さて、最後まで引っ張ってしまいましたが、
「スミソニアンの選んだ第二次大戦のエース」シリーズ、
我が帝国海軍の二人のエースを紹介するときがやってきました。
言わずと知れた西沢広義と杉田庄一ですが、この二人については
今更わたしがブログに書くような情報はみなさんご存知のはずですので、
まずは、スミソニアンが選ばなかったエースから回り道します。
■ スミソニアンの選ばなかった日本人エース
スミソニアンが選んだ西沢、杉田は両者ともに海軍です。
西沢広義は名実ともに日本のトップエースとしてアメリカでも有名で、
日本の記録だと撃墜数143機、単独87機か36機とされており、
スミソニアンによるとこれが104victorysとなりますが、
数字だけならそれより上とされている、
岩本徹三海軍中尉(自称202機、確実141機、記録80機)
が影も形もありません。
西沢の記録も曖昧なのは、海軍が1942年から撃墜記録を
公式に残すことをやめたからだとされています。
そして、西沢と杉田(70機撃墜)の間に、本来ならば
海軍エースの3位、日本人エースでは4位として、
福本繁夫
という搭乗員がいるのですが、どこにも資料が残っていません。
日本人ですら知らないのですから、スミソニアンが知ってるはずないですね。
そして、もう一人の「スミソニアンが選ばなかったエース」は、
上坊 良太郎(じょうぼうりょうたろう)陸軍大尉
76機撃墜
となります。
福本さんはともかく、スミソニアンはどうしてこの人を無視したのか。
数字の上では、杉田庄一より上となるはずなんですが。
というわたしも、実は初めて聞く名前で初めて見る写真なので、
ざっとバイオグラフィーを要約してみます。
上坊 良太郎 1916(大正5)年 - 2012(平成24)年
陸軍少年飛行兵第1期出身。
20歳で明野陸軍飛行学校の戦闘機訓練課程を受ける。
翌年1937年日中戦争に出征し、九五式戦闘機で中国空軍のI-15を初撃墜。
1939年ノモンハン事件で18機のソ連戦闘機を撃墜。
帰国後陸軍航空士官学校に入校し少尉に任官。
南支の広東と武昌でアメリカ陸軍航空隊のPー40 と交戦。
その後太平洋方面でB-29を2機撃墜。
撃墜数については、公式記録が76機とされており、
さらに同期生などもその数を肯定していたものの、本人が
謙虚な性格のためそういったことを全く語ろうとせず、
回想記によれば、ノモンハンでの18機、中国でのP-40・2機、
シンガポールでのB-29・2機を含めて30機、というのが
どうやら「正確な数字」かもしれない、みたいな話になっており、
要するにスミソニアンとしても公式記録じゃないなら仕方ない、
ということだったのではないかと思われます。
もう一つ、上坊さんは戦闘機乗りらしい写真が全く残されておらず、
唯一見つかったのがこれだけ⇧だったので、やっぱりいかにもな
面魂を感じさせる杉田庄一にしておこう、となったのではないでしょうか。
日本のエースについては、いつの頃からか個人撃墜を記録することを
日本人らしい謙虚さに欠けるという理由で(知らんけど)
やめてしまったので、ワールドワイドなレベルでは
客観的な数字が出てこないという研究者泣かせの事態を生んでおります。
岩本徹三の名前が出なかったのも、おそらく信憑性の点で、
いくら多くても、酔っ払って本人が吹聴していた数字じゃどうも、
ということだったのではないかと思われます。
杉田庄一(すぎたしょういち)帝国海軍飛曹長
C.W.O Shyouichi Sugita
80機撃墜
杉田庄一の最終階級は海軍少尉なのですが、
スミソニアンでは「チーフ・ウォラント・オフィサー」を意味する
CWOがタイトルになっているので、飛曹長としておきました。
ただし、杉田飛曹長については英語の資料がほぼ皆無なので、
残りの紙幅を西沢広義情報で埋めます。
西沢広義(にしざわひろよし)帝国海軍飛曹長
C.W.O. Hiroyoshi Nishzawa
1920年1月27日生まれ
日本、長野県
1944年10月26日没(24歳)
フィリピン、ミンドロ
104機撃墜
西沢広義については普通に日本語のWikiを見ればわかることばかりなので、
英語による記述を拾ってきて翻訳することにします。
西沢広義も最終階級は少尉ですが、スミソニアンでは
チーフ・ウォラント・オフィサー、兵曹長となっているので
それに準じました。
日本のエースがどう海外で捉えられているかの理解の一助になれば幸いです。
ネイティブネーム
西沢広義
ニックネーム ラバウルの魔物
桜の暗殺者(まじかよ)
西沢は、その息を呑むような華麗で予測不可能な曲技と、
戦闘中の見事な機体制御により、同僚から「悪魔」と呼ばれていた。
1944年、フィリピン攻略戦で日本海軍の輸送機に搭乗中戦死した。
戦時中、最も成功した日本の戦闘機のエースであった可能性があり、
86または87の空中戦での勝利を達成したと伝えられている。
【初期の人生】
西澤は、1920年1月27日、長野県の山村で、
カンジ・ミヨシ夫妻の五男として生まれた。
父は酒造会社の経営者であった。
広義は高等小学校を卒業した後、織物工場に就職した。
1936年6月、西沢は「予科練」への志願者を募集のポスターに目を止め、
応募して、日本海軍航空隊の乙種第7飛行隊の学生パイロットの資格を得た。
1939年3月、71人中16番目の成績で飛行訓練を修了した。
戦前は、大分、大村、鈴鹿の各航空隊に所属した。
1941年10月、千歳航空隊に転属し、階級は一等兵曹となった。
【西沢広義という人物】
西沢広義は、痩せこけて病弱のような顔をしていたが、
零戦のコックピットに座ると「悪魔」と化した。
ドイツのエーリッヒ・ハルトマン、ロシアのイワン・コジェドゥブ、
アメリカのリチャード・ボングなど、
第二次世界大戦時の戦闘機パイロットの多くは、
生まれながらにこの名誉を背負っているような雰囲気を持っていたが、
日本のトップエース、西沢広義は決してそうではなかった。
戦友の一人、坂井三郎は、西沢のことを、
「病院のベッドにいてもおかしくないタイプだった」
と書いている。
日本人にしては背が高く、5フィート8インチ近く(177cm)あったが、
体重は140ポンド(63kg)しかなく、肋骨が皮膚から大きく突き出ていた。
柔道と相撲に長けていたが、坂井はまた、西沢が常に
マラリアと熱帯性皮膚病に悩まされていたことを指摘している。
「いつも顔色が悪かった」
坂井は西沢の数少ない友人の一人だったが、
「普段は冷たく控えめで寡黙、
人望を集めるタイプではなく、どこか哀愁を帯びた一匹狼的人物」
と表現している。
(ここは考えられる限り穏便に翻訳してみました)
しかし、西沢は信頼するごく一部の人たちに対しては、非常に誠実であった。こんな西沢は、三菱A6M零戦のコックピットの中で、驚くべき変貌を遂げた。
坂井は、
「一緒に飛んだすべての人にとって、彼は "悪魔 "だった」
と書いている。
「西沢が零戦でやったようなことを、他の人がやったのをみたことがない。
その操縦は息を呑むほど見事で、まったく先の予想がつかず、
見ていて心が揺さぶられるようなものだった」
彼はまた、誰よりも早く敵機を発見できるハンターの目を持っていた。
新世代の米軍機が日本軍から太平洋の空を奪い取った時でさえ、
零戦を操縦している限り、彼に敵はないと皆が確信していた。
【ラバウルの悪魔】
1941年12月7日の開戦後、西沢を含む千歳グループの飛行隊は、
ニューブリテン島に到着し、台南航空隊に参加してラバウルに展開する。
彼の初撃墜はポートモレスビーで遭遇した
オーストラリア空軍のカタリナI型飛行艇である。
3月14日、アメリカ陸軍航空隊のP-40の撃墜を部隊として主張したが、
これらはいわゆる個人の公式記録とはなっていない。
日本軍は、個人の成績を集計することを奨励せず、
部隊のチームワークを重視していた。
フランスやイタリアと同様に、撃墜は個人ではなく
航空隊の勝利として公式にカウントされるのが常だった。
したがって、日本の飛行士の個人的な撃墜記録は、
戦後になってからの本人の手紙や日記、あるいは
仲間の手紙などをもとに確認するしかないのが現状である。
西沢もまた、スピットファイアを撃墜したと主張しているが、
当時のオーストラリア軍にはスピットファイアは存在していない。
その後日本軍はラエとサラモアを占領し、西沢を含む戦闘機中隊は
斉藤正久大尉の指揮する台南空に編入された。
台南空の笹井醇一中尉率いる台南空の零戦隊は、4月11日、
ポートモレスビー上空で4機のエアコブラと遭遇した。
笹井は、本田PO3Cと米川ケイサク1飛兵の2人の翼手に守られながら、
最後尾の2機のP-39に飛び込み、即座に2機を撃墜している。
この時の空戦で、坂井が零戦を横滑りさせて
先頭の2機の真後ろにつけようとすると、
戦いはすでに2機によって終わらされていた。
「2機のP-39は、真っ赤な炎と濃い煙を上げながら、
狂ったように地球に向かって突っ込んでいった。
私は、急降下から抜け出したばかりの零戦の1機に、
新人パイロットの西沢博義が乗っているのを確認した。
一発で命中させた2機目の零戦(太田敏雄操縦)も、
急降下しながら編隊に戻ってきた」
この時から、西沢と22歳の太田は、台南空の際立った存在となる。
坂井は
「よく一緒に飛んでいたので、他のパイロットからは
"クリーンナップ・トリオ "と呼ばれていた」
と書いている。
太田は外向的で陽気で愛想が良かった。
坂井は、太田のことを
「辺鄙なラエなんかよりも、ナイトクラブの方がしっくりくるような」
と評していた。
しばらく勝ちのなかった西沢が、3機のP-39とP-40を撃墜し、
帰投してきた時の様子を坂井はこう書いている。
「零戦が止まったとき、西沢がコックピットから飛び出してきた。
いつもはゆっくりと降りてくるのに、今日はゆったりと伸びをして、
両手を頭上に上げて『イエーイ!』と叫び、 ニヤリと笑って去っていった。
その理由は、笑顔のメカニックが語ってくれた。
彼は戦闘機の前に立ち、指を3本立てたのだった。
西沢が復活した!」
ナイトクラブは謎だわ。
続く。
昭和18年4月18日山本長官護衛直援の6機の零戦パイロットのその後を詳しく描いた本でした。
森崎茂中尉指揮の第1小隊3番機が杉田庄一飛長でした。ちなみに指揮官兼第1小隊長森崎中尉、2番機辻野上豊光1飛曹、第2小隊長日高義己上飛曹、2番機岡崎靖2飛曹、3番機柳谷謙治飛長でした。
p-38を1機撃墜しましたが長官、参謀長搭乗の1式陸攻2機とも撃墜され長官戦死、護衛戦闘機は全機無事でしたのでその後の6名は悲惨と思われる行く末でした。
杉田庄一は新潟出身で元気の良い若者であったと書かれていました。
B-17を衝突で撃墜し、大破した零戦をどうにか着陸させて帰着したのに衝突で零戦を破損させて消沈して指揮官に励まされていました。
8月26日空中戦で被弾、落下傘降下しましたが火傷で内地に後送されました。階級は2飛曹でした。
教官等を経て、昭和20年4月紫電改で迎撃に離陸しているところを攻撃され戦死。
参照朝日ソノラマ第204海軍航空隊編「ラバウル空戦記」
これは戦後盲腸炎を誤診され、2年に渡り手術、闘病生活の後昭和30年2人の子供を残し他界されましたが夫人の元の残されていた多くのノートを秦郁彦が昭和62年今日の話題社から発刊した「零戦撃墜王」の抜粋です。
この抜粋は昭和18年11月14日281空派遣隊としてラバウルに着任、201空所属となって11月28日の出来事が記されています。
ただ一人の実戦経験者として16機を率いてラバウルに派遣され、ただちに迎撃や攻撃に列機を率いて参戦した模様が良く分かります。
特に無線のモールス信号で状況や攻撃の指示をして列機の行動も良く掴み、戦闘を行っています。経験不足の指揮官の補佐を実施していますが搭乗員の墓場と言われたラバウルで劣勢の時期、良く戦い生き延びたのもと思います。
戦場を良く判断し、的確に指示や行動を実施し、戦っており、闇雲に戦いを挑んでおらず、その行動が撃墜王でありながらまた酷使された日本海軍戦闘機パイロットでありながら戦い抜いて生き延びた勝因でしょう。
ニュース映画にも撮られ、終戦まで生き延びて、奥様から慕われましたが戦後の生活は厳しく、公職追放等で職を転々として体調を崩し、誤診から長い闘病生活で病名不明での死去、本当に悲しい最後でした。