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「沖縄丸」撃沈・第9・10回次哨戒〜潜水艦「シルバーサイズ」

2022-09-21 | 軍艦

さて、ミシガン州マスキーゴンのミシガン湖沿いに係留展示されている
潜水艦「シルバーサイズ」の哨戒行動を順に検証しています。

ところで、ピッツバーグ在住の知人にこの話をしたところ、
彼らはマスキーゴンという地名を全く知りませんでした。

まあ、アメリカ広いんで、全ての地名を知っている人なんていませんが、
アメリカに生まれ育った人が、全く耳にしたことすらないというほど、
マスキーゴンというのは知名度がないことだけは確かです。


■ 第9次哨戒と”ダチョウ”?



さて、「シルバーサイズ」の哨戒活動について、そのワードルームの
棚の扉にペイントされた、「乗員が哨戒中描いた撃沈撃破敵船マーク」。

第9次哨戒のそれは冒頭写真のものとなります。

● 貨物船 3,000トン

●貨物船 4,000トン

という彼らが撃沈したとする2隻の日本船を表すマークとともに、
ダチョウのシルエットが描かれています。

第9次哨戒は、1944年の2月15日から4月8日まで行われました。
英語の資料は次のようになっています。

🇺🇸
2月15日、9回目の哨戒のため「シルバーサイズ」は真珠湾を出港し、
マリアナ諸島西方海域に進路を取った。

3月16日、
貨物船「コウフク丸」を撃沈。


この「コウフクマル」が、戸棚に書かれた2隻のうちの一つでしょう。
それでは、日本の資料を見てみます。

🇯🇵
3月5日
グアムアプラ港を偵察して港内に2隻の輸送船がいるのを発見
パラオ方面で哨戒をするも攻撃の機会はなかなかつかめなかった。

しかし、3月15日未明に至り北緯07度12分 東経134度30分の地点で
千鳥型水雷艇と3隻の駆潜艇らしき艦艇に護衛された
3隻の輸送船団を発見する。

船団がラバウルかウェワク方面に向かうと判断し、浮上して追跡を行う。

幾度となく行われた爆雷攻撃をかいくぐって、
3月16日午後に北緯04度28分 東経136度56分の地点で魚雷を3本発射。

魚雷は

陸軍船「光福丸」(大光商船、1,920トン)
に2本命中、これを撃沈した。

「光福丸」の記録は戦没戦時徴用船のデータにも残っていて、
沈没地点はビアク島北東沖、となっています。
             
戸棚に描かれた3,000トンの輸送船が「光福丸」を指すと思われます。

攻撃後はマノクワリ近海での哨戒に転じ、3月28日午後には
南緯00度55分 東経134度20分で
日本陸軍の海上トラックに対して
魚雷を4本発射し、1本の命中を得て撃沈した。

この時の「海上トラック」については、それ以上の資料はありません。

海上トラックとは、おそらく揚陸艦の一つである
陸軍の機動艇のことであろうかと思われます。

陸軍機動第19号艇



4月8日、「シルバーサイズ」は52日間の行動を終えます。
その後ブリスベンに帰投した訳ですが、ここで今一度、
艦長がコイ少佐に交代してからの哨戒行動を見てみます。


第9次哨戒の航路をわかりやすく青で上書きしました。
真珠湾は赤い丸、そして「光福丸」を撃沈した地点が
塗りつぶした赤い丸で示しました。

というわけでダチョウです。

オーストラリアにダチョウっていたのか・・・と思ったのですが、
ふと、「オーストラリアの国鳥(非公式)はエミュー」と気付きました。



なるほど、シルエットはブリスベーンに戻ったことから、
エミューのつもりだったんですね。


■ 「撃沈ペイント扉」が無くなった第10次哨戒

ここであることに気がつきました。

ワードルームの物入れの扉を利用した「シルバーサイズ」撃沈艦ペイントが、
第9次のエミューを最後に、なくなってしまったのです。

写真を隅から隅まで見ましたが、他の部屋にもそれはありません。

その理由を考えてみたのですが、単に
哨戒数がペイントするための扉の枚数を超えた
ということに過ぎなかったようです。

哨戒が始まった時には、ワードルームの両側に並ぶ扉を
撃沈ペイントで埋めていくというのはいい考えと思われたでしょう。

ただ、そのことを決めた初代艦長はじめ、誰一人、
扉が9枚しかないということ、つまりそれを使い切ってしまったら
その時はどうすればいいのかを考えもしなかったようなのです。

哨戒の回数がそれ以上になる可能性について、
初代の乗組員と艦長は誰も言及しなかったのでしょうか。

そうかもしれません。

このことは、あの戦争で、潜水艦任務という任務に身を置く彼らが、
自分たちの運命に対してさえ恬淡と有ろうとするあまり、
むしろそのことは暗黙の了解のもとに誰も口にしなかったのでしょう。

ペイントするべき扉がなくなる第10次哨戒まで
「シルバーサイズ」が駆逐艦や航空機の爆雷に遭わずにいられるか。

不慮の事故や触雷もせずに生き残ることができるかどうか。

10枚目の扉が必要になるまで、この艦が沈まず生き残れるかどうか。

彼らはむしろその先について、考えることをやめたのだと思うのです。



それでは第10次哨戒を、日米の記録から検証します。
第10次哨戒は、ブリスベーンを4月26日に出発し、その後
マリアナ諸島海域へと哨戒海域を定めました。

🇺🇸
5月10日
貨物船「沖縄丸」
客船・貨物船「御影丸」
砲艦「第二長安丸」

を沈没させるという快挙を成し遂げた。


🇯🇵
5月8日
北緯13度42分東経144度22分の地点で
5隻の護衛艦がついた6隻か7隻の輸送船団を発見。

艦尾発射管から魚雷を4本発射して
5,000トン級輸送船に1本の命中を得たと判断される。


日本側の記録にあるこの5,000トン級輸送船については、
相当する船名がわかっておらず、さらには
アメリカ側の、つまり「シルバーサイズ」の行動日誌にも残されていません。


5月9日
アプラ港外で東松七号船団(往航)から分派された輸送船団を追跡開始。


5月10日
朝に北緯11度26分 東経143度46分の地点で魚雷を6本発射する。
魚雷は、

輸送船「沖縄丸」(広南汽船、2,254トン)
特設運送船(給炭油)「第十八御影丸」(武庫汽船、4,319トン)
特設運送船「第二号長安丸」(東亜海運、2,631トン)


にそれぞれ命中して撃沈した。


■ 撃沈された船団

まず、「第二号長安丸」は、昭和2年から10年まで
神戸と天津の間を往復していた貨物船ですが、
昭和11年に陸軍に徴用されてからは関東軍隷下で兵の輸送を行い、
その後戦争が始まったので三菱重工で艤装工事を加えて
昭和16年には軍艦旗を掲揚する特設砲艦となりました。

「シルバーサイズ」の攻撃を受けた時は、特設運送船として
トラックの第四艦隊の第四根拠地隊に所属していました。

「第十八御影丸」は船歴などは検索できませんでした。
特設運送船(給炭)、特設運送船(給炭油)は、
海軍に徴用された5千トン以上の貨物船のことを言います。

この時撃沈された「第十八御影丸」ですが、「シルバーサイズ」が
少なくとも48発あった爆雷攻撃の後浮上してみると、
周囲海域には、そのバラバラになった残骸が漂っていたということです。


「沖縄丸」についてはちょっと説明が必要です。
皆様は、日露戦争関連でこの船名に聞き覚えはないでしょうか。

「沖縄丸」は日本の逓信省に所属した海底ケーブル敷設船で、
日本最初の本格的海底ケーブル敷設船でもあります。

明治維新後、日本の対外電信線の敷設は、
デンマークの大北電信会社が独占して行っていました。

これに対し日本は国内線の海底ケーブルの敷設を決め、
1890年(明治23年)に敷設を成功させていましたが、
日清戦争で獲得した台湾に、海底ケーブルによる電信敷設することが
喫緊の情勢となったため、イギリスに本格的海底ケーブル敷設船、
受注し建造させたのが「沖縄丸」でした。

ちなみに船名の由来は、台湾への経由地である沖縄県という説の他、
「沖の縄」で海底ケーブルの意味だとする説もあるそうです。


「沖縄丸」は、最初の任務として台湾軍用線のために
日本本土と台湾の間で全長1935kmの海底ケーブル敷設を行いました。

そして、日露戦争が勃発します。

「沖縄丸」は、徴用船に準じた扱いで日本海軍の指揮下に入り、
正規海底ケーブル敷設船として、戦場各地の軍用通信網の整備を行いました。

開戦が約1か月前に迫っていた1903年(明治36年)末、
「沖縄丸」正体を偽装するための工事を施され、
(機密保持のため、乗員は誓約書を提出させられている)
船名も「富士丸」として作業を行います。

与えられた任務は、朝鮮半島の木浦(八口浦)と佐世保、
馬山浦(鎮海湾)と対馬を結ぶ軍用電信線を敷設することでした。

開戦後は旅順要塞付近で軍艦による護衛を受けながら、
あるいはバルチック艦隊の来航に備えて、
対馬海峡周辺の海軍望楼などを結ぶ海底電信線の敷設も行いました。

「沖縄丸」の活躍により構築された濃密な警戒網は、
日本海海戦における日本海軍の勝利にも貢献したとされ、
船尾に日本海軍軍艦の艦首と同様、菊花紋章の飾りが取り付けられ、
1905年の東京湾凱旋観艦式には海軍艦船以外で唯一参加しています。

wiki

日露戦争後に撮影された沖縄丸の船尾には、
菊花紋章の飾りが見えています。


第一次世界大戦に日本が参戦すると、「沖縄丸」は再び
軍用通信線の敷設に動員され、青島の戦いに際しては、
防護巡洋艦「新高」や「笠置」援護の下、海底電信線を敷設しました。

その他の活躍により、第一次世界大戦後の観艦式は
再び海軍艦船以外で唯一参加を許されています。

第二次世界大戦が始まったとき、「沖縄丸」は老艦になっていました。
一度は記念艦として保存が検討されたこともあったようですが、
戦況が切羽詰まってくると、海軍に徴用されることになります。

最後は松輸送の東松7号船団に参加して、5月6日にサイパン島へ到着、
さらに別の船団に加わってグアム島経由、ヤップ島に向かう途中、
「シルバーサイズ」の雷撃を受けて沈没したのでした。


■ 第10次哨戒のその後

その戦果を記すべき戸棚の扉を持たなくなった「シルバーサイズ」が
おそらくそれ以前の全ての哨戒をはるかに凌駕するほど、
日本の艦船を次々と撃沈し続けたのは皮肉なことです。

🇺🇸
その10日後、またもや
砲艦「松清丸」(998トン)を沈め、戦果を挙げた。
5月29日には、
貨物船「昭建丸」「蓬莱山丸」

を魚雷で撃沈する。

最終的にマリアナ諸島沖で
敵艦6隻、総トン数14,000トン以上を撃沈した。

🇯🇵
5月20日

北緯13度32分 東経144度36分の地点で大型輸送船と護衛艦4隻に
魚雷を4本発射して2本が命中したと判断される。

5月28日
輸送船2隻と第16号海防艦からなる第3519船団を発見、追跡。

5月29日
北緯16度19分 東経145度21分のサイパン島西岸沖で
魚雷を3本ずつ計6本発射。

陸軍船昭建丸(東和汽船、1,949トン)
海軍徴傭船蓬莱山丸(鶴丸汽船、1,999トン)


を撃沈し船団を全滅させた。

5月30日
北緯15度33分 東経145度23分の地点で新たな輸送船団を発見し、
ピンタド (USS Pintado, SS-387)、
シャーク (USS Shark, SS-314)、
パイロットフィッシュ (USS Pilotfish, SS-386) 

からなる別のウルフパックを呼び寄せて攻撃を行う。


ウルフパックを召喚した時には戦果に結びつけることはなかったようです。

この時、「シルバーサイズ」は連続してフィーバー状態だったため、
魚雷が底をついてしまい、哨戒を切り上げて帰ることにしました。



第10回哨戒において、「シルバーサイズ」が文字通り
阿修羅のように日本船を撃沈しまくったのは、赤丸の地点となります。


6月11日、「シルバーサイズ」は47日間の行動を終えて真珠湾に帰投。

メア・アイランド海軍造船所に回航されオーバーホールを行った後、
9月12日に真珠湾に帰投しました。


続く。






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2 Comments

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昭和19年3~5月商船被害 (お節介船屋)
2022-09-21 10:11:27
参照文献からの引用です。
昭和19年3月米潜水艦に攻撃された商船数96隻、沈没数26隻、106,800総トン
同4月、同商船数86隻、沈没23隻、95,250総トン
同5月、同商船数157隻、沈没63隻、265,000総トン
6月にはマリアナ沖海戦で空母「大鳳」「翔鶴」も潜水艦に撃沈されました。
5月以降米潜水艦の商船攻撃激化により貨物輸送量は低下は著しく、放置航路も多く、内地から南方諸島への大型船輸送は出来なくなり、6月のサイパン米上陸で途絶となってしまいました。

海防艦第16号は蒸気タービン機関の丁型海防艦で昭和19年3月竣工、終戦まで生き永らえ、復員輸送艦を経て、昭和22年8月賠償艦としてイギリス引き渡し後、解体されました。

参照原書房大井篤著「海上護衛参謀の回想」、光人社「日本海軍艦艇写真集21、哨戒・護衛艦艇」
返信する
出撃十回 (Unknown)
2022-09-21 12:23:24
ここまで行けたというのは、シルバーサイズの練度の高さだけでなく、日本海軍の対潜戦能力の低さや護衛艦兵力の欠如もあるのでしょうね。だから、戦後の自衛隊はこれでもかというくらい、対潜戦命なんだと思います。
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