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檜貝襄治少佐~女優の愛した侍

2012-06-09 | 海軍人物伝

            

檜貝襄治海軍少佐 1906年(明治39年)11月20日生まれ
海軍兵学校57期卒 第七〇一航空隊飛行隊長 
1943年1月29日レンネル島沖海戦において戦死
死後全軍布告二階級特進、海軍大佐


キスカ島守備隊の撤退作戦もそうでしたが、日本軍の「ケ号作戦」(乾坤一擲のケ)は、
こちらが本家のガダルカナルにおいても、実にうまくいっています。
「撤退は軍が行うのが当たり前」
などと、キスカについて書いたとき、市民活動家のようなことをつい言ってしまいましたが、
撤退しようにも、もともと制空権も制海権もないからジリ貧となっていたわけで、
素直に撤収部隊を上陸させてくれるくらいならだれも苦労せんわい、
とやはり大本営としては言い訳の一つもしたいところでしょう。

しかし、補給線もままならないガダルカナルの撤退は、御前会議によってすでに決定済み。
大本営がそのために練りに練った作戦とは?
制空権、制海権を一時でもいいから我が方に取り戻し、敵勢力がそこに集中している間に
撤退を敢行する、陽動作戦です。

本日主人公の檜貝少佐は、陽動作戦につられて米軍の繰り出してきた強力な艦隊に挑み、
魚雷を命中させた後被弾、突入して、重巡シカゴを大破させる戦果をあげています。
シカゴは、翌日曳航中に日本軍の追撃を受け沈没しました。

この攻撃によって、ガダルカナルの撤収は米軍に察知されることなく行われ、
作戦は成功を見たのです。
檜貝少佐の上げた戦果は絶大で、その功を称えられ全軍布告、二階級特進しました。


本日のタイトルを「サムライ」ではなく、「侍」としたのは、この―
外出の日には少佐を一目見るために航空隊の外に女性が鈴なりになっていたとか、
映画監督に「軍人をやめて俳優になっては」と誘われたとか、
高峰三枝子の片思いの相手だったとかの神話に事欠かない超のつく美男士官が、
その巷間残る逸話から見ても、その戦いと壮絶な最期を見ても、
こう呼ぶにふさわしい「戦う者の覚悟」を持った「侍」であったからです。

檜貝少佐は、常に几帳面で、やるべきことは最後までやり抜き、飛行技術はずば抜けて優秀。
たとえば「五省」に恥ずることは一瞬たりともなかったであろう真面目人間でありながら、
誰もが「檜貝さん」と階級なしで呼んだという、穏やかで出会った人を悉くとりこにするような、
まさに、心技体、どこをとっても非の打ちどころのない軍人であったようです。

女優の高峰三枝子は、撮影で航空隊を訪れた際、檜貝中尉(当時)に一目ぼれし、
彼女の方が積極的に中尉をを誘って、デートもしていたようですが、
回りの「ありゃ結婚するぞ」という噂を尻目に、檜貝中尉は彼女をとっとと振ってしまうのです。
勿体ない、なんていう声も聞こえてきそうですが、
このあたりは、今の感覚で判ずるには少し難しい点があります。

軍人にとって、結婚は家だけの、ましてや個人のものではありません。
士官ともなると海軍大臣の許可を必要としたように、それは軍人としての公的部分です。
一般の結婚においても、家が第一で惚れたはれたはあまり優先されなかった頃ですから。

考えてもみてください。相手は女優です。
今現在でも、一般人で、ましてや自分の仕事に大志を抱き目的に邁進する男が、
たとえ向こうから迫ってきたとしても、女優と結婚しようと思うでしょうか。
普通の人生を堅実に送っていきたいと思う男性であれば、相手の人間的いかんにかかわらず、
それは選択として避けられるのが普通だと思うのです。

しかも当時女優の社会的地位は低く、まず上の許可は下りなかったと思われます。

一人の男として彼女をたとえ憎からず思うようなことがあっても、
それは結婚というものにつながるものではないと、本人は最初から強く思っていたでしょう。
だからこそおそらく檜貝中尉は、責任ある男として自分から別れを早々に告げたのです。


檜貝少佐はその後長らく独身を通し、一度はすすめられた縁談を
「まだその時期ではない」断っていますが、
35歳のとき山本五十六の姪にあたる19歳の女性と結婚し、
わずか11カ月の新婚生活の間に男児をもうけています。

(山本長官の縁戚に連なるこの結婚には、さすがの少佐も年貢を納める気になったのでしょう。
この選択を見ても、檜貝少佐が女優と結婚する可能性は全くなかったことがわかります)


この檜貝少佐は、「デストロイヤー」と呼ばれていた38期飛行学生時代の菅野直大尉が、
霞ヶ浦航空隊で元気に飛行機を壊していたときの飛行隊長でした。
穏やかでありながら裡に闘志を秘めた武人として、学生の尊敬を集めていたそうです。
菅野少尉が霞ヶ浦での練習機教程を終わる少し前に、檜貝少佐は七〇一飛行隊長として
転出し、それから間もなく、菅野超少尉たちは少佐の戦死の報に接するのです。

壮絶なその戦死の様子は学生たちにも伝えられ、皆一様に
「あの物静かな人が・・・」
と大きな衝撃と、感慨をもってその死を受け止めました。
菅野少尉と同じ飛行隊だった光本卓雄少尉は、
「感受性の強い彼はひとしお深く心に涙したことと思う」
とその様子を語っています。

下写真は、霞空での集団写真。




檜貝少佐は、檜貝式爆撃法という攻撃法を編み出すほどにその技術を昇華させていました。
零戦がまさにそうですが、日本の戦闘機は誰が乗っても一定の効果がある、
というような生易しいものではなかったように思われます。
個人の技術の練達によっては名刀となるように、当時の飛行機は、搭乗員の職人技で
飛んでいたと言っても過言ではないでしょう。

檜貝少佐は、一式陸攻を乗り機とし、まだまだ未発達であった機材を使って、霧の中の航法や
離着陸の方法、爆撃法を常に研究していました。
そして、中国大陸の攻撃においても、弾幕をかいくぐって、名人芸のように爆撃を、
しかも中国空軍のように「数撃ちゃ当たる」式の爆弾バラマキと違い、まさにピンポイントで、
成功させること数十回。
その飛行ならびに攻撃技術はまさに全軍にその名をとどろかせていたそうです。

この逸材が戦死したとき、軍令部には
「戦艦陸奥が沈んだより檜貝少佐を失ったことは痛手だ」
と嘆く声さえあったと言います。

そして、その飛行術は精密である上に、少佐一流のこだわりによって支えられていたようです。
空母分隊長時代、夜間着陸訓練で一番最後に着艦した後、やり方が気にいらないとして、
再び離艦し、再度着陸をやり直したというのです。


戦死した最後の戦いにおいても、檜貝少佐の乗り機は、煌々と照らされた吊光弾に目標を
失い、発射高度が高かったため、雷撃をやり直しています。
猛烈な対空砲火の中、いつものように冷静に機を建て直し、魚雷を二射投下。
まさにその時、檜貝機は被弾します。

以前、映画「雷撃隊出動」の主人公、一式陸攻の「三上」の最後について書いたことがあります。
檜貝少佐の最後を知ったときに真っ先に思い浮かべたのが、この映画のラストシーン、
三上少佐(藤田進)の自爆でした。
あの冷静沈着な攻撃、被弾して助からない機を最後まで駆って、任を果たす姿。
この映画での三上の戦死は、檜貝少佐戦死をモチーフに創られたのではなかったでしょうか。

檜貝少佐も、その最後の瞬間、三上少佐がたった一言叫んだように、皆に向かって
「自爆!」
と声をかけたのでしょうか。
檜貝機は、被弾した跡からガソリンを重巡シカゴの甲板に撒き、それが火災を起こしました。
そして、驚くべきことに、艦橋にではなく、手前で上昇し、後方上甲板に機体を激突させます。

最後の最後まで、その突入法ですら計算しつくされたものでした。

計算と言えば、檜貝少佐が指揮官として率いたこの夜間攻撃では、
目的の「できるだけ敵を長く引き付けていること」を果たすためでしょう、
飛行隊は爆弾を残したまま、何時間も上空で制圧を続けました。
ラバウルの航空参謀であった源田大佐(当時少佐)はこの地にあり檜貝隊の戦いを
司令部で見守る立場でしたが、
「燃料もなくなっているので早く引き揚げればよいがとやきもきしていたが、
彼は敵地上空にあって戦い続け、結果6時間以上制圧を続けた」
と語っています。

いつも髪をオールバックにしていた檜貝少佐は、ラバウル転出にあたって、
長髪をばっさり切って坊主頭にしています。
この日の攻撃も、もともとは巌谷二男大尉が出撃するはずだったのですが、
「是非今日の攻撃は自分にやらせてほしい」と頼んだそうです。

そして、交代することが決まったとき、巌谷大尉に向かって
「隊長、後を頼みます」
と言って出撃していったのでした。


この戦いから生きて戻るつもりはなかったのでしょう。


北海道の女満別にある美幌海軍航空隊跡(現自衛隊美幌駐屯地)には、
戦死後受けた感状や勲章、写真や礼服などの檜貝少佐の遺品がまとめて展示されています。
そこには、飛行服のボタンを、きっちり全部上まで留めた、
(どうやら少佐は今日の画像でもそうですが、飛行服を着崩すことはしなかったようです)
初々しい檜貝少尉の写真が展示されています。

後の「軍神」は、両手をポケットに入れたままカメラの前に立ち、きゅっと口を引き締めて、
まっすぐ、曇りのない目で、こちらを見ています。