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25回の爆撃ミッション〜メンフィス・ベル 国立アメリカ空軍博物館

2023-11-10 | 航空機

アメリカ国立空軍博物館の展示より、
第二次世界大戦中爆撃機のアイコンとなったB-17、
メンフィス・ベルについてお話ししています。

今日は、ベルが実際に完遂したミッションについて取り上げます。

1943年1月23日。

フランス占領下のドイツ軍Uボート基地上空の対空砲火が飛び交う空で、
メンフィス・ベルは命がけで戦っていました。

史上最も有名なフライング・フォートレスとなる運命にあった
この米陸軍航空隊のボーイングB-17Fは、
潜水艦檻を標的とした4つの爆撃機群のうちの1つに混じって、
編隊を組んで目標であるロリアンの潜水艦基地に近づいていました。

ゴールに達するために、ロバート・K・モーガン大尉と乗組員は、
ドイツ軍戦闘機の防護バリアーを突破し、
基地周辺を覆う厚い対空砲火をくぐり抜けなければなりません。

彼らの任務は至極単純明快なことでした。

降下を複雑にする回避行動をとらず、安定した状態を保ち、
最後に "Bombs away "(爆弾投下)と言う。
その後はイギリスのバシングボーンにある第8空軍基地に帰るだけです。

しかし、そこに辿り着くまでに、戦闘機の執拗な攻撃が待っています。

「22分間、彼らは私たちに地獄を見せた。」

あるとき、ベルはフォッケウルフFw-190に正面から攻撃されました。

「通常ならダイブして逃げるのだが、
私たちの下には別のグループがいたから、それはできなかった。
そのとき機首を狙った砲弾が尻尾に当たったんだ」

尾部砲手であるジョン・クインラン軍曹が、

「機長、尾翼がやられました。機長、尾翼がやられました!
尾翼が燃えている!尾翼全体が機体から離脱している!」


息を呑んで沈黙していると、

「機長、まだ燃えています。機長、まだ燃えています!」

さらに一瞬の静寂の後、尾翼の砲手が今度は落ち着いた声で。

「機長、火は消えました」

モーガン機長はは後に、

「今まで聞いた中で最も甘美な”音楽”だった 」

と語りました。
その後パイロットが確認すると、尾翼がないようにみえました。
実際にエレベーターが損傷して、コントロールが難しく、
飛ぶのはもちろん、着陸はもっと大変でしたが、それでも
モーガン機長は優れた操縦技術でベルを基地に連れ戻すことに成功しました。


破損した垂直安定板

■124485

これまでお伝えしたように、メンフィス・ベルとその乗組員は、
ナチスドイツの打倒に貢献した重爆撃機の乗組員として、さらに
後方支援要員の奉仕と犠牲を象徴する時代を超越したシンボルとなりました。

彼らはヨーロッパ上空で25回の任務を完了し、
米国に帰還した最初の米陸軍航空隊の重爆撃機として有名になりましたが、
それが陸軍によって調整された「初めて」であったことは、
前回の「メンフィスベルになれなかった爆撃機」の項で説明しましたが、
今日は実際のメンフィス・ベルの実績について掘り下げてみます。


メンフィス・ベルは、USAAFの戦略爆撃作戦の初期段階で、
イギリスのバシングボーンの第91爆撃グループ、
第 324 爆撃飛行隊に配属された B-17F 重爆撃機です。

1942年11月から1943年5月まで、メンフィス・ベルと乗組員は、
ドイツ、フランス、ベルギーなどへの25 回の爆撃任務を実施しました。

つまりたった半年の間に25回の任務を完遂したことになります。


しかし、「たった半年」と言っても、その半年間、
無事に任務を継続できる爆撃機は現実には稀でしたし、
25回の任務まで何も起こらない方が稀というものでした。

現実に、メンフィス・ベルのヨーロッパ遠征中、
第8空軍は平均して18回の出撃ごとに1機の爆撃機を失っていました。

そしてバシングボーンから出撃した最初の3ヵ月間で、
ベルが所属した爆撃機群の80%が撃墜されました。

モーガン機長がそのことをこんなふうに説明しています。

「朝食を10人で一緒に取る。
その日の夕食には自分以外に一人しかいない。

そういうことだ」

1990年の映画「メンフィス・ベル」でも、目の前で
一緒に出撃した爆撃機を撃墜され、無線から落ちていく彼らの
断末魔の絶叫が聞こえてくるという壮絶なシーンや、

出撃前の壮行会の行われる中、ベルの搭乗員一人が彷徨い出て
「死にたくない!」と泣くシーンがあったのを思い出します。


そんな中、メンフィス ベルはいくつかの戦闘任務で損傷しつつも、
その度生還し、1943年5月17日に 25 回目の任務を完了しました。

25回目の任務を終えて機を降りてきたクルー

そしてその後彼らははアメリカ全土の戦時公債ツアーのため帰国しました。 

124485というのはメンフィス・ベルの機体番号です。


■メンフィス・ベル戦闘ミッション内訳


ミッションを行った場所と落とした爆弾数がペイントされたパネル。
25回ミッションの割に目的地が少ないのは、いくつかの都市
(特にフランスのサン・ナゼール)が重複しているからです。

25回の爆撃目的地内訳は、フランス18回、ドイツ6回、オランダ1回。

また、爆弾の上に描かれた星は、赤がグループリーダーとして7回、
黄色がウィングリーダーとして8回飛行したという意味を持ちます。

1)1942年11月7日 - フランス、ブレスト

2)1942年11月9日 - フランス、サンナゼール

3)1942年11月17日 - フランス、サンナゼール

4)1942年12月6日 - フランス、リール

5)1942年12月20日 - フランス、ロミリー・シュル・セーヌ

6)1942年12月30日 - フランス、ロリアン
(機長:ジェームズ・A・ベリニス中尉)

7)1943年1月3日 - フランス、サン・ナゼール

8)1943年1月13日 - フランス、リール

9)1943年1月23日 - フランス、ロリアン

10)1943年2月14日 - ドイツ、ハム

11)1943年2月16日 - フランス、サンナゼール

12)1943年2月27日 - フランス、ブレスト

13)1943年3月6日 - フランス、ロリアン

14)1943年3月12日 - フランス、ルーアン

15)1943年3月13日 - フランス、アベヴィル

16)1943年3月22日 - ドイツ、ヴィルヘルムスハーフェン

17)1943年3月28日 - フランス、ルーアン

18)1943年3月31日 - オランダ、ロッテルダム

19)1943年4月16日 - フランス、ロリアン

20)1943年4月17日 - ドイツ、ブレーメン

21)1943年5月1日 - フランス、サン・ナゼール

22)1943年5月13日 - フランス、メオー
(機長:C.L.アンダーソン中尉)

23)1943年5月14日 - ドイツ、キール
(ジョン・H・ミラー中尉搭乗)

24、25)
1943年5月15日 - ドイツ、ヴィルヘルムスハーフェン
1943年5月17日 - フランス、ロリアン
1943年5月19日 - キール、ドイツ
(機長:アンダーソン中尉)

24回目、25回目任務が、上記3つのどれであったかは
情報源によって意見が分かれていて決定できないのだそうです。

しかも、5月17日の「ベル搭乗員にとっての25回目ミッション」は、
メンフィス・ベル機体にとっては実際は24回目の出撃でした。


爆撃ミッションというのはいつも同じメンバーでなく、
ときには機長が変わったりしました。
全ての乗員がベルで25回の任務を完遂したわけではありません。

機長のロバート・モーガン大尉がメンフィス・ベルで出撃したのは20回、
副機長ヴェリニス大尉に至っては、ベルに乗ったのは機長を務めた一回だけ、
25回というのは他の爆撃機で挙げた回数だという話もあります。

メンフィス・ベルの乗組員として名前を挙げられているのは、
日本版ウィキでは定員の10名ですが、英語版では15人いるのも
いつも固定のメンバーではなかったということを表しています。

また、モーガン機長以下クルーは、ベル以外のB-17で数回出撃しており、
それは

1943年2月4日 - ドイツ、エムデン ”Jersey Bounce”

1943年2月26日 - ドイツ、ヴィルヘルムスハーフェン ”41-24515”

1943年4月5日 - アントワープ、ベルギー ”Bad Penny”

1943年5月4日 - ベルギー、アントワープ ”
The Great Speckled Bird”


に後一回を足した5回の任務であることがわかっています。
また、メンフィス・ベルに乗るメンバーも同様で、
全く別の搭乗員を乗せて5回任務を行っています。

半年の間、メンフィス・ベルに搭乗したクルーは50名に上りました。
機体の整備や配車ならぬ配機の都合でこういうこともあったんですね。



わたし個人は、爆撃地のほとんどがフランスであったのも意外でした。

確か映画の爆撃シーンで、目標の向上が雲で見えないのを、副機長が、
適当に落として帰ろう、どうせみんなナチなんだというのを機長が拒否、
視界が晴れるまで粘って待っていましたが、実際はそうでも、
映画ではわかりやすくドイツに落とすということにしたのでしょう。

まあ、フランスに落とすときでも、当時の状況を考えると、
「どうせみんなナチ」という言葉が出ても間違いではありませんが。


25回の戦闘任務中、ベルの公式記録は8機の敵戦闘機撃破となっていますが、

実際にはその他5機撃破、少なくとも12機に損傷を与えたとされます。

爆撃手ビンセント・B・エヴァンスの見事な働きもあって、
ベルは驚くべき正確さで、ブレーメンのフォッケ・ウルフ工場、
サン・ナゼールとブレストの閘門、
ヴィルヘルムスハーフェンの埠頭と造船施設、
ルーアンの鉄道操車場、ロリアンの潜水艦格納庫と動力施設、
アントワープの航空機工場の爆撃を行いました。


ところで、「ロリアンの潜水艦基地」というので、瞬時に
映画「Uボート」Das Boot のラストシーンを思い出してしまいました。





25回ミッション完遂で帰国の権利を得たベルの搭乗員は、
イギリスで国王も出席する式典に参列しました。



式典で、ベルのメンバーは、ジョージ6世夫妻の謁見を受けました。
(妻はエリザベス妃、字幕のクィーンは『王妃』の意)
機体の向こう側にいるのは整備クルーです。

ちなみにジョージ6世は海軍兵学校を卒業し、士官候補生時代は
「ジョンソン」の通名で戦艦「コリンウッド」に乗り組んでいますし、
ユトランド沖海戦には砲塔担当の士官として参加しています。


このときジョージ6世が着用しているのは空軍の制服ですが、
おそらく王族特権?で海軍航空隊から空軍にスライドし、
所属を空軍に転籍したためだと思われます。

王は、対戦終結間際には戦略爆撃隊に所属していたというだけあって、
メンフィス・ベルのメンバーにはぜひ会っておきたかったのでしょう。


ベルは、ドイツ空軍がまだ戦闘機で圧倒的な優位を保ち、

ナチス政権の防衛が強固であったこの戦争で、
最も危険な空襲に参加した爆撃機のひとつです。

彼女はメッサーシュミットやフォッケ・ウルフと激突し、銃弾を浴び、
対空砲火を受け、5度にわたってエンジンの1つが撃ち抜かれ、
それでもそのたびに帰ってきました。

この伝説的な爆撃機が最も長く前線から遠かったのは、
輸送の問題で主翼の交換が遅れた5日間だけでした。


当時を振り返って、モーガン機長は、その25回の中には


「簡単な任務もミルクランもなかった」

と断言します。
そして、B-17のミッションを成功させた秘訣があるとすれば、

「タイトなフォーメーションで編隊を組むこと。
そうすれば驚くほどの火力を出すことができた。
それと、ノルデン爆撃照準器のおかげで高高度から精密爆撃ができました。
また、乗組員にはちょっとした神の介入もあったように思います」

「公の場でしばしば "死ぬほど怖かったでしょう?"と尋ねられる。
不安と心配はあった。とても忙しかった。
10人それぞれに仕事があった。怖がっている暇はなかったよ」


そして彼はこう付け加えるのでした。

「ヨーロッパ上空の地獄を25回もくぐり抜け、
死傷者を出さずに戻ってこられた理由を一言で言うなら、
それはチームワークだ。
フライング・フォートレスで戦闘したことのない人には
おそらくそれがどれほど重要なことかわからないだろうと思う」


動画を検索していたら、空軍博物館に
リニューアルされたメンフィス・ベルがお披露目されたのは、
わたしが見学するわずか2年前だったことがわかりました。

Memphis Belle Unveiling

動画途中で、機長モーガン大尉の息子さん(そっくり)という人や、
他のメンバーのご子息が何人か登場し、
ベルがあらたに生まれ変わって展示された感激を語っています。

動画では、修復にどれほどの技術と年月、熱意が注がれたかも
写真を共に説明されていますので、感動的な音楽と共にお楽しみください。



続く。






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2 Comments

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ロリアン Uボート・ブンカー (お節介船屋)
2023-11-10 17:34:04
>ところで、「ロリアンの潜水艦基地」というので、瞬時に映画「Uボート」Das Boot のラストシーンを思い出してしまいました。

ラストシーンはジブラルタル海峡を抜け、イタリア入港(港は?)で被爆戦没ではと思いますが?
ロリアンのブンカーへの入港であれば戦没しないことになって?
返信する
お疲れ様でした (Unknown)
2023-11-10 06:00:45
>爆撃ミッションというのはいつも同じメンバーでなく、ときには機長が変わったりしました。全ての乗員がベルで25回の任務を完遂したわけではありません。

陸軍ならではですね。米海軍でどうだったのかわかりませんが、日本では海軍でも、自衛隊でも、いつも同じメンバーです。航空自衛隊では、民航機と同じように搭乗の度にメンバーが変わるようです。

>タイトなフォーメーションで編隊を組むこと。そうすれば驚くほどの力を出すことができた。

この頃には初期の防空レーダーがあったと思いますが、タイトなフォーメーションで飛ぶと、レーダーでは一機に見え、機数を秘匿出来ます。近付いて来て、防御側が想定よりずっと多い機数が襲って来るとわかると、対応に苦慮します。

>しばしば "死ぬほど怖かったでしょう?"と尋ねられる。不安と心配はあった。とても忙しかった。10人それぞれに仕事があった。怖がっている暇はなかったよ。

爆撃針路に入ってからは、正確に投弾するために真っすぐ飛ばねばならず、対空砲火を回避出来ないので、ちょうど洋上補給で近距離を並走するような慎重な操縦が要求され「怖がっている暇はない」だろうと思います。

その状況で僚機が撃たれて、針路がぶれたら、衝突の危険があるんじゃないかと思います。大編隊なら左右上下に僚機がいて回避出来ないので、むしろ、そちらの方が怖いだろうと思います。

蛇足ですが、亡くなった松本零士さんの第二次世界大戦を描いた戦場マンガシリーズに「大艇再び還らず」という作品があり、日本海軍の二式大艇(海上自衛隊PS-1やUS-1のベースになった大型飛行艇)と米軍のB-17が交戦します。

実際に二式大艇は強力な20ミリ機銃でB-17を撃墜した実績があるそうですが、この作品では、撃ち合った後、B-17の機体の上に乗っかって、無理やり落としてしまいます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%A6%E5%A0%B4%E3%81%BE%E3%82%93%E3%81%8C%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BA
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