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「ヨークタウン」と日米の男たち ミッドウェイ海戦〜スミソニアン航空宇宙博物館

2021-03-29 | 歴史

スミソニアン博物館の空母を模してほぼ実物大に、
実際の空母から採取した素材でハンガーデッキの一部を作り上げた展示では、
人類史上はじめて、空母同士のガチンコ対決となった日米の海戦について
写真を上げながら紹介する親切なコーナーがあります。

前回はアメリカ側の「ア・フュー・ヒーローズ」(大勢のヒーローの中の一部)
を紹介しましたが、このコーナーを包括するテーマとなっていたのは、

■ The Gallant worriers(勇敢な男たち)

という言葉です。

太平洋の戦争での敵味方、両側には、有能な指導者、優秀な戦略家、
そして勇敢な戦闘員たちがいました。

この戦争において様々な空母での戦いに対し捧げられた各展示では、
主要な海軍の司令官たちについて言及されています。
ここに展示されているのは、太平洋における戦争を計画し、そして
それを戦った両側の男たちの厳選された写真です。

そして、英雄たちの写真とともに、誰のものとは記されていない
航空搭乗員のヘルメットが飾られています。

そしてまず、当時の日米両軍の搭乗員の衣装を着たマネキンが並んでいます。

まずこの右側は海軍搭乗員の典型的なスタイルで、S-2タイプといわれるものです。
カーキのコットン製スーツは夏用で、これにライフベストをつけています。

左は海兵隊エースだったジョセフ・フォスが寄贈した搭乗員用衣装一式です。

ジョー・フォスらVMF-121のパイロットと航空機は、
8月中旬からガダルカナル島上空の制空権を争っていたVMF-223を救援するため、
「ウォッチタワー作戦」の一環としてガダルカナルに派遣されました。

護衛空母「コパヒー」からカタパルトで発進し、ガダルカナルに到着した後は、
ヘンダーソン飛行場を拠点としたコードネーム「カクタス」と呼ばれる航空隊、
つまりあの有名なカクタス航空隊の一員となりました。

その後は零戦と対決して落としたり落とされたり(被撃墜2回)して
それでもなんとか生き延びた彼は、ワイルドキャット8機の小隊長として、

「フォスのフライング・サーカス」

を率いることになります。
部隊が撃墜した日本軍機は72機で、そのうち26機は彼の手によるものでした。

第一次世界大戦のエース、エディ・リッケンバッカーの26機撃墜の記録に並んだことで、
フォスは第二次世界大戦におけるアメリカ初の

「エース・オブ・エース」

の名誉を手に入れましたが、その後は実戦配備されるも、
戦時中の記録を塗り替えることなく引退しました。

 

そして、日本海軍航空搭乗員の冬用フライングスーツが展示してあります。
(実はアメリカ軍のもありましたが、写真を撮り忘れました)

説明によると、搭乗員服の素材は絹、綿、ウールの混紡で、裏地は綿のキルトです。
しかし、

「日本軍は海軍、陸軍の搭乗員服は見た目が同じです」

とあるのは何かの間違いではないかと・・・。
海軍の場合ダブルボタンで搭乗員はそれを開けてスカーフを見せていましたし、
陸軍はスタンドカラー風で、ぱっと見で違うとわかるんですがね。

また、こんなことにも言及しています。

陸軍の冬のスーツは裏地にキルトより毛皮がよく使われ、そして
服の内部には電気式ヒーターが内蔵されていました」

まじか。

なんとさすがはメイドインジャパン、ハイテク仕様だったんですか。

今では発熱コード内蔵のダウンという商品が一般にも出回っていますが、
この当時、電源はどこから引いていたのでしょうか。
というかこれなんかとっても構造的に危険な気がするんですが・・・。

また、海軍搭乗員用には二つバージョンがあったことも書かれています。

「JN-1は、JN-2シリーズの特徴である大きなウサギの毛皮の襟がなく、
頭の動きが容易だったため、搭乗員たちに人気がありました」

く、詳しい。詳しすぎる。
ちうか、搭乗員にどちらが人気があったなんてことをなんでアメリカ人が知っているのか。

JN-1とかJN-2はジャパンネイビーのことで、おそらく
スミソニアンが便宜上展示物につけた分類番号だと思われますが、
アメリカ軍の搭乗員服につけられている「S」は何の略かわかりません。

 

■ 日本海軍の「A Few Heroes」

スミソニアンの素晴らしいところは、「戦いの両側に勇敢な男たちがいた」
として、ちゃんと日本の搭乗員とその「戦果」を紹介していることです。

友永丈市海軍大尉 飛龍航空隊

「両側の英雄たち」ということで、日本側の「英雄」の紹介もあります。

この辺りがついうっかり「ジャップ」とか展示物の解説に書いてしまう
地方の軍事博物館とは違い、
国が運営しているスミソニアンだけのことはあります。

ここは現地の説明をそのまま翻訳しておきます。

友永大尉は真珠湾攻撃にも参加した、敢闘精神溢れ冷静な雷撃機パイロットでした。
彼はその日の早い段階でミッドウェイ島における空母打撃の航空を主導しました。
彼はミッドウェイ島への第二攻撃の必要ありと要求していますが、このことは
爆弾を換装するという南雲提督の運命的な決定に影響を与えました。

午後、友永大尉は「飛龍」の残った最後の10機の雷撃機を率いて、
アメリカ軍の空母を攻撃するための「片道任務」を遂行しました。

戦闘によるダメージのため、彼の航空機には敵艦隊海域まで到達して
攻撃するのに足りる燃料しか搭載していなかったのです。

友永大尉と彼のクルー4名は「ヨークタウン」への魚雷攻撃に次ぐ
体当たり攻撃で命を落としましたが、二発の魚雷命中を記録しています。

小林道夫大尉 「飛龍」艦爆隊

6月4日の深夜までに3隻の空母が壊滅したため、「飛龍」は迅速に
反撃を余儀なくされました。
真珠湾攻撃にも参加したベテランで、経験豊富な戦闘機パイロットである
小林大尉は、18機の急降下爆撃機の小隊を米軍空母に対し率いました。

小林大尉は爆撃隊を率いて「ヨークタウン」への攻撃を行いました。

彼と彼の部下は、爆弾を投下する前に航空機を異常ともいえるほど
低い高度に勇敢に滑らせ、優れた結果をもたらすことに成功しています。

18機の爆撃機のうち7機が急降下爆撃を行い、そのうち3機が
クリーンヒットを記録しました。

しかし、小林大尉とその同胞12人は、誰一人として
「飛龍」に戻ることはありませんでした。

mw17072701

ちなみに小林大尉はこちらの写真の方がかっこいいので貼っておきます。

1976年版「ミッドウェイ」の小林大尉。
搭乗員服姿の小林大尉に似た雰囲気の人が配役されているように見えます。


■ ヨークタウン撃沈す

前回ご紹介できなかったアメリカ軍側の「ミッドウェイ戦士録」から、
今日はこの人を取り上げます。

Elliott Buckmaster.jpg

エリオット・バックマスター大佐 
Cap. Elliott Buckmaster

ミッドウェイ海戦で唯一撃沈された米空母、「ヨークタウン」の艦長です。

「ヨークタウン」は空母「飛龍」から出撃した友永大尉の攻撃によって
航行不能に陥ったところ、伊168からの雷撃によってついに沈没したわけですが、
この「ヨークタウン」、実は内部に開戦前からこの艦長をめぐって
内部にかなりの不協和音があったことが明らかになっています。

 

開戦前にバックマスター大佐は「ヨークタウン」艦長を命ぜられました。

彼はアナポリス卒業後、長年にわたり艦艇勤務をしてきた艦乗りで、
ペンサコーラで
航空免許を取ったのはなんと47歳になってからでした。

当時、アメリカ海軍では、空母指揮官になるため、形だけ航空技術を学んできた
経験の浅い士官搭乗員を
「キーウィ」と呼んで見下す傾向があったのですが、
バックマスターはまさにこのキーウィのお手本のような艦長だったわけです。

「ヨークタウン」では副長のジョセフ”ジョッコー”クラーク始め、
多くの古参パイロットたちがこの人事に不満で猛反発しました。

当然ながら指揮系統には軋轢が生じ、内部も当然分裂は避けられず、
パイロットたちは艦長を無視して副長の命令しか聞かず互いを嫌悪し合う・・
不幸なことに「ヨークタウン」はそういう状態で開戦を迎えたのです。

さらに、開戦後、「ヨークタウン」に指揮官として座乗してきた
フレッチャー少将が
航空畑ではなかったということで、クラークらは完全にキレました。

「2人の”キーウィ”に艦を指揮されるのは耐えがたい!」

ということで、公然と反旗を翻し、副長のクラークは上層部やマスコミ、
あらゆる方面に二人の悪口を繰り広げて引き摺り落としにかかっていたというのです。

Rear Admiral Joseph J Clark.jpg「ジョッコー」クラーク

ちなみにクラークはチェロキーインディアン部族出身で、
初めてアナポリスを出たという「闘志あふれる」軍人でしたが、
この激しさは、初代「ヨークタウン」沈没によってバックマスターが退き、
彼自身が二代目の「ヨークタウン」艦長に就任してからも相変わらずでした。

今度は空母任務部隊司令官のパウナル少将に噛みつき、同じように
あたり構わず不満を訴えるという挙に及んでいます。

ちなみにパウナルを任命したのはスプルーアンスだったので、
クラークの「告げ口」先は、ニミッツなどの海軍上層部はもちろん、
フランクリン・ルーズベルトにまで及び、結局パウナルは更迭され、
「ピート」マーク・ミッチャーが空母艦隊司令官に就任しました。

最終的にミッチャーが功績をあげたので、クラークの「告げ口作戦」は
今日結果的に是だったとされています。

勝てば官軍ってやつですか。(棒)

クラークがこのように何かと激しい人だったというのは、その顔にも現れている気がします。
(ちなみにわたしはこの人については以前も紹介したことがあったのを
この時まで忘れていたのですが、あだ名の『ジョッコー』でソッコー思い出しました)

 

もちろん、ミッドウェイで「ヨークタウン」が沈没したのは
指揮系統の不和とは直接関係なく、ただ単純に不運であり、
友永大尉らの攻撃が巧みだったからに過ぎない、ということもできます。

少なくとも、もし艦長と副長がうまくいっていたら沈まずに済んだかも、
などというたらればの可能性は捨てるべきでしょう。


しかし、いずれにしても、この後も海軍の戦闘で一線に立ち続けたクラークとは違い、
バックマスターがこれ以降戦線の表舞台に立つことがなかったのは事実です。



さて、「ヨークタウン」は小林道雄大尉率いる18機の艦爆の攻撃を受けました。

艦上からは5インチ砲から27mm機銃、20mm機銃、12.7mm機銃、7.62mm機銃、
挙げ句の果てにはスプリングフィールド小銃まで使って反撃を試みましたが、
爆弾三発が命中し炎上、全ての動力を喪失、航行不能に陥りました。

写真は明らかに傾きがわかる「ヨークタウン」艦上の乗員たちです。

さらに応急処理の直後、友永丈市大尉率いる艦攻10機、さらには
次席指揮官橋本敏男大尉率いる第二中隊の魚雷2本を受け、再び航行不能になり、
バックマスター艦長はついにここで総員退艦を命じました。

最後まであきらめず救出の策を講じたものの、結局状態は悪化する一方で、
そのうち伊168に発見されて魚雷を受けることになります。

 
「ヨークタウン」は対潜戦を行いながらも艦を救おうとしましたが、
1942年6月7日、ついに沈没しました。

 

ちなみにこのとき「ヨークタウン」を発見後8時間待機、哨戒ののちに攻撃した
伊168は、その後の戦闘によって撃沈されていますが、攻撃時の艦長
田辺弥八少佐(海兵56期)は他の潜水艦に転勤となっていたため、終戦まで生き延びました。

Tanabe Yahachi.jpg

伊168はミッドウェイ島への砲撃を行ったのち「ヨークタウン」を発見、
これに水中速力3ノットで接近し、探信音が頻繁に感知される厳重な警戒を突破して
右舷を目標に距離1200メートルから魚雷を4本発射したところ、
これが空母に3発(アメリカ側では2発)、駆逐艦「ハムマン」に1発、同時に命中し、
両艦はこれによって沈没することになります。

魚雷の命中した瞬間の「ハムマン」、アメリカ海軍の公式再現ジオラマより。

その後の潜水艦に対する駆逐艦の攻撃は熾烈なものでしたが、
伊168は爆雷を避けるために米空母「ヨークタウン」の真下に潜み
5時間にわたるアメリカ軍駆逐艦の爆雷攻撃から離脱し生還したのでした。

 

戦後になって、艦長の田辺少佐はGHQから「ヨークタウン」への攻撃について
執拗な聞き取り調査(というかもはや尋問的な)を受けることになります。
アメリカ海軍はこのときの敗北をとても重視していたということになります。

そしてその結果、

「その慎重かつ大胆な攻撃方法に、調査を担当した米軍関係者も驚いたとされている」Wiki

1998年5月19日には、海底の「ヨークタウン」艦体が発見されています。
艦体には魚雷を受けたためにできた破口がはっきりと確認できるそうです。

続く。