毎年5月の最終週末に行われる掃海隊殉職者の追悼式に今年もご招待いただき、
参加してまいりました。
終戦直後より大戦中日本近海に敷設された機雷の掃海に従事し、戦後日本の
航路啓開にその命を殉じられた七十九柱の御霊を慰霊追悼するこの催しは、
毎年高松市の金刀比羅宮境内に座す殉職者慰霊碑の前で行われます。
海上自衛隊では例年その前日に高松港に寄港する掃海母艦艦上で
追悼式出席者や地元の支援者を招いてレセプションを行っているのです。
係留中は掃海母艦の一般公開が行われる他、地元の地本から
陸上自衛隊の装備なども岸壁に展示され、ここ高松では一年に一度の
大掛かりな自衛隊広報イベントとして定着しています。
レセプションの行われる日の午前中の飛行機で高松に到着しました。
高松空港の愛称は「さぬき空港」です。
愛称だからわざわざ平仮名にしていると思ったのですが、そうではなく、
いつからかは知りませんが、最近讃岐市は公式にも「さぬき市」と書くそうですね。
空港に隣接している「こどものくに」。
調べてみたら結構大規模な体験型乗り物科学館といった感じの施設でした。
日本唯一の国産旅客機であるYS-11が地上展示されています。
中に入ってコクピットに座ることもできますし、そのほかには引退した
路上電車ことでんの車両なども見られるそうです。
今度飛行機の時間待ちがあれば行ってみようかな。
さて、例年追悼式前日に会場の立て付けと、昨年はその前に行われる
呉地方総監の昇殿参拝の様子を皆様にお伝えしてきましたが、
今年はここ高松で見学行事が入ったためお休みです。
ここで、以前も書いたことがある追悼行事の歴史を今一度紐解いてみたいと思います。
殉職者家族を迎えて行われる追悼式の前日には、同じ慰霊碑の前で
金刀比羅神宮が主催して神式の「慰霊祭」が実施されることになっています。
追悼式がこのように「慰霊祭」を別の日に行う、という今の形になったのは
昭和50年からのことで、それ以前は
「金刀比羅宮が祭主となり執行する慰霊祭に、海上幕僚長が招かれ、
掃海部隊は掃海艦艇を含めた部隊として参加」
して行われていました。
海上自衛隊がこの慰霊祭において金刀比羅宮の協力・支援をしてきたわけです。
ところが、昭和50年ごろ、海上自衛隊として慰霊祭に協力することが憲法上(20条)
問題があるとにわかに騒がれ出すようになりました。
皆さんもご存知の通り、戦後の自虐教育を受けた「団塊の世代」が社会の中心となり、
政治経済教育文化に携わるようになってきた時期、自衛隊の行事は「軍パージ」の
格好の対象となって鵜の目鷹の目で糾弾を受けたわけですが、これもその一つです。
そもそも慰霊祭は、掃海部隊を出した全国32の港湾都市の首長が、
金刀比羅宮に直々に依頼することで始まったものでした。
神宮としては、糾弾に屈して慰霊祭を分けて行うなど到底受け入れ難いことであり、
その案に反発したと記録にはありますが、それを説得したのは他ならぬ
当時の呉地方総監であり、金刀比羅神宮は
「不本意ながら、今の世情では仕方ない」と妥協したのである。
(当時の呉地方総監管理部長の書簡より)とあります。
これによって従前と大きく変わったのが
「個人的に行われ自衛隊が招待されるという形になったこと」、
そして、
「企画準備執行全てが海上自衛隊から呉地方総監部の所掌に移ったこと」
でした。
掃海隊殉職者は金刀比羅宮で永代供養されているため、追悼式においても
神官が控え、必ず式の前後に礼名簿の奉安と貢納が行われます。
わたし個人としては、追悼式にこのような神式の行事を残しながら、
わざわざ慰霊祭を追悼式の前日、しかも呉地方総監と掃海部隊指揮官等だけを
招待して行い、それをもって追悼式から「宗教色を排した」といいきれるかというと、
それは全くの欺瞞であり、矛盾に満ちていると思わざるを得ません。
海上自衛隊発行の「苦心の足跡」にも、
「掃海殉職者追悼行事の現状と将来」
として、
「制服での参加、役職の紹介などは社会通念上許されるであろう」
としながらも、
「問題があるとすれば、追悼式の中に慰霊祭的要素が多少残っていることである」
として礼名簿の奉安降納について言及されていますが、この「問題」とは
あくまでもわたしがいう「矛盾」と同義であると解釈したいと思います。
ここで個人の見解を言わせてもらえば、殉職者の慰霊を行うという大義のために
「妥協した」金刀比羅神宮にも、心ならずも(と言い切ります)公的決定に従い、
神宮を説得する側に回った当時の呉監にも、敗戦後の占領軍が作り上げた
「時代の空気」の犠牲を強いられたことについての同情を禁じ得ません。
しかし何より、「矛盾と問題」を包括したまま行われている慰霊の形については、
慰霊されるべき肝心の殉職者の御霊に対し、ただ申し訳ないと衷心より思うものです。
それから、これも繰り返しになりますが、かつての金刀比羅宮での慰霊祭は
旧海軍記念日である5月27日に行われていました。
行事を週末にして参加者の便宜を図るという大義名分があったとはいえ、これを
「5月最終土曜日の追悼式前日」
に変更したのも、根本は同じ理由によるものです。
「空母」「戦闘機」という名称が使えないなど、自衛隊という組織に少し関われば
呆れるくらい言葉の言い換えなどの「苦心の足跡」が目についてきます。
しかし、こういった防衛省の文字通りディフェンシブかつ腰の引けた配慮に対し、
責められるべきは決して自衛隊そのものではありません。
河野元統幕長式に言わせていただけるならば、それもこれも
「わたしは、根本を質せば、『憲法』」
に帰結する問題だと思っています。
さて、追悼式に参加する掃海部隊の指揮官などが招待を受けて参列する、という
この慰霊祭については、わたしも一度だけその様子を見学したことがあったものの、
神事をわたし如きが軽々に扱うべきではないと判断し、それ以来自粛してきました。
今、こういった経緯をあらたに鑑みて、自粛の理由は自ずとこのように変わってきます。
つまり、彼らの妥協の理由となった政教分離を含む自衛隊に対する公論そのものが
変わっていかない限り、慰霊祭は世間に広く告知するべきではないということです。
世間に不用意に知らしめることによって自衛隊反対派の攻撃の好餌となる機会を
増やすのはよろしくない、というのが今の「わたしが自粛する理由」です。
誤解なきように追記すれば、これは決して隠匿や逃げ隠れという意味ではなく、
この形で慰霊式を続けるという苦渋の選択をした当時の関係者の意志を尊重しています。
もっとも、今回艦上レセプションでお話しする機会を頂いた、
元地方総監ふくむオールドセイラーたちによると、最近、特に東日本震災後、
慰霊の方法にまで目くじらを立てるような空気は確実に減少しているとのことで、
わたしも去年の若い政治家の挨拶(『任務に殉じたことは本望であったでしょう』)
などからその片鱗を感じたりしました。
ぶっちゃけ、これは団塊の世代が世の中から減っていることと無関係ではないと思います。
この日高松入りして、地元出身である見学会の主催者に連れて行っていただいたのは、
讃岐うどんのお店でした。
観光客などおそらく知らない、近隣の人や通りがかりの人が利用する、
普通の讃岐うどん屋さんです。
ここ関東ではあちこちで見られる「丸亀製麺」方式で、うどんを選び、
自分で好きな天ぷらなどのトッピングを選んで食べるわけですが、後で
別の地元出身者にその話をすると、言下に
「丸亀は讃岐うどんじゃありませんよ」
なんかわからないけど地元の人には全く評価されていないようです。
その人に言わせると、そういう地元の人が行くような店の方が絶対に美味しい、
ということでした。
というわけでそのローカルなうどんを。
天ぷらの一番上に乗っているのは「昆布の天ぷら」です。
昆布そのものを天ぷらにしたものなど生まれて初めて見たので、
多少チャレンジングかと思いましたが食べてみたら、
中の昆布は柔らかさを残した肉厚のもので、天ぷらが揚げたてならば
さぞかし美味だろうと推測されるお味。
うどんは讃岐うどんにしては細麺だということでしたが、
うどん慣れしていない余所者のわたしには判別不可能です。
出汁の薄さもうどんのコシと柔らかさの絶妙な妥協点?も、
蛇口からうどんが出てくるという噂のこの地方の人たちの
日常食として納得のお味だったことを報告しておきます。
こんなボリュームで一人600円くらいというのが泣かせますね。
今回宿泊したのはいつもの「クレメントホテル」の駐車場だったところに新設された
JRクレメントイン高松。
いつも招待を頂いてからではクレメントホテルは満室で取れないので、
新しくて若干お安いセカンドラインが登場したのは嬉しい限りです。
見学が早めに終わったら立て付けだけでも見に行きたかったのですが、
懇談が長引いてしまい、金刀比羅宮に行くのは断念し、直接チェックインしました。
部屋でゆっくりして体を休め、カメラマンのMかさん(仮名)を拾って
現地に到着した時には開会の数分前で、日は傾きかけ、地面には
長い影を作っています。
ウルトラマンの柵留めが可愛いですね。
平成13年にサンポート高松港が整備され、ここに掃海母艦を係留して行う
ようになってから、一般公開は例年大変な盛況ぶりだそうです。
整備前も同じように掃海母艦と、在泊艦艇5〜6隻による公開を行っていましたが、
土日二日間の来艦者はせいぜい約800名程度だったのが、
埠頭全体が綺麗になってからはその倍くらいに人数が増えたとか。
昔はこの自主広報活動は香川地連(地本)主導の募集広報だったのですが、
近年では掃海隊殉職者追悼式に対する国民的関心を取り戻すため、追悼式と関連づけて、
掃海の歴史と掃海部隊をアピールするような方向に向いています。
具体的には、掃海母艦上に機雷掃海に関わる教材や資料、模型などを展示する、
掃海母艦の内部施設を公開してその任務について理解してもらう、などなど。
そこに殉職者のご遺族を乗せたマイクロバスが到着しました。
それまで会場入り口で来客に挨拶をしていた呉地方総監が、舷梯を降り、
バスの前で一人一人を敬礼でお出迎えしています。
手前はこの日も金刀比羅宮での慰霊祭、立て付けと参加してこられた
自衛隊の撮影をライフワークとするカメラマンのMかさん(仮名)。
長年追悼式を撮り続け、各ご遺族についても深く知悉しておられ、
ご遺族からの信頼がいかに厚いかがこの一年ぶりの抱擁からも伝わってきます。
ブルーのリボンをつけておられるのが遺族の方々です。
高齢化、世代交代が進み、今回参加したご遺族は、79名の殉職者に対し、
わずか6家族という状態でした。
平成23年に発行された「苦心の足跡 掃海」においては、
「近年の艦上レセプションは、遺族の慰問、追悼式参加者の懇親にとどまらず、
広い意味での広報活動、狭義の募集広報などが入り混じったものとなっている。
しかし、それぞれの目的は十分に達せられているものと思われる。
遺族の高齢化、世代交代が進む中で今後は戦後の掃海業務そのものを
国民に知らしめる広報活動として追悼式に関連づけて
艦上レセプションを行うことが肝要であろう」
と記載されていますが、これは決してご遺族が減っているからといって
殉職者追悼はもちろん、ご遺族への慰問という意義の比重を軽くする、
と同義ではないことを信じたいと思います。
続く。