ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

嗚呼!陸軍潜水艦「まるゆ」

2012-03-21 | 陸軍

今日の画像が何のパロディだか全く分からない、
という方もおられるかもしれませんので、
野暮を承知で説明すると、
昔小澤さとる先生の「青の6号」という漫画がございましてな。

戦闘機パイロットものが全盛だった1967年作品で、異色の未来潜水艦ものです。

この時代、国と国の争いはなく、国際テロ組織マックスに世界連合軍が、

ユニバーサル・ブラザーフッドつまり八紘一宇の共同戦線であたるという設定。

上に固まっているのはオリジナルでは「青の6号」つまり日本潜水艦の面々。
下のアイパッチ男は、本来「青の1号」アメリカ派遣艦のギルフォード少佐。
それにしても、艦長って、パイプを吸わなくてはいけないきまりでもあるのかしら。

このマンガ、わたくし、実は読んだことがありません。
で、これを描くために調べたときに、この設定を見てつらつら考えたのですが、

もし、地球外生物の襲撃襲来があれば、世界は共同で外敵と戦い、
(そうなれば、一番先に「やってくれるのは」大阪だと思う。 ソースは「宇宙戦争」)
地球人同士で争うことをやめ、結果的に戦争は無くならないだろうか。


それはともかく、潜水艦もののパロディなら下の海軍第一種軍装はともかく、
何故上の連中がカーキ色の陸軍軍服姿なんだろう、と不審に思われた方。
それは、彼らが、今日お話しする

「陸軍潜水艦 三式潜航輸送艇 通称まるゆ」

の乗員である(という設定である)からです。

「空軍って、旧日本軍に無かったっけ?」

と真顔で聞いて、思わず開いた口がふさがらず膝に付くくらい驚かせてくれた、

うちの所帯主のような人間もいることはいますが(興味のない人間ってこんなものよ、皆さん)
空軍を持たない旧帝国日本軍が、陸海ともに飛行機を保持していたのは世間の常識。

空から舞い降りる「空の神兵」挺進部隊、つまり落下傘部隊も、
陸海両軍がほとんど同時期に大戦果を挙げたのもご存じのとおり。

餅は餅屋と言いますが、陸軍の専門「陸戦」において、陸軍が手をこまねいていた戦局を
「陸戦の神様、中村虎彦」率いる海軍陸戦隊が打開し攻略してしまったこともあります。
(当ブログ参照)


しかし、陸軍には決して超えられない壁。
海の上で戦えるのは海軍だけであった・・・・・・・はず。

なのですが、人、耳目を驚かすか、言ふに足らず。(by 藤原宗忠)
何と、陸軍には潜水艦がありました。

それが今日の「まるゆ」で、名称からもお分かりのように輸送専門の潜水艦です。

全長49,5m
水上排気量273トン
水中排気量346トン
最大速力 水上9,6ノット 水中4,4ノット
水中航続時間4ノットで1時間、2ノットで6時間
最大潜水深度100メートル

海軍の最大級、伊号四〇〇型潜水艦で水中排水量6560トン、最大水中速力6,5ノット、
海軍で最も小型であった波二〇一型でも、水中排水量は440トンあった、ということからも、
まるゆの可愛らしかったのは名前だけではない、ということがお分かりいただけるかと思います。
因みに波号は本土決戦に備えて作られましたが、終戦によって実戦デビューはしませんでした。

まるゆは輸送専門なので、海軍の潜水艦には当たり前の「魚雷」が付いておりません。
攻撃できないのですから、勿論反撃もできません。
ただひたすら見つからないように海中をのろのろと進むのみ。
とてもじゃないけど、冒頭画像の煽り文句「決戦兵器」と呼ばれるべきものとは言えません。

しかしなんだって陸軍は輸送潜水艦を独自に作ることを思いついたのでしょうか。

ウィキペディアによると、ガダルカナル島の戦いに於いて陸軍が補給に苦しんだことが、
「独自の補給艦」開発のきっかけになった、ということになっています。

土井全二郎著「決戦兵器 陸軍潜水艦」(←う~ん・・・・)によると、
ラバウルにあった南東方面作戦の陸軍最高責任者である今村均中将は、
ガ島撤退作戦終了直前、軍部に対して
「陸軍で駆逐艦や潜水艦をもって直接補給に使用したい」
と、陸軍がフネを持つことを意見具申しています。

そして、作戦失敗後、トラック島での山本連合艦隊司令長官との会談で
「ガ島の失敗は補給の失敗である。
海軍の輸送力をもって補給を確かにすることで以降の失敗は避けられる」
と熱心に主張し、協力を仰ぎましたが、海軍側には
「作戦失敗の原因を全て海軍に帰せんとする魂胆であろう」
なんてことを言われて、はかばかしい返事がもらえませんでした。


もともと海軍潜水艦、駆逐艦の乗組員、ことに士官たちの間には
「何が悲しくて海軍兵学校を出てマル通などせにゃならんのだ」
という風潮がありました。
マル通とは、こんにちもある日本通運のマークからきた「運送屋」という意味で、
現在も自衛隊で輸送任務に使われている隠語です。

戦闘で死ぬのならともかく、いくら任務とはいえ米を運んでいて戦死など不本意も甚だしい、
陸軍にしてみれば、こんな風潮の海軍にいちいち頭を下げて輸送を「お願い」するのは
手間もかかるし、第一それ以上に面白くない。

そして、こんな話もあります。
ある船舶関係者が

「陸海共同で建造し、共同で運用すれば良かったではないですか」


と尋ねると、陸軍省の人間は真顔で?こう言いました。


「そうなると、舵を取るのは海軍だ。

別々の場所で陸海軍が同時に助けを求めていたら、
きっと海軍軍人は海軍のいる方に舵を切るに違いない」

つまり、陸軍側にすれば、我が作戦遂行のために「敵国海軍」の裁可を仰がずとも、
自由に使用できる補給艦を持ちたいという、自然な欲求の流れの結果であったのです。


そんなこんなで、陸軍は意地になって「陸軍潜水艦」の着手に乗り出しました。
そのとき事にあたった塩見陸軍技術少佐が参謀本部から言い渡されたのは、以下の通り。

  1. 陸軍部隊が陸軍自体の輸送潜水艦を作りだすこと。
  2. 海軍には内密に建造すること
  3. 造船所を使用せずして作ること
  4. 建造数は取りあえず20隻。最終的には400隻。
  5. 陸軍部隊のどこで作っても良い

1はいいとして、2と3、これは一体いかなることでしょうか。
当時世界最高レベルと言われた帝国海軍の潜水艦。
艦艇専門の海軍が、日露戦争直後から何十年もかかって技術を積み重ねてできた
言わば「海軍魂の結晶」です。
それを、ずぶの素人の陸軍が、しかも海軍に内緒で、ということは技術協力を全く仰がず、
ゼロから作ろうと言うのです。

ある陸軍省の人物は、

「東条さんから『海軍に相談すると、きっと反対されるから黙って極秘でやれ』
と言われたから」


と、2の理由を説明しています。


そして造船所という造船所で、海軍の息のかかっていないところは一つもない。
もちろん潜水艦のノウハウに詳しい人物も一人としていない。

誰が作る?どこで作る?どうやって作る?

もう出だしから暗澹たるこの状況。

しかし不思議なことに、この後1年で陸軍の栄えある潜水艦まるゆは、
できてしまうのです。

まるで漫画の4コマ目のようなこの進捗状況。

早稲田の理工学部を出ているというだけですべて任された
ある意味犠牲者とも言える塩見少佐は、
嘘か真か当初

「こうなったら木造でもいいんだ」

などというシュールなことを言われたそうですが、

この人の並々ならぬ頑張りが、無茶もいいところの計画を形にしたと言えます。
取りあえず。

製作に当たっては造船所が使えないので、

「潜るだけでいいんだから、水圧に強い円形にすればよい。

丸いものを作るのが得意な工場といえば、缶詰工場だ」

などという妙案も採用され、結果的にボイラー工場、機関車製造製造工場、
そして
鉱山機械の製作所などといった工場が選ばれました。

しかし、潜望鏡の製作は陸軍には勿論、民間会社にもお手上げです。
仕方なく、海軍にもらいに行きました。
内密であったとはいえ、事が動かしがたくなってから、
正式に陸軍は海軍のお偉方に説明し、要所要所での援助を仰ぎました。

「陸軍なんかに潜水艦はできん」と鼻で哂う海軍軍人も勿論いましたが、
見るに見かねたのか、同情したのか、陸軍が輸送を一端でも受け持ってくれれば、
我が方の負担も軽減するという考えか、海軍も次第に協力を惜しまないようになっていました。

しかし、中途半端に助けを求めるので、例えば
「設計図を見るとあまり役に立ちそうにないので、海軍の技官が

『こちらで設計し直した方がいいのではないか』
と提案すると


『もう材料を設計図に合わせて切ってしまったからどうしようもできない』


と陸軍は答えたため、それを使って何とかせざるをえなかった、
というようなこともあったそうです。


そして、完成。

またまたウィキペディアからの引用ですが


海軍関係者も招待して潜行試験が行われたが、(中略)試行錯誤を繰り返し、
やがて艦体はなんとか水面下に完全に没したが、今度は単に沈没しただけだった。
その様子を見て「落ちた(沈没した)」と見 学していた海軍が騒然となる横で、
陸軍一同は潜水成功と勘違いし、満面の笑みで万歳三唱する有様だった。

と、まるで陸軍側がお馬鹿さんであるかのように描かれています。
どうやら、これは少し「印象操作を誘う、厳密ではない表現」であるようです。

陸軍は、ゼロからの開発にあたって「西村式潜水艦」という、
民間の一水産業者の発明した、豆潜水艦を手本にしています。
西村一松という、学歴もないのに独学で船舶を建造してしまうほどの「才人」が
1929年、すでに自走性と作業性を持った世界初の潜水作業艇を自費制作していたのです。

この民間人は陸軍の嘱託として、この潜水艦建造に知恵を貸しており、
それゆえ試作品「まるゆ第一号」は西村式潜水艦と同じ、

「停止の姿勢でそのまま沈む沈降型」

で、浮いた姿勢からいきなり「すぽ~~ん」と潜って行きました。
陸軍側はもともとそのつもりですから「潜った、潜った」「大成功」と大はしゃぎ。

ところが、海軍の潜水艦は水上航走の姿勢から潜航に移るものなので、

「落ちた」「落ちた」
(沈没のこと)


と、見ていた海軍軍人たちは騒然となった、ということのようです。


もともと戦闘を目的としていないまるゆは一刻でも早く沈んで隠れられれば良かったのです。
早い話、「敵が来たときだけ水中に隠れることができる機能を持ったフネ」
を陸軍は作りたかったのですから。

海軍的には「常識では考えられない、危ない」というシロモノであっても、そして
その通り、その後技術的に問題百出であっても、
取りあえず、陸軍潜水艦「まるゆ」は船出をしてしまいました。

一体、これ、どうなるんでしょう。
当事者には申し訳ないのだけど、その無謀さに思わず涙ぐんでしまう、
この奇々怪々な陸軍潜水艦・・・・・。

当然予測される、まるゆに乗り込んだ人々の苦労について(そりゃ苦労も多かろう)、
また別の日にお話ししたいと思います。


それにしても、冒頭「青の6号」ですが・・・・・。

世界の国が一致団結して悪の組織に立ち向かっていく、というこの世界の構図の中で、
まずこの後予想されるのは、間違いなく大国同士の主導権争いでしょう。
そして補給や武器輸出、戦略や戦闘法で意見がまとまらず、
政治家や企業が絡み、次第に味方同士対立が深まっていくことは必至。


我が日本の帝国陸海軍が、互いを「敵国海軍」「敵国陸軍」と呼んだように、
きっとこの漫画の同盟国の間でも

「敵国日本」「敵国アメリカ」と相手を呼び合って・・・・・・・・あれ?







「空の神兵」~メイキング・オブ・空の神兵

2012-01-29 | 陸軍

 

軍歌「空の神兵」について書いたときに、同時にこの映画を観ました。
陸軍の落下傘兵教育をドキュメンタリーで映画にしたものです。
何の演出も(一部やらせ除き)無く、ナレーションも控えめ。
これこそドキュメンタリー。
ちゃんと過程を踏んで分かりやすく落下傘兵の訓練を説明しています。
購入で手に入れるのも、レンタルするのも、少し難しいお宝映画なので、全編写真を撮りまくり、
その内容を皆さんに説明したいと思います。

上画像のバックになっているのは、ひっくり返った十字架のようですが、落下傘。
部隊のマークで、軍旗にも入っています。
彼らの軍服の襟章、輸送飛行機の垂直尾翼にもこのマークがあったそうです。

先日南方で隊長をしていたある海軍軍人の回想録を読みました。
その経歴の途中、
「落下傘部隊に誘ってもらったが丁重にお断りする」
というようなことがあったそうです。
この方は、陸戦隊や潜水艦、法務部など、いろんなところを転々とした軍歴をお持ちですが、
そう言う方でも落下傘だけははお断りだった・・・ということのようです。
命を国に預けるべく軍人になり、死を覚悟した人にとっても、
高高度から生身で落下していくのは怖かったのでしょうか。

勿論いきなり落下傘を背負って何の経験もないのに
上空何千メートルの機上からつき落とされるわけではないのですが、
当時の若者にとっては、飛行機が新幹線レベルに簡単に乗れる現代人などより
はるかに遠い世界のできごとに思われたのに違いありません。

志願したのかそれとも強制的に配置されたのかはわかりませんが、
落下傘兵として集まってきた青年たち。
まずはエライ人の訓示から。

基礎訓練は写真の棒剣術のような武道に始まり、器械体操がその中心になります。
落下時の受け身から、というわけですね。
 
最初は「でんぐり返り」から始まるマット運動も、進むにつれハードルが上がって行きます。
数人の上を跳躍してマットで一回転できるまでになります。


次の段階は高いところから飛び降りてそのあと一回転。
このあともっと高いところから砂の上に飛び降りる訓練があります。

 

同時に落下傘の構造について事細かに学びます。
手入れの不備は死に直結します。
特にたたみ方が悪いと傘が開かないことにもつながるので細心の注意が必要です。

 

傘のヘリは定規できっちり揃え、ロープはからまないように図のようにたたみます。
傘が開くときはこのロープが解かれていくわけです。

 

物理学などの座学も命に直結するものともなれば皆真剣そのものです。
兵学校の授業のように居眠りをするひとなどここではまずいないと思われます。

さて、いよいよ落下傘降下のための第一歩訓練。
降下シミュレーターを使っての体感訓練から始まります。



最初は機械で釣り上げて、実際の降下速度と同じ速さで機械を降ろします。
地面に落ちた時の衝撃をシミュレーションするわけです。

 

それが終わると、傘を付けた機械で上りは機械、下りはフリーフォール。
傘の周りにはみんなが待機して次の練習者のために手早く傘を整えます。

お次は最初から開いた傘を背負って、塔の上から降下。
これまでは体育館での訓練ですが、いよいよ外での訓練です。

 

ここで訓練生は初めて落下傘での本当の降下を体験します。
「うをを~!気持ちええ~!」と内心叫んでいるのかもしれません。

 

この訓練でも、一人終わるとすぐさまこうやって骨に傘を貼り、引き上げます。
降下と同時に傘が骨から外れ、開いたままの傘で降下するのです。

練習生の憩いのひととき。

ヘアカットしてもらっている人がいますね。
ここの雑談は、何を言っているのかあまり聞きとれませんでした。
そこに上官がやってきて降下服の支給をします。皆大喜び。
やっぱりこういうことが嬉しいんですね。

 

散髪してもらっていた兵隊さん、さっそく帽子をかぶって
「おお、よく映るぞ」と言われてご満悦です。
靴は衝撃吸収のためでしょうか、普通の靴より底が厚いように見えます。
それにしても、かっこいいブーツですね。今日でも履けそう。

 

ワクワクしながら着替えして、初めて一人前の落下傘兵の姿で次の段階の訓練です。



飛行機と同じ大きさの出口から降下の態勢で飛び出す訓練。
どんな態勢で落ちても一緒なのではないか?
とつい思ってしまいがちですが、姿勢が悪いと傘が開くときに手がひっかかったりするので、
少しでも危険な因子をできるだけ少なくするために、この訓練はしつこいほど繰り返されるのだそうです。

右下にいるのは教官ですが、姿勢が悪いものにはいちいち呼びとめて
「貴様の姿勢はこうだが、もしこうだと、傘に引っ掛かるから気をつけよ」などと注意し、
言われた方は真剣に「はいっ」とこちらもいちいち敬礼します。
ここまで進んだら次は降下予行訓練。



この時代の普通の青年で飛行機に乗ったことのある者は皆無であろうと予想されます。
高層ビルもありませんから、飛行機に乗ることそのものが衝撃体験。
皆の気持ちをよくわかっているらしい上官が
「飛行機は絶対に安全であーる!」と訓示していました。

 

緊張の面持ちで乗り込みます。
上空から下界を眺め、まずは地形を覚え、高さに慣れます。
そして、降下口から顔を出して風圧を体験します。

 

少しわかりにくいですが、顔の肉がぶるぶる震えて、瞼が五重くらいになっています。
「どう思ったかっ?」と上官に感想を聞かれて
「はいっ、もの凄い風圧でありましたっ」
なんて大真面目に答えていましたが、
風圧を体験することが生まれて初めてなら、そうとしか言いようがないでしょうね。
さて、ここまで来たら、残る訓練は・・・・。

そう、降下訓練です。

その前夜。
TOと一緒に観ていて「まさか遺書書くとか?」「いや、遺品の整理だろ」と笑っていたら

本当に荷物整理してるし。
一応遺書も書いてるし。
もう寝てる人もいますが。
 自分に言い聞かせるように日記を書く兵。

ここはやらせっぽいけど、絶対に「盛って」はいない、不安に苛まれるかれの心情がよく現れています。
「だが若し傘が開かなかったら」
ここで彼は手を止めしばし瞑目、自分に言い聞かせるようにこう続けるのです。
「その時は潔く散るまでだ。
そうだ。傘はさっき自分で十分注意してたたんだ。
絶対大丈夫、傘はきっと開く。
確実な、立派な姿勢で飛び降りよう」


いよいよ当日。

 

事故を防ぐために慎重に風速風力の測定、そして降下地点の整備が始まります。

 

全く演出なしの降下兵の表情。動悸が聞こえてきそうです。
この部分のナレーション。

いよいよ降下となると極度の緊張で顔がひくひくとひきつってくる。
唇が乾いてくる。のどが渇く。顔がむずがゆい。
ついに唇が白く粉をふいたようにカラカラになる。
顔がどす黒く青味がかる・・・・。


 

最も緊張する第一降下者。
上官が肩を叩く合図をすれば空中に飛び出すのです。
心臓が張り裂けそうな一瞬でありましょう。そして・・・

 
飛び出す瞬間。傘が開く瞬間。
両手を精いっぱい上にあげて「立派な姿勢」を保とうとしているのが覗えて泣けます。

開いた・・・・。
 全員が降下した後、士官がドアを閉めました。

バーにロープがかかっていますが、これは降下前に落下傘の紐を開くロープ。
自分で紐を引くのではなく、Dカンのようなものをここに留めて、
飛び降りると同時に落下傘紐が自動的に引かれるようになっているようです。
本人がパニクって紐が引けない、というような事故の防止なのでしょう。
着地寸前に予備の傘の入った小さいパラシュートを落とします。



着地したらすぐさま風上に向かって走り、傘や紐が身体にからまないようにします。

大抵着地後一回転するのですが、

この兵隊さんは二本脚で着地し、そのまま走り出しました。
どこに着地できるかなんて自分でコントロールできないのでは?と思ったのですが、
どうやら両手に握ったロープを引いたり緩めたりすることで着地地点を変えられるようですね。



この士官さんは下から降下する兵に向かって態勢や姿勢について指示するため、
ずっと声を張り上げっぱなし。
指導する方も真剣です。でも、空中ではたしてこの声が聞きとれるんだろうか・・・。

さて、全員無事に初降下成功。
上官に訓練終了の報告です。
こんなときでもちゃんと行進をする日本陸軍。



なんだか歩き方が面白いんですけど・・・。
そして、解散になってから、後続部隊の降下を眺めつつ一服のひととき。
いやー、この時の皆さんの気持ち、わかります。



このときに聞きとれた会話。

「飛行機に乗ってるときの気持ちなあー・・。
何とも言えんわー・・ほんまに」

関西出身の兵隊さんのようです。
そこに「敬礼は省略!」といいつつやって来た上官どの。

 

どうだ一本。と、自分の煙草を勧めます。
うわー。男同士ならではの、この愛情表現。
「太陽にほえろ」のラストシーンみたい。
ボスがよく最後に煙草の火を付けてやっていましたよね。
そして、上官どのは(おそらく映画監督から注文を受けてのカットと思われますが)
「どうだった、初めて降下した気分は」と尋ね、かれは
「は、無我夢中でありましたっ」と答えます。
まあそうでしょうな。
「何度も繰り返しているとだんだん冷静になるから、まあ、頑張れ」と激励するのですが、
上官どの、他にも兵隊いっぱいいるんだからみんなにも煙草勧めなきゃ。
えこひいきはいかんよ。



上官が去った後実にうまそうに紫煙をくゆらす兵。
こういうときの煙草は、本当に美味しいんでしょうねえ・・・。

 
はい。

 

白黒だと顕微鏡写真のウィルスみたいですが、一つ一つが落下傘。
こんなにたくさんの落下傘兵が同時に降下しているのです。
慣れてきたら楽しかったりするのでしょうか。

そして降下後、やはり投下された武器の梱包を解き、手にとってただちに陸戦に入るわけです。
その訓練も行われるようになります。
というか、こちらが目的なわけですから・・・・。

 



陸軍落下傘部隊は通称で、正確には挺進連隊といいます。
落下傘を使った戦隊の研究は1940年に始まり、翌41年にはもう設立されていました。
この映画はその一年後、42年の製作です。
43年の蘭印侵攻におけるパレンバン空挺作戦での大戦果をあげる前、
まさに部隊錬成期まっただ中の撮影だったのです。
映画には冒頭と最後に高木東六作曲、梅木三郎作詞の名曲「空の神兵」が挿入されました。


このとき初降下を果たし、喜びに顔を輝かせた兵たちが、その後過酷な訓練に耐え、
1943年2月15日のパレンバンの空を「純白の花負いて」舞い降りたのでしょうか。














或る陸軍軍人の見た終戦

2011-11-22 | 陸軍

          

ある元陸軍軍人、N氏のお話を二回にわたってお送りしてきましたが、
もしかしたら業界の超有名人なので、ご存じの方もおられたかもしれませんね。

本日画像は、帝国陸海軍の軍装について豪華カラーで網羅した「軍装辞典」に掲載されていた、
陸軍士官学校の生徒の写真。
先日アップした士官学校候補生の軍装と少し違うことがあるとすれば、ベルト。
このベルトは、N氏が進む予定だった、陸軍航空士官学校独特のものです。

映画「ムルデカ」でも、この「捧げ刀の礼」をしているシーンが実に印象的でした。
最後のシーンで、インドネシア軍の軍人になったかつての仲間が、
命を捨てて戦った日本人兵士の墓の前でこの捧げ刀をやります。
インドネシア軍の捧げ剣の形は、日本帝国陸軍のものを踏襲しているのだと理解しました。

捧げ剣。
正面に刀を寄せ、まるで口づけするかのように捧げ持って、その後右下に払う。
ムルデカだけでなく、どんな映画でも、捧げ剣のシーンがでると目が釘付けになってしまいます。
この所作を「実に美しい」というと、左の方からいろんな罵声が飛んできそうですが、
美しいものは美しいわい!
かっこいいものをかっこいいと言って何が悪い!と、青筋立てて言い返させていただきます。

ここに来る皆さんなら、お分かりいただけますね?



N氏が在籍していた頃、士官学校は疎開していました。
疎開先にも関わらず、そして極秘にしていたはずにもかかわらず、ほどなくその場所は
アメリカ軍の知るところとなり、グラマンが毎日のように飛来したそうです。

未来の軍中枢を担う人材を、学生のころから潰しておこう、というこの攻撃は、
真珠湾攻撃にも見られるように、非戦闘員は決してターゲットにしたことのない日本と違い、
東京大空襲や原子爆弾の投下は勿論、
小学生や海中に漂う看護婦ですら掃射する「鬼畜米軍」であれば当然の所業です。

兵学校もやはりグラマンの襲来を受けたという証言があります。
しかし、眼と鼻の先の呉で派手にドンパチやっていたにもかかわらず、
海軍兵学校は爆撃されていません。
「世界三大海軍兵学校」のひとつであり、壮麗な歴史的建造物であったゆえ、
米軍はそれを破壊することなく保護し、勝利の暁にはそれを利用せんとする意図だったのでしょう。
カーチス・ルメイが
「これらの欧米風建築物を爆撃するのは自分たちを攻撃するようなものだ」と、
兵学校への爆撃を一切許さなかったため、という説もあります。
(現に、大講堂が礼拝堂になり、生徒館始め校舎は進駐軍に接収されました)


「グラマンが狙ってくるのを、電柱の陰に隠れてやり過ごしたんだよ」

N氏は、降下してくるパイロットと目があったそうです。

「ゴーグルかけてたけどね」

同じような年齢の青年を、機銃掃射で狙う米軍パイロットは、どのような気持ちだったのでしょうか。
しかたがないと思っていたのか。あくまでも敵意に燃えていたのか。


日本の敗戦が疎開地の士官候補生にすら明らかになってすぐ、終戦の詔勅が下りました。
其のとき、N氏は
「帝都に行き、終戦の詔勅を皆が受け入れているのか、
反乱を大規模に起こす動きがあるのか、見てきてほしい」
という命令を受け、東京に行きます。
これは、N氏の実家が東京にあったためだそうです。

軍令部に赴いたN候補生、反乱についての情報を得ようと何人かに訪ねるも、皆
「ここではわからない」

また別の日に「ある海軍軍人の終戦」について書く予定なのですが、
その海軍軍人の周りでも(潜水艦乗り)、周りの軍人たちは
「なんだか反乱をおこしている人もいるみたいだけど、よくわからないから様子を見ている」

みんなが起こすなら起こすけど、起こさないなら起こさないという、
なんというか、多分に付和雷同的な態度でいたようです。
・・・・実に日本人、ですね。


そしてその後、皇居に赴いたN氏の見たものは何だったと思われますか?

沢山の、たくさんの人間が、そこで切腹している光景だったのです。


終戦の写真で、有名な「皇居前で泣きながら土下座する人々」は、
実は、一足前にそれを知っていた新聞記者が、詔勅の下る前にその辺の人を集めてポーズを取らせた
「やらせ」であったことが、近年明らかになっています。
15日に記事を間に合わせるために、14日に「前撮り」したというわけです。
皆が振り向くと、写真を撮っていた記者は何故か男泣きしていた、という話でした。

終戦の詔勅は実は14日に渙発(かんぱつ)されています。
その日のうちに新聞記者に写しが手渡されているわけですから、軍関係者は勿論知っていたでしょう。

N氏が見たのは、一般の人々が、玉音放送を聞いて大勢集まってくる前の皇居であり、
そのとき切腹をしていた人々は、ほとんどが軍関係者ではなかったかと思われます。
N氏は詔勅の後でなく、渙発されてすぐ命を受け、玉音放送の直前に皇居に行った可能性もありますが、
それは聞きそびれました。


しかし、「どうしてそういったことが一般に知られていないのでしょうか」と尋ねると、N氏の答えは
「そんなことみんなに知らせたって、何の意味もないじゃない」

これは、皇国の敗戦に殉じるなどという行為が、もはや喧伝すべきでもなければ、
語るべきことでもなくなったと国民が判断した、ということだったかもしれません。


このような光景を瞼に焼き付け、徹底抗戦の動きも決して大きなものではないと判断したN氏は帰隊しました。

すると、そこで見たものは。
近くの工場に徴用されていた朝鮮人労働者が、手に手にこん棒などをもって、向かってくる様子でした。
日本の敗戦を知ったとたん、朝鮮人が武器を持ち、一般の日本人を襲いだしたという事実をご存知ですか?
その残酷さは、決して公の文書には残っていないのですが、
今まで育ててくれた日本人の養父母を虐殺したり、わざわざ日本軍の飛行服を着こんで狼藉を働く、
といった悪質なものが非常に多かったそうです。

彼らは統治された恨み、徴用された恨みを―戦勝国民気取りで―
乱暴したり、強奪することで晴らしだしました。
その様子に、マッカーサーでさえ「お前ら朝鮮人は戦勝国民ではない、第三国人だ」と勧告し、
この「三国人」が、当時の朝鮮民族を言う言葉になったくらいです。

N氏の見たのは、まさにこのような「恨み晴らさでおくものか」とばかり、
武装解除になったばかりの士官学校の学生に向かってやってくる姿でした。
武装解除された学生をわざわざ襲ってくる、というあたりが・・・・何とも言えません。

さすがの陸軍軍人も、今や丸腰です。
こん棒や鍬を構え、悪意をむき出しにする朝鮮人労働者たちを前に、緊張が走りました。
と、其の時。
隊長で、まだ帯刀をゆるされていた教官がすらりと軍刀を抜きました。
不気味なくらい美しい日本刀がその光を放ち、一同は静まり返りました。

軍刀を体側右側に立てて捧げ持つ礼をご存知でしょうか。
そのままの姿勢で、教官は生徒たちを従え、まっすぐ前を見て進んでいきます。
まるでモーゼの十戒のように、手に手に武器を持つ朝鮮人たちが二手に分かれました。
開けられた道を教官の日本刀は先頭に立って進み、N氏たちは暴徒から逃れたのです。
帝国軍人らしい、堂々とした態度で。


このあたりのことを、N氏は
「まあ、仕方ないんじゃないかなあ。彼らだっていろいろ恨んでただろうし」
と、内心はともかく、戦後何となくそのようにしか言えないからそう言っておく、という、
ほとんどの日本人と同じような言い方で評しておられました。
それは、我々のようにインターネットという情報媒体がなかった戦後を生きて来た日本人の、
「普通の処し方」であるともいえます。

因みに、本当に徴用されてきた朝鮮人の数は、全国で250人ほどであることが分かっています。


混乱のまま卒業した陸軍士官学校から、
「最後の陸軍士官」を認定する卒業証書がN氏の許に届いたのは、終戦後間もなくのことでした。








或る陸軍軍人の戦後(建築家編)

2011-11-20 | 陸軍

           

元陸軍士官N氏の戦後のお仕事、建築についてです。

N氏は、建築業界の重鎮。
M社で(仮名になってないかな)建築設計を手掛けてきて「僕が作った」と軽くおっしゃる建物の中には、
横浜ランドマークタワーの名前があります。

皆さん、横浜ランドマークタワーが、先の地震の際どうだったかご存知ですか?
あの地上70階の超高層ビルが、「気持ちよく揺れた程度」だったということを。
みないみらい21の、同じ地区にある美術館やその他のビルが揺れで大騒ぎになり、
そこの人たちはランドマークタワーの11階にM社が設けた階避難所に避難していたそうです。

そして、その驚異の耐震構造について、関係各方面から驚きの声があがっており、
かつ具体的な質問なども寄せられているのだそうですが、N氏の答えは

「俺が作ったんだもの」

このランドマークタワーは、N氏が50歳のときから実地設計を手掛けたもので、
勿論ご存じと思いますが、日本にある最も高い超高層ビルです。
ランドマークタワーの基礎は神奈川県中のコンクリートミキサーを動員し、
のべ11万台分のコンクリートを三日三晩打ち込んで固めてあります。
コンクリート打設の際に出る熱のケアもしながらの大工事だったのですが、
「でも、そんなのは図面にでない」のだそうです。

「最近の建築は、ほら、丸の内の、あのビルはもう揺れて揺れて大変だったらしいけど」

今年の2月。
N氏がご自身で設計された「あすかII」の船旅でシドニーからニュージーランドにいざ向かわんとしたとき、

先のニュージーランド地震が起こりました。
危うく難を逃れたあすかIIはニュージーランドへの寄港を中止し、日本へ向かったのですが、

その航路途中でN氏は東北・宮城沖大震災の報を受けます。

そしてとりあえず連絡を取ったランドマークタワー関係者の
「気持のいい揺れでしたよ」
と言う言葉を聴き、ご自分の「作品」の堅牢さにほっと一安心したそうです。

「ランドマークを掴めたら、それを持って地球を振りまわすことができるくらい丈夫」
という噂を聞いたことがありますが、この噂の根拠はこの基礎工事だったのですね。
因みに、みなとみらいは地盤もしっかりしているので、液状化は心配ないそうです。
ですから、横浜の皆さんは地震になったらランドマークタワーに逃げるといいかもしれません。



さて、陸軍とタイトルが付いているのでつい見てしまった、と言う方のために少しそういう話題を。

ランドマークタワーの高さは、横にするとドックヤードに入る貨客船の長さくらいです。
この計画があったとき、空地制限上70階のビルは許可できない、というお上との攻防がありました。
日本一の高さのビルを作ろうという計画に対し、あくまでも規則を盾に首を縦に振らない役所。
しかし、ご安心ください。
その「お上側」に、N氏の陸軍士官学校の同期がいることが判明。

もうお分かりですね。
話はとんとん拍子に進み、現在みなとみらいにそびえるランドマークタワー建築計画が、
このとき決定の運びとなったのでした。

海軍兵学校や、勿論陸軍士官学校卒業生も、戦後の高度成長期の日本の中枢で、
その発展の中心を担ってきました。
この日N氏が少し語った「陸士出身の知人」はいずれも錚々たる財界人ばかりです。



このN氏との会合について、息子は興味津々でした。
「ねえ、今日あの人と会ったの?」
「え?誰」
「ランドマークの人」

N氏のチームは「政府極秘の建築」も引き受けているのです。
政府極秘ゆえ、詳しくは書きませんが、そのプロジェクトは例えば

防衛庁、国会議事堂

ここが実はどんな仕掛けがあるのか、・・・・ああ、書きたい・・・・が書けない。

と言うようなことも聴いてしまいました。
スパイ大好きの息子は、こんな話に目を輝かせて聴き入り、
しかし、こう言うのも忘れませんでしたよ。

「それ、ブログに書いちゃだめだよ」

息子はわたしがブログをしているということだけ知っています。
・・・・わかってますって。
この分だと、息子にはわざわざ口止めしなくても大丈夫そうですね。


この建築家としてのN氏の話の中で、最も響いたのは、原発の話でした。
「津波じゃなくて地震で壊れてたって、いったい何たることか、っていうんですよ」
何かを建造するとき、建築の専門家なら当然地盤の歴史から調べ、そこがどうなっているかを判断したうえで、
例えばランドマークタワーにみられるような、その建物に応じた補強耐震対策から入るものなのです。
しかし
「最初から専門家なんて、一人も入っちゃいなかったんだよ。今回の(福島の)対策チームにも」
肝心の地盤について、そしてそこにどのような建築の基礎を穿つかについての専門家が一人もいないとは。

確かにこれは恐ろしい話です。
原発が実は砂上の楼閣であったなんて、シャレになっていません。
原発関係者のうち一人でも、自分の身の回りだけの責任を継ぎ合わせてものを考えず、
タテ割りの分業でなく、全体を見通す視点を持っている責任者がいたら、
候補地設定の段階、そして建築基礎の段階でもう少しましな選択ができたということではないのでしょうか。



地震と言えば、先日、日本建築学会が東北の歴史的建造物の復旧や資料を保存するために、
活動を始めた、と言うニュースを11月9日(水)7時のNHKニュースで観た方はおられませんか?

その日の昼、エリス中尉は、まさにその「会長」であるところのN氏からその話を聴いており、
当日夜のニュースを見てそのタイミングに驚いたものです。
なんでも、文化庁を巻き込んで、古文書の復元やら、現地の古老に話を聞くところから始めるそうで、
それに必要な費用概算、400億。10年にわたるプロジェクトです。

その会長にされたN氏、
「後2年で勘弁してくれって言ってんだよ。オレ」
しかし、
「仕事させといたほうが長生きするから」やめさせてもらえないのだとか。

N氏のかかりつけの医者は「88まで大丈夫」と太鼓判を押しているそうですが、
わたしの見たところ、後10年はたっぷりお元気でおられると思われます。

「こう言う話が聞きたいって言ってくれたら、資料持ってくるよ」
と言ってくださっているので、陸軍についてもう少し(急いで)勉強してから、
もう一度お会いしたいと思っています。


しかし、間近でお会いするN氏のの、老人と思えぬ生命力の強さ、眼の輝き、闊達な口調。
「かっこいい老人っているよなあ」
イーストウッドの「スペース・カウボーイ」について書いたこの文句が、そのまま浮かびました。

次回は、そのN氏が見た終戦についてです。


 


或る陸軍軍人のこと(士官学校編)

2011-11-13 | 陸軍

       


カーキに最も合うとされている色は、フランソワーズ・モレシャン(知ってます?)によるとだそうです。
フランス人のモレシャンさんも太鼓判。
ベストマッチのカラーコーディネートを、日本帝国陸軍は大昔に軍服に採用していました。
なので、背景も赤にしてしまいましたが、今まで描いた画像の中、
この陸軍士官学校の候補生画像だけが、ブルーっぽい作品群の中で目立っています。

エリス中尉は「ネイビーブルー」にしか興味なかったんじゃないのか、と思われた方。

全体的に海軍ファンであるところのエリス中尉ですが、陸軍が嫌い、と言っているわけではありません。
決して戦争賛美するわけではありませんが、陸海問わず軍隊と言う究極の規律団体に属する男性は、
すべからく、その個人の全てを国への忠誠と滅私の精神の象徴である軍服によって押し隠され、
それゆえにとても一般人には到達できないあるストイックな美しさを湛えるものだと思うのです。

・・・・難しく言ってみましたが、要するに、軍服姿はどこのでも好きだってことですね。

陸軍の制服は、前にも言ったように、防暑用のハイウェストのズボン、そして士官の着用するマント、
そして本日画像の陸軍士官学校の軍服がデザイン的に優れていると思っています。




以前から陸士のお話を聞きたいと思っていた方がいました。
終戦時にちょうど士官学校を終えた方で
「終戦後卒業証書が送られてきたので、陸軍少尉が最終階級なんだよ」と言う方。

しかしながら、その方は業界なら知らないもののない超有名、超名士。
言わば有名界の重鎮です。
そんな方にエリス中尉の興味ごときのためにお時間を取らすことなど畏れ多くて
(しかも陸軍のことをあまり知りませんし)ずっと具体的な話にならなかったのですが、
先週「早く話聴いとかないと、オレ死んじゃうよ」とご本人がおっしゃるので、
まさかとは思いつつそうなっては一生後悔することになると、慌てて会合をセッティング。



82歳にして重職をいくつも兼任されている方なので、先方の会合の前にこちらがその場所に伺い、
2時間近く、お話を聞かせていただきました。


N氏は、陸軍士官学校61期。
ご尊父は日露戦争で二〇三高地に参加もし、その後(おそらく)日支戦線で戦死、
(この部分はご指摘もありましたがつじつまが合わないのでこういうことであろうと理解)
金鵄勲章功労をされています。
N氏が生まれてすぐのことで、父親の顔を知らないで育ちました。
金鵄勲章功労者にはそれなりの功労金が国から支払われますから、
N家はそれで壮麗な墓所を建設したそうです。

しかし、先の東北地震で倒壊してしまい、「それを直さなくてはいけないんだが・・・・」
地震後の建築学会の歴史的建築物復興プロジェクトが忙しくて、ということです。

父上は職業軍人ではなく徴兵で召集された一般人だったそうですが、
長じてN氏が軍人の道を志したのは、戦死した父上への思いであったでしょうか。
N少年は陸軍士官学校、海軍兵学校を受験し、どちらも合格します。

「よくねえ、陸軍幼年学校ですかなんて言う人いるんだよね。
あれは違うの。あれはだってほら、中学生だもの」

戦後一般人の「陸士」に対する知識は実に適当で、N氏はその長い人生、何度か、
「ほー、陸士と言うと、陸軍幼年学校ですか」
などと聴かれてきたと見え、少しその件にはおかんむりのようでした。
まあ、エリス中尉も陸軍については詳しいとも言えないのですが、陸士と陸幼の違いくらいは・・・。

因みに陸幼は旧制中学1年から2年に受験資格がありました。
俳優の藤岡琢也は陸幼出身、なんと作家、大杉栄は中退者です。
このとき大杉は何かに目覚め、それがアナーキストとして後に陸軍に殺害されるという因縁
(甘粕事件)の導火線となったのでしょうか。


N氏は「殿下クラス」です。
同期には東久邇宮俊彦王がおられ、同じ隊でした。
殿下入学を迎えるために、陸士では「殿下舎」をわざわざ作ったそうです。
ちなみにこの殿下は「ブラジルに行ってそのまま帰ってこなかった」ということですが、
いつ、なんのためにブラジルに渡ったか、は聞きそびれました。

海兵と違うのが、
分隊とはいわずグループを例えばN生徒のいた「比叡隊」「三笠隊」などと、呼んでいたことです。
正式には1隊、2隊という数字の番号名ですが「軍のことなのでカムフラージュ」の意味があったようです。

因みにN学生は1隊で、殿下の同隊ですから、おそらく超優秀な入学成績だったのでしょう。
もしかしたら、父上の金鵄勲章が何かこのクラス割に関係あったかもしれません。
剣道の達人でもあったので、卒業式では天覧試合に出たり、
「フリーハンドで線や与えられたテーマ(例えば防空壕)の絵を描いたり」
したそうです。



絵?
絵を描いているところを天覧というのが不思議なのですが、これはよほどN生徒の絵の腕前が凄かった、
ということのようです。
N氏の戦後のお仕事は(現在も現役)建築家。建築界の大御所です。
フリーハンドで線を引くなど、朝飯前のお仕事(のはず)です。
のみならず、趣味の絵で個展を開いたりしているというのですから、当然この頃からお上手だったわけですね。

成績優秀、武道の達人、絵を描かせれば右に出る者なく・・・・かっこいいなあ(ため息)。

当然のことですが「厳しいなんてもんじゃない」陸士の学生生活。
まず大声を出すことから身体に叩き込まれます。
これは激戦地で号令をかけるのに肉声が聞こえなくては話にならんと言う理由で、海軍と一緒ですね。
鉄拳制裁も当たり前、と言いたいところですが

「鉄拳制裁はやっちゃいけなかった。海軍兵学校はそりゃひどかったみたいだけど」

だそうで・・・すみません・・・ってなんでわたしが謝まってるんでしょうか。

しかしまあ、軍隊ですからやっぱり上級生は下級生を殴ります。
「Nの突き」は危険なので禁じ手にされてしまった、と言うくらいの剣道の達人であったN生徒、
殴られる瞬間ボクシングのスウェイバックのように後ろに少し身体を逃がして衝撃を軽減していたら、
「貴様―!」
と、今度は壁に身体を押し付けられ、逃げないように殴られたそうです(T_T)

「たった1年しか違わないあったま悪い奴が、指導生徒と称して殴るんだよ。もうこいつーって思ってたね」
そしてその上級生と、N氏は戦後再会します。
某テレビ局に就職した元上級生がN氏にあることで「助けてくれ」と平身低頭する立場でした。
きっと心の広いN氏のことですから、黙って助けてあげたのでしょうが、
「先輩、昔俺のこと殴ってくれたよな~」
くらいのイヤミは言ってもよろしかったのではないでしょうか。

N氏は「ぼくは航空だったから」と言います。
それまで士官学校を卒業した航空志望者は、航空兵科士官候補生と言う名で訓練に入ったのですが、
終戦の頃、日本にはすでに乗る飛行機もガソリンも全く無い状態でした。
本来ならば埼玉県豊岡町(現在の入間市、入間基地になっている)にあり、
修武台と名づけられた陸軍航空士官学校に行くはずだったのでしょうが、61期生徒であるN学生は「未入校」です。
この期は「予科士官学校で航空科を指定された者」と、ウィキペディアにはあります。

国内に飛行機もガソリンが無いのでは仕方ない。
59期と60期の航空学生はこのころ満州で教育課程を受けており、61期のN学生のその後の予定も満州でした。
しかしちょうどそのとき終戦。
「それは運がよろしかったということでしょうか?」
エリス中尉がこのように訪ねると
「いやー、大丈夫だったんじゃない?
後で聴いたら『もし来てても、将校だから真っ先に帰してましたよ』って関係者が言ってたし」


それは確かで、59期と60期の生徒は終戦の勅を受けてすぐ、しかも8月中に復員しています。
N氏のお話をうかがう限り、決して士官学校の生徒が全て優秀だったわけでもなさそうですが、
何と言っても国費を投入して育てたエリート中のエリートですから、終戦の際にも、いや終戦だからこそ、
彼らを保護し、どんな形であれ今後の日本のために働いてほしいと国が特別に扱ったと言うことでしょうか。


そのN候補生の見た終戦についてもまた書きたいのですが、次回は少しこのN氏について、
「現在のお仕事」の話をさせていただきましょう。







高貴なる不良バロン西の血中海軍度

2010-11-08 | 陸軍


陸軍戦車部隊隊長として硫黄島で戦死した西竹一中佐(死後大佐)です。

海軍ファンであるところのエリス中尉が海軍に目覚めるずっと昔、
さかのぼれば少女時代から西中佐、バロン西は憧れの軍人でした。

今日の画像を見ていただけると何となくお分かりかと思いますが、
西中尉(当時)の軍服は特別仕立てです。
腰を極端に絞り、ジョッパーズという乗馬ズボンの腿部分は大きく広がった独特のデザイン。
襟はハイカラー。
軍帽も自分好みにデザインしています。
横に大きく張り出したトップ(他の将校と写っている写真ではバロンだけ軍帽が大きい)、
短く垂直なひさし。
これを世に「西式軍帽」と言ったそうです。
もちろん軍服の仕立てもヨーロッパでの特別誂えでした。
ブーツ、鞭、馬具は全てフランスはエルメス製。

 戦後何十年を経ていまだにぴかぴか光るキーパー入りのエルメスのブーツを見て、
その美しさにため息をついたのが、何を隠そう、
エリス中尉がエルメスファンになるきっかけであったともいえます。
死地となった硫黄島でも西中佐はエルメスのブーツ、手には乗馬鞭を離さなかったそうです。

大金持ちの男爵家に生まれた西中佐はもともと車やバイクを乗り回すスピード狂でした。
陸軍幼年学校のとき乗馬に関心を抱いたバロンは、帝国陸軍の花形、騎兵士官に任官。
伝説の馬術家、バロン西が誕生します。

当時の男性としては長身の175センチ、そして何より腰高の足長体型を生かした
「首に乗る」独特の騎馬法で、バロン西はあっという間に才能を開花させます。

そして、1932年のロスアンジェルスオリンピック。

プリデナシオン(優勝国賞典競技)といい、オリンピックで最終日に行われる乗馬競技、
大賞典障害飛越(この競技の勝者で真のオリンピック優勝国が決まるという意味合いを持ち、
特に敬意が払われている競技)で、日本の陸軍中尉が信じがたい飛び越しを繰り返し、
人馬一体、端麗優美の妙技を披露して優勝を成し遂げました。
場内のアナウンスは優勝者の名前を高らかに告げます。

「ファースト・ルテーナント・バロン・タケイチ・ニシ」

バロンは優勝後のインタビューに
We won」、われわれ(=私と愛馬ウラヌス)は勝った、と答え、
その答えは世界の人々を熱狂させます。

天才バロン西は、また高貴なる不良少年でもありました。
十歳のとき男爵位とともに巨万の財産を引き継いだバロンは、まずカメラに没頭。
邸内に暗室まで作って現像焼き付けをする凝りようでした。(子供ですよ)
バイオリン、空気銃、そしてバイクはハーレーダビッドソン。
クルマも少尉候補生の分際でアメ車をとっかえひっかえ。
銀座、築地川には高速ボートをつないで、ホステスを乗せて酔っぱらい運転。

あり余るお金を惜しげもなく遊びにつぎ込み、酔うとケンカもする酒豪でした。
アメリカやヨーロッパでも臆することなくハリウッドのスターと「マブダチ」になり、
船の甲板で真っ裸の追っかけっこ。
美人女優との一夜を賭けて一気飲みの末ぶっ倒れる。

リベラルで遊び人の多い海軍にもこれだけの人物はそういません。
そう、タイトルにある「血中海軍度」が異常に高いバロンでした。
バロンのためにかれが海軍軍人でなかったことを心から惜しむエリス中尉ですが、
海軍に騎兵隊は・・ないですよね。


もちろんのことそれをこちこち石アタマの陸軍が快く思う筈がありません。
大尉になり、少佐になって東京オリンピックを控えた頃満州の荒野に転勤させられてしまいます。

昭和16年には、騎兵科は歩兵科の流れを汲む戦車兵と統合されて機甲兵となり、
兵種としての騎兵は消滅することになりました。
騎兵の多くは、西中佐に代表されるように戦車部隊の要員となるのです。
西中佐が最後に激戦の硫黄島に赴任させられらたのは、
陸軍上層部が派手すぎるこの士官を嫌い、あえて死地に追いやったためだいう説があります。

また、ロスアンジェルスの四年後のベルリンオリンピックで落馬し棄権したという
「失態」に対するものだという説もあります。

日本の切羽詰まった戦況を鑑みて、
特に西中佐だけが懲罰的人事を命じられたというわけでもない、と当初私は思っていましたが
「竹槍事件」を調べて以降、どちらの説も当時の陸軍なら、
あっても不思議ではないと思うようになりました。

しかし、ベルリンで同盟国ドイツの競技者を勝たせるためにわざとバロンが落馬したのだという
とんでもない説に対しては、スポーツ競技者であり、軍人であり、何よりも日本人であるバロンを
徒に貶めようとする悪意のある噂で、全く愚にもつかないとだけ言っておきましょう。


クリント・イーストウッド監督の映画「硫黄島からの手紙」では、
西大佐を伊原剛志が演じていますが、エリス中尉的にはこの配役、全く不満です。
長身の男前なら誰でもいいってもんじゃなかろうと思います。

当時西中佐は43歳。
とても伊原剛志のあの年齢ではその風格もなければ余裕もありません。
何と言っても、伊原剛志からはバロンのゴージャスでエピキュリアン的な貴族らしさが
全くと言っていいほど感じられません。

さて、ここで有名な「降伏勧告」です。

この勧告が本当にあったのかどうかについては諸説あるようです。
硫黄島にいたが全く聞いたこともないという説や、
アメリカに実在するフィルムで、稚拙な日本語で呼びかけている音声が入っているものが
それではないかという説もあり、事実は永遠に謎のままです。

「バロン西、あなたの名誉はすでに十分保たれた。降伏してください。
我々はオリンピックの英雄であるあなたを殺すに忍びない」


バロンはまたロスアンジェルスの名誉市民に名を連ねています。
こういう放送があった、というのは、あくまでも日米合作による伝説で、
実際は単なる一般的な勧告であったのかもしれません。

しかし、バロンの旧知の映画人で、米軍の情報将校として
グアムの第315爆撃航空団に赴任していたサイ・バートレット陸軍大佐
アメリカ軍制圧後の硫黄島に降り立った際に拡声器を用いて西に投降を呼びかけた、
という証言もあるにはあります。
大佐は、戦後、靖国神社でのバロンの慰霊祭に訪れ、涙で追悼の辞を述べています。


これが作られた美談であったかどうかはともかく、この伝説が生まれることそのものが、
この高貴な不良、一代の痛快児に、日本は勿論、
敵国のアメリカ人ですら憧憬を寄せていたということの証明ではないでしょうか。



最後に少し切なく不思議な話をしましょう。

バロン西が硫黄島で戦死した一週間後、遠く離れた東京の厩舎で、
静かに老後の余生を送っていた愛馬ウラヌスが息を引き取ったそうです。
バロンは最後のときもウラヌスのたて髪を胸ポケットに入れていました。

かれは愛馬を迎えに来たのでしょうか。
そして、かつてのように共に空を駆けていったのでしょうか。




参考:「20世紀号ただいま出発」 久保田二郎 マガジンハウス刊
   『オリンポスの使徒 「バロン西伝説はなぜ生れたか」』 大野芳 文藝春秋刊
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