ミシガン湖の東側を北上してマスキーゴンで
潜水艦「シルバーサイズ」に続き戦車揚陸艦LST 393を見学した翌日、
ミシガン湖から離れ、ヒューロン湖方面に車を向けました。
次のターゲットは地図の錨マークの場所。
そこに駆逐艦「エドソン」があります。
そこに駆逐艦「エドソン」があります。
もう少し拡大しますと、一応それはヒューロン湖沿いにあるように見えます。
さらに拡大。
実はそれはヒューロン湖沿いではなく、サギノー川の河畔に
その名も
「サギノーバレー・ナーバルシップ ミュージアム」
として展示されているのでした。
実はそれはヒューロン湖沿いではなく、サギノー川の河畔に
その名も
「サギノーバレー・ナーバルシップ ミュージアム」
として展示されているのでした。
ここはベイシティと称しますが、その理由は
ヒューロン湖が深く切れ込んだ入江沿いにある街だからです。
ちなみにベイシティ出身の最も有名な人物はマドンナだったりします。
ヒューロン湖が深く切れ込んだ入江沿いにある街だからです。
ちなみにベイシティ出身の最も有名な人物はマドンナだったりします。
人口の91%が白人で、東洋系は0.5%という希少人種。
日本人だけに限るとさらに数は少なくと0.1%にも満たないかもしれません。
日本人だけに限るとさらに数は少なくと0.1%にも満たないかもしれません。
実はこの博物館のボランティア活動をしているベテランの白人男性が
日本人女性と結婚していて、わたしたちが日本から来たと知ると
奥さんを呼んできたので、彼女と少し話をしましたが、彼女の知る限り、
近所に住んでいる日本人は彼女以外では一人だけということでした。
シカゴ大学などの留学生の多い大学はかなり離れているし、
かといって特にインターナショナルな大企業もないし、
彼女もたまたまここ出身の人と結婚しなければ住むこともなかったでしょう。
こんな船ですが、よくよく見ると「USネイビー」と書かれています。
さらに見れば、車輪もついていて、いわゆるランディングクラフトかな?
と画像検索までして探してみたのですが、ヒットなし。
子供用の遊具にしては形がどうもPTボートっぽいし・・・謎です。
ところでわざわざここまで歩いて来たのはこの船のためではなく、
艦体全部を真横から撮影しようとしたからですが、
ここまで来なくてはわたしのカメラのフレームには収まりませんでした。
さらに見れば、車輪もついていて、いわゆるランディングクラフトかな?
と画像検索までして探してみたのですが、ヒットなし。
子供用の遊具にしては形がどうもPTボートっぽいし・・・謎です。
ところでわざわざここまで歩いて来たのはこの船のためではなく、
艦体全部を真横から撮影しようとしたからですが、
ここまで来なくてはわたしのカメラのフレームには収まりませんでした。
親子三人で訪れたアメリカ人家族。
■USS「フランク・E・エバンス」慰霊碑
展示艦の前の広大な広場兼駐車場には、屋根付きの集会所と、
お土産も買える事務所兼入場売り場があって、この日、
その日本人妻を持つ男性(ベトナム戦争のベテランらしい)だけでなく、
地域のボランティアが皆で集まって和気藹々とやっていました。
建物内はオープンエアで、ちょっとしたパーティもできそうな感じです。
お土産も買える事務所兼入場売り場があって、この日、
その日本人妻を持つ男性(ベトナム戦争のベテランらしい)だけでなく、
地域のボランティアが皆で集まって和気藹々とやっていました。
建物内はオープンエアで、ちょっとしたパーティもできそうな感じです。
そして、その横には、同じ駆逐艦である、
USS「フランク・E・エバンス」
Frank E.Evans DD-754
の水兵になって写真が撮れる(子供用、後ろに階段付き)コーナーがあり、
隣のショップでは「エバンス」のしおりももらえました。
これはどうやらこの駆逐艦の慰霊碑のようです。
現役時代「グレイゴースト」とあだ名されていたこの駆逐艦は、
1945年2月に就役し、第二次世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争と
三つの戦争を戦い、その結果数多くの賞を受賞した殊勲艦でした。
しかし、1969年6月3日0300頃、南シナ海で、イギリス海軍、
オーストラリア海軍、ニュージーランド海軍の艦船と艦隊を編成し、
暗闇の中を航行中、無灯火だったせいで、オーストラリア海軍の空母
「メルボルン」の艦首を横切って衝突し、5分以内に沈没しました。
現役時代「グレイゴースト」とあだ名されていたこの駆逐艦は、
1945年2月に就役し、第二次世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争と
三つの戦争を戦い、その結果数多くの賞を受賞した殊勲艦でした。
しかし、1969年6月3日0300頃、南シナ海で、イギリス海軍、
オーストラリア海軍、ニュージーランド海軍の艦船と艦隊を編成し、
暗闇の中を航行中、無灯火だったせいで、オーストラリア海軍の空母
「メルボルン」の艦首を横切って衝突し、5分以内に沈没しました。
衝突直後の「フランク・E・エバンス」
事故の原因は、「フランク・E・エヴァンス」の航海士が、
「メルボルン」の左舷にいたにもかかわらず、自艦が右舷にいると勘違いして
右舷に旋回し、「メルボルン」の鑑首を2度横切ったことによるものです。
この沈没によって、73名の乗員が犠牲となりました。
艦尾は浮いたままで、約60〜100人が水中から救助されています。
事故の原因は、「フランク・E・エヴァンス」の航海士が、
「メルボルン」の左舷にいたにもかかわらず、自艦が右舷にいると勘違いして
右舷に旋回し、「メルボルン」の鑑首を2度横切ったことによるものです。
この沈没によって、73名の乗員が犠牲となりました。
艦尾は浮いたままで、約60〜100人が水中から救助されています。
ここに写真が挙げられた3名、ダグラス・ロイ・マイスター、
ティモシー・リン・ミラー、ハリス・メルヴィン・ブラウンは
このとき殉職した乗組員で、近隣の出身者です。
Remembering the USS Frank E. Evans disaster
この記念碑は、かつてここで慰霊式が行われた記念だそうです。
「エドソン」艦内には「フランク・E・エバンス」事故犠牲者の写真が。
これだけ多くの若者が一瞬にして命を失ったと思うと胸がいたみます。
これだけ多くの若者が一瞬にして命を失ったと思うと胸がいたみます。
グレゴリー・コウイチ・オガワという名前の日系アメリカ人士官の写真が
日本人の私の目を引きました。
この頃はアジア系の海軍士官はまだまだ珍しかったのではないでしょうか。
■ USS「エドソン」
木の船のところからは結局逆光のせいもあって撮影できなかったので、
桟橋を渡りながらここなら、とトライしましたが、
やっぱり艦尾まで画面に納まりませんでした。
(スマホの広角で撮れば1発なんですけどね)
USS「エドソン」は、その全盛期、強大なアメリカ海軍の一員として
太平洋を広く航海した駆逐艦です。
第二次世界大戦から1990年代までの間に就役した駆逐艦でも
トップクラスと称えられた駆逐艦の1つで、現在は、
過去の戦争から遠く離れた、ここサギノー川で休んでいます。
「エドソン」の物語は建造された1958年に始まります。
彼女はベトナム戦争において重要な役割を果たしました。
第二次世界大戦後に建造された軍艦の中には、
陸上部隊を水上から支援するために重砲を搭載し、
海軍が陸上戦に参加するという思想を持つタイプがありましたが、
「エドソン」はその一つでした。
また、ベトナム戦争末期に大々的な退避作戦が行われたときも、
「エドソン」はこれに従事し、戦闘と避難活動の両方で表彰されました。
「エドソン」はベトナム戦争の直前に就役し、その後
ベトナム戦争で最高の軍艦の1つであったのです。
この「フォレスト・シャーマン」級駆逐艦は、
戦死した若い水兵の名前を戴いたものが多いこのクラスの中で、
数少ない元海兵隊将軍の名を冠した数少ない海軍の船のひとつでした。
メリット・オースティン・エドソン・シニア(1897-1955)
彼がよく知られるようになった戦いは、
1942年9月のガダルカナルのルンガ・リッジの防衛戦でした。
彼と彼の率いる約800名の海兵隊員は、のちに
「ブラッディー(血みどろ)・リッジ」と呼ばれるようになったこの地で、
3,000名を超える日本軍からのの度重なる攻撃を受けます。
その戦場で、エドソンは絶えず敵の砲火に身をさらしながら、
あちこちを回り、兵たちを励まし、慰め、助言を与えました。
それ以降、彼は「レッド・マイク」と呼ばれるようになります。
かつてエドソンの大隊は、ドクロのパッチと規律正しさで有名でした。
「エドソン」はそれに敬意を表して艦の前面には同じドクロが描かれました。
桟橋を渡りながらここなら、とトライしましたが、
やっぱり艦尾まで画面に納まりませんでした。
(スマホの広角で撮れば1発なんですけどね)
USS「エドソン」は、その全盛期、強大なアメリカ海軍の一員として
太平洋を広く航海した駆逐艦です。
第二次世界大戦から1990年代までの間に就役した駆逐艦でも
トップクラスと称えられた駆逐艦の1つで、現在は、
過去の戦争から遠く離れた、ここサギノー川で休んでいます。
「エドソン」の物語は建造された1958年に始まります。
彼女はベトナム戦争において重要な役割を果たしました。
第二次世界大戦後に建造された軍艦の中には、
陸上部隊を水上から支援するために重砲を搭載し、
海軍が陸上戦に参加するという思想を持つタイプがありましたが、
「エドソン」はその一つでした。
また、ベトナム戦争末期に大々的な退避作戦が行われたときも、
「エドソン」はこれに従事し、戦闘と避難活動の両方で表彰されました。
「エドソン」はベトナム戦争の直前に就役し、その後
ベトナム戦争で最高の軍艦の1つであったのです。
この「フォレスト・シャーマン」級駆逐艦は、
戦死した若い水兵の名前を戴いたものが多いこのクラスの中で、
数少ない元海兵隊将軍の名を冠した数少ない海軍の船のひとつでした。
メリット・オースティン・エドソン・シニア(1897-1955)
彼がよく知られるようになった戦いは、
1942年9月のガダルカナルのルンガ・リッジの防衛戦でした。
彼と彼の率いる約800名の海兵隊員は、のちに
「ブラッディー(血みどろ)・リッジ」と呼ばれるようになったこの地で、
3,000名を超える日本軍からのの度重なる攻撃を受けます。
その戦場で、エドソンは絶えず敵の砲火に身をさらしながら、
あちこちを回り、兵たちを励まし、慰め、助言を与えました。
それ以降、彼は「レッド・マイク」と呼ばれるようになります。
かつてエドソンの大隊は、ドクロのパッチと規律正しさで有名でした。
「エドソン」はそれに敬意を表して艦の前面には同じドクロが描かれました。
髑髏のマークは、彼女の敵に対する、
「エドソンは殺すか殺されるかのために来たのだ」
という警告を意味していました。
■「フォレスト・シャーマン」級駆逐艦
「エドソン」は、第二次世界大戦と朝鮮戦争での失敗を教訓に、
新しく改良された「フォレスト・シャーマン」級駆逐艦のうちの一つです。
「エドソン」はその13番艦でした。
これらは、戦後初のアメリカ海軍駆逐艦クラスで、
第二次世界大戦後に波を支配するために作られたと言っても過言ではなく、
海軍の中でも最高峰のものと自他共に称していました。
戦後初の駆逐艦となったこのクラスは、
第二次世界大戦と朝鮮戦争の失敗の反省の上に立ち、それを活かして
世界で最も効率的な軍艦を作るというコンセプトでしたから、
彼女らは最高の大砲を装備し、驚くべき高速で海を移動し、
陸と海の戦いどちらにも投入できる、という高スペックぞろいでした。
■ベトナム戦争
ベトナム戦争は、アメリカの軍事史の中で、
ある意味、最も物議を醸したと言ってもいいでしょう。
当時の(あるいは今も)ほとんどのアメリカ人が、この戦争について
我々は行くべきでなかった、我々にとって何の意味もない紛争で
単に国力を誇示しようとしていただけのものだと考えていました。
当時アメリカ政府が言うところのベトナム戦争の意義とは、
「共産主義の蔓延を阻止するための戦い」
ということになっていましたが、そうはいっても、
それが米国に直接的な影響を与えると考える人は多くなく、
米国はベトナムに行く必要がなかったという意見は今も多くあります。
新しく改良された「フォレスト・シャーマン」級駆逐艦のうちの一つです。
「エドソン」はその13番艦でした。
これらは、戦後初のアメリカ海軍駆逐艦クラスで、
第二次世界大戦後に波を支配するために作られたと言っても過言ではなく、
海軍の中でも最高峰のものと自他共に称していました。
戦後初の駆逐艦となったこのクラスは、
第二次世界大戦と朝鮮戦争の失敗の反省の上に立ち、それを活かして
世界で最も効率的な軍艦を作るというコンセプトでしたから、
彼女らは最高の大砲を装備し、驚くべき高速で海を移動し、
陸と海の戦いどちらにも投入できる、という高スペックぞろいでした。
■ベトナム戦争
ベトナム戦争は、アメリカの軍事史の中で、
ある意味、最も物議を醸したと言ってもいいでしょう。
当時の(あるいは今も)ほとんどのアメリカ人が、この戦争について
我々は行くべきでなかった、我々にとって何の意味もない紛争で
単に国力を誇示しようとしていただけのものだと考えていました。
当時アメリカ政府が言うところのベトナム戦争の意義とは、
「共産主義の蔓延を阻止するための戦い」
ということになっていましたが、そうはいっても、
それが米国に直接的な影響を与えると考える人は多くなく、
米国はベトナムに行く必要がなかったという意見は今も多くあります。
ジョン・ウェインが考えていたように早期で決着が着くならともかく、
泥沼化して人命が徒に奪われ、徴兵を巡って社会騒動になった現実は
その意義に対し、動かし難い不信感をアメリカ人に植え付けたのも事実です。
ともあれ、アメリカ政府の意図である、地勢的に要となる国を占領し、
脅威とならない政府を置いて脅威の防波堤にするという、
新時代の軍事観に基づくものであったことは公平に評価すべきかと思います。
さて、戦争の意義についてはともかく、この新時代の考え方の一環として、
他国に対して「アメリカのルールを強制するため」に、
次々と新しい武器が開発され、導入されて実戦で使用されていきました。
泥沼化して人命が徒に奪われ、徴兵を巡って社会騒動になった現実は
その意義に対し、動かし難い不信感をアメリカ人に植え付けたのも事実です。
ともあれ、アメリカ政府の意図である、地勢的に要となる国を占領し、
脅威とならない政府を置いて脅威の防波堤にするという、
新時代の軍事観に基づくものであったことは公平に評価すべきかと思います。
さて、戦争の意義についてはともかく、この新時代の考え方の一環として、
他国に対して「アメリカのルールを強制するため」に、
次々と新しい武器が開発され、導入されて実戦で使用されていきました。
当時は冷戦時代でもあり、アメリカはロシアと技術において鎬を削っており、
あらゆることでロシアより優れていなければならないという立場でした。
海軍におけるその時代の艦艇も、競争の中から生まれてきました。
その一つが、「エドソン」をはじめとする新型駆逐艦群です。
USS「エドソン」が最初に投入されたのは、
ベトナムでの陸上部隊の砲撃支援でした。
「フォレスト・シャーマン」型駆逐艦は、もともと
潜水艦と戦うために設計されたものです。
第二次世界大戦時、連合軍の船舶がドイツのUボートの脅威にさらされ、
多くの損害を受けたことの反省に立ち、新型駆逐艦には、
潜水艦のサーチ&デストロイのを能力を大きく向上させることにしました。
そしてその思想は「駆逐艦」=デストロイヤーという名称を生みました。
これがアメリカ太平洋艦隊のトップガンとしてのニックネームです。
「エドソン」はこのニックネームにふさわしく、
現役時代には海上から陸上に向けて砲撃を行いましたが、
その射撃は非常に強力かつ正確で、すべてのミッションを成功させ、
これにより、彼らは功労部隊表彰を受けることになりました。
また、1967年2月から7月にかけて行われた海上からの陸地攻撃作戦、
あらゆることでロシアより優れていなければならないという立場でした。
海軍におけるその時代の艦艇も、競争の中から生まれてきました。
その一つが、「エドソン」をはじめとする新型駆逐艦群です。
USS「エドソン」が最初に投入されたのは、
ベトナムでの陸上部隊の砲撃支援でした。
「フォレスト・シャーマン」型駆逐艦は、もともと
潜水艦と戦うために設計されたものです。
第二次世界大戦時、連合軍の船舶がドイツのUボートの脅威にさらされ、
多くの損害を受けたことの反省に立ち、新型駆逐艦には、
潜水艦のサーチ&デストロイのを能力を大きく向上させることにしました。
そしてその思想は「駆逐艦」=デストロイヤーという名称を生みました。
これがアメリカ太平洋艦隊のトップガンとしてのニックネームです。
「エドソン」はこのニックネームにふさわしく、
現役時代には海上から陸上に向けて砲撃を行いましたが、
その射撃は非常に強力かつ正確で、すべてのミッションを成功させ、
これにより、彼らは功労部隊表彰を受けることになりました。
また、1967年2月から7月にかけて行われた海上からの陸地攻撃作戦、
「オペレーション・シードラゴン」
では、「エドソン」は北ベトナムに入り、通信線を含む軍事基地の破壊、
敵艦への砲撃など、複数の攻撃を行い、また、4つの作戦を支援しました。
このときに与えられた表彰状によると、「エドソン」は
293もの目標を攻撃し、攻撃を受けたのは1回という最小限のダメージで、
これは、この艦がいかに優れたパフォーマンスを発揮し、
卓越した功績を残したかを示すものとなっています。
「エドソン」は3回表彰され、史上最高の海軍艦艇のひとつとされています。
では、「エドソン」は北ベトナムに入り、通信線を含む軍事基地の破壊、
敵艦への砲撃など、複数の攻撃を行い、また、4つの作戦を支援しました。
このときに与えられた表彰状によると、「エドソン」は
293もの目標を攻撃し、攻撃を受けたのは1回という最小限のダメージで、
これは、この艦がいかに優れたパフォーマンスを発揮し、
卓越した功績を残したかを示すものとなっています。
「エドソン」は3回表彰され、史上最高の海軍艦艇のひとつとされています。
彼らがこのときいかに桁外れの砲撃を行ったかを表す証拠として、
あまりにも大砲を撃ちすぎて、砲身が摩耗し、
部品を交換しなければならないほどだった、という逸話が残っています。
そんな「エドソン」乗組員のモットーは、
"CAN DO "
兵士たちはこの言葉の通り、決してあきらめない、を信条にしていました。
また、当ブログでも一度詳しく言及したサイゴンからの脱出作戦、
「オペレーション・フリークェント・ウィンド」
でも重要な役割を勤めています。
あまりにも大砲を撃ちすぎて、砲身が摩耗し、
部品を交換しなければならないほどだった、という逸話が残っています。
そんな「エドソン」乗組員のモットーは、
"CAN DO "
兵士たちはこの言葉の通り、決してあきらめない、を信条にしていました。
また、当ブログでも一度詳しく言及したサイゴンからの脱出作戦、
「オペレーション・フリークェント・ウィンド」
でも重要な役割を勤めています。
■ベトナム戦争後
ベトナム戦争後、「エドソン」や他の駆逐艦は、
日進月歩のアメリカの技術革新の波の中で次第に陳腐化していきました。
「エドソン」以外の「フォレスト・シャーマン」級駆逐艦は
時代に沿った何らかの改造が行われたのですが、彼女だけは
同型駆逐艦の中で唯一、未改造のまま残されました。
そして、他の改造された「シャーマン」型は全て廃棄され、
現在その形をとどめているのは彼女を含む2隻だけとなっています。
実は、USS「エドソン」に関するデータは、
1990年代まで機密扱いになっていました。
ベトナム戦争後、「エドソン」や他の駆逐艦は、
日進月歩のアメリカの技術革新の波の中で次第に陳腐化していきました。
「エドソン」以外の「フォレスト・シャーマン」級駆逐艦は
時代に沿った何らかの改造が行われたのですが、彼女だけは
同型駆逐艦の中で唯一、未改造のまま残されました。
そして、他の改造された「シャーマン」型は全て廃棄され、
現在その形をとどめているのは彼女を含む2隻だけとなっています。
実は、USS「エドソン」に関するデータは、
1990年代まで機密扱いになっていました。
彼女についての記事の多くは、かなり後になってから書かれたもので、
他国が設計を真似できないように、ほとんどの情報は公開されませんでした。
他国が設計を真似できないように、ほとんどの情報は公開されませんでした。
そのため、駆逐艦が活躍した当時の情報は、現在においても
乗組員が亡くなったという曖昧な記事以外にはなかなか出てきません。
その任務に関するほとんどの情報は、退役数年後まで公開されませんでした。
たとえば、1分間に6千発から1万発を発射できる「バルカン砲」。
「エドソン」がデストロイヤーとして活躍できた理由は、
こういったより多くの艦砲を搭載していたからです。
「エドソン」はミサイルの代わりに実銃を搭載した最後の海軍艦艇でした。
砲、そのデータは、戦後民間企業が取得し、
他の艦船や航空機に利用されて今日に至ります。
乗組員が亡くなったという曖昧な記事以外にはなかなか出てきません。
その任務に関するほとんどの情報は、退役数年後まで公開されませんでした。
たとえば、1分間に6千発から1万発を発射できる「バルカン砲」。
「エドソン」がデストロイヤーとして活躍できた理由は、
こういったより多くの艦砲を搭載していたからです。
「エドソン」はミサイルの代わりに実銃を搭載した最後の海軍艦艇でした。
砲、そのデータは、戦後民間企業が取得し、
他の艦船や航空機に利用されて今日に至ります。
■退役後の「エドソン」
戦闘任務や訓練を含む30年の任務を経て1988年にその役目を終えた後、
戦闘任務や訓練を含む30年の任務を経て1988年にその役目を終えた後、
「エドソン」は海軍の現役艦艇リストから外されました。
ベトナム戦争後、彼女は将来の乗組員の訓練場として活用されました。
戦中戦後を通して損傷や被害を受けずに来たこの艦ですが、
記録された唯一の事故は、この訓練艦時代に、
火災訓練中、オイルチューブが破裂し、発火するというものでした。
幸いにも、この事故による負傷者はなく、大きな被害には至っていません。
訓練艦時代、彼女は、主に東海岸のアナポリスに近い場所に配備されて、
戦闘任務や、攻撃されたときの対処法などを学ぶ場となり、また、
訓練生が窮屈な「宿舎」に慣れるための仮のホテルとなりました。
一般に、海軍艦艇の中を見学すると、どの艦も等しく、
このような狭い生活環境の中で人がどうやって生きているか驚くばかり。
ベッドは普通の体格の人がようやく入れるくらいの大きさで、
部屋は後ろを振り向くことができるくらいの広さです。
しかし、それが艦隊生活というものです。
多くの人が適応しているこのような環境に慣れるには、
ただ、訓練あるのみです。
■ 博物艦として
1988年、海軍はついにこの艦を艦隊から除名しました。
「エドソン」は現在、ここサギノー川で博物館として展示されています。
海軍から放出された当初、ニューヨークのイントレピッド海空宇宙博物館が
所有権を認められたため、1990年から2004年まで、
彼女はニューヨーク港に展示され、内部を公開していました。
そのために「エドソン」は国定歴史建造物に指定され、公開されたので、
観光客はかつての駆逐艦に乗り、水兵たちの暮らしぶりに思いを馳せました。
その後、2004年、ニューヨークの博物館はエドソン号を海軍に返還し、
(博物館がコンコルドの機体の展示をすることになったため)
しばらくフィラデルフィアの造船所で寝かせていましたが、
その後、ベイシティが、再び博物館として活用するために入札を行いました。
その結果、2012年、「エドソン」は五大湖に新しい住処を得ました。
現在は博物館としてオープンし、艦内を見学できるほか、
かつてこの船に住んでいた乗組員の寝室に泊まる企画もあります。
アメリカでも一般的にこのような軍の遺物はジャンク品として扱われ、
あまり評価されないまま、関心が持たれず放置されることが多いですが、
「エドソン」はなぜか時が経つにつれてその価値が高まっていくようです。
「エドソン」が最もその輝きを放ったのは、
アメリカがベトナムに侵攻し、戦闘を行った時期でした。
誕生に至るまで連綿と連なってきたアメリカ海軍艦艇の遺産を引き継ぎ、
「エドソン」は海軍が持つ最も偉大な艦のひとつとなりました。
当時一般には情報が秘匿されていたのにもかかわらず、
U.S.S.「エドソン」の存在のインパクトは絶大で、
遺された数少ない文献の中で、まるで伝説のように語られています。
その存在は第二次世界大戦後、太平洋における米海軍の支配の象徴であり、
30年間、この艦の多用途性はあらゆる場面で役立つ万能の道具並みでした。
アメリカ海軍は、最初の200年で学んだことを生かして、
世界一強力な海軍技術を作り上げてきましたが、
過去、海で繰り広げられた多くの戦争から学んだ教訓を生かし、
より優れた、より汎用性の高い艦としての「エドソン」を産んだのです。
さあ、それではそんなUSS「エドソン」に乗艦してみましょう。
続く。
ベトナム戦争後、彼女は将来の乗組員の訓練場として活用されました。
戦中戦後を通して損傷や被害を受けずに来たこの艦ですが、
記録された唯一の事故は、この訓練艦時代に、
火災訓練中、オイルチューブが破裂し、発火するというものでした。
幸いにも、この事故による負傷者はなく、大きな被害には至っていません。
訓練艦時代、彼女は、主に東海岸のアナポリスに近い場所に配備されて、
戦闘任務や、攻撃されたときの対処法などを学ぶ場となり、また、
訓練生が窮屈な「宿舎」に慣れるための仮のホテルとなりました。
一般に、海軍艦艇の中を見学すると、どの艦も等しく、
このような狭い生活環境の中で人がどうやって生きているか驚くばかり。
ベッドは普通の体格の人がようやく入れるくらいの大きさで、
部屋は後ろを振り向くことができるくらいの広さです。
しかし、それが艦隊生活というものです。
多くの人が適応しているこのような環境に慣れるには、
ただ、訓練あるのみです。
■ 博物艦として
1988年、海軍はついにこの艦を艦隊から除名しました。
「エドソン」は現在、ここサギノー川で博物館として展示されています。
海軍から放出された当初、ニューヨークのイントレピッド海空宇宙博物館が
所有権を認められたため、1990年から2004年まで、
彼女はニューヨーク港に展示され、内部を公開していました。
そのために「エドソン」は国定歴史建造物に指定され、公開されたので、
観光客はかつての駆逐艦に乗り、水兵たちの暮らしぶりに思いを馳せました。
その後、2004年、ニューヨークの博物館はエドソン号を海軍に返還し、
(博物館がコンコルドの機体の展示をすることになったため)
しばらくフィラデルフィアの造船所で寝かせていましたが、
その後、ベイシティが、再び博物館として活用するために入札を行いました。
その結果、2012年、「エドソン」は五大湖に新しい住処を得ました。
現在は博物館としてオープンし、艦内を見学できるほか、
かつてこの船に住んでいた乗組員の寝室に泊まる企画もあります。
アメリカでも一般的にこのような軍の遺物はジャンク品として扱われ、
あまり評価されないまま、関心が持たれず放置されることが多いですが、
「エドソン」はなぜか時が経つにつれてその価値が高まっていくようです。
「エドソン」が最もその輝きを放ったのは、
アメリカがベトナムに侵攻し、戦闘を行った時期でした。
誕生に至るまで連綿と連なってきたアメリカ海軍艦艇の遺産を引き継ぎ、
「エドソン」は海軍が持つ最も偉大な艦のひとつとなりました。
当時一般には情報が秘匿されていたのにもかかわらず、
U.S.S.「エドソン」の存在のインパクトは絶大で、
遺された数少ない文献の中で、まるで伝説のように語られています。
その存在は第二次世界大戦後、太平洋における米海軍の支配の象徴であり、
30年間、この艦の多用途性はあらゆる場面で役立つ万能の道具並みでした。
アメリカ海軍は、最初の200年で学んだことを生かして、
世界一強力な海軍技術を作り上げてきましたが、
過去、海で繰り広げられた多くの戦争から学んだ教訓を生かし、
より優れた、より汎用性の高い艦としての「エドソン」を産んだのです。
さあ、それではそんなUSS「エドソン」に乗艦してみましょう。
続く。
もし見えなければホームページからどうぞ。
https://www.youtube.com/watch?v=DW2RZlbq7Kw
艦名は初ですがこんな鯨はいませんので?
進水式ですがヘッド船台での進水で豪快なシーンが撮影され、公開されており、感動します。
川重の伝統で古い方法なのですが静かでスムースです。現在では骨董の部類の進水式です。船屋としては晴れの舞台であり、緊張の一瞬です。
安全のため浮体が艦首部及び艦尾部両舷に取り付けられており、プロペラは取り付けられていません。
また観客席も多く設置されており、多くの方に見学され、祝福されての進水でした。
なお令和2年度掃海艦も10月24日JMU鶴見で「のうみ」と命名され無事進水しました。
旧海軍海防艦御蔵型4番艦に命名されていました。
https://www.youtube.com/watch?v=EC7CV5d0K4g
こちらはニュースから貼り付けました。
同じ船台からの進水ですがこちらはボール船台と思います。
両方とも建屋の中で建造されての進水ですが潜水艦は秘密保持と品質保持で掃海艦は木材、GFRP加工建造の環境保全と品質保持の理由でのことと思います。
ヨーロッパ等は天候不順や低温への配慮や品質保持のため建屋内建造が多いですが、日本は露天船台が多いと思います。大型艦船の船台建屋建造はクレーンの設置や移動の考慮等結構な設備投資が必要で建造の連続等があれば減価償却ができるでしょうが日本であまり実施されませんでした。。ヨーロッパの造船所は客船建造等船価の高い船が多いですが近年は巨大化して建屋のギリギリだったり、何分割かしての建造等しているようですが。
1 アメリカ海軍航空部隊による南爆と北爆
2 アメリカ海軍水上部隊による沿岸砲撃
3 海軍及び沿岸警備隊による封鎖作戦
4 内水域におけるブラウン・ウオーター・ネイビーの戦い
ベトナムの地形から沿岸砲撃は地上戦闘部隊の支援、共産側の各種施設破壊、鉄道道路を使っての輸送阻止の目的で繰り返し実施されました。
使用された艦艇は戦艦からフリゲートまで水上戦闘艦はすべての艦種が使用されました。
発射弾数により砲身交換は必要で結構頻繁に実施されており、横須賀米海軍修理廠にもベトナム戦当時多くの砲身が保管され交換が実施さていました。
参照文献朝日ソノラマ ベトナム戦争兵器ハンドブック
「フランク・E・エバンス」はアレンM・サムナー級67隻の1艦で1945年2月就役でエリス中尉記載のように1969年衝突事故により沈没となっていますが事故であり、ベトナム戦争での戦史には記載がありません。空母で搭載機破損、火災事故も多くありました。
米駆逐艦の戦史として
1964年8月2日「マドックス」DD-731が北ベトナム魚雷艇と交戦1隻を撃沈しました。
1966年11月23日「マラニー」DD-528と「ウォリントン」DD-843が60隻の運貨船を発見し、47隻を撃沈しました。1966年12月23日「オブライエン」DD-725が沿岸砲台から反撃され戦死2名、負傷4名の損害を受けました。
1972年7月17日「ウォリントン」DD-843が味方機が敷設した機雷で大破、廃艦となりました。
以上となっています。
なおフォレスト・シャーマン級18隻のその後ですが「デイケーター」など4隻がDDGとなったほか「バリー」等8隻が対戦用に改造されましたが機関の高圧缶の維持が困難であり、比較的早期に除籍されました。
砲と魚雷を主兵装とした米海軍最後の駆逐艦でした。
参照海人社「世界の艦船」No496
水陸両用車DUKWじゃないかと思います。
https://ja.wikipedia.org/wiki/DUKW
>事故の原因は「フランク・E・エヴァンス」の航海士が「メルボルン」の左舷にいたにもかかわらず、自艦が右舷にいると勘違いして右に旋回し「メルボルン」の艦首を2度横切ったことによるものです。
気になったので、Wiki(英語版)を見ました。レーダーが一般的になった時代に危険な無灯火というのはちょっと解せませんが、それなら左右を間違えることは十分あり得ます。事故発生時、艦長は就寝中で、当直士官に「陣形変換が掛かったら起こせ」と命じていたようですが「エヴァンス」がPlane Guardに就けと命ぜられた時に艦長には知らせておらず、レーダーで空母「メルボルン」との位置関係も確認しておらず、なおかつ、最大の問題は「メルボルン」の艦首を突っ切ったことです。
お粗末な操艦のせいであることは明白で、戦闘ではないので、事故で亡くなった方には大変気の毒としか言いようがありません。
>第二次世界大戦後に建造された軍艦の中には、陸上部隊を水上から支援するために重砲を搭載し、海軍が陸上戦に参加するという思想を持つタイプがありましたが「エドソン」はその一つでした。
「フォレスト・シャーマン」級が建造された頃には、16インチ(400ミリ)砲を搭載する戦艦が残っていたので、5インチ砲(127ミリ)が重砲かというと、ちょっと疑問です。
5インチ砲は対空砲として、第二次世界大戦当時からありますが「フォレスト・シャーマン」級の5インチMk-42は、当時としては高性能の対空・対艦の両方に対応する両用砲です。
装てん機構が二式あり、発射速度が高い(毎分20発以上)のですが、機構が複雑なため、米海軍ではより機構が簡単で、整備が楽な(発射速度が遅い)Mk-45に取って代わられ、艦砲は対艦にしか使われなくなりました。
自衛隊では、今に至るも艦砲は対空・対艦両用が基本で、(米海軍では1980年代には退役している?Mk-42は、今でも走っている「はたかぜ」型で健在です。こんごう型からは同じく発射速度が高いイタリア製の127ミリ砲になり、その後、あたご型からは米海軍と同じアメリカ製のMk-45になりましたが、今でも対空・対艦両用で使っています。
>「エドソン」は293もの目標を攻撃し、攻撃を受けたのは1回という最小限のダメージで、これは、この艦がいかに優れたパフォーマンスを発揮し、卓越した功績を残したかを示すものとなっています。
北ベトナム海軍は沿岸警備隊程度だったので、米海軍に反撃するのは難しかったと思います。なので「攻撃を受けたのは1回という最小限のダメージで、これは、この艦がいかに優れたパフォーマンスを発揮し、卓越した功績を残したかを示す」というのは、ちょっと米軍よりの発言だと思います。
>あまりにも大砲を撃ちすぎて、砲身が摩耗し、部品を交換しなければならないほどだった、という逸話が残っています。
293目標も撃たせたら、砲身が大きく摩耗するのは当たり前なので、逸話と言えるのか。