ピッツバーグのSSMM、いきなりベルリンの壁の石が登場したかと思うと、
その次はベトナム戦争の展示が始まりました。
まず、上を見上げるとそこにはベトナムの黄色い星が。
この旗はベトコンの戦闘旗で、南ベトナム軍、正確には
ベトナム共和国陸軍(Army Repubric of Vietnam)
のアメリカ人アドバイザーとして歩兵部隊に出向していた
第619地域軍監視部のJ・W・スキッツ大尉が鹵獲したものです。
スキッツ大尉の部隊がカンボジア国境近くのアン・タン・ハムレット(地名)
に差し掛かると、ベトコンの旗が竹のポールに靡いていました。
ARVIN(ベトナム共和国陸軍)の大隊が接近すると、
小銃などの発砲が両軍の間に起こりました。
その後の小競り合いで敵を追い払い、フレンドリーファイヤによる死傷者はありませんでした。
旗をよく見るとところどころ銃弾の穴が認められます。
(あまりにささやかな穴なので虫食いかと思った)
部隊は旗を奪うと、これをスキッツ大尉に進呈しました。
黄色い星の部分にはなにやら書き込みがありますが、ベトナム語で
戦闘の行われた日付(1969年6月17日)と敵の被害(3名)、
そして鹵獲した武器
AK-47 2基、アメリカ製M-79グレネードランチャー
が書いてあるそうです。
これはベトナム軍の慣習なんでしょうか。
アメリカ軍の指揮官に進呈するのなら、なんというか
もう少し気の利いたことを書き込むもののような気がしますが。
そして、旗の左下にベトナム戦争が始まってすぐに発行された
「ライフ」誌があります。
「ベトナムで死んだアメリカ人の肖像ー1週間の喪失」
というタイトルとともに、そのうちの一人の顔写真が表紙になっています。
冒頭に挙げた写真はライフの特集をパネルにしたものです。
このライフの文章を翻訳しておきましょう。
次のページに示されたさまざまな顔は、公式発表による言い方をすれば
「ベトナムでの紛争に関連して」殺されたアメリカ人男性たちのものです。
この242名の氏名は、5月23日から6月3日までの一週間の戦死者として
にペンタゴン(国防総省)によって発表されましたが、
名前の横の戦死年月日の記述を除けば、特別な意味はありません。
死者の数は、この戦争が始まって以来7日間の累計であり、
同時にその数字は1週間の平均戦死者数となりました。
しかし、これらの個々の死者について語ることはこの記事の意図ではありません。
なぜなら我々は彼らが巻き込まれた世界史のうねりの中で
彼ら自身がどう思ったかを正確に伝えることはできないのです。
ただ、遺されたいくつかの手紙から、彼らはベトナムにいる自分を強く意識し、
ベトナムの人々に強い共感を示し、彼らの甚大な苦しみに愕然としていた、
ということを知るだけです。
彼らの中には自発的に戦闘任務期間延長した人もいれば、ただ
ひたすら故郷に帰りたがっていた人もいました。
この企画にあたって、彼らの家族はほとんどが家族の写真を提供し、
その多くが自分の息子や夫の死は「必要なことだった」と信じています。
しかし、この戦争で戦死したアメリカ人の数は、
たしかにベトナム人の死者数よりはるかに少ないものの、
それが朝鮮戦争での死者総数を上回ってから、国の発表は
毎週三桁の数字がコンスタントに出ている状態です。
この非情な数字に「変換」された、全米の何百もの家庭の苦悩。
我々はここにその一人一人の顔を改めて見つめ、思いを馳せる必要があります。
その「数」を知る以上に、それが「誰」だったのかを知る必要があります。
一週間のあいだに亡くなった死者の顔。
彼らの家族、そして友人たちにとっては掛け替えのないものでも、
何者でもない無名なアメリカ人の一人であった彼らが、
突如このギャラリーによって人々に知られることになりました。
そんな一人一人若いアメリカ青年たちの眼差しがこちらを見ています。
1963年 5月28日−6月3日
最初の1週間で戦死した人々は全員が陸軍と海兵隊の兵士です。
その中の一部を拡大してみましたが、ここだけ見ても、ほとんどが
20歳か21歳という若い年齢です。
全体をくまなく見ても、圧倒的に多い年齢が20歳、21歳。
また18歳、19歳という数字も見えます。
下段の真ん中に37歳の軍曹がいますが、この人は
パイロットという技能職についていたようです。
ベトナム戦争関連の展示がその旗の下にありました。
ベトナム製USMCボディ・アーマー
この内側にはこんな「使用上の注意」が書いてあるそうです。
「戦闘における死傷者のうち70%が
fragmentation type weapon の被害です」
フラグメンテイション・タイプとは、断片化タイプという意味ですが、
平たくいうと、対象を木っ端みじんこにしてしまうタイプという意味で、
つまり爆弾、地雷、IED、大砲、迫撃砲、戦車砲、機関砲、ロケット、ミサイル、
そして手榴弾などの総称です。
「柔軟なショルダーパッドと襟のこのベストは、
これらの武器からかなりの保護を提供します。
しかしながら、これによって近接からの小さな武器を
全て防ぐものではありません。
どうかご使用の際にはそのことを考慮して適性に着用してください。
あなたの命を守ります!IT MAY SAVE YOUR LIFE!」
暑い地域で使用されていたオリーブドラブの半袖シャツです。
こうやって飾ってあるとわかりませんが、実は女性の看護師用です。
ロイス・シャーリー少佐(右襟が少佐の階級章)が着用していたもので、
彼女はベトナム戦争時、サイゴンの陸軍病院勤務でした。
右側のマークは横に倒れていて特定するのに苦労しましたが(笑)
U.S. Army Officer Branch Nurse N Brite
だそうです。
つまり看護師部隊で、翼の下に「N」の文字が見えます。
シャーリー少佐は現在当博物館のボードメンバーということで
この寄贈を行ったということのようです。
敵の銃弾跡の残るアメリカ軍の水筒は、1996年、MIA(戦闘中行方不明)
の捜索任務が行われた際にベトナムで回収されたもので、
ベトナム戦争のベテランでD-205歩兵第101空挺師団所属だった
元陸軍レンジャーのゲイリー・ラドフォードが、
ファイアベース・リコルド(ヒル1000)で収集しました。
左のトランプと同じ大きさのカードは、「サバイバルカード」。
ベトナムに展開する部隊の兵士たちに配られたもので、
毒性のある植物や危険な蛇についての情報と、もし
その害を受けてしまったらどうするかが書かれています。
それでも蛇に噛まれてしまったら、右側の携帯用キットが活躍します。
このキットは、毒のある爬虫類と接触する可能性のある米兵に提供され、
咬傷の影響を減らすのに役立つグッズが含まれています。
使い方が蓋の裏にすでに貼ってあるというのも親切ですよね。
一部キャンバス地をつかった「M1966 ジャングルブーツ」。
こういう形のブーツをファッション的には「コンバットブーツ」と呼ぶのですが、
最近ではスニーカー と同様、オサレブランドのラインに普通に出るようになって、
「セリーヌのコンバットブーツ」「ルブタンのコンバットブーツ」なんてのが
市民権を得ていたりします。
基本的にコンバットブーツのデザインは誕生以来全く変わっていないので、
わたしがアメリカに行くとときどき利用するrealrealというリサイクル通販で買った
エルメスのコンバットブーツ未使用(笑)というのも、皮が上等で
綺麗なことを除けば、この写真のブーツと形はほぼ同じだったりします。
という自分の趣味の話はともかく、このブーツはエルメスと違いベトナム製。
内側がキャンバス、ボディはレザー、甲の近く通気口があり、
水と汗を逃すというまるでジェオックスのような作りになっています。
しかも、普通のハードユースと大きく違うのは、ソール(靴底)に
ステンレスのプレートが挟んであることで、行軍するには
なかなか重くて大変かもしれませんが、これは、
パンジ・スティーク(Punji Steak)
と称する先端を尖らせた竹の断片を踏み抜く怪我を防止するためでした。
このパンジ・スティークは、実はアメリカがベトナム戦争で「勝てなかった」
原因の一つではないかという説もあるくらいです。
パンジという言葉自体は「パンジャーブ地方の動物用の罠」からきており、
ベトナム戦争において南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)は
アメリカ兵に対し、この、単純でありながら効率的に敵を殺傷できる
パンジ・スティークを各種トラップの中でも多用しました。
写真を見てもわかるように、ベトコンのパンジ・スティークは多くの場合
30〜60cm程度の長さで、先端の鋭利さを長持ちさせるために火入れをして
硬化させ、さらには傷を化膿させるため人や動物の糞尿を塗ってあったりしました。
これらをジャングルの敵の通り道に少し角度をつけて立てておくわけですが、
このブーツのように靴底に鉄板が入っていないと踏み抜いてしまうのです。
パンジスティークをつかったトラップはバリエーションがあって、
【トラバサミ】
仕掛けの薄い板を踏み割ると左右からパンジ・スティークで挟まれる
【パンジ・ピット(Punji pit)】
落とし穴の底にパンジ・スティックがたくさん・・
【マレーの門(Malayan gate)】
ワイヤートラップによって作動するパンジ・スティック
など、多種多様でした。
この手のブービートラップは、単に物理的に被害があるだけでなく、
心理的な損害において計り知れないものをアメリカ兵に残しました。
先ほどの「ライフ」記事では、戦争に巻き込まれたベトナムの人々に
アメリカ軍人として派遣されていったアメリカ人は共感を持った、とありましたが、
このブービートラップは、実際に戦地にあったアメリカ軍の兵士に、
ベトナム民衆に対する「埋めがたい間隙と不信」を生じさせたといいます。
なぜか。
ベトナム人は味方のはずの南ベトナム人であっても、
アメリカ兵に罠の在りかを決して教えなかったからです。
続く。