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スミソニアンのチャールズ・リンドバーグ展示〜「翼よあれが巴里の灯だ」

2022-07-04 | 飛行家列伝

スミソニアン航空宇宙博物館には、この飛行界のパイオニアにして英雄、
あるときは非難の対象となったチャールズ・リンドバーグについて、
大変なボリュームの資料と展示があちらこちらにあります。

その最も大きく、彼の存在意義が一目でわかる展示が、
このスピリット・オブ・セントルイス号、1927年5月21日、
リンドバーグが史上初めてノンストップでの大西洋横断単独飛行に成功した
ライアン NYP-1 であることは言うまでもありません。

今回はスミソニアン博物館のリンドバーグ関連展示を紹介していきます。


歴代の有名飛行家コーナーはミリタリーとシビリアンに分けられており、
リンドバーグはその筆頭に紹介されています。

「チャールズ・リンドバーグとライアンNYPスピリットオブセントルイス」

というパネルには、見るからに仕立てのいいスーツに長身を包み、
飛行帽を被ったリンドバーグの等身大の写真が添えられています。

「1927年5月27日、チャールズ・A・リンドバーグは、史上初めて
単独かつノンストップで、愛機スピリットオブセントルイスによる
ニューヨークのロングアイランドからパリまでの飛行をおこなった」

チャールズ・オーガスタス・リンドバーグとは?

⚫︎バーンストーマー。航空郵便パイロット

⚫︎大西洋を単独横断した最初の人間

⚫︎飛行機が安全で信頼できる輸送手段であることを証明するため
スピリットを48州全てに飛ばした

⚫︎航空会社のアドバイザーとして航空界の発展を助けた


barnstormerというのは元々旅芸人とかの意味がありますが、
飛行機が登場してからは、アクロバット飛行やパラシュート降下を見せて
全国を巡業する職業パイロットのことを言うようになりました。

1922年、リンドバーグはウィスコンシン大学で1年半学んだ後、
ネブラスカ・エアクラフト社で航空学を学びはじめます。

名門ウィスコンシン大学のマディソン校で工学を少し学んでいますが、
1年半で中退し、彼は本格的に飛行機人生を歩むようになります。

【陸軍とリンドバーグ】


チャールズ・リンドバーグ陸軍少尉、23歳ごろ

すでにこの頃彼はバーンストーマーとして活動していましたが、
何を思ったか陸軍で軍事飛行訓練を受け、卒業しています。

最初104人いた同期の訓練生は卒業時には18人しか残っていませんでした。

その中で首席だったリンドバーグは陸軍予備少尉に任官しますが、
当時陸軍は現役のパイロットを必要としていなかったため、
彼は予備役に席を置きながら民間でバーンストーマーや教官をしていました。

そしてセントルイスのミズーリ州兵第35師団第110観測飛行隊に所属し、
軍の飛行も部分的に続けて1926年には少尉から大尉になっています。

予備役となってから、彼はセントルイスとシカゴを結ぶ
民間航空便のパイロットを務めていました。

その後彼は飛行家としての栄誉に伴い、軍における階級は
最終的に1954年准将にまで昇進しています。


【翼よあれが巴里の灯だ】



そもそもどうしてリンドバーグは大西洋横断飛行をすることになったか。

それは彼がトランス・アトランティック航空が企画したコンテスト、
成功すれば賞金25,000ドルがもらえる
「ニューヨーク・パリ間横断飛行」に自ら応募したからでした。

1919年、フランス生まれのホテルオーナー、レイモンド・オルテイグは、
ニューヨークからパリまでノンストップで飛行した最初の飛行家に
2万5千ドルの賞金を出すことを提案しました。

スミソニアンには、この時のエントリーシートが展示されています。
1927年当時の2万5千ドルは2022年現在で5千万円ちょっとの価値です。

誓約書の条件を見ると、全米飛行協会に定められた規則の遵守、
気象条件やその他アクシデントによって不利益を被った場合も
主催者にその責任を問うことを放棄するということが書かれています。

また、サインされた日付は、コンテストの約3ヶ月前となっています。

後年、リンドバーグは

「賞金よりも飛行に挑戦することにずっと興味があった。
(賞金にも興味がないわけではなかったけど)」

と書いています。


"平和と親善の使者は、時間と空間の壁をまた一つ打ち破った"

1927年、チャールズ・A・リンドバーグの大西洋単独横断飛行について、
カルヴィン・クーリッジ大統領はそう語りました。

その後、1969年にアポロ11号が月面着陸したというニュースまで、
リンドバーグが小さなライアン単葉機をパリに着陸させたときほど、
全世界が航空イベントに熱狂することはなかったと言えます。

1927年初頭、彼はわずか数人の知人の支援を得て、1919年、
2万5千ドルの賞金を賭け、史上初となるニューヨーク-パリ間、
初の無着陸飛行に挑戦することになり、サンディエゴのライアン航空に、
そのために必要な仕様の航空機を発注しました。

設計開発は、飛行の目的を考慮して慎重に行われました。
主翼幅の10フィート拡大、胴体と主翼の構造部材は
より大きな燃料負荷に対応できるよう設計し直され、
主翼の前縁には合板を貼るという工夫がされましたが、
胴体は、2フィート長くなった以外は標準的なM-2の設計を踏襲しました。

コックピットは安全のため後方へ、そしてエンジンはバランスのため
前方へ移動し、燃料タンクが重心になるように据えたことで、
パイロットは前方をペリスコープか、あるいは機体を回転させて
側面の窓からしか見ることができなくなりました。


これは地味に精神的ストレスになったのではないかと想像されます。

エンジンはライト社のワールウインドJ-5Cを使用。
1927年4月下旬に機体の整備が完了しました。

機体は銀色で、垂直尾翼上部に登録番号N-X-21 1が記され、
他の文字もすべて黒でペイントされました。


リンドバーグは本番まで何度かテスト飛行を行っています。

写真は、テスト飛行でサンディエゴからニューヨークまで飛行した後のもの。
セントルイスへの着地を含め飛行時間は21時間40分でした。



ニューヨークで数日間天候に恵まれるのを待った後、
5月20日の朝、ガーデンシティホテルで前夜眠れなかったリンドバーグは、
スピリットオブセントルイス号を、現在ショッピングモールとなっている
カーティスフィールドの格納庫から、長い滑走路に牽引させました。

明るいうちから大勢の人が集まり、リンドバーグを見送りました。
この時のことを彼は後に、

「パリへのフライトの始まりというより、葬儀の行列のようだった」

と語ったそうですが、彼の目から見て、見送りの人々は
ことごとく不安からくる暗い表情をしていたのでしょうか。

そしてリンドバーグはたった一人でパリに向けて飛び立ちました。

その後彼は17時間飛び続け、40時間近く起きていた時のことを
自らの言葉で痛々しく表現しています。

「背中はこわばり、肩は痛み、顔は火照り、目はしょぼしょぼした。
これ以上飛び続けるのは到底不可能に思えた。
そのとき私がこの人生で望むことはたった一つ、
体を横たえて伸びをし、眠ることだけだった・・・」

数十年後、リンドバーグは、24時間飛行した後、
このような幻覚を見ていたことを認めています。

「ぼんやりとした輪郭で、透明で、動いていて、
飛行機の中で私と一緒に無重力で移動している誰かの姿」

それら(複数だったらしい)は善良な人間のような形をしていて、
エンジンの轟音の中で彼に話しかけてきたのみならず、
「普通の生活では得られない重要なメッセージ」を与えてくれたと。

やがて彼らは彼を置いて消えてしまい、彼は別の幻影を見ました。

機体を旋回させ、波の上約15mを飛行しながら窓から身を乗り出して、
漁師に「アイルランドはどっちだ」と尋ねるというシュールなものです。
もちろんそれは幻覚なので答えはありませんでした。
(これは日本語のwikiでは実際に起こったこととして書かれている)

ちなみに後年彼をモデルにしたビリー・ワイルダーの映画の日本語タイトル、
「翼よ、あれが巴里の灯だ」ですが、原題も原作となった
リンドバーグの自伝も、タイトルは彼の愛機である

「Spirits of St.Louis」

であり、さらにはこの感動的な言葉はリンドバーグ自伝の抄訳を手がけた
翻訳家の佐藤亮一が良かれと思ってつけたオリジナルです。

リンドバーグ本人も全く預かり知らぬ言葉であり、
言ってみれば余計なお世話なのですが、ことこれに関しては
あまりにキャッチーでイケているため、どこからも文句が出ていません。

流石のわたしも、良しとせざるを得ないほどの?名作です。

Spirit of St Louis -- landfall at Ireland
アイルランドディングル湾で陸地を発見するシーン。眠そう

彼が実際にパリに着いてから発した言葉は、

「誰か英語を話せる人はいませんか」

(その人に)「ここはパリですか」

だったという説、また、

「トイレはどこですか」

という説がありますが、いくら何でもいきなりトイレはないだろうから、
この三言は流れるようにこの順番で発せられたとわたしは想像します。




これがリンドバーグが大西洋横断の時機内に積んでいたグッズだ!

1、陸軍航空隊謹製、非常用レーション

2、釣り糸と釣り針(いざという時用)

3、何かに使える糸を丸めた球




4、非常用発光装置(ハンドフレア)

5、弓のこ

6、針


7、(口紅ケースのようなもの)マッチ入りマッチホルダー



「スピリットオブセントルイス」が積んでいたバログラフ

バログラフはバロメーター値を記録できるデバイスです。
リンドバーグが大西洋ノンストップ飛行を行った時の飛行機の高度、
そして飛行時間が正確に記録されました。

5000万円という賞金の出るレースですから、規則によって
飛行機が正しくノンストップで直行したかを証明する必要がありました。

このドラムには、リンドバーグの離陸と上昇、それに続き、
適切な風を求めて硬度を変えつつ上昇した様子、そして
嵐や霧に遭遇した時の操作のあれこれ、乱気流によるエアポケット、
アイルランド近くでしばし降下したこと(あれ?あの話本当だったの?)
そしてイギリス南西部を通過しフランス北西部からパリに着陸したこと、
全てが明瞭に記録されていました。



ロングアイランドを離陸してから33時間30分後、
パリ近郊のル・ブルジェ飛行場に無事着陸したリンドバーグの機を迎える
10万人の熱狂的な観衆。



その熱狂ぶりがいかにすごかったかがわかる一枚。
ところでこの写真はどこからどうやって撮ったのか。
他の飛行機からかな。

【凱旋帰国と栄光】



リンドバーグとスピリット・オブ・セントルイス号は、
6月11日にU.S.S.「メンフィス」で米国に帰国しました。
写真は「メンフィス」に載せられたSOS号。


埠頭に出迎える人に挨拶するために「メンフィス」デッキに立つリンディ。
世紀の英雄と歴史的飛行機を運ぶ大役を担った「メンフィス」乗員も
全員がビシッと第二種軍服でキメて舷側に立つ姿はいかにも誇らしげです。

USS「メンフィス」は現在では原子力潜水艦になっていますが、
この時は軽巡洋艦で、艦種はCL-13でした。

帰国したリンディはワシントンD.C.とニューヨークで、
熱狂的とも言える歓迎を受けました。

その後7月から3ヶ月かけて、彼はこの名機で全米を巡業して回りました。

そして12月、スピリット・オブ・セントルイス号とともに
ワシントンからメキシコシティまで直行便で飛びます。



メキシコシティで学校の生徒たちに歓迎されるリンディ。
右横を歩いているのはアメリカ大使ドワイト・モローです。

皆様、ぜひこの「モロー」(Morrow)という名前を
記憶の片隅に留めておいてください。
試験に出ます。

そして中米コロンビア、ベネズエラ、プエルトリコを経由して、ハバナへ。



キューバのハバナで演説するリンドバーグ。
右端はヘラルド・マチャド・イ・モラレス大統領、周りは政府高官です。

そしてこの後、セントルイスに戻り、巡業は終わりました。



この時に訪問した国の国旗はカウリングの両側に描かれました。

実はリンドバーグは、後にアメリア・イアハートの夫となる
出版社社長のジョージ・パットナムと、もし大西洋横断に成功したら
その感動的な体験を綴った本を書くことを約束していました。

帰国してすぐ、彼は父親の知り合いグッゲンハイムの豪邸で缶詰になり、
3週間で「We」という陳腐な冒険譚を書き上げ、
スピリット・オブ・セントルイスによる3ヶ月の全米順行に出かけました。

パットナムはこの本がヒットすることが出版前からわかっていました。

リンドバーグの本は、大西洋横断の2ヶ月後、1927年の7月末に発売され、
1928年6月にはすでに31刷りになっていました。
ベストセラーといっても過言ではありません。

しかし、その文章は、ほとんど子供のような単純なものでした。

彼はその後も自伝を多くの出版社から求められては書きましたが、
年月を経るごとによくなっていき、50年代に書いた
『スピリッツ・オブ・セントルイス』は、ピューリッツァー賞を受賞しました。

これが日本で「翼よ、あれが巴里の灯だ」と訳された本です。
ワイルダーは、この本をジェームズ・スチュワート主演の映画に使い、
48歳のスチュワートは25歳のリンディを好演し、映画は大ヒットしました。


1928年4月30日、スピリット・オブ・セントルイス号は
セントルイスからワシントンDCへ最後の飛行を行いました。

その後、リンドバーグはこの機体をスミソニアン博物館に寄贈し、
それ以来それはここにあります。

続く。