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「月に触れてください」アポロ17号の月の石〜スミソニアン航空宇宙博物館

2022-04-09 | 博物館・資料館・テーマパーク

スミソニアン航空宇宙博物館のマイルストーンコーナーには、
文字通りのマイルストーンとして月の石が展示されています。

わたしが写真を撮ったとき、意識したわけではありませんが、
たまたま横にいて月の石を触ろうとしていたのは、
「NASA」の文字が書かれたTシャツを着た少年でした。



アポロ計画でアポロ11号が月面着陸させたのと同タイプである
LM-2と同じコーナーに、それはあります。


月面上で撮られた写真には、宇宙飛行士たちが持ち帰る前の、
地面(っていうか月面ですが)に転がった岩が写っています。

「あなたが触るのはこの岩の一部分です」

左に書かれているのは、

「アポロ計画の最後のミッションとなったアポロ17号のクルーは、
1972年の12月、この石のサンプルを地球に持ち帰りました」

そして、石は航空宇宙局から貸与されているものであるという説明です。


斜めに丸くくり抜かれたウィンドウは、
中央におそらく盗難防止のための分厚いアクリルガラスが嵌め込まれ、
その下の部分に手を差し入れるようになっています。

誰も見ていない隙に大掛かりな機材を使って
台座ごと根こそぎ掘っていくことができないようにかもしれません。


元々宇宙飛行士が持ち帰ったという「月の岩」はこれ。
写真に写っているのが結構大きなものであったことがわかります。

ここで展示されている岩があったのは、
「タウルス・リットロウの谷」と名付けられた場所で、
鉄分が豊富な火山岩であり、緻密で暗灰色または黒い玄武岩です。


アポロ17号の持ち帰ったサンプルは111キロあったそうですが、
それが一つの塊だったかどうかはわかりませんでした。

わかっているのは、主にアポロ15, 16, 17号によって採取されたのが
2415サンプル、総重量382キログラムであったということです。

アポロ計画において、月の石はハンマー、レーキ(熊手)、スコップ、
トング、コアチューブといった様々な道具を使って採集され、
ほとんどはここに展示してあるような採集前の状態が写真で記録されています。

石は採集時にサンプル袋にいったん入れられ、それから汚染を防ぐため、
特別環境試料容器に格納されて地球へ持ち帰られました。


月の上にあったというその岩は、一体幾つに刻まれたのか、
こんな小さなピースになり、それが埋め込まれています。


スライスされたばかりの月の岩。
ここに展示されているのは、星印の部分となります。


そしてその部分を触っている、見知らぬアメリカ人の手。



違うところに展示されている月の石らしいですが、
微妙に形が歪んでいますね。
なぜこの形にカットしたんだろう・・・。

◆月の一部にタッチしよう!

展示の横の説明にはこんな言葉があります。

月の実際の部分に手を触れること。
それはあなたを人類の宇宙への冒険に誘います。

最後のアポロ月面ミッションであるアポロ17号の乗組員は、
このサンプルを1972年12月に地球に持ち帰りました。

1969年7月から1972年12月の間に月に着陸した6回のアポロ計画は、
合計約382kgの岩と土のサンプルを地球に持ち帰りました。

これは月の歴史と構成について知るデータを地質学者に提供しました。



1960年代までは、月は文字通り「到達できない場所」でした。
しかし1969年以降、人々は月に到達することができるようになり、
それ以降人類の視野は根本的かつ大々的に変えられることになります。


プエルトリコのアレシボとバージニア州グリーンバーグには
巨大な電波望遠鏡が設置されています。

Arecibo Telescope

これらを使用して収集されたこの月のレーダー画像は、
北極(中央下)、岩の多いクレーターからの反射、
古代の溶岩流からの暗い反射がはっきり確認できます。

画像に「ブルース・キャンベル」と書かれていますが、
アメリカの俳優くらいしかヒットしませんでした。

◆月の一部を持ち帰るために

月に到達するまで、アポロ計画で乗組員に課された訓練の一つに
月のさまざまな、かつてないほど困難な場所に着陸し、
地球に持ち帰るためのサンプル標本を選択するためのものがありました。

特に最後のアポロ計画のために、NASAは、乗組員に
地質学者を加えたというくらいです。



アポロ17号のメンバー、左から月面着陸操縦士ハリソン・シュミット
船長(ミッション・コマンダー)ユージン・サーナン
司令船操縦士ロナルド・エヴァンス



この左のシュミットが学者代表で送り込まれた?地質学者です。

当初クルーにはサーナン、エバンスと別の飛行士が指名されるはずで、
シュミットは18号に搭乗する予定でしたが、
アポロ計画そのものが17号で打ち切りということが決定したため、
この決定を受け、科学者らの協会が

「17号では宇宙飛行士に訓練で地質学を学ばせるのではなく、
地質学者そのものを月面に赴かせるべきである」


とNASAに圧力をかけたと言われています。
それほど月の物質を持って帰ることが重視されていたということでしょう。

アポロ宇宙飛行士たちが持ち帰った月の石から貴重なデータを得ることは
研究者たちのアポロ計画の一つの大きな目的でした。

そしてこの科学者からの要望を考慮して、着陸船操縦士に指名されたのが、
地質学の専門学者であるシュミットだったというわけです。


地質学者ハリソン・シュミット、大きな岩を調査中。



シュミット、石採集中。

ちなみに、船長のサーナン、操縦士エヴァンスはどちらも海軍軍人でした。

サーナンはF -J-4フューリー、A-4スカイホークの艦載機パイロット、
エヴァンスは宇宙飛行士のテストの合格を受けたとき、
「タイコンデロガ」の艦載機であるクルセーダーのパイロットでした。


月周回軌道が2011年に撮影した、アポロ17号の月着陸地点の写真です。
この写真には、月面探査機の軌跡、宇宙飛行士たちの足跡が作った道、
そして月面探査機が降下した後がはっきりと写っています。

◆ ルナ・ディプロマシー(月外交)

アポロ17号のハリソン・シュミットは、月から採取した一つの岩を分割して、
親交国の政府、アメリカ50州、そして領地に配布することを選択しました。

それはまだ彼らが「月の上」にいるときに、司令官ジーン・サーナンは、
アポロが将来の世代のために挑戦の扉を開いた、と声明を発表しました。

「確かに今は、そのドアにはヒビが入っているかもしれません。
しかし、アメリカだけでなく、世界中の若者たちが共に手を取り、
学び、働くことができる、そんな将来が確実に訪れるはずです」


確かにその後、宇宙においてそれは理想に近づいたかもしれませんが、
また最近、ロシアという宇宙大国の一つが戦争を起こすことで
そこにも亀裂が入っているというのが現実です。

◆月の石の所在場所

アポロ計画によって持ち帰られた月の石はそのほとんどが
テキサス州ヒューストンの宇宙センター内にあります。

市場に出て売買されたものもあり、2002年には月試料実験室施設から
火星の岩石資料が入った保管庫が盗まれたこともあります。(回収済み)

日本では、1970年の大阪万博においてアメリカ館で実物が展示され、
連日長蛇の見学者が訪れたのが有名です。

2005年の愛知万博でも大阪万博のものとは別の月の石が展示され、
国立科学博物館には常設展示されています。


◆月の石捏造説


アポロ月着陸陰謀説を紹介したので、ついでにこちらも挙げておきます。

「アポロの回収した月の石は偽物で、アメリカの砂漠で拾ってきたもの」

アポロ着陸が陰謀なら、当然石もありえないということになるわけで、
こういうことを言う人が出てきてもさもありなんです。

実際には地質学者の研究により、月の石は年代的にも成分も、
地球の石とは全く異なる特徴を示していることや、
地球には存在しない組成を持っていることが発表されています。

そもそもこの捏造論者は、アメリカを始めとする地質学者、物理学者が
これまでに発表した論文をちゃんと調べず発言しており、
そのことも各方面から指摘されているようです。

しかも、現在進行形で世界各地の機関が、しかも分析機器の進歩を見込んで
少しずつ小出しにして研究が進められており、
過去にも多数研究論文が発表されているのですが、この名誉教授は
自分の専門外の研究についてそういったことについて確認せず、
捏造を学術的に反論しようともしていないことから、
トンデモ扱いされているようです。



1969年9月15日、アポロ11号の宇宙飛行士、

月着陸船パイロット エドウィン・E・オルドリン・ジュニア、
司令船パイロット マイケル・コリンズ、
船長 ニール・A・アームストロング

が、ワシントンDCのスミソニアン博物館の当時の博物館長
フランク・テイラーに2ポンドの月の石を見せています。



彼らは1969年7月、月面にこのように書かれた碑を遺してきました。

We came in peace for all mankind.
「我々は平和裡に月にやってきた 全人類のために」

冒頭の写真の男の子が成人する頃には、
人類が「手を取りあって」「平和に」宇宙に行く未来が来るといいのですが。


続く。





ジョン・グレンとフレンドシップ7〜スミソニアン航空宇宙博物館

2022-03-30 | 博物館・資料館・テーマパーク

スミソニアン航空博物館の最初にある「マイルストーン」展示。
次にご紹介するのは、地球の軌道を周回したカプセルです。

この歴史的なカプセルで、ジョン・ハーシェル・グレン・ジュニア
アメリカ人として初めて地球の軌道を周回しました。

1961年に行われた2回の弾道飛行
アラン・シェパードのフリーダム7ガス・グリソムのリバティベル7
につづき、これがマーキュリー計画の3回目の有人飛行です。



グレンの乗った宇宙船は「フレンドシップ7」でした。



なぜどの宇宙船も最後が7なのかというと、彼ら宇宙飛行士7人が
「マーキュリーセブン」として売り出された?からです。
宇宙船の名前はそれぞれの飛行士によってつけられ、それに7が加えられました。

ちなみにグレンの後の宇宙船の名前は、

スコット・カーペンター ”オーロラ7”
ウォルター・シラー ”シグマ7”
ゴードン・クーパー”フェイス7”

マーキュリーセブンのうちの一人、ドナルド・スレイトン
自分の識別名を”デルタ7”にするつもりでしたが、以前もお話しした通り、
心臓の疾患が疑われたため、地上に降りてNASA管理職を務めました。

1975年、彼は健康上の問題を回復して世界最高齢で宇宙飛行士に復活し、
アポロ・ソユーズ計画でドッキング任務を成功させています。


後列左から
シェパード(海)シラー(海)グレン(海兵隊)
前列左から
グリソム(空)カーペンター(海)スレイトン(空)クーパー(空)

「ライト・スタッフ」の映画紹介の時にも同じことを書きましたが、
空と海の人数が3人ずつというのは決して偶然ではないと思います。

余談ですが、映画で描かれていたように、マーキュリー7の中で
ジョン・グレンは堅物で愛国的で信心深く家族思いな人物とされ、
マスコミの間では彼が最もウケが良く、まるで
セブンの代表であるかのような扱いを受けていました。

NASAは、宇宙飛行士に理想の父親、理想の夫であることを要求したため、
採用試験の際、妻とうまく行っているかが聞かれましたが、中には
自分の不倫で妻との仲が冷え切っていたのにも関わらず、飛行士なりたさで
妻と口裏を合わせてうまく行っているふりをした人(クーパー)もいます。

もちろんグレンは清く正しく美しく、そういったこととは無縁の人物でした。

また、ヒーローとなった宇宙飛行士に、ゼネラルモーターズが
宣伝のために年間1ドルで(公務員なので無料というわけにはいかず)
シボレーコルベットを貸してもらえるという特典が与えられた時、
アラン・シェパードやウォルター・シラー、スコット・カーペンターなどは
目の色を変えて飛びつき、公道をこれみよがしにぶっ飛ばしていましたが、
グレンだけはその申し出を断り、ノイジーな2気筒600ccのドイツ車、
NSUの600CCプリンツに乗ってNASAに通っていました。


1962年2月20日。

ジョン・ハーシェル・グレン・ジュニアを地球周回軌道に乗せたのは
発射用ロケット「アトラス」でした。




■アメリカの「追い上げ」

このマーキュリー・アトラス(MA)ミッションは、
NASAとアメリカがソビエト連邦との宇宙開発競争において
強力な競争相手であることを改めて再確認&再確立することにもなります。

ここでサラッと経緯を書いておきます。

ソ連は1957年10月に世界初の宇宙船スプートニクを打ち上げ、
1961年4月には人類初の宇宙飛行士ユーリ・ガガーリンを送り込みました。
「ジェミニ計画」において、エド・ホワイトの宇宙遊泳はソ連のレオーノフ
ほんの一瞬とはいえ先を越され、悔しい思いを噛み締めます。

そしてNASAは1961年5月にアメリカ人初の宇宙飛行士、
アラン・シェパードを宇宙に送り込むことに成功しましたが、
ガガーリンの地球周回したのに対し、シェパードは弾道飛行に終わりました。
(それでもちゃんと順序を踏むあたりがアメリカです)

シェパードとグリソムの行った弾道飛行の所要時間はいずれも15分台です。


弾道飛行というのはこういうものなので、短時間で済むわけです。

シェパードは「アメリカ人で初めて宇宙に行った男」の称号を受けました。



それまで遅れをとっていたNASAですが、このグレンの軌道周回飛行で
ようやくソ連に互角と言えるところまでつけることができたのです。

グレンはこれで「アメリカ人で初めて地球を周回した男」となりました。


ケープ・カナベラル空軍基地での打ち上げの後、フレンドシップ7は
4時間55分23秒かけて地球軌道上を3周して戻ってきたのち、
バミューダ沖に着水してフリゲート艦USS「ノア」に回収されました。

「ノア」乗組員熱烈歓迎中の絵

ジョン・グレン、熱烈リラックス中@「ノア」艦上

しかし、スミソニアンにあるフレンドシップ7の現物を前にすると、
こんな小さなものに乗って、5時間足らずとはいえ、
地球を3周するなんて、さぞ窮屈だっただろうなと思わずにいられません。

そりゃ軍艦の甲板で足も伸ばしたくなるというものでしょう。

ちなみに彼がカプセルを出て最初にいった言葉は、

「船内はとても暑かった」

だったと言われています。
その理由とは。


「フレンドシップ7」の軌道周回ミッションにおいて、
ほとんどの主要なシステムは順調に作動し、偉業として大成功を収めました。
無人飛行なら終了していた自動制御システムの問題を克服したのです。

映画「ライトスタッフ」を観た方は、エド・ハリス演じるグレンが、
機外に「ホタル」を見たと思うシーンを覚えておられるでしょうか。

グレンが畏敬の念を持ってそれを見つめている間、
地上では、カプセルの熱シールドが緩んでいる可能性を示され、
彼が宇宙で死亡する最初の人間になるのではないかという緊張が走っていました。

「こちらフレンドシップセブン。
私がここにいることをお伝えしようと思います。

私は非常に小さな粒子の形作る大きな塊の中にいて、
それらはまるで発光しているかのように鮮やかに輝いています。
このようなものを今まで見たことがありません。


その少し丸みを帯びたものは、カプセルのそばまでやってきています。
まるで小さな星のように見える。
それらが近づいてまるで浴びているようです。

カプセルの周りをぐるぐる回っていて、窓の前で全部が鮮やかに光っていて。
多分7〜8フィート離れたところ、
私からはすぐ下に見えています!」

現状を何も知らずに、ただうっとりとポエムるグレン。

「了解、フレンドシップセブン。
カプセルの衝撃音は聞こえますか?オーバー」

カプコン、人の話聞いてねーし。

「ネガティブ、ネガティブ、時速3、4マイル以上も離れていません。
それは私とほぼ同じ速度で進んでいます。
私の速度よりほんの少し低いだけです。オーバー。

それらは、私とは違う動きをしています。
なぜならカプセルの周りを旋回し、私が見ている方向へ戻っていくので」

こっちもまだ「蛍」の話してる?
っていうかこれ、外側の異常じゃないんか。

実際カプセル内の温度は上がり続け、さすがの彼も一度は覚悟を決めました。
カプセルから出た最初の一言は、このような事情から生まれたものでした。


スミソニアンの展示は、中がライトアップされていて、
グレンが大気圏突入後バミューダ沖で回収された時のまま、
設定を変えていないスイッチの状態が維持されています。

手書きの時間、これもグレンの字と思われる
左上の視力検査表に注意

彼は飛行中、非常に多くのことを監視しなければなりませんでした。
例えば、飛行中のあらゆる力学に加え、グレンは飛行中、
常に自分の視力をモニターする任務を負っていました。

これはどういうことかというと、人間の眼球が
無重力状態で変形すること
が医学的に懸念されていたからです。



グレンは飛行中、紙の視力表でしょっちゅう視力をチェックさせられました。
計器の上に貼ってある2枚の紙がそうです。


結局ミッションコントロールは、熱シールドがバラバラにならないように、
逆噴射ロケットを投棄せず、装着したまま大気圏に突入するよう指示し、
結局グレンは(おそらくあまり危機感のないまま)再突入に成功しました。


ジョン・グレンが見ていた天井の機器



ジョン・グレンが最後に触ったそのままのスイッチ

■冷戦下のイベント

ジョン・グレンの飛行のために、米国国防省は、
NASAが世界中の中立国またはアメリカとの同盟国に
追跡ステーションを設置するための支援を行いました。

しかし、結果としてグレンは追跡局の無線範囲を外れた時には
いっさいNASAと通信をせずに飛行を行っています。

この理由はよくわかっていません。


任務終了後、「フレンドシップ7」は、アメリカの宇宙計画と
外交政策の利益を促進する為、3か月に亘る「ワールドツァー」に出ました。

つまりもう一度「地球を周回」したのです。
誰が上手いこと言えと。

これはセイロン(現在のスリランカ)に到着した時のもので、
「フレンドシップ7」は象の歓迎を受けています。


フレンドシップ7の裏側。
大気圏突入の凄まじい熱が加わるとこうなります。

任務前、浜辺をランニングするジョン・グレン

海兵隊航空士として、ジョン・グレンは第二次世界大戦において
59回の攻撃任務、朝鮮戦争では2回の遠征で90回もの任務を行なっています。

その後はテストパイロットになり、ここでも以前紹介したように、1957年、
史上初の超音速機(弾丸機)による大陸横断飛行を行いました。

そしてその後、オリジナルの7名のマーキュリー宇宙飛行士の一人となり、
1962年のマーキュリーミッションを成功した後は国民的英雄となりました。

凱旋パレード「よくやったジョン」

ケネディ大統領とレイトン・デイビス空将の間に座って
ワシントンでのパレード

1964年にNASAを辞した後は、1974年から1999年まで
オハイオ州で上院議員を務めていました。


1998年、グレンは77歳で宇宙任務に復帰し、
スペースシャトル「ディスカバリー」でSTS-95ミッションを行いました。

STSというのはディスカバリーのミッションの名称で、
STS−92と119には日本人宇宙飛行士若田光一氏、124には星出彰彦氏、
114には野口聡一氏、131には山口直子氏が搭乗しています。

グレンの2回目の宇宙飛行となったST S -95ミッションには
日本人女性宇宙飛行士第1号、向井千秋氏が同乗していました。

ディスカバリー計画になぜ頻繁に日本人が乗ることになったのかというと、
(他のメンバーはほぼ全員白人かたまにヒスパニック系で、
アジア系は日本人以外はエリソン・オニヅカだけ)
それは日本の、主に経済的協力の厚さを表していると思われます。


そして、なぜグレンが歳を取ってから宇宙に呼び戻されたかというと、

「老人が宇宙に行ったらその体組成はどうなるのか」

という実験対象に適役だと思われたからなのだそうです。

77歳でかくしゃくとしている元宇宙パイロットなんて存在、
当時はもちろん、今後も現れるとはとても思えなかったのでしょう。

そういう意味でも、グレンは宇宙関係の研究に貴重な記録を残したのです。


ここスミソニアンにはグレンの着用したスペーススーツ実物があります。


名札付き。
こちらはもちろん一回め、ジェミニVIの時着用したものです。


■マーキュリー計画


NASAが発足して間も無く始まったマーキュリー計画。
それはNASAの最初の大きな事業でした。

目標は、パイロット付きの宇宙船を地球を周回する軌道に乗せること、
その軌道上での人間のパフォーマンスを観察すること、
そして人間と宇宙船を安全に回収することでした。

当初、とにかくアラン・シェパードが初飛行に成功したとはいえ、
アメリカ人が宇宙でどのように生き延び、機能するのか。
多くの疑問が残されていたのです。

しかし、「フレンドシップ7」ミッションの成功により、NASAは
マーキュリー計画への取り組みをさらに加速させることになりました。

マーキュリー計画の開始から終了までの5年間で、
政府と産業界から200万人以上の人々がそれぞれのスキルと経験を結集し、
6回の有人宇宙飛行が実現し、コントロールすることに成功しました。

マーキュリー宇宙船は、人体が微小重力下で1日以上生存しても
通常の生理機能が衰えないことを実証しました。
これも、実際そこに行くまではわかっていなかったことの一つです。

マーキュリーはまた、1960年代に行われたジェミニ計画や続くアポロ計画、
そしてその後のすべての米国の有人宇宙飛行活動の舞台を整えました。

このように、フレンドシップ7号のMA-6ミッションは、
NASAの有人宇宙飛行における重要な出来事であると同時に、
さらに多くの成果を生み出すきっかけとなったのです。


宇宙飛行士席が見えるカプセルの内部。

ジョン・グレンが座った座席は「カウチ」と呼ばれ、
ミッション中、彼と宇宙服にぴったりフィットするよう特注されています。

宇宙船の大きさから換算して、マーキュリーの宇宙飛行士は
身長155.7cm以上、180㎝以下でなければならないことになっていました。

宇宙飛行士たちは、宇宙船に"乗るのではなく宇宙船を着るのだ"
とジョークを飛ばしていたそうです。



フレンドシップ7号の飛行中にジョン・グレンが握った操縦桿。
先ほども述べたように、グレンは経験豊富なパイロットでしたが、
この操縦桿は航空機のと違い、宇宙空間でカプセルの向きを変えるだけです。



■宇宙に行った「フレンドシップ7」の星条旗



スミソニアンには、ジョン・H・グレン・ジュニアがアメリカ人として
初めて地球の軌道を周回した際に、「フレンドシップ7」に納められていた
アメリカ合衆国の国旗が寄贈され、保存されています。

NASAは1963年に「フレンドシップ 7」をスミソニアン協会に譲渡し、
以来、ここナショナルモールの建物に展示されています。
この旗は、宇宙船のどこかに詰め込まれていたようで
(おそらくグレンも知らなかったかあるいは忘れていた)
機体と一緒に、スミソニアン博物館に運ばれてきました。


ジョン・グレン宇宙飛行士は、宇宙船フレンドシップ7を操縦して
地球周回軌道に乗り、1962年2月20日に無事帰還し、
アメリカ人として初めて歴史的偉業を成し遂げました。

彼は確かにたった一人でカプセルに乗り込み、地球を周回しましたが、
ミッションの成功は全米の何千人もの人々によって支えられていました。



NASAは1963年に「フレンドシップ7」をスミソニアン協会に譲渡し、
以来この、アメリカの宇宙開発計画を開始した宇宙船は、
ボーイング・マイルストーン・オブ・フライト・ホールで展示されています。

そしてスミソニアンは、この歴史的な宇宙船を
未来の世代に見てもらうことができるのを誇りにしています。



続く。




アポロ計画 ルナ・モジュールLM-2月面着陸船〜スミソニアン航空宇宙博物館

2022-03-28 | 博物館・資料館・テーマパーク

スミソニアンの「世界を変えた航空機シリーズ」の広場には、
航空機を拡大解釈するという観点から(多分)、
宇宙関係のこんな展示があります。

月着陸船 LM-2
 Lunar Module LM-2

展示説明の最初には、誇らしげな調子でこのように書かれています。

「この月着陸船は人類の成し遂げた最大の成果の一つである、
別の天体に自らを着陸させることに寄与しました」

1969年から72年の間に、基本的にこれと同じものである6基の月着陸船が、
合計12名のアメリカ人宇宙飛行士を月に降り立たせました。

ただし、ここに展示されているところの
「ルナモジュール」LM-2は、宇宙に行ったことはありません。

低軌道におけるテストのために建造されましたが、実際には
月面着陸に耐えるだけの能力があるかどうかを測定するために
地上で実験するためだけに使用されたものとなります。

アポロ11号に搭載され、実際にに月着陸を行なった
LM-5イーグルはこれと同じものです。

ところで、こういう話題を選んだ時の「あるある」とでもいうのか、
わたしがたまたまこのシリーズに着手したとたん、
アマゾンプライムでアポロ11号の船長だったニール・アームストロング
ライアン・ゴズリング(LA LA LANDの”セブ”役)が演じた、
「ファースト・マン」が配信されました。

資料を集めて取り敢えず目を通した後だったので、
映画の内容と登場人物のバックボーンが一応頭に入っており、
なるほど、このことをこう扱うのか、とか、
この人物はこんな逸話を残していたのか、などといった
現実との擦り合わせをしながら見ることができて大変面白かったです。


月面着陸船は、1945年から91年までの冷戦中、
技術的優位性と国際的な名声を争った、ソビエト連邦との
「宇宙開発競争」におけるアメリカの勝利を象徴するものとなりました。


アポロ月着陸船(LM)は、月周回軌道から二名の宇宙飛行士を
月面に往復させるためにグラマン社が設計した2段式の宇宙船です。

実物より現地にあったこの模型を見ていただくとわかりやすいのですが、
上段の階は、加圧されたクルーのコンパートメント、
機器エリア、そして上昇ロケットエンジンで構成されています。

下階には着陸装置があり、下降ロケットエンジンと
月面実験装置が搭載されています。


LM-2は、2回目の無人地球周回軌道試験飛行を行うために製作されました。

しかし、アポロ5号で実施された第1段の試験飛行が成功したため、
2回目の無人の試験飛行は不要と判断されました。
そこで2号機は、月面着陸ミッションに先立つ地上試験用になったのです。

ちなみにスミソニアンのホームページには、

1970年、愛知で行われた「愛・地球博」で、
このLM-2の上昇ステージは数ヶ月間展示されていた

と書かれているのですが、愛知の万博って、2005年ですよね?
1970年って、大阪万博のことじゃありませんか。

これだよね

そうかー、これ、大阪に来ていたことがあるのか。

前回ご紹介した、アクタン・ゼロの実験をしたことがある風洞と並んで、
我々日本人にとってご縁があったということで感慨深いですね(適当)

LM-2は日本から変換されて帰国後、下降ステージと合体し、
アポロ11号の月着陸船「イーグル」に似せて改造され、
スミソニアンに展示されて今日に至ります。

◆宇宙開発戦争 スペース・レース



1961年5月25日に行われたジョン・F・ケネディの表明を受けて、
月に人間を送り送り込むための表明が開始されました。

「人類初の月面着陸を試みる」
写真はアメリカ議会の合同会議で演説しているケネディ大統領です。
彼はこの時、人類を月に送るための議会の支援を要請しました。

ケネディの左後ろはリンドン・ジョンソン副大統領の姿が見えます。

この彼の決定は、冷戦下における宇宙開発競争において、
ソビエト連邦に宇宙における一連の成果を先んじて挙げられ、さらには
ロケット技術開発でアメリカが遅れをとっているという認識の上に立ち、
これを逆転するための意志を表したものでした。

ケネディ大統領のブレーンは、
「アメリカは10年以内に月に到達し、ソ連を打ち負かすことができる」
と焚き付け、吹き込み・・いや、示唆しました。

映画「ファースト・マン」では、11号の月着陸成功後、
それを見ることなく暗殺されたケネディ大統領の、あの、

「We choose to go to the Moon.」

が繰り返される演説が、その成功を墓前に報告するように流れます。



ここで宇宙開発競争、スペース・レースについて書いておきます。

宇宙開発競争とは、20世紀の冷戦時代に敵対していたソ連とアメリカが、
より優れた宇宙飛行能力を獲得するために行った競争のことをいいます。

その実態は第二次世界大戦後の弾道ミサイルによる核軍拡競争でした。

世界大戦が終了すると、それまでの同盟国であったアメリカとソ連は
冷戦(1947−1991)として知られる政治的対立と軍事的緊張に陥ります。

共通の敵がいなくなったので「てっぺんの取り合い」が始まったわけです。

そしてこの二大国は、西欧諸国と東欧圏(ソ連の衛星国)を巻き込んで
対立を二極化させる過程で宇宙開発競争を繰り広げるわけですが、
宇宙飛行において先んじること、すなわち技術的優位は、抑止力という点で
国家の安全保障に必要なものと見なされたのでした。

宇宙開発競争は、人工衛星の打ち上げに始まり、
月・金星・火星へのロボット宇宙探査、地球低軌道での有人宇宙飛行、
そして最終的には月への探査を実現させます。


◆第二次世界大戦後のソ連とアメリカ

ソ連のロケット技術に大きな貢献を行った科学者、
セルゲイ・コロレフは、スターリンの大粛清で投獄されていた人物ですが、
戦後スターリンは彼をロケット技師長に任命し、
ドイツから移住させた170名以上のロケットの専門家をコンサルタントにして
大陸間弾道ミサイル(ICBM)の開発を命じました。

1957年、コロレフがゴーサインを出したR-7セミョールカ・ロケット
実験に成功し、翌月には世界初の完全運用可能なICBMとなります。

その後、この技術は最初の人工衛星の宇宙への打ち上げに使用され、
誘導体はソ連のすべての有人宇宙船を打ち上げることに成功しました。


アメリカがドイツから獲得した技術者ヴェルナー・フォン・ブラウンは、
ソ連のコロレフの「カウンターパート」という立場でした。

彼は1950〜60年代にかけて、アメリカロケット技術の第一人者となります。



実は昔々、アメリカにもロケット技術の先駆者はいたのですが、
その人物はアメリカのマスメディアによって潰されてしまっていました。



アメリカのロケットのパイオニアであるロバート・H・ゴダード

1914年には小型液体燃料ロケットを開発し、特許を取得していたのですが、
『ニューヨーク・タイムズ』の社説でその考えを揶揄され、
マッドサイエンティスト呼ばわりされたため、すっかり拗ねてしまい、
世捨て人になって研究を人に公表せずに死んでしまったという人です。

今でも割とロクなことをしないので有名なNYTですが、この時の罪は重大で、
ゴダードという「マッドサイエンティスト」を失ったアメリカは、
第二次世界大戦中の三大国の中で、唯一自国のロケット計画を持たない国
になってしまったのです。

そこで戦後のアメリカは、ドイツから大量のV2ロケット、そして
「ペーパークリップ作戦」でフォン・ブラウンなどの技術者を乱獲しました。

アメリカに渡ったドイツ人技術者は、捕獲したV2を組み立てて打ち上げ、
アメリカのエンジニアにその運用を指導して、技術を伝えます。

その後、宇宙から初めて地球の写真を撮られ、最初の2段ロケット、
WAC Corporal-V2 combination を1949年に完成させました。

その後ドイツのロケットチームは、陸軍初の
実用中距離弾道ミサイル、レッドストーンロケット
を開発し、その技術は踏襲されて、アメリカ初の宇宙衛星、そして
最初の有人飛行による水星宇宙探査を打ち上げるに至ります。

これはジュピターとサターン、ロケット・ファミリーの基礎となりました。

◆競争開始〜スプートニク・ショック

1955年8月2日、アメリカが自ら定めた「国際地球物理年」のために
人工衛星を打ち上げることを発表した4日後、
ソ連が「近いうちに」自分たちも衛星を打ち上げる!と宣言したことから、
両大国のあいだに本格的な競争は始まりました。

そしてアメリカを衝撃的な「スプートニク・ショック」が襲います。

1957年、ソ連は初めてスプートニク1号で人工衛星の打ち上げに成功し、
1961年4月12日にユーリ・ガガーリンを人類初の宇宙飛行に送り出しました。

ソビエト連邦は、その後数年にわたり、このような初の試みを行い、
宇宙開発競争において早くからリードしていることを誇示し続けます。


そこで、ケネディ大統領の議会演説が行われた、というわけです。

「人類を月に着陸させ、地球に安全に帰還させる」

これ以降、米ソ両国は超大型ロケットの開発に取り組み始めました。

そしてアメリカは3人乗りの軌道衛星と2人乗りの着陸機を
月に送り込めるサイズのサターンVの配備に成功することになります。


そして1969年7月20日。

ニール・アームストロング、続いてバズ・オルドリン
人類最初に月面に足を踏み入れた瞬間です。

それはアポロ11号がケネディの目標を達成した瞬間でもありました。
この瞬間を推定5億人がリアルタイムで見たと言われています。


NASAの航空宇宙エンジニアであるジョン・フーボルト。(ドイツ系)
アポロ計画のために選択された月軌道ランデブーについて説明しています。


NASAは月面着陸と地球への再突入のために個別のモジュールを用意する
月軌道ランデブー法を採用することで重量を節約することに成功しました。



ちなみに人類の月面着陸は捏造だったとされる陰謀論ですが、
これは数年後からあちらこちらから起こってきています。

ちなみにwikiには陰謀論についてまとめてあって、
これがなかなか読み応えがあるので貼っておきます。

アポロ計画陰謀論



そして人類を月に立たせるための月着陸船です。

構造物としてのLM-2は、実際に見るとまるでハリボテのようで、
あまりにも不安定そうなのに驚かされます。

これは、宇宙の真空の空間でのみ動作するために設計されているので、
空力面での工夫や合理化などは必要なかったからです。

ただし、重力については最新の注意が払われました。



月面着陸に耐えるように構築された脚だけは頑丈そうです。
ボディは前述のごとく、非常に壊れやすく、限界まで軽量化されています。

重量を節約するために、座席はなく、
宇宙飛行士は中でずっと立って過ごしました。


それまでいろんな作家がSFにおいて宇宙船を想像してきましたが、
そのどれとも実際のものとは似ていませんでした。


あのアイザック・アシモフは、アポロ11号のニュースを受けて、
人類の月到達を知らぬまま世をさったロバート・ゴダードに向かって

「ゴダードよ、我々は月にいる」

と言葉を送り、NYTは、ゴダードを嘲った社説を出した49年後にあたる、
月着陸の翌日、「訂正」という見出しの下にごく短い記事を掲載しました。

 「タイムズは、自分たちのエラーを後悔しています」

      

◆アポロ以降〜デタント(緊張緩和)へ

さて、ケネディの月面着陸の目標は達成されました。

ほとんどのアメリカ人は、この特異な成果を、それまでにソ連が挙げた成果を
全て合算してもそれを上回るもの、と考えています。

ソ連はその後2つの有人月探査計画を進めましたが、
アメリカに先を越されたので、結局N1ロケットを中止し、
初の宇宙ステーション計画である「サリュート」計画と
金星・火星への初着陸に集中することに目標を切り替えました。

一方、アメリカは、さらに5人のアポロ乗組員を月に着陸させ、
他の地球外天体の探査をロボットで継続する方法を選択しました。


その後1972年、アポロ・ソユーズ共同実験計画(ASTP)が合意され、
アメリカとソ連の宇宙飛行士の地球軌道上でのランデブーが実現しました。

国際ドッキング規格APAS-75が共同開発され、
デタント(緊張緩和)の時期が到来します。

・・・とかなんとかやっている間にソビエト連邦が崩壊したので、
アメリカと新生ロシア連邦は1993年にシャトル・ミール計画
国際宇宙ステーション計画に合意し、結果的に宇宙においても
冷戦時代の競争を終わらせることができたというわけです。

めでたしめでたし。
なのかな。

宇宙計画についてはこれから分野ごとにまた取り上げることになります。


続く。







偵察衛星ガンビットとアメリカの諜報〜スミソニアン航空宇宙博物館

2022-03-15 | 博物館・資料館・テーマパーク

前回、スミソニアン博物館の展示から、アメリカが冷戦時代に打ち上げた
ディスカバラー計画という名の実はコロナ偵察衛星に搭載された
コロナカメラをご紹介したわけですが、今日はもう一つの偵察衛星、

KH-7 GAMBIT in the house

について書いてみようと思います。

前回取り上げたコロナ計画が立ち上がったのは1960年.
対して、今日のガンビットKH-7が立ち上がったのは1963年です。

■セイモス計画と偵察衛星GAMBIT



1963年7月12日。
極秘の偵察衛星GAMBIT、別名エアフォースプログラム206の1号機
アトラス・アジェナロケットに搭載されてカリフォルニアの空に飛び立ちました。

ガンビットはアトラス・アジェナブースターを製造したコンベア社とロッキードが、
それまでの、何度もミッションに失敗してきたロケットに代わって、
初めて次世代ロケットシステムを使用して打ち上げられました。

あまりにも失敗が続くのでこれはNASAと空軍の打ち上げの手順が
バラバラだからではないかい?と第三者機関が勧告し、これによって
ブースターの材料やら試験方法やら手順を統一した結果だそうですが、
三軍バラバラで宇宙開発をやった結果、ソ連に先を越されたということに
反省はなかったん?と思わず突っ込んでしまいますね。

さて、GAMBITについて読んでいると、いきなりこんな文章にぶち当たりました。

GAMBITは、1960年にアメリカ空軍の
セイモス(SAMOS)計画の灰から生まれた

不死鳥のような存在である。

コロナ計画もガンビットも、そもそもそんな名前初耳だが、
とおっしゃる方はこれを読んでいる人にも多いかと思うのですが、
それもこれも、偵察衛星事案は国家機密だった期間が長かったせいです。

おそらく、セイモス(SAMOS)計画についてもご存知と言う方は稀でしょう。

わたしも、この偵察衛星について調べ出して以来、次々出てくる衛星の名前に、
一体この国はどれだけこの時期、偵察衛星をこっそり上げまくっていたのか、
とはっきり言って呆れております。

しかし、名前が出てきたからには説明しないといけませんね。
セイモス計画は、

Satellite And Missile Observation System, SAMOS, Samos E,
「衛星及びミサイル観測システム」


で、やはり1960年第初頭に開始されていつの間にかひっそり終わった計画です。

セイモス計画は、空軍主導で行われたさまざまな偵察衛星の開発を言います。
最初のプロジェクトは、セイモスE-1とセイモスE-2と名付けられました。

簡単にいうと、従来のフィルムで画像を撮影し、軌道上でそれを現像し、
ファックスに相当するもので画像をスキャンする「フィルム読取衛星」でした。

その際、空軍はリスクヘッジのため、「フィルム回収衛星」として
セイモスE-5、E-6なるものを運用する予定にしていたそうです。

その頃アメリカでは、ソ連のICBMのより解像度の高い画像を収集するために
GAMBIT衛星計画がアイゼンハワー大統領によって承認されました。

GAMBITは、イーストマン・コダック社が開発したカメラと、
ゼネラル・エレクトリック社が開発した衛星を使用し、
長時間録音可能なフィルムを搭載し、撮影後は再突入機に格納し、
それを地球に送り返すというシステムになっていました。

1963年初頭、GAMBIT計画は波乱万丈のうちにスタートしました。

最初の衛星はバンデンバーグ空軍基地でさあ打ち上げというとき、
ブースターに充填中の推進剤に気泡が発生し、排出バルブが損傷します。

このせいで、ロケット全体が地面に崩れ落ち打ち上げは失敗。

あーあー

火災や爆発こそ起こりませんでしたが、地面との衝撃でカメラが押しつぶされ、
レンズが破壊されたため、衛星はかなりの被害を受けます。

もちろんアメリカとしてはGAMBIT偵察衛星を乗せていることは秘密で、
関係者以外にはその姿を見られることなく終わりました。

何度も話していますが、アメリカは宇宙開発の陰で実は偵察を目的にしており、
「コロナ」をわざわざ「ディスカバラー」と言い換えたように、
セイモスの飛行も、一般には科学的なミッションとして宣伝されていました。

しかし、さすがにこれだけ度重なると、科学的なデータが得られなかった理由を
それらしく説明するのは難しくなってきました。

流石のアメリカも言い訳の種が尽きてきたのかもしれませんし、下手な嘘をつけば、
世界中からのツッコミは避けようがないと思ったのかもしれません。

そこでアメリカは嘘をつくのはやめました。

堂々と隠蔽することにして(おい)1961年末、ジョン・F・ケネディ大統領
偵察プログラムそのものを隠匿する=秘密のベールをかけるよう命じます。

1963年のGAMBITのデビューまでに、国防総省の発表には
「機密ペイロード」の打ち上げ以外の詳細は一切記載されなくなりました。

■アメリカの諜報活動は有人打ち上げを予測した


「The President Daily Briefing」

秘密といえば、このコーナーにはこんな資料もあります。
ジョージ・W.ブッシュ大統領時代のもので、ファイルの下方には
「トップシークレット」と書かれています。

50年以上、CIAが作成していた日報の表紙の写真ですが、
これは毎日のブリーフィングで取り上げられた重要な政治案件、軍事関係、
そして経済発展と世界情勢などに関するテーマが綴られています。

この日報を見ることができたのは、大統領とその側近など、ごく限られた人々のみ。

諜報機関(インテリジェンス・エージェンシー)は、1950年代以降、
外国の兵器システムから特定の国の政治的な発展に至るまで、
幅広い主題に関する国家諜報活動の見積レポートを作成してきました。

それらは、行政機関のほんの数人の高官、および軍関係者にのみ配布されます。



これはCIAの「レビュープログラム」。
日付は1960年の5月3日で、まさにこのGAMBITが打ち上げられた頃となります。

冒頭には、機密解除になった印にTOP SECRET
とわざわざ取り消し線が引かれています。

この国家諜報活動の見積(Estimate)は、そのタイトルも

「ソビエトの誘導ミサイルおよび宇宙船の能力」


黄色くハイライトされたところだけ訳しておきます。
この報告が、ある意味恐ろしいくらいその後の未来を言い当てています。

いかにアメリカの諜報能力がものすごかったかということでしょう。

我々はソ連が来年中には次に挙げるうちの一つ以上を達成できると考える

a. 垂直またやダウンレンジ飛行と有人カプセルの回収;

b. 無人の月面衛星または月面着陸;

c. 火星または金星の近くの探査;

d. 装備、動物、そしてその後、おそらく人間を乗せて
カプセルを軌道に乗せ、その後回収すること;

:(;゙゚'ω゚'):

1960年5月から始まったこの国家諜報活動の「見積」には、
ソビエトの試験飛行の監視、諜報活動に基づき、

「ソ連が来年中に人類を軌道に送り、宇宙に送って回収することができるだろう」

と書いてありますが、このまさに1年後の1961年4月12日、
ソ連はユーリ・ガガーリンを宇宙に打ち上げることに成功しました。

この諜報活動とその分析が正しいことが証明されたのです。
ここでふと思ったのですが、アメリカの諜報は、1957年当時、
スプートニクの打ち上げを全く予測できなかったんですよね?

つまり、アメリカのこの時点=1960年当時の諜報能力は、わずか3年で
ここまで相手の動向を手にとるようにわかるほどになっていたってことですよね。

うーん・・・やっぱりアメリカすごいわ。


これはもう少し時代が下って、1973年の国立写真解釈センターのレポートです。

このレポートは、エジプトの地対空ミサイルの種類と場所を
詳細に説明する内容となっています。

同センターはいくつかの諜報衛星からの画像取得ミッションに基づいて、
これらの内容のレポートを定期的に作成しました。

一部の報告には、U-2S R-71ブラックバードなど、
戦略偵察機から撮影された写真が組み込まれていて、
どちらの方法もいまだに現役であることを表しています。

■GAMBIT、その後



GAMBITの前には、アメリカの諜報活動についての資料として赤字で

「大統領と政策立案者に情報を提供し続ける」

と書かれています。
衛星偵察とは、まさにそういう目的のための発明なのです。


さて、GAMBITの打ち上げに失敗してしまったアジェナは、
その後修理のためロッキード社に送り返され、アトラス(201D)ロケット
1963年7月12日に最初のGAMBITミッションの打ち上げを行いました。

アトラスロケットは完璧な性能を発揮し、GAMBITを高度189kmの極軌道に投入。
空軍はこれをミッション4001と命名しています。


GAMBITは、長いチューブの両端に2枚の大きな鏡がついていました。
一方の鏡は、衛星の下の地面を筒の中に反射させ、もう一方の鏡に当て、
集光して筒の中の細いスリットに通された大きなフィルムに光を送り返します。

このカメラシステムは、高解像度で地上の細長い画像を露光することができました。



この図面では、ペイロードデータの「ステレオストリップカメラ」の型番、
その他見られてはまずい?ところが黒塗りされています。

GAMBITミッションは、その後何機かが成功したりしなかったり、
多くのミッションでは画像が不十分だったりそもそも画像がなかったり、
まあ結構な問題が発生していたようです。

当時の記録システムはワイヤ記録システムで信頼性に乏しく、
打ち上げたうち2機が太平洋の藻屑となっています。
それからバッテリーが爆発したり画像が戻ってこなかったり、
いくつもの失敗はありましたが、全体として見ると、これでも成功と言ってよく、
国家偵察局と大統領に質の高い情報を提供することができたとされます。


GAMBITは40機製造され、1967年6月に最後の1機が打ち上げられました。
2015年6月30日、ワシントンDCのスミソニアン航空宇宙博物館に、
最後に残ったGAMBITの1機が展示されることになりました。

■NASMのGAMBIT

国立航空宇宙博物館で展示されているスパイ衛星「GAMBIT」。



1995年、CIAと米国の情報衛星を管理する国家偵察局は、
まずCORONAと呼ばれる最初の写真偵察衛星プログラムの機密を解除し、
スミソニアン博物館にCORONAカメラシステムを引き渡しました。



過去20年間、ワシントンDCの国立航空宇宙博物館で展示されてきたCORONAは、
飛行物体ではなく、プログラム後期のエンジニアリングカメラ1台と
モックアップの機材が含まれています。

CORONAが機密解除されると、情報当局は、それに続くシステムである
GAMBITとHEXAGONの機密解除を検討し始めます。
そして1996年には数年以内に両システムの機密解除を計画していました。

スミソニアン国立航空宇宙博物館で展示されているスパイ衛星GAMBITは、
1997年、当時の国家偵察局長官キース・ホールが博物館を訪れ、
大型偵察機数台を博物館に寄贈する計画について博物館関係者と協議を行いました。

ホールは寄贈するつもりのものが何かを伝えなかった(なぜかしら)と言いますが、
博物館の学芸員は置き場所を考えるために、その寸法を伝えました。

これはお互い口には出さなくとも通じ合っていて、
「スミソニアン、お主も悪よのう」「長官様こそ」みたいな?


その中には、ソ連邦の変化を探るためにエリアサーチを行った巨大な衛星
「HEXAGONカメラシステム」、そして
GAMBIT(ガンビット)衛星が含まれていたのです。

ヘキサゴンカメラシステムはまだスミソニアンで見ることができません。

ちなみに、この頃打ち上げられたKHと呼ばれる偵察衛星を、
まとめて最後に列挙しておきたいと思います。

 KH-1、KH-2、KH-3、KH-4 コロナCORONA


KH-6ランヤード LANYARD

KH-8ガンビット GAMBIT

KH-9 ヘキサゴン HEXAGON

KH-10有人軌道実験室(MOL)

KH-11 ケンナンKENNAN

KH-12

KH-13

続く。



衛星偵察:宇宙に浮かぶ秘密の目〜スミソニアン航空宇宙博物館

2022-03-13 | 博物館・資料館・テーマパーク

「私たちは宇宙開発に350億ドルから400億ドルも費やしてきました。

しかし、もし衛星写真から得られる知識以外に、何も得られなかったとしたら、
それは私たちにとって、このプログラム全体にかかった費用は
10倍は高くついてしまったということになるのです。

なぜなら、今夜、我々は敵のミサイルの数を知りました。
我々の推測は大きく外れていたのです。

私たちは必要のないことをやっていたのです。
作る必要のないものを作っていたのです。
私たちは、持つ必要のない恐怖を抱いていたのです。」

リンドン・B・ジョンソン大統領、1967年



スミソニアン博物館の展示から、「スカイ・スパイズ」
空からの偵察の歴史についてご紹介してきたわけですが、
衛星からの偵察のコーナーの端が宇宙開発のゾーンと物理的に重なっており、
なるほど、色々と考えているなあと感心した次第です。

宇宙開発競争、それはロケットを飛ばすことによって可能となる
高所からの敵攻撃能力の誇示であり、かつ抑止力となるもののはずでしたが、
それは同時に、高所からの偵察の「眼」を持ちうるということも意味します。

スパイ衛星からの写真は、宇宙開発競争と冷戦の重要な遺産と言えます。
なぜなら偵察は宇宙飛行の最初の優先事項とされていたのでした。

■偵察と宇宙

1950年代半ば、ドワイト・アイゼンハワー大統領は、
ソビエト連邦による奇襲核攻撃の可能性を懸念していました。

このような不安を解消するために、アメリカには2つの選択肢がありました。

一つ、ソビエトに無断でスパイ活動を行うか
一つ、互いの軍事活動を監視する協定を交渉するか


そして、アイゼンハワー大統領は、その両方を試みたのです。

彼は1955年の国際リーダー会議で、ソ連とアメリカの偵察飛行を
互いに許可し合うという「オープンスカイ」提案を行いました。
どうせどっちもやってるんだから、もうお互いオープンにしない?というわけです。

しかし当然ながら、ソ連はこれを断固拒否してきました。

というわけで、航空機や気球による偵察には限界があり、
さらには外交交渉もうまくいかなかった、という理由を得たアメリカは、
スパイ衛星という新しい技術に活路を見出し、舵を切ることになります。

偵察機U-2

これについても既にお話し済みですが、1950年代には、航空機による
ソ連領土の探査や、カメラを搭載した偵察気球も、短期間ながら活躍しました。

中でもU-2は、特に高所からの偵察任務のために設計された究極の偵察機でしたが、
1960年5月、「U-2撃墜事件」によってアメリカの偵察行動が明らかになります。

U -2のパイロット、ロバート・パワーズは捕まり、スパイ容疑で裁判にかけられ、
ソ連の裁判で有罪判決を受け、シベリア送りになりましたが、
外交交渉で捕虜交換システムによって救出され、帰国することができました。

■ 「フリーダム・オブ・スペース」
「宇宙の自由」とは

偵察衛星の開発と投入は、国際法上の微妙な問題を提起することになります。
ここで人類は、こんな疑問について自問自答せざるを得なくなりました。

「宇宙は外洋のように万人に自由なのか。
それとも空域のように一国の主権的領土の一部なのか」

アイゼンハワー大統領らアメリカ首脳陣の考えは、前者でした。
宇宙は万民に自由であり、この考えが国際国際的に広がることを望んでいたのです。

歴史的に移民を受け入れて成り立ってきたアメリカらしい考えと言えますし、
穿った見方をするなら、アメリカの技術力を持ってすれば、
たとえ宇宙がフリースペースでも、そこで常に優位に立てる、
という絶大な自信と誇りが言わせたことだったかもしれません。

「宇宙の自由」を提唱したいアイゼンハワーは、1957年の

国際地球物理年(International Geophysical Year)
(日本語では国際地球観測年とされた)

を利用して、世界的規模による地球に関する科学的研究を行い、
この先例を作ろうと考えました。

アイゼンハワーは、スパイ衛星よりも議論の矛先に上がりにくそうな科学衛星を、
アメリカにとって最初の宇宙進出の対象にすることを決定し、
これを国際地球観測年計画の一部に組み込んだのです。
(あくまでもこれらは”表向き”の動きで、アメリカが偵察衛星打ち上げに向けて
裏で色々やっていたことは歴史の示す通り)

とかなんとかやっていたら、1957年末にソ連がスプートニクを打ち上げました。

アメリカはスプートニクにショックを受けながらも、1958年1月には
科学衛星「エクスプローラー1」が打ち上げ、
「宇宙の自由」への第一歩を踏み出すことになります。

【日本と国際地球観測年】

余談です。
この年、日本はまだ戦後6年でまだ独立していませんでしたが、
国際的地位の復活のために赤道観測を行うと協力を申し出ました。

しかし体よくアメリカに断られてしまったため、日本はその代わり
南極観測を行うことにして昭和基地を建設し、観測に協力しました。

その後国の威信をかけた南極観測隊を送り、昭和基地で始まった観測は、
「観測年の間だけ」という当初の予定を大幅に超えて、現在も継続されています。


■ ディスカバー/ コロナ
アメリカ初の偵察衛星

1960年から1972年にかけて、アメリカはコードネーム「コロナ」
日常的に宇宙からソ連を撮影する偵察プロジェクトを実施していました。

きっかけは、ここで何度もお伝えしている1960年の偵察機U-2撃墜事件です。

実はこのコロナ計画、ソ連に遅れを取っていると表向きでは言いながら、
実はかなりの実質的な成果を上げていたのでした。

実際、月への人類派遣に匹敵する困難なプロジェクトだったはずなのですが、
宇宙計画と違い、いかに成功しても、事柄の性質上その実態は
決して一般に知らされることはありませんでした。

U-2偵察の時もそうでしたが、偵察活動を大々的に宣伝するわけにいきません。
特に宇宙からのスパイ活動はシークレット中のトップシークレットした。

お互い様という気がしますが、アメリカもソ連も、冷戦中
最も警戒するべきは相手の核攻撃の進捗状態です。

アメリカにしてみれば「秘密主義」のソ連の核の実態を知るには、
鉄のカーテンの向こうで何が行われているかを知らないわけにいきません。

「コロナ」はその重要な答えとなったのです。

さて、ソ連がスプートニク1号を打ち上げた数ヵ月後の1958年初め、
中央情報局(CIA)と米空軍による偵察衛星プロジェクトが承認されました。

それは、簡単にいうと、カメラを搭載した宇宙船を軌道上に打ち上げ、
ソ連を撮影し、そのフィルムを地球に帰還させるというものでした。
この秘密スパイ衛星にCIAによって名付けられた名前が「コロナ」です。

しかし、その真の目的を隠すために、「ディスカバラー」と表向きに名付けられ、
科学的な研究プログラムであるという公式発表がなされました。

この辺は英語の語感がわからない外国人としてはなんとも言えないのですが、
「コロナ」より偵察がばれなさそうな、科学的なイメージがあるんでしょうか。


このコロナシステムで、1960年から1972年の間の100回以上のミッションで
80万枚を超える写真が撮影されたと言われています。

そしてその間も休みなく向上するカメラや画像処理技術を取り入れつつ、
コロナをはじめとする高解像度の偵察衛星は、アメリカの情報分析担当者に
ますます詳細な情報を提供するようになっていきました。


■ディスカバラー(実はコロナ)13号:最初の成功

とはいえ、アメリカの宇宙打ち上げ計画は当初失敗続きだったのはご存知の通り。

一回も成功しないまま、粛々と打ち上げ数だけが増えていた
ディスカバラー/コロナ・ミッションですが、これが初めて成功したのは、
1960年8月、実に13回目の打ち上げ実験でのことでした。

この時初めてアメリカは衛星から帰還カプセルを軌道上から回収したのです。

ディスカバラー14号がカメラを軌道に乗せ、宇宙から撮影した
米国初のソ連領の写真が入ったカプセルを帰還させたのはそれから1週間後でした。


アイクとディスカバラー13号カプセル(カレー鍋じゃないよ)


ほおこれがアメリカ国旗か〜(横の軍人たちの目よ)


宇宙から撮影された米ソ初のスパイ写真



ディスカバリーという名前のコロナ計画の偵察衛星が初めて撮った、
宇宙船から撮影されたソ連軍用地の最初の写真は、
チュクチ海近くのミス・シュミッタにあるシベリアの航空基地でした。

高度160km以上から撮影されたもので、約12mの物体が写っています。
ディスカバラー14のフィルムは、それ以前に行われたU-2航空機による偵察で
得られたすべて合わせたよりも多くのソビエト領土をカバーすることができました。

「宇宙の自由」を謳うことによって、アメリカは何の気兼ねもなく?
U-2が見舞われたような国際非難とパイロットの危険もなく、
それ以上の情報を手に入れることができるようになったのです。


■コロナのミッション



冷戦時代、アメリカはソ連の核兵器の脅威について
常にを正確に把握することを至上目的としていました。

もし長距離弾道ミサイルが発射されれば破壊的な到着までわずか数分しかないため、
安全保障的に、兵器設置場所に関する正確でタイムリーな情報を
できるだけ早く入手することが必要と認識したのです。

このため、「コロナ・カメラ計画」が発動されました。


ロケットで軌道上に打ち上げ、目標地域の上空に送った衛星に
ソ連の施設の画像を撮影し、送信するようにカメラを仕込むのです。

プロジェクトの目標は、軌道上から地球の広い範囲を詳細に撮影することでした。
そのためには、プロジェクトチームがクリアする必要があったのは
3つの大きな技術的課題でした。

1、時速27,000kmで移動しながら、地表から高度160km以上から
高画質な写真を撮影できるカメラを設計すること

2、カメラを安定させなければいけない 特定の場所を鮮明に撮影すること

3、撮影したフィルムは地球に持ち帰ること

割と当たり前のことばかりですが、それが簡単にできれば誰も苦労しません。
それを達成するために、コロナの技術開発・運用には、
実に数十社の企業と数千人の人々が秘密裏に取り組んでいました。


■コロナのカメラ

カメラは回転することで高解像度のパノラマフィルム画像を生成しますが、
当時はまだ取得した情報を利用するためには、
露光したフィルムのリールを回収して処理する必要がありました。

そのため、パラシュート型のノーズコーンにフィルムを収納し、
大気圏に突入してから空中にあるうちに確保していました。

このように、技術的にも戦略的にも大変複雑なものでしたが、
これらは功を奏し、1959年から1973年までの間に、
何百回ものフライトによってソ連の活動を知ることができました。

戦争につながるかどうかという不確実性から緊張を緩和することができたのです。


コロナカメラシステムの本体の向こうには、
アイゼンハワーが宇宙から戻ったディスカバラーを開けるお馴染みの写真が・・・。

このお釜は、「ディスカバラー計画」の回収されたリターンカプセルで、
つまりコロナ計画の原初的な作戦として、ソー・アジェナロケットで打ち上げられた
わずか750kgの人工衛星でした。

この頃の「失敗」は、つまり大気圏突入後の回収がほとんどで、
機密保持のためにカプセルはしばらくしたら水没する仕組みになっていました。

ソ連もどういうわけかこの情報を知っていて、
カプセル落下地点で潜水艦が待ち構えているのがわかると
直前で中止されるなど、お互いそれこそ水面下での熾烈な戦いがありました。

カメラの説明は以下の通り。

「KH-4B カメラは1967年から1972年までコロナ衛星に搭載されて
世界各地の偵察写真を撮影し続けた」

カメラ製造元 Itek
フイルム持ち帰りカプセル製造元 ゼネラル・エレクトリック
打ち上げ機 ソー・アジェナ(Thor-Agena)
打ち上げ機製造元 ダグラス(ソー)ロッキード(アジェナ)


まずはコロナを打ち上げたKH-4Bコロナ衛星です。
KHはKey Holeのことで、鍵穴=「覗き見る」からだとか・・・。

中が覗けるキーホールなんておそらく当時はもう存在しないんですが、
まあ隠喩的というかこの言葉が「覗き見」のイメージなんでしょう。

そしてこの衛星の先っぽの部分が、目的たるカメラです。



(先端から左回りに)
#1 フィルム返還カプセル
#2 フィルム返還カプセル
コンスタントに回転しているステレオ・パノラマカメラ
フィルム補充カセット
フィルム通路


この、「コンスタントに回転するパノラマカメラ」というやつが
どう回転するのかわからんのですが、まさか360度回転?


スミソニアンHPのもう少し詳しい図



この部分なんですけど、どうも複雑な回りかたをするようです。


スミソニアン協会の国立航空宇宙博物館にあるこれは、
現存する唯一のコロナカメラです。
(コロナカメラと打とうとすると、途中でコロナ禍と出てしまう今日この頃)

スミソニアンはこのカメラの評価と保存を請け負うことになり、
パーツをまず分解した後、フィルムキャニスター、ノーズコーン、
フィルム搬送装置、熱シールドが、処理前にスタジオで調査されました。

その後、掃除機と中性洗剤で汚れを除去し、
その際腐食した材料は除去され、保存処理がなされました。
劣化した金属も、金属光沢剤と腐食防止剤で慎重に処理され、
バッテリーの端子は洗浄し、劣化が進行しないように分離。

金メッキされたノーズコーンは、クリーニングと研磨が行われ、
熱シールドは洗浄、安定化、充填、インペイントが行われました。

ちなみに、このカメラで撮影した写真には、地表の2mの物体も写ります。
今ではそんなの当たり前どころかもっと小さなものも写りますが、
最初のこの技術があったからこそ、現代の技術へと繋がっているということを
我々は忘れてはいけないかもしれません。(適当)

処理された部品は、博物館に戻され、
クライアントによって処理されたフレームに再び設置され、
スミソニアンに展示されて今日に至ります。

続く。




宇宙からの「スパイ」とシギント収集艦「オックスフォード」〜スミソニアン航空宇宙博物館

2022-03-11 | 博物館・資料館・テーマパーク

実は「スカイ・スパイ」のシリーズを前回をもって一旦終わったと思い、
その他のスミソニアン博物館の「マイルストーン」(歴史的)航空機とか、
宇宙開発で打ち上げたカプセルなんかについての説明ログを制作していたわたし。

まだ扱っていない「スカイスパイ関係」展示があるのに気がつき、
慌ててこれを取り上げる次第です。(何か不備があったらすみません)

なぜこの部分を積み残してしまっていたかというと、
スミソニアンの展示配置にその原因があって、「スカイスパイ」の展示と
宇宙開発展示の合流?するところに、この「宇宙からのスパイ」があり、
わたしはこれに気がつかないまま別のコーナーに移ってしまっていたのです。


まあ、そもそもアメリカの宇宙開発の最終目的は偵察にあったわけですから、
この二つのコーナーに重なる部分があっても当然だったんですけどね。

スミソニアンには偵察衛星のモジュールや宇宙カメラや、
何ならハッブル望遠鏡まであったりするのですが、
これらは「スカイスパイ」なのか、「宇宙開発」なのかと言われても
どちらにも当てはまるカテゴリなので、このパネルを見つけて初めて
このコーナーが「スカイスパイ」の最後であることに気がついたというわけです。

ちなみに、パネルの向こうに見学している人の足が写りこんでいますが、
ちょっと現地の雰囲気をお伝えできるかなと思って?トリムせずに挙げておきます。

■スパイイング・フロム・スペース

宇宙からのスパイ、つまり偵察ですね。
日本語ではスパイとは「スパイする人」という意味でしかありませんが、
英語だと普通に偵察です。

まずはこのパネルのメインの文言には衛星偵察についてこのように書かれています。

「衛星偵察プログラムは、秘密裏にされてきました。

一般の人々が一部とはいえそのことを知り得たのは、
1960年以降のこととなります。

アメリカは、第二次世界大戦以来、偵察に使用していた航空機、船舶、
そして地上のステーションを増強するために、

1950年代後半に衛星の開発をいよいよ開始することにしました。

衛星偵察には、これら他のプラットホームに比べて重要な利点があります。
それらは広大なカバレッジ(行動範囲)を提供し、
攻撃に対しても遥かに優位で、決して脆弱ではないことです。

そしてアメリカは、衛星偵察を開始してから今日まで、

画像情報と信号のデータを諜報手段として取得し続けています。

偵察は、他の情報源とともに、民間および軍の指導者に世界中の政治、

軍事、および経済の発展に関するタイムリーで正確な情報を提供します。
また軍の作戦を実際に支援することもあるでしょう。」

そして偵察種類が定義されています。
割と当たり前のことしか書いていませんが、一応整理のために載せておきます。


偵察 RECONNAISSANCE

別の組織・別の国家に関する情報を取得するために設計された秘密の活動

画像諜報活動 IMAGERY INTELLIGENCE

飛行場、造船所、ミサイル基地、地上部隊、指揮統制センター、
およびその他のターゲットの写真


シグナル・インテリジェンス:シギント
SIGNALS INTELLIGENCE :SIGINT

【電子インテリジェンス Electric Intelligence】
レーダーおよびミサイルと宇宙船間で送信される信号の傍受

【コミュニケーションインテリジェンス Communications Intelligence】
外交および軍事メッセージの傍受

「シギント」という言葉は前にも説明しましたが、
シグナルズ・インテリジェンスの頭から三文字ずつ取った短縮形です。


■国家による偵察衛星機関 
National Reconnaissance Office: NRO

ケネディ政権は、1961年、偵察衛星の設計開発、うちあげ、運用のために
あくまでも密かに政府機関である国立偵察局NROを設立しました。

ところで、アメリカの政府機関の「ビッグ5」って何かをご存知ですか。

CIA、国家中央情報局くらいは誰でも知っているでしょうし、
何ならその一つにFBIを挙げる人もいそうですが、FBIはビッグ5ではありません。

アメリカのビッグ5機関とは次の通りです。

CIA アメリカ国家中央情報局 Central Intelligence Agency

NSA アメリカ国家安全保障局 National Security Agency

DIA アメリカ国防情報局  Defense Intelligence Agency

NGA 国家地理空間情報局 National Geospatial-Intelligence Agency

NRO アメリカ国家偵察局 National Reconnaissance Office


このアメリカ国家偵察局ですが、バージニア州シャンティリー、
ダレス国際空港からすぐ近くにその本拠があり、3000人が所属します。

職員は、NROの幹部、空軍、陸軍、CIA、NGA、NSA、海軍、
米宇宙軍からなる混成組織となっています。

その任務内容から国防省に属し、ビッグ5の他機関と緊密に連携しています。

NROが手がけた最初の写真偵察衛星計画は、もちろんあのコロナ計画です。
表向きはディスカバラー計画として宇宙開発を目的に打ち上げた衛星は、
冷戦時代のソ連を上空から写真撮影するのが目的でした。



コロナ計画の機密は前にも書いたように1992年に解除され、
1960年から1972年までの情報が公開されました。

1973年には、上院委員会の報告である議員がうっかり
NROなる存在を暴露してしまい
、そのことからニューヨークタイムズに掘られて
NROが国防総省や議会に知らせずに年間10億〜17億ドルを溜め込んでいる
とスキャンダルまで一挙に暴かれて公開されてしまいました。

このすっぱ抜きはちょうどCIAが調査をしている最中だったそうです。
CIAの調査でNROが長年積み上げていた前倒し金は65億ドルに上るとしました。

NROの「いざという時の金」(レイニーデイ・ファンド)だったというのですが、
それはいくら何でも貯め込みすぎだろうって。

当初は衛星偵察が極秘だったこともあって、NROそのものが秘匿されていました。
日本語のWikipediaには、

「かつては諜報関係者すら、
公的な場所で組織名を口にする事さえ禁じられた
ほどの秘匿機関であり、組織の存在が暴露された後も長きに渡り
現職長官名も公開されない極秘機関だったが、
このような秘匿は情報公開法に抵触するとの抗議を受け、
現在では公式サイトでその概要を知ることができる」

とあります。

また、NROは独自に人工衛星を運用しており、その「ポピー」Poppyという衛星は
1962年から1971年の間、国民に秘密裏で7号まで打ち上げられていました。

こんな名前の衛星があったことなど知らない人の方が多いのではないでしょうか。


このいかにもキレッキレそうな目つきのおじさんが、NRO初代所長です。

ジョセフ・ヴィンセント・チャリック(Joseph Vincent Charyk)

カナダ生まれのウクライナ系ですが、アメリカ国籍を取っていると思われます。
カルテックで博士号をとり、アメリカ空軍で主任科学者を勤めていたことから
ケネディ大統領に初代NRO所長に抜擢される流れの中で
アメリカ国籍を与えられることになったのかもしれません。

■アメリカの航空偵察



U-2偵察機

カメラと電子情報機器を搭載したU-2偵察機が任務を始めたのは
1956年で、ソビエト連邦上空を飛行し始めました。

これらの任務は、ソ連がフランシス・ゲイリー・パワーズが操縦する
U-2を撃墜する「U-2撃墜事件」が起きて1960年に停止しましたが、
停止したのはソ連上空だけで、他の地域では偵察は継続されましたし、
空軍は現在も高度なU-2を運用し続けています。

ストーンハウス STONEHOUSE



エチオピアのアスマラにあった、ストーンハウス深宇宙受信ステーション
1965年から1975年まで運用されており、ここでは
ソ連の深宇宙探査機のコマンドの応答や探査機から受信が可能でした。

右の写真は85フィートの反射鏡、左の写真は直径150フィートのアンテナです。
月、火星、金星など遠方にあるソ連の宇宙探査機からの
ごく微弱なテレメトリー信号を受信するために、
これほど巨大なアンテナが必要だったというわけです。

この施設は1975年に閉鎖されましたが、世界中の同様のステーションは、
シギントを実行し続けています。

■データ収集用プラットフォーム艦


USNS 「ジェネラルH.H.アーノルド」

USNS ジェネラル・ホイトS. ヴァンデンバーグ (AGM-10)

これらは、大西洋範囲計測船 (ARIS) を情報データ収集用に改造したものです。
主要な移動式技術情報収集プラットフォームとしてレーダー信号データを提供し、
カムチャッカ半島や太平洋でソ連のICBMからテレメトリーデータを収集しました。

ARISは、ソ連のICBMの発射実験が予想される時期に、
年に数回、太平洋上で情報収集任務を遂行しています。

これらは1960年代から1970年代にかけて運用されましたが、ヴァンデンバーグは
現在退役し、フロリダ州キーウェスト沖で人工岩礁として使用されています。


USS オックスフォードAGTR-1/AG-159

「オックスフォード」も情報収集艦として運用された艦船の一つです。

第二次世界大戦中にはリバティシップとして建造されたのですが、
冷戦後電子信号情報収集のために改装されて
航空機、船、地上局からの送信を傍受しました。

「オックスフォード」は電子信号軍事情報(シギント)を収集のために
最新のアンテナシステムと測定装置を装備し、
海軍の「通信に関する研究開発プロジェクトの包括的プログラム」
つまり電子スパイの能力を備え、かつ世界各地に赴くことができる
「高度な移動基地」となったわけですが、他のシギント収集艦と同様、
特に任務内容と雇用そのものすら、機密扱いとなりました。

これらの「研究」船は、秘密活動のための有効な隠れ蓑を作るために、
海洋学的実験を行うための装置と人員ということになっていました。

■シギント収集艦「オックスフォード」

【キューバ危機】

1962年秋、それはキューバ危機が起こった年でしたが、「オックスフォード」は
キューバ・ハバナ沖でゆっくりと、「8の字」を描くように航行していました。

その任務は、キューバ全土のマイクロ波通信を盗聴することでした。

キューバのマイクロ波システムの仕組みについて、アメリカ側は既に
情報を収集して知悉しており、「オックスフォード」は、
キューバの秘密警察、キューバ海軍、防空、民間航空を盗聴できたのです。

1962年9月15日、「オックスフォード」のレーダー員は、
NATOが「スプーンレスト」と呼ぶソ連のP-12レーダーの存在を検知します。

これは、ソ連ががキューバの目標追跡・捕捉システムを
密かにアップグレードしていたことを示唆するものでした。

1962年10月27日、その日は「黒い土曜日」とも呼ばれていますが
「オックスフォード」はSAMミサイル基地からのレーダー信号を検出し、
キューバのソ連防衛の突破口を発見したのです。

この発見により、その後F-8クルセイダーの低空飛行による写真撮影と
高高度でのU-2の偵察飛行の両方が出動しました。


【史上初の「ムーンバウンス」通信成功】

1961年12月15日、「オックスフォード」は、
月を通じて陸上施設からのメッセージを受信した最初の船となりました。

「ムーンバウンス通信」は、地球-月-地球(EME)通信とも呼ばれ、
地球から月に向けて電波を送信する技術です。

地球から月へ電波を送り、月面で反射させ、地球上の受信機でキャッチする。
この技術は、海軍の艦船との安全な通信を可能にするものでした。

1961年12月15日午前0時頃、海軍作戦部長ジョージ・W・アンダーソンと
NRL研究部長R・M・ページ博士が、メリーランドから約2414km離れた
大西洋上のUSS「オックスフォード」に、月経由でメッセージを送信します。

海軍が地上局から艦船へのメッセージ送信に成功したのは、これが初めてでした。

この出来事は秘密にされていたわけではなく、AP通信が小さな記事を書き、
それが12月17日付のワシントン・ポストに掲載されています。
あまりにささやかなニュースなので騒がれなかったのですが、偉大な功績でした。

送信の成功を受けて、「オックスフォード」には操縦可能なパラボラアンテナと
送信機が設置され、双方向通信が可能になりました。



冒頭にも挙げたこの写真は「オックスフォード」甲板で、
通信技術者である乗員二人がアンテナに乗務?している貴重なシーン。

この成功を受けて、海軍は
技術研究船特殊通信システム(TRSSCOMM)、世界のどこにいる船でも、
マイクロ波を月に向けて発射し、メッセージを送ることができるシステムを得ます。

これは分かりやすくいうと、月が反射板となり、
地球上の90度の範囲にある受信局へ電波を送り返すという仕組みでした。


【技術研究艦USS オックスフォード (AGTR-1)】

その後「オックスフォード」(AG-159)は1964年4月1日に
技術研究艦(AGTR-1)に改名されました。

電磁波受信だけでなく、海洋学や関連分野の研究を行う艦として
世界の海を航海しました。(名誉職みたいな感じですかね)

退役は1969年12月19日。
日本の横須賀で海軍艦艇登録簿から抹消されました。


海軍は現在でも艦船を使ったシギントを実行しています。


続く。




宇宙からの「眼」 無人衛星偵察の目指すもの〜スミソニアン航空宇宙博物館

2022-03-09 | 博物館・資料館・テーマパーク

スミソニアン博物館の軍事航空偵察シリーズ、「スカイ・スパイ」。

冷戦時代の高高度偵察機について前回お話ししてきたわけですが、
人が乗った航空機で偵察を行うというのは、どうしても撃墜されたり捕まったり、
それこそU-2ではありませんが、最悪国家の危機レベルでのリスクを伴います。

そこで、人を使わない偵察機、ドローンの登場となります。

■ ドローン



ここ数十年の間に急速に普及したのが、遠隔操作で操縦する無人航空機です。

この写真の輸送機の主翼の下、パイロンには、ドローンが装着されています。
最初にドローンが軍事偵察(主に写真偵察)に投入されたのはベトナム戦争で、
これらの航空機は、一般的にジェットエンジンを搭載した高速機でした。

その後、マイクロチップの導入により、カメラや制御技術が小型化されたことで、
より小型で低速の飛行体が開発され、投入されていきます。

後世の多くの紛争では、攻撃の評価や計画、コンプライアンスの監視に
ドローン、UAV(無人航空機)の飛行が不可欠となっていくのです。


RQ-4グローバルホークの整備を行う飛行士:2008年9月


ネットでの拾いもの・・どうしてこうなった状態のドローン

■ 衛星偵察

空中偵察の次のステップは、宇宙軌道上からの偵察です。
衛星は軌道上から広大な地域を詳細に監視することを可能にしました。

【ディスカバラー13再突入カプセル】

「ディスカバラー」は、ソ連を監視するための人工衛星を開発する秘密計画
アメリカの「コロナ計画」の公称(つまり表向き名称)です。

アメリカは「コロナ計画」をあくまでも宇宙開発計画として発表していましたが、
その実態はソ連を監視するためのスパイ衛星を打ち上げることでした。

航空機による偵察は、これらの宇宙計画までの単なる「場つなぎ」にすぎなかった、
という話を前回しましたが、この計画は実は1950年代後半に始まっていました。

アメリカが考えた、宇宙に偵察カメラを送り作動させるという壮大な計画。

これは実に最初から失敗の連続だったのですが、さすがアメリカ、
1960年8月、「ディスカバラー13」カプセルを回収することに成功しました。

これは、軌道上で回収された人類史上最初の人工物となります。

「13」カプセルはテストだったので、フィルムは搭載されていませんでしたが、
その1約週間後に打ち上げられたディスカバラー14号が、
約2週間後には宇宙からフィルムを持ち帰ったのです。



航空機が偵察型衛星を再突入時にキャッチしています。
ディスカバラーで撮影したカプセルは、ソ連が取得することのないように
海中に落ちてからではなく空中でキャッチすることにしました。

カプセルはある程度の浮力を持っていましたが、敵の取得を恐れ、
一定の時間が過ぎると沈むようにできていたので、
それでほとんどの最初のカプセル実験は失敗したと言われています。

何回めかの実験の時には、ソ連が情報を手に入れて、落下地点付近で
潜水艦を待機させているらしいとわかって、実験そのものが中止されました。


アイゼンハワー大統領の前にある金だらいのようなものが、
回収されたディスカバラーのカプセルです。
大統領はアメリカ国旗を持って、なにかパフォーマンスをするつもり?

と思ったのですが、実はこのお釜の中に仕込んであった国旗だそうです。
アメリカ人の好きそうな演出ですな。

というか、それまでのディスカバラーにはもれなく国旗が仕込んであったのか?
ヤラセくさいなあ・・・と思うのはわたしの心が汚れているせいでしょうか。


ディスカバラー計画は1960年代初頭にひっそりと終了しましたが、
これは打ち上げの言い訳をもうしなくて良くなったからで、
コロナ計画そのものは1972年まで秘密裏に続けられていました。



1995年2月、ビル・クリントン大統領は大統領令に署名し、
1960年から1972年までの機密扱いの衛星偵察写真を公開していますが、
それがこれからご紹介するいこれからご紹介する一連の画像です。

この機密解除された1962年8月の画像には、旧ソ連のアラル海が写っています。

過去数十年間の地球環境の変化を研究する科学者にとって、
このような詳細な画像は学術的にもたいへん有用なものです。



こちらも同じランドサットによるアラル海の画像ですが、
先ほどの写真から23年経った1987年8月撮影のものになります。
画像がカラーなのはもちろん、画像の鮮明さが技術の進歩を語ります。

ただし、写真にはこの期間、アラル海で起きた環境破壊の様子が示されています。

農薬の過剰使用や不適切な灌漑が20年以上も繰り返された結果、
かつては広大で豊かだったアラル海は汚染され、縮小してしまっています。

上の画像と比較してみてください。


発射される偵察衛星

年代を追って


ロケットが立派に・・・。

■ ランドサット


ランドサット衛星は、1972年から地球を観測しています。

地球の数百億平方キロメートルがランドサットのセンサーによってカバーされ、
その画像は地球科学のさまざまな分野の科学者に実用的な情報を提供してきました。


ランドサット1

ランドサット1は、高度917kmの軌道に打ち上げられました。
1日に地球を14周し、18日ごとに同じ場所を通過していました。

ランドサット4

ランドサット4と5は高さ705kmの軌道で、16日サイクルです。
ランドサット5は現在も稼働中です。

ランドサット1、2、3に搭載されていた地球画像センサーは、
マルチスペクトラルスキャナー(MSS)と呼ばれていました。

ランドサット4号、5号には経年劣化が比較できるように同じMSSに加え、
さらに進化したTM(Thematic Mapper)というセンサーが搭載されました。

ちなみにランドサット4号は故障で引退し、
ランドサット6は所定の軌道に到達できずに行方不明のままです。(おい)

1999年、ランドサット7はさらなる改良バージョンであるセンサー、
ETM+(Enhanced Thematic Mapper Plus)を搭載しました。



マルチ・スペクトル・スキャナー(Multi-Spectral Scanner)

ランドサット6号機に搭載されたセンサーです。
約34,000平方キロメートルの範囲を、約80メートルの解像度で画像生成します。
MSSは、可視光と赤外線の両方の波長でデータを取得し、
振動鏡を使って地球をスキャンするしくみです。


【テマティック・マッパーThematic Mapper】



マッパーは「地図化」ということだと思われます。

スミソニアンにあるこのマッパーですが、実物大のモデルです。
まるでスピーカーみたいですが、これは撮像素子、
イメージセンサーと言った方が分かりやすいでしょうか。


横に立っている人が怖い・・ってそこかい

ランドサット4号、5号に搭載されているもので、
初期のランドサットに比べて約3倍の大きさの地形を捉えることができ、
より多くの波長帯のデータを収集することができます。

博物館に展示されている実物大のモデルは、
ヒューズ・エアクラフト社の提供によるものです。


セマティック・マッパーでランドサットから撮ったルイジアナ州ファルムランド。


同じく、ラスベガスのミード湖。
ミード湖は世界最大の人工湖で、コロラド川のフーバーダムを形成します。
「レッドリバーバレー」という歌がありますが、この辺りは地層が赤いんです。


ランドサットTMが捉えたミズーリ川の氾濫前

氾濫後。

さらにその後。
川のラインがはっきりしないくらい氾濫しています。

■ 人工衛星が見た海洋・シーサット



「シーサット」は、レーダーによる海洋監視に特化した初の人工衛星です。



1978年に打ち上げられたこの衛星は、98日間にわたって運用され、
1億平方キロメートルの地表の画像を作成するのに十分なデータを取得しました。

高度800kmの軌道を周回し、海氷、海流、渦、内部波など
多くの海洋の特徴をレーダー画像で提供することができました。

スミソニアンに展示されているのは20分の1スケールモデルで、
 ジェット推進研究所による提供です。

海底の地形を知る

シーサットには、海面の地形を計測する装置も搭載されていました。

この画像で明るい色合いは隆起を、暗い色の部分は窪みを表しています。
海面の変化は、海底の海溝や海嶺の地形を表します。

海洋の温度を知る

NOAA-12衛星に搭載された
高性能超高解像度放射計(AVHRR)のデータによる海面温度の画像。

オレンジと赤の色は温度が高く、紫と青の色は温度が低いことを表します。
この1997年の画像では、メキシコ湾流の暖かい部分がはっきりと確認できます。

AVHRRは実際の海面温度を知ることに役立ちますが、
海水温を知ることで、漁業関係者の海流や餌場などの特定情報に役立ちます。

海底の地形を知る


マサチューセッツ州ナンタケット島沖の尾根や浅瀬による表面の凹凸が、
シーサットの画像にはっきりと現れています。
表面の模様と海中の様子がよく一致していますね。

河川底の堆積物を知る


アラスカ南西部のクスコクウィム川河口の堆積物が、
シーサットの画像にはっきりと映し出されています。
明るい部分は川の流れによって形成された水路です。

モザイク合成


モザイク画像で表されたシーサットによるグランドバハマ島周辺。
南側には、島の西海岸の水の流れによる渦が見られます。

海洋温度を知る


熱容量マッピングミッションによる画像。

暖かい水は明るい色調で、冷たい水は暗い色調で表示されています。
写真の下の方に見えるのがメキシコ湾流。
メキシコ湾流の端には巨大な2つの渦が確認されます。

海洋温度を知る2


熱容量マッピングミッションによるメキシコ湾流の別の画像。
白い部分が温かいメキシコ湾流で周囲の水は冷たいことがわかります。

■ 広視野センサSeaWiFS



黒海のSeaWiFS画像。

1997年8月に打ち上げられた衛星「SeaStar」に搭載されている
広視野センサ(SeaWiFS)です。

1997年8月に打ち上げられたSeaWiFSは、海の色を測定し、
植物プランクトンの濃度データを提供するとともに、
海と地球の変化の関係を研究することを目的としています。

センサの発達については長くなるのでここでは扱いませんが、
目に見える可視光だけでなく、赤外線など、
放射線を見ることができるセンサがいつの間にか?現れました。

それらの情報はフィルムに記録されるのではなく、
コンピュータの画像に変換できるもので、ピクセル
(小さな四角のモザイク)で構成されているのは皆さんご存知の通り。

■レーダー

陸地を見るもう一つの方法は、レーダーを使うことです。

レーダーは雲も見通すことができ、日の光を必要としません。
そのため、昼夜を問わず、大気の状態が悪くても画像を記録することができます。

レーダー画像は、表面の粗さ、方向性、含水率、組成などの物理的特性と、
シーンを「照らす」レーダー信号の波長に依存しています。



1978年に運用されたシーサット衛星のレーダー画像。

左上から右下にかけてサンアンドレアス断層が広がっています。
暗いところは断層の北東に位置するモハーベ砂漠。
明るい部分は南西に位置するサンガブリエル山地であり、
右下には主要な道路がはっきりと示されています。



アパラチア山脈が折り重なっている様子をシーサットレーダーで撮影したもの。

■シャトル・イメージング・レーダー

1981年にスペースシャトルに搭載された
シャトル・イメージング・レーダー装置(SIR-A)
地表の約1,000万平方キロメートルの画像を撮ることができました。



エジプト西沙漠のランドサット画像に重ねられたシャトル画像レーダー実験
(SIR-A)
のデータには、古代の干上がった川の水路が写っていました。
かつて水が流れていた河道の特定は考古学者の研究に役立ちます。



ガラパゴス諸島のイサベラ島にあるアルセド火山の3D画像。
地形データとSIR-C/X-SARのレーダー画像を重ね合わせて作成されたもので、
粗い質感の溶岩流は明るく、滑らかな灰の堆積物や溶岩流は暗く見えています。

■ラダーサット

1995年11月に打ち上げられたラダーサットは、カナダ宇宙庁が運用しており、
さまざまな解像度のレーダーデータを提供しています。



南極大陸のパインアイランド湾に突き出たベア半島(左)とスウェイツ氷河の末端。

この画像は、カナダとアメリカが共同で行っている
南極マッピングミッション(AMM)の一環として取得されたものです。

AMMは、1997年9月に開始された、
宇宙から南極大陸全体を高解像度でマッピングするプログラムです。
レーダー画像から氷に覆われた南極の詳細な地図が作成されています。


21世紀に入ってからの10年間は、衛星による上空からの偵察が主流でした。

戦場の状況を迅速に把握し、広範囲の電磁波を継続的にサンプリングするためには、
依然として空力的な飛行体が必要です。
しかし、これらはますます無人化されていくでしょう。

手のひらサイズのマイクロマシンから、グローバルホーク、
NASAの太陽電池駆動のパスファインダーまで。

さまざまなUAVが存在しますが、これらは何日も継続して飛行することができます。

UAVの研究と発展の目指すものは、
かつての有人の空中戦の原点を再現することにあるのかもしれません。

より確実に。人的被害を被ることなく。


続く。




オーマー大佐のカリフォルニア偽装大作戦〜スミソニアン航空博物館

2022-02-21 | 博物館・資料館・テーマパーク

スミソニアン亜博物館の「スカイ・スパイ」シリーズ、
前回は第一次世界大戦から第二次世界大戦までに撮られた
歴史的な軍事空撮写真をご紹介しました。

今日は、その空撮に「対抗」した相手側のカムフラージュからです。
飛んでくる飛行機の撮影を防ぐことができないのなら、
その努力を阻止したり、写真の解釈を混乱させればいいのです。
そのためにいろんな技巧が凝らされました。


【影のないクレムリン】

第二次世界大戦中にドイツ軍の偵察隊が撮影したクレムリンのカモフラージュ。
訓練された目で見ると、「ダミー」の建物がはっきりとわかります。

ヒントは影。
本物の建物には長い影ができますが、平らな偽物にはほとんど影ができません。



【ゴムの装備隠し】

inflatable、ということなので、ゴムで空気が入れられるものを
戦車などの上にかけて形を分からなくするカモフラージュ方法のようです。

おそらくアメリカ陸軍の写真だと思われます。

【日本軍のベジテーションデコイ】

ものすごく念入りに艦船を植物でカモフラージュしています。

【墓地に見えますか】

これはオーストラリアのカモフラージュ例です。
オーストラリアでは日本軍の空襲に備えて、多くの飛行場が偽装されましたが、
この写真はそのうちの一つガーバット飛行場で、
上空から見ると墓地のように見えるようにカモフラージュされていました。

舗装された場所には、偽の木材でできたデコイの飛行機を置き、
格納庫を迷彩に塗り替えたりと言った具合です。

でもこの写真はどう見ても墓地には見えないような・・・。

■ オマー大佐の「カリフラージュ」大作戦

さて、ここからは、おそらく第二次世界大戦で、というか
かつて人類史上で、もっとも大掛かりで馬鹿馬鹿しく、
ある意味何よりアメリカらしい軍事偽装作戦と思われた、
オマー大佐のカリフォルニア偽装大作戦についてお話ししようと思います。

まずはこのビフォーアフターの写真をご覧ください。


【ビフォー】

カリフォルニアのロッキード社の工場。
もしカムフラージュをしていなければこんな感じです。


【アフター】

工場が並んでいたところは全て緑地帯になり、
家が立ち、畑となっています。
写真では不自然さは隠し切れていませんが、これが
陸軍の「迷彩の魔術師」、オマー大佐の一世一代の作品でした。


矢印の先に「道」のようなものがありますが、出口がなく、
どこにも繋がっていません。
しかし、これもじっと見ているからこそわかることで、
おそらく航空機からは認識されないと思われます。



そこでもう一度アフター写真をご覧ください。
ちょっとわかりにくいですが、要するにこういうことです。

工場の屋上に畑と家を作って上空からは農村地帯にしか見えないという。
造園家に依頼してデザインされたそうで、とてつもなく大掛かり。
夜に電気がついていなければバレるのではという気がしますが、
つまり日本軍のパイロットの目さえ欺けばいいので、夜はどうでもいいのです。


よくできているように見えても、実物はこの通り。
それにしてもこのお姉さん何者?

現在「ボブ・ホープ空港」となっている
バーバンクのロッキード・エア・ターミナルでは、敵の攻撃に備えて
施設を大々的に偽装していたことで有名です。
その方法も、空港全体を迷彩ネットで戦略的に覆うという異例なもので、
さすが金持ちアメリカというか、お金はものすごくかかりそうですが
非常に効果的な方法がとられていました。

映画「1941」で描かれた「ロスアンジェルスの戦い」を覚えていますか?

あの映画ではサンフランシスコ湾の外で三船敏郎艦長の日本軍の潜水艦が
いきなり浮上するというオープニングでしたが、実際には同じように
1942年2月、サンフランシスコに到達した日本軍の潜水艦が数日後の夜、
サンタバーバラ沖に浮上して石油貯蔵施設に数発の砲弾を撃ち込みました。

そこで陸軍省は西部防衛司令部の責任者であるジョン・L・デ・ウィット中将に、
太平洋岸の重要施設を守るよう命令したのです。

守ると言ってもどうするの、というところで考え出されたのが偽装でした。
カリフォルニア州全土のカモフラージュ、つまりカリフラージュです。

その任務は、陸軍技術者ジョン・F・オーマーJr.大佐に任命されました。
なぜこの人だったかというと、1940年のバトル・オブ・ブリテンで、
大佐が指揮した入念なカモフラージュのおかげで
ドイツ空軍に何千トンもの爆弾を何もない野原に撒き散らし無駄にさせた、
という実績があったからです。

オーマーは、いわば迷彩の技術と科学に魅了されていた人で、
陸軍に入隊してからは、マジックと写真を組み合わせて、
目とレンズを欺くための独創的な方法を模索していました。

もし陸軍が、陸軍第604工兵迷彩大隊の隊長だったオーマーの、
ハワイのホイーラー・フィールドをすっぽり覆って隠すという案を
高すぎるという理由で却下しなければ、その年の末、
日本軍の真珠湾攻撃からこの基地だけは被害を逃れたかもしれません。


この時ホイーラー飛行基地は83機の戦闘機を失いましたが、
皮肉なことに、それらの1機当たりの値段は、ほとんどが、
オーマーが提案した隠蔽工作のコストに匹敵しました。


日本軍のカリフォルニア空襲はいまや差し迫った脅威となっていました。
特に上層部は木造の航空機組み立て工場が狙われることを恐れました。

結果としてオーマー大佐には「夢のような」任務があたえられます。

概念は単純、しかし範囲は巨大。
それは、サンディエゴからシアトルまで、
爆撃されそうなものを全て消滅させるという計画でした。

飛行場、石油タンク、航空機警報所、軍事キャンプ、防衛砲台など。
特にロッキードのような飛行機を製造する主要施設が1つでも失われれば、
軍が期待していた戦闘機、爆撃機、貨物機など約3,500機を失うばかりか、
工場の復旧には1年以上かかるでしょう。


オーマーが、最も優秀な民間人を探すために目をつけたのはハリウッドでした。

映画スタジオに出向き、セットデザイナー、アートディレクター、画家、大工、
造園家などのスキルをこの緊急課題に活用し、さらにアニメーター、
照明技師、小道具デザイナーなどの意欲的な人材を集めました。

映画のセットを時間との競争で作り上げる彼らが、誰よりも
イリュージョンの基本を理解していることを知っていたのです。

ハリウッドのほぼ全ての映画スタジオ・・・メトロ・ゴールドウィン・メイヤー、
ディズニー・スタジオ、20世紀フォックス、パラマウント、
ユニバーサル・ピクチャーズ
などの背景デザイナー、画家、アートディレクター、
風景アーティスト、アニメーター、大工、照明専門家、小道具係などの協力を得て、
オーマー大佐は街を丸ごと偽装する作業を開始したのです。

まずは、ダグラス・エアクラフトをはじめとする、
敵のターゲットとなりうる主要な工場や組立工場からです。

それこそあっという間に、プロの手によって、ロッキード・ベガ航空機工場は、
キャンバスに描かれた長閑な田園風景にゴム製の自動車が点在する
「田舎」に完全に偽装されていました。

動物がいる小さな農場、納屋、サイロなどの建物。
何百本もの木や灌木は、針金に接着剤をつけ、葉っぱには鶏の羽を使って、
さまざまな色の緑(茶色の斑点もある)に塗られ、
エアダクトは消火栓のように塗装されました。

キャンバス地の切れ端や配給箱、麻ひもをチキンワイヤーに貼り付けたデコイ機、
平らにしたブリキ缶などは、近くで見ると全く本物に見えないのに、
遠くから見ると目を欺くには十分でした。

おそるべしハリウッド。

しかし、一番お金がかかったのがロッキードで、他の、
コンソリデーテッドなどは偽装網をかけるだけで十分でしたし、
たとえば石油貯蔵タンクなどは、この写真のように、

【石油タンク隠し】

ごく簡単に偽装のための屋根をかぶせてカムフラージュしています。



タンクに屋根をかぶせているのですが、よく見ると家には見えません。
しかし、パイロットの目を一瞬欺くことができれば十分です。

【カモフラージュの下の世界】

上をカモフラージュで覆われていると、したの通路はこんな感じです。
まあ、日除けにはなったかもしれませんが。

結局ボーイング社の屋上は、53軒の住宅と10数軒のガレージ、温室、
サービスステーション、店舗で構成されていました。
それら建築物の幅と長さは実物大のままでしたが、
スピードとコスト、そして戦時中の物資不足を考慮して、
高さだけが6フィートとなりました。
高速で飛行する航空機からは高さまでは把握できないからです。

オーマーの「策略」にまずひっかかったのは味方のパイロットでした。
陸軍とハリウッドのスタッフは、要するに
パイロットを数分間混乱させさえすればいいというクォリティで
この「イリュージョン」を作り上げたのですが、
ダグラスを探す味方のパイロットたちは、見慣れた風景がなくなって
当初迷子になったりしたと言いますから、
関係者はそんな話を聞くたびにおそらく快哉を叫んだに違いありません。

もちろん、そのマジックが効果を持つのはせいぜい1万フィートの高度からで、
低空で着陸態勢に入ると、フェイクであることは丸わかりとなるのでした。

そして、それなりの「公害」もありました。
雨が降ると、塗料が染み込んだ羽毛はひどいにおいを放ち、暖かくなると、
緑色のタールでコーティングされたモコモコした羽毛が漂い、
工場から出荷されたばかりの飛行機に付着しました。

最後に、これはいわゆるつまらないアメリカンジョークの類です。

この仕事で特に中心となって仕事を受けたのはワーナーブラザーズでしたが、
そのため、社長のジャック・ワーナーは、ロッキードに媚びるあまり?
自社施設でロッキードの代わりに飛行機を作っているのだろうと思われかねないと、
ワーナーの社屋に「ロッキードはあちら→」と描かせた、
という嘘のような本当でない噂が関係者の間で流れたそうです。


続く。



第一次・第二次世界大戦の空撮写真(の名作)〜スミソニアン航空博物館

2022-02-19 | 博物館・資料館・テーマパーク

イーストマン・コダック提供によるスミソニアン博物館のシリーズ、
「軍事偵察写真」のコーナーをご紹介しています。

今日は、偵察写真の歴代「名作」を取り上げます。

スミソニアンにはこのように歴代の空中写真が説明付きで展示されています。

【第一次世界大戦の塹壕】



フェアチャイルドが開発した航空機空撮用カメラで撮影された
第一次世界大戦の戦線の写真です。
至る所に這うように伸びているジグザグの線は、塹壕を表します。

第一次世界大戦が「塹壕戦」であることを何より証明するこの写真は、
おそらくこの戦争における空撮写真の最高傑作と呼ばれています。


【フェアチャイルドKー3Bカメラ】



前回まででK-2までをご紹介してきましたが、
第二次世界大戦で主要な航空カメラとなったのが1920年代に開発されたK-3Bです。

垂直・斜め方向に撮影をし、合成画像で地上写真を作成しました。
手動と電動があります。

【フェアチャイルドK-20カメラ】


K-20は、第二次世界大戦中に使用された軽量の手持ち式航空カメラです。
高速シャッターを搭載し、1941年から1946年まで使用されました。


【Dデイ〜ノルマンジー上陸作戦】



ノルマンディーの海岸で繰り広げられている戦闘のはるか上空で、
飛行機は偵察風景を記録していました。


侵攻に先立ち、敵の防衛状況を詳細に把握するため、
大規模な写真解釈作業が行われています。


【遠すぎた橋 A Bridge Too Far】



映画「遠すぎた橋」で有名になったナイメーヘンのワールリバーの橋。
1944年9月20日、多くの犠牲を払った末連合国軍によって攻略されました。

28行でわかる「マーケット・ガーデン作戦」

ノルマンディー上陸作戦後、パリを解放しベルギー領内にまで達して
順調かに思われた連合国軍は、補給拠点確立に失敗し、足が止まってしまいました。

そこで、港湾都市を確保し、英国-欧州間の兵站を早急に確立するために、
英国軍バーナード・モントゴメリー元帥は、オランダへと進み、港湾施設を奪取後、
ルール工業地帯を突破してドイツの継戦能力を失わせるという作戦を立案します。

連合国軍側最高司令官であるアイゼンハワーもGOサインを出し、
ナイメーヘンを含むオランダの各都市奪取のために、
そのために空挺部隊による降下作戦『マーケット』作戦
アーネムまで4日で進出する『ガーデン』作戦を実施することになります。

ちなみにアーネムまでは200キロありましたが、
これを4日で突破というのはなかなかにして無理ゲーだと思われていました。

おまけに、現地のこの写真には何の説明もなかったのですが、実は
作戦開始直前、連合国は軍偵察により最北のアーネム郊外に
SS装甲師団が配置されていることが確認されていたはずなのに、
なぜかこの写真は破棄され、情勢が部隊に伝わらなかったのです。

案の定、空挺作戦は降下場所が目標通りでなかったり、装備を失ったり、
ミスで無線機が使えなかったり、時間通りに出発せずに予定に遅れたり、
捕虜がドイツ軍に作戦書類を渡してしまったり
、という体たらく。

ドイツ軍は囮の意味でこの橋を落とさなかったため、
連合軍は待ち伏せされているところに正面突破を試み、猛攻に曝されてしまいます。

その後色々あって橋を確保できないままジョン・フロスト中佐
(アンソニー・ホプキンスが演じた)率いる部隊は弾薬が尽きて降伏。

アーネムに降下した英国空挺師団1万名のうち、7千名が捕虜になり、
全滅判定を受けることになりました。
最終的に投入した3万5千名のうち、半数を戦死・捕虜で失ったことになります。

アーネム橋は作戦失敗後、連合国軍が爆破しました。
戦後「ジョン・フロスト橋」という名前で再建され、
今現在もその名前のままです。


現在のジョン・フロスト橋。
かつて先人たちが苦労した空撮も、今はクリック一つで画像が手に入ります。

【V-2ロケット基地】


第二次世界大戦中、ドイツのロケット研究の拠点となった
ぺーネミュンデを撮影した偵察写真です。

ロケットとはあのV-2ロケットのことで、戦後アメリカで
ロケット開発を行ったヴェルナー・フォン・ブラウン博士がいました。

もともとドイツは(というかフォン・ブラウンのいた民間組織は)
宇宙旅行のために液体燃料ロケットを研究していたはずなのですが、
陸軍がその民間に出資をして陸軍兵器局で研究を続けるよう勧誘したのです。

科学者ヴェルナー・フォン・ブラウン 
Wernher Magnus Maximilian Freiherr von Braun(1912 - 1977)
は陸軍のために研究と実験を繰り返し、
V2の開発に成功しますが、それを察知したイギリス軍情報部は
早速ペーネミュンデの写真偵察を行いました。

その時に撮られたのがこの写真です。



画面の左上の白い部分に矢印がありますが、
この矢印が示しているのは横に寝た状態のV-2ロケットです。

この偵察をもとに、連合軍は1943年8月から「ハイドラ作戦」によって
ペーネミュンデを数回にわたって爆撃し、研究と生産を遅延させました。


左手にギプスしているのがフォン・ブラウン博士。
みんな(´・ω・`)としていますが、それもそのはず捕虜になった後の写真だそうです。

左の帽子の人物はロケット推進者で科学者、
ヴァルター・ロベルト・ドルンベルガー(1895-1980)

アメリカ軍の捕虜になった後、他の多くのドイツ人技術者のように
オハイオのライト・パターソン空軍基地でアメリカ空軍の顧問を務めました。

ベル・エアクラフトでは、ロケットで宇宙空間に出て
マッハ5の超音速で帰還するというX-20の開発計画相談役を務めています。
これはのちのスペースシャトル計画の先駆けとなるものでした。

そして、前にも書きましたが、ヴェルナー・フォン・ブラウンは、
ジュピターなど人工衛星打ち上げやサターンロケットの開発を行いました。

もともと「宇宙旅行のためのロケットを作りたかった」彼は
手段のためなら悪魔に魂を売り渡してもいいと思った
とナチスに協力したことをこのように言ったそうですが、最終的に
アメリカに来ることで、その夢を実現させたことになります。

【モンテ・カッシーノ】


モンテ・カッシーノは、1944年の初期に連合軍が
集中的に空爆・攻撃を行った場所でした。

当ブログでも、ナチスの略奪した美術品というテーマの時に、
連合軍によって破壊された歴史的な街、としてここを紹介したことがあります。



イタリア南西部にあるモンテ・カッシーノの大修道院が破壊されていく様子が
航空写真で克明に映し出されています。

【太平洋の激戦地】


『クワイ川の橋?』


タイのクウェーヤイ川に架かるこの橋は、
日本軍の補給路の要として捕虜たちによって建設されました。
1945年2月、アメリカ軍のB-24飛行隊によって爆撃され、
落下している様子が捉えられています。

ん?タイならクウェーヤイ川じゃなくて「クワイ河」って読むんじゃないの、
と思った方がもしかしたらいるかもしれませんね。

たしかに「クワイ河」なら、「クワイ河マーチ」なんてのもありますし、
映画を見てご存知の方も少なくはないかもしれません。

「クワイ川に架かる橋」
(The Bridge over the River Kwai)
第二次世界大戦中、日本軍によって橋の建設を強制された
英国人捕虜の苦境を描いたフィクションですが、
これは、名前が似ているだけで全く違うものだそうです。

そもそもクワイ河という河は存在しておりませんし、
当時もこの川は「クワイ・ヤイ」などと呼ばれていたわけではなく、
それどころか「メークローン河の一部」で、固有の名前がなかったのです。

ところが、映画がヒットしたため、現地では、フィクションのイメージを
現地の観光資源にできるとでも思ったのか、
1960年になって、わざわざ「クワイ・ヤイ」と映画に寄せて命名したのです。

これが本当に「クワイ川」ならば歴史的な写真に違いなかったのですが、
いろんな点で微妙にハズしているといえなくもありません。

補給のために日本軍が設置したからこそ米軍が爆破したわけで、
捕虜を使役したのも間違っていないかもしれませんが。

ちなみに、鉄道建設中に亡くなった捕虜たちの墓も近くにあるそうです。

コレヒドール

フィリピン北部のマニラ湾口に位置する戦略的な島、コレヒドール。
米軍とフィリピン軍は1942年5月に日本に降伏し、
約3年間日本軍の駐留地となっていました。

ラバウル

南太平洋、ニューギニア島の東に位置するラバウルは、
1942年1月に日本軍に占領され、海軍と航空隊の重要な拠点となっていました。
火山に囲まれ、優れた港を持つこの日本軍の拠点は、
アメリカ軍の度重なる空爆の標的となり、最終的には無力化されることになります。

ソロモン諸島

ソロモン諸島は、ニューギニアの東に位置する南太平洋の島々です。
第二次世界大戦中、ガダルカナル島をはじめとする
ソロモン諸島の島々は日本軍に占領されていました。



ジャングルにおけるどちらにとっても過酷な戦いの結果、
1943年にアメリカ軍は島を奪取しました。

写真には島の先端に見えるのは大型の艦船でしょうか。


【アウシュビッツ】



1944年に航空偵察で撮影されたポーランドのアウシュビッツ収容所の様子。

1 処刑の壁
2「ブロック11」懲役ブロック
3 受付ビル
4 受付を待つ囚人の列(蛇行した線が見える)
5 収容所厨房
 6 ガス室と死体焼却所
7 収容所管理棟
8 収容所司令室
9 収容所長の官舎


続きます。





「バグリーの3レンズカメラ」と「ゴダードの法則」〜スミソニアン航空博物館

2022-02-17 | 博物館・資料館・テーマパーク

スミソニアン博物館の「The Sky Spies」軍事航空偵察のシリーズから
続きをお送りします。

【陸軍偵察航空】

■ジェイムズ・バグリー3レンズカメラ

第一次世界大戦の頃、航空機からの写真を撮るために、
こんなカメラが開発されたことがあります。


なんかこういうシェイプの海洋生物いるよね?って感じですが、
キモは先端に角度を変えて設置された三つのレンズ。

アメリカ陸軍のエンジニアだったジェイムズ・バグリー
1917年に普及させた、「スリーレンズカメラ」です。



ジェームズ・ウォーレン・バグリー少佐(James Warren Bagley 1881~1947)
は、アメリカの航空写真家、地形工学者、発明家です。

第一次大戦に招集されるまで地質調査所の職員だったバグリーは、
アラスカの地形を記録するため、他の二人の地質学者と共同で
このカメラのアイデアを考案しました。

これはどういうものかというと、垂直方向に1枚、斜め方向に
2枚の写真を撮影することで、それまでの単レンズカメラにはできない
広範囲の写真を画像に残すことができるというものです。


3レンズカメラによる地上写真。
上がそれぞれのレンズの捉えた写真で、下のように
「合成」して地形を把握します。

偵察写真を素早く現像するために、飛行機を降りたところに
「ポータブルラボ」なるラボラトリーがセッティングされることもありました。

現像用とプリント用に分かれた部屋を備えたテントは、自家発電機を備えており、
1時間に200枚のプリントを処理することができました。


偵察機そのものにポータブルラボが搭載されている例もありました。
これなら迅速に現像処理ができますね!

レンズを三眼使ったこの空撮用のカメラは、
アメリカ陸軍が関与してきて実験を指導したようです。

この3眼マッピングカメラを製品化したのが、
前回お話ししたフェアチャイルド航空カメラ社でした。
「T-1」「T-2」「T-2A」はいずれもこの製品化されたものです。

T-2Aは垂直レンズ1枚と35度に設定された斜めレンズ3枚で、
飛行方向に直角な120度の視野を確保していました。

陸軍が関与したせいで、バグリーは工兵隊の大尉に任ぜられ、
後に少佐になりましたが、1936年には中佐の位で軍を引退し、
地理探査研究所の講師に就任しています。

軍には便宜上所属したものの、それは目的ではなかったということでしょう。

その後彼はオハイオのライト飛行場のエンジニア部門の責任者となり、
軍事用途の航空写真の研究を重ねて写真測量の基礎を作りました。

このときに開発した「T-3A」5つのレンズを持つカメラで、
2点の距離が分かっている地質学者が残りの距離を計算すると
2次元の平面地図を作成することができる機能を持っており、
第二次世界大戦中に活躍しました。


5つのレンズ(四方と真ん中の写真)を持つT-3の画像。
3つのレンズでうまくいったからレンズを増やせばいいんじゃね?
的な発想で増やした結果です。
欠けたところは想像力で補っていたのでしょうか。

このT-3Aカメラでは、約640四方キロの範囲の撮影が可能です。
面積測定マップから作成された仮の地図から、標高を求め、等高線を埋めていく。
陸軍の地形大隊は1日に160平方キロ以上の
等高線の地図を作成することができるようになり、
戦場でのマーキングやターゲティングに欠かせない技術となりました。


ただしプリントされた5レンズのカメラの画像は、
体育館に並べていたようです。
これもう少しなんとかならなかったのかしら。
足の踏み場もないとはこのことだ。


スミソニアンには陸軍軍人がポータブル暗室を使っている模型もあります。
偵察機に搭載されたフィルムを迅速に処理するためのもので、
時には一刻を争う状態で情報が必要になる戦場では、
「写真通訳」が偵察任務に同行して、飛行中に現像されたフィルムを
直接目視で分析して無線を送るということもなされていました。



使われた年代は第二次世界大戦中。
偵察機に搭載され、フィルムを即時処理しました。
内部が「暗室」となっており、大きく穿たれた穴から両手を入れて作業します。



最終的にバグリー大佐はハーバード大学の講師となり、
そこでいくつかの論文と本を執筆する余生を送りました。
その時に執筆した記事の中で、こんなことを書いています。

「航空写真部隊は、軍事作戦中の空軍において、2つの目的を持っている。
第1に、敵地の軍事地図を提供すること、
第2に、敵の軍隊や装備の動きに関する詳細な情報を提供することである」

当たり前すぎて何を今更、という記述ですが、
バグリー中佐以前にはこの方法はなかったところがポイントです。

戦後は、この目的のために、より高高度から偵察する航空機に合わせて、
カメラはより大きなものが搭載されていくようになってきます。




■海軍・航空偵察の先駆 ジョージ・ゴダード准将



ジョージ・ウィリアム・ゴダード准将(George William Goddard 1889-1987)
もまた、航空写真の先駆者とされています。

イギリスに生まれて帰化したイギリス計アメリカ人で、
グレン・カーチスの飛行を目撃してから航空に興味を持ったそうですが、
陸軍信号隊の航空に入隊する前は、
フリーランスの漫画家をしていたという変わり種です。

コーネル大学で軍事航空学校の航空写真コースに入ったのは、
航空の興味と漫画家という前職が関係あるかもしれません。

機上でカメラを扱う彼に感銘を受けた 、あの
ビリー・ミッチェル将軍の勧めで空中写真の研究担当になった彼は、

赤外線や長距離写真、特殊な空中カメラ、写真機、携帯用野外実験装置

などを研究制作します。

1921年にミッチェルは、以前もここでお話しした、
航空機による軍艦爆破実験を行いますが、
この報道写真撮影を指揮したのは、他ならないこのゴダードでした。


また、1925年には夜間の偵察写真開発のために
80ポンドのフラッシュパウダー爆弾に点火して街全体を照らし出し、
世界初の空中夜景写真を撮影しています。


その時の写真がこれ。

夜間撮影されたとはとても思えないような鮮明さです。
この撮影はNYのロチェスター州の上空で行われ、
近隣の人々はそのフラッシュに驚かされた、と記録にあります。

ゴダードはこの時の夜間撮影の方法の特許を取り、
1950年代までこのシステムは使用されていました。

その後ゴダードは立体写真、高高度写真、カラー写真の先駆者となり、
フィルムストリップカメラを開発します。

ゴダード(左)Kー7カメラ(真ん中)


画面中央に写っている煙はカモフラージュのための煙幕ですが、
ゴダードの技術にあっては対空陣地の撮影はご覧のように可能でした。


【海軍に移籍】

ゴダードはまた偵察写真にカラー、動画のの手法も取り入れました。

彼とそのチームは100機のP-38ライトニングをF-4規格に改造しようとします。
んが、当時USAACの写真部長だったミントン・ケイ中佐と(個人写真資料なし)、
公的にも個人的にも激しく対立したゴダードは、中佐の策略によって
性病対策のセクションに追いやられてしまいました。

しかし海軍が、彼の開発したストリップカメラ(日本語ではスリットカメラ
カメラのレンズとフィルムの間にスリット(細い隙間)を設け、
撮影中にフィルムを巻き続けることでカメラの前方を通過する被写体を
1本のフィルムに連続的に撮影する手法)

が太平洋での水陸両用作戦に役立つと考えていたため、
ゴダードは引き抜かれる形で、この件以来海軍に転職することになるのでした。


海軍でゴダードは、F-8モスキートをレーダー撮影用に改造したり、
エドガートンD-2スカイフラッシュを使った夜間撮影の開発を支援しました。

そして自分を窓際に追いやった天敵に復讐することも
決して忘れていませんでした。


エリオット・ルーズベルト(ちなみに結婚歴5回)

当時同じ偵察隊にいたルーズベルト大統領子息の
エリオット・ルーズベルト大佐補佐して、
ストリップカメラを導入させることに成功した後は、大佐を巻き込み、
2人でケイ大佐をワシントンのポストから外すことを要求する手紙を大統領に送り、
そのせいで、ケイは昇格を目前にしてインドに左遷されることになりました。

ケイ大佐がその後も不遇を託つことになったのはいうまでもありません。

(-人-)合掌

「寄らば大樹の陰」あるいは「虎の子の威を借る狐」というべきなのか。
アメリカ軍も相変わらずドロドロしているようですな。

天敵を葬り去ったその後のゴダードのキャリアは順風満帆で、ついには
ハップ・アーノルド将軍の寵愛を受けることになりました。


パリが解放されると、ゴダードはパリに司令部を設置し、
戦地の米空軍の偵察開発を主導し始めました。

パリではF-6マスタングにステレオストリップカメラを搭載する実験を行い、
ドイツが占領されると、シュナイダー光学工場、カール・ツァイス社、
そしてショットAG社の工場を買収してデータや資料を押収し、
多くの光学科学者を説得して西側に移住させたりしています。

冷戦期、朝鮮戦争期間にも彼は夜間撮影システムの革新を試み、
悪天候下での低高度ジェット機の運用に大きな成果を上げて、
アメリカ写真家協会から写真学修士の名誉学位、
写真家としては最高の栄誉とされたジョージ・W・ハリス賞を受賞しました。

この賞は、航空カメラ、機材、技術の開発を監督し、
航空写真の芸術に貢献したことが評価されたものです。


ゴダードは自分で言ったのかどうか知りませんが
「ゴダードの法則」なるものを遺しています。
それは、

「偵察の優先事項において、焦点距離
(focal length)にとって代わるものはない」

これも何を今更、って感じですが、当時としては画期的な理論だったのでしょう。

続く。




A BIRD'S EYE VIEW 軍事偵察の航空史〜スミソニアン航空博物館

2022-02-13 | 博物館・資料館・テーマパーク

さて、「フライング・レザーネック航空博物館」シリーズも終わったので、
次シリーズとして、今度はスミソニアン博物館の展示から、
軍事航空偵察に関するテーマでお話ししようと思います。

「歴史を通じて、我々は世界を上空から見ることによって
自ら住む世界をよりよく理解しようという欲求を持ち続けてきました。

最初に木や丘、要塞の塔に登り、高みから土地を観察します。
今日、航空機と宇宙船は地球を見下ろして、天気を予測し、地形を調査し、
作物を、森を監視し、都市を計画し、資源を見つけ、情報を収集しています。

気球から航空機、そして宇宙船と進化していく過程で、
我々は自らをさまざまな目標や課題に沿って高みへと押し上げているようです。

それでも、これらのスリリングな冒険に参加した多くの人は、
最後には「我が家」を振り返ることを忘れませんでした。」

こういう文章で始まるこのコーナーのスポンサーは、
聞いて納得、イーストマン・コダック社です。

■ バーズ・アイ・ビュー(鳥瞰)

人類の歴史に写真が登場すると、それはすぐに空に飛ばされ、
スパイの成果を残す手段として使われ始めました。

それまでは高いところから地形をスケッチするしかなかったわけですが、
この新技術使えばそれ以上の高いところから偵察できるんでね?
と言うことに世界中の人々が気づくのに時間はかかりませんでした。

【フォトカイト(カメラ凧)】



1895年にアメリカ陸軍の一中尉が行なった凧写真の実験風景。
この凧の糸の先にカメラを取り付けました。



糸の先につけられていたカメラがこれ。
結局180mの高さからの撮影に成功したそうです。


そのときの写真。
当時のカメラで遠隔操作してこのピントの合い方はすごいと思ってしまった。

【フォトロケット】



この頃、「ロケットカメラ」なるものが設計されていました。
1888年にフランス人のアメデ・ドニース(Amédée  Denisse)が考案したもので、
この種のものとしては史上初めてのデザインとされています。

ロケットのノーズコーンの下に12枚のレンズを持つカメラが装着されており、
フィルムを露光した後、カメラとロケットはパラシュートで地上に帰還する仕組み。

このドニースという人はイラストレーターで写真家、発明家だったそうですが、
このロケットが実際に作られたかどうかまでわかっていません。



また、ノーベル賞に名を残す、アルフレッド・ノーベル
1897年に「フォトロケット」を発明しています。


アルフレッド・ノーベルが発明したフォトロケットで撮られた
1897年のある日のスェーデンの村の鳥瞰写真。
ノーベルは当時、気球を使ったカメラの実験もしていたそうですが、
これはロケットの方で、高度は100メートルだったそうです。

なんか現在のトイカメラみたいな画像になっていますね。


アルフレッド・ノーベルのフォトロケット設計図。
当時にしてはすごい発明(だと思う)。


それから10年経過して、フォトロケット系の発明では
パイオニアと言われているドイツの
アルフレッド・マウル(Alfred Maul 1870–1942)
が1904年に撮った空中写真がこちら。
ノーベルのとは段違いに画質が良くなっています。

マウルはドイツの技術者であり、航空偵察の父ともいえる人物です。
実験はともかく、実用化した人がほとんどいなかったロケットに
カメラを取り付けて大地を撮影するというアイデアを思いつき、
実行に移した実業家で、自身の工場を持っていました。

1903年、彼は「マウル・カメラ・ロケット」の特許を取得しています。
カメラは黒色火薬のロケットで空中に打ち上げられ、
ロケットが高度600~800mに達した数秒後に、上部が開き、
カメラはパラシュートで降下する仕組みになっていました。
撮影はタイマーで行われる仕組みでした。


右側のがロケット発射台。

これを軍事利用する動きになったのは当然の成り行きでしょう。
1906年、軍人たちの前で極秘のデモンストレーションが行われ、
マウルは軍事偵察のためにさらに発展型のカメラロケットを披露しています。

1912年、マウルのロケットカメラは、20×25センチの写真プレートと、
安定した飛行と鮮明な画像を確保するため、
ジャイロスコープによる操縦を採用したものへと進化していました。
ロケットの重量は41キロと大変重いものでした。

このころには運用はドイツ軍が行なっていたようで、
写真に写っているのも軍人です。

まさかとは思うが右の人の持っているのがロケット?

ただし、彼の発明が脚光を浴びたのは航空機の発達まででした。
第一次世界大戦では、従来の飛行機が空中偵察の役割を果たしたため、
マウルのロケットは軍事的な意義を持たなくなり、
彼の発明品はその名前とともに忘れられていきます。


しかし腐ってもパイオニア、メダル受賞各種

■ 鳩カメラ(Miniature Pigeon Camera)


1903年、ユリウス・ノイブロンナー博士( Dr. Julius Neubronner )は、
タイミング機構で作動するハトのミニチュアカメラの研究を始めました。

これが本当の「バーズアイ・ビュー」写真です。

凧はカメラを搭載できますが、欠点は動きや速度に大きな制限があったので、
より速く、より活発な空中偵察が必要となったのです。

薬屋であり、ハト愛好家でもあったユリウス・G・ノイブロンナー博士は、
1907年、ドイツの特許庁に「ハトカメラ」を提出しました。


鳩とおじさま

彼はそれまでも、フランクフルト近郊の自宅から数キロ離れた療養所との間で、
ハトを使って処方箋や緊急の薬の交換を行っていました。
鳩の帰巣本能はかなり確実なもので、あるときノイブロンナー鳩が
1ヶ月も行方不明になったあと無事に厩舎に帰還するという事件があり、
この出来事をきっかけにノイブロンナー博士が思いついたのが、
宅配便の飛行を記録するために、鳩が身につけられる軽量のカメラです。


ハトグラファーたち(誰うま)

ノイブロンナーは、一定の間隔でシャッターを切るための空気式タイミング機構、
革製のハーネス、アルミニウム製の胸当てなどを備えたモデルを試作しました。


鳩グラファー用装備設計図

60マイル離れたところから鳩を放すと、鳩は最も近道を通って帰宅します。
重荷なので寄り道もしないというわけですね。
博士は機動性を高めるために、暗室を備えた鳩舎を作り、
鳩が持ち帰ったフィルムを即座に現像できるような工夫も加えました。


しかし、この申請に対しドイツの特許庁は、当初、
「家鳩では75gの荷物は運べない」という理由で出願を却下しました。

ノイブロンナーは論より証拠の写真を並べて反論します。


羽が・・・・写ってます。

この写真で写っているのはクロンベルグのシュロス・ホテルだそうですが、
勇敢な作者の翼端を偶然にも撮影したことで特に有名な一枚です。






こっちを見ている人が写ってます


Google マップ並み



もしかしたら屋根の上で休憩中?

そんな努力の甲斐あって、特許庁は1908年にようやく申請を許可しました。
この発明は、1909年から11年にかけてドレスデン、フランクフルト、
そしてパリで開催された博覧会で発表され、世界的な注目を集めることになります。

ドレスデンでは、カメラを搭載した伝書鳩の到着を観客が見守ることができ、
撮影された写真はすぐに現像されて絵葉書として販売され好評を博しました。

当時としては全く画期的な「鳩写真」。
特に、ドイツ軍はこの映像を十分に評価し、
西部戦線の戦場で鳩カムのテストを行うところまででした。

しかし、ロケットと同じく、飛行機による偵察が急速に進歩したため、
ノイブロンナーの鳩はメッセージを伝えるという伝統的な役割に終始しました。

■ 気球(Baloons)



タデウス・ロウ(Thaddeus Lowe)
なぜかこの名前にものすごく聞き覚えのあるわたしです。

しかし残念ながらそれ以上の記憶がなかったので、自分のブログ内検索で
この名前をかけてみたところ、南北戦争時代に
気球部隊を陸軍に作るため、携帯用の水素ガス発生器を開発させた人でした。

ロウは気球偵察のパイオニアという称号を持っています。



ロウは南北戦争中、戦場の上空を飛んで部隊の動きを観察していました。
この写真では、北軍の将校が味方しかいないと予想していた地域に、
南軍の連隊が接近したことを報告しているところだそうです。


1860年、気球カメラで撮られたボストンの街。
ジェームズ・ウォレス・ブラック(James Wallace Black)
高さ1,200フィートの気球から撮影したものです。


なまじ知らない街でもないので、どの部分を撮ったか調べてみました。
この楕円を左上空から見たのが気球の写真です。
当時の建物でこの写真に残っているのは、左の
パークストリート教会の白い塔でしょう。
空撮写真の左の方に見えています。
高さ660mなので当時はその辺で一番高い建物でした。


ボストンの革新的な写真家・肖像画家であったブラック(1825-1896)は、
ボストンコモンに繋がれていたサミュエル・アーチャー・キングの熱気球、
「Queen of the Air」号に乗り込み、ガラス板ネガを露光しました。

撮られた写真は
「Boston, as the Eagle and the Wild Goose See It」
(ボストン、鷲あるいはワイルドグースの見たまま)
と題され、アメリカで初めての航空写真となったのでした。


気球を開発したキングは、何度も墜落するなどの実験の失敗を重ねながら、
「クィーン・オブ・ジ・エアー」を飛ばしました。

そのうち気球は人々の関心を集め、博覧会や巡回ショーなど、
大きな行事の目玉となっていきます。
アメリカが建国100年を迎えた1876年には、キングは
記念博覧会が開催されていたフィラデルフィアからたくさんの気球を飛ばしました。

彼はアメリカ東部のほぼ全ての都市から気球をあげるという
実績を積んでおり(合計450回以上といわれている)、
その旅に毎回のように写真家を同行させていますが、
ボストン上空を撮影した写真家、ブラックはその最初の一人として、
歴史に名前を残すことになったのです。

冒頭の写真はスミソニアンの展示で、説明が見当たらなかったのですが、
おそらくこのときのカメラマン、ブラックだったのではないでしょうか。



1907年、気球のカメラから撮られた最初の空撮写真。
ワシントンD.Cです。

その後も人類は、空から見た風景を記録に残すべく、より高く、
さらなる高みへと、技術と経験を積み重ねていくことになります。


続く。


MATCALS(海兵隊航空管制&着陸システム)〜フライングレザーネック航空博物館

2022-02-07 | 博物館・資料館・テーマパーク

フライング・レザーネック航空博物館の展示紹介、いよいよ最終日になります。

最後に残ったのは航空博物館には非常に珍しいものなのですが、
その紹介の前に、この時滞在していたホテルからの
サンディエゴ軍港の眺めを貼っておきます。


ホテルはミッドウェイ博物艦から歩いて5分の距離でした。



このときはまだコロナ前で、普通にミッドウェイは観光客で賑わっています。


甲板の上に展示されている航空機も、名前がわかるくらいの近さです。



ミッドウェイの甲板の向こうには「カール・ヴィンソン」が。
この頃にはサンディエゴを母港として海自との合同訓練をしていました。

今年の夏から横須賀に来ており、10月には
日米英蘭加新共同訓練に空母「ロナルド・レーガン」などとともに参加し、
英海軍空母「クイーン・エリザベス」を中心とする空母打撃群CSG21、
海上自衛隊護衛艦「いせ」などと訓練を行っています。


手前から「ロナルド・レーガン」「クィーン・エリザベス」
「いせ」「カール・ヴィンソン」。
米英の巨大空母と比べるとなんて可愛らしいの、「いせ」。


隣で修復中?
「セオドア・ルーズヴェルト」。
やはりこのころ、日本海で日米共同訓練を終わって帰ってきたところです。


パンデミックでは結構えらい目にあったようです。

2020年3月24日、3人の水兵がCOVID-19に陽性反応を示し
その後数十人にまで感染は蔓延。
なんと「セオドア・ルーズベルト」は、洋上でCOVID-19が発生した
米海軍初の艦船に認定されてしまいました。

感染者が100人を超えたため、艦長のブレット・クロージャーは海軍に助けを求め、
上司である太平洋艦隊の提督・艦長10人にメールを送り、自艦の退避を要請。

それに対し、トーマス・モドリー海軍長官代理が、
「電子メールで支援要請を、しかも指揮系統上ではなく『幅広く』送った」
としてクロージャーの指揮権を剥奪し、さらに
その対応がプロらしくないと非難しました。
このあと乗員を前にした演説で前艦長のことを
「あまりにも愚か」と発言し、一部の乗員が罵声を浴びせた音声が流出し、
これが原因でモドリーは辞任しています。

その後乗員の陽性反応は585人に表れ、ついに一人が死亡。

隔離と検査を繰り返し、一旦は1000人近くが陽性反応だったのですが、
発生から1ヶ月半の5月21日に「セオドア」は海に戻りました。

クロージャー艦長は復職が期待されていましたが、
結局措置はそのままになりました。


ドーム状の建物の向こうには航空機が見えることから、
これは格納庫ではないかと思われます。



さて、余談はさておき、最後のFLAM展示はこれです。
迷彩柄にペイントされた巨大アンテナ付きのコンテナ。


これ関連の設備の配置図はご覧の通り。
レーダー付きのコンテナ、なしのコンテナ、
そして何かわからないもの。


この何かわからないものを横から眺めてみました。



プレートを読めば何か手掛かりが見つかるかな?



AN/TPS-73
AIR TRAFFIC CONTROL SUBSYSTEM

なるほど、こいつは海軍の宇宙海洋戦システム部門が開発したもので、
航空管制のサブシステムであるらしいことがわかりました。

AN/TPS-73は、完全なソリッドステート(SSD)の
一次監視用S-Band多機能レーダーの機種で、
長距離戦術航空管制レーダーとして、ギャップフィリング(間隙埋めって何)
や監視任務に使用することができます。

このシステムは、不明瞭なレーダースクリーンや電子対策が施された環境での監視、
検出、追跡、識別という航空管制上の要求を満たすように設計されています。

サバイバビリティ、軍事的優位性に必要な静音性に優れたレーダー特性を実現し、
監視領域全体で高い目標視認性が確保されるという優れものです。



アレーニア社製のオープンメッシュで先端を切り取ったパラボロイド・アンテナは、
クラッター性能を高めるためにデュアルビームで照射されます。

「AN/TPS-73は約3mのISOシェルターに格納されており、
アンテナ関係の部品を輸送中に保管することもでき、
陸、海、空(C-130、CH-53)で輸送が可能です」


とありますから、つまりこれそのものがシェルターで、
同時にアンテナ機器のコンテナであろうと思われます。

AN/TPS-73は、1990年に海兵隊が購入し、イラク戦争でも使用されました。

そして、TPS-73レーダーは、USMCの
Marine ATC And Landing System(MATCALS)
の一部ということになります。

ここにある三つの構造物がそのMATCALSで、
バリバリイラク帰りの退役装備なのです。


MATCALS(マトカルズ)の正式名称は、

Marine Air Traffic Control & Landing System
(海兵隊航空管制&着陸システム)


となります。



装備のセッティング例。



イラクでの使用例。

左にさきほどのTPNー22レーダーがあります。
このレーダー、つまりPrecision Approach Radar(PAR)ですね。

航空機のパイロットが着陸する際に、着陸しきい値に達するまで、
横方向と縦方向の誘導を行うためのレーダー誘導システムの一種です。

PARのディスプレイを監視しているコントローラは、
各航空機の位置を確認し、最終接近時に航空機が
コースとグライドパスを維持するようパイロットに指示を出します。


これにより、このパラボラアンテナが付いた装備を

TPS-73
AIRPORT SURVELLANCE RADAR(ASR)

(エアポート・サーヴェイランス・レーダー)

と呼ぶことがわかりました。


空港監視レーダー(ASR)は、空港で使用されるレーダーシステムで、
空港周辺空域の航空機の存在と位置を検出して表示する機能を持ちます。

一般の空港においても主要な航空管制システムで、大規模空港だと
安全性のため、一次監視レーダーと二次監視レーダーで二重に構成されています。



アンテナのついていないコンテナもあります。


土方セットは砂漠では必需品なのかも。
どういう場合に使うのかはっきりわかりませんでしたが、
もしかしたら砂でドアが開かなくなったりするのでしょうか。
入り口にあるからには、しょっちゅう使う事情があったものと思われます。



ドアには内部の見取り図が貼ってあります。
この猫の額のようなコンテナに入っていて非常口がわからなくなる事態とは一体。

右下は室内の脱出口が記されています。
ファーストエイドキットにカンテラランプ。

もしかしたらこれ、外側からの救出なんて事態もあるかもってことかしら。



任務中ずっとここに立って戸を締め切って機械に囲まれる生活。
一歩外に出ればそこは灼熱の砂漠。
これはなかなか辛いものがあるかもしれません。
何人でオペレートするのか知りませんが、一人だったら寂しいだろうし、
気の合わない人や嫌な上司と一緒だったらもはやそこは地獄。


そしてこのモニターをずっと監視しているわけですねわかります。



レーダー、アンテナなどの操作パネルですが、
さりげなくもう昔の機器という感じの佇まいです。

赤いパネルには、

危険!
フレームや露出した金属部分がすべて接地されていない状態で、
この機器を使用しないでください


とかかれています。
金属部分が全て設置されていない=アースがされてない
ってことかな。


展示のために、表面はすべてアクリルガラスで覆われていました。


これは発電のための電池群だと思われ。
一つの大きな電源でなく小さいのがたくさん、というのは
リスク回避のためでしょうか。


ん?こんなところに落書き?と思ったら・・・、



なんか重要なことなのでマジックで直接書いたようです。
アメリカ人、こういう数字の書き方する人多いですよね。
4だか9だかわからないこともあるんだこれが。



機器のステータスボードですね。
ラジオ、電話、インターコムと全てボタン式なのが時代を感じさせます。


ボードのラック




建物上部には空調のファンが見えます。
「一般目的コンピュータ」「特別目的コンピュータ」と分かれており、
これ全体がモニタとなっているようです。


これらのシステムは全部で18台が米軍に納入されたといいますから、
その数少ないうちの一台がここにあるというわけです。

製造はパラマックス社(ユニシス)、その後、ニューヨークの
ロッキード・マーチン・タクティカル・ディフェンス・システムズ社
イタリア・ローマのアレニア・SpA社が製造を手掛けました。

現在は、多機能レーダーAN/TPS-80「G/ATOR」に置き換えられています。

レーダー単体はアレニア社(現レオナルド社)がライセンス生産し、
「Argos(アルゴス) 73」の名称で販売されていました。



イラクに展開していたMATCALSサイトの様子です。

どういう勤務体系で、つまりコンテナには何人が入り、
何時間交代で、その間彼らはどういう風に任務をおこなっていたのか、
そういったことについての情報は、残念ながら見つかりませんでした。

決して楽な任務ではなかったという気はします。


ただ、狭いながらにカウンターらしきものが辛うじてあったので、
ここにきっとコーヒーメーカーくらいはあったと思うのです。

アメリカ人の職場にコーヒーがないなんてとても考えられませんから。
それがたとえアラスカでも、イラクの砂漠でも。


というわけで、フライングレアーネック航空博物館の紹介を終わります。
この「海軍の街」サンディエゴにいつかまた行ける日が来るのを願いつつ。


フライング・レザーネック航空博物館シリーズ終わり




マリーンズ・ワイフアワード〜フライングネック航空博物館

2021-11-20 | 博物館・資料館・テーマパーク


サンディエゴの海兵隊航空博物館、フライング・レザーネック。
この名称はどこから来ているかというと、どうも
この映画ではないかという元ネタを見つけました。

Clip HD | Flying Leathernecks | Warner Archive

相変わらず日本軍の軍装がいい加減な気がしますが、
第二次大戦時のガダルカナルにおける海兵隊航空隊の活躍を
例によってジョン・ウェイン主演で描いた戦争ものです。

今ちょっと資料を見たところ、ウェインが演じたカービー少佐は
海兵隊エースで先日当ブログでもちょっとだけ紹介した、
ジョン・スミス少佐がモデルであることがわかりました。


この人ですね

DVDも手に入れたので、またそのうちご紹介するかもしれません。


■名誉賞を受賞された海兵隊パイロット(ただし三人)


さて、それでは今日は、FLAMの室内展示
残りを全部、順不同で紹介していきます。
前にも書きましたが、昔ここは軍用犬のコーナーを増設した時、
かなり元の展示を減らしているので、
室内展示はもう今日で最後になります。

しかし、こういうのは減らすわけにいきません。
海兵隊員の顕彰コーナー。

全部の写真を撮らなかったので写っている三人だけ紹介します。
左から;



ケネス・ウォルシュ中佐 Kenneth A. Walsh(1916-1998)

海兵隊初のヴォートF4Uコルセア飛行隊に所属、
ガダルカナルを戦場として日本軍を相手に航空戦を行い、
航空隊最初のエースになりました。

はて、海兵隊最初のエースってジョー・フォスじゃなかったっけ。
同じ博物館のフォスコーナーではそういうことになってるんですが。



勲章授与式でFDRと握手するウォルシュ。
左の海軍軍人はアーネスト・キング提督です。
こういうときは奥さんが必ず同席しますが、ウォルシュ夫人の帽子、
おそらくこのために新しく新調したんだろうなー、と
そんなことを考えてしまうわたし。



ジェームズ・スウェット大佐James Elms Swett(1920 - 2009)

VMF-221の師団飛行隊長であり、ガダルカナルのエース。
合計15.5機の敵機を撃墜し、2つの殊勲飛行十字章と5つの航空勲章を獲得。

前にも書きましたが、アメリカは名誉賞を取ったエースは
2度と激戦地に出さないという不文律を持っているので、
朝鮮戦争が始まった時、彼のコルセア飛行隊は現地に派遣されたのに、
彼だけが残され、すぐに現役引退をしています。



ヘンリー”ハマリン・ハンク”エルロッド
Henry Talmage "Hammerin' Hank" Elrod(1905 –  1941)

海兵隊入隊前はイエール大とジョージア大にいて学生パイロットでした。
ウェーキ島で駆逐艦「如月」を撃沈したパイロットとして有名です。

1941年12月8日、エルロッド大尉は、VMF-211の航空機12機を率いて
ウェーク島で戦闘を行いました。
このとき、戦闘機から小口径爆弾を駆逐艦「如月」の船尾に投下して
格納されていた爆雷を爆発させ、撃沈させました。



航空機の爆弾一発で駆逐艦が撃沈したのは世界初だそうです。
このときの「如月」は、

「魚雷(資料によっては爆雷)が誘爆、
艦橋と二番煙突の半分とマストを吹き飛ばし、しばらくすると
艦は二つ折れになって5時42分に爆沈した。
艦橋が吹き飛んだ『如月』はしばらく異様な姿で航行したあと、
姿が見えなくなったという」

という最期を遂げました。
米軍側の資料によるとこの時のアメリカ軍の死者は1名、
それがエルロッド大尉だったようです。


エルロッド大尉はその後ウェーク島に帰投しましたが、
重傷を負っており死亡。
一連の英雄的行動に対して名誉勲章が授与されました。

ところで以前、当ブログでは
「ウェーク島に戻ったワイルドキャットのカウル」
というタイトルで、スミソニアン博物館に展示するワイルドキャットに
ウェーク島に残されていたカウルを取りよせて装着しようとしたところ、
敵の攻撃の銃痕が生々しく残っていたので、
どうしてもそれを修復することができず、結果として
カウルを取り付けるのをあきらめた、という話をしたことがあります。



そのときウェーク島の記念館にあったカウルは、
エルロッド大尉のワイルドキャットのものだったことがわかっています。

エルロッド大尉の乗っていたワイルドキャット

このワイルドキャットのカウリング、ノーズリング、
テールフック、プロペラだけが残されてウェーク島にあったわけですが、
いつのまにかカウリングはここにあるものが世界唯一のものになりました。

スミソニアン博物館はいったんこれを展示機である
ワイルドキャットに装着して、銃痕のあるまま展示していました。
2008年の時点ではまだそのままだったようですが、
その後カウリングはウェーク島に戻されることになりました。

スミソニアンではカウルなしのノーズのワイルドキャットを展示しています。

■ベトナム戦争関連展示


近代的な雰囲気ですが、ベトナム戦争時代のカモフラージュ柄
(タイガーストライプ柄という)のフライトスーツとベストです。

このタイプのカモフラージュパターンをその後見ないのは、
これがベトナムの密なジャングルのためにデザインされた柄だからです。

「カモペディア」というHPによると、「タイガーストライプ」とは、
1960年代に東南アジア(特にベトナム共和国)で開発されたもので、
この名称は、迷彩服の細い筆で描かれたデザインが、
とらの模様に似ているからだとか。

アメリカ軍でこのデザインの生産は1967年に終了しましたが、
部隊は1970年までこのパターンを着用していたそうです。
展示されているタイプは、これも「カモペディア」によると、
「デンス(密)」タイプで、もう少し縞の間が広い
「スパーズ」(まばら)タイプもあったとか。


USMCは20年以上にわたりベトナム戦争期間を通して
地上、航空、補給、後方支援を提供しました。
ダナンの主要な空軍基地を保護する任務とともに規模を広げ、
トンキン湾事件の後には、小規模な鎮静部隊との対反乱作戦に投入するために
より多くの部隊を送り込んできました。

1966年までにベトナムには7万人近くの海兵隊員がいて、
ベトコンに対する大規模な集団作戦を遂行していました。

海兵隊は地上戦闘に加えて、南北ベトナムにおいて
ヘリコプター部隊と固定翼機での航空支援を提供しました。

1967年、サイゴンで陸軍の指導部を務めた海兵隊は、
大規模な部隊の捜索と破壊作戦に力を注ぎます。

海兵隊の任務は、国境の非武装地帯(DM2)に沿った
北ベトナム軍との戦い、そして
南部の村でベトコンに対して行われた対反乱作戦とに分けられます。


手榴弾と”トレンチ・アート”

はて、塹壕アートとはなんぞや。
それは、兵士が戦争中に作り出す文字通り「芸術作品」のことです。
砲弾を使ったビアジョッキとか、彫刻とか、
別の武器とかを手慰み的に作ってしまうこと、あるいはそのものですね。



ここにあるのは廃棄されたコーヒーとソーダ缶から作られた
花瓶とか手榴弾などです。
作品としてはまあ普通ですが、調べてみたら
中には立派なアートと呼べる作品もありました。


砲弾のシェルで作ったP-38。お見事


南ベトナム国旗

1948年から1975年まで、サイゴン陥落までの間国旗として使用されました。

1975年にベトナム共和国、南ベトナムが消滅し公式に旗は廃止されましたが、
北米やオーストラリアなど海外に移住したベトナム人の間では、
民族統合のシンボルとして、あるいは現政府に対する抗議の意味で
今でも使用されています。


アメリカのいくつかの州では、ベトナム系アメリカ人が
ロビー活動を行った結果、この旗を
民俗コミュニティのシンボルとして公式に認められました。



POW(Prisoner of War)

北ベトナム兵士とベトコンの反乱軍に捕らえられた
アメリカ軍捕虜が使用していた道具。
石鹸、歯磨き粉、IDタグ、箸と腕、カップ。


ベトナム戦争における武器

ベトコン(VC)の作戦行動のメソッドは、単純かつ効果的でした。
彼らの合言葉は

「敵が前進したら撤退、防御したら嫌がらせ、
敵が疲れたら攻撃、撤退したら追撃。」

スピード、安全性、奇襲性、相手の動きを見極めてから交戦すること。
適切な情報と準備なしに急いで行動するのではなく、
あえて機会を逃すこともありました。

任務のために組織化され、装備された(VC)は、
ゲリラ戦術で夜間に移動することを好み、秘密裏に行動しました。
不意打ち攻撃の待ち伏せのために、彼らは
10日間くらいは平気で潜んでいることができました。

彼らのやり方は、道路、小道、小川、その他の移動ルートに沿って
敵を罠にかけることでした。

■アフリカ系宇宙飛行士 チャールズ・ボールデン



海軍出身の宇宙飛行士、チャールズ・ボールデン(Charles Bolden)
の宇宙飛行士用スーツとヘルメットです。



海軍兵学校では学生隊長を務めるほど優秀で、
卒業後海兵隊少尉に任官。
(海兵隊士官は海軍兵学校卒だと知った瞬間)

ベトナム戦争に参加したあとは、海兵隊のリクルート
(自衛隊で言うと地本ですね)にいたそうです。

リクルーターとして話をしているボールデン

1981年に宇宙飛行士になり、スペースシャトル「コロンビア」、
「ディスカバリー」の操縦手などのミッションをこなした彼は、
2009年、アフリカ系で初めてNASA長官に指名されました。

■アイリーン・ファーガソン海兵隊ワイフアワード


Irene Ferguson Marine Wife Recognition Award

アイリーン・ファーガソン海兵隊員妻賞は、
米国海兵隊員の妻として、夫である海兵隊の軍人や家族、
地域社会を支える献身を称え、顕彰するのが目的です。
選考は年一回行われ、選ばれた妻には賞金と贈り物が与えられます。


過去、国家のために夫が軍務に就いている間、
その妻が受ける試練や苦難は、ほとんど認識されていませんでした。
しかし、この10年間で、軍人の家族にかかるストレスや負担は、
おそらくかつてないほど大きくなっていることが認識されるようになりました。

フライング・レザーネック歴史財団は、
そんな軍人の妻の奉仕と犠牲に対し、これを顕彰すべく、
米国海兵隊退役軍人グレン・ファーガソン少佐の妻、
アイリーン・ファーガソン氏を記念して、同賞を創設しました。
この賞の精神は、以下のグレン・ファーガソン少佐の言葉に集約されています。


アイリーン&グレン・ファーガソン夫妻

「妻の死をきっかけに、私たちが共に過ごした
約60年半の素晴らしい時間を振り返ることができました。
そうしているうちに、私が訪れたことのある博物館、
歩いたことのある公園、入ったことのある建物のどこにも、
一つとして、夫を支える従軍中の妻たちの献身と
犠牲の生活を称えるものがないことに気づきました。

彼女たちの夫は、忙しい任務が日常で、遠い国へと頻繁に旅立ち、
時には危険な状況に置かれます。
彼らの多くは勲章を授与され、同僚の軍人たちから称賛を受けます。
彼らの偉業は、新聞や雑誌で賞賛されます。

しかし、知られざるのは、残された妻たちです。

彼女たちは子供たちを育て、教育し、病気のときには世話をし、
パパがいない家庭でその不安を献身的に和らげる。

しかし、妻たちの試練、艱難辛苦、勝利を証明するメダルや記念碑はありません」

受賞者は推薦され、FL歴史財団が審査し決定します。

支援機関、友人、家族、隣人、職場関係者からの応募が可能ですが、
推薦者の夫、その指揮官、推薦者本人からの応募はできません。

さて、これで室内展示を全て紹介し終わりました。
ここから外に出て航空機展示などを見学するわけですが、
出口にレトロなポスターが貼ってありました。


「もし戦いたいなら!海兵隊に参加しよう」



「アア残念!
アタシ(妾)が男なら海軍に入っていたのに」

女性が軍隊に入ることが叶わなかった時代のポスターですね。
そして海軍に入る資格のある男たちに向けて、こうあります。

「男になれ そして来たれ
アメリカ合州国海軍へ」


続く。

ミラマー基地のMWDデモンストレーション(軍用犬と玩具の関係)〜フライング・レザーネック航空博物館

2021-11-18 | 博物館・資料館・テーマパーク

「Combat Canines」



このコーナーの壁に大きく赤で描かれている文字。
前回説明したように、Caninesはイヌ科の動物であり、
そこから軍用犬、警察犬をK9と称します。

冒頭写真で海兵隊のハンドラーと一緒に走っている、
おそらくジャーマンシェパードの首にも黄色い「K-9」の札がありますね。

それでは、FL航空博物館の展示から。

「アメリカ軍の最前線で、軍用犬とそのハンドラーは、
第二次世界大戦以来、米海兵隊と共に
地球上でも最も危険な戦場で彼らを導く役目を果たしてきました。

かつて軍に使役された様々な動物が、技術の発達によって
そのほとんどが時代に合わなくなってしまった今でも、
軍用犬だけはいまだに一線で活躍する価値を見出されています。

IED(即席爆発装置: Improvised Explosive Device)
を検出する能力は、かつて軍事技術者によって発明された
どの機械や装置よりもはるかに優れています。

何より、犬は知的で順応性があり、忠実でタフです。

第二次世界大戦の頃、軍用犬の訓練は、2週間を一つの区切りとし、
農場経験のある海兵隊員の手によって行われました。
農場育ちなら、動物を手懐けるのは慣れているとされたのです。


近年では犬の訓練とハンドリングは、一頭あたりの訓練、しかも
に約3万ドルから4万ドルかかるといわれます。
犬にお座りや寝返りを教えるのは簡単ですが、
戦闘状況かで吠えずに静かにしていることを教えるのは全く違います」

■MWD(海兵隊軍用犬)用ガジェット


そしてこれは犬用ゴーグル。
フレームに書かれている
DOGGLES(ドッグルス)
という商品名に思わず膝を叩いてしまいました。


着用例。

「洗練されたテクノロジーと装備」
軍隊はしばしば洗練された技術を惜しげもなく
このような装備に注ぎ込み、現代の犬はそれ以上のものを「楽しんで」います。

軍用犬は、専用のベスト、GPS装置、ドッグル(もはや一般名詞らしい)
などの目を保護するための機器の他に、足を地面から保護するための
犬専用のブーツが支給されます。


犬専用ブーツ。(ゴルフのスティックカバーかと思った)

サングラスをした上の写真は、ダニエルSSgt(曹長)と、
彼の担当である🐕アウラ(Aura)さん。(多分雌)
アウラさんは2015年に引退し、ダニエル曹長に引き取られて
今は家族の一員となっているそうです。

引退した犬がハンドラーに引き取られるというのは
珍しいことではないような気がしますが、
この場合やはり「装備引き渡し」みたいな扱いなんでしょうか。

■ミラマー海兵隊航空基地でのデモンストレーション



ハンドラーの首から上を撮り損なった?と思ったら、
もともとこういう写真でした。
訓練デモ中のMWD(海兵隊使役犬)に焦点を合わせて撮っています。

1mくらいの障害を楽々飛び越えているMWDの名はワンドゥ(Wando)
ここMCAS(Marine Coops Air Station) Miramar kennel
つまりミラマー海兵隊航空基地犬舎で行われた
学童を招いての公開デモンストレーションでの一コマです。

デモの代表になるくらいですから、ワンドゥくん、優秀犬です。
前回、ウォーダーグで三冠を取ったとご紹介しましたね。



ミラマー海兵隊航空基地にあり、犬・ハンドラーともに
採用されただけで「エリート」コースと言われる
ミリタリー・ワーキング・ドッグプログラムことMWD訓練は、 
主に基地の警衛部隊の憲兵隊長(設置されている法執行機関の最高責任者)
を増強することに焦点を当てています。

犬とハンドラーのチームは2009年以降は展開(たぶん海外派遣)しておらず、
駐屯地において密に任務を負っており、
施設のゲートや基地全体での警備に時間を費やしています。

犬の嗅覚と視覚が訓練で向上することにより、
より徹底的な捜索が可能となりますし、
警備犬とハンドラーの姿は目を惹き、攻撃に対して
潜在的・心理的抑止力として機能する
というメリットがあります。

MWDに関わる仕事には、継続的なトレーニングが必要です。
任務についていない時でも、チームは常に犬舎の監督、
master SSgt Daniel、マスターサージャント=
ダニエル曹長
の監督下に置かれて一挙一動が訓練です。



これがダニエル曹長だ!
そして曹長が左手に持った赤い物体ですが・・・、



これですよね。
犬が訓練の時に咥えたり放って取ってこさせたりするもの、
要はおもちゃです。

鎖はMWDの標準装備らしく、ダニエル曹長と一緒に写っている
アウラさんの首にも同じものがかけられています。

このダニエル曹長は、犬舎のアジリティ・コースで行われた
学童対象のデモンストレーションで何か質問しているようです。



この大荷物を持った女性は、アッキバッティ上等兵。(イタリア系)
2018年当時新人で研修中でした。


ちなみにハンドラーの海兵隊上等兵の年収は現在で
2,103.90ドル(241万4128円)だそうです。
ついでに、曹長になるとは4,614.60ドル(529万6964円)
倍以上ですが、その階級差は5もあります。

彼らのトレーニング場所は、チームが直面するであろう事態を想定し、
犬舎の専用コースや施設内の多くの倉庫などが使われます。
究極の目標は、チームを戦術的・技術的により熟練させるだけでなく、
犬とハンドラーの間の絆を少しでも強くすることにあります。



デモンストレーションの日公開された攻撃訓練の一コマ。

訓練用の防御衣を噛まれているバス上等兵の顔がナイス
腕に噛み付いてぶら下がっているのは先ほどのワンドゥくんです。
ワンドゥと別の伍長がタッグを組んで、「悪役」である
バス上等兵を攻撃しているというわけです。


これも同じ日のデモンストレーションでの展示。
後ろにあるのは引退した戦闘機(展示してある)のようです。
F9F2パンサーかな?

ターゲット役はトリミーノ上等兵、
確実に腕を狙いにきているのは同じワンドゥ号。

新人(下っ端とも言う)は最初噛まれ役が多いんだろうな。

ワンドゥはベテランなので間違いはないかと思いますが、
これ、もし防御衣を着ていない脚を噛まれたらどうなるんだろう。


ちなみに、シリーズ最初の扉絵にしたこのチームは、
犬=コラード号、ハンドラー=スミス伍長で、
沖縄県の海兵隊基地キャンプ・ハンセンに所属しているんだそうです。

■なぜ玩具を展示するのか



犬のおもちゃといえば・・・、フリスビーですね。
標準仕様なのか、国旗がついた赤いフリスビー。
海兵隊装備納入業者もびっくりだ。

そして下のケースは、
「エリートK9」と文字が穿たれています。
穴が空いているのはこれが「匂い箱」だからで、
磁石式になっていて金属部分に装着して捜索の訓練に使います。


ところで、なぜ軍用犬のおもちゃが展示されているのでしょうか。

軍用犬として生まれた子犬にとって、最も重要な特徴の一つは
「プレイ・ドライブ」と呼ばれるものです。
このプレイドライブによって、ハンドラーは、
犬が優れたMWDとしてあるべき反応をするかを確認するのです。

ラックランドのAFBで訓練されている犬とハンドラーに
褒賞としておもちゃが与えられるというのは日常的な光景です。

犬は命令、および任務が与えられると、おもちゃのために働き、
任務が完了すると、よくやったという印に、報酬として玩具を受け取ります。

MWDのデモンストレーション中に犬のおもちゃを紹介すると、
そこにいる犬は耳をピンとたてて興奮するのを観客は目にするでしょう。
それは犬がハンドラーに出す
「任務を完了するためのやる気十分」の合図です。

犬が玩具を見つけるために行うプレイドライブは、
そのモチベーションを利用して本職の捜索活動を容易にするのです。

MWDの本職とは、麻薬あるいは爆発物の捜索であり、
(必ずそのどちらかであり、1匹がどちらの任務もすることはない)
彼らはその訓練を受けています。

そして、犬がそのどちらかを見つけたとき、
そのハンドラーは必ず安全を保証される必要があります。

犬は大変鋭敏な嗅覚を持っていることは有名ですが、
その
鼻には2億2500万個の嗅覚受容体が含まれており、
(人類の嗅覚受容体は500万個にすぎない)
この特性だけでも、彼らは理想的な軍事作戦参加者になります。

そして、彼らの
忠誠心と、人を喜ばせたいと言う願望
犬たちを基地や戦場で重要な存在とするのです。



バス上等兵がタッグを組む犬はパト(Pato)
パトは爆発物探査専門のMDWです。
爆発物に見立てた対象物を探し出すデモンストレーション中。



MWDがご褒美に与えられるおもちゃ。
硬化ゴム製らしい瓢箪のようなものは、てっぺんに
匂いが出る穴が空いているのにご注意ください。



これもご褒美として犬がもらうおもちゃの一種です。
穴が等間隔に開いているので笛みたいですが、
こちらも匂いを仕込んで捜索訓練に使います。
その犬の任務に合わせて、爆発物の匂い、ドラッグの匂いが使われます。

■犬はどこから来たの?


基地にいる犬のほとんどは、ベルジャンマリノア、
オランダ&ジャーマンシェパード、ベルジャンテルビュレン
のどれかです。

犬の75%はヨーロッパから輸入されていますが、
25%はテキサス州のラックランドにある
「ミリタリー・ワーキング・ドッグセンター」で飼育されています。

ラックランドでは、米国内及び海外からの犬とハンドラーが
パトロール、偵察、建物の創作、麻薬や爆発物の検出を行うため
共に訓練を受けています。

訓練方法は、それぞれの犬の特性や性格を考慮に入れます。
ハンドラーの仕事は簡単ではなく、犬を担当するということは、
ハンドラーが犬の入浴、餌やり、遊び、運動だけでなく、
記録を詳細に付けて最新の状態に保つことを意味します。

誕生から8週間まで、将来の犬は彼らの子育てセンターの
第341訓練飛行隊で飼育されます。
8週間に達すると、子犬はサンアントニオ・オースティン地域で
資格のある里親といっしょに家に帰ります。

7〜9ヶ月になるとMWDの候補として観察されます。
どんな子犬も使役犬になれるという保証はありませんが、強い意欲を示し、
様々な環境に適応し、仕事に対する報酬へのモチベーションを持つ子犬は、
資格ありとして事前トレーニングプログラムに移行します。



もしもーし、ベッドからこぼれ落ちてますよ〜。

タグづけされたベルジャンマリノアの子犬の、
年長さん、ドンジャ(上)はもうちびたちを見守ることもできます。

第341訓練隊は共同ユニットであり、
全てのサービスブランチがMWDを提供する機会を与えています。

さて、この子犬たちは将来そろってMWDになれるでしょうか。


続く。





「あなたの犬軍隊に預けませんか」軍用犬供出と今日のMWD~フライングレザーネック航空博物館

2021-11-16 | 博物館・資料館・テーマパーク

サンディエゴのミラマー基地におけるMWD、
又の名をK-9、海兵隊使役犬の訓練について前回お話ししました。

ミラマー基地のケンネルで行われたデモンストレーションでは、
探査訓練とともに攻撃の訓練成果が発表されたわけですが、
少しこの「攻撃犬」(アタックドッグ)について書いておきます。

■ アタック・ドッグ

犬を訓練して標的を襲わせることは古代から行われていました。
古代ローマが犬を武器として使うようになったのは、
ベルセラの戦いで敵が投入した犬に苦しめられたことがきっかけでした。

その後彼らは犬を明確に武器として、獰猛に飼育し始めたのです。
ローマの博物学者・作家である長老プリニウスは、その訓練の結果、
犬たちは剣を突きつけられても全く怯まなかった、と記しています。
ローマの攻撃犬は、敵の陣形を崩させるために、
鋭利なスパイクで覆われた金属製の鎧を装着していました。


着用例

●アメリカで最初に攻撃犬を使用したのは、
ベンジャミン・フランクリンの提案でした。
フランクリンは、
「犬と一緒に寝るものはノミと一緒に目覚める」
と言う名言?を残しています。

実体験だったのね。

●独立戦争の英雄チャールズ・リー将軍は、
犬が好きすぎてどこに行くにも連れ歩き、
食事の席にも同席させ椅子に座らせたりして周囲に嫌がられていたそうです。



スクロールして最後にびっくり、リー将軍と犬

●アパルトヘイト下の南アフリカで、国防軍は
狼と犬のハイブリッドを実験的に攻撃犬とし、ゲリラと戦っていました。


■攻撃犬の訓練とその用途

攻撃犬は、敵とされるターゲットを追いかけ、噛みつき、
怪我をさせ、場合によっては殺すように訓練されます。
その際、犬には状況を判断し、それに応じて反応するスキルが求められます。

正式な訓練では、犬は訓練の効果を高めるために銃声や騒音、
その他障害にさらされることになります。

攻撃犬になるための訓練は犬の凶暴性を助長するとして非難されたりします。
現に、人を噛んだ犬の10%が攻撃犬の訓練を受けていたという報告もあり、
それは一種の「職業病」として動物愛護の観点から問題視されているのだとか。


現代の軍隊でも、主に見張りのために攻撃犬を使用しています。
犬は自分の持ち場を守り、侵入者を攻撃するように訓練されています。
また軍犬が捕虜に対する心理的拷問に使われ問題になったことがありました。

これな

軍用と警察でのK-9の使い方が少し違うとすれば、
警察犬は、人間が危険にさらされている状況を識別し、
それに応じて反応するように訓練されていることです。

警察の攻撃犬は一般的に、怪我をさせるというよりは
ターゲットを取り押さえることを目標に訓練されています。

軍隊レベルの訓練を受けた犬を一般人が手に入れることはできますが、
これらの犬は「エリート」であるので、価格は跳ね上がり、
中には数十万ドルもする元K-9もいるそうです。


■あなたの犬を軍隊に預けませんか?

この誘い文句で犬の供出要請がアメリカ政府から国民に対して出されたのは、
真珠湾攻撃が起こった直後の1942年のことでした。

アメリカ軍は、第一次世界大戦の時にすでに軍隊に
犬がその価値を証明したのを知りながら、自分たちが
その後何も具体的な行動をとらなかったことに気づいたのです。

ヨーロッパ戦線で、犬たちは歩哨任務に立ち、メッセージを運び、
塹壕にいるネズミを軍隊が到着する前に退治しました。

この政府要請を受けたアメリカ国民は、その後2年間で、
4万匹以上の犬をUSMCに送ることでそれに応えました。
(中にはあの『チップス』のように、行儀が悪くて持て余した犬を
処分かたがた軍送りする家庭が結構あった
ということです)

そして、犬のハンドラーとして1万人が従事しました。


1943年12月20日付でアールビンという人物に
USMCの司令官が送った手紙には、彼が犬を供出したことに対して
その奉仕を称賛する内容が書かれています。

翻訳しておきましょう。

親愛なるアールビン氏:

アメリカ海兵隊と日本との戦争のためにあなたから寄贈された
ドーベルマン・ピンシャー「レックス」が、英領ソロモン諸島の
ブーゲンビルにおいて最近行われた水陸両用作戦で
卓越した戦闘能力を発揮したことをお知らせします。

偵察犬「レックス」は、作戦7日目の夜、海兵隊駐屯地の近くに
日本兵がいることを警告しました。
夜明け、日本軍は我々の駐留していた場所を攻撃しましたが、
「レックス」が警告してくれた結果、海兵隊は攻撃に備え、
撃退することに成功したものです。

「レックス」の行動は、間違いなく

多くの海兵隊員の命を救うのに役立ちました。

敬具

T. ホルコム
USMC少将 アメリカ海兵隊司令



レックスとハンドラー(とレックスの餌入れ)

ただし、アメリカが犬を敵(つまり人間)に対する攻撃用として使役したのは、
第二次世界大戦まで、厳密に言うと沖縄戦まででした。

沖縄戦以降、アメリカは犬の主たる使用目的を、
偵察や探索に変えることになります。
その理由は、沖縄戦に投入された日本の軍用犬の末路だった、
と言う話があります。

■ 日本の軍用犬出征式


朝日新聞社のアーカイブスから、「軍犬の出征式」です。
幟に書かれた犬の名前を見ると、
いわゆる和名より洋式の名前がほとんどなのに気がつきます。

「ドリー」「ガルボ」「ベラ」「ダイア」
そしてこちら(日本側)にも「レックス」がいるではありませんか。
当時の日本ではどちらかというと犬の名前は西洋風が流行っていたようです。

アメリカからも日本からも、同じような名前の犬が出征し、
そして同じように戦火に斃れていったのでしょう。
何も知らずに歩いている犬たちの映像を見ているだけで胸が痛くなります。

日本で本格的に軍犬が使われるようになったのは第一次大戦以降で、
陸軍歩兵学校にシェパード、ドーベルマンなど大型犬の軍犬育成機関ができ、
それに伴い、軍用犬を供出する民間の組織も誕生しました。

陸軍の軍用犬は中国戦線で伝令や警備の任務に派遣されました。
このニュースに見られるような犬の出征壮行も行われるようになります。

満州国の成立以降は、関東軍、大日本帝国海軍も
警備犬として軍用犬の導入を開始しましたが、
太平洋戦線では連合軍側の軍用犬戦術が向上したことや、
兵站の関係で人間の食料すら確保が困難になってきたこともあり、
日本側の軍用犬の配備は急激に数を減らして行きました。

沖縄戦は日本軍にとっても軍用犬を「攻撃犬」として投入した最後の戦闘でした。
このとき沖縄に投入された軍用犬は勇敢に戦いましたが、
近代兵器の前にはあまりにも無力であり、そのほとんど全てが
ハンドラーとともに戦死することになりました。

アメリカ側の、沖縄戦についてのある資料によると、皮肉にもこの事実が
アメリカ軍を始めとする近代軍隊に軍犬を攻撃用として運用することを
廃止させるきっかけになった、と書かれています。


■ウォー・ダーグ(War DAWG)ウィークエンド

前回書きましたが、ミラマーでMDWプログラムを受けることのできるハンドラーは
海兵隊エリートであると同時にハンドラー界のエリートと目されています。

まず、プログラムを受ける全ての海兵隊員、そして警察官は、
彼らが派遣される基地で担当の犬とマッチングされます。

ミラマーで訓練を受けた犬は2009年に配備を完了し、
彼らはハンドラーと共に大統領就任式、共和党大会、民主党大会などの
全国的なイベントなどに駆り出され、警備チームの一翼を担うのです。

また、彼らはキャンプ・ペンデルトンで毎年開催される
「War DAWG」
と言う大会に出場します。

「ダーグ(ドッグと発音は同じ)」というのは、
「the men and women who team up with dogs in combat」
つまり軍用犬ハンドラーと同義ですが、このイベントは、
もともと三人の「Nam Dawg」
がペンデルトン基地のMWDケンネルで、過去のハンドラーと
K9たちに敬意を評してバーベキュー大会を始めた(アメリカらしい)
ことから始まっています。

まずこのダーグとはなんぞや、というと、
普通に「犬」のスラングで「ダーグ」と発音します。
そして、同時に「ブラザー」みたいなノリの「友達」という意味でもあります。

それから「ナム」はベトナムという意味なので、つまり
「ナム・ドーグ」=ベトナム退役軍人の元ハンドラーとなります。

ペンドルトンでは、毎年ベトナム退役軍人のグループが主導する
MWDとハンドラーを称える追悼イベントが開催され、
同時にK-9の技量を競う競技会(とバーベキュー大会)が行われるのです。

式典では、ベトナムで戦死した300名以上のハンドラーとMWD、
イラクとアフガニスタンで戦死した約30名の名前が読み上げられるならわしです。

「ウォー・ダーグ」で行われるコンテスト、
「Iron Dawg Competition」
は、軍部隊や法執行機関のK9チームのスキルを披露するもので、参加者は、
戦術/服従 薬物/爆発物探知 噛みつき/攻撃 耐久走
の4つの種目で競い合います。



「アイアン・ダーグ」競技参加中のフィッシュバウ伍長とMWDワンドゥ
これもしかしたらしんどいのは人だけなんじゃ・・・。



フィッシュバウ伍長(左)は、MWDワンドゥと出場し優勝。
なんと全部で三つのアワードを獲得しました。
盾を渡しているのはミラマー基地のダニエル軍曹です。

フィッシュバウ伍長の上腕二頭筋の太さとお揃いの刺青をご覧ください。
何をすれば女性の筋肉がこんなに発達するのかわかりませんが、
つまり一流のハンドラーというのは犬と一緒に走り回り、
筋肉を鍛え上げているということなのでしょう。

自衛隊のハンドラーを見る限り、こういうゴリマッチョな感じは受けないのですが、
この辺がアメリカ軍、海兵隊のハンドラーの文化なのかもしれません。

決して酸素マスクと耐Gスーツをつけないブルーエンジェルスのように、
アメリカ軍って時々「何と戦っているのか」という無謀なところ、ありますよね。


三つもの盾をもらって得意そうなワンドゥMWD
ミラマーの彼の犬舎前でポーズ。

■MWDの訓練用ギア


噛みつき訓練(bite-work)で使用する防御ギアのご紹介です。
こちらは革製の保護用ヘルメット。
空中を高速で激しくぶつかってくる犬にノックダウンされたときに
彼らの鋭い牙から身を守るためのガジェットです。


革製とワイヤ、2種類のマズル(口輪のようなマスク)
もちろん犬用です。

マズルは安全上の理由からハンドラーの判断で状況によって使用されます。
たとえばMWDの周りに一般の人がいっぱいいるとき。
中には犬が大好きで、つい撫でたくなってしまう人もいるわけです。

しかしほとんどのMWD、軍用犬は、その任務、
「探索すること」「噛むこと」にのみ忠実です。
通常はコマンドが与えられた時のみ噛みつきますが、
非常事態には命令がなくても攻撃を行います。

なぜなら、彼らはハンドラーに対して忠実、
かつその身を守ることを第一の使命と心得ているので、
そのほかの人々をハンドラーに対する脅威と見なし、
これを排除すべく、問答無用で攻撃してくるものなのです。
たとえ相手が小さな子供であっても。


ミラマー基地で使用されている犬舎のネームタグです。
エルトロ(牡牛の意)の犬舎は1999年に廃止されました。
フリッツくんもマーツォくんも、退役済みでしょう。

■MWD退役後の養子縁組制度

ところで、退役といえば、現役引退したMWDはどうなるのでしょうか。

2000年に引退した軍用犬と養子縁組を結ぶことができる
『ロビー法』
が可決され、これによって毎年、
テキサスのラックランド海兵隊航空基地からは
数百匹単位の犬が養子縁組されるようになりました。

年齢や健康上の理由で引退する犬もいれば、資格を取得できなかった、
または維持できなかったために退職する犬もいます。
軍用犬の任務には95%の精度が求められるのでしかたありません。
(軍人の退役年齢が早いのと同じ理由ですね)

犬の養子縁組が最初にオファーされるのは、その犬の元ハンドラーです。
ほとんどのハンドラーがそのオファーを受けますが、
もし不可能な場合は、次に法執行機関が検討され、
そのどちらもご縁がなかった場合は、民間に引き取り手を募集します。

軍用犬は訓練されているから扱いやすいというのは大きな間違いです。
訓練やその仕事の性質上、犬とはいえ

PTSDを含む健康や行動上の問題を抱えているのが普通です。

一般家庭に飼われている元K-9に、何かのはずみで「スイッチ」が入り、
通行人を噛んでしまって大ごとになった、
という例を、わたしも実際に見聞きしたことがあります。

これはその犬が「ダメ犬」だからではなく、前職のトラウマや残渣からくる
一種の「バグ」であり、そのことも可能性として十分起こりうることを
予想・理解しながら飼ってやる必要があるのです。

そのため、アメリカでは民間の申請者は、受入環境や
犬の取り扱いについての知識、経験を慎重に審査されます。

しかし、住宅事情一つとっても犬を飼いやすい環境にあるアメリカでは、
退役した犬の養子縁組を打診された場合、
ほぼ100%のハンドラーが犬を自身が引き取ることを申し出るそうです。

任務中犬との間に培われた固い絆が、一生を共にしようと思わせるのでしょう。
余生を、信頼できるハンドラーとのんびり過ごせる犬は、幸せです。


続く。