ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

ある海軍大佐の戦後~朝鮮戦争と東京オリンピック

2015-04-17 | 海軍人物伝

もと海軍軍人を中心にPF艇の管理を行うYBグループに職を得た元海軍大佐。
ここでの仕事は”カンカン虫”と言われた汚れ仕事でも深夜や悪天候での見張りでも、
皆が粛々とその任を果たし、要領よくサボったり人を出し抜いたりといった
「兵隊根性」とは無縁の職場であり、それはご当人曰く

自他尊重、ミューチュアルアドバンテージ(相互利益?)

のうえに貫かれたもので、同僚の老兵の中には

「海軍独特の民主的な集合体における肌の触れ合い」

などと自画自賛するものも現れるくらい、うまくいっていたようです。

発足当初は生涯労務機関に駆り出された軍労務者たちが、
米兵からまるで俘虜のごとく追い回されたり小突き回されたり、
あるいは中国系アメリカ兵から顔に青痰を吐きかけられたりなどという
屈辱的なことも起こったそうですが、朝鮮動乱の開始とともに雰囲気は変わりました。

元海軍軍人たちは、夜の闇に乗じて来襲する泥棒警戒のために
ライフル銃を貸与されてリバティ船の見張りを行うまでになったと言います。


もっともこの銃はコケ嚇かしのため空包(音だけが出るようにした儀礼用または演習用の弾薬)
でしたが、空包の発火をやらせてみると、かつて戦争中にさんざん大砲をぶっ放した

海軍さんも、普通のおじさんになっていて、おっかなびっくりのへっぴり腰です。

戦後4年経って、すっかり戦争放棄の民のお手本と成り果てたと嘆息しつつ、
所詮は戦後生きる糧を得るためのやむなき職であったと自ら認めることになりました。


ここでちょっと寄り道をして、朝鮮戦争への日本の「寄与」についてお話ししておきたいと思います。
 「日本軍」と耳にした途端、血がのぼって荒れ狂う韓国人にぜひ知っておいてほしい話。
それは、日本軍がなければ現代の韓国軍はなく、今の韓国もないという史実。
ジャーナリストの井上和彦氏のコラムからです
 

朝鮮戦争・釜山橋頭堡(きょうとうほ)の戦いにはこんなエピソードがあります。

韓国軍の金錫源(キム・ソクウォン)准将率いる韓国第3師団約1万の将兵は、
北朝鮮第5師団との戦闘で、東海岸の長沙洞(チャンサドン)付近に追い詰められました。

壊滅の危機だった同年8月17日、国連軍の戦車揚陸艦4隻が救助にやってきました。
金准将は驚愕しました。
米海軍の戦車揚陸艇に乗っていたのは、旧日本海軍将兵だったからです。



金准将は、日本の陸軍士官学校を卒業(27期)し、支那事変では連隊長として大活躍し、
金鵄勲章まで受章した元日本陸軍大佐で、「半島の英雄」として、日本でも広く名が知られていました。

その英雄が、朝鮮戦争勃発と同時に、韓国陸軍准将として再び戦場に登場したことは
韓国軍の士気高揚に貢献しただけでなく、日本軍時代の名声と人柄が知れ渡っていたため
韓国人の”元日本兵”らが先を競って集まってきたといいます。

首都ソウルの防衛を担った第1師団長時代から、金准将はカイザー髭を蓄え、
「軍刀は武人の魂である」としていつも日本刀を携えていました。

そして米軍事顧問団の制止も聞き入れず、常に最前線で陣頭指揮を執り、
日本刀を振りかざして部下を奮起させ・・・つまり骨の髄まで“日本軍人”だったのです。

金准将は先の海上撤退で艦艇に収容された後、それまで作戦指導中に片時も放さなかった日本刀を、
南少尉に手渡しました。

それは戦場における最後の日本刀だったということです。


金准将のほか、後の韓国空軍参謀総長となる金貞烈(キム・ジョンニョル)将軍は、
大東亜戦争緒戦のフィリピン攻略戦で武勲を上げた元日本陸軍大尉で、
南方戦線では戦隊長として三式戦闘機「飛燕」で大活躍しました。

北朝鮮軍戦車に体当たり攻撃を敢行した飛行団長、李根晢(イ・グンギ)大佐も、
加藤隼戦闘隊の撃墜王の1人であり、

後の韓国空軍参謀長となるチャン・ソンファン中将や、キム・ソンヨン大将、
韓国陸軍砲兵隊を育てたシン・ウンギュン中将なども、日本陸軍の将校でした。


戦後韓国軍を立ち上げた首脳部の多くは、日本の陸軍士官学校か満州軍官学校の出身者です。
このため朝鮮戦争での韓国軍は「米軍装備の日本軍」といわれ、
戦争自体も「第2次日露戦争」の様相を呈していたという指摘があるくらいなのです。

例えば韓国陸軍のキム・ソグォン少将(1893~1978年)は朝鮮戦争時、
マッカーサー元帥が国連軍総司令官就任にした直後のの軍議で、本人を目の前に愉快そうに

「日本軍を破った男が日本軍を指揮するのか。よろしい。
日本軍が味方にまわればどれほどたのもしいか、存分にみせつけてやりましょう」


といい放ち、その腰に佩した日本刀を仕込んだ軍刀の柄を叩いて見せたといいます。


かし、彼ら朝鮮戦争での救国の士に対する日本嫌いの李承晩(イスンマン)の
戦後韓国の仕打ちは酷いものでした。
「親日」を理由にブラックリストに載せ、
予備役編入後に理事長を務めた高校の敷地に在った金将軍の像まで撤去しています。

井上氏はこのコラムの最後をこういう言葉で結んでいます。


韓国の方々に言いたい。歴史を直視できない民族に未来はない。 





さて、朝鮮動乱に出動を要請されたYBグループのメンバーはいずれも20歳代の若者ばかりで、
彼らは海上トラックや上陸用船艇に配備され、気軽な調子で出動していったのですが、
残された老兵たちはふとあることに気がついて愕然としました。


臨戦地境の海域でもしその身に何かあったとしても、今の彼らには
なんの保証や手当の裏付けもないのです。

海軍軍人であれば、戦死傷病があっても軍人年金や叙勲の名誉が与えられましょうが、

今の彼らは軍人でもなく、かといって米軍や韓国軍から保証されている立場でもありません。

かつての司令官や艦長たちは今更ながらに若者たちの身を案じ、
帰還を今か今かと密かに心痛めながら待っていたそうですが、
彼らの心配は杞憂に終わり、ほどなく彼らは無事に帰ってくることができました。

彼らのうちのリーダーは、その後自衛隊の要職にまで上り詰めたそうです。



その後海上警備隊が創設され、YBグループにあったかつての将校も、

また予備学生出身者も、年齢が42歳未満の者は全員、警備隊幹部となりました。


その中に、海軍の再建を固く信じて飛び込んできた青年がいたそうです。
九州の名門の出である彼は父子三人で大東亜戦争の戦列に在りましたが、
将官だった父も、少佐であった兄も還ることはありませんでした。
彼自身、2度も3度も乗艦の沈没で、その都度南洋を泳ぎ回って生還しています。 

こんな人物が、その後自衛隊の幹部となり、「ベタ金」の海将となっていったのです。
(と書けば誰のことかわかってしまう方もおられるでしょうか)


YSグループと言われる「海軍軍人の吹き溜まり」が出来た当初から、
海軍の復活を洞察した元海軍軍人は決して少なくありませんでした。
この九州から海軍再建を信じて出てきた青年将校のスマートな背広姿を見たとき、
もしかしたら、それは3年くらいで実現するかもしれないと希望を抱く者もいました。

実際は予想より少し早い2年半後、吉田・リッジウェイ会談によってそれは正夢となりました。


警備隊創設の朝、その旗の下に「戻っていく」青年たちは、
まるで借り着のような妙な色の正服を着ており、

身分は文官でも軍人でもない”特別職の公務員”というものでした。

彼ら自身海軍の復活を喜びながらも『新憲法第9条』が喉につかえたような、
忸怩たる気持ちをどこかに持ちながらの船出ではありましたが、

彼らにはどうにもならぬ仕儀と合点せざるを得なかったのです。

自衛隊発足のために政府が集めたY委員会のメンバーは金モールの袖章を飾る

高級幹部ととなり、元大佐らのYBグループは、ネストから去っていく
自分たちの手にかけたPF艇とその甲板の若者たちを心静かに見送りました。

自衛官の採用には年齢制限があったため、特務士官、准士官、下士官は
優秀な人物が多かったにもかかわらず、YBグループに残ることになります。

ところでこの名称のYとかBとかですが、これはおそらくですが、一般日本人に
わかりにくい名称で活動することで、外部からいらない雑音が入ってくるのを防ぐためでしょう。

自衛隊発足後もYBグループは非就役船舶の保管業務のほか、海上トラック、
交通艇の保管、港湾防備作業、見張り監視、信号通信など、
およそ海自関係の雑役はなんでもやるようになりました。

自衛隊が軌道に乗るまでの便利屋さんといったところです。

どんな仕事もかつての海軍さんが中心になっている組織ですからお手の物で、
動乱景気のオーバータイムもここが稼ぎどきとばかりに引き受け、
アメリカ人将官にさすがにここまでは、と心配されてしまうほどでした。

しかし食糧事情も国内ではまだまだ良くなかったので、 米軍専用のレーションが
貯蔵品で変質したものとはいえ、出されるのは結構ありがたいことだったのです。

最初にYSグループが発足してから16年が経過していました。

往時のメンバーは人員整理と定年退職で次々と基地を去り、
敗軍の兵を語らず黙々として一人の名もない海の男となって働いた
アドミラルもキャプテンも、多くが墓の向こうへと去ってしまっていました。

ここで元大佐ご本人について少し補足しておきましょう。


元大佐は海軍兵学校48期。
海軍省の報道部に勤務したあと、航空母艦「瑞鳳」副長を経て、
以降ずっと航空隊司令を歴任し、終戦時には釜山の海軍航空隊司令でした。

昭和15年、この元大佐が報道部に勤務中作詞した、軍事歌謡の名曲
「艦隊勤務」は、現在でも歌い継がれています。


そして1964年。
神武以来の好景気に沸く日本で東京オリンピックが開催されました。
開会式の代々木の空を、航空自衛隊の5機のブルーインパルスが5つの輪を描いたのは、
敗戦後24年で、日本が復興を高らかに世界に宣言した歴史的瞬間でした。 

そのヨットレースの競技場となった江ノ島ヨットハーバーに、
かつて食うや食わずの困窮生活から横須賀に転がりこみ、自衛隊の復活をその目で見た
老大佐の姿がありました。

老大佐の眼前には江ノ島、鎌倉、葉山沖一帯に錨泊する海上自衛隊の支援隊が
列線を隈なく張り、老大佐はその光景に思わず目を見張りました。
そこには懐かしいPF艇の改装型の姿さえあるではないですか。
まるで我が子が立派に育ったのを見るような思いです。


 晴れ渡る秋空のもと、光る海に帆をなびかせるヨットの帆走に見とれながら、
老大佐はこの海を再び激動させてはならないと改めて思うのでした。





 


ある海軍大佐の戦後~「大日本幽霊艦隊健在なり」

2015-04-16 | 海軍人物伝


昭和27年4月26日。
この日海上保安庁の外局として隊員6000名の海上警備隊が組織されました。
それこそ世間の目をはばかるようにごくひっそりと・・・。

海軍の再建ともいうべき海上自衛隊の前身の誕生した瞬間でした。

戦争を放棄し、軍備を否定した新憲法下に置いてまるで隠し子のような発足とはいえ、
横須賀基地港内の岸壁に係留されたPF艇の艦尾には、星条旗に変わって
軍艦旗(この時には警備隊旗だった)が翻りました。

音楽隊は「われは海の子」を吹奏し、
どういうわけかアメリカ海軍の軍楽隊が威勢良く行進曲「軍艦」を吹きならしたそうです。

ここにかつて世界三大海軍の一であった帝国海軍の一員として、「われは海の子」と
アメリカ人の奏でる「軍艦マーチ」の音の渦の中、涙をこらえつつ立つ一団がありました。
雨の日も風の日も、厳寒の冬も酷暑の夏も、PF艇のキーパーをやってきたYSグループの老兵たちです。

この前年の昭和26年、吉田首相はリッジウェイ対象と会見を行い、
この時にアメリカからPF艇(フリゲート艦)18隻、上陸支援艇60隻を貸与のうえ
日本海軍創設を要請しました。

その後、旧海軍軍人を交えた「Y委員会」がその構想を練るために発足しましたが、
これに先んじて、すでに横須賀に係留されている貸与予定の艦船を保管する業務を
任されていた日本人グループは、「YSグループ」と呼ばれました。

「武蔵」艦長経験者であり、「大和」特攻にも「矢矧」艦長として参加した
古村啓蔵少将がアメリカ軍に特に招かれていた他、横須賀という土地柄もあって、
ほとんどが大東亜戦争の生き残り、百戦錬磨の老兵ばかりでした。

誰言うともなく自らを「幻の艦隊」と称するようになったこの集団は、
くたびれた復員服に身を包んでいても、気骨稜々のさむらい揃いでもあったのです。


この中の一人にある元海軍大佐がいました。


元大佐は、戦争中は12の航空部隊を遍歴し、軍人冥利に生きた時世も今は過去、
復員の際、終戦で解放された連合軍捕虜が結成した強盗に
列車の中で腰の長刀を奪われて「丸腰」の姿で帰郷をしてきました。

再開した妻子は給料の支払いが途絶えて明日の生活さえ憂う困窮状態。
生糧品の放出を騎兵連隊の主計士官が村役場に陳情に行ったところ、
富農でもある農協の責任者は、椅子にふんぞり帰ったまま

「もう戦争は済んだで、負けた兵隊に食わせるものはあらせん」

と嘯き、しぶしぶと供出した配給の薯はまるで鼠の尻尾のような屑ばかりでした。

東京で再起を誓った元大佐は、小さな新聞社に拾われますが、
公職追放に該当する履歴がたたって2ヶ月で解職、次に顧問名義で就職した映画会社は
赤色争議による重役総退陣に遭いこれも退職。
この後職を点々としている間に息子を結核で失い、妻も感染してしまいます。

芯が出た畳の上に海軍毛布一枚を敷いてそこで寝起きする窮乏生活に進退極まったとき、
教会の口添えで米海軍基地の労務者として糊口をしのぐつてを得ることができました。

ここで元大佐は司令官の秘書をしていた日本人女性からこんな情報を耳打ちされます。

「近くソ連からアメリカ海軍の貸与船舶が返還される。
これは横須賀で保管し、いずれ日本海軍が復活するとき、そっくり貸与するものらしい。
その管理の仕事で旧海軍さんを差し当たり200名ほと募集するそうだ。
行く行くはPF艇27隻、その他の船舶50隻となって、雇用人数は1,000名を超える。
そのマネージメントなら昔取った杵柄でちょうどいい仕事なのではないか」

月給は1万5千円、職種は顧問。
妻の看病をしている身には定収入が得られるのはありがたい話でした。

昭和24年8月の末に

未就役船舶管理部隊

というこの駐留軍労務者のグループが発足し、「海の老兵」の吹き溜まりとなりました。
朝鮮戦争のときには一部の人員が揚陸作戦に派遣されたりしたそうですが、
秘匿されたためうるさい世間の噂になることもありませんでした。

海軍が滅びた日本に、軍艦旗が再び翻る自衛艦隊の創設されるその日まで、米軍基地で
供与された船舶の子守をしていたのが、彼らYSグループのもと海軍軍人たちだったのです。


警務隊の旗が揚がった時、老兵たちの中には郷愁に誘われて涙したものもありましたが、
大方の新しい組織のメンバーはそのように捉えたわけではありませんでした。

彼らにとっては新生日本の新しい海軍の創設であり、懐古するものではなかったのです。



PF艇は昭和24年、ソ連から横須賀に回航され、返還と同時に警備隊に貸与されました。
回航員は港内の係留作業がすむとただちに退艦して母船に収容され横須賀を去ります。
数次にわたる回航にはいつも同じ顔ぶれが見られました。

ヤンキーの水兵さんはスマートなのに対して、ソ連水兵さんは明治時代の日本の兵隊さんのようで、
どこかで見たことのあるような懐かしくも泥臭い雰囲気を漂わせていたそうです。

回航員が退艦したばかりのPF艇には、およそ消耗品と名のつくものは一物もありません。
燃料タンクは舐めたように空っぽ。
時折巻きタバコが落ちていることもありましたが、大変不味いものでした。

PF艇が到着するにあたって、保管業務に備えて日本人従業員の緊急募集が行われ、
地方にスカウトが人材確保のために飛びましたが、馳せ参ずるものは全員が元海軍軍人です。
敗戦の荒廃の中生活に困窮していた彼らにとって、船に因縁のある仕事は魅力でした。

蓋を開けてみれば集まったのは中将級から海軍の飯も食いそめぬ終戦一等兵まで雑多、
アドミラルクラスは十指に余り、佐官級は赤穂義士もかくやと思われる豪勢な顔ぶれ、
旧華族の御曹司、いわゆる皇室の藩屏 (はんぺい)と思しき御仁さえもいたそうです。

思えば戦前戦後にかけての有為転変により、かつての陛下の股肱も
今や職業軍人という代名詞で蔑まれる怒りの失業者軍団。
200名のうち半数以上が准士官以上という陣容です。

司令官、艦長、司令の経歴を持つ将官や大佐級、作戦の帷幕にあった参謀、
かつて恩師の短剣をいただいた英才に太平洋で武功抜群を称えられた将兵。
特務士官、准士官、下士官のかつての精兵が雁首を並べたこの集団の存在を
ある日共産紙がデカデカとすっぱ抜いたつもりで書き立てました。

「大日本幽霊艦隊健在なり」 

と・・・。 


YSグループには職を求めて終戦時穴ばかり掘っていた穴掘り兵や、召集されたこともない
ただのおっさん、そして陸軍軍人もデタラメの履歴で潜り込んでいました。
もっとも面接係の海軍の古狸は「来るものは拒まず」のいい加減、もとい寛容さを備えていました。
業務中に海に落ちられては困るので泳げない者に手を上げさせ 、
そのなかでもいかにも陸軍面の風格を持った求職者に


「船は何に乗ったか」

「ハイ、関釜連絡船に乗りました」

「それでどこへ行ったか」

「ハイ、北支であります」

「・・・・・やっぱり陸軍だな・・・」

「ハ、もとい、憲兵は陸軍でも海軍でも受け持ちでした」

「よし採用決定」

 
軍歴の立派な海軍軍人も怪しげな軍歴のおっさんも、皆等しく
戦後の困窮生活で食い詰めていたことに間違いはなく、
来るべくしてこの「老兵の吹き溜まり」 に流れてきた同志となりました。

 

保管船舶の係留場を「ネスト」と呼びました。
彼らはそれぞれのネストに分かれ、さらに個々の船に分乗して保安監視と
保存整備の労務に従事しました。
ここでは昼夜交代の見張り当直も、日常の手入れ作業も皆が平等に行います。
提督も佐官尉官も、上等兵曹も国民兵ももちろん元陸軍さんも・・。

それはまさにデモクラシーを絵に描いたような理想の平等社会でありました(笑)

それから足掛け4年間、元船乗りの老兵たちは、PF艇群をまるで愛撫するかのように
丹精込めてネストに繋がれた愛娘を手塩にかけて育てあげ、
それは、彼女らが自衛艦となるその日まで続きました。


そのうちPF艇のほかに、LSSL、上陸支援艇60隻が横須賀に配備され、
YBグループと名称の変わった旧YSグループの従事者は、総員850名を越し、
こうなると海軍経験者だけを採用するわけにもいかなくなってきました。

帝大出身の秀才、映画会社の技師、アメリカ帰り、戦犯釈放者、
倒産した自営の社長も縁故を頼ったりしてやってきました。
吹き溜まりには違いないのですが、中には「ある事情で」一時しのぎに職を求め、
そのうち大学に進学して将来を約束される地位に就いた青年もいました。

彼らのほとんどは戦死した海軍軍人の子弟であったということです。 


1950年(昭和25年)、朝鮮動乱が勃発しました。
韓国海軍に転身する船を急速に整備するため、YBグループは
半狂乱とも言える動乱体制に否応もなく巻き込まれることになります。
観戦修理廠の造船作業に伴って、嫁入り仕度のおめかし(サビ落としと総塗粧)

が彼らの日課となりました。

YBグループの組織は役職が全て英語となり、軍ではありませんから
マネージャー、サブマネージャー、技術者はスタッフ、エンジニア、
そしてボイラーマンと呼称されていましたが、先般の共産紙はわざわざ
この組織図に

鎮守府参謀長=トップマネージャー

などという解説をつけてその欺瞞を暴いたつもりになっていたようです(笑)

とにかく、動乱体制ではマネージャーとサブマネ、人事担当以外は、
総員がカンカン虫と旧軍で称したところの、船底から重油タンクの中を
油と汗とペンキまみれで這いずり回る重労働に甘んじました。

そしてそれも終え、韓国兵が乗り込んでくると、エンジニアの経験者は
米海軍士官の指示を受けて、彼らの指導にあたりました。
みずからが造修を手がけたPF艇試運転の際には、マネージャーやスタッフたちも
弁当を持って便乗しました。

マネージャーはかつて世界最大の戦艦「陸奥」に艦長として座乗した人物でした。
黒潮のたぎる東京湾頭に艇が出たとき、彼は「陸奥」とは大違いの狭苦しいPF艇の艦橋で、
冬の冷たい西風から
いささかも顔を背けることなく、昂然と海を眺めていました。

寒さのあまり鼻水が出ていても、露ほどの関心も払うことなく立つ元艦長に向かって、
アメリカ軍のチーフが無言のままそっと真新しいハンカチーフを差し出すと、
彼はさりげなく受け取って鼻の下を横一文字に拭い、一言

「サンキュー」

といってそれを自分のポケットに突っ込みました。
その日、東京湾は富士山が裾まで捲れて白波が走る快晴でした。


このマネージャーが「誰」であったか、元大佐の記述には明らかにされていません。
本人の経歴にも戦後YBグループで警備隊に関わったことは一切触れられていないのですが、
わたしはこの人物が二代目「武蔵」艦長であった古村敬三少将だったのではないかと思います。



続く。
 

 


「ルーズベルト」ニ与フル書~市丸利之助少将

2015-03-22 | 海軍人物伝

靖国神社の遊就館展示を見たことのある方は、一番最後の本土決戦のコーナーで
ガラスケースに収められた
「ルーズベルト」ニ与フル書、というコピーの文字に
必ず目を留められたことでしょう。

これは、昭和20年3月26日(公式)に硫黄島で戦死した、

市丸利之助海軍中将(最終)

が、硫黄島でしたためた、米国大統領ルーズベルトへの書簡です。

市丸少将は日本が玉砕することになった昭和20年3月の硫黄島の戦いで戦死しましたが
その最後の状況ははっきりしておらず、遺体も不明のままです。

ただ、亡くなる前にしたため、日系二世の三上弘文兵曹に英訳させた手紙が
アメリカ軍の手に渡ったことで、少将の名は人に知られることとなりました。


この手紙は日本を追い詰めて戦争を起こさせたことを正面から詰り、それまでの
白人支配の大国主義に立ち向かって有色人種の支配からの解放を目指す日本の立場を説き、
さらにはアメリカの勝利の意味に疑問を投げかけて終わっています。 

日本がなぜ戦わなくてはならなかったのか短い言葉でを全て言い尽くしたこの手紙は、
戦後、あの戦争を自分自身の負い目にしてしまってきた多くの日本人に、
負けたゆえに不当に負い続けていた戦犯国の汚名を晴らし、
もう一度日本の誇りを取り戻そうという思いを抱かせずに入られません。


昭和19年11月、第27航空戦隊司令官として硫黄島に着任した市丸少将は、
昭和20年2月19日に上陸してきた米軍との間で行われる熾烈な戦いに
すでに自分の運命を予感していました。
あの擂鉢山の戦いで「擂鉢山の6人」が星条旗を揚げたのは2月23日です。

余談です。
擂鉢山に揚げられた星条旗は翌日、翌々日、朝になると日章旗に変わっていたそうです。
闇夜に紛れて旗を(二日目は血で描いた日の丸だった)揚げに来ていた日本兵がいたのです。
アメリカ軍は躍起になってその周辺の草叢や洞窟を火炎放射器で焼き、
その後は日本の旗が擂鉢山に揚がることはなくなりました。


3月7日には、「海軍と中央の不手際を責めた内容」の総括電報が
栗林中将の名前で打電され、3月14日には日章旗が奉焼され(焼かれ)ました。

そして70年前の今日である昭和20年3月17日、栗林中将のあの決別の電報が打たれます。
その最後には

国の為重き努を果し得で 矢弾尽き果て散るぞ悲しき


という句が添えられていました。

おそらく同日、市丸少将はこの「ルーズベルトに与うる書」を書き、
二世の兵曹に通訳をさせたのに違いありません。
この書は、市丸少将の遺書でもあったのです。

自分の書いた遺書がアメリカ軍の手に渡ることを期(ご)して、市丸少将は
この原文と英語訳を、それぞれ突撃する別の将校の体に身につけさせました。
彼らが死んだ後、敵が将校の遺体を検分することを見越してのことです。

 市丸少将の目論見通り、日本文の手紙はは村上治雄海軍通信参謀、英文は
赤田邦雄第二十七航空戦隊参謀の体に巻かれて米軍に発見されました。
市丸少将自身も最後に自分の体に日英両方の手紙を巻いていたと思われますが、
それらしき死体が発見されることはありませんでした。

もしこのことを考えて2部ずつ取られた写しの方が発見されたのです。
手紙は、というより二人の遺体は、硫黄島北部の洞窟内にあったということです。

その内容を口語訳で記しておきます。
出典はwikiですが、一部判断により手直ししています。


ルーズベルトに与うる書

 日本海軍市丸海軍少将が、フランクリン・ルーズベルト君に、この手紙を送ります。
私はいま、この硫黄島での戦いを終わらせるにあたり、一言あなたに告げたいのです。

日本がペリー提督の下田への入港を機として、世界と広く国交を結ぶようになって約百年、
この間、日本国の歩みとは難儀を極め、自らが望んでいるわけでもないのに、
日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、満州事変、支那事変を経て、
不幸なことに貴国と交戦するに至りました。

これについてあなたがたは、日本人は好戦的であるとか、
これは黄色人種の禍いである、あるいは日本の軍閥の専断等としています。
けれどそれは、思いもかけない的外れなものといわざるをえません。

あなたは、真珠湾の不意打ちを対日戦争開戦の唯一つのプロパガンダとしていますが、
日本が自滅から逃れるため、このような戦争を始めるところまで追い詰めらた事情は、
あなた自身が最もよく知っているところです。

畏れ多くも日本の天皇は、皇祖皇宗建国の大詔に明らかなように、
養正(正義)、重暉(明智)、積慶(仁慈)を三綱とする八紘一宇という言葉で表現される
国家統治計画に基づき、地球上のあらゆる人々は、その自らの分に従って
それぞれの郷土でむつまじく暮らし、恒久的な世界平和の確立を唯一の念願とされているに他なりません。


*この部分の英訳は


“Yosei” (Justice), “Choki” (Sagacity) and “Sekkei” (Benevolence),

となっています。
 

このことはかつて、

 四方の海  皆はらからと 思ふ世に  など波風の 立ちさわぐらむ

という明治天皇の御製(日露戦争中御製)が、あなたの叔父である
セオドア・ルーズベルト閣下の感嘆を招いたことで、あなたもまた良く知っていることです。


*セオドア・ルーズベルトは第25、26代大統領でFDRの叔父にあたります。
東郷元帥が日露戦争終結後読み上げた「聯合艦隊解散之辞」に感銘を受け、
これを英訳させて軍の将兵に配布させていたことが有名ですし、
自身は日本びいきでアメリカ人で初めて柔道の茶帯を取得しています。
忠臣蔵(47RONIN)を愛読していたことも知られているのですが、
その後台頭する日本に脅威を感じてか露骨に牽制を始め、排日移民法なども作らせるようになりました。

ハワイ王朝を乗っ取ろうとした時、巡洋艦「浪速」「金剛」がそれを牽制したため、
ハワイを併合するという野望は崩れ共和国としたことも、嫌日の要因でしょう。

 

わたしたち日本人にはいろいろな階級の人がいます。
けれどわたしたち日本人は、さまざまな職業につきながら、
この天業を助けるために生きています。
我々帝国軍人もまた、干戈(かんか)をもって、
この天業を広く推し進める助けをさせて頂いています。

*干戈というのはいくさのことです。
この部分の出だしで市丸少将は「Japanese」ではなく「 We, the Nippon-jin,」
と自称していることが目を引きます。

「干戈」の部分の英文はこうなっています。

We, the soldiers of the Imperial Fighting Force take up arms to further the above stated “doctrine”.
(私たち帝国軍の兵士たちは、上記の「教義」を促進するために武器を取っている)



わたしたちはいま、豊富な物量をたのみとした貴下の空軍の爆撃や、艦砲射撃のもと、

外形的には圧倒されていますが、精神的には充実し、心地はますます明朗で歓喜に溢れています。

なぜならそれは、天業を助ける信念に燃える日本国民の共通の心理だからです。
けれどその心理は、あなたやチャーチル殿には理解できないかもしれません。
わたしたちは、そんなあなた方の心の弱さを悲しく思い、一言いいたいのです。


あなた方のすることは、白人、特にアングロサクソンによって世界の利益を独り占めにしようとし、
有色人種をもって、その野望の前に奴隷としようとするものに他なりません。

そのためにあなたがたは、奸策もって有色人種を騙し、
いわゆる「悪意ある善政」によって彼らから考える力を奪い、無力にしようとしてきました。


近世になって、日本があなた方の野望に抵抗して、有色人種、ことに東洋民族をして、
あなた方の束縛から解放しようとすると、あなた方は日本の真意を少しも理解しようとはせず、
ひたすら日本を有害な存在であるとして、かつては友邦であったはずの日本人を野蛮人として、
公然と日本人種の絶滅を口にするようになりました。

それは、あなたがたの神の意向に叶うものなのですか?

大東亜戦争によって、いわゆる大東亜共栄圏が成立すれば、それぞれの民族が善政を謳歌します。
あなた方がこれを破棄さえしなければ、全世界が、恒久的平和を招くことができる。

それは決して遠い未来のことではないのです。

あなた方白人はすでに充分な繁栄を遂げているではありませんか。
数百年来あなた方の搾取から逃れようとしてきた哀れな人類の希望の芽を、
どうしてあなたがたは若葉のうちに摘み取ってしまおうとするのでしょうか。

ただ東洋のものを東洋に返すということに過ぎないではありませんか。
あなた方はどうして、そうも貪欲で狭量なのでしょうか。

大東亜共栄圏の存在は、いささかもあなた方の存在を否定しません。
むしろ、世界平和の一翼として、世界人類の安寧幸福を保障するものなのです。
日本天皇の神意は、その外にはない。
たったそれだけのことを、あなたに理解する雅量を示してもらいたいと、
わたしたちは希望しているにすぎないのです。

ひるがえってヨーロッパの情勢をみても、相互の無理解による人類の闘争が、
どれだけ悲惨なものか、痛歎せざるを得ません。

今ここでヒトラー総統の行動についての是非を云々することは慎みますが、
彼が第二次世界大戦を引き起こした原因は、第一次世界大戦終結に際して、
その開戦の責任一切を敗戦国であるドイツ一国に被せ、極端な圧迫をする
あなた方の戦後処置に対する反動あることは看過することのできない事実です。

あなたがたが善戦してヒトラーを倒したとしても、その後、
どうやってスターリンを首領とするソビエトと協調するおつもりなのですか?


*ヒトラーはルーズベルト死去の直後、4月30日に自殺した 


およそ世界が強者の独占するものであるならば、その闘争は永遠に繰り返され、

いつまでたっても世界の人類に安寧幸福の日は来ることはありません。

あなた方は今、世界制覇の野望を一応は実現しようとしています。
あなたはきっと、得意になっていることでしょう。

けれど、あなたの先輩であるウィルソン大統領は、そういった得意の絶頂の時に失脚したのです。
願わくば、私の言外の意を汲んでいただき、その轍を踏むことがないようにしていただきたいと願います。

市丸海軍少将



わたしはこの文章を読むうち、あらためてぞくぞくと鳥肌が立つのを感じました。

この手紙は日本を煽って戦争に仕向けたアメリカの欺瞞を糾弾しつつ、
「ファシズムとの戦い」という大義名分を叫びながら、一方では有色人種の人権を踏みにじっている、
というこの大いなる矛盾を突いたものでした。


お前は今勝ったと思って得意になっていようが、その勝利は決して真の勝利ではない、
と市丸少将が看破した通り、戦後、かつての強者の元から日本が望んだように
すべての国が立ち上がり、独立を果たしていきました。

「貪欲で狭量な大国たち」が被支配階級の代表として戦いに立ち上がった日本を叩き潰し、
極東国際軍事裁判において二度と自分達に逆らえないようにしたはずにもかかわらず、
一旦そのように動き出した大きな流れを押しとどめることすらできなかったのです。



そして市丸少将の「どうやってソ連と協調するつもりなのか」という言葉は、
不気味なくらい、戦後アメリカの憂鬱を言い当てています。
この東西対立がなければ、もしかしたら被支配国の独立は
もう少し先送りになっていたという因果関係までうっすらと予想されるではありませんか。



先日、映画「アメリカン・スナイパー」について書いたとき、マイケル・ムーアが

「アメリカはイラクを開放してなんかいない。自分達の過失をおとぎ話のように語るな」

とベトナム、イラク、アフガニスタンの全てにおいてアメリカが解放者などではなく、
むしろそこへいったのは失敗だったと認めるべきだ、と言っていたことを書いたのですが、
今も昔も大国アメリカの大義名分なんてこんなものです。

マイケル・ムーアがこれを読んで、自分の叔父を殺した日本兵のいる日本が
解放者だったと認めるかどうかは甚だ怪しいところですが(笑)


「得意の絶頂の時にウィルソンが失脚した」ように、得意の絶頂のFDRは、
手紙が書かれたわずか一ヶ月後の4月12日に死亡したため、これを読むことはありませんでした。
死もまた「失脚」であると考えれば、手紙は奇しくもFDRの運命を言い当てたことになります。

もし合衆国大統領が生きてこの文章を読むことがあったら、そのとき彼はどう感じたでしょうか。
この血を吐くような「虐げられてきた民族の心の声」を聞いてなお、
一片の良心に照らしても神の前に恥じることすらなかったであろうと考えることは、
むしろこの政治家の人間性を貶めることのような気さえします。


わたしは戦後70年後の日本人の一人として、この世界が
市丸少将の言ったことそのままになったことを鑑みるに、日本は戦争には負けたけれど
最終的に目指した勝利を(敵から見るとこれもまた大義名分に過ぎないのですが)
勝ち取ることはできたのだと考えずにはいられません。

かつての植民地、被支配国が大国と同じ一票の権利を持ち、国同士対等である
という70年前日本が理想とした社会が曲がりなりにも生まれたのは、
アメリカが勝ったからではなく、日本が戦ったからだと確信するものです。



市丸少将の書いたルーズベルトへの手紙は、アメリカ軍の手に渡ったあと、

7月11日、新聞に掲載されて アメリカ人は皆これを目にすることになりました。

 これが当時アメリカに当時論議を巻き起こしたという記述はどこにもありません。
「正義のアメリカ」に楯突く小賢しい言論とほとんどのアメリカ人は思い、
ごく少数の人間が、この言葉に何かを感じるだけに終わったのかもしれません。


ただ、わたしは、このような手紙、アメリカとその大国主義を真っ向から否定する意見を、
戦争が続いているにも拘らず、隠すことなく全米に公開したアメリカという国を、
良くも悪くも文明国であると思い、そこに民主国家としての良心を見ます。


そしてやはり、市丸少将の最後の言葉の持つ普遍の力は、決して少なくないアメリカ人、
移民の国であるアメリカにとって、人間としての良心に訴えかけるものであったと信じたいのです。

アメリカ海軍太平洋艦隊司令長官、チェスター・ニミッツ元帥は、
この手紙をAnnapolisの海軍兵学校に提出させ、そこに納めさせました。
このことを以って決めつけるわけではありませんが、ニミッツ提督もまた手紙の内容に真理を認め、
市丸少将の叫びに共鳴した一人だったからではなかったかとわたしには思えてなりません。


 A Note to Roosevelt(Battle of Iwo Jima)
 



 


WAVESあれこれ~「アメージング・グレース」

2015-03-19 | 海軍人物伝

さて、ホーネットの艦内を利用した「ホーネット博物館」のWAVESコーナー、
続きと参ります。
WAVES、直訳すると志願緊急任務のために受け入れた女性は、第二次世界大戦時、
軍の人員を増やす要求に応じて1942年8月に正式に組織されました。

当初から、WAVESは海軍の「公式部分」として扱われ、男性と同等に扱われました。
つまり、階級が高ければ女性でも男性の「上官」として敬礼される立場です。
冒頭ポスターの左のほうでも、男性の水兵さんたちが女性の士官を見て

「俺らも敬礼するの?」


などと侃々諤々話し合っている様子が描かれていますが、これはもしかしたら当初
海軍の男どもにとっても画期的すぎたに違いありません。
しかし、ともあれこの扱いは、女性軍人を集めるのに大いに効果を発揮しました。

軍人になっても地位は男性の下で仕事は補助、というものなら、
とてもではないけどアメリカ女性を集めることはできなかったでしょう。

驚くことに、WAVESの給与体系は全く男性と一緒でした。
給料が一緒なら彼女らを取り締まる軍規も全く同じです。
つまり、「特別扱いはしない」ということを表明して募集したのですね。

とはいえ、性差を考慮して戦闘艦や航空機の勤務からは遠ざけられ、
米国本土内の任務に限定されていました。

しかしご時世というのでしょうか、大戦の後半ごろから、本土内という縛りは外れ、
米国の領土とされている地域なら海外でも勤務できるということになって、
WAVESの一部をハワイに派遣するという動きもありました。

国は海軍勤務の女性軍人を広く募集します。
真っ白な制服を着て軍艦の見えるハドソンリバー沿いを闊歩する素敵なWAVES。

「この絶好の機会をお見逃しなく」「海軍はWAVESに貴女を必要とします」

そんな殺し文句に、海軍を志望した女性は多かったでしょう。



このリクルートポスターは、どうみても「ヴォーグ」の挿絵のノリですが、
これはのWAC、WAVES、そして海兵隊の制服をまとった女性たち。
写っていませんが一番向こうにはWAFの女性がいます。
いずれも(ってか同じ顔ですが)流行りの眉毛に真っ赤な口紅を塗っています。 



コーストガード、沿岸警備隊も負けてはいません。

アメリカ軍は軍隊ごとの摩擦をできるだけ避けるために、沿岸警備隊にも
海軍と全く同等の階級制度を採用していました。(います)

SPARDSというのは

 Semper Paratus and its English translation Always Ready

つまり、沿岸警備隊のモットーである「即応」のラテン語のあとに、
英語訳をくっつけたという説と、いわゆる「フォーフリーダム」、4つの自由の

Speech, Press, Assembly, and Religion

(言論、報道、集会、宗教の自由)
から取ったものだという説がどちらもアメリカ版のwikiページに別個に存在します。
どちらが正しいのかはわかりませんが、このニックネームを考案したのは、
沿岸警備隊の最初の女性司令官、

ドロシー・C・ストラットン大佐

であることだけは確かです。
ちなみにストラットン大尉はWAVES出身。
亡くなったのは2006年で、なんと107歳の天寿を全うしています。



ドロシー・ストラットン大佐コーナー。

彼女の名前はUSCGC Stratton (WMSL-752)」に残されました。



「マリーンになりませう」(戦中なので)
「戦いに海兵隊を解き放て」

ってとこですか。
ちなみに、toがfromだと全く違う意味になります(笑)



アメリカ人の好きそうな「過去の声ー未来への旅」という絵。
過去から現在に至る有名なミリタリーウーメンが一堂に会してます。



南北戦争の従軍看護婦や聖職者からはじまっているようです。
女性が制服を着出すのが第二次世界大戦時からで、ここには以前お話しした
WASP の初代司令官、ジャクリーヌ・コクランやナンシー・ラブがいるはずです。
29番はアメリカ海軍で初めて士官となり、WAVESの初代司令官になった

ミルドレッド・H・マカフィー少佐




朝鮮戦争のパート。



現代のパート。

黒人女性として初めて沿岸警備隊で回転翼のパイロットとなった
ラシャンダ・ホルムズが前にいますね。

アメリカ陸軍は2008年に史上初めて陸軍大将が誕生しています。
その名もアン・ダンウッティ陸軍大将
陸軍で「弾撃って」とはなんてぴったりな
と思ったら、兵站担当師団の司令官だったそうです。

この絵が描かれたのが2008年以降であれば、おそらく彼女も描かれているはずなのですが。


宇宙服を着ているのは、空軍大佐でNASAの宇宙飛行士となった

アイリーン・コリンズ空軍大佐


1999年のスペースシャトル、コロンビア号の初の女性船長を務めました。




おお、誰かはわからぬがなんと聡明そうな美人、と思った方、お目が高くていらっしゃる。
彼女の名はグレース・ホッパー
名門ヴァッサー女子大学とイエール大学で数学と物理学を専攻し、ヴァッサーで教鞭をとり、
女性で初めて数学の博士号を取ったという「アメージング・グレース」(彼女の愛称)でした。

彼女は1943年、つまり37歳にして海軍の予備役になり、翌年には中尉に進級。

同時にハーバード大学でコンピューターの開発に携わりました。
つまり、コンピューター開発者の仕事をすることが「海軍での仕事」だったということです。
だから多分カッターを漕いだり遠洋航海には行ったわけではないと思います(笑)


ところで、現在コンピュータ用語で使われるプログラムの不具合を意味する言葉としての
「バグ」という言葉は、当初彼女が実際に機械に蛾が挟まって作動しなくなったことから
その後不具合を「バグのせいで」と言ったり書いたりして定着した用語です。

もちろん彼女が生んだのはコンピュータスラングどころではなく、
英語に近い言語でプログラミングできるようになるべき、というその考えに基づき、
開発させたプログラミング言語COBOLです。
(これはこれでその後いろんな問題があったようですがそれはさておき)



退任前のアメージング・グレースのお姿。

彼女は1966年、中佐で予備役に退くのですが、翌年の1967年、
作戦部長付きのプログラミング言語担当として現役に復帰します。
このとき61歳。
定年後の再就職をもう一度海軍でしたようなものですね。
そして1973年には大佐、1983年には77歳にして代将(Commodore)、
そして2年後、80歳を前に准将になります。

まあこれは米海軍の階級制度で代将が無くなり准将になったためですが、
彼女の場合はこういった破格の昇進も「功労賞」といった意味合いがありそうです。

彼女が海軍を最終的に退任したのは79歳で、これは男女関係なく
最年長での退役の記録となっているそうです。

うーん、やっぱり「アメージング・グレース」だったんですね。




ここでもう少しWAVESの写真などを。
終戦後、日本への占領軍として駐留していた女性兵士たち。
宮島で記念写真ですか。

そういえば、占領軍のパレードで隊列をなしていた女性将兵たちはかっこよかったなあ。
ああいうのを見た日本人が「こら負けますわ」と打ちひしがれたであろうことは想像に難くありません。



朝鮮戦争における女性将兵たち。
韓国軍の女性兵士(っていたのね)たちと交流している写真がありますね。



「わたしも最初は同じ間違いをしちゃったのよね。
お化粧室ならここ真っ直ぐ行って3つ目のドアよ」

意味わかりますか?
甲板の「パウダールーム」とは、後ろで作業している水兵でわかるように
パウダーはパウダーでも「ガンパウダー」、つまり火薬庫のことなのです。




WAVESが内地に送るためのニューイヤーカード。
シャレが効いてるつもりなんでしょうが。

「もし残りの ”さんざびっちず” が いなくなってれば、
いつもの通りのお正月をお祝いできたのにね」

だそうです。
イタリアが降伏した後の、1944年に書かれたものですね。

それにしても女の人の出すカードじゃないだろこれ(呆)




 


「ザ・デストロイヤー」~駆逐艦「濱風」と前川万衛艦長

2015-03-06 | 海軍人物伝

 

呉海軍墓地にある旧海軍艦艇の慰霊碑についてお話ししています。
駆逐艦「濱風」(濱は旧字体ですがここではこう記します」は、二代目で、
陽炎型の13番型として昭和16年浦賀船渠で竣工されました。

昭和16年11月26日、真珠湾攻撃のために単冠湾を出港したハワイ攻撃機動部隊の
「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」「翔鶴」「瑞鶴」の6隻の空母
(『ファイナルカウントダウン』でオーエンス中佐が一生懸命言ってましたね)
を護衛するという華々しい初戦を飾り、ポートダーウィン機動作戦、
ジャワ南方機動作戦、セイロン作戦などにも参加しています。

ミッドウェー海戦では日本側は4隻の空母を失いますが、このとき「濱風」は
「蒼龍」の援護を行い、沈没した同空母の乗員を救出しました。



駆逐艦というのは敵を「駆逐する」、英語で「破壊する者(デストロイヤー)」

という名の通り、もともと「水雷艇を駆逐する」というのが存在意義です。

そういう意味でいうと、一等「陽炎」型駆逐艦の13番艦である「濱風」は、
その使命を最後の最後まで全うしきった駆逐艦であったというべきでしょう。

揚陸作戦においても、昭和17年8月には、ガナルカナル島に上陸した米軍を駆逐するため
陸軍一木支隊916名を「嵐」「荻風」「谷風」「浦風」「陽炎」らとともに
ガ島北岸太母岬に揚陸させ、その半年後にはガ島撤退作戦にも参加しています。

さらに「濱風」はコロンバンガラ島への陸兵揚陸にも携わった直後、
さらなる陸兵上陸を支援するために行われたコロンバンガラ夜戦で、
「神通」を取り囲み、寄ってたかって攻撃を加える敵艦隊を「雪風」らとともに
酸素魚雷を装填しながらじわじわと包囲し、艦隊ごと航行不能にしています。

このように、特にファンが多いと言われる陽炎型駆逐艦の中でも、艦これ的には
特に嫁にしたい駆逐艦ナンバーワンといわれているらしい「濱風」。
個人的には「島風」とともに「ザ・デストロイヤー」の称号を差し上げたいほどです。
 


しかし駆逐艦として戦い抜いたということは、同時に
次々と失われていく聯合艦隊の艦を見届けてきたということでもあります。


「濱風」の最後は、天一号作戦、坊之沖岬海戦で「大和」の護衛として出撃、
魚雷の命中によって轟沈を遂げるというものでしたが、

ミッドウェーで蒼龍の最後を見届ける
クラ湾夜戦で旗艦「新月」の最後を見届ける
コロンバンガラ海戦で旗艦「神通」の最後を(略)
撃沈された空母「飛鷹」の乗員を救出する
シブヤン海戦で「武蔵」の最後を見届け、800名の乗員を救助
回航中撃沈された「信濃」の救助を行う

という壮絶な歴史の目撃者ともなりました。

彼女が救出した人員は途方も無い数に上ります。
記録に残っているだけでも

戦艦「武蔵」  934名

戦艦「金剛」  146名

空母「信濃」  448名

輸送船「日竜丸」 36名

輸送船「安竜丸」 5名

これだけで約1500名強。
戦後設立された「濱風会」では救助人員をそう称していますが、
「蒼龍」「赤城」「飛鷹」駆逐艦「白露」の乗員については資料がないため、
おそらく合計でいうと3000名にはのぼるだろうと言われているのです。

さらに先ほどのガ島からの陸兵撤退、海軍特別陸戦隊の撤退を含めると、
この乗員300名の小さな駆逐艦が5000名の命を救ったことになります。


コロンバンガラ島夜戦で「神通」の仇を取ったあと、「濱風」は
ベララベラ海戦に参加して損傷したため呉に帰港してドック入りしますが、
このときに三代目艦長、前川万衛中佐(52期)が着任しました。
「濱風」の救助した人員数がここまで膨大になった原因は、どんな嵐の戦場でも

武運強く戦い抜き生き残った彼女の「運」に加えて、この前川艦長の着任にありました。
「濱風」溺者救助作業のほとんどは前川艦長が指揮を執っています。


冒頭挿絵ですが、どこを探しても前川中佐の写真が見つからなかったので、

「こんな人に違いない」という思い込みだけで想像似顔絵を描いてみました。
多分似てないに違いありませんが、いいんです(きっぱり)




アメリカ軍は徹底的に人命救助を重視しました。
一名の戦闘機搭乗員のためにカタリナ飛行艇を日本本土まで飛ばしていたくらいで、
沈む軍艦と運命を共にしなかった艦長を左遷するような日本海軍とはえらい違いです。
戦争のやり方も、有り余る物資と人を有しながらなお防御を重視するアメリカと、
防御は二の次で自分の命を盾にしてでも攻撃を成功させることを取る日本とでは、
これはもうどう考えても国力の無いほうが負けることは明らかでした。

どうして戦後の人間なら単なる一ブロガーにもわかるこの理屈が、
当時の日本軍において無視されてきたのかは、前にも言いましたが、
「軍人精神」という名の正常性バイアスがかかっていたからだとわたしは見ます。
まあこの辺りの論議についてはいつかまた日を改めるとして、
とにかくアメリカが人命重視を徹底したのは、そうしないと国民の戦争への
理解が得られないということと、なんといっても一人のスペシャリスト
(海軍艦艇に勤務する者は専門職である)を育てる時間とコストが勿体ないからです。
人を育てる労力は飛行機や船の生産などよりずっと大変だと知っていたからです。

日本の美しい言葉「勿体ない」が、こういうときに全くかえりみられなかったのは
実に勿体ないことだったというしかありません。 
まあ、切羽詰まって省みられるほどの余裕がなかったという事情もありますが・・・・。


それに、戦時、艦を停止して人員救助をしているところを敵に襲われ、
救助している方が何人も戦死した例は多く、一艦300名の命を預かる艦長としては、
敵が帰ってくる可能性の多い戦闘海域で行き脚を止めるという決断をするのは
それが駆逐艦の使命とはいえ大変な決断を要します。

つまり、「濱風」のように徹底的に溺者救助に命をかけたフネの方が少数派なのです。


しかも、前川艦長の救助方法は少し変わっていました。

マリアナ沖海戦のときには一般に駆逐艦が行う、短艇を使ってやる救助方法とは違って、

艦を風上に持っていって停止し、風の力だけで艦を漂流者のほうへ近づけていき、
風下舷の艦首から艦尾まで垂らしたロープを掴んだ生存者を引っ張りあげる

という方法で行いました。

まず、中央から後ろにかけての外舷にありったけの縄ばしごと、先端を輪にしたロープを
何十本も垂らし、探照灯を海上に照射して、漂流者のかたまりを目標にすると、

行き脚を止めて風の流れだけでそこにじわじわと近寄っていきます。
スクリューで人員を傷つけたりすることなく、艦の外周で同時に救助が行えます。
縄ばしごを自力で上がれるものは上がり、体力がないものはロープの先に体をくぐらせれば
甲板の「濱風」乗員が引っ張り上げてくれるというわけです。
海面から人がいなくなるともう少し艦を走らせ、発見すると再びスクリュー停止。

これを前川艦長は徹底的に、かつ執拗に行ったのです。
見張員が「海上に漂流者を認めず」と報告しても、「もう一度確認せよ」と返し、
一度では決して沈没地点の探索を切り上げることをしませんでした。
そして、救助の対象が一人、二人となってきても、見張員が声をあげるたび、
同じことを何度も繰り返し救助を続けたのです。

しかしこのやり方ではいつ敵に捕捉されるかわからず、気が気ではなくなる乗員もいました。
「濱風」の専任将校、武田光雄水雷長は、内心の不安からつい、

「艦長、もうそろそろこの辺で切り上げてはどうですか」

と急かすように具申したところ、作業の間中、椅子に腰掛けたまま泰然としていた艦長は
静かな口調でこう言ったそうです。


「水雷よ、ここに泳いでいる人達は、我々が助けねば誰も助けてくれないだろう。
それははっきりしている。 だが我々が救助の中で敵の攻撃を受けるかは、これは運だよ。
だったら最後の一人まで助けようではないか」 

武田水雷長はこのとき、今後は自分も艦長の言うとおりにやろうと心に決めたそうです。



「濱風」は最後まで救助中に敵に捕捉されることはありませんでした。



この前川万衛中佐が大尉時代のことです。
昭和10年に起こった「第4艦隊事件」のとき、乗り組んでいた
駆逐艦「夕霧」の艦首は、嵐の動揺によって切断されました。
同じように切断された「初雪」の艦首には機密が搭載されたため、
曳行が不可能とされた時点で第4艦隊はこれを雷撃で乗員もろとも沈めました。
「夕霧」艦首部も曳行が試みられましたが、やはり27名の下士官兵を乗せたまま
途中で沈没してしまったのでした。

「濱風」の航海長に、第4事件のことを話したとき、

「あの事件で大勢の兵隊たちを殺してから、俺は・・・」

と前川艦長は言葉を途切れさせたそうです。



冒頭写真の「濱風の碑」の後ろには、こんな文字が刻まれています。

「第二次大戦中作戦参加の最も多い栄光の駆逐艦であり、
数々の輝かしい戦果をあげると共に、空母蒼龍、飛龍、信濃、戦艦武蔵、
金剛、駆逐艦白露等の乗員救助及びガダルカナル島の陸軍の救助等、

人命救助の面でも活躍をして帝国海軍の記録を持った艦である。」



その「濱風」の最後の出航となった坊ノ岬沖海戦、「大和」特攻の前夜のことです。
「濱風」先任下士官が

「ネズミがロープを伝って陸上に上がっていくのを見ました」

と先任将校に小声で囁きました。
士官は先任下士に向かい、

「誰にも言うな」

と口止めしたと言いますが、実はこの不思議な現象はこの夜、
坊ノ岬沖海戦に次の日出撃する幾つかの他の艦でも目撃されていました。
動物の本能は、もうすぐ艦が沈むことまでを察知することができたようで、
事実「濱風」もこの海戦で戦没することになります。

「濱風」の最後は多くの生存者によって目撃されています。
4月6日、徳山を出港、7日、大隅諸島西方で敵機動部隊の攻撃を受け、
後部に大型爆弾が命中、航行不能となりました。
そこへ魚雷が船の中央部に大音響とともに命中したため、真っ二つとなって沈没したのです。


この慰霊碑の実に不思議な形は、彼女の最後の瞬間を想起させます。
轟沈した「濱風」の乗員は100名が戦死し、前川艦長始め256名が救出されました。 



米海軍アイスクリーム事情~ハルゼー提督とアイスクリーム艦

2015-02-14 | 海軍人物伝

わたしがいつぞやネットを探して古本屋で見つけた
元海軍主計中佐、瀬間喬著「日本海軍生活史話」は、旧海軍の「食」に関する
あらゆる資料が掲載されている労作(昭和60年発行)です。

食べることはある意味戦闘以前に軍隊にとって重要な一事であるため、
それらを司る役目である主計は重職であり、その元主計士官によって集められた資料は
海軍に留まらず
戦前の日本の「食」のあり方を窺い知る貴重な記録となっています。

んが、ありがちなことですが、実際のところ日本海軍は糧食、補給、廚業に対し
まともな関心を払わぬことが多かったようです。

この著者である元海軍主計中佐に言わせると、糧食に関することは主計科に丸投げで、
肝心の主計科士官たちの中でも、本流は会計経理に進むため、

衣食に携わる主計業務は蔑視に近い軽視という扱いを受けていたというのが実情だったそうです。

れでは陸軍はどうだったかというと、なぜか海軍よりずっとマシだったらしいのです。
2・26事件の首魁であった磯部浅一は一等主計でしたが、もともと安藤輝三大尉と同期の
歩兵であったのにわざわざ主計に転科しています。
その理由というのは、貧農家庭出身の磯部らしく、

「革命のためには、経済学を専攻する必要がある」

という深謀からきたものであったそうですが、いざ転科してみたら磯部大尉の意に反して
”飯炊き勉強ばかりやらされて”、というくらい廚業重視で本人苦笑、というものであった由。

今も昔も「海はグルメ」ということになっているのにこれはいかなることでしょうか。
食に対してこだわりはあってもそれをするのは下の者の仕事、という感覚?

瀬間元主計大佐は、このあたりの意識に甚く不満を感じていたようで、この本の後書きで、

「司馬遼太郎氏の『坂の上の雲』の中で『上は大将から下は主計兵に至るまで』
とあったが、いかにも主計兵が最下等のものであるようで快い気持ちはしなかった」

とうらみつらつら書いています。
司馬遼太郎が意識せずに、しかし深層心理のうちに

主計は兵科よりも下等なものであると認識していたのが現れたということでしょう。

しかし司馬遼太郎のような所詮権威主義の言うことはこの際置いておいて。
当たり前ですが、食は軍隊の最基本です。
食べねば軍隊は機能せず、それどころか戦わずして負けてしまうのです。

事実、後年南方に日本軍が進出していき、戦闘どころか根拠地で食料不足になったときに、
その壊滅を未然に防いだのは往々にして司令官ではなく優秀な主計士官でした。

現地との折衝や食料の自給、それらを計画指導し、主計士官が部隊を救った例は沢山あります。

そして艦艇生活での食。
それは選択の幅のできる陸よりずっと重要視されており、

従って海軍軍人に一番愛され人気のあったのは、他でもない給糧艦「間宮」でした。

「艦これ」ブーム以来、プラモデル会社の人々が一番驚いているのが
「間宮」の模型が売れることだそうです。
「間宮」は艦これ的にも愛されキャラとして絶大な人気があるそうですが、
それもこれも実際に彼女が海軍さんたちに深く愛されていたという史実からきています。


彼女の特徴のある一本煙突はそのままあだ名になり

「おお、一本煙突が来たぞ」

と、すべての軍人たちが・・・・それこそ上は大将から一水兵に至るまで、
「間宮」の来るのを待ち望み、大喜びでこれを迎え、昭和19年12月に
南シナ海で戦没したという報せには多くの軍人が涙したといいます。


つまり「間宮」は「士気を高める」という意味で戦闘に役立っていたのです。
本筋ではありませんが、もう少し間宮についてお話ししておくと、「間宮」は特務艦で、
軍艦ではないので、軍艦旗は掲揚していますが艦首に菊の御紋章はつけていません。



後部上甲板には一応もしものときのために肉牛の場があったそうです。

人もおらず、そもそも肉牛など乗せることもなく、結局一度も使われないままでした。
真水や氷などの配給も行う関係で、洗濯機がなく洗濯夫の乗っていない
駆逐艦などの艦のために、洗濯を代わりにしてあげることもできました。

艦隊のお昼ご飯はだいたい洋食だったので、「間宮」では毎日パンを焼いていました。
つまり、「間宮」が寄港した艦隊の乗組員は毎日焼きたてのパンを食べていたのです。

艦内生産をしていたのは有名な羊羹、最中、洗濯板と称するパン菓子、こんにゃく、豆腐。
そして今日話題のアイスクリームです。
「大和」にもアイスクリーム製造機があったという話を書いたことがありますが、
こちらの真偽は少々怪しいようで、冷凍室があったのだからアイスクリームも作れただろう、
といった程度の話であるようです。

もっともアイスクリームの作り方というのは簡単といえば簡単で、冷凍庫さえあれば
それで冷やし固めたものを手で2時間おきに練ればできあがるので、
(フランスの王宮の料理人は事実そうやって作っていた)「大和」でも
フランス料理を供する時などには大きなしゃもじで練って作っていたのかもしれません。

余談ですが、海軍の食事レシピは、供する相手が士官か兵かで微妙に変わってきます。
一言で言うと材料費と手のかかるものは士官にしか出しません。

昭和7年に海軍主計に使用されていたデザートレシピによると、

ベークドアップル・・・士官
ピーナッツボール(ドーナツボールのこと)・・・兵

マデルケーキ(マデル酒を入れたパウンドケーキ)・・・士官
ダンブリン(牛のケンネン油に粉を混ぜて焼いたケーキ)・・兵

といった具合に差がつけられています。
牛の腎臓周りの脂を「ケンネン油」といったそうですが、こんなものをお菓子にするか・・・。


普通、アイスクリームを作るときには生卵を熱さずに使いますが、
「間宮」のアイスクリームは食中毒の恐れがないように卵を使わず、
缶入りのカーネーションミルク(無糖練乳)を使用して作ってあったそうです。

もしかしたら「アイスミルク」のようなさっぱり系だったかもしれません。

「間宮羊羹、「間宮最中」とともにこのアイスクリームは廉価(皆お金を払って食べていた)
で供給するために大量生産を目標としていましたが、材料、製造法が
正直で真っ当であると艦外からも大変好評であったということです。


さて、というのは前置きで、本題に入りましょう。



アメリカ人というのはアイスクリームが好きです。

ある調査によると、アメリカ人のアイスクリーム消費量は平均年間一人当たり48パイント、
世界で最もアイスクリームをよく食べる国民だそうです。

昔は日本にはアイスクリームだけ売っている店なんてのはなかったのですが、
いつの間にかアメリカの「サーティワン」などが進出してきて、
モールのブース程度とはいえ、専門店が普通に並ぶようになってきました。

しかし、アメリカでは「アイスクリームだけ売っている」店が昔から普通にありました。
これはどういうことかというと、冬でもアイスクリームを食べる人がいたということです。

冬でも食べるのですから夏はもう1日一回はアイスクリームを食べずにはいられないようで、
息子の学校の近くのアイスクリームスタンドに、真昼間なのに老若男女
(車でないと来られませんから)が涼を求めてウィンドウに鈴なりになっています。
こういうのを見るたび、アメリカ人のアイスクリーム好きに感嘆してしまうのですが、
これは軍人であってもいささかも変わりなし。


アメリカ軍では、軍隊の士気向上のためにアイスクリームは不可欠と考えていました。
米国陸軍省が部隊の士気を維持するために不可欠な6項目をリストアップしたのですが、
そのうちの1項目は”アイスクリーム”だったそうです。

まじで。

日本人が白い米にこだわったように、アメリカ軍人はアイスクリームによって鼓舞されたのです。
ちなみにあと5項目がなんなのかは知りません。

陸軍には日系人部隊がありましたが、日系兵士たちもアイスクリームジャンキーであったらしく、
日系人による諜報部隊について書かれたサイトを見ていたら、

「生きた捕虜を連れて行ったら褒賞としてアイスクリームがもらえるように上に説得し」

などという文章が見つかりました。
・・・・この捕虜って日本人のことですよね?



そして、アメリカ海軍。

第二次世界大戦(アメリカの話なのでこう言いますね)のとき、米海軍は、
太平洋で戦う将兵たちのために、100万ドルを費やして
「アイスクリーム・バージ」なる船を作りました。
特務艦の一種ですが、その船の任務はただ一つ。

1,500ガロンのアイスクリームを作り、保存すること。

うーん・・・海軍軍人になってこんな船の艦長に任命されたらどう思うかなあ。
だいたいそんなもん本当にあったのか?とかなり疑問なのですが、
アメリカ人の間でもやはり眉唾扱いされているネタだそうです。
しかし幾つかの文献を当たったところそれはどうやら本当だったらしく1945年に就役し、
「世界初のフローティング・アイスクリームパーラー」と呼ばれていたとか。



その資料らしきものがこれなのですが、どうやら「ナショナル乳業」という企業が
宣伝も兼ねて軍の依頼を受けて作った船みたいですね。
アイスクリームだけでなく他のものも乗せていたみたいで、
1500ガロンではなく500ガロンとなってはいますが、いずれにせよ
この船を見守る兵隊さんの満面の笑顔を見ても、アメリカ人が

「アイスクリームがたくさん!ってことはアイスクリームバージだ!」

とはしゃいで名前を勝手につけたらしいことが薄々予想されます。

はしゃいだと言えば、なんでも戦争中、ある軍艦にアイスクリーム製造機が届き、
嬉しいのではしゃぎすぎて足を骨折、本国に送り返された兵士がいたというくらいでして。

どんだけアイスクリーム好きなんだよ。



間宮さんが人気があったのは特に駆逐艦にない設備が整っていたからでしたが、
アメリカの駆逐艦な野郎たちも

「大型艦にはあるのにうちらにはアイスクリームメーカーがない!不公平だ!」

 

と随分ご不満だったようで、こんな制度を考え出しました。

When destroyers picked up downed pilots they were rewarded with ice cream from the carrier, 
in one particular case, an squadron commander got a destroyer 25 gallons of ice cream :P. 


駆逐艦が海に落ちたパイロットを助けたら、空母からご褒美として
アイスクリームがもらえたというのです。

ある駆逐艦の航空隊指揮官は、25ガロン(約100リットル)
のアイスクリームを褒賞として受け取った、とありますが、
なんでもこの単位は、「助けたパイロットの体重分」という噂です。

いずれにせよ、人命救助のご褒美にアイスクリームとしたあたりにユーモアと良識を感じますね。


このサイトでついでに拾ってきたアイスとは関係ない話ですが、大戦中、
USSオバノンという駆逐艦は、
ある夜の航行で浮上していた日本海軍の潜水艦と遭遇しました。
オバノンはそれまで超近接した潜水艦相手に戦闘をする訓練を
したことがなかったので、
どうしていいかわからず、とりあえずジャガイモを投げたそうです。

日本軍の潜水艦乗員は手榴弾だと思って急いで駆け寄り、即座に投げ返してきました。
その後、息詰まるようなジャガイモの投げ合い・・・にはならず、
オバノンは急いでその場から離脱し、同時に潜水艦の方も沈んで逃げたそうです。



さて、というわけで縷々お話ししてきましたが、ようやく冒頭マンガについてです。
題材が題材なのでアメコミのタッチで描いてみました。(描線を増やしただけですが)

米海軍では空母や戦艦など、大きな船には必ずアイスクリーム製造機が装備されていましたが、
一台しかないので、アイスクリームだけは階級関係なしに並ぶことになっていました。
日本海軍はメニューの手間ですら階級差がありましたし、米軍も基本的にそうなのですが、

ことこのアイスクリームについては万民平等、水兵はもちろん提督であろうが一列に並んで待つべし、
と決められていたというのです。

全ての者はアイスクリームの前に平等である。てか?

ある日、その掟を知らず列の先頭に割り込んだ新米士官たち。
長蛇の列の中から大喝されてそちらをみると、声の主はハルゼー提督だったというお話。


このほかにも、自艦にアイスクリームメーカーを導入させようと、ドック入りのたびに
大変な熱弁を奮ってその必要性を訴え、ついにはそれを成し遂げた艦長がいたそうですが、
きっとこの艦長は、


「あの爺さんのためなら死ねる!」

というくらい乗組員一同の株と士気を上げたに違いありません。
これが負けず嫌いのハルゼー提督なら

「悪いが俺はまだジジイじゃないぜ」

と言われてしまうわけですが。

・・とにかく、どれだけアイスクリーム好きなんだよアメリカ人(呆)

 

 




越山澄尭大尉~「モレスビー沖に死す」

2013-12-11 | 海軍人物伝



■ 卒業

兵学校の卒業写真は、このように分隊ごとに撮られます。
21分隊の卒業生は7名、ここに越山澄尭がいました。
写真には間に合わなかったらしい分隊を除き、各自の自筆による
サインが添えられています。

前回、全体写真から越山生徒を特定しましたが、全く根拠がないわけでもなく、
 



この前列の紋付袴の生徒が、この分隊写真の越山と似ているというのもその根拠です。
皆さんはどう思われますか。

前回も書いたように、この21分隊には「真珠湾の軍神」である古野繁實がいて、
冒頭写真では後列左端に立っています。

古野は福岡出身、卒業時のハンモックナンバー(成績)は120番。
240名ほどのちょうど真ん中あたりにいたようですが、身体壮健で、
兵学校に当時の横綱網玉錦一行が訪問し、序の口力士と
手合わせ稽古をした際、
ほとんどが全く歯が立たなかった中で、
たった一人、
相手を上手投げで破る快挙を成し遂げたほどでした。


この分隊の伍長は地頭三義で、ハンモックナンバーは19番。
2号生徒のときのハンモックナンバーの上位36人が伍長として、
全部で36ある分隊を率いると言う仕組みです。

因みに第1分隊の伍長は中村悌次
「海の友情」をお読みになった方は、この名前を覚えておられるでしょうか。
戦後、名海上幕僚長として、米海軍と海自の友情の大きな立役者となった人物です。

その中村が、ヘンデルの「勝利を讃える歌」の流れる中、恩賜の短剣を授与せられ、
卒業生たちは「ロングサイン」に送られて練習艦隊に出航して行くのです。


“淡い生活4年も過ぎて ロングサインで別れてみれば

ゆるせなぐった下級生 さらば海軍兵学校 俺も今日から候補生”


■ 練習艦隊

7月25日、卒業式を終えた67期生は、練習艦隊に配乗しました。

そのころの情勢を少し説明しておくと、支那事変は三年目に入ったものの解決のめどはつかず、
国内では国家総動員法が成立、
逐次統制は強化され、物資は不足となりつつありました。

ちょうどこの頃、アメリカは突如日米通商航海条約を破棄
さらにはヒトラー率いるナチス・ドイツが同盟国締結を日本に迫ってきていました。
そしてそれを受け入れようとする陸軍と、
反対の海軍との間にも齟齬が生じ、
少尉候補生たちにもその不穏な世界の空気はひしひしと感じられました。



練習艦隊は「八雲」「磐手」の二隻をもって編成され、それに給炭艦「知床」が追随しました。
このとき「知床」の艦長だったが、のちにあの「キスカ救出作戦」の指揮を執った

木村昌福大佐(兵41期)

です。
このとき越山候補生は「八雲」に乗り込んでいます。

兵科候補生は、練習艦隊実習において、主に天測と当直(副直士官勤務)で鍛えられます。
この二つは初級士官として必須の資格条件であり、この練習航海を通じて絶え間なく、
かつ繰り返し演練指導されているうちに、シーマンシップと共に身に付いてくるものです。

天測にはやはり得手不得手があるので、

「当艦位置、現在奈良県猿沢池!」

ということになってしまう候補生もいたようです。(嘘でしょうけど)
そしてこのあと、前回お話ししたハワイへの遠洋航海があるわけですが、
この部分の記述にこんなのを見つけました。

「南洋諸島(ボナペ、トラック、パラオ)の寄港行事は、
ハワイと全く逆の地味なもので、土人踊りを見た程度であった」


ハワイでは現地在住の県人会などの日本人団体始め、行く先々で彼らは
熱烈な歓迎を受けましたから、余計にその差を感じたのでしょうが。
まあ、この頃(昭和58年)放送禁止用語とかありませんからね。

彼らはサイパンにも寄港し、現地の日本人学校の校庭で運動会をしました。
候補生たちと一日走ったりした子供や女学生を含むこれらの人々が、
その5年後にどんな運命をたどることになったのか・・・。
このときの候補生たちもそのうち182名が戦死し、戦争が終わったときに
残っていたのはわずか88名でした。


遠洋航海が終わり12月の年の瀬に横須賀に帰港したかれらは、艦隊配乗となります。

越山は「五十鈴」「五月雨」乗組後、潜水艦講習員として一ヶ月の講習を受けています。

昭和16年11月。
東条内閣は成立後情勢の再検討を実地した結果、
11月5日の御前会議で

「対英米蘭戦争を決意し、武力発動の時期を12月初頭と定め、
陸海軍は作戦準備を完成す。
対米交渉が12月1日午前0時まで成功せば、武力発動を中止する」

との方針を決定していました。
これを受けて大本営から作戦計画示達が出されました。

連合艦隊は11月7日、「第1開戦準備」(戦略展開)を発令、
11月13日岩国に主要指揮官、幕僚を集めて作戦計画を示達、
図演および作戦打ち合わせを実地しました。


この「図演」と言う言葉をわたしが知ったのは比較的最近のことで、
ある海上自衛官との文章でのやりとりの中で目に留まった言葉です。
英語では「ウォー・ゲーム」とか「ミリタリー・シミュレーション」といい、
「兵棋演習」自衛隊では「指揮所演習」と言うこともあります。

こんにち、大東亜戦争において大本営が行った図演の読みがことごとく甘かったのが
敗因であったということになっているわけですが、同じシミュレーションでも、
当ブログでかつてお話ししたこともある、「総力戦研究所」で行われた
「開戦シミュレーション」
は、昭和16年の開戦前において、日本の将来の敗戦をほとんど現実のままに予想していました。
この総力研に集められたのは、政治、軍ともにその中枢ではない
「オブザーバー」的視点を持った
若い人たちでした。

つまり、「認知バイアス」(軍人精神とかいう形の)がかかってしまった場合、
いかなる図演も、その的中率は格段に下がるということでもあります。

このときに驚いたのが、海上自衛隊ではこの図演をリアルタイムで行っているということ。

またその自衛官によると

「現代では図演も冷徹に行っていますので、ご安心下さい」

ということで、国民の一人としてはこの頼もしい言葉に胸を撫で下ろした次第です。


■ 開戦

ハワイ作戦を実地する潜水艦は、真っ先に展開を開始しました。
先遺隊の展開部隊は潜水艦乗組が15名。
そして、特潜2名
言わずと知れた古野繁實、そして横山正治両少尉です。

古野の乗った特殊潜航艇は、(広尾艇説もあり)7日23:30頃、
湾外でアメリカ軍の掃海艇に発見され、駆逐艦に撃沈されました。

これは、真珠湾空襲の4時間前で、日米海軍最初の会敵とされます。


一方、南方への侵攻も同時に開始され、海軍は主力空母を除いた
連合艦隊の大部分を展開しました。
この南方部隊に、越山は伊59で参加しています。
南遣隊の司令長官は、小沢治三郎
この隊の陣容は以下の通りです。


第24戦隊(24S) 特設巡洋艦「報国丸」「愛国丸」「清澄丸」
第11航空戦隊(11Sf)  水上機母艦「瑞穂」「千歳」
第4潜水戦隊(4Ss)   軽巡「鬼怒」
   第18潜水隊(18sg) 潜水艦「イ-53」「イ-54」「イ-55」
   第19潜水隊(19sg) 潜水艦「イ-56」「イ-57」「イ-58」
   第21潜水隊(21sg) 潜水艦「ロ-33」「ロ-34」
第5潜水戦隊(5Ss) 軽巡「由良」
        第28潜水隊(28sg) 潜水艦「イ-59」「イ-60」
        第29潜水隊(29sg) 潜水艦「イ-62」「イ-64」
        第30潜水隊(30sg) 潜水艦「イ-65」「イ-66」



開戦前、

「インド洋方面からイギリス海軍の有力部隊が
マレーに増強された」

という情報を得たためそれに呼応して、

当初フィリピン方面であった越山少尉所属の5Ss は、マレー半島沖に転用になりました。
12月9日、ここに配備されていた伊65が、イギリス戦艦部隊を発見し、
12月10日の「マレー沖海戦」の端緒を作りました。

その後第5潜水戦隊は南方部隊直属となり、
蘭印侵攻作戦に対する協力として、インド洋方面に進出しています。

越山の伊59は、17年の1月上旬、ダバオ(フィリピンミンダナオ島)
に進出、その後ポートダーウィン(オーストラリア)沖の監視に任じました。

第5潜水戦隊はその後2月下旬から一ヶ月、インド東岸、そしてセイロン島の
交通破壊戦を実施。この作戦で、商船数隻を撃沈しています。


17年4月頃の南太平洋の基地航空戦は激化しようとしていました。
中旬以降、台南空、4空(陸攻)、横浜空(飛行艇)が南太平洋方面に進出。

67期の笹井醇一中尉は、この25Sfで、山口馨、木塚重命の同期生と共に
4月17日以降、ラバウルからモレスビーに対する航空撃滅戦に参加し、
そのときの台南空の下士官で笹井の部下であった坂井三郎が、戦後この部隊の想い出を
「大空のサムライ」
と題して出版したため、図らずも笹井醇一の名は有名になりました。


越山中尉も、まさにこの笹井中尉と同じ方面、
主にモレスビー沖での哨戒、監視を呂33で行っています。

笹井中尉が8月26日、ガナルカナル攻撃で戦死しているのに対し、
越山中尉の戦死はモレスビー沖でその3日後の29日です。



■ガ島増援輸送作戦

この12月8日、すなわち真珠湾攻撃により日米が開戦した日に、
わたしは奇しくも海軍兵学校67期卒の市来俊男氏の講演を聞きました。

市来氏は航海士として「陽炎」で真珠湾に参加し、やはり「陽炎」で、
ガダルカナルへの一木支隊(一木清直大佐以下2300名)
川口支隊(川口清健以下1200名、総勢3000名)の輸送任務を経験しています。

この駆逐艦による高速輸送、夜間急速揚陸を、当方は

「ネズミ輸送」

と呼び、アメリカ軍は

「TOKYO EXPRESS」

と呼びました。
敵の方がよほどかっこいい名前で呼んでくれていますね。

この後軌道に乗った増援輸送は、9月に入って本格化しますが、
ガ島奪回を期した川口支隊を主力とする部隊は、集結が遅れたため
その作戦は失敗してしまいます。

この総攻撃支援作戦として、潜水部隊は8月下旬からソロモン南東、
そしてガ島周辺に展開していました。

越山中尉乗組の呂33は、8月上旬以降、
モレスビー沖の監視、哨戒に任じていましたが、
8月29日以降消息を絶っています。

潜水艦は極秘で任務遂行し、危急のときにも無線を発しないので、
殆どの戦没潜水艦は、いつ、どこで撃沈されたのか、それとも
事故によるものなのかわからないまま消息を絶ち、消息を絶った日を以て
その損失が初めて確認されます。

呂33潜もやはり同じように、その最後が誰にも知られること無く、
そのまま帰ることはありませんでした。

開戦一年にもならぬ内の戦死は、やはり同級生には無念であったと見え、

戦死の時期が早すぎたことは戦況の推移上やむを得なかったとはいえ、
かえすがえすも残念でなりません。

とある級友は、越山の早い戦死を惜しんでこう書き遺しています。
そして、

「情熱をうちに秘めた男、越山であるから、
その最後の瞬間もきっとそうであったにちがいない


と想像しています。

これは我々には頗る理解し難い評論で、

従容とその死を受け入れ泰然と微笑みつつ死んだのか、
それとも、天皇陛下万歳と怒号ののち果てたのか、

「情熱的なものを内に秘めたタイプ」

であれば果たしてどちらの死を選ぶのか、はっきり言って想像もつきかねます。

きっとこの同級生の脳裏には、彼と親しく兵学校で交わり、

彼の人間を良く知っているものであるからこそ想像しうる
「最後の越山澄尭の姿」というのがあったのに違いありません。


■ 「下駄を下さい」


越山が最初に兵学校に現れたとき、

「凄いのが来た」

と目を見張ったクラスの西村茂義は、鹿児島弁で語らい、
越山を「越山サー」と呼んで親しんだ親友となったようです。
「凄い」と思われたその越山は、西村にとっては、一度言葉を交われば実に人なつこい、
優しい心根に、誰もが彼に打ち解けてしまうような大きな心の持ち主でした。


最後に、越山の大人物ぶりを物語るこんな逸話をご紹介してかれの物語を終わりにしましょう。


先日も書きましたが、兵学校の教練に当たる下士官は、年齢は遥かに上のベテランでも、

軍隊の階級は兵学校学生より下になります。
ですから、教練で教員が命令を下すとき、

「誰々生徒はそのまま姿勢を正す!」

などという「不思議な三人称」を使うことになっていました。
勿論その他の状況ではまるで自分の息子のような青年に向かって、
教官は敬礼をし、敬語で上官に対するようにしゃべるのです。

そんな逆転した状況ですから、学生の態度によっては、
内心面白からぬ反感を持つ年かさの下士官もいたかもしれません。

そんな年配の教官であった某兵曹がある日、越山に
「あの」下駄をもらえないだろうか、とねだりました。


下駄とは「維新の遺物」と彼の第一印象をして評させた、あの、高下駄です。

彼が、件の高下駄を大事に新聞紙にくるんでチェスト(物入れ)の
一番底にしまい込んでいたのを、級友は覚えていました。
それもまた越山の几帳面な性格の一端をあらわす想い出として。


越山生徒が大将になるまで大事にしまっておきますから、ぜひ下さい」

越山が果たしてその下駄を、そのように所望した兵曹に本当に与えたのかどうか、
それはその同級生にも最後までわからなかったようです。



越山澄尭 大正7・7・3生

本籍 鹿児島市上竜尾町

位階勲等 海軍大尉正七位勲六等功5級

戦死年月日 昭和17年9月1日

戦死状況 昭和17年8月22日ラボール発モレスビー方面監視偵察に
     つきたるまま消息無く、敵艦隊を攻撃、反撃を受け戦没と推定
     昭和17年9月1日附戦死認定


 


越山澄尭大尉~海兵67期の兵学校生活

2013-12-10 | 海軍人物伝

昭和11年4月1日、江田島海軍兵学校に入学して来た
全国から選りすぐりの秀才たち245名の記念写真です。
その年の2月11日紀元節の佳日、彼らは待ちに待った

「カイヘイゴウカク、イインテウ」

という電報を受け取り、ここに集ってきたのです。
入校式までの一週間、身体検査、体力試験、服の試着、校内見学が行われますが、
恐ろしいことに、ここまで来たのに最後の身体検査で刎ねられ、
10名もが不合格となり無念の帰郷となりました。

いやこれ、あんまりじゃないですか。
いくら身体検査とはいえ、電報をもらってから天にも昇る気持ちだったのに、
ここで奈落の底に真っ逆さま。
何と言っても、家族や故郷の人々に合わす顔が無いとはこのことです。
唯の不合格などよりよっぽど罪深いですよこれは。




ここでいきなりですが、この67期が冒頭写真の三年半後、卒業の際に撮った写真です。

写真を撮る日に欠席したばっかりに上に丸囲みで「死んだ人」になってしまう、
という不幸な人が、昔からクラス写真には何人か必ず居たものですが、
この写真の二人は、なんというか・・・・ラッキーでしたね。


67期は248名の大所帯ゆえ、卒業写真も皆豆粒になってしまい、

誰がどこに居るのか、全くわからないわけですから。


しかし(笑)。



しかし、江田島の教育参考館に飾られている卒業生の写真には、
一人一人の名前がちゃんとわかるように表示されています。
わたしは兵学校見学をしたときにちゃんとこの67期だけ名前をチェックし、


後ろから三列目の左から5番目が、笹井醇一生徒

であることを突き止めたのである。(照れ)
関係なかったですねすみません。

それはともかく、この「入学前・卒業前」のビフォーアフター写真、
しつこいですがもう一度並べてみます。

使用前

使用後

いやもう、なんと言いますか、全体の空気からして違ってますね。
同じ制服や全員がぴしっと頭をまっすぐにしている所為もありますが、
3年4ヶ月の兵学校生活は若者をこれだけ変えたってことですよ。

あと一点留意していただきたいことがあります。
彼らの後ろに見える建物。
いかにもできたばかりらしく、白壁には一点の曇りもなく窓ガラスもピカピカです。
入校前の団体写真は、江田島の見学に行くと最初に立ち寄る、

大講堂の前の石段で撮られていますが、卒業時は彼らが居住していた生徒館前です。

67期生が2号生徒(3年生)になったとき、彼らが入校して来た昭和11年に
着工した新生徒館が完成し、彼らはその7月から、寝室と自習室を新校舎に移しました。

今も江田島にそのままの姿で(窓枠だけが取り替えられている)あるこの校舎に

初めて入居しそこで寝起きしたのが、彼らを含む65から68期までの学生でした。

わざわざ恒例の大講堂前ではなく新校舎前で撮影をしたのは、
この新築がこの学年に取って大きな想い出であったからでしょう。

 

越山のクラス、67期というのは彼ら自身の評価によるものですが、

「地味ではあるが全員の粒が揃っていて、お互いによく助け合う」

という美点を持っていたようです。

戦後俗に言われるところの「お嬢さんクラス」「ネーモー」(獰猛のこと)ではなく、
下級生を殴ることは比較的なかったようです。

実際にも、彼らは最高学年の1号生徒になり、新入生を迎えようとする頃、
わざわざクラス会を開いて「鉄拳制裁禁止」を決議しています。 

しかしそこは兵学校ですから(笑)
「新入生の娑婆気を抜く」教育はそれなりにみっちり愛をこめて行いました。
なんといっても彼ら自身試練を受けてきているのですから。


入校式まではやさしく見えた上級生は、その夜の
「姓名申告」「起床動作練習」で鬼と化します。
67期生徒が辛い4号生活をもう少しで終えるときに


「あと少しで何も知らない下級生が来ると思うと心が弾む」

なんて書いてるんですね。
この、初日のいかにも親切な上級生を装っている間、彼らの心境はまさに
赤ずきんちゃんをだまくらかすオオカミになった気分?
舌なめずりするというか手ぐすね引くというか、いずれにせよ、
あまり高尚とはいえぬインビなカイカンに打ち震えていたに違いありません。


上級生が下級生を「鍛える」ときの口癖とは次のようなものです。


「もりもり鍛える」
「言い訳するな」
「娑婆気を抜く」
「へばったような顔するな」
「待て!!やり直せ」(主に階段、廊下で呼び止めて)

「言い訳するな」はわたし、よく言いますね。息子に。
それはともかく、「お達示」の文句の典型は次のようなもの。

「言語道断」「もってのほか」
「多くは言わん。脚を開け」(殴るとき)

兵学校における、上級生と下級生、指導するものとされるもの、
そしてそういった関係には実に面白いものがあり、このことについては
またあらためてお話するつもりです。


当事の流行言葉も、生徒同士でよく使われました。

「じーっさい」(実際)

これは、前にも書いたことがありましたが、当時の流行語で、
兵学校に限らず、感嘆詞として使われたのだそうです。
何か可笑しいとき、パンパン手を叩く人いるじゃないですか。
(正直言ってあれ、わたしはあんまり好きじゃないんですけど)
ああいうときに

「じっさい!じっさい!」

というのが流行っていたんですね。


さて、入校式に続く入校教育では、初日に度肝を抜かれた新入生は
それまでの甘い夢は吹っ飛んでしまい、その厳しい訓練に悲鳴をあげることになります。

この入校特別教育とは、すなわち「陸戦」と「短艇」。
教官は下士官で、面と向かっているのになぜか三人称で命令してきます。

「越山生徒はそのまま匍匐前進する!」

こんな感じです。
兵学校の生徒は、入校した時点でこれら教官である下士官より
軍隊的には高い位を与えられているからです。

陸戦は、当時の中学生と言うのは教練という形で既に履修しているのですが、
短艇、つまりカッターはほとんどの生徒が生まれて初めての体験。
たちまち手に豆を作り、それが尻の皮とともに破けて血まみれです。

しかし、これは現在の防衛大学校においてもかわることなく行われており、
以前お話ししたことのある防大卒の方は、

「破れた皮が張ってくる頃またその皮がずるりと・・・」
「きゃああああ」

というホラー話でもしているような調子でその想い出を語ってくれました。

生徒館に戻れば室内、廊下、階段、至る所で1号の怒号の下に走り回り、
また「インサイドマッチ」(ぞうきんですね)の取り込みなど、
分隊内務に終われ全く息つく暇もないのです。

もしかして、これを読んだ防大関係者の方等は、

「現在の防大と変わりないじゃないか」

と思われるかもしれませんね。

ともかくこのカルチャーショックと肉体的な辛さのあまり、大抵の生徒にとっては

「4月3日に軍楽隊演奏会と夜桜鑑会があった、と記録が残っているが、
このころの生活があまりにも衝撃的で、この記憶を呼び戻せるものは殆どない」

というくらい茫然自失のひとときであったようです。
(ちゃんと覚えていて回想録に書いている生徒さんもいますから、
もちろん全員が全員そうだったというわけではありません)

兵学校のしつけ教育について目についたところを書くと、

「上級生は何とか生徒、クラス間は貴様、俺と呼ぶ」
「教官は何とか教官、と呼び、殿はつけない」
「です、ではなくであります、という」

「窓、カーテンの開け閉めは所定時間に定められた通り実施」

「帽子をアミダに被るな」
「軍服には常にブラシを当てる」
「靴の泥はすぐ取って磨く」
「事業服の紐は端が垂れないように結べ」

「食事のときは左手を膝におき、右で食べる。
ただしパンをちぎるときには両手」
「食器を手で持たない」
「ものを落としたときには自分で取らず賄いを呼んで取らせる」


一般社会のマナーとは少し違っていますが、片手で食事をするというのは、
全て後に艦隊生活をするということからきています。 

あとおかしいのは、

「デザートの羊羹は箸で切って食べる」

兵学校ではデザートに羊羹なんか出してたんですね。
羊羹用の小さなフォークなど無いので、こういう規則が出来たようです。

「酒保へ行くときは駆け足をするな」

生徒たちは次の課業に行くときには駆け足をせねばならず、
階段も駆け足で昇りは二段ずつと決められていました。
生徒たちは


「猛烈に腹が減り三度の食事では燃の足りず、
週末の酒保が楽しみで仕方がない」

というのに、その酒保に行くときだけは走ってはいけないというのです。
なんと無慈悲なお達しなのでしょうか。
というより、みんなが楽しみのあまり走るのでこんな規則が出来たんですね。 

 

指導監事の中山が入校時に

「遠洋航海を夢見て入校して来たと思うが、そんな夢は捨ててしまえ」

と檄を飛ばした話を前回しましたが、67期は
ともかくも海外への遠洋航海に行くことは実現しました。
その下の68期の遠洋航海は国内、69期からは開戦で中止になりましたから、
実質、海軍の歴史でこれが最後の海外への遠洋航海となったのです


昭和14年10月4日 横須賀を出発
   同 10月18日 ホノルル
     10月24日 ヒロ
     11月8日  ヤルート
     12月20日 横須賀帰港 


本来、兵学校の遠洋航海の行き先は、アメリカ、ヨーロッパ、オーストラリアを、
学年ごとに割り当てられていて、67期はアメリカの予定だったのですが、
ヨーロッパではすでに第二次大戦が緒に就いていたので、西海岸の予定を
半分切り上げた距離のハワイまで行くことになったのです。

67期卒、駆逐艦乗り組みで、「陽炎」の航海長で真珠湾に参加した、 
市来俊男(戦後掃海作戦に携わり、海上自衛隊)は、この遠洋航海の想い出を
こう語っています。

「真珠湾を通過したとき、まだ薄暗かったが、総員が甲板に上げられた。
そして、『入り口を良く見ておくように』と指導官が言う。
皆目を凝らしたが、その『入り口』は 暗くてよく見えなかった」

また真珠湾攻撃のとき酒巻和男少尉の特殊潜航艇を真珠湾まで運んだ
伊69潜に乗っていた山本康比久も、この遠洋航海のとき、

「お前たちのうちの数名は数年ならずしてまたこの灯を見るだろうから
よくスケッチしておけ」

と言われ、午前三時の薄明かりの中、沖3マイルから湾口をスケッチしています。

昨日の「軍神の床屋さん」でお話しした古野繁實、そして横山正治という
「真珠湾の軍神」は、二人ともこの67期です。
指導教官の言葉通り、そのわずか2年後、古野・横山を始め、
この山本も、再び真珠湾口を見ることになりました。

前述の市来の言によると、実際にそれが始まってから、
「ああ、あのとき」
と遠洋航海でのこの教官の言葉を思い出したということですが、それまでは、
そこに起こることのわずかな予感も芽生えなかったということです。

この67期の生存者たちの想い出を読むといつも不思議なのですが、
この、開戦二年前の海軍というのは、内部で一体どのようなことが想定され、
あるいは取りざたされていたのでしょうか。

真珠湾が成功したことの要因には、企図の秘匿と、機密保持
という二つのエレメンツがあると思います。

(アメリカ上層部が日本の作戦を事前に知っていたというのは定説ですが、
やはり現場はそんなことを夢にも知らず、結果的に奇襲成功したわけですから)

しかし、彼らによると、少なくとも67期生は2年前にそれを予感させるようなことを
指導教官から聞いているわけで・・・・・、それではその指導教官は、
一体どういう情報と確信に基づいて生徒たちにそれを告げたのでしょうか。



少し学校生活に慣れてくると、新入生の次なる試練は疲労と睡魔との戦いです。
そして若い彼らはいつも猛烈にお腹をすかせ、週末の酒保を首を長くして待ちわびました、
この頃には日曜も外出を許され、上級生と同じ生活になります。

兵学校の座学課業には「軍事学」というのもあるのですが、生徒の期待に反して、
これは「運用」として艦の模型で各部の名称を教わる程度でした。
兵学校ではあくまでも心身育成と教養の基礎習得が柱となっているからです。


67期生の回想禄は、当時を懐かしく回顧するものばかりで、歌ではありませんが
時は全てを美しく想い出に変えるとはいえ、やはり若さというのは従容として
どんな現実でも柔軟に受け入れるものだとこれらを読むと感じます。

彼らの想い出でとくに楽しいものとして残っているのが、
土曜日の夕方から上級生に連れられていく「短艇巡航」。
夜中海を帆走しながら上級生の体験談を聞いたり、
星空を眺めてロマンチックな気分になったり、かと思えば
鬼の1号が流行歌を歌いだすのを目を丸くして驚いたり。

夏の水泳特訓、そして待ちに待った夏休み。

休暇が始まる8月1日の朝、彼らは朝3時に起床します。
生徒は出身地も様々なので、全ての生徒が朝一番の汽車に乗るからです。

3時に起きると直ちに朝食。

このときにの朝食を全てたいらげたものは将来大物になる」

と言われているほど、皆食事もそこそこ、上の空。

東日本に帰るものは小用まで徒歩、ここから機動艇に乗り

呉桟橋に上がって呉駅にいき、一番列車に乗り込みます。
西日本組は、学校の出す船に乗って宮島の向こう岸から、山陽線の下りに乗り込みます。

この日列車は臨時増結され、期待と開放感で胸をはち切れんばかりにした
白い第二種軍装の群れを詰め込んで、彼らを故郷へと運んで行くのでした。


そして一ヶ月後、生徒たちは故郷での休暇を終えて帰ってきます。
皆またあの生活が始まるかと半ばどんより、しかし級友の顔を見て嬉しさ半分。


このとき、なぜか1号の機嫌が「すこぶる」悪いのだそうです。


 さて、昨日は67期の越山澄尭生徒の写真を挙げて、級友の語る彼の印象等を
語ってみたわけですが、この冒頭写真の中には、鹿児島一中から来て
「凄いのが来た」
と同郷の者たちの目を丸くさせた、その越山がどこかにいるわけです。

どこだと思われますか?

だいたいが詰め襟黒ボタンの学生服、学習院出身らしきボタン無しの上着あり、
学生帽に背広という制服もあります。(これは、東京の靖国神社横にあった九段中学です)

しかし、よく見ると、何人か、和服の者がいます。
このうちの一人が越山生徒であるはず、と思い、探してみました。



同級生の証言によると、かれは「黒い紋付を着ていた」。
そして、背が低かったということは、前列にいる可能性が高い。

このことから、この、真ん中の着物の生徒を特定しました。
羽織の紐が紋付の仕様になっている生徒は彼だけだったからです。
それだけが根拠です。
もしかしたら前列左から7番目の生徒かも知れません。(←いいかげん)

「維新の遺物」と見まごうばかりのオールドファッションなスタイルで
江田島に現れた越山生徒ですが、そのことを同郷のある生徒はこのように見ています。

小生の記憶によれば、彼の御尊父は確か、
ある神社の神主であるとか云うことであったが、
往時の薩摩兵児(鹿児島地方で,一五歳以上二五歳以下の男子のこと)
を思わせるような彼の服装の中に御尊父や御家族の
大きな慈愛がこもっていたのではないだろうか。
彼は(ママ)その服装で悠々慌てず臆せず遥遥文明の汽車に乗って

江田島まで来たときの気持ちが小生にはよく頷けた。


別のある生徒は、

どちらかと言うと無口で、とんがり気味の口から発する話し方も、
朴訥そのもののように思われたが、また、性温厚で非常に親切な人柄であった。

と彼をして評価しています。
同級生の越山を見る眼差しはあくまでも暖かく、深い尊敬に満ちています。


次回は特別にもう一項設けて、
越山澄尭が海軍軍人としてどのように戦い、どのように死んだかを
その戦歴から追ってみたいと思います。 

 
 


 

越山澄尭大尉~海兵67期の入校

2013-12-09 | 海軍人物伝

先日武道館で行われた自衛隊音楽まつり。
わたしはこの人気のイベントに1日二公演参加する僥倖を得、
一回目の公演が終わったときに息子をタクシーに乗せるため、
武道館に隣接する北の丸公園に沿った道を歩いていました。

一回目公演の音楽の余韻がまだ体内に興奮として残っているのに、
すでに次回公演への期待が高まっているらしいことに自分でも苦笑しながら
弾む足取りで歩き難い舗道を息子と進んでいると、
ふと目の端に、に引っかかったものがあります。

「兵」という文字。

普段このようなブログをやって、軍や戦争という事象に対して日常的に
アンテナを張り巡らせている目は、この文字を目ざとく識別していたのです。

それは、かつてここにあったという

「近衛歩兵第一聯隊跡」

の碑でした。

近衛歩兵第一聯隊は、日本最初の歩兵連隊として創設され、明治7年(1874)、 
明治天皇より軍旗を親授せられて以来、昭和20年、大東亜戦争の週末に至るまで、
71年あまりの間この地に駐屯して、日夜皇居の守護に任じ、
大正天皇、昭和天皇も皇太子であらせられたとき、それぞれ10年の長きに亘り
御在隊遊ばされた名誉ある聯隊です。

西南、日清、日露の各戦役および日華事変には、軍に従って出生して
輝かしい勲功を樹て、大東亜戦争においては、帝都防衛の一翼を担いました。

これら近衛兵には、毎年の徴兵検査で
全国から厳選された優秀な荘丁を以て充てられたということです。


海軍兵学校67期、越山澄尭の祖父、越山休蔵は戊辰戦争以降、
「西郷隆盛の近衛兵」として、遡っては西南戦争をともに戦い、
子々孫々の誇りとなっている人物です。


わたしが越山澄尭の親族であるY氏から連絡をうけたのは、
この音楽まつりのことを集中的にエントリに挙げている最中のことです。
まるでその近衛兵の碑が引き寄せたようなその偶然の符号に、
わたしがそうであったように、Y氏も因縁めいたものを感じたそうです。

越山の甥であるというその人にとって曾祖父にあたる越山休蔵は、
西南戦争では第七隊長として官軍と戦い、その後少数精鋭の近衛に選ばれました。
西南の役を通じてそれだけ西郷に近かったためであろうと思われます。



「坂の上の雲」と並んで評価の高い司馬遼太郎の長編小説、

「翔ぶが如く」は、西郷と大久保利通が主人公であり、征韓論、明治6年政変、
やがて西南戦争へと向かう歴史の流れが俯瞰で描かれていますが、
この小説によると、 征韓論に敗れて西郷が下野した時、
直属の部下たちは揃って、近衛帽をお堀に投げ捨てて鹿児島に戻りました。

越山の家系には、休蔵がやはりそのようにして帰鹿したことが言い伝えられています。





全国数千人の受験者のなかから厳しい入学試験を経て選ばれた海軍兵学校67期生が

その燃ゆる若い希望に胸を躍らせながら江田島に集まって来たのは、
昭和11年三月末のことでした。
桜もまさに綻びんとすることで、かれらは入校式の二日後の4月3日、
海軍軍楽隊の演奏をその桜散る生徒館の中庭で鑑賞しています。
そしてその夜は「夜観桜会」が催されました。

ある67期生徒がその演奏会のことを後に書き残しています。

「軽やかなワルツや胸躍る行進曲を演奏する軍楽隊員の肩に、
ひっきりなしに桜の花びらが降り掛かっていた・・」

しかし、江田島の潮風はまだまだ春と呼ぶには冷たく、
中でも南国から来た生徒たちは

「どうも、寒いなあ」

と頷き合っていました。
もう気の早い人は袷(あわせ)を脱ごうかという気候であった鹿児島から来た
「兵学校の薩摩隼人」たちです。


この67期にも、248名の入学者のうち30人が同郷がいました。
最も出身者が多い東京の39名に次ぐ人数です。
なかでも、鹿児島一中、二中は出身者が多く、

東京府立4中・11名
鹿児島二中・8名
鹿児島一中・7名

と、両校出身者を足すとそれだけで同県出身者の半数になりました。

鹿児島というのは偉人西郷を生み、また軍人を多く排出しています。
そして実際にも西郷に仕えた軍人である越山休蔵の孫がこの67期に入学していました。
それが、越山澄尭です。

最初に越山生徒を見た同郷の生徒たちは目を見張りました。
それほどにこの生徒の第一印象は一種異彩を放っていたのです。

人一倍小さな身体、そして鋭い目をした精悍な面。
兵学校にやってきたときのかれのいでたちは、木綿の黒紋付に、
棕櫚の鼻緒の下駄を素足につっかけるというもので、

「ものすごいのが来た」

ある同郷の級友は最初の越山の印象をこのように記憶しています。
内地の南端とはいえ、昭和の文明の空気を吸った彼ら同郷の者にさえ
その風体は異様なものに思えたといいますから、
ましてや都の水に産湯をつかった「都会っ子」たちには、越山の姿は
もしかしたら「維新の遺物」と思われたかもしれません。


「男尊女卑」とも言われることもあり、平成の世である今でも
全国的にはバンカラのイメージがあるのが
薩摩隼人ですが、
一中時代の越山は、絵に描いたような「バンカラスタイル」
を押し通していました。

バンカラのバンは蛮、と書きます。
西欧風の「ハイカラ」をもじって出来たもので、ハイカラがこぎれいなお洒落なら、
バンカラは悪ぶったお洒落(と言えるのなら)で、一高生が流行の発信源でした。

定番のバンカラスタイルとは、弊衣破帽で、腰に手ぬぐい、高下駄、という、
そう、昔あった歌、かまやつひろしの「我が好き友よ」そのままです。

ワイシャツに似た木綿の白シャツに着物、そして袴に高下駄。
彼が、高下駄で「大いに短身をカバーしつつ」肩をいからせて歩く姿には
一種独特の風情があった、と級友は語り、
なかでも同郷でやはり鹿児島一中出身のある同級生は、

「その姿が印象的で今でも目の前にちらつく」

と戦後書き遺しています。 

入校式も終わり、入校直後の訓練が始まるにあたって、
67期指導官付きであり運用を任ぜられた指導監事の中山定義は、
彼ら67期生を海岸の松並木に集め手に訓示をしました。

「君たちはスマートな制服と短剣に憧れて、また遠洋航海で外国へ行ける楽しみ、
中には未来あの大臣、大将を夢見るなど、いろいろな動機で入校して来たことと思う。
しかし只今限り、そんなことは全部忘れてしまえ。
諸君は『太平洋の藻屑』とはっきりと覚悟せよ

以前このことを書いたとき、わたしは生徒たちが軍組織の非常さに
まるで背に水を浴びせられたような気がしたのではないか、と述べました。
しかし、あれから、当時戦いに身を投じた青年たちの様を、
残された文献や資料から見て来た今、一概にそうとも言えない気がしています。

この檄を飛ばした中山自身、戦後になって、その67期生に向け、

「当時私は30歳そこそこ、それは私自身の覚悟であり、国策の向かうところ、
米国海軍を目標としてその必然的宿命を予感しつつ猛訓練に精魂を尽くしていた
青年士官全員の心意気であった」

とかつての自分の心情を、弁解というわけでもないでしょうが、こう吐露しています。
おそらく越山ら、数千人の中から選ばれし者の自覚と誇りを持ってここに在った
67期生の生徒たちもまた、当時の風雲急を告げる世界の状況を
我が身のものとして、
祖国の急に身を投じる覚悟は、ある程度できていたことでしょう。


勿論、若さ特有のオプティミズムゆえに、自分の死を観念としか捉えておらず、
この訓示によって初めて現実に触れ、文字通り水を浴びせられる思いをした生徒も
少なからずいたかもしれませんが。



67期の入校式にあたり、出光万兵衛校長はこのように訓示しました。

「諸子を花に譬えれば、すみれあり、タンポポあり、れんげ草あり千差万別、
夫々に特徴はあるものの、本校において育成培養するところのものは、
かの朝日に匂う山桜花である」


「桜花」とは我が身散らすという意味において「海の藻屑」と即ち同義です。
ある生徒は「それでは自分を今譬えれば何の花であろうか」
と自問せずにはいられなかったそうです。

しかし、いかに戦雲急な時代とはいえ、教育機関の長が、
その面立ちに子供っぽさすら残した青年たちに、

潔く死ぬことを目標とせよと訓示するとは・・・。

江田島教育と言うのは長期的にはその後に続く海軍生活に必要な心身、
学術の基盤造りを目指し、短期的には少尉から大尉までの少壮士官を想定し、
一旦急あれば身命を顧みず勇猛果敢に戦う敢闘精神を養成し、
同時にこれを支える強健な身体を造ることを目指したものでした。

一度、作家の丹羽文雄が従軍し、「鳥海」に乗り込んで
ソロモンの夜戦を経験し書いた小説「海戦」を扱ったことがあります。
そこでわたしが心に残ったのが、丹羽が驚嘆した、
兵学校出身士官たちの徹底的とも言える「生の放棄」でした。

死に対する覚悟は、一応付いているつもりだ。(中略)
私はすでに自己放棄をやっている。
然し、死に関しては現実的に軍人にかなわないのだ。
軍人の示す完全な、おそろしいほどな自己放棄には、時間がかかっていた。
偉大な訓練の結果であった。


丹羽の言う「おそろしいほどな自己放棄」とは、遡れば海軍兵学校の入校の日、
自らを桜花に喩え、海の藻屑になることを覚悟せられた、この67期生のように、
海軍兵学校の教育を通して培われていったものと思われます。


 さて、越山澄尭は、入校教育の一環として、
4月12日に、呉の潜水艦学校を見学しています。
このときに彼が潜水艦勤務になることを何か予感したか、
あるいはこのときにその志望となる萌芽が心中発したか、

それはわかりません。

越山は1号(最上級生)のとき、21分隊で、
同じ分隊に、昨日エントリに挙げた古野繁實生徒がいました。

このときには自分の進路を内心決めていたでしょうから、
古野とそして越山は、同じく「どんがめ乗り候補」として、
お互い将来のことを話し合ったものと思われます。

そして、古野は昭和16年12月8日、開戦の当日、真珠湾に特殊潜航艇で突入し、
「真珠湾の軍神」となりました。

それから8ヶ月後の昭和17年、越山の乗り組んだ呂33潜は、
モレスビー沖で消息を絶ちました。
越山の戦死したのは呂33が消息を絶った8月29日とされています。



桜は桜でも、人知れず山に咲き、美しい盛りで誰にも賞賛されること無く散る山桜。
入校当時の彼が何の花であったかはもうすでに知るべくもありませんが、いずれにしても、
兵学校卒業後、越山は見事な山桜となり、そして散ったのでした。
 

 


越山生徒が入校して卒業するまでの67期の海兵生活について、
もうすこしだけ続けてみたいと思います。

 

 

 

 

 


軍神の床屋さん~真珠湾特殊潜航艇・古野繁實少佐

2013-12-08 | 海軍人物伝

古野繁實海軍少佐。
海軍兵学校67期、昭和16年12月8日、
特殊潜航艇乗組としてハワイ真珠湾の攻撃に参加、戦死。
死後二階級特進。


今日は12月8日。
真珠湾攻撃から今年で72年が経ちました。
このときに行われた航空機動部隊による攻撃は様々な媒体で語られますが、
そのときに真珠湾に突入した特殊潜航艇5隻の戦果は、
はっきりしたことが未だにわかっておらず、学者の研究対象になっているほどです。
それらは真珠湾を語るとき海面での戦闘に比べて語られることはありません。

しかし当時、このときに潜航艇で突入した潜水艦部隊の9人は、
生きて捕虜第一号となってしまった酒巻和男少尉を除き、
「真珠湾の九軍神」
として何よりも大々的にその功績を喧伝されました。

わたしは、時折情報チェックのために聴く、我が家の「ゆうせん」の
「軍歌・戦時歌謡」チャンネルで、「大東亜戦争海軍の歌」の二番、

あの日旅順の 閉塞に
命捧げた 父祖の血を
継いで潜つた 真珠湾
ああ 一億は みな泣けり
還らぬ五隻 九柱の
玉と砕けし 軍神(いくさがみ)

というのを聴くたびに、

「これがもし酒巻少尉も戦死して軍神が10人だったら、この歌詞は
どうなっていたのだろう。
九柱は語呂がいいけど、十柱は「とばしら」とでも読ませたかな」

など、とてつもなくどうでもいいことをつい心配してしまうのです。


結果に過ぎませんが、「9人」というのは据わりがいいというか、
「軍神の数」としては10人より「様になる数字」ではないかというか。

さて、今日お話しするその九軍神のうちの一人、古野繁實少佐は、兵学校67期です。
特殊潜航艇のこのときのメンバーは、隊長岩佐直治中佐が、65期。
66期がなく(松尾敬宇中佐は66期)古野少佐と横山正治少佐が67期、
広尾彰大尉と捕虜になった
酒巻少尉が68期です。


特殊潜航艇のチームは、開戦時、大尉、中尉、少尉、という、
軍隊的には「実働隊」と言うべき若い士官が指揮官となりました。


その67期に、わたくしエリス中尉の敬愛する笹井醇一少佐がいることもあり、
このクラスについては当ブログで何度か記事にしてきました。
あるとき、兵学校67期であった親族をお持ちだという方、Y氏が、
インターネット検索によってそんな記事から当ブログを探し当て、

「海兵67期がどんな環境で学んでいたか教えていただけないか」

というご依頼をしてこられました。

その親族に当たる海軍軍人とは、潜水艦勤務で、ラバウルで戦死した

越山澄尭海軍大尉と仰る方なのですが、まず、越山大尉とクラスメートである、
この古野少佐の物語を、真珠湾攻撃の日に再掲させていただくことにします。


越山大尉の親族であるY氏は、67期の潜水艦乗りが、開戦までの間どうすごしたか、
そして同期の「軍神」になった同じ「どんがめ仲間」の古野中尉の戦死を
どのように見たのかの片鱗を、拙文より読み取っていただけますと幸いです。

なお、越山大尉について、一項を設けてその戦歴と級友の回想から、
在りし日の大尉の面影らしきものに迫ってみました。

近々アップしますので、これもご笑覧ください。




1941年12月8日。


真珠湾攻撃が航空機を主力とする機動部隊によって行われたとき、
同時に五艇の特殊潜航艇が湾内に突入しました。

生きて捕虜になってしまった酒巻和男中尉を除いた九人の戦死者をだれが言い出したか
(海軍当局の発表には軍神の文字はない)
「九軍神」
とマスメディアは高らかに謳い、国民は熱を帯びたように彼らを讃え、憧れ、世に言う
「軍神ブーム」が起こりました。

人々は競って、学校の生徒は教師に引率されて軍神の家に詣で、礼拝しました。
新聞記者は遺族に頷けばいいだけの問いを投げかけ、その答えが麗々しく紙面を飾り、
その家族は涙を見せることもできなかったといいます。




まだまだ実戦には不備が多く、時期尚早というほかないこの潜水艦での攻撃を
よく言われるように

「最初から戦果が期待されず、かつ生還を期さない特攻作戦で、
戦争突入の象徴として死んで軍神となる」


ことが目的だったということを、
当の彼らがどのくらいその覚悟の裏に感づいていたかは今となっては謎です。


なぜならこの計画を生みだしたのは彼ら自身とも言えるからです。





古野繁實中尉は福岡県遠賀に生まれました。
実家は里山を抱え込んだ広大な屋敷を持ち、代々庄屋をつとめた旧家。
六人兄弟の三番目で親の期待を一身に受けていました。

兵学校を卒業し潜水艦に配せられた古野少佐は、
同じ「どん亀乗り」の仲間と呉で下宿を始めました。

67期のほとんどがそうであったように、このとき少尉だった彼らは人生でおそらく
「最も楽しい時期」を過ごしたのでしょう。
航空ほどではなかったかもしれませんが、開戦前の六五期前後の若い海軍士官は
どこにいってもММ(モテモテ)だったといいますから。

呉で下宿を探し始め「その辺のたばこ屋のおばさん」に聞いて
紹介してもらった家に住み始めた彼らは、
そのたばこ屋の隣にあった
「ナイスな女床屋さん」のいる床屋のお得意客となりました。

このきれいな床屋さんを、古野少尉はいたく気にいっていたようです。

同期の松下寛氏の戦後の回想―

「開戦前のある日、呉の床屋で古野君と会った。
彼は床屋の彼女に思し召しがあったらしく、
彼女の理髪する順番が廻ってくるまで、いつまでも待っていた」



古野中尉が特潜に行ったのは昭和16年の春のことでした。

潜航艇のメンバーの一人、酒巻少尉は、
受け取った転勤命令が暗号電報だったことに驚きます。


「たかが一海軍少尉の転勤に・・・」


そして、士官10人、下士官12人の

「その存在そのものが秘密兵器である甲標的搭乗員」


は、帽振れで送られることなく、元の配置から密かに姿を消したのです。
軍艦千代田に集められた
その中には「平和への誓約」の主人公、
シドニー湾に特殊潜航艇で突入し戦死した松尾敬宇大尉の姿もありました。


真珠湾への甲標的突入は、当初訓練にいわば「無聊をかこつ」日々の中で、
搭乗員岩佐大尉を中心に自然に発生し、それを彼らが若さの情熱で具申し、
司令部詣でを繰り返した末受け入れられたということです。



生還の望みがないことを理由に、山本五十六司令長官は、
最初甲標的の参加を許可しませんでした。

さらには主力を自負する機動部隊方面からは

「甲標的にうろうろされては相手に気づかれるおそれがあるし、
もしそうなれば急襲が難しくなる」


という理由で、作戦そのものに否定的な意見が出されます。


しかし死を覚悟で作戦への認可を訴える若者の情に、
山本長官は最後にはついに

「ほだされた」
ということになっています。

この特殊潜航艇について全ての人が持つのは
「なぜ」
「何のために」
十人もの人間の生命と引き換えにするにはあまりに杜撰で無謀な、
かつ戦果の見込めない突入が行われ、
かつ機動部隊の華々しい成功者ではなく彼らが軍神となったのか、
という単純な疑問ではないでしょうか。


ここで思い出すのが「天一号作戦」、大和特攻を伊藤中将に説得した草鹿中将の言葉です。

「一億特攻の魁となっていただきたい」


成功の見込みの無い無謀な作戦に首を縦に振らなかった伊藤中将が
この一言で作戦を受諾したのです。

冷徹な作戦遂行の結果敗して死するのと、象徴としての死を最初から目的に戦うのと―

同じ死するのでも後者の死により意義があるという選択でしょうか。

死ぬことで後に続くものの精神的支柱、殉国の象徴となる、というのは
殉教者の真理であり、あるいはこれが当時の軍人の理想であったのかもしれません。



古野中尉は自分の任務についての一切を同居のクラスメートに語りませんでした。
新配置について一カ月後、かれは下宿を引き払います。

「当時はまだ真珠湾の計画はできていなかったと思われるので
彼自身に運命の切迫感を感じさせるものはなかったであろうが・・」

同居していたクラスメートの今西三郎氏はこう懐古します。

しかし、甲標的の何たるかと、その性能や目的などを目にしただけで、
おそらく古野中尉の中にはある覚悟と確信―
―自分は近々確実に死ぬであろうという確信が
芽生えていたことは想像に難くありません。

「貴様らのように命は永くないよ」

古野中尉がこうつぶやくのを今西氏は耳にしています。


そして、その言の通り古野少佐が軍神となってからのことです。

松下氏は前線帰りの髪を刈りにいつもの床屋に出かけました。
古野中尉がお気に入りだった美人がいる床屋です。

古野中尉が

「いつまでも自分の髪を刈ってもらう順番を待っていた」

のは、任務に就く直前のことだったのでしょうか。
それとも下宿を引き払う時だったのでしょうか。

いずれにしても、そのとき、古野中尉は気に入っていた女床屋さんに、

心の中でひそかに別れを告げたに違いありません。


その女性が、松下氏を見るとこう話しかけてきました。

「十二月八日真珠湾に攻撃をかけた特別攻撃隊の九軍神の中に
古野という名がありましたが、
わたしがいつも頭を刈っていたあの古野さんと同一人物なのですか」


そうだ、と松下氏が答えると、彼女は今更のように自分の手をじっと見つめ、
思いだそうとするかのようにしばし瞑想し、その後こう呟きました。

「あの人がねえ」










目黒・防衛省~西郷従道の「いいかげん」

2013-09-25 | 海軍人物伝

およそ帝国海軍に興味を持つ者ならこの西郷従道の名を一度は見たことがあるでしょう。

西郷従道(さいごう・じゅうどう)。
天保14年、1843年、薩摩の国鹿児島の生まれ。
陸軍、海軍軍人、政治家、元老。
西郷隆盛を「大西郷」と呼び、こちらは「小西郷」と呼ぶ。

陸軍軍人だったり海軍大将だったり、こんなことがありうるのか?

とついこの経歴を見て思ってしまうわけですが、それもこれも西郷は
維新期に尊王攘夷に身を投じ、勤皇倒幕の志士から維新幕府の立役者、
という超大物で、軍制を渡欧して視察し、日本にその基礎を敷いた人物。
陸軍も海軍もその手で作ったようなものですから、当たり前と言えば当たり前なのです。


というわけでこの、幹部学校所蔵の西郷従道の揮毫です。

何が書いてあるのか全くと言ってほどわからんのですが(笑)
こんなこともあろうかと幹部学校によってつけられた説明を見てみると

「幾歴辛酸志始堅 丈夫玉碎愧甎全
      一家遺事人知否 不為兒孫買美田」 侯爵 西郷従湘 書

とあります。

ろくに筆も持てない者が言うことではないですが、この書・・・。
少々崩しすぎではないでしょうか。
闊達で自由自在な筆運びにはリズムがあり、実に芸術的であるということは
素人目にもはっきり理解できるのではありますが。

この書が、西郷従道という人物の、どこか人を食ったような、小事にこだわらない
「超大物ぶり」の片鱗を伝えているという気がするのは、この人物の
いろいろと「突き抜けた」逸話のせいでしょうか。


それはともかく、この書の意味です。

「甎全(せんぜん)」という意味が分かれば、だいたい理解できる内容ですね。
というわけで、幹部学校のHPによると、

甎全:何等世のため尽くすことなく生き長らえること。
瓦のようにつまらぬものとなって生命を全うする意。(瓦全)

つまり、実際の西郷従道の一生とは真逆です。


幾歴辛酸志始堅・・・・・幾度か辛酸を経て、志始めて堅し。

丈夫玉碎愧甎全 ・・・・丈夫玉砕して甎全(せんぜん)を恥ず。

一家遺事人知否・・・・・一家の遺事人知るや否や。

不為兒孫買美田・・・・・児孫(じそん)のために美田を買わず


最後の一文が有名なこの文は、従道のお兄さんである南洲公、西郷隆盛の
西郷南洲遺訓 五条 です。

人は幾度か人生の辛酸を嘗めて初めて、その志を堅くすることができる。
男子たる者は玉と砕けるを旨とすべきで、その辺の瓦のような生き方は恥とすべきである。
家への遺訓を人は知るかどうかはわからないが、
子孫のために巨額の遺産を残すようなことはすべきではない。

もう少し上手い訳もあると思いますが、とりあえずこんな感じでしょうか。

富というものは世界的な常識として子々孫々に受け継がれるべきものです。
しかし、武士道の言うところの「御家繁栄」は、決して資力資産のことではない、
ということがこの「児孫のために美田を買わず」という一言に集約されています。


こういう一文に触れると、改めて日本の武士道とは即ち求道の精神であり、
そんな精神を受け継ぐ日本人であることが誇らしく思えます。


ところで、話は変わりますが、横浜市中区に森林公園という広大な公園があります。
ここは昔根岸競馬場があったところで、今でも往時のスタンドの一部がツタに覆われて建っています。
そしてかつてレーストラックだった公園のその一角には、「馬の博物館」があります。

馬に関する歴史的な資料を公設、臨時と合わせて見ることができる博物館で、
少し前はここで余生を送っている馬に乗らせてもらったりするサービスもありました。

この史料館に飾られている一枚の「ポンチ画」をご覧ください。



馬に乗っているのが、本日主人公の西郷従道。

横浜には居留地があり、在留外国人のために文久年間から競馬が行われていたのですが、
1866年、ここ根岸に本格的な競馬場が作られました。
完成と同時に各国の公使館員や民間人が「レースクラブ」を結成し、
競馬が恒常的に行われるようになったのです。

外国人ばかりであったクラブに西郷は1875年(明治8年)、日本人として初めて
会員となり、また馬を4頭所有する「馬主」になります。
当時は馬主が騎手を兼ねることもしばしばだったのですが、なんと西郷従道、
何の酔狂か、ある日愛馬にのって800mのレースに出場し、見事優勝をさらってしまいました。

このころ西郷は陸軍中将になったばかり、とはいえ若干32歳の血気盛んな若者です。
ポンチ画にされるほど驚くことでもないような気もしますが、
やはり日本人がジョッキーを初めて務めた、というところにニュース性があったのでしょうか。

それにしても、この西郷の顔、なんでこんな風に描かれているのだと思います?
新聞のタイトルは

「Mikan wins!」

つまり、西郷のこの時に騎乗した愛馬の名前が「ミカン」であったということから、
外国人絵師が面白がってこのようなポンチを制作したのです。

この、眉毛の太い、くっきりした顔立ちの特徴をよく捉えていますね。


ところで、西郷従道、本名は隆興(りゅうこう)です。
昔の人は名前を変えるのが通例だったとはいえ、どうして成人名を変えることになったのか。

西郷は維新後、明治維新政府の太政官(国会議員のようなもの)に名前を登録することになり、
登記係に「りゅうこう」と口頭で告げました。
しかし、お国訛りの薩摩弁のアクセントのせいか「じゅうどう」と係員は聴きとったのです。

ここからが問題です。

登記係はそのとき「じゅうどう」に「従道」という漢字を当てはめ、西郷も
「なら従道でいいや」
と言って、それ以降自分の名を「従道」にしてしまったというのです。

どういう漢字を書くのか聞きもしないで勝手に人の名前を書いてしまう係も係ですが、
また書かれた間違いをそのまま自分の名前に採用してしまう西郷も西郷です。

思わず眉に唾をつけてしまいそうなこの話の真偽は、もはや正すべくもありませんが。


この頃は、大層な紙に大層な筆でこう言った名簿を作成していたので、

「え?間違い?困るなあ~。他の人の名前も書いてある名簿なのに、朱墨いれるわけにいかんでしょ~」

みたいなプレッシャーを与えられ、

「あ、それならもうそれでいいです。ってか、結構気に入ったからこの名前で行きます」

と弱々しく応えてしまったとか・・・・・この人に限ってそれはないかな。
むしろ、この話からは小事に拘らない(拘らなすぎる?)西郷のおおらかさというか、
いい加減さが垣間見えます。


西郷は、最初にも言ったように少し人を食ったようなところがあったようです。

ある会議で閣僚の一人がわかりきったことをくだくだとしゃべるので場は行き詰まり、
皆がうんざりしていたとき、その隣にいた西郷は、件の閣僚が腰かけようとしたときに
椅子を引き、尻餅をつかせてしまいました。
一同笑いに包まれ、尻餅をつかされた閣僚も苦笑いして空気はすっかり変わったということでした。

こんな小学生のようなことを、いいおっさん、しかも国家指導者がするというのも驚きですが、
逆に言うとこのようなことをされても怒る気になれない、西郷にはそんな憎めなさがあったのでしょう。

大西郷である兄の西郷隆盛が人格の器の大きい人物であったことは知られるところですが、
小西郷の従道も、上に立つ人間としては非常に鷹揚で「人に任せる」ということを知っており、
たとえば山本権兵衛を信頼したらとことんすべてを任せ口は出さず、
それがあって山本は日清日露戦争でその腕を振るい海軍の基礎を強固にすることができた、
と言われています。

山本権兵衛の甥にあたる山本英輔(海軍大将)は、

「あんな悍馬(かんば、暴れ馬、山本権兵衛のこと)を乗りこなす大臣はめったにいないからね」と、

西郷の「手綱さばき」を称賛していたということです。

「人を使う」ことにも、西郷はいい意味の「いいかげん」を発揮したのでしょう。
これはと思った人物に全てを任せ、任せたらあとは自分の眼力を信じて好きにさせる。
山本権兵衛という暴れ馬を(ミカンのように)乗りこなし、西郷は日露戦争というレースに勝つことができたのです。


その日露戦争を勝利に導いた旗艦「三笠」ですが、まさに日清戦争後、ロシアの脅威に備える形で
「六六艦隊計画」の一環としてイギリスに発注されたものでした。

請け負ったのはヴィッカーズ社です。
ところが発注の段階で海軍の予算が尽き、ヴィッカーズからは手付金を払わないと発注を取り消す、
と催促してきたという経緯がありました。

そのとき困った山本権兵衛が西郷に相談したところ、西郷と樺山資紀は一緒になって、

「別の予算を流用して三笠を造れ。咎められたら三人で腹を切ればいい」

と、いいかげんなことを言いだしたということです。
いつの間に俺まで腹を切る仲間にしてんだよ、と山本は内心思ったに違いありません。

それはともかく、このいい加減な対処を本当にやってしまった結果、三笠は
日露戦争に間に合い、旗艦として日本海大戦を勝利に導いたのは皆さまもよく知るところです。


西郷のように「自分を捨石とする覚悟を持つ者」は、ある意味「怖いものなし」です。
幕末から維新の時期に、為政の中枢にいて、偉大な兄の遺志を継ぎ日本を作ってきた男。
己を捨て、富を求めず、なにかを為す人生を常に全力で追い求めた男。

そのような人間の「いいかげん」はしばしば「良い加減」となって
本人も思わぬ結果を生むものかもしれません。













「大空のSAMURAI!6」モーツァルトと月光

2013-09-01 | 海軍人物伝

実はこのシリーズを制作したのは一年以上前。
なんとなくシリーズゆえ出しそびれて今日に至るわけですが、
前回絵を描いてから今回までの間に
女優さんのイメージが「北川景子さん」に変わったので、
そこだけ配役を変更してポスターを制作してみました。
SAMOURAI!と表記しているのは、
こういうのもありかな、と思ったからで他意はありません。

煽り文句とか、すべてジョークですからね!
お断りしておきますけど。

と言いながらこの画像を保存するときに思わず
「映画」フォルダーに入れていたエリス中尉である。 




と言うわけで結婚した坂井とハツヨ。
この小説、「SAMURAI!」は、結婚式の後もう一度戦地に戻り、
終戦になって自宅に帰った坂井とハツヨの姿で終焉を迎えます。

「あなたは―もう二度と戦わなくていいのよ」

彼女はささやいた。

「終わったの。もう終わったのよ」

彼女は突然帯の下から短刀を引き抜き投げ捨てた。

「もう二度と、ごめんだわ!」

床の上でそれは火花を散らした。

短刀はカランカランと音を立てて部屋を横切り、部屋の隅で止まった。


さあ、これが世界中で読まれている
「SAMURAI!」のラストシーンなのです。

が・・・・・。

ちょっといいですかー?


坂井さんの留守を守っていたハツヨさんは、
いったいどんなうちに住んでいたのでしょう。
おそらく畳の部屋の、典型的な日本家屋ではないかと思います。
投げ捨てた短刀が火花を上げカランカランと鳴るような
床のあるような作りではないでしょう。
さらに、そこが玄関のたたきでもない限り、
投げ捨てたとたん部屋の隅ではなく、
タンスかちゃぶ台にそれは当たるのが普通ではないかとも思うのですが、
いかがでしょうか。

帰ってきた坂井三郎ではなく、ハツヨの
「戦争はもうごめん」という言葉で終わるあたりが、所詮?
世界基準の好みに合わせて書かれた小説であると思います。

当時の日本人はいきなり「戦争が終わってよかった」というよりは
ただ呆然としていた、というのが大半のところではなかったでしょうか。

勿論誰もが同じ考えであったわけではないでしょうが、
この無難な結論が、終戦に対するが日本人の総意であったかのような
「お手盛り的」なエンディングには、若干割り切れぬ思いが残ります。

それはともかく、いきなりですが、この一説をお読み下さい。



軽快に鳴りだしたピアノの音は明るく美しかった。

しかし、すぐに西澤はあることに気づいてはっ!とした。

「あの曲だ!あの曲と同じ曲だ!」

廣義がが小学校の講堂でたまたま耳にした、あの美しい先生が弾いていた
美しい音楽に間違いなかった。

なんという偶然だろう。
玉を転がすように、音階が重なって、
昇っていっては降りてきて、また昇っていく。

まるで真珠のネックレスのようだ。

武田信行著「最強撃墜王 零戦トップエース西澤廣義の生涯」
の一説です。

この「最強撃墜王」が聴いたこの曲、いったい何だと思います?

モーツァルトのピアノソナタ、ハ長調、K.545。

この曲ではないでしょうか。
わたしはこの曲を小学校三年の時発表会で弾いた記憶があります。

軽やかな音階の上下が印象的な、誰もが知るこの名曲を、
おそらく作者は、西澤廣義の物語の彩りとして採用したのでしょう。

実際に西澤の心を寄せた女性が本当にこの曲を弾いていたのか、
ことに、小学校の先生が本当にこの曲を弾いていたのかは、
限りなく可能性の低い話です。

昭和9年当時、田舎の国民小学校にピアノがあって、
さらにそれでモーツァルトを弾くような女教師がいたかどうか、
と言う意味で。


これは「最強撃墜王の恋」を、音楽という無条件に美しいもの
―しかも女性が奏でる―
その対比によっていっそうその儚さを強調するための演出です。

この手法が、この「SAMURAI!」にも取り入れられています。

マーティン・ケイディンの創作には汎世界的な価値観がちりばめられ、
それ故に世界から受け入れられた、ということを何度か語ってきましたが、
ラストシーンで投げた短刀が床でカランカランと鳴る、という表現のように、
やはり所詮はアメリカ人、日本と日本人について全く分かっとらんじゃないか、
と思うシーンはそれ以上にあったりするわけです。

坂井の叔父がピアノを自宅に持つほど裕福であったかどうかはともかく、
たとえば二人の披露宴シーンで、

ハツヨが弾くピアノに
坂井の部隊の隊員が即興で楽器を合わせてセッション三昧、

というようなことは、
戦時下のこの日本ではありえなかったという気もします。

しかし、登場人物に音楽を絡ませ、それを演奏する、あるいはこれを聴く、
といった表現の中に心情を込める、といういわばありふれた手法は、
だからこそ効果的で、作者が創作に当たってつい手を出してしまっても
これは仕方が無いことかもしれません。

さて、坂井がハツヨのピアノを最初に聴いたとき、
彼女はまだピアノを習い始めて三年目でした。
しかしそのとき彼女が弾いた

「モーツァルトのソナタ、緩徐楽章」は、

わたしには十分美しかった。

さて、この曲は何でしょうか。

ハツヨさんの進度はかなり早かったようです。
習い始めて三年くらいでは、せいぜいソナチネというのが一般的ですから。

ただし、撃墜王西澤が感激した、同じピアノソナタの二楽章であれば、
おそらく三年目の初心者でもでも弾くことはできると思われます。

モーツアルト ピアノソナタハ長調 K.545第二楽章

さて、皆で食事をし、花火をした夜、坂井がハツヨさんに

「モーツァルトを弾いてよ」

と頼みます。

返事の代わりに黙ってピアノに向かったハツヨ。
彼はそのとき千マイル離れた太平洋で行われている戦争について考えます。

目を閉じると、滑走路でタキシングする戦闘機や爆撃機から出るちかちかした排気、
ほこりや小石が後から舞い上がるのが見えた。
それは力を「クレッシェンド」しながら離陸し、夜のしじまに消えていき、
そうしてその多くが戻らなかった。

わたしはこうやって東京の郊外で息子のように愛してくれる人々の、
心づくしのもてなしを受け、胃の腑を暖かいごちそうで満たしている。
しかしあそこでは彼らは死んでいく。奇妙な世界だ。


音楽は止まった。
ハツヨはしばらくピアノの前に座ったまま奇妙な表情でこちらを見た。
その目はもの問いたげに開かれ、柔らかな声音でこういった。

「三郎さん、わたし、あなたのために弾いてあげたい曲があるの。
良く聴いて頂戴。
この曲にはわたしの言えない言葉が込められているのよ」

音楽はピアノを転がり落ち、次いで静かに持ち上げられて部屋を漂い、
かと思えばつぶされたり、舞い上がったりした。

わたしは彼女を見た。よく知っている少女だ。
しかしわたしは彼女のことを全く知らなかった。
こんなハツヨを今まで一度も見たことがなかった。


で、彼女が自分のことを愛している、と坂井は気づくわけですが、
では、この曲は何だったのでしょうか?

この答えは、坂井さんが自ら後ほど、敵機に立ち向かう寸前、
このように明かしてくれています。


私は頭を振り、頭から霧を振り払った。

音楽だ!聴くんだ!
ピアノ・・・ムーンライト・ソナタ・・・ハツヨが私のために弾いた・・

「ハツヨ、愛している!」
私が今まで言ったことのない言葉。
私は泣いた。
誰も知ることはない。
私たった一人だ。
そこには硫黄島と果てのない海があるばかりだった。

正解は月光ソナタ。
モーツァルトを多用していたこの「戦記物における音楽」界ですが、
ここに来ていきなりベートーヴェンが出てきました。

しかし、

転がり落ち、次いで静かに持ち上げられて部屋を漂い、
かと思えばつぶされたり、舞い上がったり

この部分に相当するのは、有名な一楽章

ではなく、どうやら三楽章ではないかと思われます。



しかし、この三楽章より、もっとこの表現に近い曲があると
エリス中尉は思います。

ベートーヴェンの、ピアノソナタ、「悲愴」の第一楽章



もしかしたら、こちらの曲をケイディンは「ムーンライトソナタ」
だと勘違いしていたのか、ふとそのように思ってしまいます。

有名な二楽章と共にお楽しみ下さい。



いろいろと文章からそこに流れる音楽を推察してみましたが、
文章から曲を想起し、それがどのように使用されているのか推測するのは、
なかなか味のある本の楽しみ方かもしれません。

皆様もよろしかったらどうぞ。

というわけで「大空のSAMURAI!」シリーズ、これをもって終了です。

お付き合いいただきありがとうございました。 





「大空のSAMURAI!5」ハツヨとの結婚

2013-08-31 | 海軍人物伝



傷の癒えた坂井は昭和18年大村航空隊に、
昭和19年には横須賀空で教官職に就きます。
ハツヨの両親、坂井の叔父夫婦はいつもかれを歓迎しました。
招かれたある日の夕食後、ハツヨは坂井をからかいます。

「ねえねえ、『お兄様』、お兄様はどうしてまだお独りなの?
良き旦那様として選ばれるのには何が問題なのかしら?」

叔父夫婦は花火をやめ、我々を笑って眺めた。
叔父はわたしたちをからかって言った。

「ふたりとも好みにうるさいからなあ」

わたしは微笑んだ。 

「ハツヨさんにもらい手がないのが不思議ですよ。
この辺じゃまるで映画女優みたいに綺麗だって言われてる。
おまけにピアノの達人だなんて豪語できる女性が何人いるでしょう」

わたしは彼らと、そしてハツヨを見ながらこう言った。

「きみは素晴らしい旦那様を選ぶよ、きっと」

叔父夫婦はわたしの論評に微笑んだが、ハツヨはわたしを睨み目をそらした。

「どうしたの、ハツヨさん」

彼女は知らん顔していた。
怒らせてしまったか。わたしは驚いて話題を変えた。

「ハツヨさん、お願いがあるんだけどな。ピアノを・・・・。
もう長いこと独奏会を聴かせてもらっていない」

彼女はもの問いたげにわたしを見た。

「俺が初めて学校に上がったころのこと、覚えてる?
きみはあれを・・・ええっと何だっけ・・・
ああそうだ、モーツァルトだ。

それを弾いてくれたんだ。
また弾いてもらえないだろうか?」

ピアノを弾いているハツヨについてはまた別の項でお話するとして、
彼女のピアノを聴きながら、坂井はどうしたわけか
突然ハツヨを女性として意識しだします。


ハツヨとわたしが?

この考えはわたしを動揺させた。
しかし彼女はもう子供ではない。

目を覚ませ、坂井、お前は馬鹿だ!
彼女は女で、今、この瞬間、お前が好きだと言っているではないか。
わたしには彼女の気持ちが分かった。性急なその感情が。

答えてやりたい。
いやそれはだめだ。わたしは自分に向かって言った。
しかし、それは他ならぬ、ハツヨだ。
お前は彼女が好きになってしまったんじゃないか、この馬鹿者。
しかもお前はこれまで彼女の気持ちにさえ気づいていなかった。

病院でのことが思い出された。
彼女がわたしに腕を回し、泣きながらもう一度と飛ぶのよ、と言ったことを。
彼女はわたしを愛していたのだ。
わたしがそのことを想像もしていなかったころよりずっと昔から。
不思議なことだが、わたしはそれを知った瞬間、わたしも恋に落ちたのだ。

彼女に。


しかし坂井は、自分がフジコを拒否したからには、同じ理由で
ハツヨの物言わぬ訴えをも受けいれるべきではないのではないか、
そのように苦悶します。

フジコを拒否した理由は、なんと言っても戦闘で片眼を失ったこと。
こればかりはどんな奇跡が起きてももうどうしようもない事実なのだから。
坂井はハツヨの気持ちに対し知らぬふりをすべきだと決意します。


その後、坂井三郎は周知のように硫黄島防衛に
隻眼のパイロットとして加わることになります。

その激戦の合間を縫って東京の叔父のうちを尋ねた坂井は、
叔母が自分をもてなすために闇市に行っている留守宅で
ハツヨと二人っきりになります。
当たり障りのない会話がひと段落した時・・・・・


そのとき突然、彼女はわたしの話を遮った。

「三郎さん」

彼女は静かに言った。

「フジコさんが結婚なすったのをご存じ?」

勿論知らない。

「あの後ね、フジコさんはパイロットと結婚したの。
飛行機乗りよ。あなたと同じ」

彼女の調子は挑戦的だった。
わたしが何か言いかけると彼女は遮った。

「三郎さん、どうしてまだ結婚しないの?あなたはもう若くもないわ。
もう27歳じゃないの。もう士官になって一人前だわ。
奥さんをもらうべきよ」

「しかしハツヨ、俺はどんな女の人が好きかなんてことも自分ではわからん」

わたしは逆らった。

「フジコさんを愛していたんでしょう?」

なんと言っていいか分からなかった。
不器用な沈黙がわたしたちを支配した。


ハツヨはわたしを居心地悪くさせた。
よそ見することを許さずわたしの目をまっすぐ見た。
わたしはいらいらして話そうとしたが、どもるばかりだった。

坂井はいらだち、自分が結婚しない理由をこう説明します。

「俺は飛行機乗りだ。
空に上がるっていうのはもう帰ってこられないかもしれないということだ。
しかもそのときは遅かれ早かれやってくる。遅かれ早かれ!
今日日のパイロットで死なずに済むやつなんかいないんだ。
もうそんな戦況じゃないんだ。技術なんて何の役にも・・・」

「子供みたいなしゃべり方をするのね、三郎さん」

怒りで目を輝かせながら彼女は言った。

「ぺらぺらしゃべってばかりで自分の言っていることも分かっていない。
あなたには女の心が分からないのよ。
あなたは飛ぶことをそうやって話す。死ぬことを話す。
三郎さん、あなたの言うことには何もないわ。
あなたは生きていくことについて何も話そうとしないのだから」

「わからんー俺が間違っているのかもー・・・しかし・・・
どうしていつも君はそんな風にしか話せないんだ」

「わたし長生きなんてしたくないの!意味なく空虚に生きるのなら。
飛行機乗りだって明日死ぬかもしれないとわかっていて飛ぶわ。
―そうでしょ、三郎さん。
女の幸せはね。
ただ、彼女を愛してくれる男性と一緒にいることなのよ。
たとえそれが数日しか与えられなかったとしても」


彼女の言葉に呆然と立ちすくむ坂井。


返事をできないまま隊に戻った坂井にある日面会人が訪れます。
ハツヨと叔母でした。
坂井が部屋に入るなり、ハツヨはいすから立ち上がり、こう坂井に告げます。

「来たわ、三郎さん。お嫁さんにしてもらいに来たわ」

押しかけ女房、キター!(AA自重)
なんと煮え切らない坂井の気持ちを推し量り、母娘で急襲してきたのです。


わたしはドアのところで凍り付き、口も聞けずにいた。

「もし三郎さんに死ぬ用意ができているのなら、わたしも同じよ。
もし一週間しかないのならその間だけでも一緒にいましょう。
それが神様の思し召しなのだったら」

「ハツヨ!」

わたしは泣いた。あり得ない。こんなことがあるはず無い。


自分から言い出せなかったハツヨへの思い。
ハツヨがこうやって押しかけてくれたおかげで、坂井は
ようやく意中の人と結ばれることになったのです。


照れながらわたしが中島司令に報告すると、司令は相好崩して喜んだ。
すぐに電話を取り上げるなり、新居にする家の手配を指示した。
そしてそれらの気前の良い提案に対し、一切の異論を差し挟ませなかった。


ハツヨとわたしは昭和20年の2月11日、紀元節に結婚した。
式には親族と、終りの方には隊員たちが顔を見せた。
夕刻空襲警報が鳴って、邀撃の待機のため何人かが去ったが、
胃の腑が縮むような警報サイレンが結婚行進曲になるとは思わなかった。

式のあと、灯火管制で真っ暗な中、わたしたちは神社にお参りした。
勿論時節柄ハネムーンなどは叶わなかったが、次の日曜日には
搭乗員たちを五十人招待して披露宴をした。

彼らはあの「警報結婚行進曲」を話題にして大笑いした。
搭乗員は自分のできる楽器―ギターやアコーディオン―を持ち寄り、
やたら陽気な結婚行進曲を演奏してくれた。


わたしはその日、世界で一番幸せな男だった。
隊員たちは何度も何度も新婦の美しさを褒め称えた。

素晴らしい、忘れがたい夜だった。


宴会では叔父夫婦が特別に用意したごちそうに皆舌鼓を打ち、
ハツヨのピアノに皆がおのおのの楽器で即興演奏をするなど、
日本の宴会にはあまりないような盛り上がりを見せます。


わたしはハツヨから目をはなすことができなかった。
夢から現実になった女性、輝くばかりの美しいおとぎ話の姫。

それが、わたしの妻だった。



最終回に続く。




「大空のSAMURAI!4」ハツヨとサカイ

2013-08-30 | 海軍人物伝



膨大な「SAMURAI!」からちょこちょこっと
坂井さんのロマンスを書き出すつもりが、意外と表現がしつこくて(笑)
なかなか先に進みません。
ようやくハツヨとサカイが結ばれるところまで来たわけですが(ぜいぜい)、
挿絵が足りなくなったので一枚に描いた絵を分割して掲載しております。

わりと本気で言うのですが、
内容、ネタ共に枯渇しているらしい昨今の日本映画界は
「大空のサムライ」ではなく、こちらの「SAMURAI!」の方を
映画化すればいいと思います。

というか、一度映画化された「大空のサムライ」で、
実話ベースのこれらの話がかけらも出てこず、
変な創作(本田の姉と搭乗員Aの衝動的な恋愛)をわざわざしたのは
いったいなぜだろうと、今日首をかしげざるを得ません。

・・・・もしかして、誰も読んだことなかったのかな。
英語の「SAMURAI!」。

さて、勝手に映画化をエリス中尉がもくろんでいるだけの
「SAMURAI!」。

この映画は坂井三郎のロマンスがメインテーマなので、
ラバウルでのことはほんの説明程度にしか出てきません。
ですから、笹井中尉が登場するのも、坂井の回想シーンにちょっとだけ。
しかし、我ながら伊勢谷=笹井中尉はぴったりの配役ではないかと、
絵を描きながら別の意味で自画自賛しておりましたがいかがなもんでしょう。



さて、敵の銃撃によって帰国、手術の甲斐なく右目を失明した坂井。
病院で結婚を切り出したフジコとその父親に、自ら破談を申し渡します。
というか、婚約にすら至らず、フジコとの関係は終焉を迎えてしまいました。

二人との話し合いの二日後のこと、ハツヨが病院にやってきました。
横須賀海軍病院に週一度彼女は花を持って見舞いに来ていたのです。
しかし、このたびの彼女は険しい表情をしていました。

「三郎さん、あなた何したの?」

彼女はベッドの脇に来るなり言った。

「フジコさんをどんなに傷つけたか、あなた分かってる?」

あの後、二人はハツヨを訪ね、坂井を説得することを頼んでいったのです。
そこで彼女が坂井を説得しようと意気込んでやってきたというわけです。

「自分たちの言葉があなたを不快にさせたからではないかっておっしゃっていたわ。
父もわたしもあの方たちのことはよく知っているの。
あんなに素晴らしい人たちに向かって、なぜあんなことを?」

「ハツヨ、分かってくれ」

わたしは彼女に言った。


「きみは小さいとき何年かとはいえ一緒に育ったんだし、俺のことを知ってる。

言わなければならんことを言って傷ついたのは俺も同じだし、
俺は自分のした選択を後悔していない。
俺は正直に言って彼女によかれと思って、彼女自身の幸せのために
ああいう風にしたんだ」

「怪我のせいであなたが申し出を拒んだんだっておっしゃってたわ」

「それだけじゃない。それは理由のたった一つに過ぎないんだ。
俺はフジコさんを最初に逢ったときから本当に好きになった。
俺の彼女に対する気持ちはちっとも衰えていない。
ラエとラバウルにいた何ヶ月もの間、フジコさんは俺にとって永遠の女性だった。
わからないか?俺は彼女を愛するからこそあの話を断ったんだ」

「三郎さん、そんなの変よ。おかしいわ」

「聴いてくれ。外地にいた期間、太平洋にいた間一時だって、
フジコさんが俺の心から離れることは、無かったんだ。
俺は彼女に俺を誇りにしてもらいたかった。俺がそうであるように。

・・・・・・こんなこときみに話すべきではないのかもしれないが、
ハツヨ、
この際言ってしまうよ。



ラバウルは軍の主要基地だから一万人以上が駐留している。

加えて陸軍の師団もずっと一緒だ。
男というものが故郷を離れ、女っ気無しのところにいればどうすると思う?
横須賀にもあるように、ラバウルにだって慰安所というものがあった。
ラエからラバウルに休養のために行くと、
多くの搭乗員は
慰安所に入り浸りっきりになる。
勿論全てではないが、少なくもない。


しかし、俺はそこへは一度も行っていない。
プライドが許さなかったんだ。

俺はフジコのためにできる限り清い身体でいようと思った。
彼女の手を取って、結婚を申し込むその日のために。

負傷するまで、俺は恐れを知らぬ海軍搭乗員として、
自分は彼女に結婚を申し込むのに相応しい人間だと思っていた。
しかし今はどうだ?違う!」

わたしはハツヨに向かって叫んだ。

哀れまれたくないんだ!
彼女に同情されるのは我慢ならないと言うことがわかるか?」

ハツヨはわたしを強く抱きしめるとうなずいた。

「わかった。わかったわ」

彼女はささやいた。
彼女はわたしの目をのぞき込んだ。

「わたしはあなたのことよく知ってるの。三郎さん。
あなたが思っている以上にあなたのことを知っているのよ。
もう一度飛びたいという気持ちからなのね。
でもわたしにはフジコさんをどうしてもお気の毒に思わずにはいられない」

「彼女にはその方がいいんだ。彼女には・・・・」

しかしハツヨはわたしの首に回した腕で強くわたしを抱きしめ、
次を言わせなかった。

「可哀想な三郎さん!
希望を持つのよ・・・・・信じるの。
あなたはまた飛べるわ。
わたしはあなたのことを、よく知っているの・・・・」





実際にはこのようなドラマチックではないせよ、
ニオリ家との結婚話を、負傷した坂井がそのために断ったという話は
どうやら本当のことに思われます。

それにしても、「大空のサムライ」には全く出てこない
「戦地での性」を示唆する部分、慰安所について述べた部分は、
日本の「大空のサムライ」しか知らない読者には衝撃的ですね。

こういう表現にならざるを得ないから、フジコさんとハツヨさんの部分は、
日本では全くカットせざるを得なかったのでしょうか。


膨大なこの小説の「ハツヨさん」部分だけ書き出してみましたが、
これでようやく?フジコさんとの関係が終わったばかり。

この後フジコさんとどうなるのか?
もうすこしだけエリス中尉の拙訳におつきあい下さい。






「大空のSAMURAI!3」フジコとの別れ

2013-08-29 | 海軍人物伝



以前に一度使用した「ガダルカナルから傷ついて生還した坂井三郎」の絵です。
いとこのハツヨの亡くなった同級生の姉であるフジコとの出会い。
美しいフジコに、坂井は心惹かれながら戦地に出て戦い続けます。
そして、坂井のいる台南航空隊は、最も過酷な戦いに突入していきます。

ガダルカナルまで数時間飛行し、そして空戦して同じ距離を帰ってくる。
精強と言われた台南空の搭乗員はこの戦いで消耗していくのですが、
その初日、8月7日に坂井はドナルド・サザーランドとの空戦の後、
米軍機「ドーントレス」の機銃掃射の前に右頭部をやられ、
視力を失いながらも気力だけで四時間の飛行ののちラバウルに帰還します。

着陸の瞬間ガソリンはゼロになったそうですが、これは坂井が着陸のために
あと一回基地上空を旋回したらおそらく四時間飛び続けた零戦は
燃料切れで墜落していたということを意味します。

負傷後も残って闘うと言い張る坂井は、
斉藤司令、中島少佐の説得により日本に帰国します。
そして、横須賀の海軍病院で手術を受けるのです。

わたしは医師の言うとおり電球を見つめ続けた。
その電球がわたしの目に満たされた血で真っ赤になっても見つめ続けた。
医師の手が視界を遮り、そしてその手の先のとがった金属片が
徐々に、徐々に近づいてきても。


わたしは叫んだ。
まるで気が違ったように恐怖と苦痛に声を張り上げた。
一瞬たりとももう我慢できない。
ついにはこの激痛が止められるならもうどうでもよくなった。
もう一度飛ぶこと、もう一度目が見えるようになること、
そんなことはもうどうでもいい。

わたしは坂野医師に向かって金切り声を上げた。

「やめて下さい!もうやめてもう目玉をほじくり出して下さい!
もう何もしなくていい、止めて下さい!」

わたしはメスから逃れようともがいた。拘束バンドから滑り出ようとした。
しかしそれは堅く締め付けられており、医師はわたしが叫ぶたびに怒鳴り返した。

「黙らんか!」彼は吠えた。
「我慢しろ!目が見えなくなってもいいのか。騒ぐんじゃない!」

拷問は三十分以上続いたが、わたしにはそれが百万年にも思われた。
全てが終わったときわたしには指一本動かす気力すら残っていなかった。


しかもこれだけの苦痛を伴う手術の結果、医師から
「右目の視力は完全に戻ることはないだろう。左は大丈夫だが」
と告げられます。

医師の言葉は、わたしにとって死の―生きながらの死の宣告のように轟いた。
隻眼の飛行機乗りだと?
わたしは医師が去った後自嘲した。

そんなむなしさと共に病床にある坂井の元に訪問者があります。
フジコとその父親でした。
大阪で展覧飛行をした晴れがましい夜から、十八ヶ月ぶりの邂逅です。

通り一遍の見舞いの言葉と手紙を出せなかった非礼を詫びる
儀礼的応酬がすみ、父親がさらに怪我の様子を尋ねます。
それに対し、坂井は右目の視力は戻らないと言うことを答えると、


わたしの返答はフジコを固まらせた。

彼女は急に口を押さえ、その目は大きく見開かれた。

「本当です。わたしは二つの道を失いました。
わたしはもう健常者でもなく、目を失ったからには
飛行機乗りとしても終りなのです」

ニオリ教授は遮った。

「しかし・・・それではあなたは海軍を除隊されるおつもりですか」

「いえ、そう思ってはいません。
あなたはおわかりでないかもしれんが、この戦争は、
怪我をしたからといって家で療養していいようなものじゃないんです。
わたしは除隊など全く考えておりません。
おそらく海軍は教官か何か地上勤務にわたしを配置してくれるでしょう」

フジコはわたしに向かって頭を振った。
彼女は明らかにわたしの儀礼的な返答に気分を害していた。
彼女は何か言おうとしたがそれは言葉にならず、
遂に、傍らの父親に向かって叫んだ。

「お父様!」

彼女の目は何かを訴えていた。
ニオリ教授は深くうなずき、咳払いをすると切り出した。

わたしをまっすぐ見て、

「いつ隊に戻られるのですか?
私どもは結婚式の・・・三郎さん、勿論あなたさえ良ければだが
・・・準備に取りかかりたいと思っておるのですが」

「な・・・・何ですって?」

わたしはしわがれ声で叫んだ。結婚の準備だと?

「なんと・・・・なんとおっしゃいましたか、教授?」

つい声に出た。


「許して下さい、三郎さん。
わたくしどももあなたがこんなときに、とは思っております」

老教授は沈痛な様子で言った。

「三郎さん、娘をフジコをあなたの妻にもらってやっては下さらんか。
これには一通りのことを教え、
どこに出しても恥ずかしくない女性に育てたつもりです。

あなたが申し出を受け入れて下さって、お義父さんと呼んでくれれば、
わたしはこんなうれしいことはない」

わたしは息をのんで押し黙った。
教授の声はまるで天に響く鐘の音のように聴こえた。
フジコはわたしが目を見張っている様子を紅潮して見つめていた。
そして膝を見るようにして頭を深く下げた。

不意に涙が溢れ、彼女から壁に目をやった。
なんて皮肉だ。
この同じ壁をわたしは何日の間絶望しつつ眺めただろう?

やっとのことでわたしは声を取り戻した。
しかし容易にしゃべることはできなかった。
わたし自身の声は締め付けられて出てこなかった。

「ニオリ教授、わたしは・・・
あなたのお申し出を光栄に思っています。

そうなればどんなにうれしいかしれません。しかし・・・」

わたしは振り絞るように、涙を隠そうとして言った。

「わたしは―わたしにはできません。お申し出をうけることはできません」

ああ、終りだ。言葉が出てしまった。言ってしまった。

「何ですって?」信じられないと言う声だった。
「あなたは―どなたかとお約束がおありだったのですか?」

「違います!断じて!お願いですからそんなことまで考えないで下さい!
自分がどうのという問題ではなく、そうしなければならん理由があるのです。
ニオリ先生、わたしにははいと言うことなどできないのです!
見て下さい先生、このわたしを!
わたしはフジコさんに相応しくない。この目!」

わたしは泣いた。


「わたしは片眼なのです!」

かれの表情に安堵感が浮かんだ。

「三郎さん、何をおっしゃいます。
あなたは必要以上に自分を卑下しておられる
怪我をしたくらいで、今まで積み重ねてきたものを否定しないで下さい。
それはあなたの価値を下げるどころか、名誉の負傷じゃないですか。
あなたは自分がどういう立場にいるか、まるでおわかりでないのですか?
日本中があなたを賞賛し、褒め称えていますよ。
偉大な撃墜王として、我が国の英雄として。わかりませんか?」

「ニオリ先生、あなたは分かっておられない!

わたしはただ本当のことを言っているのです。
分かっていないのはあなたです。

わたしは謙遜してるんじゃありません。
英雄扱いなんていっときのことです。
その瞬間作られるようなものです。

そしてわたしは英雄ですらない!
わたしは飛べない飛行機乗りだ。片眼の搭乗員なんです!
もはやそんなものは飛行機乗りじゃない。
英雄?
それをおっしゃるならば日本には特別の英雄なんていないのです。

皆が闘っているんだ」

かれはしばし沈黙した。

「こんなときに拙速だったかもしれません。三郎さん」

かれは続けた。

「しかし分かっていただきたいのですが、このことは昨日今日決めたのではない。
わたしと妻はあなたに初めてお目にかかった日からあなたと決めていたのです。
あなたの気持ちはよく分かるが、このことだけは理解していただきたい。
わたしと家内はフジコを幸せにしてやれるのはあなたであると考えてのことです。
これは我々の、あなたに対する信頼であり、フジコも同じ気持ちでしょう」

わたしはその言葉に崩れ折れそうになるのを感じた。
この聡明な人格者が、わたしが何を操縦しているのか分からないとでも言うのか?

「どうやって一度会っただけでわたしを理解なさったのですか?」

わたしは泣いた。


「どうやってそんなにたやすくこんなことを決められるのです?

フジコさんの生涯の幸福を一度会っただけの男に?
あなたのお考えが理解できない―
そのお言葉はこの身に余る光栄には思っていますが」

わたしは激高して両腕を広げた。


「わたしなどよりずっとフジコさんに相応しい若い男性がいます。
何千人だって、完璧な学歴や資産を持つ男が。
わたしが娘さんに何をしてあげられますか?ニオリ先生?
何を与えられますか?
お願いですからわたしをもう一度別の明かりで見て下さい、さあ!
今のこんなわたしにどんな未来があるっておっしゃるのです?」

フジコは黙っていなかった。
顔を上げ、わたしをじっと見た。

わたしは部屋から逃げ出したくなった。

「あなたは間違っているわ、三郎さん。」

彼女は静かに言った。

「ええ、間違っていますとも。
あなたはご自分の目のことで混乱なさっているのよ。
あなたが片眼だろうがそうでなかろうが、わたしには全く関係ありません。
一緒になりましょう。
誰と結婚したところで長い人生の間にはあなたに起こったようなことが
起こらないとも限りませんわ。
もし必要ならば、三郎さん、わたくしにお手伝いさせていただきたいの。
目がどうだから、などとおっしゃるあなたと結婚するのはいやだわ」

「間違っているよ、フジコさん」

わたしは言った。


「君は勇気がある。言っていることも本当だろう。

しかし君がそういうのは感傷からだ。
一時の感情で一生のことを決めるべきじゃない」


「いや、いや、いや!」

彼女は頭を振った。


「どうしてそんなに分かって下さらないの?

これは一時の感傷なんかじゃあないわ。
こうやって会えるのを何ヶ月間指折り数えてお待ちしていたか!
わたくしの言う意味がおわかりですか?」

こんな会話はもうごめんだった。
随所で崩れ折れそうになる恐怖を感じながらわたしは言った。

「ニオリ先生。フジコさん」

否応もない調子を声に表した。


「わたしは自分を卑下しているのではない。

交渉でどうにかなる話ではないのです。
何度も言いますが、先生、今夜身に余る光栄のお言葉をいただきました。
しかしわたしにはあなたのお申し出を受けることはできない。
フジコさんと結婚することはできないのです。
その理由は・・・・・駄目なものは駄目なのです」

わたしは教授の言葉を聞くことを拒否した。
かれは何度も説得しようとしたが、
わたしもまた何度も同じ言葉を繰り返し、
フジコは泣き崩れた。

彼女は父親の腕に縋って声を上げて泣いた。
わたしはこれほどの悲しみを彼女に与えた自分自身を殺したくなった。

しかしわたしは間違ってはいない。
わたしのしたことは彼女の為なのだ。

わたしとの結婚は一時的に彼女を幸せにするだろうが、
何年かしたら苦しむことになるのは彼女なのだ。


彼らが出て行った後をどのくらい見つめていたであろうか。
わたしは無力感と絶望感にベッドに崩れ落ちた。
なんと言うことをしたのだ?わたしは千回も自問した。
そして千回とも同じ答えが反ってきた。
こうしか方法はなかった、
しかしこの答えはわたしの気分を全くマシにしなかった。

わたしはこの人生で得た最も美しいものを投げ捨てたのだ。

(エリス中尉訳)



ところどころ意訳しておりますので、
もし興味がありましたら原文をチェックして下さい。

こんなわけで坂井はフジコさんとの別れを自ら告げてしまいます。
いよいよ、このあとハツヨさんとどうなるか、続きをお楽しみに。

って言うか・・・・坂井さん、かわいそうすぎる・・・・・。