前回までのスミソニアンシリーズでは、博物館別館に展示されている、
第二次世界大戦時の貴重な日独の軍用機をご紹介してきました。
それに続き、当ブログでは、スミソニアン博物館キュレーターの手による
「ドイツ空軍史」つまりドイツ空軍の敗戦までの歴史年表をご紹介したのですが、
今回は同じ方法で、真珠湾攻撃から終戦に至る主に日米戦を中心とした
第二次大戦航空史をご紹介していきます。
ドイツ軍航空史のときとと同じように、それはこのような、
大きなパネル三面にわたって、まとめてありました。
第二次世界大戦航空史
昨日、1941年12月7日―この日は汚名と共に記憶されることであろう。
アメリカ合衆国は、大日本帝国の海軍の航空部隊によって
意図的な奇襲攻撃を受けた。
パネルはルーズベルトの「汚名演説」(Infamy Speech)から始まっています。
そのずっと前から中国にはシェンノートのフライングタイガースがいたとか、
そもそもルーズベルトは日本軍の動きを知っていたのに情報を握り潰した話は、
東京裁判の段階でも弁護側からつっこまれていたくらいで、戦後もアメリカの内部から
色々と黒い噂も出てきていますし(フーバーの回想録、ヴェノナ文書)
ルーズベルトとアメリカにはいろいろいわせてもらいたいことはありますが、
はっきりしているのは真珠湾攻撃によって日米戦争が始まったということです。
この事実は動かしようがありません。
さて、本稿では、スミソニアン博物館の資料をできるだけ
そのまま翻訳しておつたえすることにします。
それによると・・・・、
1941年の真珠湾攻撃によって第二次世界大戦の幕は開けられた。
太平洋と欧州という二箇所での戦争に直面し、アメリカは勝利を得るために
人的、産業的リソースを広く動員させることを余儀なくされる。
そしてその勝利には航空力の組織的な活用が不可欠とされ、
そのための戦略が打ち立てられることになった。
この戦争が契機となって大きく飛躍した航空機設計と性能改善の技術は、
航空戦の性質を根本から変えたと言っても過言ではない。
たとえばノースアメリカンのP-51ムスタングのような
金属製の戦闘機の導入は、第一次世界大戦で主流だった
木材と布の複葉機とは際立った対照をなすものであった。
第二次世界大戦は「三次元」での戦いにおいていかに空中を制御するか、
壮大な追求をおこなう世界的規模の広大なアリーナとなったといえよう。
ヨーロッパの「戦略爆撃」はナチスドイツを叩くための強力な手段となり、
太平洋ではたとえば「アイランド・ホッピング」(飛び石)戦略のように、
米陸軍、海軍、そして海兵隊が点在する日本軍に対抗するために
「機動部隊」(タスクフォース)を編成することになった。
機動部隊の戦略思想は、空母に搭載した艦載機の戦力を柱としている。
1944年6月、ドワイト・アイゼンハワー将軍がD-デイを経て
ノルマンジーに達した時、このように述べている。
「空軍がなかりせば、わたしは今ここにいることはなかったであろう」
「国家は全面戦争に動員された」
つまり国家総動員です。
兵士が歩いているポスターに入っているロゴは
「AAFに入って航空を学ぼう」
AAFとU.S. Army Air Forcesの略です。
下のポスターはワーナーブラザーズのプロパガンダ映画、
「Wings Of The Navy」(海軍の翼)。
主人公は、偉大な父と優秀な航空士官の兄に劣等感を持つ潜水艦士官。
彼ら兄弟は一人の女性を巡って三角関係にあります。
このヒロインを演じるのが当時の人気女優オリビア・デハビランド。
ある日、パイロットの兄は航空事故で体が不自由になり、
海軍を引退せざるを得なくなったので、いろいろあったけど
彼は航空士官として海軍に入隊、なぜか兄が設計した新型の飛行機に
テストパイロットとして乗ることになるが・・・・という話。
残念ながら日本でDVD化はされていないようです。
イケメンパイロットとその恋、パイロットの事故。
この映画制作から47年後、アメリカ海軍は「入隊ツール」として
このようなエレメンツを組み合わせた海軍プロパガンダ映画、
「トップガン」を世に放ち、それは絶大な効果をあげました。
真珠湾と「汚名演説」はたちまちアメリカ人の心を一つにしました。
官民一体、挙国一致で、基礎体力の余った成金の新興国が
戦争という目標に全力をあげたのですから、怖いものなしの状態です。
ドイツの智将ロンメルもこう言いました。
「米国の圧倒的な産業能力が戦場を席巻するようになってからは、
たとえその戦場で『究極の勝利』があったとしても、
それはもうもはや戦況をくつがえすきっかけにはなり得なかった」
ルーズベルトは、真珠湾攻撃をいかにも寝耳に水のように驚いて見せましたが、
枢軸国への正式な宣戦布告がおこなわれるより何ヶ月も前から、
アメリカ国内の産業は、さまざまな航空機を製造する用意を始めていました。
1940年に開始された法改正によって軍の人員数は拡大され、
この時点で男女合わせて1600万人を上回っていました。
これはどういうことかというと、ハワイに爆弾が落とされた時点で
すでにアメリカは戦闘準備を整えつつあったということなのです。
現に戦争前夜、ルーズベルト大統領は、陸海海兵隊のために
1年に五万機もの航空機の生産を大号令で要求しています。
ちなみに、これらの記述は、全てスミソニアンによるものです。
この並外れた目標によって、1943年一年間だけで、米国の航空工場は
約9万6千機を上回る航空機を軍に納入することになりました。
自国の軍で使う航空機だけではなく、アメリカは
「レンドリース援助プログラム」を通じて、米国は英国に2万9千機、
ソビエト連邦に1万1千機以上を供給しています。
このことを、スミソニアン博物館ではこのように記していなす。
「アメリカは民主主義の兵器庫になった」
特にとりあげようと思ったことはないのに、いつの間にか
何度もこのブログで名前を扱うことになってしまった、
ヘンリー・H・”ハップ”・アーノルド元帥(最終)
は、1938年から引退する1946年まで、陸軍航空隊を指揮しました。
彼の戦時におけるリーダーシップは、特に航空技術の発展に発揮され、
その後のアメリカ空軍の基礎を築いたといえましょう。
左の写真は、テキサスのランドルフ航空基地で、航空士官候補生に
訓示をしているアーノルドです。
このアーノルド中将(当時)のもとで、補助部隊として
女子航空隊が設立されることになった経緯についても
このブログで何度もお話ししてきました。
いわゆる「ロージー・ザ・リベッター」(リベット打ちロージー)
に象徴される、「働く戦時下の女性たち」です。
たとえば、平時なら男性が行っていた電柱の電球取り替え(左上)
や工場での労働も、男性が戦場に行ってしまってからは
女性が進出することになりました。
左下はB-17 の胴体がずらっと並んだ航空工場ですが、
男の職場だった船舶、航空機工場にも女性の姿が見られるようになります。
「勤労動員」「女子挺身隊」は日本だけではなかったのです。
オープニング・ラウンド
ラウンド開始、というタイトルがついています。
■ドーリトル空襲
パールハーバー以降のアメリカにとって「暗い」数ヶ月間、
日本はアジアと太平洋における領土の拡大をさらに推し進めていました。
そこで防戦一方だったアメリカは、日本の太平洋でにおける
プレゼンスに挑むべく、大胆な対抗戦略を採用したのです。
それが、「ドーリトル空襲」でした。
写真は、「ホーネット」艦上の離艦前のB-25です。
1942年4月18日、ジェームズ・H・”ジミー”・ドーリトル中佐は、
海軍の空母「ホーネット」から離艦した16機の中型爆撃機、
B-25ミッチェルで東京を爆撃する作戦を指揮しました。
スミソニアンはこう記述します。
ドーリトル爆撃隊は東京とその周辺都市に存在する
いくつかの軍事基地と軍需工場を攻撃した。
・・・・ちょっといいですかー?
映画「パールハーバー」でもそういうことになっているみたいだけど、
いまだにアメリカはこのときの戦果についてどこか正直になれないようなので、
ちょっとたいへんでしたが、彼らが攻撃したものを一覧表にしておきます。
1、民間家屋50棟、学生含む民間人二人死亡(隊長機)
2、西那須野駅舎 阿賀野川橋梁
3、香取海軍飛行場(爆撃)
4、横須賀軍港(改装中の『大鯨』火災)
5、民間人をかたっぱしから機銃掃射(手を振った子供含む)
6、漁船多数
軍事施設と呼べるのは赤字だけ。
なのに、アメリカでは民間人の犠牲には昔から、
スミソニアンですら、(いやスミソニアンだからか)
頑としてなかったことにしようとしているようです。
たとえ突っ込まれても、真珠湾では民間人も犠牲になったんだから
おあいこ、くらいの口答えをするつもりかもしれません(棒)
しかし、日本にとって、空襲の被害そのものは
「ドゥー・リトル(ちょっとだけ)、ドーリトルだけに」
と陸軍が発表したように大したことはなくとも、
いきなり本土空襲されたことは衝撃的なできごとであり、
そのショックと比例して高まったのがアメリカ人の士気でした。
ちなみに、この「ドゥリトル」を聞いていた真珠湾攻撃の航空隊長、
淵田美津雄は、
「陸軍にしては洒落たことをいうなと感心した」
とそこにだけ食いついています。
それはそうと、この空襲について、あの映画「パールハーバー」で、
「この時を境にアメリカ人は進み、日本は退いた」
と言っていましたが、あながち間違いでもなかったということです。
(あのときは重箱の隅をつついて揚げ足を取ってごめんなさい)
ドーリトル爆撃隊は、日本空爆後は、友好国であった
中国大陸に着陸することを目標にしており、
ドーリトル中佐本人を含む乗員たちのほとんどは成功しましたが、
1機はウラジオストックに緊急着陸し、メンバーのうち3人は
中国上空でベイルアウトしたのち捕らえられました。
この3人は軍事法廷において有罪となり処刑されています。
有罪の理由は、一般人への意図的な機銃掃射による殺害でした。
日本で捕らえられたのは全部で8名で、3名は脱出の際死亡し、
4名が捕虜として生き残り戦後生還しました。
■ミッドウェイ海戦
1942年6月4〜7日、アメリカ海軍航空隊は、
ミッドウェイで帝国海軍航空隊と対峙しました。
冒頭の絵画は、ミッドウェイ上空で日本の空母を攻撃する
SBDドーントレスの姿を描いたものです。
日本海軍の艦隊は、ミッドウェイ海戦に臨むにあたり、
連合国に暗号を解読されていることに気づいていなかった。
ダグラスSBD ドーントレス艦上爆撃機は日本の空母に襲いかかった。
ミッドウェイ海戦を勝利に導いたのは、チェスター・ニミッツ提督の
卓越したリーダーシップによるところが大きい。
太平洋地域における総司令官として、彼はガダルカナル島、
タラワ、クェゼリン、エニウェトク、サイパン、テニアン、
グアム、ペルルイ、硫黄島、そして沖縄などの
海軍と海兵隊による「アイランド・ホッピング」を主導した。
このことをスミソニアン博物館は「日米のターニングポイント」としています。
写真は、沈没直前炎上する空母「飛龍」。
日本は四隻の空母をこの「運命の海」で失い、アメリカは
これ以降太平洋における攻勢を強めていくことになります。
部隊の全員が一人を残して全滅してしまった隊もありました。
写真は、パールハーバーの海軍病院に入院するジョージ・ゲイ少尉。
この人は映画「ミッドウェイ」でも特に名前付きで登場していました。
「日本ミッドウェイで殲滅」
というタイトルのミッドウェイ海戦を報じる新聞を読んでいる彼は
全滅した第7航空隊の唯一の生存者でした。
当ブログでは映画「ミッドウェイ」1976年版を近々取り上げる予定ですので
どうぞお楽しみに。
日本軍兵士の寄せ書き実物は、各地の軍事博物館で見ることができます。
この寄せ書きが、出征に際して家族や知り合いがメッセージを記し、
お守りとして戦地に携行する、ということが説明されています。
このパネルの近くのガラスケースには、戦地で手に入れたものらしい
日本軍兵士の持ち物が展示されていました。
まず、木箱に入った塗りの杯。
説明には「ライスボウル」と書かれています。
これを酒杯だと理解するのはアメリカ人には難易度高かったかな。
右側は、日本軍の携帯風速計のようです。
日本人はこのような装置を使用して、気球上昇中に測定値を取りました、
とあるので、陸軍が気球を使用していた頃のものだと思われます。
透明のケースの中に太陽光から温度を測ることができ、
たいていは気球の天井に取り付けて使いました。
ガラスケースにはジミー・ドーリトルのユニフォームもありました。
空襲直後、ドーリトル中佐は攻撃がうまくいったとは思えず、
悲観していたのを部下に慰められたという話があります。
帰国してアメリカ国民が空襲に勇気づけられ鼓舞されただけでなく、
自分がとんでもない英雄として称賛の的になっていると知った時、
彼は心底驚いたのではなかったでしょうか。
続く。