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カミカゼ特攻との対決〜USS「ザ・サリヴァンズ」

2024-08-02 | 軍艦

前回、「ザ・サリヴァンズ」の第二次世界大戦中の対空戦闘について、
太平洋戦線の途中までの戦歴を追ってみました。

「ザ・サリヴァンズ」シリーズ最終回の今日は、彼女の対空戦闘、
主に日本の特攻機との交戦について、実際の特攻出撃記録を見ながら
辿っていきたいと思います。

【1944年10月〜悪夢の台湾沖】



台湾と沖縄を空襲する空母を護衛していた「ザ・サリヴァンズ」は
ここで初めてというべき熾烈な航空戦を経験します。


レーダーが最初の日本軍機1機を発見したのを皮切りに、6時間、
約50〜60機が米機動部隊に絶え間ない航空攻撃を浴びせ続けました。

日没になってからも一式陸攻「ベティ」がやってきてこれを撃墜。
その後5機を撃墜。
この日は1日中対空射撃を続けていたことになります。

12日の2105から日を跨いで13日0235まで、
日本軍の航空隊は、アメリカのレーダー通信を妨害するために
「チャフ」を用い、照明弾で暗闇を照らして攻撃してきました。

これに対抗して「ザ・サリヴァンズ」らは煙幕を張り、
靄を作って敵パイロットの目を欺こうとします。

一連の戦闘で巡洋艦「キャンベラ」(CA-70)「ヒューストン」(CL-81)
が損傷し、彼女はこれを護衛してウルシーに撤退をしています。

撤退中、攻撃してきた「フランシス」(銀河)
「ヒューストン」にダメおしの損害を与え、修理不可能にしました。

このとき、「ザ・サリヴァンズ」は「ヒューストン」を攻撃した
銀河を2機共同で撃墜しています。

【1945年3月20日 九州沖 特攻】

「エンタープライズ」と並んで給油作業をしていた「ザ・サリヴァンズ」は
神風特攻隊の警報を受け色めき立ちます。

この日公式に出撃した特攻は、調べたところ、

坂口昌三大尉(海軍機関学校47)
大川軍平飛曹長(乙飛8)
柳本拓郎飛曹長(操練42)
竹園良光飛曹長(偵練?)
清水松四郎上飛曹(偵練14)
梅木留治飛長(普電練66)

この6名を乗員とする鹿屋基地から出撃した銀河1機のみとなっているので、
彼らが2機撃墜した、と言い張るのには疑問が生じます。
(陸軍からも4月20、21日の特攻出撃はない)

それにしても、特攻機隊長が海軍機関学校卒というのは驚きです。
そして「普電練」とは、普通科整備術練習生のことです。
電信員として乗り組んでいたのでしょう。

このとき彼らは駆逐艦「ハルゼー・パウエル」に突入を果たし、
その結果発生した火災は消火されたものの、
12名が死亡、29名が負傷、操舵不可能という状態にしました。

「ハルゼー・パウエル」はウルシー環礁まで後退し、修理を行いました。


続いて3月21日には、鹿屋基地から第一神雷「桜花」隊、
桜花を載せた陸攻隊、神雷攻撃隊など
あの野中五郎少佐を含む特攻の大編隊が出撃しており、
「ザ・サリヴァンズ」が遭遇したのはその中の銀河1機と思われます。

■ 沖縄

「ザ・サリヴァンズ」は沖縄上陸作戦を支援する空母を護衛しました。
それはまさに、あの
世紀の超駄作「オキナワ」に描かれた世界です。

15日のレーダーピケット任務中、特攻機1機を撃墜。
4月29日には「ヘーゼルウッド」(DD-531)
「ハガード」(DD-555)が特攻を受けました。

この日の特攻は菊水六号作戦鹿屋出撃の第9建武隊など爆戦の部隊でした。


指揮官は慶応、関西大学、東京農大、中央、立教、明治、
東京帝大、名高工(現名古屋工大)横浜商専(現横浜市大)
北海道大学、早稲田大学出身の、つまり学徒士官ばかりでした。

名前を挙げてみると、およそ日本の一流あるいは有名校を網羅しています。


神風特攻はアメリカ海軍の水上艦乗員を最後まで苦しめました。

全ての舟艇が特攻パイロットの標的となり、いつ来るかわからない攻撃は
アメリカ軍の将兵たちの神経を極限まで追い込んだと言われます。

そして5月11日の朝、早稲田大学出身の小川清大尉(死後二階級特進)
が操縦する爆戦(零戦)がUSS「バンカーヒル」に激突しました。

爆戦、とは、水面に対し水平に低く石を投げると
何回か水面状を跳ねる原理を応用して、
250kgの爆弾を積んで超低空、かつ最高速度で敵艦に近づき、
爆弾を投下する攻撃法を用いる零戦をこう呼んでいたものです。


小川機突入後の「バンカーヒル」

「ザ・サリヴァンズ」は直ちに空母の救援に向かい、
一時艦内を焼き尽くした火災を逃れて海に飛び込んだ166名を救助し、
彼らを他の艦船に移送する任務を行いました。

そして5月14日朝の空襲で、勇敢な老戦士USS「エンタープライズ」
菊水六号作戦の別隊である第6筑波隊と第2魁隊、
第8七生隊、第6神剣隊の爆戦隊が襲いかかりました。

この日の部隊はそのほとんどが学徒士官で、上記大学以外では
京都帝大、九州帝大、日本大学、同志社大学、拓殖大学、専修大学、
國學院大学、大分師範(現大分大学学芸学部)法政大学、
宇都宮高等農林学校(現国立宇都宮大学)京都師範(現京都教育大)出身と、
予科練出身は全体のうちわずか6名しかいないという
陣容でした。

この乱戦で4機の敵機が撃墜されましたが、そのうちの1機は
「ザ・サリヴァンズ」の攻撃によるものでした。

そしてこれが第二次世界大戦中の最後の戦闘行動となったのでした。


■ 1951年〜朝鮮戦争

戦後働きすぎた艦体を休めるべく予備役に入った「ザ・サリヴァンズ」ですが、
1951年、朝鮮戦争の勃発を受けて再活性化し、今まで戦っていた国、
日本に初めて向かうことになります。

10月10日に佐世保に到着し、第77機動部隊に加わった後は、
MiG15と戦うF9Fパンサーの支援を行いました。

流石にこの時代には対空砲で敵機を撃墜することはないので
対空砲の出番はありませんが、艦砲射撃の威力は健在でした。

主に国連の地上部隊を支援するために列車、トンネル、
鉄道車両や車両基地を砲撃し、北朝鮮軍の地上砲を破壊したこともあります。

■ その後退役まで

朝鮮戦争終了後「ザ・サリヴァンズ」は東海岸と地中海で活動しました。

レバノン紛争に介入する海兵隊の支援を行ったり、
海軍兵学校生徒の訓練航海を行ったり、
アスロックミサイルの評価試験を行ったり、
その間事故航空機の海上生存者救出を行ったり、
外国海軍との国際合同演習に参加したり、
「マーキュリー計画」を想定した訓練を行ったり、
「キューバ危機」が起こると海上封鎖に駆け付けたり
「スレッシャー」事故の調査活動に加わったり、

と、ほとんど休息の間もなく働き続けた結果、
1965年にフィラデルディア海軍造船所で退役しました。

■ 博物館展示


1970年代まで予備役、1974年に正式に除籍されてから3年後、
「ザ・サリヴァンズ」はエリー郡海事軍事公園に展示されることになりました。

「ザ・サリヴァンズ」は、ここでもご紹介したことがある
「カッシン・ヤング」「キッド」(バトンルージュ)
「ヴェロス」(ギリシャ)らと同様、世界に現存している4隻の
「フレッチャー」級駆逐艦の1隻です。

その後1995年に「アーレイ・バーク」級ミサイル駆逐艦、
「ザ・サリヴァンズ」が進水しました。

命名を行ったのは、サリヴァン五兄弟の末っ子であるアルバートの孫、
ケリー・アン・サリヴァン・ローレンでした。



「ザ・サリヴァンズ」シリーズ終わり




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2 Comments

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海軍特攻機 (お節介船屋)
2024-08-02 09:50:25
心が重いです。
昭和19年10月20日大西中将が編成を命じ、25日18機の特攻機が出撃し、昭和20年8月15日宇垣中将の突入まで海軍が編成出撃した海軍機は約2、360機で体当たりが確認されたか、突入敢行と認められた機数は1,337機でした。連合艦隊司令長官からその氏名が全軍に布告された将兵は2,511名でした。
当初は零戦を改造爆装した戦闘爆撃機でしたが彗星、九九艦爆、銀河、月光、天山の順に使用され、戦況の悪化、人員、航空機の補充能力不足から桜花を搭載した一式陸攻、九七艦攻、水上偵察機瑞雲、九六艦爆、零式観測機が使用されました。これらは一応戦闘用ですが、昭和20年5月25日から遂に鈍足の機上作業練習機白菊まで使用しました。新鋭機流星、中間練習機も使用しました。

陸軍も昭和19年10月20日特攻隊が編成されましたが参謀総長梅津大将命で内地で爆撃機での編成でした。初出撃は11月7日、敵を発見せず、11月12日突入が発表されました。その後戦闘機、襲撃機、偵察機、直協機も使用、ただ残念ながら陸軍の搭乗員は海、艦船種類等の知識があまりなく、大きさ、速度、隊形等を瞬時に判断しての突入であり、相当無理で陸軍発表の戦果は誤りが多いこととなりました。海軍も末期経験浅く、勤務も短い搭乗員にもかなり大きな誤りが多くありました。

この特攻は?
大きな犠牲を払い、無駄であったでしょうか?
勝利には役立ちませんでしたことは事実ですが、本土上陸を遅らせ、本土上での激戦がなくなったことに寄与したのではないでしょうか?
この戦法の創始者大西中将が副官に話した
「棺を蓋うて定まらず、百年の後にも知己をえないかもしれない」

参照朝日ソノラマ奥宮正武著「海軍特別攻撃隊」
返信する
こりゃ大変だ (Unknown)
2024-08-02 13:51:19
本文では、台湾沖海戦の後、沖縄戦までの間の記述がなかったので「ザ・サリバンズ」は最大の海戦だったレイテ海戦はお休みだったかなと思ったら、獅子奮迅の活躍をしていました。

レイテ沖海戦
1944年10月20日「ザ・サリヴァンズ」はTask Group 38.2に加わり、レイテ沖海戦に参加。一式戦闘機1機を撃墜した。

戦艦「アイオワ」と「ニュージャージー」3隻の軽巡洋艦、そして「ザ・サリヴァンズ」を含む駆逐艦8隻はTask Group 34.5を編成し、日本艦隊を追撃したが取り逃がした。

フィリピンの戦い
「ザ・サリヴァンズ」はTask Group 38.2に復帰し、11月19日、対空戦闘によって一式陸攻1機を攻撃したが、撃破出来ず。6日後、日本軍機1機を撃墜。

12月8日から11日にかけて演習を行った後、コブラ台風に遭遇。12月18日に風速115ノットにも達した激しい暴風に襲われ、駆逐艦3隻が沈没し数隻が損傷したが、煙突に「幸運のクローバー」を描いていた「ザ・サリヴァンズ」は被害を受けなかった。

12月30日「ザ・サリヴァンズ」は「アイオワ」を護衛し、台湾を空襲するTask Group 38.2として活動した。1945年1月9日、バシー海峡を抜けて南シナ海に入り、3日後、サイゴンとカムラン湾を空襲した。空襲後「ザ・サリヴァンズ」は戦艦2隻、重巡洋艦2隻、軽巡洋艦3隻、駆逐艦14隻とともにTask Group 34.5を編成し、日本の残存船舶を掃討するためにカムラン湾へ向かったが、船舶の姿はなかった。

硫黄島の戦い
1945年1月下旬にウルシーで短期間の整備を行った後「ザ・サリヴァンズ」を含むTask Group 58.2は日本本土への空襲を行った。2月16日から17日にかけて東京やその周辺を空襲し、さらに1月18日から21日まで硫黄島の地上目標を攻撃した。海域を離れたTask Groupは、2月28日に沖縄沖で給油を受けた。同日「ザ・サリヴァンズ」は機雷1個を発見し破壊した。3月1日に艦載機を発進させ、沖縄の日本側拠点へ空襲を行い、反撃を受けることなくウルシーへ後退した。

この後、沖縄戦に続く訳ですが、1945年1月下旬に二週間程度の整備を受けただけで、ずっと走りっぱなしですね。戦争中なので、仕方がないと言えばそれまでですが、これは大変だっただろうと思います。半年程度の派遣で泣きを入れていたらダメですね。
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