バッファローネイバルパークに展示されているUSS「リトルロック」、
今日はその展示から、「リトルロック」の歴史写真をご紹介します。
今日はその展示から、「リトルロック」の歴史写真をご紹介します。
写真はいずれも艦内に展示されていたものになります。
■ 建造
クランプ造船で建造中の「リトルロック」。
クランプ造船で建造中の「リトルロック」。
「リトルロック」がレイドダウンしたのは、1943年3月6日でした。
この写真は、起工から十か月後、半年後に進水式を予定してた頃です。
同時に「オクラホマシティ」CL-91、「マイアミ」CL-89、
この写真は、起工から十か月後、半年後に進水式を予定してた頃です。
同時に「オクラホマシティ」CL-91、「マイアミ」CL-89、
「アストリア」CL-90が建造されていました。
人間の運命がそれぞれであるように、同じ軍艦として生まれても、
ちょっとの違いで運の良し悪しが確実ににあります。
ちょっとの違いで運の良し悪しが確実ににあります。
たとえば、上写真の「マイアミ」「オクラホマシティ」は
「リトルロック」と同じドックで工事が行われているわけですが、
半年早く完成することによって、太平洋での激戦に投入されていますし、
同じく、サボ沖で撃沈された先代の名を継いだ「アストリア」は、
「リトルロック」より一か月だけ早く就役してやはり戦闘を経験し、
生還こそしましたが、日本近海で、あのコブラ台風にも遭遇しています。
「リトルロック」と同じドックで工事が行われているわけですが、
半年早く完成することによって、太平洋での激戦に投入されていますし、
同じく、サボ沖で撃沈された先代の名を継いだ「アストリア」は、
「リトルロック」より一か月だけ早く就役してやはり戦闘を経験し、
生還こそしましたが、日本近海で、あのコブラ台風にも遭遇しています。
■巡洋艦として就役
「リトルロック」が就役したのは1945年6月17日、終戦の二か月前。
軍上層部はおそらく戦争の終結が近いことを知っていたかもしれませんが、
もちろん現場ではそんなこととは関係なく、「リトルロック」もまた、
就役一か月後には粛々とシェイクダウン、習熟航海に向かいました。
もちろん現場ではそんなこととは関係なく、「リトルロック」もまた、
就役一か月後には粛々とシェイクダウン、習熟航海に向かいました。
訓練はその後投入されるであろう太平洋での実戦を想定していたでしょう。
ところが、キューバ沖のグアンタナモで訓練中、戦争は終わりました。
その後大西洋岸での訓練とフィラデルフィアでの調整を経て、
「リトルロック」は五か月かけて南米19の港を巡航しました。
そして翌年はヨーロッパ大陸三か月のクルーズ、カリブ海での演習、
そして2回二次にわたる地中海クルーズを行っています。
「リトルロック」ホームページに掲載されたこれらの巡航の写真を見る限り、
士官から兵に至るまで、総員の現地での様子は穏やかで幸せそうで、
このクルーズをあたかも観光旅行のように楽しんでいる様子が窺えます。
「リトルロック」は五か月かけて南米19の港を巡航しました。
そして翌年はヨーロッパ大陸三か月のクルーズ、カリブ海での演習、
そして2回二次にわたる地中海クルーズを行っています。
「リトルロック」ホームページに掲載されたこれらの巡航の写真を見る限り、
士官から兵に至るまで、総員の現地での様子は穏やかで幸せそうで、
このクルーズをあたかも観光旅行のように楽しんでいる様子が窺えます。
上の写真は1946年2月1日、南米クルーズでチリのバルパライソ、
ピアサイドを航行する「リトルロック」です。
ピアサイドを航行する「リトルロック」です。
この油彩は、説明がなかったので詳細は分かりませんが、
この期間巡航で訪れた外国の都市での「リトルロック」と思われます。
この期間巡航で訪れた外国の都市での「リトルロック」と思われます。
1947年2月26日、オーバーホール中の「リトルロック」、
ブルックリンのニューヨーク海軍造船所にて。
このとき、艦体の塗装が海軍の塗装番号「Measure22」から、
一般的なオールグレーの塗装に変更されたとされます。
(それまでの写真と比べると明るい色に見える)
戦時モードから平時モードに塗装し直したということでしょうか。
マサチューセッツのケープコッド運河を通過する「リトルロック」。
一般的なオールグレーの塗装に変更されたとされます。
(それまでの写真と比べると明るい色に見える)
戦時モードから平時モードに塗装し直したということでしょうか。
マサチューセッツのケープコッド運河を通過する「リトルロック」。
我が家がボストン在住時、ケープコッドには何度か車で行きましたが、
力こぶを突き出したような半島の先、プロヴィンスタウンに行くためには、
必ず半島の根元にあるこの人口の運河を渡らねばなりません。
その際、写真にあるサガモア・ブリッジを車で通過することになります。
この写真は1949年に撮られたもので、キャプションには
オリジナルのコミッショニングである『ライトクルーザー』、
CL-92として最後の姿であり、彼女の艦体に書かれた92という数字は、
この後スモールナンバー「4」に変わることになる。
その艦体は第二次世界大戦中はより近代的で、識別が容易であった。
彼女はその艦歴の中で、一度として「怒りの砲撃」を行ったことがない。
ただ、親善大使として活躍し、”C L"(1944-1949)から
”CLG / CG"(1960-1976)の生まれ変わりの旅を通して、
アメリカ合衆国の代表として、誇り高くその任務を終えた。
力こぶを突き出したような半島の先、プロヴィンスタウンに行くためには、
必ず半島の根元にあるこの人口の運河を渡らねばなりません。
その際、写真にあるサガモア・ブリッジを車で通過することになります。
この写真は1949年に撮られたもので、キャプションには
オリジナルのコミッショニングである『ライトクルーザー』、
CL-92として最後の姿であり、彼女の艦体に書かれた92という数字は、
この後スモールナンバー「4」に変わることになる。
その艦体は第二次世界大戦中はより近代的で、識別が容易であった。
彼女はその艦歴の中で、一度として「怒りの砲撃」を行ったことがない。
ただ、親善大使として活躍し、”C L"(1944-1949)から
”CLG / CG"(1960-1976)の生まれ変わりの旅を通して、
アメリカ合衆国の代表として、誇り高くその任務を終えた。
と、(かなり曲訳しましたが)なかなか感動的な文章で紹介されています。
LC-92「リトルロック」は1949年6月に退役し、その後は
ニューヨークのアトランティック予備艦隊に編入されることになります。
ニューヨークのアトランティック予備艦隊に編入されることになります。
退役が決まって、CL-92を記念するプラーク(記念盤)が製作されました。
1945年から1949年までに「リトルロック」艦長に就任した、
6名の司令官の名前が在任機関とともに刻まれています。
1945年から1949年までに「リトルロック」艦長に就任した、
6名の司令官の名前が在任機関とともに刻まれています。
こちらはCL-92のプラーク。
こちらはまだ退役まで2年を残す1947年のダンスパーティ写真です。
会場となったニューヨークのホテル・デルモニコは現在も存在します。
会場となったニューヨークのホテル・デルモニコは現在も存在します。
いやー、どうでもいいけど、トランプってマジ金持ち。
この人とマスクがいるって、史上最も買収が効かない政権じゃないか?
この人とマスクがいるって、史上最も買収が効かない政権じゃないか?
それはどうでもいいですが、写真の一部を拡大してみました。
うーん、皆ハッピーそうで微笑まC。
うーん、皆ハッピーそうで微笑まC。
新婚カップルらしき二人の姿が目立ちますね。
今は彼らの孫世代がリタイアし、ひ孫世代が社会の中心を担っています。
彼らがその後幸せな人生を歩んでいることを祈ります。
■ ミサイル搭載軽巡洋艦への転身
USSリトルロック、ニュージャージー州カムデンにて
1959年12月19日
「リトルロック」は、再就役のため、ニュージャージー州カムデンの
ニューヨーク造船所で誘導ミサイル艦に生まれ変わりました。
ニューヨーク造船所で誘導ミサイル艦に生まれ変わりました。
換装を行う造船所名、工事期間などが刻まれたプラーク。
同じ12月19日、傾斜実験中の「リトルロック」。
傾斜実験とは、船舶の重心の上下期ちを測定するためのもので、
肝斑状の重量物を横報告に移動した時の傾斜から算出します。
換装工事中の「リトルロック」。
夜間でも照明が煌々と照らしています。
夜間でも照明が煌々と照らしています。
いずれも換装後の就役前公試実験中です。
タロスミサイルの発射実験。
公試を終えて、「リトルロック」は新たに
誘導ミサイル巡洋艦として再就役をすることになりました。
これは、生まれ変わって新たに再就役する「リトルロック」の門出を祝う、
就役式(日本だと引渡式)への招待状です。
続く。
誘導ミサイル巡洋艦として再就役をすることになりました。
これは、生まれ変わって新たに再就役する「リトルロック」の門出を祝う、
就役式(日本だと引渡式)への招待状です。
続く。