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バーキン片手に靖國神社

K-9とMWD 軍用犬の歴史〜フライング・レザーネック航空博物館

2021-11-14 | 博物館・資料館・テーマパーク

「海兵隊の軍用使役犬が戦闘に寄与する能力は、
人や機械では再現できるものではない。
そのパフォーマンスの費用対効果は
我々の所有するどんな装備よりもある意味優れている。

この信じられないほど貴重な資源にもっと投資しなければ、
我々の軍隊は立ち行かなくなるだろう」

これは、デビッド・H・ペトラエウス海兵隊将軍の言葉です。

フライング・レザーネック博物館は、かつての展示を
かなりボリュームダウンし、最小限に絞ったらしい、
と帝国海軍搭乗員コーナーの説明の日に述べましたが、
全体を見て思うに、それは新たに本日紹介する
海兵隊の軍用犬コーナーを拡張するためだと気づきました。



決して広くない室内展示スペースのほとんどが
軍用犬の紹介のためのパネルに割かれていたのです。

どういう事情で軍用犬をクローズアップすることになったのか、
今のところ説明がないのでわかりませんが、
今日はそのミリタリー・ワーキング・ドッグ、MWDを紹介します。

■軍用犬の歴史



軍用犬は、エジプト、ギリシャ、ペルシャ、サルマティア、アラン、
スラブ、ブリトン、ローマで使用されました。
記録に残る限り、戦闘で軍用犬を最初に使用したのは、
紀元前600年頃のキンメリアに対するリディアだったと言われています。

🐕紀元前7世紀半ば:エフェソがマグネシアと行った戦争では、
最初に犬を放ち、続いて槍、そして騎兵の突撃という順序で攻撃した。
犬と一緒に埋葬された騎兵の墓が遺されている。

🐕古代末期、フン族のアッティラは巨大なモロッサー犬
(ブルドッグやマスチーフ、パグなど)を使用した。

🐕紀元前525年:ペルシウムの戦いで、カンビュセス2世は
動物に対するエジプトの宗教的敬意を利用して、
最前線に犬や猫など動物を配備し、攻撃できないようにした。

🐕紀元前490年:マラトンの戦いで、犬が重装歩兵隊に配備され
ペルシャと戦った様子が、壁画に遺されている。

🐕紀元前231年:ローマ軍はサルデーニャの内陸部で
「イタリアからの犬」を使って洞窟から先住民を追い出した。

🐕ヨーロッパの王族の間では繁殖用の軍用犬を贈りあう風習があった。

🐕スペイン軍は、訓練したマスティフやその他大型犬を使い
ネイティブアメリカンに腹裂きの刑などを行って虐殺した。

🐕犬をメッセンジャーに使ったのは七年戦争の時のフリードリッヒ大王で、
ナポレオンもまた、戦争に犬を使用していたと言われる。

🐕フランスの海軍施設では1770年まで警備犬が使用されていた。

🐕1914〜1918年:第一次世界大戦で犬は主に通信用として使われ、
約100万匹が戦死したとされる。

スタビー軍曹
アメリカン・ピット・ブル・テリアのミックスである
スタビー軍曹(Sgt Stubby)は、

第一位世界大戦中最も有名な犬であり、勲章も数多く授与されている。

SGT STUBBY Official US Teaser Trailer 02 2018

アメリカでの軍事目的での犬の最初の公式使用は、セミノール戦争のときです。
南北戦争でアメリカン・ピット・ブル・テリアは、通信任務に使われ、
第一次世界大戦では兵隊募集のポスターにマスコットとして使用されました。


第一次大戦の頃のピットブルをアメリカに準えた謎のポスター。


左から、
スウェーデンブルドッグ、ジャーマンダックスフント、
アメリカンブルテリア、フレンチブルドッグ、ロシアンウルフハウンド。
最後はつまりボルゾイということですね。

ピットブルテリア君は、
「僕はニュートラル。でも、彼らなんか怖くないぞ!」
と言っています。
第一次世界大戦の時の最初の頃のアメリカの立場を表明しているんですかね。

🐕1941–1945:ソ連は犬に爆薬をつけてドイツの戦車に放った。

🐕1943年から1945年:アメリカ海兵隊は、市民から寄贈された犬を
太平洋における日本軍からの島嶼奪回に投入した。
この時期、ドーベルマンがUSMCの公式犬と決められた。

基本的にすべての品種の犬が「太平洋の軍犬」として投入された。
戦争から戻った549匹の犬のうち、民間の生活に戻れなかったのは4匹。
その他はハンドラーが家に連れて帰っている。


Chips the dog
ジャーマンシェパードのチップス
は、当時最も表彰を受けた軍犬です。
戦地でアイゼンハワー将軍の謁見を受けたこともありました。

しかし、もともと彼がなぜ軍隊入りしたかというと、
ゴミ収集人にかみついたので、飼い主が持て余していたところ、
ちょうど軍が犬を募集していたので送られてしまった
のだとか。

🐕1966〜1973年:ベトナム戦争には約5,000匹の軍犬が参加した。
約10,000人の軍人がハンドラーに割り当てられ、
K9ユニットは10,000人以上の人命を救ったと推定される。

 
一方、232匹の軍用犬と295名のハンドラーが戦死した。
約200匹のベトナム軍用犬が戦争を生き延び、
国外のアメリカ軍基地に配属されたと推定されている。
残りの犬は安楽死させられるか、現地に置き去りにされた。

🐕
2011年:ネイビーシールズがカイロという名前のベルギーシェパードを
オサマ・ビン・ラディンの殺害チームに参加させていた

このとき参加したネイビーシールズのメンバーは、
なぜか全員がその直後謎の死を遂げましたが、
カイロ犬がどうなったかまではわかっていないようです。

犬は都合の悪いことを喋ったりしないのでセーフ・・おっと。

■K-9

ハリソン・フォードの潜水艦映画にこんなのがありましたね。
・・・それは19や!というツッコミを待つまでもありません。

K-9。
英語に接しているとときどきこの言葉を耳にします。

K-9、それは「dog」と同義です。

特に法執行機関や軍用犬などの作業犬を指すことが多く、
特に軍は略称や記号による言い換えを好むのでよく使われます。

数詞(Numeronyms)とは、数字を基にした言葉で、
数字が特定の音を言い表しているものですが、
Canine=ケイナインは、たまたま数詞によりできており、
犬やキツネ、オオカミなどのイヌ科を指す言葉です。
「ケイナイン」を「K9」と表記する数詞はそのまま「犬」を表します。

たとえば忙しい動物病院やアニマルシェルターでは、
手術の手配や施設内の動物を把握するとき、
「犬」をK9と表記することがあります。
dogと一字しか違いませんが、そう書く方が「専門ぽい」からかな。


警察犬の場合は、パトカーの車内に犬がいることを知らせる表示や、
警察犬が着用するユニフォームなどに「K9」の文字が使われます。

K9ユニットは、日々の巡回から麻薬輸送の痕跡の発見まで、
あらゆる活動において日々活躍しています。
警察犬とハンドラーは、それぞれの仕事に適した特別な訓練を受けており、
優秀な警察犬は非常に貴重な存在として尊敬されます。

余談ですが、アメリカでは警察犬も軍用犬と同じく階級がつけられます。
昇進とかはなく、自動的にサージャント(巡査部長)になるのですが、
この理由は、万が一犬が任務上反撃者に殺傷された場合、
ただの犬では法的に物損事故にしか問えないので、
階級をあたえているのだとか。(MK情報なのでソースなし)

たとえばダックスという名前だと、K-9 Sgt. Daxという具合です。

ちなみに日本はアジアでは数少ない警察犬を採用している国ですが、
犬は基本的に「装備」扱いで階級は与えられません。

■逃走した警察犬「クレバ号」とその後

ところで超余談ですが、日本の警察犬「クレバ号」の話、ご存知ですか?

2020年(令和2年)10月24日に、行方不明者の捜索にあたっていた
兵庫県警察の警察犬・クレバ号が突然走り出し、その拍子に
鑑識課員の手から
リードが離れて逃走してしまった。

県警は鑑識課員ら約40人態勢でヘリを投入し連日捜索を続け、
3日目の午前に、逃げ出した場所から南西へ約100メートル離れた山頂付近で、
木に
リードが絡まって動けなくなっていたクレバ号を鑑識課員が見つけた。



その後クレバ号は、多くの市民の請願もあって再訓練後、現場復帰し、
復帰後4日目に行方不明の女性の捜索に出動して見事探し出し、
手柄を上げて表彰されたばかりか、今年の6月7日、
やはり行方不明の高齢男性を40分で見つけ出しました。

わたしはこういう話にめっぽう弱いもので、
山中で動けなくなっていたクレバ号の様子を想像したり、
その後の汚名返上の大活躍のニュースを見聞きしただけで
不覚にも目頭が熱くなってしまいます。



■ 海兵隊のMWD軍用犬


海兵隊ではK-9の名称は使わず、一般的にMWDと称しているようです。
(もちろんKー9も使われます)

アメリカ国内と世界の全てのUSMC基地には、
2010年に更新された最先端の犬舎と訓練施設をホストする
海兵隊ミラマー航空基地が編纂した軍用作業犬プログラムがあります。

なるほど、これで、ここに軍用犬のコーナーが
大々的におかれている訳がわかりました。

海兵隊のドッグ・ハンドラーの職業コードはMOS5812
とくにミラマー基地のハンドラーはその中でもエリートだそうです。

海兵隊のハンドラー職種募集のページは、こんな言葉から始まります。

「暑い砂漠の道を進む隊員の目の前で、爆発物を発見した自分のパートナー。
親友、忠実な仲間の姿に、あなたは誇りを感じます。

自分とパートナーが一体となって訓練を共にした結果、
無数の隊員の命を救い、その喜びを分かち合うことができるのです。

これが、海兵隊の軍用作業犬ハンドラー(MWD)通称MOS 5812の生活です。

このMOSは、模範的なリーダーシップを発揮し、
通常の海兵隊に課せられる以上の任務をこなし、厳しい選考を経て
軍用K9との共同作業に選ばれた海兵隊員にのみ与えられる称号です」


MOS 5812は、もともと5811(憲兵)だった海兵隊員が
副次的に応募して取得することのできる職種MOSです。

K9ハンドラーになるために最も模範的な海兵隊員だけが、
非常に競争の激しい選考プロセスを経て選ばれる職種で、
それゆえ彼らは海兵隊の「エリート」とされているわけです。

それでは次回は、FLAの展示をもとに、
海兵隊のK-9とハンドラーについてお話ししましょう。

続く。


海兵隊航空の誕生〜フライング・レザーネック航空博物館

2021-11-01 | 博物館・資料館・テーマパーク

疫病が流行る前、サンディエゴで軍事博物館巡りをしました。
その中の一つが、今回紹介する

Flying Leatherneck Aviation Museum
(フライング・レザーネック・アビエーション・ミュージアム)
です。

一人でサンディエゴ入りしたわたしは、毎日のように
車を駆ってサンディエゴ近辺にある博物艦を訪ね、
写真を撮りまくりましたが、基本的にどの博物館も、
特に平日はほとんど人影もなく、ボランティアが運営していて
おそらく資金は募金に頼っているのだろうという寂れ具合が目につきました。

今回久しぶりにHPを見ると、COVID-19の流行が打撃となったのか、
博物館は一時的に公開を中止しているということでした。

「近日中に、航空機と展示品を新しい場所に移す計画について、
エキサイティングな発表がある予定です。
それまでの間、Flying Leatherneck Historiclal Foundationは、
学校のプログラムや訪問、海兵隊員の配偶者の表彰、
従軍した人々の経験の記録などを通じて、
USMC航空の遺産を保存し、共有する活動を続けています」

とあるわけですが、
「エキサイティングな発表」がいつなのかとても心配です。
なぜなら、その直後、ごく最近のリリースによると、

2021年、米海兵隊はMCASミラマーの現在の場所にある
フライング・レザーネック航空博物館を永久に閉鎖すると発表しました
。 

とか。

ただし、同博物館の支援者たちは、同博物館の永久閉鎖と
遺物・航空機の散逸を防ぐため、新しい場所への移転に取り組んでいる、
とも書かれています。


Flying Leatherneck Aviation Museumは、
米国海兵隊(USMC)の航空を専門とする世界で唯一の博物館であり、
米国海兵隊のパイロットが操縦した歴史的な航空機のコレクションとしては、
世界最大かつ最も充実したものです。

この博物館では、米国海兵隊の航空の歴史と、
アメリカを守るために果たした役割を紹介するため、
1989年にカリフォルニア州オレンジ郡のMCASエルトロに設立されました。

1999年に基地再編によりエルトロが閉鎖されると、
ボブ・ブッチャー少将とフランク・ラング少将が率いる
サンディエゴの退役海兵隊員のグループが中心となって、
航空機と遺物をMCASミラマーに移転させました。
そして、2021年3月には、MCASミラマーからの移転が発表されたのです。

新しい場所での博物館の再開に向けた最終的な計画は未定でありますが、
従業員やボランティアによるビンテージ航空機の維持・修復は
今も続いてはいるようです。


いずれにしても、こんなことになる前に精力的に訪問し、
写真を撮っておいてよかったと今は思っています。



まずナビ通りに到着したと思ったら、そこは民間空港に続くエントランスでした。
「セスナ」の看板がまず目につきます。
セスナが経営している飛行士養成学校があるようですね。

自家用飛行機の販売とメンテナンス、それから預かりもやっています。
まるで自動車学校並みに気軽に操縦が学べそうです。
ただ、アメリカだと、ライセンスを取るだけで最低でも三百万かかりますし、
機体の値段はそれこそピンキリですが、維持費が馬鹿にならないようです。

まあ、車みたいに家に置いておくわけにもいきませんしね。



海兵隊空軍基地の周りに、民間空港があるというのも、
いかに土地がふんだんに余っているかということですね。

空港のエプロンには、その年の10月に行われた
歴史的軍用機などのラモーナ航空ショーのポスターが貼ってありました。
ラモーナはミラマーから少し内陸に入った街です。



フライング・レザーネック航空博物館は、カリフォルニア州サンディエゴの
ミラマー海兵隊航空基地の近くにある、アメリカ海兵隊の航空博物館です。

ミラマーという地名をわたしはいつのまにかよく知っている気がするのですが、
この訪問のとき、そこがミラマー基地の一角であるとはいえ、
あまりに広大でまったく空軍基地らしい気配がなかったので
不思議に思ったものです。

この博物館には、米国海兵隊の航空の歴史と遺産に関する展示品があります。
屋外展示では、31機の歴史的な航空機、軍用車両や装備品が展示されており、
屋内展示では、航空黎明期から現在に至るまでの写真、工芸品、
そしてアートワークが展示されています。

駐車場に車を停めると、金網の向こうはもう展示機です。


こういう博物館にありがちな佇まい。
航空機などの展示が外にある場合、大抵その他の展示は
ちょっと大きめの家くらいのスペースに並んでいるものです。

案の定、入っていくと、ボランティアらしい男性がひとりだけ、
カウンターにいて入場料をそこで払いました。

【レザーネックとは】


まず入ったところに有名な(たぶん)海兵隊航空隊募集ポスターがあります。


海兵隊航空隊の黎明期にパイロットを募集するために制作したもので、
「航空 アメリカ海兵隊と一緒に飛翔しよう」
という文字、そして当時の海兵隊員が(ボーイスカウトみたい)
ワシの背中に乗っている意匠となっています。

複葉機の尾翼にはフランス国旗のような三色ペイントがあります。
これは当時海兵隊が装備していたアメリカの初期の複葉機、
チャンス・ヴォート のVE-7「ブルーバード」だと思われます。


その模型も展示されています。
ヴォートVE-7は1917年に初飛行を行った後、陸軍では練習機、
海軍では最初の戦闘機として採用されました。


正式に海兵隊に航空部隊が組織されたのは1917年です。

フライング・レザーネック航空博物館は、アメリカ海兵隊の飛行士が操縦した
歴史的な航空機の世界最大のコレクションを有し、
屋内には第一次世界大戦から今日までのアート、写真、軍服、
その他歴史的資料などが展示されています。

博物館には27,000平方フィートの修復用格納庫があります。





「フライング・レザーネック」はつまり「飛ぶ海兵隊員」です。
それでは、なぜ海兵隊員をレザーネックというか、
当ブログでは何度も説明してきましたが、ここに書いてあるのを
そのまま翻訳しておきます。

「ご存知でしたか?
レザーネックは海兵隊のニックネームです。
1798年から1872年まで、海兵隊員は皮で作られたネックをもつ
ユニフォームを着用していました。
3.5インチの硬い革は「ストック」と名付けられ、二つの役割を持ちました。

1)首、急所となる静脈の保護
2)行進の際、海兵隊員の首を真っ直ぐ立て、顎を高く保持させる

戦闘でこのストックの使用は、海賊のカットラス(長刀)から首を保護しました。
ジェファーソン大統領任期中起こった第一次バーバリー戦争では、
このアメリカの新しい戦闘部隊が
身代金のために貿易船を拿捕するイスラムの海賊たちと交戦しました」



「海兵隊航空の祖 カニンガム」



さあ、それでは展示品を順番に見ていきましょう。
イギリス軍の形のヘルメットにラウンデルがペイントされていますね。
これは第一次世界大戦時の海兵隊の装備です。


この錨とラウンデル、ワシを組み合わせた意匠が
第一次世界大戦時に海兵隊が使用した徽章でした。


海兵隊はご存知の通り海軍の軍艦に乗り込み警備を行うのが本来の任務ですが、
航空隊の発祥には一人の海兵隊員の存在がありました。
アルフレッド・オーステル・カニンガム中佐(最終)
(Alfred Austell Cunningham1882-1939)です。


カニンガム中尉(当時)

ヘルメットの横の説明です。



海兵隊航空団の黎明期
1912年、アルフレッド・A・カニンガム中尉が最初に飛行した海兵隊員になり、
1940年までに、少数精鋭の海兵隊員が軍用航空団の進歩に寄与しました。

海兵隊は、特に水陸両用任務を支援することに焦点を置いています。
1912年、数名の勇気ある男性と、ほんの少しの原始的な航空機から
出発した海兵隊航空団は、第二次世界大戦の頃には
戦闘任務を行える軍隊に成長したのです。

カニンガム中尉は、少尉時代、ポケットマネーで
民間の飛行士につき25ドル払って飛行機を借り、
自己流で飛行機を飛ばそうとしたほど空に憧れていました。

その熱心さが海兵隊内部で認められ、特別にアナポリス海軍兵学校の
航空訓練課程に出向を命じられるまでになったのです。
そして彼が海軍の航空課程で初めて単独飛行を行ったのが1912年5月22日。

彼の乗った飛行機が地面離れたその日が、
海兵隊航空隊の「誕生日」とされているのです。

余談ですが、それほど熱心だった割には、彼は婚約者から
「(危ないから)飛行機をやめないと結婚してあげない」
と脅かされて?パイロットをあっさり辞めてしまっています。

この婚約者(とカニンガム中尉のあきらめの良さ)には
現代の感覚では色々と意見も出そうですが、
とにかく当時の航空機というのは不安定で危険が多く、
いつ事故が起こっても不思議ではなかったのです。
これから結婚しようとする人がこんな危ないものに乗っているなんて
とても承知できない、という婚約者の意見は無理もありませんでした。

カニンガムはその後海軍工廠などに勤務したものの、
結局パイオニアとして航空畑に呼び戻されました。
その後海兵隊航空部の司令官に任命され、
第一次世界大戦では海兵隊航空隊の指揮官として功績を挙げ、
飛行機に乗らずしてネイビークロスを受けました。

またカニンガムは駆逐艦DD-752にその名前を残しています。

【第一次世界大戦の海兵隊航空】

海兵隊の航空部門が初めて大きく発展したのは、
1917年にアメリカが第一次世界大戦に参戦したときです。
航空部隊が設立されてすぐさま戦争が始まったというわけですね。
 
航空部隊が最初に派遣されたのは1918年1月。
第1航空大隊が対Uボート戦のためにアゾレス諸島に派遣され、
その後第1海兵隊航空隊と正式に名称を与えられフランスに派遣されました。

ラルフ・タルボット少尉

この第一航空隊に所属していたときに、海兵隊飛行士として
史上初めて名誉勲章を受賞したのは、
ラルフ・タルボット(Ralph Talbot)少尉です。

これはつまり、海兵隊飛行士として最初に殉職した、という意味でもあります。

イエール大学在学中、同大学の砲兵訓練隊に参加していたタルボットは
航空に興味を持ち、飛行学校に入学しました。
その後二等水兵の階級で海軍に入隊し、
マサチューセッツ工科大学で行われた地上訓練、
(イエールといいMITといい、この頃は一流大で軍事訓練が行われていたんですね)
フロリダでの飛行訓練を経て海軍航空士となります。

当時海兵隊は飛行士の採用に苦慮していたため、いきなり
タルボットを海兵隊予備役の少尉として引き抜きました。

そして第一次世界大戦が始まります。
1918年、ベルギーへの空襲の際、タルボット少尉は
9機の敵偵察隊に襲われ、1機を撃墜。
その6日後、12機と交戦して1機撃墜。

この頃の戦闘機は銃撃手でもある「オブザーバー」を同乗していましたが、
彼のオブザーバーが撃たれたため、単独で戦闘を続け、
もう1機を撃墜した後、フォッカーD.VII戦闘機から逃れるためにダイブし、
ドイツ軍の塹壕を50フィートの高さで横切り、着陸して
オブザーバーを医療関係者に引き渡しました。

このわずか18日後の1918年10月25日、フランスの基地で
テスト中のDH-4が離陸時に墜落し、タルボット少尉は死亡しました。
享年21歳。



彼の名誉勲章はこの一連の戦闘と名誉ある死に対して与えられたものです。

彼が操縦していたエアコ(Airco)DH.4は、前年の1917年に配備され、
アメリカ軍では陸軍航空隊が採用した機体です。

1919年には、これらの部隊から第1師団/第1飛行隊が編成され、
現在もVMA-231として存在しています。


「第二次大戦後の海兵隊航空」

第一次世界大戦が終わると、海兵隊の航空部門は1,020人が割り当てられ、
各地に海兵隊航空基地が設立されました。

クアンティコ、パリス・アイランド、そしてここサンディエゴです。

パリス・アイランド、というとわたしには途端にピンとくる歌があります。
ビリー・ジョエルの「グッドナイト・サイゴン」です。

We met as soul mates on Parris Island
俺達はパリス・アイランドでソウルメイトとして出会った

We left as inmates from an asylum
訓練基地から同士としてアメリカを後にした


Billy Joel - Goodnight Saigon (Nationals Park July 26, 2014)

パリス・アイランドはノースカロライナ州にあり、
歌詞2行目の「アサイラム」は保護施設という意味ですが、
海兵隊ブートキャンプのことだと考えられます。
もう一つの海兵隊基地があるクアンティコは、ウェストバージニア州です。


その後海兵隊航空隊員は空と地上の戦術を駆使し、
地上の海兵隊員をサポートすることを第一の任務としました。

アルフレッド・カニンガムのような海兵隊の先駆的な飛行士たちは、
「どのような任務においても、航空の唯一の存在価値は、
地上の部隊の任務遂行を支援するのに役立つということである」

と指摘していました。

また、海兵隊といえば、急降下爆撃を発明したことでも有名です。
海兵隊が開発し始めたこの戦術は、他国空軍に先駆けて完成し、
海兵隊のパイロットの戦術的ドクトリンの一部となりました。




海兵隊が海軍の航空組織に正式に登場したのは、
1925年、海軍航空局長官ウィリアム・A・モフェット少将が、
3つの戦闘中隊を正式に認可する指令を出してからです。

20年代に入ると、海兵隊は空母に搭乗して訓練を行うようになりました。
このころ、太平洋艦隊の空母に2つの海兵隊偵察中隊が配属されたことが、
海兵隊航空の最大の進歩のひとつとなります。


そして、1933年、艦隊海兵隊が設立されました。
これにより海兵隊のドクトリンは、遠征任務よりも、戦争時に海軍基地を占領し、
水陸両用戦を支援することに重点が置かれるようになったのです。

その結果、1941年12月7日の真珠湾攻撃の日には、
海兵隊の航空部隊は13飛行中隊、230機で構成されていました。

【第二次世界大戦の海兵隊航空】

第二次大戦時の海兵隊航空士の装備です。
Pneumatic (空気入り)のライフベストには1945年3月の製造月日入り。
製造したのは「シームレス・ラバー・カンパニー」だそうです。

革製の航空帽には、イヤフォンとマイクが内蔵されており、
パネルと電源のプラグが見えます。

皮の手袋とレイバンのティアドロップ型サングラスは今でも使えそう。
メタルのケースに収められたゴーグルレンズがプラスティック製で、
レンズにカーブがつけられているのでおそらくかなり後期のものでしょう。

ラッキーストライクは戦争中、正式にCレーションに入れられて、
軍隊に配られていました。
戦場における兵士の士気を高めるのにタバコは不可欠だったのです。


第二次世界大戦中、海兵隊の航空部門は急速かつ広範囲に拡大し、
 ピーク時には5つの航空団、31の航空機群、145の飛行中隊を擁しました。

海兵隊航空の決定的なポイントとなったのはガダルカナル作戦です。
海兵隊の任務は水陸両用作戦における遠征用飛行場の迅速な獲得ですが、
太平洋で海兵隊航空は当初、艦隊海兵隊を支援するという
最初の任務を達成することができませんでした。

戦争が始まってから2年間、航空隊はそのほとんどの時間を、
敵による攻撃から艦隊や陸上施設を守ることに費やしていたのです。


タラワの戦いの後、海兵隊航空隊の中には
海軍機による地上部隊への航空支援に不満を持つものがでました。

「直接航空支援の原理を徹底的に学んだ海兵隊の飛行士が仕事をすべきだ」

こういった意見が出てからは、海兵隊航空隊による
海兵隊地上部隊への初めての本格的な近接航空支援が行われ、ブ
ーゲンビル作戦とフィリピン奪還作戦では、
地上で戦う海兵隊と航空支援を調整する航空連絡隊が設立され、
沖縄戦では、上陸部隊航空支援管制ユニットという形で
航空指揮統制が確立されたのです。



戦地で連絡を取る携帯電話(一応そう言いますね)は、
ちょっとやそっとでは破れなさそうなキャンバスのバッグ入り。
受話器が金正恩のヘアスタイルと同じです。


バックパックとヘルメットを備えた「シェルターパック」。

このセットに含まれる「シェルター・ハーフリンクル」は、
一時的にシェルターになり、避難の際偽装できるように設計されたテントです。

二枚のキャンバスとスミラー素材がスナップ、ストラップ、
ボタンによって取り付けられていて、大きな面を形成し、
隠れるのにちょうどいい大きさとなっています。

この装備は、ナバホ族の暗号スペシャリスト、
「ナバホコードトーカー」だった兵士が所有し、使用していました。



続く。




翼と祈り(A Wing & A Prayer)〜スミソニアン航空博物館

2021-10-30 | 博物館・資料館・テーマパーク

スミソニアン博物館の「第二次世界大戦の航空」シリーズ、
しばらく語ってきましたがいよいよ最終回です。
最後にぜひお届けしたいのは、

「翼と祈り」(A Wing & A Prayer)

というコーナーの写真展示。
これは敵機と戦って傷ついた機体の写真ばかりです。

まずタイトルの横の説明から見ていきましょう。

「航空機の設計で最も重視された要素の一つは、頑丈さです。
それは、敵戦闘機や高射砲などによって大きなダメージを受けた後も
飛行を続け、搭乗員を生きて帰らせることを第一義としていました。

特に、戦争が敵の領土上空、敵本土に深く入った地域で展開されたとき、
丈夫に作られたアメリカの飛行機は、
ほとんど壊滅的な被害を受けたとしても、
何百マイルの距離を安全に飛行することによって、
貴重な人材である連合国の空軍搭乗員たちを救うことができたのです。

このコーナーではこういった航空機の生還の例を示します」

ドイツのルドヴィヒスハーベンへの爆撃任務の際、
翼に大きな穴をあけられながら帰還したB-17フライング・フォートレス。

どんな大きな穴かは搭乗員四人が上半身を出せることからもわかります。

彼らは降りてきてすぐらしく、まだゴーグルなどもつけたままです。
おそらく、実際に見て被害の大きさと、それでもここまで飛んできた
機体の堅牢さに驚き、感謝したことでしょう。

念のため、彼らの顔をアップ。

一応笑っている人もいますが、どちらかというとぎこちなく硬い表情です。
機体が無事着地して動きを止めるまでは、
激しい緊張に生きた心地もしなかったのではないでしょうか。


爆撃機搭乗員を描いた映画「メンフィス・ベル」で、
破損したランディングギアを着地ギリギリまで手動でおろし続ける間、
全員がそれぞれの形で生還を祈るシーンがありましたが、
あのような光景がこのB-17の機内にも展開していたのでしょう。

爆弾マークの数の多さからも、ベテラン機であることがわかる、
(達成した任務は70回)この第12航空大隊のB-25ミッチェルは、
オーストリアへの爆撃任務の際、機首を吹き飛ばされました。

B-25のノーズはほとんど全面ガラスですから、おそらく帰りは
相当風通しが良かったと思われます。

ここには爆撃手と銃手がいたはずですが、彼らは無事だったのでしょうか。

こちらはBー24リベレーター

ユーゴスラビア上空で高射砲に見舞われました。
砲弾は胴体部分のコンパートメント内で破裂し、
制御ケーブルを切断してしまいました。

しかしこの機長はエンジンを使って進行方向を維持しながら
何とか無事にイタリアに帰還し着陸することができました。

きっとパイロットには殊勲賞が与えられたことでしょう。

サイパンから出撃したB-24リベレーターのコクピット。
硫黄島攻撃の際被弾し、操縦席の機長と副機長は共に負傷しつつも
機を操縦してサイパンに帰還することができました。

このB-17フライング・フォートレスは、ドイツ上空で敵の高射砲攻撃を受け、
制御ケーブルを切断し、二人のガンナーが負傷しました。

パイロットはそのままイギリスに飛び、
航空機関士に切れたケーブルの端を持たせ、
それを引っ張らせて何とか着陸することができました。

写真が不鮮明ですが、しゃがんでいる二人が見ているのが
そのくだんのケーブルだと思われます。

 

シンガポール上空で攻撃を受けた、
第20航空大隊のB-29スーパーフォートレス。
翼とエンジンが被弾したにも関わらず、無事に帰投することができました。

ヴィッカース・ウェリントン(Vickers Wellinton)は、
第二次世界大戦初期、王立空軍RAFで使用されていた
ヴィッカース製の爆撃機です。

ヴィッカースというとどうしても機銃をイメージしますが、
重工業会社として造船を行っていた当社が、
航空機製造を始めたのは1911年のことでした。

1920年代にはスーパーマリンを買収するなどピークでしたが、
戦後は航空機部門から撤退することになります。

「ウェリントン」はヴィッカース社が独特に開発した、
籠状に編んだ骨組みに羽布を貼った「大圏構造」
でできていました。

これによってウェリントンの機体は軽量かつ頑丈で柔軟性を持っていたのですが、
この不鮮明な写真でもおわかりいただけるでしょう。

機体後部の網のような部分、これが大圏構造なるものです。

メッシュ式の構造物をあえて剥き出して展示しています。
これは実にユニークな構造ですね。

Vickers Wellington.jpg

これが愛称「ウィンピー(Winpy)」の通常の姿。
もう一度最初の写真を見ていただくと、機体後部だけが剥き出しです。

このウェリントンは、当時盛んに行われていたドイツでの夜間空襲の帰り、
攻撃によって火がつき、外側の羽布が焼け落ちてしまったのです。

しかしながら構造物は無事だったため、外側を焼きながら飛んで、
なんとかイギリスに帰還することに成功しました。

このウェリントンに乗務していたのは、当時RAFの一部であった
ポーランド人からなる「外人部隊」の乗員たちでした。

イタリアの深い森林地域を機銃掃射しながら飛んでいたP-47サンダーボルト。
エンジンカウリング、プロペラ、翼全てにダメージを受けながら
無事に帰還することができました。

「穴の開いた翼から乗員が顔を出して記念写真」シリーズその2。

これは先ほどと同じ、イタリアに展開していたPー47サンダーボルト
無事に帰還後撮られたものです。
88ミリ機銃が直接翼に大きな穴を開けています。

イタリアで掃射中、第12航空隊P-47サンダーボルトのオイルラインに
高射砲が命中しました。
パイロットが無事に着陸したときには
エンジンの凍結がすでに始まっていたと言います。

第8航空隊のB-17フライング・フォートレスは、ドイツのケルン上空で
高射砲を受け、これだけの大きな穴が側壁に空いたにも関わらず、
無事にイギリスに戻ることができました。

壊れた機体と記念写真に収まっている乗員たちの顔は
やはりどことなく引きつっており、笑いはありません。

ノーズペイントはピースサインをする髭をはやした第一次世界大戦の兵士。
半裸や全裸の女性がほとんどのなかで異質の意匠ですが、
このおじさんは「オールド・ビル」といい、
これがこのB-17の愛称ともなっていました。

第365爆撃隊 B-17F「オールド・ビル」は、1943年5月15日、
ドイツ上空で敵戦闘機の正面からの攻撃を何度も受け、
深刻な被害を受けました。

この攻撃によってナビゲーター(ダグラス・ベナブル中尉)は死亡、
オールド・ビルに搭乗していたカメラマンを含む11人のうち、二人をのぞいて
全員がなんらかの負傷をするということになりました。

機長も副機長も負傷したため、無事だった爆撃手と二人のガンナーが
何とか安全地域にたどり着くまでの間操縦桿を握って二人を休ませ、
最後の滑走路への着陸だけをパイロットが行うことにして無事帰還しました。

吹き飛ばされた機首からは修理している地上作業員の姿が見えています。
作業員の足元にフライトジャケットが脱ぎ捨てられているように見えますが、
ここには当時極秘だったノルデン爆撃照準器があったため、とりあえず
それをかくすためにジャケットをかけて写真を撮ったようです。

手前の男性はオールド・ビルのノーズ・アートを描いた人なのだとか。

ノーズアートは大抵絵心のある乗員が製作しましたが、
この人がそうなのだとしたら、無事だったわずか二人のうちの一人が
まさにオールド・ビルの作者であったことになりますね。

機体の向こうが完璧に見える状態に・・・。
このB-17はハンガリー上空で直撃弾を受けました。

こんな状態で飛んで帰ってくることはもちろん不可能です。
着陸時に尾翼が崩壊し、そのショックで胴体は完全に破壊されました。

B-24リベレーターの尾部、銃手が配置されているところですが、
ドイツ上空で戦闘機によって激しく損傷を受けました。

写っているのは修理している人なのでご安心ください。

この状態で無事にイタリアの基地に戻ることに成功しました。

Bー26マローダーの尾翼部分を見たところ。

ほとんど縦一線に「筋目」がついているのは、
ノルマンディ上空で高射砲が当たった痕です。
この損傷によって尾翼はほとんど細断という状態になりましたが、
パイロットはエンジンのコントロールだけで方向を制御しながら、
イギリスに無事に帰ってきて帰投を果たしました。

傷ついた機体をコントロールして生還できるかどうかは
機長の冷静な判断と技術、知識、度胸次第ですが、
このマローダーのように特に優れたパイロットが乗っていたことが
乗員全員の命を救ったというのはラッキーで、もちろん戦争の期間
帰ってくることができなかった機体もたくさんあったのです。

ただ、その生還率を1%でも上げるために、アメリカという国が
航空機を作るときその堅牢さ何りも優先したことを忘れてはいけません。

助かった機体と皆で記念写真その3。

なんとこのB-17フライングフォートレス、
フランス上空でエンジンを失いました。
そして編隊を組んでいた後ろのB-17と空中でぶつかっています。

舵、スタビライザー、後部銃手のハッチ全てに
ダメージを受けたにも関わらず、無事に帰還することができました。

エンジンが片方だけでも帰ってくることができるんですね。

一緒に飛行していた編隊の航空機搭乗員たちは、このB-17の尾部が
完全に撃ち落とされるのを見て墜落したと思っていましたが、
なぜかちゃんと基地に帰ってきました。

必要最小限の機能が残っていたとしか考えられません。

戦闘機にラダーの一部とスタビライザーを完全に撃ち落とされ、
エレベーターの片側もなくなったにも関わらず帰還したB-17。

ドイツ上空で完全に尾翼から後ろを失ったB-17。
中身が奥まで見通せる状態です。

ウィーン上空でこのB-17フライングフォートレスは高射砲の直撃を浴び、
無線コンパートメントの側面が吹き飛ばされて、
ボールターレット砲塔にいたガンナーを内部に閉じ込めました。
(ターレットは下の方に見える)

ちなみにボールターレットとはこのようなものです。
小柄な男性しか入ることはできません。
敵機や高射砲にさらされたとき、ここに配置されている乗員は
さぞ怖いものだろうなあと実物を見ると思わずにいられませんでした。

この甚大な被害にも関わらず、機長はおよそ1000キロ機体を飛ばして
イタリアの基地に戻ることができました。

右下の画面に映り込んでいる悲壮な顔の乗員はガンナーでしょうか。

いくつも無事に生還してきた主に爆撃機の惨状を見てきましたが、
この、ケルンで高射砲を受けてかえってきたB-17に

「こんなのでよく帰ってこれたで賞」

を差し上げたいと思います。

改めて言いますが、本コーナーのタイトルは
「A Wing And A Prayer」

どちらも単数形なので、丁寧に翻訳するならば

「ひとつの翼、ひとつの祈り」

というところでしょうか。

当初「プレイヤー」(祈り)は鎮魂を意味するのかと思っていたのですが、
こうやって写真を見ていくと、この言葉には、
ダメージを受けた機体を機長たちを中心に、乗員が
一丸となって機体と自分たちを生還させるための必死の努力を行いながら
捧げていた「祈り」という意味が込められているのに気がつかされます。



第二次世界大戦の航空シリーズ 終わり


「トーキョー・レイド」ドーリトル帝都空襲〜スミソニアン航空博物館

2021-10-28 | 博物館・資料館・テーマパーク

スミソニアン航空宇宙博物館の「第二次世界大戦の航空」シリーズ、
いかがでしたでしょうか。

5機の戦闘機を核に据えた展示と、当時の軍航空に関する話題で
しばらくお付き合いいただいていたわけですが、
もうあとのこすところ1回で最終回となります。

■ 軍用機搭載弾丸のいろいろ

このコーナーのタイトルは「Armament」となっています。

アーマメントは一般的に「兵器」「装備」を指し、大きな意味では
国の軍備や軍事力そのものを意味する言葉で、ここではおそらく
「装備」というのが一番近いのだろうと思うのですが、
展示してあるのは全て弾丸です。

「軍用機の主な任務の一つは、
様々な種類の発射体(projectiles)の発射です」

という文章から説明が始まります。

ここでまた違う言い方をしていますが、これも要は「弾丸」ということです。

「1940年から1945年の間に、アメリカだけで

42, 875,676,000個

以上の「millitary munitions」(軍需品)が
敵軍に対して使用するために生産され、これらのうち、
410億個を遥かに超えたのが、口径20ミリ以下のカートリッジでした」

また違う言い方がでてきましたね。

つまり英語では弾丸的なもの=装備=発射体=軍需品であると。
日本語の弾丸も、発射されるものによって
「砲弾」「銃弾」と変わってくるので、
英語でもこのような様々な言い方があるのでしょう。

弾丸そのものだと英語は「Bullet」となり、「砲弾」(shell) を包括しますが、
bulletは一般的に「ライフルから撃ち出される弾」です。

第二次世界大戦時代の航空機の弾薬は、
特定の目的を達成するために設計されました。
ここで説明する5つの弾薬は、
全ての使用者(交戦者)が利用した標準的な種類となります。

多くの場合、複数の弾薬を連結して使用することもあり、
標的の選択やダメージの与え方に柔軟性を持たせました。

航空戦が行われ始めた頃には、爆発性の高い焼夷弾が
他の航空機に対して効果的であるとされていましたが、
より強力な航空エンジンが登場すると、
爆発性及び焼夷弾の効果を軽減するために、セルフシーリング式燃料タンク、
そして装甲構造が機体に追加されるようになります。

徹甲機能を爆発物と焼夷弾に追加すると、
より強意攻撃力となることがわかり、
1944年までに、徹甲、爆発性、焼夷というダメージを与える要素を
一つのユニットに盛り合わせた発射体が使用されるようになります。

第二次世界大戦で証明されたのは、大容量の爆発性弾薬を利用した、
速射式高速航空機砲の威力だったと言って間違いありません。

ここで各国の弾丸についての紹介がありました。
全部紹介してもいいのですが、とりあえず日本のところにこうあります。

「焼夷弾」(Incendiary Ammunition)

は、バレルと空気の摩擦による衝撃で発射体の温度を上昇し発火する
非常に可燃性の高い物質(多くの場合リン)を運びます。

焼夷弾はあらゆる種類の可燃性標的に対して使用され、特に
石油やガソリンのタンクに対して効果的です。


その国特有の「発射体」についての説明かと思ったのですが、
わりと一般的なことしか書かれていませんね?

図部分に日本語訳をつけてみました。

ついでにドイツの爆発性弾丸の図解にもつけてみましたが、
おそらく専門的にはこういう訳はされないんだろうなー。

そもそもgain って何?←調べてもわかりませんでした

上から:

陸軍20mmタイプ97式徹甲トレーサー・航空機ガス作動銃用

陸軍20mmタイプ「ホ-5」徹甲弾

海軍ホッチキス型銃用

同型

同型(中身が見えるように裁断してある)

ヴィッカースM1924型ブローニング航空機銃用

同型

89型および92型陸軍海軍兼用銃用

そしてこちらはドイツの銃弾色々。
他にもアメリカ軍、イギリス軍、イタリア軍のものが展示されています。
イタリア軍は「Breda」という製品以外は
イギリスのヴィッカース社が多かったようです。

■ ドーリトル空襲



折に触れては取り上げてきた「帝都空襲」ですが、
スミソニアン博物館がどのようにこのイベントを取り扱っているか、
ということをお伝えしたいと思います。

この写真は、東京空襲の後、中国上空からベイルアウトした、
ドーリトル中佐とそのクルーたちの記念撮影で、一緒に
現地の中国人(通訳などをした人らしい)が写っています。

現地の説明です。 

「1942年、アメリカ合衆国は日本の真珠湾攻撃に対抗し、
日本本土の五都市を急襲するという計画を立てました。

ジェームズ・H・ドーリトル中佐率いる16機のB-25ミッチェルが
USS『ホーネット』の甲板から発進したのは4月18日。
場所は日本から1325キロ離れた海面でした。

ターゲットは東京・横浜・神戸・大阪・名古屋。
(ちなみにこの名古屋が”Nagoyo"になっているのはご愛敬)
それらの都市を空襲で叩いた後、中国大陸に逃げました。

3機が中国に到着する前に燃料切れとなり、そのうち2機は
日本軍の基地に、そして1機はロシアに着陸し、
そのほかは中国本土に達したものの墜落しました。

『ドーリトル・トーキョー・レイダース』(空襲者)は、
当時のアメリカ人たちに計り知れない士気の高揚を促し、
日本国民は国土を襲撃されたことに衝撃を受けました」

わかりやすいドーリトル隊の行動図。
空母を発進し、日本の目的地を空襲後、中国の自国基地まで飛ぶ、
というのが当初の計画でしたが、
攻撃終了の時点で燃料が極端に少なかったため、
あえてロシアに向かった1機がいました。

信用していないとはいえ、一応ソ連はアメリカの同盟国だったのです。

東京空襲に向かうため「ホーネット」を発進する
ノースアメリカンのB-25ミッチェル。

1機に乗っていたのはパイロット、コーパイロット、ナビゲーター、
爆撃手、そしてエンジニア兼銃手の5名でした。

東京空襲のために、ドーリトル隊機には特別に増槽が追加され、
搭載武器も通常より増やされ、さらにカメラが取り付けられていました。

ただし、ノルデン照準器は取り外されたそうです。

このことは、計画する方も、彼らの生還を期していなかった、
という過酷な現実を物語っています。

いままさに東京爆撃の任務を帯びて発艦するB-25ミッチェル爆撃機。

発艦するミッチェル。
「ホーネット」のそばにいた駆逐艦からの撮影でしょうか。

「東京空襲は、空母から発進した爆撃機による
初めての本土攻撃となりました。

攻撃隊は、発進地点を日本から725kmに要求しましたが、
沿岸から1290kmまでは日本側の哨戒が厳しかったため、
結論としてギリギリの地点からの出発を余儀なくされました。

このため、飛行機は全機が燃料不足となり、計画していた
中国への基地に達した機はいませんでした。

1942年4月18日午前8時20分、ドーリトル隊長を乗せた最初のB-25が
USS『ホーネット』の甲板から発進を行いました。

図にはマークがついていますので、まず
ドーリトル隊が空襲を行った日本本土の部分をズームします。

現地の地図では青い丸だったのですが、あまりにも見難いので
赤い星印に変えておきました。

東京、横浜、名古屋、大阪、神戸と地域的には計画通りです。
実際の攻撃が軍事施設だけであったという彼らの主張は、
大いに間違っていることは当初から明らかでしたが。

は2機が落ちた日本の陣地のあった場所です。
乗員は捕獲され、うち3名が銃殺されました。

はその他の13機が到着した地点。
そのほとんどがアメリカ軍にとって安全な場所でした。

ドーリトル准将(最終)が獲得した勲章の全て。
なぜここにそれらがあるかというと・・・本人が寄付したからです。

しかも本人が生きているときに。

アメリカからだけでなく、レジオン・ドヌール、クロワ・ド・ゲールなど
フランス政府から、またベルギーや中国からのメダルもあります。

中国で発見されたドーリトル隊のB-25の機体の一部。
見つけたのが誰かはわかりませんが、
よくそういうものだと分かったなという感じです。

拡大してみると、中国語でびっしりと、
見つけた場所などが書き込まれていますが、
残念なことに展示が上下逆さまです。

ドンマイ。

■ フランク・カーツ大佐の軍帽

フランク・アレン・カーツ大佐(1911 - 1996)
本博物館に寄贈した軍帽が飾ってあります。

大佐とともに50回のミッションをこなした軍帽は、
そのままアメリカ陸軍航空隊の飛行の象徴でした。

標準仕様のサービスキャップからハトメを取り外し、
通信のヘッドセットを装着できるようになっています。

カーツ大佐はアメリカ陸軍航空隊の飛行士であると同時に、
オリンピック出場歴のあるアスリートとしても有名でした。


彼の航空歴はなんと16歳から始まっています。

いきなりオープン・コックピットの飛行機で航空レースに出場し、
新記録を打ち立てた彼は、飛び込みが得意でもあり、
1932年のオリンピックでは10メートル台で銅メダルを獲得し、
1936年には肩を負傷しながらも5位に入賞しています。

Frank Kurtz 1935.jpg

民間航空会社への就職するため、陸軍で操縦訓練を受けた彼は
そのまま陸軍に残ることになります。

1941年12月7日の日本軍による真珠湾攻撃の2日後、
フィリピンのクラーク飛行場で起きた空襲の生存者でもあります。

カーツ大佐の戦歴というか功績は、スミソニアンにも記されているように、
この「スゥース」というB-17D-BO型フライング・フォートレス
後世に残したということなのかもしれません。


「スゥース」は第二次世界大戦の南西太平洋で幅広く使用されたものです。
現存する最古のB-17であり、
現存する唯一の初期の "シャークフィン "B-17であり、
1941-42年のフィリピンで活躍した唯一の現存するB-17であり、
アメリカの参戦初日に運用されたB-17でもあります。


真珠湾攻撃の8時間後、1941年12月8日に
日本軍がフィリピンの米軍施設を攻撃し、
極東空軍の多くが窮地に立たされました。

フィリピンにいた35機のフライング・フォートレスのうち、
破壊や深刻な被害を免れたのは19機だけという状態で、
地上作業員は破壊された他の航空機から回収した部品で
戦闘による損傷を修復しました。

このB-17Dは、ボーイングB-17Dの尾翼を接ぎ木して、
ハイブリッドになったのですが、それは当時人気のあった
ノベルティソング "Alexander, The Swoose "の歌詞のように、
「半分白鳥で半分ガチョウ」という状態だったので、あだ名もそのまま
「スゥース」となったというわけです。

Alexander is a Swoose
(子供の声真似をしている男性ボーカルがすごい)

終戦を前に、「The Swoose」はスクラップにされ、
アルミニウムの含有量を減らすために精錬される予定でした。

そこで出てきたのがカーツです。

オリンピックのアスリートとして、陸軍パイロットとして、
発言力のあった彼は、ロサンゼルス市を説得して、
この爆撃機を第二次世界大戦の記念に残すことに成功しました。

このB-17は、第二次世界大戦の始まりから終わりまで飛行した
唯一の機体です。

機体はわたしが見学したオハイオ州フェアボーンの
ライト・パターソン空軍基地にある国立アメリカ空軍博物館で修復中、
という噂ではありますが、もしかしたら
もう修理が終わっているかもしれないので、
期待して写真を検索することにします。

ちなみにカーツ大佐ですが、24年間の軍生活を終え、
企業のエグゼクティブに迎えられ、国際水泳殿堂入りを果たすなど
悠々自適の余生を送ったようです。

彼はのちに女優になった "Swoosie "カーツという名前の娘を設けました。
もちろんその名前は、彼が第19および第463爆撃群で操縦した2機の
B-17 "The Swoose "および "Swoose II "に由来しています。

 

続く。


飛虎隊(フライング・タイガース)〜第二次世界大戦の航空 スミソニアン博物館

2021-10-17 | 博物館・資料館・テーマパーク

第二次世界大戦の末期のこと。

台湾上空で交戦して撃墜された零戦搭乗員が、すぐに脱出せず、
機体を民家のない地帯まで飛ばし続けたため、敵に追尾され、
その結果落下傘を撃ち抜かれて墜落死したということがありました。

台湾に旅行したとき、そのときの搭乗員を村人の恩人として称え、
その魂を慰めるために創建した神社を訪れて紹介しました。

台湾 飛虎将軍廟〜神様になった海軍搭乗員

この神社の名前になっている「飛虎」は中国語で戦闘機を表す一つの言葉です。
この搭乗員、杉浦茂峰帝国海軍少尉を、台南の人々は
「戦闘機将軍」として祀っているのです。

しかし戦闘機を「飛ぶ虎」と言うようになったのはいつからなのでしょうか。

日本語中心で考えると「飛行」=「ひこう」→「ひこ」=「飛虎」ですが、
そもそも飛行機という言葉は日中どちらが先に作ったのかも不明なので、
ヘタな推測はやめにしておきます。

今日の本題は、それを英語にしたところの、

「ザ・フライング・タイガース」

についてですので。

■ フライング・タイガース

ビルマ公路(ロード)という言葉をご存知でしょうか。
インドからビルマ(現在のミャンマー)を経由して
中華民国に至る幹線道路のことです。

1944年のビルマ公路とレド公路

総延長1,154キロ。

1937年の日中戦争時に20万人の中国人労働者を使って作ったもので、
第二次世界大戦時にはイギリスが中国に軍事物資を輸送するルートでした。

このビルマ公路を上空から保護するという名目で組織された
アメリカのボランティア航空グループ(略してAVG)それが
「フライング・タイガース」でした。


1943年当時の中国全土における日米の基地所在地を表す地図です。
が日本軍、がアメリカ軍の基地のあった場所で、
米軍基地は1941−42年はAVG、ボランティア航空隊が使用しました。

航空隊の志願者はほとんどが元々陸軍か海軍の航空隊に所属していましたが、
ボランティアとして参加することを表明すると、政府の許可を得て
軍の任務を休止するという特別措置が取られました。

クレア・リー・シェンノート将軍が率いるフライング・タイガースは、
第一次世界大戦期間、最も有名、かつ有能な戦闘機ユニットのひとつでした。

AVGは43機のカーチスP-40と84名のパイロットで運用を開始し、
1941年12月18日、崑崙付近上空で初めて日本軍と遭遇することになります。

1942年7月4日、グループが正式に

陸軍航空隊 第23戦闘機部隊「フライング・タイガース」

となってAVGボランティアグループは廃止されました。

そして、1943年の3月になって、第14空軍ができるまで、
同グループは中国航空任務部隊の一部として活動しました。

そのときから終戦の日に至るまでの中国での航空作戦は
B-29によるものを除いて、全てが第14空軍の指令下で行われています。

シェンノートの巧みな戦闘機戦術のもと、フライングタイガーグループは
日本軍も空中戦で打ち負かされる可能性があることを証明し、
そのことはアメリカ全体の士気を高めることに成功したといえます。

「日本軍の輸送隊に背後から爆撃を行うP-40の編隊」

この絵を描いたTom Leaという名前に聞き覚えはないでしょうか。

ペリリュー島やエニウェトク島の戦いについて書いた時、
戦闘ストレスに冒された一兵士を描いた、

『海兵隊員はそれを例の2000ヤードの凝視と呼ぶ』
Marines Call It That 2,000 Yard Stare

を紹介しましたが、この絵の作者がトム・リーです。

ついでに、この、シェンノートの、
「写真より本人の特徴を捉えている肖像」
の作者でもあります。

シェンノートのフライトジャケット内側背部分に縫い付けられた
AVG(のちのAAF)「0001エアマンズ・フラッグ」実物。

来華助戦 洋人(美國)

軍民一体 救護

で、我々日本人には

「我々中国を助けるためにやってきたアメリカ人なので
軍民一体で救護してください」

という意味だと即座にわかってしまいますが、
しかし、英語の説明は、

「着用者はアメリカの航空士であり、安全に戻った場合は
(救護してくれた人に)報酬が与えられると書いてある」

となっています。
スミソニアンともあろうものが、と思いますが、
報酬を与えると書かなくては中国人は助けてくれない、
と頭から決めてかかっているので、こういう間違いが生じるのでしょう。

印象って怖いですね。

まずこの星条旗は、昆明(クンミン)の飛行場にあった
シェンノート将軍の本部で掲揚されていた実物です。

右二つのどちらも翼をつけた虎が図案化された肩章は、
第14航空隊のもので、いずれもシェンノートのAVG、
ボランティア航空隊の図案を発展させたものです。

これはたしかウォルト・ディズニーのスタッフのデザインだったかと・・。

シェンノートが中国で着用していたM1式ヘルメット。

そしてやはりシェンノート着用のA-2フライトジャケットです。

初期の「ボランティアグループ」時代、シャークペイントを施した
Pー40の前で整列するパイロットたち。

公式記録によると、AVGは投入開始から6ヶ月半で
280機以上の日本軍機を撃破し、
9名のパイロットと50機ほどのP-40を失いました。

1942年7月4日、第23戦闘機部隊のP-40が中国の基地に並ぶ様子。

1942年3月20付「ライフ」誌掲載のフライング・タイガース記事。

「フライング・タイガース・イン・ビルマ」

というタイトルに、サブタイトルは

「90日で十人にも満たぬ我がパイロットがジャップ300機撃墜」

公式記録よりかなりの数盛っていますが、まあこれはありがちってことで。
続く記事も少し翻訳しておきます。

3ヶ月の悲惨な戦争から一つの輝かしい希望が浮かび上がってきた。

それは、ビルマと東南アジアにおける通称「フライング・タイガース」、
カーチスP-40にサメのシャークマウスをペイントした、
戦闘機パイロット集団であるアメリカボランティアグループである。

彼らは多くの場合10対1と上回り(キルレシオで)これまでに
約300機以上のジャップ機を撃墜し、おそらく八百人以上を殺した。

彼らはビルマと中国南東部のジャップ空軍の攻撃に苦しめられている。
しかし同時にかつてはヤンキーの信念であったものを決定的に証明した。
つまり、一人のアメリカ人パイロットの力は

二人か三人のジャップに相当するということである。

「彼らが欲しい」

先週、オーストラリアのブレッティン中将は言った。

「200人のジャップに対し100人のタイガーがいたら負けないだろう。
私自身は日本軍を決して軽蔑するものではない。
彼らは『ゴッド・ファイター』だと思っている

これらの若者たちの驚くべきは次の点である。

1)彼らは最長で6年間の軍事飛行経験があり、自分たちのマシンが
何をするかについての本能的な感覚を持っている

2)彼らは空中で血を流し

3)彼らは常に空中での戦いに挑んでいる

その結果、彼らに遭遇した敵は相当な苦痛を与えられることになろう。

初戦において、彼らは喪失4機に対し相手を6機撃墜で報いた。
2回目の交戦では〜それは奇しくもクリスマス当日だったが〜
こちらの損失はゼロで78機の日本機のうち20機を斃した。

まさに「ホロコースト」スイッチが入ったのである。

AVGは文字通りボランティアとして陸海軍から志願してきた者たちである。
ジャップが気づかないように、内密理に生成されたその組織は
中国が戦うのを助けるということを目的としていた。

賃金は月600ドルで1機日本機を撃墜するたびに500ドルのボーナス出る。
米軍のランクはそのままであると保証された兵隊たち、そのほか、
「ツーリスト」(物見高い人)、曲芸師、芸術家などが、昨年の夏、
中国大陸のエアフィールドに訓練のため到着した。

航空隊司令はクレア・シェンノート大佐である。
大戦が始まった12月7日には彼らはすでに用意ができていた。

他の航空博物館で見覚えのある顔がいくつかあります。
上段左上から:

ジョン・V・ニューカーク分隊長(28)NY出身
イーグルスカウトだった

ジェームズ・H・ハワード分隊長(29)中国生まれ
中国語が喋れる

ロバート・レイエ飛行士(26)コロラド出身
海軍搭乗員

中段;

エドワード・F・レクター小隊長(25)ノースカロライナ出身
山間のコーン畑育ち、海軍入隊
『働き者の田舎少年』などと書かれている

デイビッド・リー・ヒル小隊長(26)テキサス出身
オースティン大学(名門)から海軍入隊。
海軍では「サラトガ 」と「レンジャー」に乗り組んでいた

フランク・リンゼイ・ロウラー飛行士(27)NC出身
「サラトガ 」航空隊にいたことがある(が何かの事情で首になった

下段;

ノエル・リチャード・ベーコン小隊長(24)アイオワ出身
父は市長経験者、ボーイスカウト出身、バスケットボール選手、
クラリネットも得意
教育大に進むもペンサコーラで海軍入隊 未婚

ウィリアム・エバート・バートリング(27)ペンシルバニア出身
建築業者の息子 カーネギー鐵工所で働いていたが海軍入隊、
「ワスプ」の急降下爆撃機に乗っていた

ヘンリー・M・ゲセルブラット二世(25)セントルイス出身
ワシントン大学およびUCLA卒業 
映画「急降下爆撃機(Dive Bomber)」の撮影のスタントを務める
飛行歴は早く、16歳でシカゴの航空フェアにデビューしている

 

まあ大体は軍人ですが、スタントをやっていた人とかもいたんですね。

最後に、フライング・タイガース必携だった会話帳です。
中国大陸に進出していたアメリカ人パイロットは、
このような手帳を携帯して現地の人とコミニュケーションしていました。

2、私はアメリカ軍人です。道に迷いました。

3、敵から匿ってください

4、5、6、7、日本軍(中国人ゲリラ、中国軍)の居場所から
どれくらい離れていますか

4から7までの質問に対する答えはどうやって聞き取ったのでしょうか。


続く。

 


飛行服ファッションショー(米独編)〜第二次世界大戦の航空・スミソニアン航空博物館

2021-10-07 | 博物館・資料館・テーマパーク

スミソニアン航空宇宙博物館の「第二次世界大戦の航空」コーナーから、
今日は当時の航空搭乗員の制服ファッションショーをお送りします。

搭乗員のユニフォーム展示は、この一角の他、アメリカ搭乗員と
ルフトバッフェのものは下階のマスタングの横、それからどういうわけか
イギリス軍のは踊り場の途中とよくわからないところに分散されています。

それでは早速参りましょう。
まずはアメリカ航空隊のユニフォームからです。

🇺🇸 アメリカ合衆国陸軍航空隊

アメリカ陸軍航空隊搭乗員服(夏用)

右手に持った皮の手袋には

「ARMY AIR FORCES」

とあり、左手の丸い定規状のものには「コンピューター」と書いてあります。
夏用の飛行服は非常に軽量にできていました。

ヘルメットはAN-H-15型ゴーグルはAN-6530型
酸素マスクはAー14型、などとすべての型番が明記されています。

そのなかでT-30-Q throat microphone「喉マイク」
この言葉を全く聞いたことがなかったので調べてみました。

スロートマイク=喉頭マイクは、首に装着したセンサーによって、
喉から直接振動を吸収するマイクの一種です。

なんと米軍、第二次世界大戦中に、すでにこのような、航空機コクピットの
風の強い環境でも音声を拾うことができるシステムを開発していたのです。

高度な喉頭マイクはささやき声でも拾うことができるため、
ヘルメットや呼吸器を装着しながらでも使うことができます。

スロートマイクは、マスクのフェイスシールの外側に着用し、
酸素マスクと併用できるというわけです。

この写真で搭乗員が首輪のように付けているのがスロートマイクです。

MiGパイロットの着用例 髭が濃くても大丈夫!

スロートマイクを発明したのはイギリスで、第一次世界大戦のころには
すでに革製のヘルメットに組み込むタイプが存在していました。

第二次世界大戦時にはルフトバッフェとドイツ戦車兵が使っており、
その後アメリカ軍もこれを使うようになったというわけです。

ソ連製

ルフトバッフェから、ロクな設備がなくて可愛そう呼ばわりされた
ソ連軍のパイロットですらこれを使っていたというので、
おそらく大日本帝国空軍にもなんらかの装置があったと考え、
調べてみたら、「日本の軍装」という図解本に、ちゃんと
海軍搭乗員の「咽頭マイク」Larygophoneが描かれていました。

写真で見たことがなかったのは、皆このマイクの上から
白い絹のマフラーをしていたからでしょう。

true airspeed G-1 Computer 

これもいまいちよくわからなかったのですが「true airspeed」は対気速度。
つまりこの円盤みたいなのは、
対気速度に特化したフライトコンピュータです。

ピトー管により測定される全圧、静圧孔から測定される静圧、
そして空気密度がわかれば、
ベルヌーイの法則を使って対気速度が求められます。

航法計算盤といわれるフライトコンピュータにこれらの数字を入れると、
簡単にそれが計算できるというわけです。

一番外側にあるTASというのがtrue airspeedのことで、
この計算尺はノット表記です。

足元のパラシュートはスミソニアンが細部の写真を撮ってくれています。

Parachute S-1 seat type

搭乗員が履いている耐Gスーツをご覧ください。

この画期的な発明によって、アメリカ航空隊のパイロットは
少なくとも第二次世界大戦最後の2年間というもの、
敵国に対してたいへん強力なアドバンテージを得ることになりました。

昔我が家は岩国の海兵隊基地に訪問し、戦闘機パイロットのブラッドに
基地の中を案内してもらったことがありますが、同行したMKが、
ロッカールームで海兵隊パイロットの耐Gスーツを
実際に身につけさせてもらいました。

MKがそのときに身につけた耐Gスーツは、
ここにある第二次世界大戦時のとほとんど同じ形状をしていましたが、
同じ理論によるものなので、変わっていなくて当然ですね。

アメリカ陸軍航空隊乗員服(冬用)

爆撃機の搭乗員の冬または高高度用の飛行服です。
飛行服の下には、しばしば電気加熱式の衣服が着用されました。

ヘルメットは1943年8月6日に規格化されたA-11型。の上に、
M3スチール製「フラック」ヘルメットを重ねて使用しています。

まずAー11型は第二次世界大戦中に最も人気があり、
広く使用されたタイプです。
ゴム製のイヤホン取り付け部は、ラジオ受信機が内蔵されています。

フラック(flak)ヘルメットは、
内部に防寒用のウールがライニングされています。

そして電気加熱式ポラロイドゴーグル

ポラロイドというとわたしたちはインスタントカメラのことだと思いますが、
元々の意味は「人造偏光板」のことなので、こちらでは
遮光メガネのことを「ポラロイズ」と言ったりします。

そのゴーグルまで電気加熱式とはさすがはアメリカです。

そして酸素マスクにはもちろんマイクが内蔵されています。

Bー3タイプのフライングコートは裏地がフリースでできています。
外側はもちろん皮革でしょう。
ズボンはA-3タイプ、手袋はA-9タイプといちいち制式番号が付きます。

そして、特筆すべきは
スチール製のボディアーマー=「フラックスーツ」
を着ていること。

フラックスーツは、スチールが内蔵され、エプロンのついた前身頃と、
装甲のない後ろ身頃からできています。

ちなみに日本機と違って彼らの座席は装甲タイプなので、
ボディアーマーの背中側の装甲は省かれています。

これらはパラシュート降下の際に対応しています。
エプロンの下の緊急リリースを引っ張ると、瞬時にして
パラシュートのパックをハーネスに装着することができるのです。

こういうことを調べるたびに思うのは、アメリカという国は
人材の確保=人命を本当に重要視していたということです。

飛行機は落とされても作れるが、莫大なお金と時間をかけて
育成した搭乗員の命はそうそう失うわけにはいかない。
ということですよね。

言いたくありませんが、座席に装甲板どころか穴を開け、
パラシュートもろくに搭載せず(面倒くさがって
搭乗員が積まなかったという噂もありますが)生身の人間を、
攻撃され、落とされること前提の戦闘機に乗せていた日本軍って・・。

マップを入れるポケットは、
ズボンではなくブーツに付いているのがアメリカ式。
足元のものはパラシュートです。

そういえば昔、海軍兵学校に終戦の年に在籍していた方が、
呉大空襲の時に撃墜されたアメリカ軍の飛行士の遺体が
学校の前の湾から引き揚げられたとき、その遺体を見て
何より目を奪われたのが、彼の履いていた皮のブーツだった、
それはそれは立派なもので驚いた、といっていたのを思い出します。

ちなみにアメリカでは「フラック」ジャケット、
スーツなどはボディアーマーといいます。

フラック(Flak)の語源は「フラッグ」(破片、フラグメント)
から来ているとか、ドイツ語の対空砲
Fliegerabwehrkanone"「航空機防御砲」の省略形、
「flak」であるとかいわれていますがはっきりしていないようです。

 

フレンスブルク政府 ナチス ドイツ ・ルフトバッフェ

続いて、あまり実物を見る機会が少ないルフトバッフェの
冬用飛行服をご覧いただきます。

1944年冬のコレクション(ファッションショーっぽい?)から、
金属製のジッパーの代わりにプラスチック製をあしらった、
標準的な冬の飛行服のラインでございます。

冬の任務にも耐える毛皮の襟付きジャケット
両袖にはルフトバッフェの特別な徽章があしらわれており、
この搭乗員がT/Sgtつまり軍曹のランクであることを表しています。

アメリカ軍の冬用と同じく、飛行服の裏地にはフリースを用い、
軽さとともに保温性を重視したお作りとなっております。

同じく起毛したフリースで裏打ちされた飛行帽は、
ジーメンスSiemens社製で型番はLKPW101
もちろんイヤフォンと咽頭マイクが内蔵されており、
現在でもオークションではすぐに売り切れとなる人気商品です。

 

ちなみにジーメンス(シーメンス)社は日本と大変つながりが深く、
1861年、ドイツ外交使節が徳川将軍家に
シーメンス製電信機を献上したのが始まりです。

その後、足尾銅山への電力輸送設備設置、九州鉄道へのモールス電信機、
京都水利事務所など多数の発電機供給、
江ノ電の発電機などなどを展開しました。

軍需製品などでも深く日本軍と関係を持ち、
なんなら関係が深すぎて海軍高官のリベート事件、
「ジーメンス事件」が起こったのは皆さんご存知の通り。

この事件で海軍出身の山本権兵衛を首班とする内閣は総辞職しています。

飛行服の上には水上&夜間用の救命胴衣が付けられています。
この救命胴衣を製作したのは、
現在医療機器メーカーとして日本にも進出している
ドレーゲル(Dräger)社です。

ビールの注ぎシステムの開発から始まって二酸化炭素の還元弁を発明し、
それが麻酔薬の供給システム、そして酸素吸入器へと分野を広げ、
現在では人工呼吸器、麻酔器、保育器などの医療機器などを扱っています。

ちなみにドレーゲル社の日本ホームページをのぞいてみたのですが、
「弊社の起源」(この言葉選びも何だか変)として、

「弊社の起源ー1889年のハインリッヒ・ドレーゲルの発明精神は
彼をいじくり回して洗練させ
1889年に最初の二酸化炭素の還元弁を手にしました」

機械翻訳をそのままHPに使うのやめれ。

酸素マスクはデマンドタイプ(供給型)Hm-51
左腕に装着されているのは時計ではなく、補助コンパスです。

ベルトの左腰部分を見ていただくと空の拳銃のホルスターがありますが、
ここにはよく7.65mmあるいは9mmのピストルを装備していました。

それではベルトに引っかかっているピストルみたいなのは何かというと、
こちらは

27mm信号銃 Heinrich Krieghoff 
(ハインリッヒ・クリーグホフ兵器工場)社製

です。
H. Krieghoff GmbHは、現在もドイツのウルムに本社を置いて、
ハイエンドの狩猟・スポーツ用銃器のメーカーとして存続しています。

北米では、ペンシルバニア州に姉妹会社を置いているとか。

H.クリーグホフ社ホームページ

足元にはパラシュートが置かれていますが、これは
現在も存在する「Autoflug GmbH」社の製品です。

同社は航空技術と防衛工学の分野で1919年に設立されました。

元々モーターバイク(当時はモーターランナー)の製造会社でしたが、
アメリカのパラシュート会社の総代理店となり、
 1930年代後半から第二次世界大戦中、ドイツ空軍向けに
ハーネス、ロック、パラシュートを大量に製造していました。

現在のオートフラッグ社は、ドイツ軍向けの航空機や
特殊軍事車両の安全シート、航空機用燃料センサーのほか、
パラシュート、ハーネス、
パイロット保護スーツ・装備などを開発・製造しています。

オートフラッグ社 ヘリコプター用エアシートのページ

ドイツも戦後は「戦犯認定」された軍需産業がかなり締め付けられましたが、
装備などの生産、つまりあまりメインに据えられなかった企業は生き残り、
戦後も普通に発展しているらしいことがわかりました。


この後も、第二次世界大戦当時の各国搭乗員の飛行服を紹介していきます。

続く。

 


ジョン・ハインツ上院議員記念歴史センター@ピッツバーグ

2021-04-16 | 博物館・資料館・テーマパーク

何度かお話ししている通り、ピッツバーグはあのハインツの発祥地です。
フットボールのスティーラーズのホームグラウンド、ハインツフィールド、
最初にここで起業したときのハインツ工場跡が周りにもあるわけですが、
このハインツヒストリーセンターは、会社のハインツではなく、
飛行機事故で若くして亡くなった共和党の上院議員、

ヘンリー・ジョン・ハインツ三世(1977−1991)

に因んだ名前となっています。

COVID-19の騒ぎの前、見学したときの写真をもとに、しばらくの間
この展示についてお話ししていこうと思います。

ハインツ歴史博物館に足を向けたのは、2019年の夏のある日のことでした。
ストリップ地区という?な名前の地域にありますが、そこにいくのに
ダウンタウンを通り抜けていくことになりました。

ピッツバーグには大きなユダヤ系のコミュニティがあるため、
ベーグルにハズレがあまりないと言う印象があります。

「アインシュタイン・ブラザーズ・ベーグルス」

というなかなかにキャッチーな店名のこのお店、
美味しいかどうかはわかりませんが、ロゴが可愛いので写真を撮りました。

ヒストリーセンターに到着。

ハインツの旧工場と同じく、総煉瓦造りの建物は築100年くらいだそうです。
ちなみにハインツ工場跡は、Heinz Loftという名前のアパートになっていて、
内部はちょっと住んでみたくなるほどおしゃれに改装されています。

ジョン・ハインツ上院議員ヒストリーセンターという総合名称のもと、
ここハインツ歴史センターの他、ペンシルベニアスポーツ博物館、
(わたしが前回行き損なった)フォートピット博物館、メドウクロフトロックにある
シェルターと歴史村、図書館などが包括されています。

さて、わたしがなぜここにきたかと言うと、通りすがりにこの看板を発見したからです。

「ベトナム戦争」。

第一次・第二次世界大戦の資料を展示する戦争博物館は、
アメリカで航空博物館を中心にいくつもみてきましたが、
ベトナム戦争だけに特化した展示が行われているのは初めて見ました。

お土産物ショップのガラスにはこんなディスプレイも。
ヘリコプターのシルエットが見えますが、ベトナム戦争といえばヘリコプターですよね。

しかし今日は建物エントランスに展示されている
車などをご紹介することにします。

広いエントランススペースには休憩用のテーブルや椅子があって、
何時間でも時間を潰すことができます。

奥に「ピッツバーグ」と行き先の書かれた車両が見えますが、
これはどうもかつてピッツバーグ市内を走っていた電車のようです。

これですね。
車体番号は現物が1724で写真が1711です。

世界中のほとんど全ての路面電車と同じく、1902年に始まった
ピッツバーグの路電は、車の量が増えるとともに廃止されていき、
1964年には全廃止となりました。

前で写真を撮っている人がいますが、おそらくこの人が生まれた頃には
路面電車はもう走っていなかったのではないでしょうか。

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コネストーガ(Conestoga)ワゴン

1784年、ジョージ・フレックとその家族はこのワゴンで
アレゲニー山脈を越えてペンシルバニア州西部にやってきました。

当時、ほとんどの家族は牛車に所有物を乗せ、歩いて移動を行いました。
コネストーガ幌馬車は、大量の貨物を輸送することができたので
一般的に使用されており、当時のトラクタートレーラーのようなものです。

「ペンシルバニア・ターンパイクのコネストーガ幌馬車」

ターンパイクという言葉は新しいものではなく、18世紀後半に出現した
道路の管理をするために通行料を取る有料道路のことを言います。

民間企業が管理を行なっていたことから運用が混乱を招き
廃止になっていましたが、第2次世界大戦後、高速自動車道に
「有料道路」という意味でこの言葉が復活したものです。

これは一眼見ればわかる、ハインツで使われていた輸送車ですね。

「テーブルのための良いもの」(Good things for the table)

というのが当時のコピーです。

1919年 ニューヨーク消防署の消防車

American LaFrance Fire Engine Company(ALF)は、消防車、救急車などの
緊急出動車に焦点を当てたアメリカの自動車メーカーです。

フランス系の「ラフランス」一族によって設立され、2014年まで創業していました。

創業は1832年、アメリカンラフランス消防車会社は米国で最も古い消防車メーカーの1つで、
1907年には最初の電動消防車を扱っています。

フォード デラックスセダン 1936年

ペンシルバニア州で製作されたステンレス鋼ボディの光り輝く仕上げ。
これはステンレス鋼本来の素材である証です。

製造されてから」85年が経過し、走行距離は20万マイル以上ですが、
ごらんのようにボディはまだ新品のように輝いているのが驚異的です。

この車は地元企業のアレゲニースチールとフォード社によって設計されたもので、
ステンレス鋼の実用的な使用法とともに宣伝にもなっています。

デトロイトで組み立てられたあと、車はNY、フィラデルフィア、クリーブランド、
シカゴ、デトロイトなどの地区に派遣されて、そこでデモ運転を通して
ステンレス鋼の価値とその能力についてアピールを行いました。

ステンレス鋼への関心と興味が高まるだけでなく、この金属の耐久性、
摩耗、そして腐食に対する耐性を宣伝するのがその目的です。

ステンレス鋼ボディはそうでないものに比べ明らかに長持ちします。

車は1947年まで広告塔としての役割を務め、その後引退しました。

左がこの1936年フォード、真ん中が1967年リンカーンコンチネンタル
そして右が1960年サンダーバードです。

これは2〜30年新しい車(当時にして)と比べてもこの艶は遜色なし、
ということをアピールするために一緒に写されたものだと思われます。

バンタム偵察車 BRC 40 アメリカンバンタム自動車会社製 1941

実はペンシルバニア西部は「ジープ発祥の地」なんだそうです。
アメリカが第二次世界大戦に参加する19カ月前の1940年、アメリカ陸軍は
オートバイの代わりとなる偵察車の入札を要求しました。

需品科は全米の135の自動車メーカーに入札セットを送信しましたが、
ほとんどの企業はこの厳しい期限と厳格な仕様を満たすことは不可能であるとして辞退。

しかし、そんな中ペンシルバニア州バトラーのアメリカン・バンタム・カンパニー
オハイオ州のウィリス・オーバーランド社だけがこの入札に応じ、前者が受注を受けました。

わずか49日の期限内にアメリカン・バンタム社はプロトタイプを素早く手作業で製作し、
第二次世界大戦の勝利に寄与するための有益な車両を納品することに成功しました。

しかし、陸軍は、この会社には迫りくる戦争のために大量のジープを製造できない、
と判断したため、製造の契約はフォードと競争相手のウィリス・オーバーランドに行き、
バンタム社にはジープトレーラーを作るための「慰めの契約」が申し訳程度に与えられました。

いいのかこれ。

とはいえ、第二次世界大戦の間、SUVに続いてウィリス・オーバーランドによって
生産された民間用ジープと、今日わたしたちの高速道路を混雑させている(笑)
四輪駆動車は、ここペンシルバニア州西部で生産されたバンタムジープが元になっています。

第二次世界大戦の間、バンタムジープのプロトタイプを元に、
60万台のジープが大量生産されました。

1948年、ウィリス・オーバーランドは、現在のSUVSの前身である、
四輪駆動の63馬力のジープステーションワゴンを発表しました。

20口径 ロッドマン砲 1864年

1861年から1865年の間に、ピッツバーグのフォートピット鋳造所は、
2000基以上の大砲と、数千発の砲丸と爆弾を製造しました。

しかし、鋳造所が製造したものの中で、トーマス・J・ロッドマン少佐
20インチ砲の規模に匹敵するものはありませんでした。

砲身だけでも役117,000ポンド(約53トン)の重さがあり、
200ポンド(90kg 強)のマンモス火薬を装填すると、
1,080ポンド(490kg)の鉄球を4マイル(6.5km)飛ばすことができました。

Thomas J. Rodman トーマス・ジェファーソン・ロッドマン

1850年代、ロッドマン少佐はアレゲニーアーセナル(武器庫)の司令を務めていましたが、
このとき、コアから組み上げた水を使用して金型内で冷却することにより、
中空鋳造の「コロンビヤード」(大型大砲)の新しいプロセスを開拓しました。

この革新は、南北戦争以前に頻繁に発生した致命的なこれらの大型砲の自爆を防ぎました。

10インチ、15インチの口径による多数のロッドマン砲が製造されましたが、
このような巨大な20インチ砲は1864年2月まで鋳造されませんでした。

80トンの溶鉄と4ピースの鋳型が必要で、冷却に1週間かかったと言います。

政府がこのためにかけた費用は約3万3,000ドルで、
ニューヨークを見下ろすフォートハミルトンに設置されました。

ロッドマン砲は沿岸防衛のための兵器として設計されました。
リンカーン政権は、一発で船を沈めることができるスーパー砲を望んでいたのです。

ロッドマン砲はロードしてから照準を合わせるのに10分近くかかりましたが、
一度ヒットすればその破壊力は比類のない強烈な効果を生みました。

重量はそれぞれ約7,000ポンド(3トン)の2本のスチールレールにかかっています。

この写真は、1876年、「100年記念博」という展覧会で展示されたロッドマン砲であり、
ここで見ることができるものと同一になります。

右側に座っているのはフォートピット協会の責任者だったジョセフ・ケイという人です。

エントランスロビーの一角にはおしゃれな雰囲気の売店があります。

「世界一いい人」ミスターロジャース・ネイバーフッドコーナーもあり。

これは併設のお土産ショップのミスターロジャースコーナー。

しかし、今までロジャースのグッズを持っているorつけている
ピッツバーガーにお目にかかったことはありません。

いくら好きでもグッズでアピールするような対象ではないってことでおk?

ちなみに、ミスターロジャースの映画を当ブログでも紹介したことがありますが、
昨今トム・ハンクスの良からぬ噂を聞き及び、よりによって”こういう”人物が
”ああいう人”を演じるのはブラックジョークだなと思ってしまったのはここだけの話。

噂ですけどね?

わたしがもし買うならこっちかな。
ニコラ・テスラグッズ。

でも、もしあなたがYinz(=ピッツバーグの”おまえら”の意)なら、
間違いなくパイレーツスティーラーズのグッズだよね。

さて、というわけでようやく本丸の展示に進んでいくわけですが、この部分の壁に
大きくウェスティングハウスのマークが掲げられていました。

ハインツヒストリーミュージアムのコレクションにはウェスティングハウス関係
(彼もまたピッツバーグに縁の深い人物だったので)のものがあります。

このことを調べていたら、ウェスティングハウスのタイムカプセルなるものが
設置されたという記事を見つけました。

The Westinghouse Time Capsle

宛先は5000年後、カプセルの中に科学、宗教、哲学、工学、芸術に関する
マイクロフィルムテキストのリールのほか、歯ブラシ、電気かみそり、
お金、野球など、40以上の一般的な使用品などが入っているそうです。

 

さて、それでは次回からベトナム戦争についての展示をご紹介していくことにします。
どうぞお付き合いください。

 

続く。

 


”Too Close For Comfort " レイテ沖海戦〜スミソニアン航空宇宙博物館

2021-04-07 | 博物館・資料館・テーマパーク

スミソニアン航空博物館プレゼンツ「空母の戦争」特集、最終回です。
このコーナーによると、太平洋において空母を使った戦闘が行われたのは10、
しかし、そのうち「どちらもの陣営に空母を置いて戦われたもの」となると、

珊瑚海海戦(1942年5月8日)

ミッドウェイ海戦(1942年6月〜7日)

南太平洋海戦(1942年10月26日)

第二次ソロモン海戦(1942年8月23〜24日)

マリアナ沖海戦 (1944年6月19〜20日)

レイテ沖海戦(1944年10月20〜25日)

ということになります。
スミソニアンの「空母の戦争」コーナーでは、あくまでも
「どちらかが空母を使った」という縛りで紹介がされています。

■ レイテ湾の戦い

「日本艦隊の終焉」とサブタイトルが付けられています。
この端的なタイトルがレイテ沖海戦の全てを表しています。

前回のクェゼリンからトラック島までの飛び石作戦のあと、
日米両軍の間にマリアナ沖海戦が起こり、この結果、日本海軍は
空母三隻(大鳳、翔鶴、飛鷹)、艦載機多数と搭乗員を失う敗北に終わりました。

アメリカ軍のフィリピン奪回を日本が少ない兵力で阻止せんとしたのが、
この6日間の戦闘で、その中には4回の海戦が含まれます。

その四つの海戦とは、図の位置で行われ、時系列で並べると、

1、シブヤン海海戦(24日10時27分開始)

2、サマール沖海戦(25日6時57分開始)

3、エンガノ岬沖海戦(25日8時15分開始)

4、スリガオ海峡海戦(25日22時36分開始)

となります。

豊田副武

■ 日本の計画

10月17日の午前8時20分ごろ、アメリカ陸軍のレンジャー部隊が
レイテ湾の河口にある島々に上陸を始めました。

日本軍は三つの海軍兵力のコンビネーションでこれを迎え撃つことになりました。

北艦隊(旗艦空母)〜ハルゼー提督率いる高速空母機動隊を侵攻目的地から引き離す

中央艦隊(戦艦・巡洋艦)〜サンベルナディノ海峡を出て侵攻軍を撃破

南艦隊(戦艦・巡洋艦)〜スリガオ海峡を抜け海岸線より侵攻する敵を撃つ

計画の成功に不可欠なのは聯合艦隊の重機関銃と陸上航空機の投入でした。

ここで日本の豊田副武中将の紹介があります。
ADM. SOEMII TOYODAとなっているのはご愛嬌ってことで。

「聯合艦隊1Sの最高司令官である豊田副武は、アメリカの艦隊が
崩壊しつつある大日本帝国の外側に最初に上陸し、
レイテ湾に侵攻せんとする1944年の5月に就任しました。

豊田はのちにこのように回想しています。

もし万事うまくいけば予想外に良い結果を得るかもしれないが、
最悪の場合、聯合艦隊そのものを失うという可能性はあった。
フィリピンの損失を犠牲にしてまで艦隊を救う意味はない』」

負けた指揮官が色々言われるのはこれはどうしようもないとしても、
この人、「大和特攻」を決めた時もこんなこと言ってましたですね。

「大和を有効に使う方法として計画。
成功率は50%もない。うまくいったら奇跡。
しかしまだ働けるものを使わねば、多少の成功の算あればと思い決定した」

成功率50%以下の作戦に投入する「大和」とその乗員の生命について
なにか思うところはなかったのか、と聞いてみたい気がしますが・・・。

 

■ レイテ上陸作戦

ウィリアム・F・ハルゼーJr. 提督 
ADM. William F. Halsey Jr.

上の海戦図をご覧いただけばわかりますが、ハルゼー艦隊は
小沢艦隊の陽動作戦にはまって担当海域を離れてしまいました。

護衛空母部隊が栗田健男中将が指揮する第一遊撃部隊との戦闘で
ハルゼー艦隊に救援を求めることになり、ニミッツがこのとき打った有名な電文は

”TURKEY TROTS TO WATER GG FROM CINCPAC ACTION COM THIRD FLEET INFO COMINCH CTF SEVENTY-SEVEN X WHERE IS RPT WHERE IS TASK FORCE THIRTY FOUR RR THE WORLD WONDERS”

「WHERE IS RPT WHERE IS TASK FORCE THIRTY FOUR
RR THE WORLD WONDERS」

(第34任務部隊は何処にありや 何処にありや。
全世界は知らんと欲す)

最後の「全世界はそれを知らんと欲す」は、
電文の意味をわかりにくくするために
付けた意味のない一文だったのですが、
それがアメリカ人なら誰でも知っている
テニスンの詩の一節で、
しかも前文と違和感なく意味がつながってしまったため、

ハルゼーはこれを皮肉をいわれたと思い込んで激怒しました。

ハルゼーは救援を無視し、名前の通りの
「Bull's Run(猛牛の突進)」
小澤艦隊を追撃し、
4隻の日本の空母を撃沈しました。

ハルゼーが罠にはまっておびき寄せられたこと自体は彼の失態であった、
とする歴史家もいますが、アメリカ軍にとって日本の空母壊滅の目的を達し、
結果的に海戦の勝利ということになり、文字通りの「勝てば官軍」として、
ハルゼーはゴールドスター勲章を授与されています。

陸軍部隊のタクロバン上陸

1944年10月20日、
グラマン・アベンジャーが舟艇で上陸する陸軍の掩護をしています。
これらの航空機は、トーマス・C・キンケイド副提督が指揮する
 18隻の護衛空母のグループを含第7艦隊侵攻艦隊の護衛空母から発艦したものです。

■ マッカーサーの戦争

海軍がクェゼリンにはじまってマーシャル諸島をトラックまで
飛び石のように侵攻していたとき、マッカーサーは南西太平洋軍として
連合軍の協力のもと、ニューギニアを制しておりました。

マッカーサーが誇大に勝利を発表して自分の成果にしたため、
同盟国であるオーストラリア軍の働きはほぼなかったことにされるなど、
色々後世には言われているようですね。

マッカーサーの太平洋戦争

 

"People of the philippines!  I have returuned."

スミソニアンではこの写真にこの言葉を添えていました。
1944年10月20日、ダグラス・マッカーサーはレイテに上陸し、
フィリピン人に向けてこの一文で始まる麗々しい文章を記念に残しました。

フィリピンの民よ!私は戻ってきました。

全能の神の恵みによって、私たちの軍隊は再びフィリピンの土の、
つまり我々の血の上に奉献された土壌の上に立っています。

私たちは、あなたの日常生活から敵の支配の痕跡をすべて消し、
破壊できない力の基盤の上に人々の自由を回復するという任務を成し遂げました。

私の側には、偉大な愛国者マニュエル・ケソンの後継者である
セルヒオ・オスメナ大統領とその内閣のメンバーがいます。
あなた方の政府はフィリピンの土壌にしっかりと再建されました。

(中略)

バターンとコレヒドールを忘れない、不屈の精神です。
我々の戦線が前進し、戦いの場にあなた方を連れていくので、
そのときは立ち上がって攻撃してください!
あなたの息子と娘の将来の世代のために、戦うのだ!
祖国の神聖な死者の名において、戦うのだ!
心を強く保ちすべての腕を鋼で固めましょう。
神の導きが道を示しています。

義にかなった勝利の聖杯に神の名を讃えよ!

 

■ エンガノ沖海戦

「比島決戦」というタイトルの当時のニュース映画が見つかりました。
フィリピンでの海戦であり、空母が登場するからには、
これがエンガノ沖の小澤艦隊か?というタイトルは正しいものです。

搭乗員が出撃前に水杯を上げているシーンが映っています。
彼らは司令から

「母艦には帰ってくるな」

と言われていたといいます。

帰ろうにも、エンガノ沖海戦で投入され旗艦「瑞鶴」はじめ
「 瑞鳳」「 千歳」「 千代田」4隻の空母は、
ブル・ハルゼーの怒りに任せた執念の攻撃により全部撃沈されるわけですが。

「千歳」 艦長岸良大佐以下468名戦死

「瑞鶴」 艦長貝塚少将以下843名戦死

「千代田」 艦長城大佐以下全員戦死

攻撃を受ける「千代田」

「瑞鳳」だけは駆逐艦「桑」に艦長以下847名が救助されました。
このフィルムは、「瑞鳳」に乗り込んでいた竹内広一カメラマンが撮影したもので、
乗員が救出されたため、レイテ沖海戦の貴重な映像を持ち帰ることに成功したのでした。

攻撃を受ける「瑞鳳」

フィルム冒頭には竹内氏始め報道班員の名前が6名記載されています。
実は小澤艦隊の各艦には、彼らが特派員として乗り込んでいたわけですが、
あの有名な「瑞鶴」総員退艦前に行われた国旗降納の万歳シーン、↓

これを撮ったのは軍人ではなく、報道班員だったことがはっきりしました。
この人はこの後駆逐艦に移乗し、無事に帰国できたということになります。
「瑞鶴」から「初月」に移乗した人たちは、「初月」が撃沈されて死亡しています。


全員戦死したという「千代田」に乗っていた報道班員も殉職したのでしょうか。

「瑞鳳」に乗っていたカメラマンの撮影した映画を見ていただくと、
敵の航空機を撃沈したこと、着水した航空機の乗員を救助しに行くシーンなどがありますが、
その後の(肝心の)経緯については全くないので、これを見た人は
まさかこのあとカメラマンの乗った空母が沈没したなど夢にも思わないでしょう。

ましてや、冒頭の人々のうち何人かは確実に亡くなっていることも。

 

さて、ハルゼーは実のところオトリ作戦に引っかかったわけですが、
彼にとっては幸運なことに、囮作戦に成功したと判断した小沢長官の

「敵機動部隊を誘致」

という電報は何故か栗田艦隊には届かなかったため、栗田長官は
米機動部隊の在り処を判断する術なく、レイテ湾突入を目前にして
あの「運命の反転」を選択してしまうことになります。

そして日本軍は最後の空母のみならず、組織的なレイテ湾突入の機会を永久に失います。


冒頭に挙げた絵画ですが、ウォー・アーティスト、Tom W. Freeman作の

TOO CLOSE FOR COMFORT

というタイトルの水彩画です。

同名のジャズのスタンダードソングの歌詞だと、この意味は

「あなたとの距離が近すぎて怖い(ドキドキ)」

なのですが、この場合の『あなた』とは艦首に菊をつけた戦艦であり、
ドキドキというよりスレスレでヒヤヒヤ、となります。

1944年レイテ湾の戦いにおいて、米軍のドナルド・D・エンゲン中尉
空母「瑞鶴」に急降下爆撃を命中させました。
この絵に描かれたのは、エンゲン中尉が、その爆撃の後に行われた対空砲を躱すために
帝国海軍の戦艦「日向」の艦首の下方を飛んでいる瞬間です。

この成功によりエンゲンは戦後海軍で中将にまで昇進しました。
どうしてさほど有名でない?海軍中尉の攻撃の絵がここにあるのかというと、
彼は海軍を退役後、1996年にスミソニアンのディレクターになったからです。

その3年後、おそらく現職のまま、彼は操縦していたグライダーが墜落して
75歳の生涯を閉じてしまいました。

 

さて、というわけで、全ての空母(といっても艦載機は4隻全部足しても
『エンタープライズ』の艦載機の数にも満たなかったといいますが)
を失い、その前に載せるべき飛行機も失い、日本はこのあと
最悪の道を選択するしかないところまで追い込まれていきます。

 

続く。

 

 

 


ソロモン海海戦と南太平洋海戦〜スミソニアン航空宇宙博物館 「空母の戦争」

2021-04-03 | 博物館・資料館・テーマパーク

前回はガダルカナルの戦いにおける航空隊に焦点を当て、一項を割きましたが、
今日はスミソニアンの展示「空母の戦争」のテーマに立ち返りたいと思います。

 

さて、8月7日に米海兵隊部隊がツラギに侵攻し、ルンガ飛行場を奪ったあと、
これを奪還せんと艦隊をすぐさま派遣した日本軍と米軍の間に激しい戦いが始まりました。
ソロモン海海戦です。

■ソロモン海海戦
 
 
第一次ソロモン海戦は夜戦となり、戦略的には圧倒的な日本海軍の勝利でしたが、
ここスミソニアンのテーマはあくまでも「空母の戦争」でありますので、
空母が運用されなかったこの夜戦については、勝敗にすら言及されておりません。

スミソニアン航空博物館いうところの「空母の戦争」が行われるのは
第二次ソロモン海戦からということになります。
 
というわけで写真は8月24日、第二次ソロモン海戦における
USS「エンタープライズ」の戦闘準備の様子です。
 
 
日本軍は、3隻の空母を含む聯合艦隊のサポートによって、ガダルカナル島に
1500人から軍勢を送り込み、兵力を強化する作戦を立てました。

それに対し、フレッチャー提督「サラトガ」「エンタープライズ」
そして「ワスプ」を率いて立ちはだかりました。
 
日本海軍の戦略は、軽空母「龍驤」を主力艦隊の前方に送り、
ヘンダーソン基地を迂回攻撃してフレッチャー提督を戦争に誘い込むことでした。

その目的は、残る重量級の戦力を全て投じてアメリカ空母を潰すこと。
 

「エンタープライズ」と「サラトガ」はガダルカナル島の東に向かって急行し、
敵機動部隊の位置についての連絡を待っていました。
一方「ワスプ」は南方で燃料の補給をしていました。
 
「エンタープライズ」偵察機は午後に敵空母を発見して攻撃を試みましたが
ほとんどこれに成功せず、「サラトガ」のアヴェンジャーとドーントレス隊は
「龍驤」に激しい攻撃を続けました。
 
日本軍の狙い通り、「龍驤」はいわば囮としての目的を果たしていたのです。

その頃、すでに日本空母打撃群の航空機は東に向かっていました。
空母「エンタープライズ」と「サラトガ」をターゲットとして。
 
 
 
 
ビッグ「E」撃たる
 
敵の爆撃に対し、十分な予防策を取っていたにもかかわらず、
「エンタープライズ」はその日の午後遅くに行われた激しい日本軍の航空攻撃で、
三発も爆弾を見舞われることになりました。
 
午後4時47分、日本軍の攻撃は終わりました。
 
「エンタープライズ」の乗組員は、攻撃と同時に消火活動と修復を行い、
そして、驚くことに1時間後、彼女は航行可能になっていました。
 
この写真は、「エンタープライズ」の飛行甲板で爆弾が炸裂する瞬間で、
撮影した乗員のロバート・E・リードはこれを最後に命を落としたという説もあります。
 
8月26日朝、B-17とヘンダーソンの爆撃隊によって日本の輸送艦と駆逐艦が沈没し、
ガダルカナル島への日本軍の上陸は阻止されました。
 
 
上からきている赤い矢印は右が「瑞鶴」「翔鶴」ら空母機動部隊、
左が「龍驤」で、沈没位置が示されています。

対して下の太いラインが「エンタープライズ」「サラトガ」含む米艦隊で、
細い矢印は「ワスプ」のコースを表しています。
 
なお、赤のガダルカナルへの攻撃マークは、日本機動部隊航空隊が地上攻撃をしたということです。
そして、アメリカ側の青い線は、そのガダルカナルから発進した航空部隊で、
「龍驤」を攻撃しました。

日本はこの海戦で空母「龍驤」を失いました。
赤い星印の場所で損傷した「エンタープライズ」は沈まず、真珠湾に戻りました。
 
 
 
ワスプ沈没
 
8月の最終日、「サラトガ」は日本の潜水艦の魚雷によって深刻な被害を受け、
修理のために真珠湾に戻りました。
 
ちょうど2週間後、ガダルカナルへの援軍の輸送を護衛していた「ワスプ」は、
潜水艦から3本の魚雷を見舞われ、炎上します。
 
弾薬、爆弾、燃料が誘爆し続け、艦長はついに総員退艦を命じました。
そして5隻の駆逐艦の魚雷によって沈没処分になりました。
 
これによって乗員193名、航空機40機が失われました。
 
この時点で、「ホーネット」は南太平洋で唯一残された運用可能な空母となりました。

 
■ 南太平洋海戦(サンタクルーズ海戦)1942年10月26日
 
 
日米両軍の機動部隊はサンタ・クルーズ諸島沖で戦い、この時日本軍は
空母「翔鶴」「瑞鳳」が大破・中破という損害を受けたものの、
米空母「ホーネット」を撃沈、空母「エンタープライズ」を中破させ、
戦術的勝利を収めています。

しかし、日本の攻撃の主目的である飛行場奪回には失敗しました。


そして第三次ソロモン海戦によって連合軍は勝利し、日本軍は
ガダルカナル島への兵力増援を断念せざるをえなくなります。
 
第三次ソロモン海戦についての説明はこれだけです。

というのも、この海戦では空母はアメリカ側に「エンタープライズ」がいたのみで、

日本軍の航空機は空母を介して戦っていないので、
こちらも当展示の説明対象ではないからです。
 
 
 

しかしせっかく第三次ソロモン海戦が出たので、「空母の戦い」とは関係ありませんが、
最後に、いつ見てもすごいと思わずにはいられない、第三次ソロモン海戦における

一式陸攻の「変態飛行」

の写真をあげておきます。

29機の一式陸攻は二手に分かれて8〜16mの超低空を航行し、攻撃を仕掛けました。
 
彼らは戦闘機の迎撃と防空巡洋艦の対空砲火により撃退されましたが、
1機の一式陸攻が「サンフランシスコ」に体当たりし、火災を発生させています。
 
この頃には辛うじて日本には
操縦技術の高い搭乗員が残っていた
という一つの証拠といえるでしょう。


そして一連の激戦でその多くが失われたその後、日本軍は
航空戦での絶対的優位を二度と獲得できなくなっていきます。
 
 
続く。
 

 

 

 


ガダルカナルの戦い 帝国海軍vs.カクタス航空隊〜スミソニアン航空宇宙博物館

2021-04-01 | 博物館・資料館・テーマパーク

 

スミソニアンン博物館の空母展示の中の「空母の戦争」シリーズから
真珠湾攻撃、そしてミッドウェイ海戦についてご紹介しました。

今日は本題から少し寄り道することをご了承ください。

ここで、わたしはこのテーマについて紹介するこんな説明があったことに
初めて気がつきましたので、今更という感じですが、あげておきます。

「太平洋における空母の戦争」

米国海軍が最初に航空機を導入してから30年後、そして
最初の空母「ラングレー」がアメリカに登場してからわずか19年後
海軍航空隊は戦争という最大の試練に直面することになります。

多くの点で、アメリカ海軍は海上で戦争を戦う準備ができていませんでした。
海軍は歴史上初めて、

対抗する海面の敵を互いに目撃することのない、
空中を舞台とした戦争

の形を経験することになります。

アメリカ海軍航空隊が成熟したのは第二次世界大戦という舞台でした。

その過程で装備、ドクトリン、運用戦術が改善されていくにつれ、
空母は太平洋における支配的な位置を占め、かつ戦略・戦術の中心として浮上しました。

 

この展示では第二次世界大戦でアメリカ合衆国と大日本帝国が戦った
全部で6の空母対空母の戦いと、米軍と連合軍が行った
重要な役割と任務に焦点を当てています。

ドゥイット・クリントン・ラムゼイ海軍中将
 Dewitt Clinton Ramsey

ラムゼイ提督は45番目に登録された海軍搭乗員であり、
長い卓越したキャリアを積んだパイオニア、優秀な司令官、
そして素晴らしい「アドミニストレーター」でした。

第二次世界大戦の間、彼はソロモン海戦における
USS「サラトガ」での勇敢な指揮を讃えられて海軍十字章を受けました。

ラムゼイ提督は1949年太平洋艦隊司令官に昇進しています。

なぜここでラムゼイ提督が紹介されているかというと、このスミソニアンの
空母展示はドゥイットC・ラムゼイ基金の寄付によって創設されたからです。
創設者はラムゼイ提督の未亡人でした。

アドミニストレーターというのはこの辺を意味するのかと思いましたが、
正確な意味はわからないままです。

■ ガダルカナル島の戦い

さて、というところでそういう「6つの空母の戦い」のうち、次のテーマは
「ガダルカナル島の戦い」です。

しかし実は、このガダルカナル島の戦いは、本コーナーのテーマであるところの
「空母の戦争」を含むソロモン海海戦に言及するためのマクラのような位置づけなので、
スミソニアンではさすがに「ガダルカナル」=飢島、と言われるような
兵站の決定的な失敗によって日本軍が陥った
その後の敗北に至る悲惨な状態までは触れられていません。

あくまでも「空母」が関わってくる部分にのみフォーカスしていますので、
ガダルカナル島の戦いそのものを網羅しているわけではないことを
最初にお断りした上で、始めていきたいと思います。


それではまず、スミソニアンのガ島の戦いについての「概要」から。

1942年8月から1943年2月までの6か月間、アメリカとその同盟国は、
ガダルカナル島を所有するために、日本軍に対して激しい空海陸作戦を戦いました。

連合国による太平洋戦争の最初の大規模な攻撃行動は、日本が依然として
太平洋で重要な海軍の優位性を維持していたため、不利な状況からのスタートとなります。

1942年8月7日、フランク・ジャック・フレッチャー副提督の下、
航空機支援をともなう機動部隊51(TF 61)の支援を受けた軍艦が
ツラギ島とガダルカナル島に日本軍への水陸両用攻撃を行いました。

海兵隊の上陸によってツラギは混乱の日を迎え、ガダルカナル島の主な目的である
未完成の飛行場がすぐに占領されることになりました。

残念ながら、これらの米軍の初期の成功は、敵の爆撃、血まみれのジャングルの戦い、
空中戦、ガダルカナル島で行われる悲惨な戦いへの前奏曲でした。

急襲作戦のための準備

AAVandegrift.jpg

1942年、海兵隊准将、アレクサンダー・ヴァンデクリフト率いる
第一海兵師団がガダルカナルに上陸しました。

これは大戦において日本に対する初めての大規模な地上からの反撃でした。

そしてこれを取り返すために、日本海軍は艦隊を派遣し、
第一次および第二次ソロモン海戦が行われることになったのです。

 

ここまでがスミソニアンによる状況説明です。
ここでは、直接空母とは関係ないものの、一応航空博物館として
スルーできない、ガナルカナル島を守備した著名な航空隊、カクタス航空隊
(英語ではカクタス・エアフォースというのが正式な名称)の言及がありました。

 

というわけで、当ブログでは、スミソニアンでは触れていない部分ですが、
8月7日以降、遠いラバウルからガナルカナルまで飛んで、
彼らと死闘を繰り広げた日本の海軍航空隊についても整理しておこうと思います。

■ カクタス航空隊vs.帝国海軍航空隊

カクタス航空部隊(Cactus Air Force)とは、1942年8月から1942年12月までの4ヶ月間、
ガダルカナル島に割り当てられた連合軍の航空部隊で、
「カクタス」=サボテンは、連合国のガダルカナル島を表すコードネーム です。

 
1942年7月ごろ日本軍によって建設中だったガダルカナル島のルンガ岬の飛行場は
8月7日上陸した海兵隊によって占拠され、ミッドウェイ海戦で戦死したパイロットの名前をとって
「ヘンダーソン飛行場」と名づけられました。

8月7日の航空写真
 
ただし、このヘンダーソン飛行場のある場所はひどい湿地で水捌けが悪く、
とても飛行場に向いたコンディションでなかったため、パイロットは
着陸に大変苦労したそうです。

飛行機にソリをつけて着陸するのがいいとまで言われたとか。
 

ガダルカナル島の生活

当然ながら住居としても最悪の気候条件で、海兵隊は泥だらけのテントに住み、
日米両軍共にマラリア、赤痢、デング熱などの熱帯病に苦しめられた上、

飛行場は正午頃ほぼ毎日、一式陸攻が爆弾を落としにきて、昼間は砲兵、
夜間は軍艦の艦砲射撃という日本軍の攻撃に見舞われました。

カクタス航空隊御一行

カクタス航空隊が対峙したのは日本海軍の航空パイロットです。



ジョー・フォス少佐、カクタス航空隊8機のF4Fの隊長で、
アメリカでは「エース・オブ・エース」とされています。
 
 
彼のグループは案の定「フォスのフライングサーカス」と呼ばれていました。

ところで昔、カクタス航空隊について、日本の戦記小説の登場人物が、

「サーカス出身のパイロットが向こうにはいるらしい」
 
と言うのを読んだことがあるのを、今ふと思い出しました。

カールもフォスもショーパイロットの経験は全くありませんので、
おそらくこれは、「フライングサーカス」という言葉を
勘違いしたものではないかと思われます。
 
日本にも「源田サーカス」とかあったのに、どうして間違えるかな。
 
多分カクタス航空隊の人

そして彼らと戦った、帝国海軍の台南航空隊のメンバーです。
 

この写真には日本のナンバーワンエースと認定されている西沢広義(後列左)
そして坂井三郎(中段左から2番目)、他2名のエースが写っています。
 
台南航空隊は、最高得点の日本の戦闘機エースを何人か含む零戦隊でした。
(アメリカ側の記述による)

8月21日から9月11日までの間に、日本軍はガダルカナル島を合計10回襲撃しています。
この間日本軍の31機の航空機が撃墜され、7機が損害を受けました。
対してCAF海兵隊戦闘機飛行隊の損失は航空機27機、搭乗員9名となります。

上の写真には笹井醇一少佐が写っていないことから、この写真は、
ツラギに米軍が上陸後、同航空隊がガダルカナルまで飛んで
カクタス航空隊と空戦を行う中、笹井少佐がカール少佐に撃墜されたとされる
8月26日以降に撮られたものであることがわかります。

なお、冒頭の写真はVF-17のアンディ・ジャガー少尉が、ラバウルからの帰投後、
日本機を撃墜したことを地上員に報告しているところだそうです。

ワイルドですね。

VF-17は、F4Uのコルセアを運用した最初の部隊で、
「ジョリーロジャース」のマークで有名です。
海軍は当時コルセアを空母サービスに適さないとみなしていたので、
空母ではなくソロモン諸島の陸上飛行隊として活動しました。

2回の任務ツアーで、VF-17は152回の勝利を収め、11名のエースを生み出しました。
その後、ヘルキャットに乗り換えてからは空母「ホーネット」乗組になっています。



 

 

続く。

 

 

 


原子力空母「エンタープライズ」100分の1模型〜スミソニアン航空宇宙博物館

2021-03-15 | 博物館・資料館・テーマパーク

スミソニアン博物館の空母ハンガーデッキを模した
CVS「スミソニアン」の一隅には、巨大なシップモデルが展示されています。

 

どんな状態かというとこんな感じ。
レシプロ戦闘機ワイルドキャットの下に備えられた
ライト内蔵の巨大なケースの中にそれはあります。

空母の100分の1スケールの模型というのは圧巻です。
模型ファンならずともこの迫力には皆等しく目を見張る迫力でした。

模型ケースの端に展示されているこの盾には

この展示のメンテナンスの一部は、
USS ENTERPRISE CVN-65ASSOCIATION
によって資金提供されています。

「We are Legend」(1961-2017)

と記されています。

本家のエンタープライズアソシエーションと関係がある、
と誇らしく表明しているわけですね。

エンタープライズが就役していたのは1961年から2012年。
その名前を受け継ぐ艦は8隻目ではありますが、
原子力空母としては世界初となります。


バウデッキ左舷側にはブライドル・レトリーバーが二本突き出しています。
このブライダル・レトリーバーについては「ミッドウェイ」のログで
詳しくお話ししたことがあります。

”MAN OVERBOARD!"(人が落ちた!)〜空母「ミッドウェイ」博物館

この甲板左舷部分に駐機してある艦載機はおそらくA-7コルセアIIでしょう。
ということは模型で再現されているのはベトナム戦争時代と見ていいかと思います。

この頃はカタパルトによる射出の際、シャトルと航空機の主翼基部や胴体とを連結する
「ブライドル」「ブライドル・ワイヤー」を使っていましたが、
「エンタープライズ」の長い歴史上、特に最後の方では
このシステムは不要となり、この部分も必要が無くなったはずなのですが、
どんな時代の写真にもこれが付いているんですね。

甲板を改装することでもあれば無くしてしまったのかもしれませんが、
ブライドル射出式の名残りとして機能しなくなったあとも
あえてシンボルのように残しておいたのかもしれません。

それに、実際にあそこに立ったことのある人間として言わせてもらうと、
なかなか開放感があって他では味わえない眺めなんですよね。

軍艦は「ミッドウェイ」のように柵を立てないので尚更でしょう。

どうやら今から
偵察機Northrop Grumman E-2「ホークアイ」 Hawkeye
が発艦するところのようです。


よく見ると人の動きも非常に細部まで表現されており、
走っている緑シャツ、向こうのクルセイダーの横の赤シャツが
この場面に躍動感を与えています。

ここだけ見ていると、カタパルトがもう立ち上がっているので、
ホークアイのプロペラが回っているように思えてきます。

ブリッジの後方デッキにも航空機が満載です。 
ちなみにこの甲板の航空機の現在地を統括する係が
飛行機の形のマグネットを貼り付けていくボードのことを
西洋版コックリさんを意味する「ウィジャボードOui-ja board」
という、という話は一度書いたことがあります。

最後尾に並べられているのはヘリコプター。
シースプライト、という名称が思い浮かびましたが、
自信がないので思い浮かべただけにしておきます。

艦載機エレベーターに1翼を畳んで乗っているのは、
可変翼機といえばこれしかない、グラマンのF-14トムキャットに違いありません。

そして左はRA-5ビジランティ・・・・かな?

ところで、ハンガーデッキにも何やら機影が見えるではないですか。

ほおおおおお〜〜〜〜〜!

さすがスミソニアン、こんなところにも決して手を抜かないね。
この写真はスミソニアンHPから許可される使用条件でダウンロードしたものです。

こちらで運んでいるのはA-6イントルーダー、それともプラウラー?

ハンガーデッキの中のイントルーダーさん。

この展示コーナーで最初に目撃したインテリパパの二人の息子も
この模型を前に気色満面というやつです。
男の子の模型(あるいは飛行機、船)好きってもうこの頃にはすっかり萌芽しているのね。

絶賛ポリコレ文化革命中のアメリカでは、おもちゃ売り場での
「男の子用おもちゃ」「女の子用おもちゃ」のコーナーをなくせとか
アホなことを言い出しているそうですが、自分たちの小さい時とか、
あるいは自分の子供たちが、誰もそのように仕込まないのに、
彼あるいは彼女が、赤ちゃんの時から男の子は乗り物、女の子は
ぬいぐるみや人形に手を伸ばすのをどう思っているんでしょうか。

って全く関係なかったですね。<(_ _)>

画面手前後ろ向きに駐機されているのもビジランティではないかと思われます。

甲板の上にいるヘリはCH-46ーキング、そしてその後ろは
ボーイングのバートルV-107ではないかと思われます。

どちらも「ミッドウェイ」博物館で実物を見ることができました。

この辺(甲板後部)はトムキャットの巣になっております。

ハンガーデッキにもトムキャットが。

翼を立てた状態なのでこれはクルセイダーでしょうか。

こうやって航空機を紹介していくと、この艦載模型が
ベトナム戦争当時のステイタスに基づいているのがよくわかります。

スミソニアンのHPで答え合わせしたところ、この模型は
1975年当時の艦と艦載機の構成を再現しているということでした。

模型製作者はステファン・ヘニンガーStephen Henninger 氏。
アメリカでも有名なシップモデラーだそうです。

2016年になって従来のライトをLEDに取り換える作業が行われました。

ヘニンガー氏が
ハンガーデッキの内部にアクセスしやすくするため、
後部右舷の艦載機エレベーターを取り外す作業をしているところです。

完成した頃はお若かったはずのヘニンガー氏も、今や立派なおじいちゃん。
しかし、作業中のこの気色満面の様子を見よ。

 

ヘニンガー氏は、数学の学士号を取得しており、最近、大手航空宇宙企業の
技術スペシャリストとしてのキャリアを退職したという人です。

つまり元々模型製作は本職ではなく「趣味」であったということになりますが、
引退してからは個人や企業向けのヨットやクルーズ船の模型制作をしているそうです。

彼は兼ねてから空母に興味を持ち、機会があれば模型を作ってみたいと
切望していたこともあり、スミソニアン博物館の、

USS「エンタープライズ」の1:100スケールモデルを制作する
12年間にわたるプロジェクトを引き受けたということです。

85機の航空機を搭載したこの11フィートのモデルは、1982年に完成しています。

ということは、計画が起こったのは1960年代。
「エンタープライズ」就役間もない頃だったということになります。


計画が立ち上がった頃には最新式の空母だったのが、
模型を作っている間にそうではなくなっていたということですね。

素材はプラスチックのボード、アルミニウムのシート、ポリエチレン、
真鍮とアルミニウムのチューブ、木(バルサ)、ソフトワイヤ、ベニヤ合板など。

接着のために飯田、スーパーグルー、エポキシ、そしてプラスティックセメントが使われています。

A-7コルセアII、A-6イントルーダー、SH-3シーキング、CHー46シーナイト、
A-4スカイホーク(あれ?どこにいたんだろ)F-14トムキャット

などが艦載機として制作されました。

E-2ホークアイとRAー5ビジランティスクラッチビルドといって、
プラモデルのように組み立てキットで作るのではなく、各種材料を用いて
ゼロから制作、つまり文字通り素材から削り出して作られています。

一方、EA-6B プラウラー(うろうろする人の意味)はイントルーダーのキットを
大幅に変更して制作されました。

これら航空機の製作には全部で4000時間費やされたそうです。
航空機だけに1日10時間かけたとして・・・のべ400日!

うーん・・・気が遠くなりそうです。

完成までの模型製作の歴史

● 1970年11月、ヴァーモント州のナサ・ワロップス島で模型考案

●  1971年1月〜7月ペルーにて断面図制作

●  1972年−1975年、南アフリカのヨハネスブルグにて、ハル構造の図面化

●  マサチューセッツ州アーリントンで(わたし昔住んでましたここに艦体と航空機の製作

●  1976年コロラド州に完成したプロジェクトがUホールで運搬される

●  1982年5月26日、プロジェクト開始から11年後、艦載航空機82機が全て完成

●  1980年、二つのパーツに分けて制作された艦体が接続される

●  1982年、ハンガーデッキが接続され細部の調整と仕上げを行う

●  プロジェクト完成 1982年8月

 

 

続く。


海上運用航空(空母と艦載機)〜スミソニアン航空宇宙博物館

2021-03-07 | 博物館・資料館・テーマパーク

以前、スミソニアン航空宇宙博物館の第一次大戦の航空シリーズを終了しましたが、
この膨大な展示を誇るアメリカ随一の博物館については、
実はまだお話しすべきことのほんの一部しか語っていません。

その中でも、当ブログ的に大変取り上げ甲斐のあるテーマが、
本日よりシリーズとなる

Sea-Air Operations  海軍航空隊の行動展開

要するに航空博物館のフォーカスを当てたこの博物館が、総力を上げて取り組んだ
空母機動部隊を中心とする一連の展示と考えてくださって結構です。

わたし自身も大変興味を持って観覧し、そしてここでお話しするのを
楽しみにしてきたテーマですので、張り切って参りたいと思います。

このギャラリーエントランスに立ったとたん、展示内容をほぼ完全に理解したわたし、何者?

武漢肺炎前ということで、まだ見学者で賑わっているスミソニアンです。

今久しぶりにHPを見に行ったら、まったく再開の予定は立っていないようです。
観られる時に観ておいてよかった、と改めて思いました。

エントランスの前に立っただけでこれが空母の一部を象っているとわかったのは
全体的にも、そして細部にも海軍を想起させるものがあしらわれているからです。

たとえば、この写真の入り口上部の舫っぽい装飾とか。
このマクラメは海軍&海兵隊の退役軍人、ジョン・オーガスティン氏の手作りで
その作り方は第一次世界大戦中、彼が水兵時代に習ったものだそうです。

スミソニアン博物館に対して大変ありがたく思うのは、説明の各国語が、
英語のほかはスペイン、フランス、ドイツ、そして日本語であることです。

日本についてかつて干戈を交え空戦を戦った相手であるということ、
そして旧日本軍の機体がいくつも所蔵されているからかもしれませんが、
特に第二次世界大戦についての展示でなくとも日本語表示がありました。

これがいつの間にか中国語(しかも簡体字)にとって変わられるという
わりとアメリカではよくあることが、ここに今後起こらないことを祈ります。

 海上作戦ギャラリー入口

エントランス全体を見ると、より空母らしさを感じていただけるでしょう。
「76」はつまり艦番号を表しているようですよ。

 

エントランスから内部に続くこの床にあるのも軍艦のデッキです。
壁の色も軍艦そのものですね。

いったいこれはどうなっているのでしょうか。

CVM-76 USS SMITHSONIAN

・・・・いかにも実際にありそうですが、まずCVは航空母艦の船体分類番号ですね。
アメリカの空母はCVに「役割」を意味する分類番号、たとえば

CVE=Escort carrier、護衛空母

CVN= Nuclear-Powered 、核動力空母

というのがありますが、それでいうと、

CVM=Museum carrier (博物館空母)

ではないか、とわたしは推察するものです。

しかし、どこを探してもその答えが見つかりませんでした。
おそらく間違ってないと思いますが、どなたか正解をご存知でしたら
是非教えていただきたく存じます。

さて、いかにも船上を思わせるラティスのデッキ風通路には、

Sea-Air Operations

USS SMITHSONIAN  CVM-76

QUARTER DECK

という展示説明があります。
クォーターデッキというのは「後甲板」と訳していいと思います。

我々アメリカ海軍の艦船において、クォーターデッキは
公式の儀式が行われるメインデッキの一部分を指します。
訪問者と海軍の高官(dignitaries)はこの部分から乗艦します。
航空母艦のフライトデッキは標準的なドック施設からアクセスするには
高すぎるため、通常格納庫(ハンガーデッキ)のレベルから出入りするのです。

まあ、この辺りは一度でも空母や航空機搭載型護衛艦に乗ったことがあれば
子供でも知っている知識の第一歩ですね。

格納庫デッキは海上では通常の格納庫としての機能を果たしますが、
港にいる間は簡易的なバルクヘッドを追加して、左舷入口に隣接する部分を
クォーターデッキに変換します。

バルクヘッドは日本でもそのまま「バルクヘッド」と言っているかもしれませんが、
意味そのものは「隔壁」となっています。

アメリカは知りませんが、海自だとハンガーデッキで公式の行事を行うことは
普通に多かった気がします。

クォーターデッキのデザインは空母によってバリエーションがありますが、
必ず艦の徽章が掲げられていること、公式の入口であること、そして
そこで公式の行事が行われることだけは共通しています。

絵や置物などのアート、艦が獲得したトロフィー、時鐘、そしてその他の
例えば乗員の装具や携行品などもここにあるのがスタンダードです。

海軍の空母におけるクォーターデッキを再現しているので、このように
いちから説明をしてくれているわけですね。
さらにその横には、この展示に出資してくれた企業の名前がお礼方々書かれています。

飛行機を直接寄贈したボーイング、ニューポートニュース造船の他、ボーイング、
ジェネラルダイナミクス、GE、マクドネルダグラス、ノースロップ、レイセオン、
ロックウェル、ロールスロイス、ウェスティングハウスエレクトリック

そして「スペシャルアシスタンス」を得たとして、アメリカ海軍と並んで
ソニーコーポレーションが名前を連ねていました。
(ははーん、日本語表記の理由はソニーかな?なんて)

さて、見学者が乗艦し、進んでいくと、そこはハンガーデッキ。
ハンガーデッキですから、当然そこには艦載機が格納してあるというわけです。

空母の中という設定なので、中は結構な暗さです。
ハンガーデッキの説明があるので、これも翻訳しておきましょう。

空母のハンガーデッキの本来の役目は航空機収納、保管、そしてメンテナンスのスペースです。
およそ8100平方メートル(なぜかm表記)の広さで、その幅は艦の幅であり、
長さは艦体のほぼ3分の2となります。
そのスペースは絶対的に艦のなかで大事な空間であり、そこに航空機は
翼を折りたたまれ、互いに数インチの隙間に膠着されて並べられます。

デッキのスペースは航空機のためだけではなく、そこには試験用器具、
メンテ用のパーツ、コンプレッサー、スペアのエンジンなどが所狭しと並びます。
全ての機器は高度で複雑な航空機と装備する武器システムのためにあるといってよく、
さらに作業場、倉庫、エンジンテスト設備、そして消火装備が周りを囲んでいます。

鉄扉が時々開き、運搬エレベーターが地下デッキにある厳重に保護された
弾薬庫から弾薬をこの階に配送します。

ハンガーデッキは各セクションやベイと呼ばれる区画と大きな可動式ドアで区切られており、
非常時や火災の際には遮断されるしくみになっています。
航空機はハンガーデッキとフライトデッキの間を専用のエレベーターで移動させます。
このエレベーターは往々にして艦のサイド部分を延長させるように付属しています。

フライトオペレーションとメインテナンスが行われている間、ハンガーデッキでは
集中的にアクディビティが行われます。
フライトデッキから下ろされてきた航空機は次のフライトスケジュールに合わせて
迅速に手入れなり修理なり点検なりのサービスが行われるのです。

深刻な不具合が認められる航空機は脇に避けられ、集中的な修理が行われます。

当博物館のキュレーターは、つまりその道の専門家でもありますから、
普通に著書などもあったりするわけです。
左から

First Flight Around The World      Tim Grove

1924年に最初に世界一周を試みたアメリカ陸軍の八人の男たちの話。

In  The Cockpit    John Travolta

ちょっと待って?ジョン・トラボルタなんてキュレーターいたの?
と思って調べたら、やっぱりあの人でした。

ジョン・トラボルタの「コックピットで」は、各方面のパイロットに
短いインタビューをしたものをあつめた本で、その中に
俳優のトラボルタもいる、ということのようです。

トラボルタは、少年時代に飛行に魅了され、1970年に「サタデーナイトフィーバー」で
稼いだお金で飛行訓練を受け始め、19歳のときにソロになりました。
飛行機を愛する彼はパトロンとしても航空大学に飛行機を寄贈したりしています。

彼は、ガルフストリーム、リア24、ホーカー1A、カナディアテブアン(スノーバード)、
デハビランドヴァンパイアジェットの副操縦士、
そしてボーイング707と747の副操縦士の資格を持っています。

著者兼編集者のDiFreezeは、10年近くにわたって多くの有名な飛行士にインタビューしました。
軍の英雄、有名人のパイロット、曲技飛行のパイロット、宇宙飛行士、慈善家、起業家などです。

(トラボルタがどこに入るのかはわからず・・・慈善家かな)

John Travolta: The AVIATOR

サタデーナイトフィーバーの後消えたと思っていたら
稼いだお金で飛行機に乗っていたのか・・・。

Carrier Warfare In The Pacific     E.T. Woolgrigge

「日本の真珠湾攻撃は、戦艦の終焉であり
空母が艦隊の主役になる歴史の幕開けだった」


国立航空宇宙博物館のフェローであるウールドリッジが編集したこのオーラルヒストリーでは、
ジミードーリットル大佐、ジョン・S・サッチ提督などのインタビューを元に構成されました。

たとえばサッチは、彼の編み出した「サッチウィーブ」は、速度の遅いアメリカの飛行機が
速い日本のゼロ戦を同等の条件で戦うことを可能にした戦闘戦術だと言っています。
また「率直に」、ミッドウェイ海戦で、しフレッチャーとスプルーアンスが空母提督だったら、
ヨークタウンは沈没しなかったであろうと非難しているということです。(読んでみたい)

また、フランクリンが800人の乗組員を失ったとき、神風特攻隊の破壊力を目の当たりにした人、
二つの台風によって破壊された艦隊に乗っていた人などからも話を聞いています。

人々はこうしてハンガーデッキにいる気分を味わえるわけですが、
これらの部分は、驚くなかれ、全て実際の空母の一部分だったものです。
壁も、装備も、デッキの鎖も全て!

そして、映し出されている海上の写真は、実際に空母「セオドア・ルーズベルト」
艦内から撮影された「本物の乗員目線」です。
ということはこの海はサンディエゴ近海かな?

CVM(笑)スミソニアンが「コミッション」引き渡しされたのは1976年6月28日。
当時のアメリカ合衆国海軍長官(Secretary of the Navy)ウィリアム・ミッデンドルフは
委託式のとき、本式の「海軍用語」で

 「床ではなくデッキ、壁はバルクヘッド、そして階段はラダーズ(ラッタル)と呼びます」

 「Welcome Aboard!」

とあいさつしました。

そしてこれらの内装は、実際の空母で使われてきたものです。
5隻の除籍になったその空母とは以下の通り。

USS「エセックス」CVS-9

USS「イントレピッド」CV-11

USS「ランドルフ」CV-15

USS「ハンコック」CV-19

USS「シャングリラ」CVS-38

そして1975年に除籍になったいくつかの軍艦が、
これらの展示にその部分を提供することになりました。

階下に続くラッタルへのハッチ。

そしてハンガーデッキには必須の消火装備も。

これらの「本物」に囲まれて展示されているのは、
かつてアメリカ海軍で実際に空母のデッキから飛び立った
艦載機の数々です。

 

続きます。


米国商船部隊と「メレディス・ヴィクトリー」号の難民救出〜兵士と水兵の記念博物館@ピッツバーグ

2021-02-09 | 博物館・資料館・テーマパーク

去年の夏はこれまで何年間も連続して必ず一年に一度は滞在していた
サンフランシスコなど西海岸に初めて行けずじまいでした。

そして何の因果か、いまだにこの博物館のあるピッツバーグにいて、
毎日前を車で通っていますが、最後に見学したのは2019年の夏です。

まだピッツバーグにいるうちにシリーズを終わらせてしまいましょう。

 

■ アメリカ合衆国商船部隊

例年ベイエリアに滞在することがあれば、必ず一度は歩きに行っていた
サンフランシスコ空港近くのコヨーテポイントレクリエーションエリア、
そののトレイルが繋がる緩やかな丘の斜面には、
かつてマーチャント・マリーンのアカデミーがありました。


その跡地を表す石碑を見つけたことから、ここでも一度
その教育組織についてお話ししたことがあります。

ここピッツバーグの兵士と水兵のための記念博物館には、
あまり他の軍事博物館には見られないマーチャント・マリーン、
アメリカ合衆国商船にかかわる展示がありましたので、
日本人があまり知らないこの組織についてもう一度お話ししておきます。

アメリカ合衆国商船(マーチャント・マリーン)とは、
アメリカの民間の船員、そして民間あるいは連邦が所有する商船の総称です。

民間の船員と商船は、いずれも政府と民間部門の組み合わせによって管理されており、
アメリカ合衆国が航行を可能とする海域を出入りする商品や
サービスなどの商取引、あるいは輸送を行っています。

商船は平時、物資や貨物と輸送を担うというのは当たり前のことですが、
アメリカの場合、国家が戦争に入った時には、商船が軍の補助任務、
軍事物資や兵力の輸送を行うことが法律で取り決められているのです。

このことは、

「商船隊は有事には第四の防衛軍となる」

という言い方で規定されているわけです。

日本の商船組織と大きく違うのは、指揮官に将校のランクが与えられていることで、
この将校はしばしば国防総省から軍の将校に任命されることもあります。

以前ここで取り上げたドイツ潜水艦対アメリカ駆逐艦映画、
「眼下の敵」(The Enemy Below)で、主人公の駆逐艦の艦長
(ロバート・ミッチャム)が
民間のキャプテン出身だったという設定を覚えておられるでしょうか。

あれもこのシステムをわかっていない人が見ると、なぜいきなり民間人が
駆逐艦の艦長に任命されるのかと不思議に思うでしょう。

実はマーチャント・マリーンの将校であった主人公(ミッチャム)が
そのまま駆逐艦長にスライドしてくるという設定はあり得ないことではないのです。

映画ではそのことが当初部下の漠然とした艦長への不信感につながっていたわけですが、
それが払拭されたのは戦争が始まったからでした。

開戦当初は誰しもが実戦など経験したことはないので、いざそのときになって
この艦長が「できるやつ」であるのを目の当たりにした、というわけです。


おそらくあの主人公が非常時に駆逐艦の配置に回されたということイコール、
それだけ民間船での実力が評価されていたという設定であったのでしょう。

ただし、やはりそれはあくまでも映画としての創作で、実際は商船将校が
戦闘艦中の戦闘艦である駆逐艦長になることはありえません。

民間商船将校が軍艦艦長に任命されることがあったとしても、その任務は主に
戦略的運輸であり、将校の資格は無制限のトン数の船の船長でなくてはならなかったのです。

 

アメリカ合衆国マーチャント・マリーンが最初に戦闘に参加した最初の記録は
1775年、イギリスのスクーナーを相手に行った戦いとされています。

南北戦争でも民間船による通商破壊行動が戦略的に行われましたし、
第二次世界大戦では各種作戦行動中に310万トンの商船が失われ、民間船員は
26名に一人の割合で戦死しており、これは他の民間人の組織と比べて
最も高い死傷者率ということになっています。

これは我が国で徴用船の船員が多数失われたのと全く同じ構図です。

アメリカでは733隻の貨物船そして21万5千隻のうち8,651隻の民間船が失われましたが、
日本ではもっと多数にのぼります。

汽船主体;第二次世界大戦で喪失した日本の民間船

 

■「メレディス・ヴィクトリー」とラ・ルー大尉

SSMeredithVictory.jpg

これはアメリカの商船隊の貨物船、SS「メレディス・ヴィクトリー」です。

第二次世界大戦に投入するために建造されましたが、完成したのが
1945年7月24日であったこともあって、実際に配備されたのは
朝鮮戦争でした。

「メレディス・ヴィクトリー(Meredith Victory)」

はなぜかノースカロライナにある小さな女子大学、メレディスカレッジに因んでいます。

1950年、朝鮮戦争が始まったため、彼女はまず、
国防予備船隊としてワシントン州への配備を経て戦地に配備されました。

国防予備船隊(NDRF・National Dfence Reserve Fleet)

は、有事の際、軍事非軍事の如何を問わずアメリカ合衆国の求める
任務に就くために20〜120日以内に起動することができる商船で構成され、
軍艦ばかりから成る「米国海軍予備艦隊」とは全く別物です。

現在国内に三箇所(バージニア、テキサス、カリフォルニア)
非活性化された補助艦船ばかりを停泊する予備船隊の港が存在します。

こんな感じで浮かんでいます。
この予備船隊港のあるのはジェームズ川なので、水の色がこんななんですね。

さて、「メレディス・ヴィクトリー」が朝鮮戦争に投入されたとき、
艦長だったのは

レオナルド・ラ・ルー大尉(Cauptain Leonard LaRue )1914 – 2001

というペンシルバニア海事学校出身の士官でした。

アメリカでは軍人でなくても軍的階級を特例として与えられる場合が多々あります。
カーネル・サンダースはケンタッキー州から送られた称号のみの「名誉大佐」でしたし、
なんならうちのMKも州の資格試験を受けて救急隊員の資格を持っており、
もう少しやればルテナントの階級がもらえると言っていたような気がします。

余談ですが、ピッツバーグ近辺の大学は2月1日に学期が開始されました。
春休みは1日だけ(週末か月曜日にくっつけて三連休にはなる)になるそうです。

学期明けと同時に大学の組織である救急隊の待機任務も始まるようで、
2月第一週の1日はスタンバイルームに泊まり込みだということでした。

ほとんどがオンラインなので、先生の都合なのか、
夜の7時半から始まる授業もあるそうです。

 

ラ・ルー大尉の話に戻ります。

海の男のキャリアを商船から始めたラ・ルーですが、

第二次世界大戦が始まった時、「ムルマン・スクラン」という
連合軍の護送船団に乗って、ノルウェーとソ連のムルマンスクを往復していました。

危険な北極海、頻繁な悪天候、そして通商破壊活動を行うドイツ潜水艦。
これらはすべての航海を神経と忍耐力を要する恐ろしい試練に変えました。

1950年、朝鮮戦争が始まると、ラルー大尉は再び危険な海域で奉仕することになります。

戦略物資を供給するために何百もの商船が動員され、
食料や弾丸からバズーカやブルドーザー、地球半周離れた場所に必要なものを届けるため、
商船の乗組員は24時間体制のサポートを行いました。

 

朝鮮戦争中の韓国の港(パブリックドメイン)で軍隊への郵便物を持った商船。 朝鮮戦争中、韓国の港での商船

仁川上陸作戦始め朝鮮半島東海岸における多数の任務に参加した後、
ラルー大尉は北朝鮮の興南での勤務を命じられました。

この任務で彼の船「ヴィクトリー」級の貨物船、SS「メレディス・ヴィクトリー」は、
歴史の流れを変える軍事的および人道的作戦に参加することになります。

当時興南港では、朝鮮戦争の最大の水陸両用撤退およ米国史上最大級の戦闘条件下で
民間人の軍事的避難が行われていました。

これを受けて12月9日から24日までの5日間で、100隻近くの船に、
10万5千人以上の軍隊と装備、車両、物資を釜山に向けて輸送する任務が始まりました。

さらに、港に閉じ込められ、迫りくる中国軍の殺害の危険にさらされていた
10万人の北朝鮮の民間人も救助されることになりました。

■ 神の手

当時国連は朝鮮半島を放棄しようとしていました。
(まあ今も国連なんてなんの役にも立っていませんが、その話はともかく)

このとき、ラルー大尉は興南で、人員を載せることを全く想定せずに造られた
「メレディス・ヴィクトリー」に、船長判断で1万4千人の難民を積み込みました。

メレディスビクトリー1950に乗った難民

「メレディス・ヴィクトリー」外甲板上の難民、1950年12月。

このときの興南から釜山の南の島、巨済島への「メレディス・ヴィクトリー」航海は、
「人類史上最大(人数)の救助活動」として記憶する関係者もいます。

このとき「メレディス」に乗り込んだ難民は3日間腰を下ろすこともできず、
食料はもちろんのこと水、トイレもないという状態でしたが、
12月25日のクリスマスにラルー船長が巨済に船を着岸させ投錨を命じたとき、
1万4千人全員が全員が生きていただけでなく、船上で5件の出産があり、
しかも赤子は全員無事で生まれたのでした。

ラ・ルーは後にこのときのことを

「神の手がわたしの船の舵を取っていた」

と語っています。

 第二次世界大戦の海軍のベテランで「メレディス・ヴィクトリー」のオフィサーだった
ボブ・ラニーという人物はのちにこの時のことに絡めてこう言いました。

「戦争は爆弾とか悪人どもという面だけを持つのではありません。
しばしばそれは国家の完全性と国民の尊厳を維持することと同義です。
わたしたち乗組員はあのときそれをやったと思っています」

 

■ベトナム戦争から現在まで

ベトナム戦争においては、その継戦期間を通じて95%の戦争物資が
アメリカ商船部隊のサポートによって輸送されることになりました。

1966年には商船がアメリカ史上最も長距離となる
ボストンーサイゴン間、1万2千マイルの物資船団輸送を行いました。


時代は降り、湾岸戦争における「砂漠の嵐作戦」においては、
予備商船部隊の4分の3がアクティブとなりました。

戦争と戦争の間、「ビルドアップ」準備の期間には、何千もの民間船員が
かつてのノルマンジー上陸作戦のときの4倍に相当する、
歴史上最大の軍事海上輸送のひとつを達成しています。

こんにち、7,000名ものライセンスを持った米海兵隊が、
軍事海上輸送司令部(MSC)に取り組んでおり、国防予備船隊として、
防衛任務をいつでも遂行できるように次の活性化の準備を行っているのです。

ここSSMMには商船部隊のオフィサーになった人のセーラー服が寄贈されています。

 

ラ・ルー大尉のその後についてもお話ししておきましょう。

「メレディス・ヴィクトリー」の救出劇から3年後の1954年、

レオナルド・ラ・ルーはベネディクト会の僧侶に帰依し、
「ブラザー・マリヌス」という洗礼名を受け、残りの人生を聖職者として過ごしました。

米国商船アカデミーの卒業式に出席した当時の国防長官のジェームズ・マティス()は、
スピーチでラ・ルー大尉を取り上げています。

「1950年の極寒の12月。
敵の兵士が炎の中で都市に迫り、港が採掘され、何千人もの難民が
逃げようと必死になって港に群がりました。
ラ・ルー大尉は戦争の嵐の中でSSメ「レディス・ヴィクトリー」を着岸し、
乗組員とともに14,000人の難民を救出し、彼らを乗船させました。

船が安全な停泊地に入る前に、5人の赤ちゃんが生まれ、
14,000人以上の難民のうちたった1人の命も失われることはありませんでした。

彼こそは最善のために全てを賭けることを躊躇わないリーダーだったのです。

Semper fidelis!」

 

 

続く。


STLL ON PATROL(未だ哨戒中)〜バッファロー&エリー郡海軍軍事公園

2021-01-04 | 博物館・資料館・テーマパーク

ニューヨーク州エリー郡バッファローにある海軍軍事博物館を訪れています。
本題の艦船に入る前に、公園内に設置されている記念碑、慰霊碑を紹介します。

●朝鮮戦争慰霊碑

朝鮮戦争の慰霊碑と、それに向かい合うように
同じく西ニューヨーク州出身の戦死者名が刻まれた石碑があります。

●駆逐艦「フランク・E・エバンス」

駆逐艦USS「フランク・E・エバンス」
Frank E. Evans DD754

の慰霊碑です。

誇りを持ってともに航海し 祖国のために究極の代償を払った
乗組員とこの艦を わたしたちは決して忘れません

と碑には刻まれています。
この駆逐艦はどのような犠牲を払ったのでしょうか。

「アレン・M・サムナー」 であるUSS「フランク・E・エバンス」(DD-754)は、
第一次世界大戦のときフランスに遠征軍として派遣された

フランク・エドガー・エバンス准将

 

の名前を冠した駆逐艦です。
海兵隊将校の名前が海軍艦に冠されている理由は、海軍戦争大学、
ハイチの司令官、ワシントンDCの海軍部の海軍作戦部長、
フィラデルフィアの海軍造船所司令官兼地区海軍士官を歴任し、
海軍十字章、パープルハートメダルを受賞したことによるものでしょう。

 

ニューヨークのるベツレヘムスチールカンパニー造船所で起工し、
エバンス准将の未亡人の主催により進水を行った「フランク・E・エバンス」は、
第二次世界大戦でエニウェトク、グアム、ウルシー、沖縄などで
護衛任務とレーダーピケット艦の役目を負い、その任務のあいだ
しばしば日本軍の航空機と戦うことになりました。

終戦後は1946年まで極東で戦争捕虜解放などを補助し、
1949年に一旦予備役に入れられます。

朝鮮戦争勃発後再就役し、第7艦隊に加わった彼女は、
元山の包囲戦に参加し、敵の沿岸砲台と11回交戦しました。

その中で、30発の榴散弾の打撃を受けたのにも関わらず被害は乗員の軽傷4名のみ、
最終的に敵の砲台を沈黙させるという戦闘を行い、これ以降彼女は

「ラッキー・エバンス」🤞
「グレイ・ゴースト」👻

というニックネームで呼ばれることになります。

また彼女は、1954年11月、台湾海峡でパメラ台風に遭い操舵制御を失った
USNS「マスキンガム」のSOSを受け、すでに安全海域に避難していたにも関わらず
再び暴風域に突入し、5時間航行ののち「マスキンガム」のもとに駆けつけました。

幸い「マスキンガム」は「エバンス」が到着する前に体勢を立て直していましたが、
「エバンス」にピューリッツァー賞を受賞した特派員ホーマー・ビガートが乗っていて
その勇敢な行動は広く報道され彼女を有名にします。

USS「フランクE.エバンス」1963年4月

 

●HMAS「メルボルン」との衝突事件


事故後の現場

 

1969年6月3日深夜3時、「フランク・E・エバンス」は、英海軍、豪海軍、
そしてニュージーランド海軍共同での対潜訓練のための艦隊行動中でした。

フォーメーション内のすべての艦は無灯火で航行していました。
このとき、オーストラリア海軍の空母「メルボルン」が「エバンス」に
空母の左舷側の「駆逐艦レスキューポジション」に付くように打電しました。

このときのロジカルな動きとしては、「エバンス」は左舷に転舵し、
外側に円を描くようにして空母の左舷艦尾側に位置するべきだったのですが、
「エバンス」はフォーメーションの基礎的な進路を誤解し、
「メルボルン」の右舷に位置するものと思い込んで艦首を逆に右舷に向け、
その過程で空母の艦首前を二回横切ることになってしまいました。

Animation of a carrier and a destroyer. The carrier is travelling in a straight, downward-sloped line across the frame. The destroyer starts near the bottom of the frame, turns in a clockwise arc to travel up the frame past the oncoming carrier, then turns sharply back into the carrier's path.

これを見ていただくとおわかりのように、「エバンス」が一度目に
「メルボルン」の艦首先を横切ったあと、左に転舵していれば
同じく左側に転舵した「メルボルン」との衝突は避けられたのですが、
なぜか右側に舵を切って「メルボルン」の進路を塞ぐ形になってしまいました。

その結果、空母の艦首は「エバンス」の左舷艦首の28m後方に激突し、
次の瞬間「エバンス」は真っ二つに切断されました。
彼女の艦首は「メルボルン」の左舷側に落下し、73人の乗組員が脱出するまもなく
艦内に残されたまま艦体はわずか5分後に沈没しました。

艦内の73名に加えて海中から遺体が一体収容され、犠牲者は合計74名、
約60〜100人の乗員は救出され、迅速に「メルボルン」に収容されました。

事故発生時、「エバンス」艦長は隊形に変更があったら起こすように、
と指示を残して就寝中でしたが、甲板士官も甲板士官補佐(少尉)のどちらも
位置変更を命じられたことを艦長に報告していません。

さらに艦橋もCICから周辺の艦位と動きの情報を取るということをしていませんでした。

ちなみにこの二人のうち一人は「スタンドワッチ」の資格試験?に落ちており、
もう一人は艦隊勤務に入ったばかりで初めて海に出るという状態でしたが、
運の悪いことにこの瞬間この二人が「エバンス」の全責任を負っていたことになります。

 

USS「フランク・E・エバンス」、事故が起きてから約1ヶ月後の1969年7月1日、
事故のあったスービック湾で退役し、海軍船籍簿から抹消され、
海上に残された艦尾部分は標的として沈没処分になりました。

 

●潜水艦「グレネディア」の魚雷と慰霊碑

潜水艦の魚雷が展示されていました。
撃沈された「グレネディア」に装備されていたものですが、
これを設置したのは第二次世界大戦潜水艦隊ベテランの会です。

右側の米海軍潜水艦隊の徽章の下にはこう書かれています。

「この組織の目的は、潜水艦戦で命を落とした船員の記憶を永続させることです。
第二次世界大戦では52隻の潜水艦が失われ、
374名の士官、3131名の下士官兵が潜水艦戦で命を落としました。

この記念碑は彼ら『未だ哨戒中』の男性たちに捧げられています」

 

USS「グレナディア」Grenadier SS210は、タンバー」級潜水艦で、
艦名はソコダラ科の魚の総称に因んで命名されました。

1941年に就役後六度目の哨戒活動でマラッカ海峡に向かった「グレナディア」は
船団攻撃を行わんとして特設砲艦「江祥丸」(名村汽船、1,365トン)に発見され、
これから逃走中、第九三六航空隊の艦上攻撃機の攻撃を受けました。

「グレナディア」の動力と照明は完全に停止し、82メートルの海底に沈座。
操舵室では火災が発生した一方、乗員は必死に修理を試みましたが、
推進システムを失ったまま13時間経過後浮上し脱出を試みます。

浮上した「グレナディア」は航空機と特設捕獲網艇「長江丸」(三光汽船889t)
に攻撃されたため、
艦を廃棄して8名の士官と68名の乗組員は日本軍の捕虜となりました。

石碑にはこの日本での捕虜期間に死亡した4名の名前が刻まれています。

 

●その他の慰霊碑

西部戦線ではポーランドは連合国軍側として戦いました。
この碑は「自由のために」戦ったポーランド陸軍と、
情報局の男女を讃えるために設立されました。

見る人が見ればわかるポーランドの国土を表しているのでしょう。

「汚辱の日となるだろう」(A date that will live in infamy)

というルーズベルトの演説の一部が刻まれた真珠湾攻撃による犠牲者慰霊碑。

イラク、アフガニスタンにおける戦死者名が刻まれた顕彰碑です。
トランプ政権はイラクとアフガンからの撤退を進めようとしていますが、
クリスマスまでの完全撤退はマコネル院内総務の牽制で叶いませんでした。

The Battle Within PTSD Monument
つまり
「PTSDの中での戦い」を特に顕彰した碑です。

A tribute to those we will always carry,
and to those we can no longer hold

私たちがいつも持っているもの そして
私たちがもはや持つことができないものへのオマージュ

という言葉が刻まれ、傷ついた兵士を抱える兵士の姿があしらわれています。

ヒスパニック系アメリカ人の全てのベテランを顕彰する碑です。
碑には、

スペイン、メキシコ、プエルトリコ、キューバ、グアテマラ、
アルゼンチン、コスタリカ、ウルグアイ、パラグアイ、
ペルー、チリ、ボリビア、エルサルバドル

などの彼らのルーツとなる国の旗があしらわれています。

「パープルハート顕彰碑」

1775年以来の国家の戦いに命を捧げ、あるいは傷ついた
西ニューヨーク出身パープルハート受賞者のための碑です。


さて、それでは次から展示されている軍艦を(外からではありますが)
ご紹介していきます。

続く。


Flatten The Curve(疫病退散)〜バッファロー&エリー郡海軍軍事公園を訪ねて

2021-01-03 | 博物館・資料館・テーマパーク

ナイアガラの滝を見るトリップのために調べていて、
「ネイバルパーク」なる文字を見つけました。
正式には

The Buffalo and Erie County Naval & Military Park
(バッファロー&エリー郡海軍軍事公園)

という名前の軍事博物展示です。

ところでみなさん、ナイアガラの滝は何州にあるかご存知ですか。
なんと、ニューヨーク州なのです。
ニューヨークという街は位置的にニュージャージーかコネチカットのはずなのに、
ニューヨーク州がむりやり手を突っ込む様にしてがっつり確保していて、
そのおかげでNY州はエリー湖と大西洋どちらの水路も確保しているのです。

そして、エリー湖に面したニューヨーク州のバッファロー、
そしてエリー郡の名前を冠したこのネイバルミュージアムですが、
1979年に最初に一般公開された

国内最大の内海海軍&軍事公園

となっています。
まあ、ほとんどの海軍軍事公園的なものは
外海に面しているわけですからそうなるでしょうって感じですが。

ナイアガラの滝を見たあと、次にどこに行こうという話になったので、
わたしが運転者の権限でそこに行くことを決定し、車を走らせました。


ナイアガラから車で30分走るとバッファロー市街地です。
エリー湖岸からは屋上に自由の女神が立っている旧リバティ銀行、
リバティビルディング(右)とエリー郡庁舎の時計台が見えます。

時計台の庁舎は1870年代、リバティビルの建築は1925年です。
どちらもバッファローで最も高い建物のうちの二つとなっています。

ナーバルパークはエリー湖からナイアガラ滝を経てオンタリオ湖に続く
ナイアガラ川の河口の近くにあります。
写真の灯台の向こう側にはエリー湖が広がり、湖上の国境線から向こうはカナダです。

駐車場らしきものはなかったので、写真の右側の道路沿い車を停めて
わたしだけカメラを持って車から降りました。

「滑らないように気をつけてねー」

MKは寒いうえミリタリーにほとんど興味がないので車でお留守番です。

地面の白い部分は雪が陽で溶けてほぼ氷になっているところなので、
言われるまでもなく地面と並行に足裏を着地させなくては滑って危険です。

抜けるような冬の青空に翩翻たる星条旗。
これが遠くからのナーバルパークの目標になりました。

あーなんだか久しぶりにしっくりする眺めだわ。
近づくにつれ逸る気持ちを押さえてペンギン歩行を心がけます。

よたよたとたどり着いたところに現れたのはいかにも慰霊碑。

西ニューヨーク地方におけるベトナム戦争の戦死者の碑です。

ベトナムの田園と月と兵士。

碑にはベトナム戦争のベテランのこんな詩が記されています。

彼らは求められ、そしてそれに答えた:
神を少ししか求めなかった:
彼らの死は我々を苛んだが
しかし、その犠牲は我々を豊かにもした
死者を偲んで我々は生を受け入れる:
なぜなら我々は何よりそれを記憶するべきだから

右側のウィングにも延々とベトナム戦争の戦死者の名前が続きます。
こちらにもベテランの「兵士」という詩が記されています。

「兵士」

私は誰もなりたくないものになった

私は誰も恐ろしくて行かないところに行き
そして
他の人がしないことをした

私はそれらに何も求めず それらも私に何も与えなかった
そして不承不承 私がヘマをしたが最後陥る
"永遠の孤独"の運命を受けいれた

私は凍るような恐怖に突き刺さされた顔を見た
そしてそれによる甘い一瞬の快楽の味を楽しんだ

泣いた 苦悩した そして 希望を抱いた
しかし何よりも私は
皆が忘れてしまうがよいというに違いない時代を生きた

少なくともいつかは こう言うことができるだろう
私は私自身を誇れるもの・・そう 兵士であったと

対の碑の間に見えているのはUSS「リトルロック」の左舷側の錨です。
錨そのものについての説明は次のようなものです。

1942年に製造された錨は、重量7トン、高さ10フィート(約3m)、
幅7.5フィート(約2.1m)。

各錨鎖の重量は65ポンド(約30kg)で、艦には2つの錨のために
135ファゾム(815フィート)の鎖を搭載していました。

ファゾム(fathom)は、古英語で
「いっぱいに伸ばした腕」という意味のfæthmが由来です。

元々は、両手を左右にいっぱい伸ばしたときの幅に由来する身体尺で、
特に水深の単位としてよく用いられます。
ここから派生して、英語でfathomは「測る」(measure)という意味の動詞、
さらに「真相を究明する」(get to the bottom of)や、
「理解する」(understand)といった意味にも使われます。

なお、ここでいう鎖の135ファゾムは約247メートルくらいとなります。

巡洋艦「リトルロック」についての説明も翻訳しておきます。

USSリトルロック(アーカンソー州の首都に因み名付けられた最初の米軍艦)は、
ペンシルベニア州フィラデルフィアのクランプ造船会社によって建造され、
1945年6月17日に軽巡洋艦として米海軍に就役しました。

1957年から1960年の間に、USSリトルロックはニュージャージー州カムデンの
ニューヨーク造船所によって誘導ミサイル巡洋艦に改造されました。

冷戦中は地中海で広範囲に活動し、1967〜1970年、1973〜1976年の期間、
イタリアのガクタにおける第6艦隊の旗艦として活躍しました。

軍籍廃止は1976年11月22日。
1977年7月15日に博物艦、そして公式の記念碑としてバッファローに到着しました。

おお、これがもしかしてその巡洋艦「リトルロック」だったのですか。
左舷の錨鎖が海に落とされていますが、これは「演出」で、
本物は陸揚げして展示されているということなんですね。

ピッツバーグの兵士と水兵のための記念博物館の展示のログで
赤い枠に金色の星のフラッグを紹介したことがあります。

これはゴールドスターファミリーに与えられる旗で、
窓にそれがかかっている家の家族の誰かは戦死しており、
ゴールドスターを贈られている、という目標になります。

当ミリタリーパークは

アメリカ合衆国を守るため究極の代償を払った
愛する家族をもつゴールドスターファミリーへのオマージュ

であるとその使命がここに記されています。

ミリタリーパークであり、軍人顕彰碑のあるメモリアルパークでもあります。

1939年から1946年まで存在した特別海兵隊ユニットの顕彰碑です。
そういえば後ろのアパートはマリーンストリートという道沿いに建っています。

碑には、

1939ー1946にアメリカ合衆国海兵隊と海軍に奉職した
全ての男性と女性に捧ぐ

とあります。
スペシャルマリーン、というのは、第二次世界大戦前から戦後にかけて
海兵隊が2個旅団から6個師団、5個の航空集団、および支援部隊を増設し、
20個師団の防衛大隊とパラシュート大隊が編成されたことを指します。

その結果海兵隊員は合計で約485,000人となり、
第二次世界大戦中、そのうち約87,000人が死傷(約20,000人が死亡)。
82人が名誉勲章を
授与されました。

碑の土台部分には

Deffence Battalions  防衛大隊

AntiAircraft     Artillery 対空 砲兵

Airdrome battalions 航空大隊

Barrage Balloon squadrons 弾幕風船部隊

Glider Group グライダー小隊

Parachute Battalion パラシュート大隊

Raider Battalions 急襲部隊

と特別海兵隊として存在した隊が記され、その下に
海兵隊のモットーである、

The Few  The Proud  The Marines

が見えます。

Marines - The Few, The Proud

同名の必要以上にかっこいい海兵隊のビデオをどうぞ。

クリスマスのデコレーションが遊歩道に沿ってあしらわれていました。
キモ可愛いサンタさんの帽子に書いてある

Flatten The Curve

ですが、直訳すると「カーブを平らにする」ですね。
実はこの言葉、中共ウィルスが蔓延して以降よく聞かれるようになりました。
統計感染者の数を示した二次曲線を平らにする、つまり疫病を押さえ込むを言う意味で、
ここに書いてあるのは

疫病退散祈願

みたいな意味が込められているのだと思われます。

疫病のせいで本来なら艦内ツァーができるところ中止されているのですから、
ミリタリーパークとしては一日も早い疫病退散を祈らずにはいられないはず。

HPによると、来年の四月には再オープンを予定しているようですが、
わたしもその暁には必ずもう一回来るぞ!と早くもここで心に誓いました。

 

続く。