ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

枕の下のせせらぎの音いよいよに白梅の宿〜京都祇園

2018-11-13 | お出かけ

先週末には防衛大学校で開校記念祭が行われ、
棒倒しや観閲行進を観に行った方もおられるでしょう。

わたしも防大写真集「鳩と桜〜防衛大学校の日々」を手に入れたばかりで、
さらにはアメリカの陸軍士官学校ウェストポイント見学のあと
少しながらその実情が見えてきたこともあって、今のこの目で
防衛大学校を見てみたいと思っていたのですが、残念なことに
家庭の事情で関西にいかなければならなくなりました。

今回の宿泊は、二度目となる祇園の料理旅館「白梅」です。

新幹線で京都に着いたら、最近はタクシーより電車に乗ります。
特に今回は週末の観光シーズンで、道路が混むと予想されたため、
こちらでは滅多に使わないSuicaをフル活用。

まず旅館に荷物を預けに立ち寄りました。
すると前回も遭遇した白梅の外猫ならぬ「外サギ」、
”おうちゃん”が屋根で待機しているではありませんか。

京都にサギはたくさんいますが、白梅のご飯にありつけるのは
”おうちゃん” だけ。
「選ばれしサギ」なのです。
次の朝には”おうちゃん”餌やりシーンにも遭遇しました。

京都で立ち寄る店は限られます。
一見さんでは入りにくいところが多いので、何かのきっかけで
馴染みになったところには楽なのもあって何度も行ってしまいます。

と言うわけでお昼ご飯は鶏料理の有名店、八起庵でお弁当。
お弁当に付いている鶏そぼろは、馴染み特権で(たぶん)鶏そば
(といってもうどんのことですが)に替えてもらいました。

八起庵から今日の目的である大谷本廟にも電車と歩きで行きます。
それにしても京都に来るたびに、観光客がものすごいことになってきて、
昔は誰も歩いていなかったこの一角、交通整理のために係員が出動して
ちゃんと歩道で信号を待つようにとか、赤で渡るなとか、
五条坂は道の左側を歩くなとか叫んでいるのに驚愕しました。

そしてこの写真にも見えていますが、レンタル着物屋だらけで、
町中変な着物を着て歩いている観光客だらけです。

「あんな着物着て楽しいのかしらね」

「いやー、嬉しいんじゃない?特に外人さんは」

人をかき分けるようにして何とか境内に入ると、
流石に観光客はそれほどでもなく、無事に用事を済ませることができました。

実はここにわたしの実家のお墓があるのです。

お参りを済ませた後、本当に何年かぶりで会う姉妹と一緒に
近隣の墓所のなかを歩いてみました。

さすがは京都、ここは通妙寺、實報寺、本壽寺、上行寺、
と言うお寺の墓が一帯に同居しています。

ですから、浄土真宗のお墓があるかと思えば、日蓮宗のお墓もあるという具合。

見つかりませんでしたが、この中には上海事変で英雄に祭り上げられた

肉弾三勇士

の墓碑もありますし、親鸞聖人を荼毘に付したといわれる

親鸞聖人御荼毘所

があると言う立て札を見つけたので、揃って遺跡好きの姉妹は
これを求め、墓石の中を嬉々として歩き回りました。

いつ作られ、いつ閉鎖されたのか、階段のうち一つはトマソン状態に。
この写真を撮るため立っている階段は御荼毘所に続いています。

階段を降りていったところに屋根付きの御荼毘所跡石碑が。

石碑には

「親鸞聖人奉火葬野古跡」

と刻まれているので、わたしたちは、そうかーこの場所でねえ、
と何となく手を合わせたりしていたわけです。
ところがですね。

親鸞聖人のWikipedia記述によると、どこで亡くなったかは諸説あり、
どうやら西と敵対関係にある?東本願寺にもあるらしいんですよね。

親鸞聖人御荼毘所が。

何でもこちらは新幹線のトンネルの上だとか。

しかし幾ら何でも一人の人が二箇所で荼毘に付されたわけがないので、
どちらかが間違ってるか、あるいはどちらも間違ってるってことです。

さて、用事が終わり、これからどうするかを相談しながら墓の中を通り過ぎ、

「どうする?死んだ気で産寧坂突破する?」

「いや何が悲しくて京都に来て中韓人に揉まれないといけないのか」

「じゃ東大路通の一筋内側を通っていきますか」

目的を決めず歩き始めました。
六波羅探題の跡とか六波羅蜜寺の名を残す地域を抜け、

「幽霊子育飴」

を売っている飴屋さんの前を通り過ぎます。
ところで幽霊子育飴とはなんぞや。

慶長4年(1599年)に一人の女性が埋葬された鳥辺野の土饅頭の中から
数日後、子どもの泣き声が聞こえてきたので掘り返すと、
亡くなった女性が生んだ子どもが生きていたという事件がありました。

鳥辺山というのがまさにさっきまでいた墓所のある一帯です。

ちょうどその頃、毎夜この店に水飴を買いに来る女性があったのですが、
子供が発見された日からふっつりと来なくなったので、それが
死んでも子供を育てるために飴を買いに来ていた母親の幽霊だろう、
と京都中の噂になったのだそうです。

そして幽霊が飴を買った飴屋はその噂が人を呼んで商売繁盛しました。

みなとや 幽霊子育飴本舗

ところが、さっきの親鸞聖人の話ではありませんが、この幽霊の墓所、
つまり赤ちゃんが発見されたお墓というのは鳥辺野だったという説と、
上京区のあるお寺だったという説、こちらもふた通りあるのだとか。

京都では珍しくもなんともない小路ですが、よそ者にとってはワンダーランド。
奥にあるのは小さな祠のようです。

にしても、不思議茶屋バラライカとはさてもワンダーな名前よの。

狛犬の代わりにイノシシ、つまり狛イノシシがいるお寺があったので
珍しさに惹かれて境内に入りました。

後で知ったのですが、ここに祀られている摩利支天(まりしてん)
戦場の護神であり、しかもイノシシの背中に乗って駆け巡っているらしいのです。

そういえば来年は亥年。

「お正月はきっと初詣客でフィーバーするね」

それを見越して?か、お寺では外壁の大々的補修が行われていました。

イノシシの口からだらだら流れる水で手を洗います。

明治年間にこんな絵を奉納した鈴木さん一家。

摩利支天にとってイノシシは単なる「移動手段」のはずですが、
この絵はどこかに向かって猛進していくイノシシの大群を描き、
肝心の摩利支天の姿はどこにも見えません。

「摩利支天に呼ばれて全員でダッシュしてるんだよ」

「最初に駆けつけたイノシシが運搬役に採用されるとか?」



摩利志尊天堂の向かいにはなんともレトロな小学校が。
新道小学校は明治2年に創立された古い学校で、この建物は昭和12年に建てられました。

100年以上の歴史は近年少子化のため近隣の数校による合併で幕を閉じ、
移転して今はその名前も東山開睛小学校、中学校となっています。

この建物は児童館として使われていますが、小学校の看板は残されています。

路地に佇む不思議な廃屋に思わず立ち止まりました。

「これなんだろう」

「洋風と和風がくっついてる」

「和風部分だけ見ると料亭みたいだけど・・」

先ほどの新道小学校のような建築様式なので、おそらくこれも
大正年間から昭和初期に建てられたものだと思われます。

こういう飾り彫刻が任天堂ビルと似ています。
立ち止まって眺めていると、通りがかりのおっちゃんが自転車を止め、

「あんたら何見てんの」

「この建物なんだったかご存知ですか」

「知らん。ワシがここに来た時にはもうこうなっとったなあ」

「へえー、何年前ですか」

「えらい昔や」

おっちゃんがいつ京都に来たのかはわかりませんでした。

「まあ、いっぱいのぞいていってやー」

それではお言葉に甘えて。
背伸びして手を伸ばし、シャッターを切ってみました。

左の壁には暖炉が見えますが、外見を探したところ
煙突らしき構造物はありません。

さて、結局五条から歩いて祇園の宿まで帰ってくることになりました。
少し早めですが、部屋に入って積もる話に花を咲かせることにしたのです。

先に、姉と妹が二人で泊まる予定の部屋に通されました。
二間続きで坪庭に面しています。

ちょうどツワブキが花を咲かせていました。

この部屋には歌人の吉井勇(1886ー1960)の掛け軸があります。

「枕の下の せせらぎの おといよいよに 白梅のやど」

ここに寝ていると、ちょうど枕の下に白川の水音が聞こえてくるのです。

床の間の横にある棚には、白梅の模様の入った布をかけた
小さなテレビがありますが、おそらくここに泊まるような人は
こんなところでテレビなど観ようとは思わないでしょう。

次の朝早く、散歩に出てみると、前には気づかなかった
吉井勇の句碑が白川沿いにたっていました。

「かにかくに 祇園はこひし 寝(ぬ)るときも

枕の下を水の流るる」

ちょうどわたしたちが白梅に泊まった直前が吉井の命日でした。

「その日にはこのお部屋にはどなたかお泊まりになったのですか」

女将は

「せんせのファンやいいはるお客様が前々から予約されてはりましたなあ」

吉井が70歳の古希を迎えた時、その祝いとしてこの句碑がここに
建立されることになり、発起人には

四世 井上八千代

大佛次郎

久保田万太郎(歌人)

里見弴

志賀直哉

新村出(しんむら・いずる、言語学者)

谷崎潤一郎

堂本印象(画家)

湯川秀樹(理論物理学者)

などが名を連ね、その後吉井の命日には「かにかくに祭」という
祇園の行事が毎年行われているということです。

女将のおばあちゃまは「吉井せんせ」のことを

「いつもお酒飲んだくれてたおひと」

とにべもなかったようですが、この吉井勇の最初の妻は
あの柳原白蓮の兄の娘(自身も伯爵だった)だったそうで。
貴族軍人について調べた時に知った、

不良華族事件

の中心人物で、その後離婚したという話を読んで、
あの話がここにつながるかー、と面白く思いました。

吉井勇の掛け軸のある部屋に飾ってあったスズメの親子の木彫。

「お米の季節どすさかい、お米に縁のあるスズメを飾ってるんどす。
お母さんのスズメがよう見たら虫くわえてますやろ」

内容もさることながら、女将の音楽のような京都弁を聞いていると、
自分が今、京都・祇園という日本の中でも
特殊な空間にいるのだ、
ということをあらためて思わずにいられません。


「お部屋におられると時折ピシッと音がします。
京都のうちは人が中に入ると呼吸しますのや。

湿気やらいろんなものを吸うて、息をする時に音を立てます。
部屋が軋んでもそれは呼吸してるということで、
もしそれがしなくなったらそのうちはもうあきまへんのや」

はあ・・・。

到着の後、お茶と甘いものが出されました。
湯飲みの底に”おうちゃん”があしらってあります。

 

若いときにFAを経験し、英語にも堪能な女将が外国人客にも
行き届いたサービスをしていることについては、
こんな翻訳ページが見つかりましたのでどうぞ。

外国人満足度が日本一、京都祇園の「白梅」に泊まった海外からの声

 

続く。