忘れられないものとなります。
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神を信じる

2020-03-08 11:24:33 | 福音について
「神の存在を信じる」ことと、「神の教えを信じて聞き従う」ことは違います。
身近な人や有名な人の存在を見ることと、
その人の言葉を信じて従うことの違いと同様です。

「福音を学ぶ」ことと、「福音に従って生きる」ことは違います。
学校では正しいことを学び正解を出せばよしとされますが、
社会では結果を出して成功までたどり着かなければ評価されないのと同じです。

「自分の望みを求める」のと、「神の御心に従う」のは違います。
わたしたちの祈りは自分の願いが成ることを求めるものでしょうか、
それとも主に従うことを望むものでしょうか。

教会員はキリストを信じてバプテスマを受けました。
その「信じる」は前者でしょうか、後者でしょうか。

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地の悪

2020-03-08 09:56:12 | 旧約聖書
「主は…悪が地にはびこり…心に思いはかることが…悪い事…であるのを見られた」創世6:5

物質的には今までこの世に無かったほど繁栄し、とても住みやすい時代だと思います。
心については「愛が希薄になり、思いやりが失われ、すさんでいる」とよく聞きます。

世の中には真偽を確認できない情報が溢れ、多くの人がそのような情報に振り回され、
心は不安に襲われ、気落ちしているとも言われます。

利己心や犯罪、争いや戦争、災害、病気はいつの時代にもありました。
それらだけでなく、物質的な繁栄によっても人の心は荒廃し神を忘れました。

今の時代、悪は地にはびこり、人の心に思うことは悪なのでしょうか。
神は今の時代をどのように見ているのでしょうか。
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憤り

2020-03-08 09:24:57 | 旧約聖書
「カインは大いに憤って顔を伏せた」創世4:5

カインの憤りは嫉妬となり、その感情はアベルを殺すほどのものでした。
自分の犠牲が受け入れられなかったことに怒り、その怒りが嫉妬となったようです。

神に供え物をするという行動は二人とも同じでしたが、その心は違っていたようです。
神が求めたものは「心」であり、カインが捧げたのは「心の伴わないもの」でした。

教会において主の聖餐を受けるとき、主はわたしたちの「心」を求めています。
それは「心を尽くして聖餐の祈りにある聖約を守る」ことです。

聖餐を受けて「誓約を交わすことに祝福がある」のではなく、
心を尽くして「聖約を守るときに祝福がある」のです。

求めている祝福を見出せないことから疑いが生じ、それは憤りとなり、
その憤りが周りの人に対する嫉妬や怒りの感情となることがあります。
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