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マイナスDデイ、プラスDデイ〜国立アメリカ空軍博物館

2024-08-17 | 航空機

■ノルマンディ侵攻のための「軟化作戦」

Dデイを前に、第9空軍の中型爆撃機と戦闘爆撃機は、
ノルマンディー地方のドイツ空軍飛行場、V-1発射場、
海岸砲台、主要な橋、鉄道操車場を攻撃しました。



アメリカ軍爆撃機搭乗員の記録に爆撃地「パリ」とあって、
どこにどんな攻撃をしたのか気になっていましたが、これでした。

ドイル軍のノルマンディーへの進軍を阻止するため、
破壊して使用不可能になったパリの鉄道操車場。



第9空軍爆撃機隊の12階にわたる攻撃で周辺まで穴だらけになった

フランスのボーボワ(Beauvoir)のV-1ロケットの発射場並びに倉庫。

しかし、こうしてみると弾着はずれの多いこと多いこと。
一発も有効なところに落とせなかった爆撃機もかなり多そうですが、
とりあえずそのクルーは機体の爆弾マークを書き加えたんだろな。



第9空軍指令であるホイト・ヴァーデンバーグ少将が
1944年の8月から戦争が終わるまで用意されたスクラップブックの挿絵。

イングランドから飛んできた「刃」が、
「上陸予定地」からセーヌ川沿いに大地を真っ二つに切っており、
その途中にはパリがあります。

右側の吹き出しには

「敵にはこの地域に侵攻すると思わせる」

とあります。

第9空軍は、ダミーの陽動作戦として、
「連合国はパ・ド・カレーに上陸する」
とドイツ側に思わせるための作戦を実行しました。

右下には、

橋梁阻止プログラム 第1部:

ノルマンディーの戦闘区域を孤立させることを目的とした

プログラムの第一段階は、「Dマイナス90」から「Dデイ」までである。

パリから海峡に向かうセーヌ川に架けられた

すべての鉄道橋と道路橋を破壊し、機能不全とする。

これは、ビーチヘッド地域を含む最終阻的な足止め地域を円で記す場合、

この円の北側の弧部分を形成することになる。

さらに北のミューズ川とアルベール運河の橋も攻撃し、

これによって敵の動きを妨げると同時に、
実際の侵攻作戦範囲を敵に勘違いさせる。

次のページでは、この計画がどのように実行されたかを図解で示す。


Dデイを「ゼロ」として、その準備段階をマイナスとし、
90日前から準備&予備攻撃を重ねて敵を翻弄させようとしています。



Dデイの「プレ侵攻」として、ポワント・デュ・オック(岬)に
爆撃を行った第9空軍のダグラス軽爆撃機A-20ハボックの編隊。

爆弾が落とされたのはまさにこの先端部分です。



ラ・ポワント・デュ・ホックは、ノルマンディー北西海岸にあり、
イギリス海峡を見下ろす35メートルの断崖絶壁の岬です。

ここにはドイツ軍の掩体壕と機関銃陣地があり、
Dデイには、アメリカ陸軍レンジャー部隊が崖を乗り越えて占領しました。


爆撃機にとっての最大の脅威であったのは戦闘機と対空砲でした。
戦闘機が弱体化した頃、連合軍は対空砲を「元から断つ」作戦として、
第8空軍のリパブリックP-47に「フラックタワー」、つまり
対空砲タワー(おそらく司令塔)を攻撃させました。

この時、同時に戦略空軍はヨーロッパのドイツ空軍基地を叩いていました。



敵の砲火を受けながら、航空技術者たちはノルマンディーに
このような前線滑走路を迅速に建設していきました。

第9軍の戦闘爆撃機18機と中型爆撃機4機によって
8月末までに大陸を拠点とすることができました。




■ オーバーロード作戦:Dデイ侵攻



1944年6月6日、ノルマンディ侵攻当日の各国連合軍の侵入経路です。
米軍はポン・デュ・オックとメール・エグリースから、
空挺部隊2個師団(第101&第82空挺団)を上陸させ、
イギリスも空挺部隊をその反対側に上陸させます。

わかりやすい侵攻作戦図

同日、米第9、第8空軍はRAFの航空機とともに敵の陣地を攻撃しました。
侵攻前のコツコツ積み上げた前準備のおかげで、
Dデイにドイツ空軍機はほとんど姿を見せませんでした。

そしてノルマンディーに通じる橋のほとんどが破壊されたため、
ドイツ軍は増援部隊を送り込むことが非常に困難となり、
救援部隊は前進を試みても絶え間なく空襲を受けることになりました。

Dデイ後の数週間、連合軍はビーチヘッドをかろうじて守りながら、

敵よりも早く兵力と物資を運び込み続けました。

このとき第9空軍が敵兵力、戦車、物資の阻止に貢献したことが
連合軍の戦況を有利にしたのは明らかでした。


第9空軍副司令官ラルフ・ロイス少将(右から2人目)。
ノルマンディーのビーチヘッドで工兵たちと。


1944年6月15日、サン・メール・エグリーズ近く、
荒地の滑走路でのP-47戦闘爆撃機パイロットたち。

8月末までに、第9空軍の戦闘爆撃機18機と中型爆撃機4機は
大陸側を拠点としていました。

■ 打開とフランス縦断レース〜プラスDデイ

第9空軍の空爆で破壊されたドイツ軍戦車、1944年7月26日

かつて、ドイツ軍の第二パンツァー師団長だった
ハインリッヒ・フォン・リュトヴィッツ元帥(男爵)は、
7月25日、ザンクト・ローに連合軍が降らせてドイツ戦線に穴を開けた
「爆弾の雨」を評してこう言いました。

「敵機はあらゆる動きに対し空爆を加えてきた。
それは相手に無力感を引き起こ酢ようなものだった。
経験の浅い部隊に与える影響は、文字通り "魂を打ち砕く "かに思えた」

これほどに、連合軍のドイツ軍に対する空爆は執拗でした。

汽車ごと空爆を受けたモーゼル川の鉄橋

このとき、第9空軍の戦闘爆撃機は敵陣の背後についてまわり、
ドイツ軍の援軍を寄せ付けないだけでなく、
連合軍の攻撃に巻き込まれた兵士の逃亡を阻止さえしました。

ドイツ軍は日中の移動ができず、分散して夜間に移動しましたが、

道路は退却する軍団で渋滞し、標的となって空から狙われました。

空爆を受けるくらいならと、9月10日、フランスのボーガンシーの近くで
約20,000人のドイツ軍が第9空軍に投降してきたこともありました。


1944年、破壊されたブレストのドイツ軍要塞
穴しか見えねー

■ 連合軍搭乗員の墓


ヴァンデンバーグ少将のために用意されたスクラップブックの続きです。

この図はセント・ローでの絨毯爆撃後、
空と地上での連携のパターンがどう動くかを示しています。

真ん中の矢印は、
「断崖ポケットに囚われている敵軍を空爆」

上の戦車の上に見える矢印は、
「空は前進する機甲部隊を援護する」

左側の矢印は、
「ロワール川沿いの陸軍第三師団の右脇を航空がカバー」

陸軍第1と第3師団の隊列は航空機と協力してドイツ軍退却を妨害しました。
空地が協力して行った戦術として最も効果的だったとしています。

熾烈な攻撃は当然連合軍側にも多数の犠牲を生みました。



C-47に牽引されて空挺部隊の乗り込んだグライダーの残骸。
着地の時に衝突して何機かが乗員を道連れにクラッシュしました。


火薬工場の倉庫を空爆した際、爆発に巻き込まれたP-47サンダーボルト。
パイロットは機体と共に墜落し死亡しました。

この機体の前の十字架と50径弾薬で囲んだパイロットのお墓は、
空爆後付近に住んでいたフランス人夫婦が作ったものだそうです。

よく見ると、花が植えられ、彼が生前付けていたらしい
航空手袋が片方だけ供えられています。


続く。


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1 Comments

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ウクライナに栄光あれ (Unknown)
2024-08-17 08:03:53
連合軍の大陸(フランス)侵攻作戦は、ドイツ軍が国境を接したポーランドやフランスに侵攻したのと段違いの難しい作戦(渡洋作戦)だったと思います。主力は米英軍で、どれくらいの自由フランス軍が参加していたのか、不勉強で知りませんが、フランスの解放は、事実上、米英軍におんぶにだっこだと思います。しかるに、なぜに戦後の国際社会でフランスは国連安全保障理事会で常任理事国の地位を占めることが出来たのでしょうね。

ウクライナは、自国の国防費以上の支援をアメリカその他から得てロシアと戦っていますが、一部の国土を占領されているとは言え、ゼレンスキー政権は一歩も引かずに踏ん張っており、ウクライナが前面で戦っていることに疑問を抱く人はいないと思います。

第二次世界大戦中、ドイツが侵攻したフランスで、どの程度の抵抗があったのか。レジスタンスというのは聞きますが、傀儡政権の統治下で、ウクライナのように政権が主体としての抵抗はしていないように思えます。

アメリカ大統領選挙の結果次第では、支援を打ち切られるかもしれず、そうなると停戦しかあり得ない。不利な条件で戦い続けて来たウクライナとしては、停戦交渉で少しでも有利になる事実を積み上げておかないと好きなようにロシアにやられる。そういう計算があり、今月に入ってロシアのクルスク州に侵攻したのだと思います。したたかですね。ウクライナに栄光あれ。
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