スミソニアン航空宇宙博物館の「空母展示」から、
空母を使って行われた日米間の戦争についてご紹介しています。
というわけで、いよいよミッドウェイ海戦の登場人物についてです。
■ ミッドウェイ海戦の英雄たち
「A Few Goodmen」という映画がありましたね。
直訳すると「一握りの善人」ですが、この意味は「他にも(善人は)いる」
ということでいいかと思います。
このコーナーのタイトルは、
「A Few Heroes」
となっているのですが、これが同じ意味であることは次の文章でわかります。
「戦いの間には陣営の両側に記録に残された英雄たちがいます。
ミッドウェイ海戦においては、フライトデッキに、機関室に、
操舵室に、そしてコクピットに、祖国のために勇敢に戦い、
そして斃れていった日米の男たちがいました。
ここに紹介するのはそれらの英雄たちのごく一部(a few)です」
A Few Good Men
と題された写真です。(そのものですね)
ミッドウェイ島の海兵隊の守備隊は、
彼らの持てるもの全てをもって反撃しました。
日本軍の爆撃を受けて地上にあった航空機は全て飛行が不可能になり、
さらには各種迎撃用武器も多くがダメージを受けていたのです。
しかしこのような集中的な攻撃を受けたにもかかわらず、
死者11名、負傷者18名と被害は比較的軽微でした。
マリオン・ユージン・カール Marion E. Carl USMC
最初にその一部の英雄として紹介されているのがマリオン・カール海兵隊大尉です。
(最終階級少将)
わたしはこの名前を帝国海軍のエースの一人である台南航空隊の
笹井醇一少佐をラバウルで撃墜したパイロットとして記憶していたわけですが、
この時になって初めて、カール大尉が海兵隊パイロットであること、
そして、彼がミッドウェイ海戦に参加していたことを知りました。
カール大尉は海兵隊戦闘部隊221(VMF 221)所属で、
ミッドウェイ海戦では海兵隊迎撃部隊に属していました。
この時海兵隊は、時代遅れのブリュースター・バッファローとワイルドキャットを
完璧に凌駕する、恐ろしい敵「ゼロ・ファイター」に直面することになります。
そして多くの戦闘機パイロットたちの英雄的な健闘にもかかわらず、
VMF221の25機のバッファロー戦闘機のうち、23機が撃墜あるいは撃破されました。
このときカール大尉はミッドウェイの激戦を生き残ったのみならず、
旧式の「不利な機体で」零戦1機を撃墜したとされています。
彼はミッドウェイで、この後、笹井少佐を撃墜することになった
ガダルカナルの戦いを経て海兵隊航空隊最初の戦闘機エースとなりました。
ミッドウェイで生き残った海兵隊パイロットの記念写真。
輸送機から降りてきたところか、あるいは搭乗の前でしょうか。
マリオン・カール大尉は一番左端です。
ところで今久しぶりにカール少将の英語Wikiを見てみたら、
前には見た記憶のない笹井少佐の写真が同ページに掲載されており、
Junichi Sasai wearing flight gear.
This 1942 photo shows Sasai shortly before his death over Guadalcanal on August 26.
(この1942年の写真は笹井がガダルカナルで8月26日に戦死する直前のものである)
とキャプションがありました。
当ブログ調べによると、この写真のトリミングされた部分には
笹井中尉の兵学校時代のクラスメートが彼と肩を組んでいるのが写っており、
そのクラスメートは同クラスの戦闘機専攻の学生であることもわかりました。
つまり写真の撮られたのはラバウルでもましてや死の直前でもなく、
霞ヶ浦の訓練時代に撮られたものということになるので、
彼が微笑んでいても当然の状況ということが言えると思いますが、
誰が言い出したのやら、この写真が「死の直前」ということになってしまい、
いつの間にかワールドワイドに間違った情報が上書きされているのです。
まったく困ったものですね。
ランス・エドワード・マッセイ少佐
Ens. Lance E.Massey
海軍兵学校卒のパイロットであったマッセイは、ミッドウェイ海戦において
VT-3(魚雷部隊)の小隊を率いて「飛龍」に低空からの攻撃を試みるも、
「飛龍」からの反撃に落とされ、戦死しました。
このときVT-3のTBDはジョン・サッチ少佐率いる6機のF4Fワイルドキャットに
掩護されていたにもかかわらず、12機のうち10機が失われることになりました。
彼の名前は駆逐USSマッセイ(DD-778)に残され、
遺児は兵学校を出て海軍軍人となり、司令官まで昇進して引退しています。
この写真に写っている機体の旭日旗ですが、クェゼリンで沈没させた軍艦を意味しているそうです。
ジョン・ウォルドロン少佐
Lt. Com. John Charles Waldron
「ホーネット」の第8雷撃機部隊の隊長であったウォルドロン少佐は、
ミッドウェイ海戦で最初に隊を率いて出撃しましたが、
戦闘機の掩護なしの旧式機であるデバステーターは、当時最新型の
零戦の餌食となって、出撃した15機は全て撃墜されました。
出撃の前の日、ウォルドロン少佐は隊員にこう訓示しています。
「もし君たちの誰かが最後の一機になったら、そのときは
相手に体当たりしてでも攻撃してもらいたい。
神の御加護が我々に有らんことを。
グッドラック、そしてハッピーランディングで彼らを地獄に落とせ」
「失われた飛行中隊」
そして、デバステーター隊の15機は全て撃墜され、ここに写っている
15名のパイロットのうち生き残ったのは赤丸のジョージ・ゲイ少尉だけでした。
ちなみに映画「ミッドウェイ」についてここでお話ししたとき、南雲中将が
この全滅の報を受け、
「15名の勇敢な若者が・・・・」
と涙を浮かべるシーンについて、今にして思えばまことに早計ながら、
「デバステーターは二人乗りなので15名はおかしい」
と突っ込んだのですが、南雲中将のいう15名はパイロットのことでした。
つまりここに写っている15名ということになります。
しかしながら、各機には一人ずつ通信兼後部射手が乗っていたので、
正確な戦死者は29名ということになります。
同乗者の存在が無視されがちなのは相変わらずで、彼らの写真は残っておらず、
この時パイロットと一緒に死んだのにもかかわらず、歴史から抜け落ちた存在となっています。
ジョージ・ゲイ少尉 Ens. George H. Gay jr.
そして彼がウォルドロン少佐の第8雷撃部隊で唯一生き残ったゲイ少尉です。
ゲイ機は「蒼龍」に魚雷攻撃を試みましたが、回避され、同乗の通信&後部射手、
ハンティントンが銃撃によって死亡した後、撃墜され着水しました。
映画「ミッドウェイ」でも描かれていましたが、ゲイ少尉は海に逃れ、
機銃掃射されないようにずっとシートクッションを頭にかぶって、
海の上から三隻の日本の空母が沈没する様子を丸一日見ていました。
暗くなってから救命筏を膨らませ、撃墜されてから約30時間後、
カタリナ水上艇に救出されて生還することができました。
そんな状態でも微笑んでいるのはさすが名前の通り陽気な青年みたいですね。
ちなみに彼は1994年、77歳で亡くなり、その遺灰は、本人の遺言により
彼の部隊が攻撃のため発進したのと同じ海域に撒かれたそうです。
クラレンス・ウェイド・マクラスキー少将
C. Wade MacClusky
「エンタープライズの艦爆部隊を、日本の駆逐艦の航跡に沿って進ませ、
敵の主力空母艦隊を捜索したという彼の判断は重要でした」
といきなり書いてあります。
これだけ読んでも、ミッドウェイ海戦について詳しくない人には
何のことやらさっぱり、という説明ですが、これは、わかりやすく書くと、
発進!
→「発艦する数が多すぎる!じゃ上空で待ち合わせして各自出発な」
→艦攻隊、戦闘機隊と全く反対の方向に行ってしまう><
→「隊長!1機どこかにいってしまいました!」(T_T)
→「燃料がありません!」「1機着水します!」
→「もうだめだ・・・帰還するしかない・・
おや、駆逐艦が一隻航行している・・
あの駆逐艦はどこにいくんだ?
もしかしたら進行方向に敵の艦隊がいるんじゃないか?」
→「ビンゴ!」←いまここ
ということになります。
そしてマクラスキーが後年いうところの、
「発見した青いカーペットを切り裂いたような白いカーブ」
は、逸れた雷撃隊がまさに「赤城」を攻撃しているところでした。
いわゆる青絨毯の切れ込み
この後、マクラスキー隊はそのまま攻撃を開始し、
彼の部下であるリチャード・ベスト大尉の部隊とともに
「赤城」「加賀」を沈没に至らしめたというわけです。
負傷して帰還してからは艦上から指揮を執り、それによって
「飛龍」も撃沈したため、直接指揮により2隻、指揮により1隻、
合計3隻を沈没させるという海戦史初の戦果を挙げた指揮官になりました。
ちなみに前にも書いたことですが、このときアメリカ側が発見したのは
駆逐艦「嵐」だった、と言っているのにもかかわらず、戦後「嵐」の乗員は全員が、
「そのようなことはなかった」「空母の近くを離れたことはない」
とまで証言しているというというんですねー。
それではマクラスキーが発見した「駆逐艦」とは何だったのでしょうか(怖)
ジョン・サッチ少佐 Lt.Com. John S. Thach
第3戦闘機部隊(VF-3)指揮官
サッチ少佐は「ヨークタウン」爆撃隊を目標まで6機のワイルドキャットで掩護しました。
その体勢は、上空のドーントレス艦爆部隊、低空の雷撃部隊の間4キロの空間に
サンドウィッチ状態で掩護戦闘機隊が飛ぶというものです。
そしてサッチ隊は20機の零戦部隊に攻撃されました。
「まるで蜂の巣に突っ込んだようだった」
と後年かれはこのときのことをこのように述懐しています。
この交戦により生き残ったサッチ隊長とわずかのグループは
その後も雷撃隊をエスコートし続けました。
最終的に彼の部隊で「ヨークタウン」に戻ってくることができたのは
彼を入れて3機の戦闘機、そしてたった1機の雷撃機だけでした。
続く。
攻撃隊発進地点に向かっていた隊形は第1警戒航行序列でした。
詳しい資料が残されていませんが生き残った人々の証言から「利根」「筑摩」「長良」が横並びで先頭、その後に「赤城」「飛龍」が並び、「加賀」「蒼龍」が続いていました。
殿艦は「榛名」「霧島」で、周囲に第4駆逐隊「嵐」「野分」「萩風」「舞風」、第17駆逐隊「磯風」「浦風」「浜風」「谷風」、第10駆逐隊「秋雲」「夕雲」「巻雲」「風雲」が取り囲んでいました。
対空警戒は手薄で軽巡や艦隊駆逐艦では対空砲が無く、機銃のみ。珊瑚海海戦の戦訓が全く反映されていません。陣形も対空防御となっていません。
攻撃隊発艦時、「赤城」と「飛龍」は並行で約4,000m離れていました。ミッドウェー島から210浬離れた場所で第1次攻撃隊発艦後130度に変針、速力を24ktに増速しました。
機動部隊最初の発見は6月5日早朝ミッドウェー島駐屯の第23哨戒中隊ハワード・アディ大尉のカタリナでした。15機の哨戒機の1機で0430発、0510頃水上偵察機遭遇、おそらく利根4号機でした。0520頃「敵空母2隻および戦艦群、ミッドウェーの320度180哩、進路135度速力25kt」と発信してその後も接触を続け発信していました。アディ機の南の捜索線担当のチェイス大尉機が0540頃第1攻撃隊を発見連絡、これらの報でミッドウェー島は警戒、在島全機が発進しましたので奇襲とはなりませんでした。
ミッドウェー島からの攻撃、迎撃戦闘機の離発艦や第1次攻撃隊の収容で進路や間隔が各艦がバラバラとなっていなのではにでしようか?
マックラスキー少佐は0955頃眼下に一筋の航跡を発見、かなりの高速であったと言っています。この駆逐艦に付いてゆけば日本空母に遭遇すると考えて、部隊を誘導しましたが部下の大部分は「エンタープライズ」に帰投誘導しているものと思っていました。
双眼鏡で4隻の空母がちりじりで大きく円弧を描いているのを発見しました。
この駆逐艦がどの艦であったのかは参照資料にもありません。
対潜戦で爆雷投下をした後、部隊に追いつくため高速直行していたとの資料もありますが?
参照光人社亀井宏著「ミッドウェー戦記」「写真太平洋戦争第2巻」、外山三郎著「図説太平洋海戦史2」
第3潜水戦隊伊8,174、175、168,169、171、172、第5潜水戦隊伊156,157,158,159、162、164、165、166、121,122、123計18隻の予定でしたが、伊8は味方の誤爆で損傷呉帰投、伊172は故障で呉帰投、伊164は佐世保出撃翌日米潜トライトンに雷撃され沈没、したがって15隻が作戦に参加しました。
なお伊168は修理が遅れ、5月23日呉出撃となりました。ミッドウェー島偵察を命じられました。
K作戦中止(2式大艇燃料補給)で伊171、174、175は散開線に移動、伊121,122,123はレイサン島、フレンチフリゲート礁付近の哨戒を命じられました。
散開線到着は6月2日予定が4日になったのは修理で進出が遅れたのと上記のK作戦参加で配備が困難となっていました。
敵通過後の配置となってしまいました。
6月5日空母被害で連合艦隊は敵水上部隊撃破のため散開線の移動を命じました。6日第6艦隊は再度散開線の移動を命じ、13日に敵情報を得て東に再度移動しましたが発見せず、15日以降帰途につきました。
伊168のみ6月5日ミッドウェー島偵察、砲撃し避退、6月6日ヨークタウン漂流、撃沈を命じられました。7日魚雷4本発射、4本の命中音を聞きました。攻撃されましたが避退、19日呉帰投、燃料残1tのみでした。
上記のように移動を頻繁に命じ、伊168を除き徒労に終わっています。
参照光人社「写真太平洋戦争第2巻」
リズレイ少佐は、ミ海戦を描いた隠れた名(?)作”War and Remembrance(戦争と追憶)”第3話に登場しますが、結構リアルで面白いです。