モルモンの泉

個人的に信じていること、感じていることを書いてみました。
気楽に目を通していただけるなら幸いです。

最後の裁き

2020-03-15 22:07:43 | 教義と聖約
「その行いに応じて報いを与え…その同胞を量ったはかりで量る日」教義と聖約1:10

裁きと聞くと「悪い行いに対して罰を与える裁き」が想像されるようですが、
神の裁きには善いことに対する報いも含まれます。

善い行いに対しては善い報いを得ることになり、それは喜びとなりますが、
好ましくない行いに対しては好ましくない報いを得ることになるでしょう。

人の過ちを不当に責めるなら、それは好ましくない行いとして報われ、
人に対して寛容であるなら、それは善い行いとして報われるでしょう。

それは最後の裁きのときに与えられるものでしょうか。
それともこの世に生きている間に自分で選び取っているのでしょうか。

わたしは後者であると考えています。
最後の裁きとは、すべての人がそのことを知り、受け入れなければならないときです。
コメント

生まれ変わる

2020-03-15 17:28:52 | 福音について
誰でも調子のよい時も悪い時もあり、
気分によって人に親切でいられる時とそうでない時もあります。

「調子のよい、人に親切でいられるとき」を維持できるようになったらどうでしょう。
今よりもはるかに良い人になれると思います。
それを見た周りの人は「あの人は生まれ変わった」と言うかも知れません。

福音を学ぶ目的は「調子のよい、人に親切でいられるとき」を少しでも長く保つことです。
「調子の悪い、人に親切にできないとき」を減らす努力を悔い改めといいます。

全くの別人になることではなく、今の自分の内にある良い点、善い心を
有効に使えるようになることで人は生まれ変わることができるのです。

コメント

警告の声

2020-03-15 16:58:55 | 教義と聖約
「警告の声は…わたしが選んだ弟子たちの口を通して、すべての民に及ぶ」教義と聖約1:4

太陽の暖かい光、通り過ぎる風、空から降ってくる雨、季節ごとの移り変わりも
この世に存在する事柄はすべて神の存在を知らせる声です。

それらを心地よく感じる時にはよいものですが、強すぎると感じる時はないでしょうか。
度を過ぎると災害となり、それは主の警告の声となります。

また、神の存在を知らせ福音を解き教える声にも警告が含まれます。
いつか迎えることになる死や「最後の審判」と呼ばれるときに備えることも警告の声です。

誰もが耳にし、考えたことがあると思います。
それを警告の声と受け取るか否かは別として。
コメント

改心

2020-03-15 13:30:55 | モルモン書
「天使が立ち去ってから…またもつぶやき始め」1ニーファイ3:31

神の奇跡を経験すれば人は改心するのでしょうか。どうやらそうとも限らないようです。
イエスから直接教えを受け、その奇跡を実際に目にした人々でさえもそうでした。

最後の裁きにおいて神の前に立つのは奇跡ではないでしょうか。
そのとき人は改心するのでしょうか。どうやらそうでもないようです。

天使の訪れを受け、目で見、その言葉を聞いて改心する人であれば、
モルモン書を手にしたとき、既に改心は始まっているのかも知れません。

人を真の改心に至らせるものは「主に従いたいという望み」なのかもしれません。
神の奇跡は改心のきっかけにはなるのでしょうが、その心を生み出すのは別のもののようです。
コメント

もう一度

2020-03-15 10:44:39 | モルモン書
「もう一度…行きなさい、そうすれば主は…あなた…の手に渡されるであろう」1ニーファイ3:29

何度も失敗した後に「もう一度」と言われて従うのは難しいものです。
できる限りのことを行い「もう何も手段を思いつくことができない」ならば尚更です。

主は「先ずはあなたの考えで行ってみなさい」と言われることがあるようです。
思いつく限りのことを行い、何度も試して失敗し、手段が尽きたとき、何を思うでしょうか。

そのような時に啓示か与えられ道が開けたとしたら、
それを主の御手によるものと認めることができるでしょうか。

それを繰り返すことによって、少しずつ主の業、主の方法を知ることができるように思います。
ということは、主の業を知るには「人の考えによる失敗」を経験することも必要なのでしょうか。
コメント