モルモンの泉

個人的に信じていること、感じていることを書いてみました。
気楽に目を通していただけるなら幸いです。

話し合い

2020-03-22 21:29:00 | 今日の一言
相手の意見を否定した時点で話し合いは終了し
「わたしの言うことを聞きなさい」になる



意見の押し付けを話し合いとは呼べないでしょう。
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御霊の証

2020-03-22 20:34:02 | 教義と聖約
「見よ、主は神であり、御霊は証する」教義と聖約1:39

「主なるわたしは…天から語り、戒めを与えた」17節
「見よ、わたしは神であり、わたしがこれを語った」24節
「主なるわたしが語ったことは、わたしが語ったのであって、わたしは言い逃れをしない」38節

教義と聖約一章の中には主の宣言が何度も繰り返されています。
その中でも上記の三つの言葉には御霊のとても力強い証があります。

イエスが神であること、神であるイエスがこれらの言葉を語ったことを受け入れるなら、
37節の言葉が心に響くでしょう。「これらの戒めを調べなさい」

終わりの時にこの主の言葉は、この宣言を目にした人を証するものとなるでしょう。
この言葉に従う者には祝福するものとなり、見過ごす者には訴えるものとなるかもしれません。
御霊の証とは「神からの証明」として与えられるものだからです。
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預言と約束

2020-03-22 13:28:54 | 教義と聖約
「これらの戒め…は真実であり…預言と約束はすべて成就する」教義と聖約1:37

主の言葉を信じる者は預言と約束の成就を見ることができます。
信じない人は同じものを見ても、それを信じることがなく、理解しようともしません。

信じる者にとっては、理解しないことが不思議に思えますが、
信じない人にとっては、その解釈が理解できないようです。

「主なるわたしが語ったことは、わたしが語ったのであって、
わたしは言い逃れをしない…すべて成就する」教義と聖約1:38
信じる者にとってこの言葉はとても力強いものです。

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主の公平

2020-03-22 11:27:10 | 教義と聖約
「わたしは人を偏り見ない者であり」教義と聖約1:35

ジョセフ・スミスは森に入って祈り、天父とイエス・キリストの訪れを受けました。
彼には特別な責任が与えられていたので、わたしにも同じことが起こるとは思いませんが、
ジョセフと同様の信仰を持てば、似たような(同様の)祝福がもたらされるでしょう。

霊的な祝福を受けている人を見て、自分も同様の祝福を受けたいと望み、
そのために努力しているのに祝福を感じられないとしたら、
祝福を受けている人と自分で何が違うのかを考えてみるのは参考にならないでしょうか。

同じ行いをしているのに祝福が違うとしたら、その原因は心にあるかもしれません。
素直になって自分の心を振り返るなら、霊感の与えられる機会となるでしょう。

主が「すべての人を偏り見ることなく公平に与えられる」と信じられるなら、
自分の心と思い、行いを振り返るなら、そこに祝福を受けるための導きを見出せるでしょう。
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御霊の励まし

2020-03-22 07:31:48 | 教義と聖約
「わたしの御霊はいつでも人を励ますわけではない」教義と聖約1:33

御霊には人を行動に駆り立てる力があります。
御霊に頼っていた人から御霊が取り去られると、気力と行動力が失われたと感じることでしょう。

やる気が失せ、何をするにも面倒くさいと感じるようになり、善を望む心が薄れ、
サタンに抵抗する力が弱くなった自分に気付くでしょう。

そのような状態になったときに、それまで自分がどれほど御霊に頼っていたのかを思い知り、
「御霊を失う前に悔い改めておけばよかった」と後悔するのです。

後悔を感じることができ、それが悔い改めの力になるなら、
それは祝福であり、まだ御霊の一部が残っています。

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