ウドバー-ヘイジーセンター、スミソニアン別館の展示です。
ただ飛行機を並べて個々の説明をしているというのではなく、
明らかに時代に沿ってテーマ通りに展示してあるのが嬉しいところ。
ベトナム戦争については、初っ端に
「主に共産主義の普及を阻止するための作戦として始まったが、
東南アジアにおける戦争は、四代にわたる大統領就任期間、
10年以上にわたる惨事の継続となり、その後のアメリカにとって
政治的、軍事的、社会的ジレンマとなった」
と厳しいことを書いております。
というかその通りなんですけどね。
こういう博物館でこの評価がなされるあたり、アメリカの言論が
まだまだ健全であることを感じさせます。
ローリングサンダー作戦に始まるアメリカ軍の航空攻撃は、
当初はハノイとハイフォンにあったミグ戦闘機基地への爆撃に
限られていましたが、その後は前線での近接戦闘と
敵航空機の制御が任務の全てになっていきました。
1972年末のラインバッカー作戦IIではB-52爆撃機による夜間爆撃、
戦闘爆撃機による昼間の鉄道、発電所、武器庫、通信施設、
ミグ飛行場、ミサイル用地、そして橋などを攻撃し尽くしました。
この作戦は11日にわたって行われ、15機の爆撃機を失いましたが、
終戦に向けた交渉を有利にする幇助となりました。
第二次世界大戦と違い、航空兵力の投入は勝利に直結しませんでした。
三年後、アメリカ軍は南ヴェトナムから撤退し、その後は
北ベトナムの支配による共産主義のもとで統一されることになります。
ベトナム戦争で爆弾を景気よくばらまいているB-52。(右)
左上はA-6 イントルーダーです。
アメリカ海軍が朝鮮戦争での経験から学んだことを一つ挙げるなら、
低空でも高いサブソニック能力を持ち、かつレンジの長い
打撃航空機の必要性だったといってもいいかもしれません。
しかもいかなる天候下にあっても、敵の防御を突破し、
小さな敵に対しても確実に「サーチ・アンド・デストロイ」、
つまり探し出し、そして破壊することができる、そんな飛行機です。
グラマンのイントルーダーはそんなニーズに応えるもので、
1960年に初飛行後、海軍には1963年、海兵隊には64年に配備されました。
ここに展示されている「A」タイプは海軍に1968年に配備され、
その後ベトナム戦争、その後1991年の砂漠の嵐作戦では
72時間の飛行時間を記録しています。
総飛行時間は7500時間、6500回以上の着陸を行い、
767回の空母着艦、カタパルト発進は712回と記録されています。
AIM-120 AMRAAM Missle
Advanced Mediun- Range, Air-to Air Missile、
の頭文字で「アムラームミサイル」となります。
中距離空対空ミサイルで、イントルーダーの足元にあったので
これが運用していたのかと思ったのですが、
F-14D, F/A-18, F-15, F-16
だそうです。
製造したヒューズ社は吸収合併されて、今では
ファランクス・シウスを作っているレイセオンが管理しています。
そういえば、5月17日のニュースとして、アメリカが日本に
F−35戦闘機に搭載するためのアムラームを160発売却すると報じられたばかりです。
https://www.afpbb.com/articles/-/3225612
朝日デジタルでは、「先月墜落事故を起こしたF-35」となっていて実に不愉快。
マグドネル F-4S ファントムII
あの「ファントム無頼」連載時でさえ、老朽化がネタになっていたF-4が
まさか平成の終わりまで日本を飛ぶことになろうとは
何人たりとも予想していなかったでしょうが、
ファントムIIってベトナム戦争時代の飛行機っていう認識なんですよね。
アメリカでは。
製造元だってまだダグラス社と合併する前の名前が記載されています。
(合併してマクドネル・ダグラスになったのは1967年)
日本国自衛隊始め、アメリカでも空軍、海軍、海兵隊、
13カ国で採用されてきたマルチロール機、ファントムII。
ここに展示してあるのは1972年、海軍のS.フリン中佐と
彼のレーダー・インターセプトであるW.ジョン大尉が、
ベトナム時代に敵のMiG戦闘機を沿岸部から駆逐し、さらに
サイドワインダー空対空ミサイルでMiG-21を撃墜した機体です。
そのサイドワインダーミサイルが隣に展示してありました。
アメリカにとって初めての熱感知式の誘導ミサイルとして、
史上最も成功した短距離空対空ミサイルです。
1950年のデビュー以来多くのモデルが開発されてきていますが、
ここにあるのはそのスタンダードタイプです。
アメリカ国内で様々な航空機に搭載されたのみならず、
世界40カ国の軍に採用されたロングヒット商品で、
ベトナム戦争に始まってペルシャ湾岸戦争にも使われています。
さて、このファントムIIですが、さらにその後、
ベトナムの爆撃作戦第2ラインバッカー作戦にも参加しています。
その後海兵隊に所属が移り、F-4JからF-4Sに近代化されました。
この改装でエンジン(無煙に変更)ハイドロ、電気系統、
配線、翼の改良による駆動性などが全て向上しました。
その他、電波ホーミング誘導方式やフォーメーションライト
(蛍光で夜間視認できるテープ)の胴体と垂直尾翼への設置なども
この大改装の時に行われています。
展示機には最終的な所属先である海兵隊部隊、
の塗装がそのままになっています。
これは珍しい。
ファントムIIのノーズコーンの中身が見えてます。
APGー59レーダーが搭載されている部分ですが、
wikiにはもっと鮮明な写真がありました。
同じくファントムIIの搭載している72型。
もっとわかりやすい、100型。
この写真は1982年のものだそうです。
ちなみに我が航空自衛隊はF-4J改にAPG-66Jを搭載していました。
改装が行われたのは昭和の終わりなので、当然これもその後
何かに置き換わっていると思うのですが、わかりませんでした。
・・・もしかして最後までそのまんまだった?
アメリカ軍の航空機の進化は、兵器を装備する航空機のサイズ、
または能力に合わせた兵器の開発によって推進されてきた面があります。
朝鮮戦争ではB-29に対して行われた高周波電力伝送のメソッドを使った
短距離のナビゲーションシステムが使われ、たとえ目標の天候が悪くても
爆撃機の広範囲への攻撃を可能にしてきました。
ベトナムではますます洗練された「賢い」兵器が投入され、
その結果、過去の多くの爆弾は「アホ」だったということになりました。
(現地の説明には本当にこう書いてあります。”dumb"= 馬鹿・うすのろ)
これらの新しい精密兵器は、
「戦略的爆撃は大規模な爆撃機タンクを搭載する
大型爆撃機で行われ、ゆえに民間人の死傷者数が多い」
という従来の常識的な考え方を覆したと言ってもいいでしょう。
とはいえ嫌味な言い方をあえてさせていただくとするなら、
第二次大戦末期、アメリカ軍が東京を空爆することになったとき、
仮にこのころの技術があったとして、それでもなおかつ
カーチス・ルメイがその爆撃方法を選んだかどうかは怪しいものです。
さて、このような新しい精密攻撃を行う兵器が、様々なバリエーションで
航空兵力に搭載されるようになってきたわけですが、その結果として
1991年のペルシャ湾岸戦争では巡航ミサイルが艦船ならびに
B-52爆撃機から発射され、レーザー誘導爆弾がF-117(ナイトホーク)、
A-6イントルーダーなどから落とされ・・・・・・、
いわば「新しい波」がイラクを攻撃したということになります。
攻撃航空機のタイプによる効果の違いではなく、あくまでも
敵に与えた実際のダメージを勘案することで開発された攻撃法は、
空中または地上のターゲットを対象とした精密兵器の開発によって
一層強化されていくことになります。
今更このブログで皆さんにご紹介するまでもありませんね。
ヴォート RF-8G クルセイダー
Rが付いているので偵察型のクルセイダーです。
そのほかの機体に比べてメンテがよくないようだけど気のせいかな。
つい最近も書きましたが、クルセイダーは初めての艦載型
ジェット戦闘機として、時速1600kmの高速を誇りました。
variable incidence wing (可変発生翼)
というのはクルセイダー特有の仕組みで、翼の迎え角を
最大7度まで気流に合わせて変えることができる上、
着艦時のパイロットの前方視界も確保できました。
これが艦載機パイロットにとって離着艦を容易にしたのです。
このシステムを搭載した生産航空機は史上クルセイダーのみです。
可変翼は艦載機として切実な問題である省スペースにも役立ち、
翼の先を折りたたむこともできました。
しかしそんな便利なシステムならどうして全ての艦載機に搭載しないのか?
と思ったあなた、あなたは鋭い。
これをするには翼にピボット機構を備えなくてはいけませんが、
このため翼そのものの重量が増大し、コストもかなりのものになります。
さらに、翼が前後に動く
翼そのものが変形する
などの他にも空力抵抗に対応する可変翼が研究によって生まれてきたため、
結局このシステムそのものは、クルセイダーのみに搭載されて終わったのです。
このRF-8Gは海軍で運用されていた最後のクルセイダーです。
F8U-1Pとして配備され、最初の7年間は海兵隊に所属して
南西アジアでの戦闘時間は400時間、総飛行時間は7,475時間。
これはクルセイダーの中では最も長時間となる記録です。
ここでの展示は、翼を折りたたんだポジションが見られます。
ミコヤン-グレヴィッチ MiG-21F " Fishbed C"
当博物館にはもう一機MiGが展示されています。
フィッシュベッドというのはそのまま解釈すると「魚の寝床」ですが、
これはNATOのコードネームであってソ連製ではありません。
ソ連ではその翼の形(三角形)からバラライカと呼ばれたそうですが。
MiG-21はソ連の第二世代ジェット戦闘機です。
1956年に試験飛行後、1960年にMiG-21F-13としてデビューしました。
ユニークな「テイルド・デルタ」のの機体は薄いデルタ翼を持ち、
それは操作性と高速性、中空域での優れたパフォーマンスと、
離着陸に適した特性を与えました。
その後MiG-21はソ連軍の要撃戦闘機のスタンダードとなり、
その後レーダーやさらにパワフルなエンジン、
アップデートを加えることでマルチロール・ファイターとなりました。
MiG-15ほどではないにしろ、12種類のMiG-21が、
30カ国の軍によって採用されたのです。
戦闘機として凄かったのが、機能の割に作りがシンプルだったことですが、
それゆえいくつもの派生形を生み、あまりにも種類が多くなって
機体の規格がまちまちなため、整備しにくいという欠点がありました。
とはいえその性能は、F-16が世に出てくるまで
世界のトップにあったというくらいです。
驚くべきことに、2019年現在でも世界各国の空軍に配備されており、
近代化改修を重ねて今後も多数運用し続けられるといわれています。
あまりにもたくさん作られたため、アメリカの田舎あたりには
自家用機として「趣味のMiG」を飛ばしている人がいるんだとか(笑)
このMiG-21F-13はワシントンD.Cにあるボーリング空軍基地で
行われた「ソ連軍武器展」で展示するために整備されたものです。
「ソビエト連邦を知る」
というトレーニングプログラムの一環として行われたもので、
歴史を忘れないようにという意味で企画されたということです。
ベトナム戦争といえば、こんなものもありました。
北ベトナム軍は戦争中に捕虜にしたアメリカ人を釈放するにあたって、
こんな統一されたスタイルをさせて帰していた、というのです。
ベトナム人はしないスタイルなので、これが彼らの思うところの
「アメリカ人らしい服装」だったということになるのでしょうか。
この服装に黒い革の鞄というのが定番となっていました。
これは1972年に捕虜になった空軍のバド・ブレッカー少将が着ていたものです。
少将も捕虜に?と驚きますが、もしかしたらパイロットだったかもしれません。
まる7ヶ月の間捕虜生活を送ったということです。
解放される時、POW、捕虜たちは「ハノイ・タクシー」
と呼ばれるC-141で祖国に帰されました。
彼らが最初に到着するのはあのフィリピンのクラーク基地。
ここで医療検査を受け、メディアのインタビューを受けてから
家族と友人の待つ祖国へと向かって行きました。
左は「ホーチミンサンダル」で、タイヤから作られています。
ベトコン御用達の定番ファッションです。
このデザイン、今普通にオシャレに履けますよね。
無印良品で売ってそう。
右は「ドッグ・ドゥ」トランスミッター。
ホーチミンの道に空中から落とされ、夜間何か動きを感じると
警告を発するデバイスです。
信号はCIA などによってモニターされていました。
どう見ても犬の落し物だが?と思ったあなた、あなたは鋭い。
「Dog Doo」で調べるとそのものが出てきますよ。
ところで、ベトナム戦争で登場したヘリは、ベトナム戦争の
象徴のようなイメージがありますね。
例えばこれは1967年に行われた「マッカーサー作戦」での一シーンですが、
ベル UH-1ヒューイが人員(右側に列を作っている)
を輸送するためにジャングルの中に切り開かれた部分に降りているところです。
戦場での一シーンなのになぜか厳粛で美しいと感じてしまいました。
人々が天上から舞い降りる使徒の如きヘリコプターを待つ様子に、
祈りにも通じる、救済を求めてやまない思いが表れているからでしょうか。
続く。