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三机・九軍神慰霊の旅〜愛媛県伊方町

2019-12-19 | 海軍

やっと音楽まつりのご報告が終わりましたが、その音楽まつりが
始まってからというもの、阪神基地隊の年末行事、旧軍軍人英霊の慰霊祭、
人間ドック、上原ひろみのコンサートとやたらと行事が集中してしまいました。

ドック入りは本来アメリカから帰ってすぐに予約を入れていたのですが、
今回は事情があって帰国する日を伸ばしたため、予約を取り直してもらい、
こんな忙しい師走に病院で二泊三日(うち1日はPET )過ごす羽目に。

 

今回入渠を行った千葉の亀田クリニックは、病院らしくない病室に、
病院らしくない房総の海を眺める絶景レストランと、辛くて面白くない
検査がほんのりリゾートスパ気分で受けられる数少ない総合病院で、
病室から「ルームサービス」もできるレストランには、和洋中スィーツ、
鉄板焼きコーナーもあって、フィレミニヨンステーキは焼き加減を聞いてくれます。

しかしいかに洒落orzなレストランといえど病院なのでクローズが8時。

というわけで、二日目は最初の食事が午後4時だったのに、
夕ご飯は7時に食べなくてはならなくなってしまいました。

もっともお腹が空いていなければ食べなきゃいいんですが、
食事もお高いドック代に含まれているとなると、パスするのも惜しく、
一応行って、指定の定食(和食洋食から選べる)を頼みました。

前の食事から3時間しか経っていないのにこんなのぜってー無理。

 

さて、ドックの結果は何の異常も認められませんでしたが、
ただ今回、自分で低めと思っていた血圧が、そんなものではなく、
異常に低かったことを思い知りました。

元来わたしは上限100超えることはまずない筋金入りの低血圧。
今回測定をした看護師さんは、数値を見てえらく驚き(50−84)、

「いつもこんなんですか?」

「はあ、こんなもんですねー」

「いや、ちょっと低すぎるのでもう一度測りましょう」

しゅこしゅこしゅこしゅこ・ぷしゅ〜〜〜

「・・・・測らなきゃよかった」

「やっぱり低いすか」

「上が70台です」

「大丈夫です。それくらいは普通というかよくあります」

「ちょっと・・・あの、低すぎるかと。生活に支障は?」

「急に立ち上がったら立ちくらみするくらいですが、
小学校の頃からそんなですし、朝は普通に起きてます。
そんなに珍しいですか」

「珍しいです」(きっぱり)

どんなことでも珍しいといわれるとちょっと嬉しいのはなぜ。

さて、ドック前の週末は阪神基地隊の年末行事に行ってまいりました。
ただし、参加できたのはラスト30分だけです。

いつも週末飛行機に乗るときには空港駐車場が混むので早くきて、
出発時刻までラウンジでゆっくりすることにしているのですが、
この日だけは何を思ったのか、飛行機の便まで早めに取っていたのを
すっかり忘れ、ラウンジで青汁牛乳割りをのんびりと飲んでいるうちに
取った便は出発してしまっていました。

こんなこともあろうかと、変更可能なビジネス切符にしておいたので、
あわててその次の便の空席(最後の一席)に乗ったのですが、
この日の羽田は何があったのか大変な混雑で、出発が30分遅れる始末。

伊丹に着いて車を飛ばし、30分で阪神基地隊に到着しましたが、
基地正門では警衛の隊員さんに、

「今からですか」

と不思議そうに聞かれてしまいました。

到着したら、阪神基地隊司令寺田一佐の前に挨拶の列ができていたので、
様子を見てご挨拶しようと思いつつ、ふと脇のテーブルを見ると・・・、

今回は木下と臼を見ることすらできなかった餅つき大会の成果、
搗き立て餅の盛り合わせセットがありました。

受付で五千円(値上げしたっぽい)参加費を支払ったことでもあるし、
せめてお餅くらいはいただいてみようと写真を撮っていたら、
そんなわたしに声をかけてこられた方がおられます。

「あのー、ブログをやってらっしゃる方ですか」

当ブログ読者キタ━━━━━(゚∀゚;)━━━━━・・・・・????

さすがにこう同じようなことが起こると以前ほど動揺しなくなりましたが、
それにしてもなぜわかったのでしょうか。

「髪の毛が長くてカメラを持っておられるので・・・」

なるほどー。それはいいところに気がついたね。

声をかけてこられた方は水交会と自衛隊家族会の会員で、
やはり息子さんが海上自衛官。
名詞の裏側の写真は、カメラがご趣味の父上が撮った
息子さんのこれまで乗った艦と山岳写真でした。

肩にCanonのEOS を下げておられる方でしたが、当ブログに掲載している
写真を褒めて頂き、望外の喜びでした。(その辺全く期待していないので)

なんでも、当ブログに挙げた自衛隊活動写真に、息子さんが
通算3回も写っておられたということで、偶然とはいえ
そんなこともあるんだ、と驚いたものです。

また登山を趣味とされており、関西出身者なら一度は耳にしたことがある
「六甲縦走」(須磨浦公園から六甲尾根を丸一日縦走する登山コース)
を何回もなさっているという方だったので、そんなお話や、
自衛官の息子さんのお話を楽しく伺っているうちに、
あっという間にお開きの時間になってしまいました。

遅れてきたので誰だったのかわかりません。
政治家の先生の最後のごあいさつだけを拝聴しました。

盛会だったようで何よりです。

関西で行われる艦上セレプションでは食べ物がすぐなくなる、
と何度もネタにしてきましたが、艦上でない場合には
料理もたっぷり用意されているせいか、そのようなことはありません。

テーブルの上のお菓子をせっせとカバンに入れている人は見ましたが。

というわけで、帰りに基地司令、先任伍長らにご挨拶する以外は
一人の方とお話しするだけで終わってしまった行事でしたが、
楽しかったからヨシ!

阪神基地隊の庁舎は全面改装中でした。

ところで、最近伊丹空港のリニューアルが完成して、
飲食店が増えただけでなく、航空会社ラウンジもきれいになりました。

フリークェントカスタマーは専用のセキュリティゲートも使えるのですが、
わたしがアメリカから帰ってきてからというもの、このセキュリティが
やたら厳しくなって、コートはもちろんジャケット(カーディガン状のも)
まで脱げと要求され、ブーツは必ず脱がされるようになりました。

女性の場合、カーディガンの下がキャミソールだったりして
脱げないこともあるのですが、そういうと、全身くまなくボディタッチされ、
スリッパでぺたぺた歩かされるという辱めを受けます。

そんなことをしているのでセキュリティにやたら時間がかかり、
週末の朝など、プライオリティゲートですら長蛇の列ができています。

一度、ゲートの係員に

「何だか最近厳しいですね」

というと、国土交通省からの指導があったからだと答えました。
いったんそういうことになると、例外を認めず、長蛇の列ができようが
女性のカーディガンまで脱がせてきっちりやるのが日本の公的機関です。

年末年始の国内移動時はどんな地獄になることやら。

さて、阪神基地隊年末行事の次の日のこと。
夕方に帰宅したわたしは早々に就寝しました。
なぜなら、次の日、愛媛県松山空港に行く飛行機が
朝7時に出発するからです。

松山だったら神戸から行けば近かったんじゃね?
という説もありますが、飛行機の切符は片道で取ると
二回往復するより高くなるという不思議システムなので、
いったん家に帰るしかなかったのです。

昨日のような間違いを二度とすることのないように、
何度も出発時間を確かめ(笑)4時起きして空港には
1時間前に到着。

飛行機がタキシングしているとき、

「三興丸」

という、三興運油の運油船が航行しているのを見ました。

今回は珍しく窓際を選択したのですが、ラッキーなことに
雲のない晴天だったので写真を撮ってみました。
東京湾にかかるベイブリッジ、スカイツリーもはっきり見えます。

景色を見るために右側の席を予約しておきました。
晴れているとアルプス山脈(だと思う)がこんなに見えます。

まるで白い絨毯のような分厚い雲。

瀬戸内海上空に差し掛かりました。
たくさん島がありすぎて名前を特定することは不可能でしたが、
どうもこの島はリゾート開発でもしているようです。

島と島を結ぶ橋。

こんな景色を見るうちに松山空港に到着です。
本日の目的は愛媛県の西端に細長く伸びる角のような半島の
原子力発電所と同じ名前を持つ伊方町の三机です。

この名前をみて、すぐに歴史的な出来事を思い出すのは
一部の戦史に造詣の深い人だけに違いありません。

昭和16年12月8日、海軍のハワイ奇襲によって大東亜戦争が始まった日、
同時に5隻の特殊潜航艇による真珠湾攻撃が行われ、捕虜となった
酒巻中尉をのぞく九人の乗組員は、攻撃の翌年、大本営発表によって
全員戦死を遂げ、「九軍神」になったとされました。

ここ三机には昭和15年ごろから特殊潜航艇の訓練基地があり、
真珠湾突入の十人のほか、シドニー湾に突入した松尾敬宇大尉、
あるいはのちに「回天」の開発を行った黒木大尉といった若者たちが
この三机で極秘の訓練を受けるために滞在していました。

わたしは、毎年地元青年団が主宰する慰霊祭に深く関わってこられた
ある海上自衛隊OBの方にお誘いをいただき、今回初めて
12月8日の真珠湾突入日を命日として行われる九軍神の慰霊祭に
参加させていただくことになったのです。

松山空港から現地までは途中までしか鉄道の便がないので、
わたしは空港でレンタカーを借りることにしました。

「時間があれば瀬戸内海沿いの道を通ると風光明媚です」

と教えていただいていたのですが、レンタカーに乗って
ナビを入れると、到着予定時間が慰霊祭が終わった時間だったので、
風光明媚は諦めて高速道を選択しました。

高速を降りて197号線を走っていると、伊方到着直前、
いきなり「みかんの花が〜」のメロディが聴こえてきてビビリました。

「何だ今のは」

思いながら走っていると、「佐田岬メロディライン」という看板がありました。

車のタイヤと道路の振動でメロディが聞こえるような設置がされているのです。

佐田岬メロディライン R197 「みかんの花咲く丘」 愛媛県 伊方町 

道路に細かい溝が刻まれていて、一定の速度(50km)で走ると
その幅の違う溝が音程をつくり、メロディに聞こえるのだとか。

メロディラインには三曲が設定されているそうですが、行きに
一曲しか聴こえなかったのは、速度が50キロを超えていたのでしょう。

ナビの案内通り1時間半走って、指定時間まであと10分、
というとき、ちょうど車は山を越えて三机港を見下ろす道に出ました。

本当に小さな小さな漁村です。
特殊潜航艇の訓練が行われていた頃、三机村だったこの地は、
昭和30年に伊方町に統合されましたが、現在の人口も3千人くらいです。
地図で調べたところ、三机には小学校しかなく、中学校は山を越えたところに、
高校はどこが近いかわからないというくらいの過疎地です。

慰霊祭の主宰は青年団ということですが、こういう土地で
逆によく若い人が残っているものだと思ったりしました。

鉄道はいまでもありませんが、昔は海上交通が盛んでした。

待ち合わせに指定された「町民センター」に到着したのは 
ぴったり海軍5分前。
1時間半ドライブして、こんな正確に到着できたのも
英霊のお導きではないかとふと思ったりしました。

比較的近代的な(おそらく平成初期の建築)町民センターの向かいは
間違いなく九軍神がここに滞在していたころからあった民家。

町民センターの向かいのこの家は、松本旅館。
細部は改装を重ねていますが、躯体は当時のままだそうです。

こちらには特殊潜航艇の乗組員のうち、艇附であった下士官
(横山薫範、佐々木直吉、上田定、片山義雄、稲垣清兵)
が宿泊していたと後で聞いて驚きました。

そして、このて前から二軒目があの「岩宮旅館」です。
岩宮旅館には、隊長の岩佐直治大尉以下、横山正治中尉、
古野繁実中尉、広尾彰少尉、そして酒巻和男少尉ら
海軍兵学校卒の士官たちが宿泊していました。

慰霊祭の前、そして慰霊祭終了後の直会の後にも、
わたしたちは岩宮旅館の玄関にある資料を前に、
説明を伺うことができました。

岩宮旅館は戦後建て替えを行っていますが、
場所は全く同じで変わっていないそうです。

岩宮旅館の隣の家は開業医がいたらしく、
すっかり錆びた看板がまだ残されていました。

昭和15年に訓練が始まった頃には、1ヶ月おきにやってきて、
その度に1週間から10日ほど滞在していたそうですが、
日米開戦が近いと目されていた昭和16年の春からは、
両旅館に泊まりこみになったということです。

慰霊祭の時間が近づきました。
わたしは参加者の海自OBの方が乗ってきた車に乗せて頂き、
山上のドライブウェイから見えていた砂州のようなところにある
須賀公園の駐車場までやってきました。

ここから歩いて公園の奥まで行くと、そこが慰霊祭会場です。

例年慰霊祭は青年団が開催するため夕刻からの開始になるのですが、
今年は12月8日が週末だったため、昼に行われることになりました。

「かなり寒いので防寒対策をしっかり行ってください」

と脅かされて?いたのですが、思っていたほどの寒さはなく、
むしろ日差しが強くてじっとしていると暑いくらいです。

ただ、この公園に来てみると、風の強さには驚きました。

車を止めたところから慰霊碑まで歩いて行く途中に咲いていた小菊。
名前は知りませんが、供花にされる種類ではないでしょうか。

慰霊祭はこのあと12時から開始となりました。

 

続く。