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スピットファイアとバトル・オブ・ブリテン〜第二次世界大戦の航空機・スミソニアン航空博物館

2021-07-04 | 航空機

これだけ何回も取り上げてきてまだ紹介が終わらないスミソニアン博物館展示。
いかに膨大な展示物を所有しているかということの証左であるわけですが、
今回改めて写真を点検したところ、これでもまだ半分も消化していないことがわかりました。

というわけで、次に取り上げるのは、スミソニアンのシリーズから、

「第二次世界大戦の戦闘機」

このブログ的には前回の「空母の戦争」とともに比重をおくべきテーマでありながら、
色々と他にも語りたいことがあって、今更になってしまいました。

『第二次世界大戦の飛行』より「航空」と言う言葉の方が適切だったね、
と日本人としては若干残念ですが、とりあえず日本語なのでよし。

第二次世界大戦の航空を語って日本を語らないわけにいかないのですから、
こういうのを見るとほっとします。

 

まず、コーナー最初の説明からです。

第二次世界大戦の航空

1939年に始まり、1945年に終わった第二次世界大戦は、
歴史上最大かつもっとも破壊的な戦争でした。

戦闘による死傷者、爆撃、飢餓、大量殺戮、その他の原因により、
5000万人以上が亡くなりました。

ドイツのポーランド侵攻を支援する最初の空襲から、
1945年8月のアメリカによる日本への原子爆弾の投下まで、
全ての軍事作戦において航空は重要な手段となりました。

さまざまな空軍が、陸海軍を支援しただけでなく、
敵国の都市と産業の戦略爆撃において独立した役割を果たし、
あらゆる面で輸送と補給において後方支援の役割を果たしました。

第一次世界大戦と同様に、戦争は航空の技術開発を押し進めたのです。

このギャラリーには、5機の有名な第二次世界大戦の戦闘機が展示されています。

ここではなぜかその5機についての説明は省かれているのですが、
一応最初なので当ブログでは写真だけでも紹介しておきましょう。

詳しい紹介は後日になります。

スーパーマリン スピットファイア Spitfire ロイヤルエアフォース

ノースアメリカン P-51D ムスタング アメリカ陸軍航空隊

メッサーシュミット Bf 109 ドイツ ルフトバッフェ

三菱 零式艦上戦闘機Zero 日本帝国海軍

マッキ フォルゴーレ Folgore イタリア空軍

「フォルゴーレ」などという名前の戦闘機が存在することは、
ここに来るまで全く知りませんでした。
博物館のいうようにこれが「第二次世界大戦の最も有名な戦闘機ベスト5」かというと
ちょっと疑問ですが、まあそれはいいでしょう。

戦闘機の他には巨大な航空エンジンが目に着きます。

プラット&ホイットニー 
ダブルワスプ R-2800 CB16・2列・ラジアル18エンジン

プラット・アンド・ホイットニー社が開発したアメリカ初の18気筒ラジアルエンジンです。
第二次世界大戦中は、グラマンF6Fヘルキャット、ヴォートF4Uコルセア、
リパブリックP-47サンダーボルトなどの戦闘機に搭載され、
戦後はダグラスDC-6などの旅客機に搭載されました。


■ バトル・オブ・ブリテン

さて、今日のメインテーマは、スピットファイアが活躍した、
「バトル・オブ・ブリテン」です。

これについては以前も取り上げたことがあるわけですが、
あらためてスミソニアンの見解に沿ってご紹介していこうと思います。

 

バトル・オブ・ブリテンと呼ばれる一連の戦闘のうち、最初の決定的な空中戦は、
1940年の夏の終わり、ドイツ軍の計画されたイギリス侵攻によって幕を開けました。

このときのイギリスの勝利は、ドイツ軍の侵攻に必要な空中戦の優位性を否定しただけでなく、
逆に彼らを打ち負かすことができたということを証明することになります。

ルフトバッフェの打倒RAF(ロイヤルエアフォース)計画というのは、
空爆を行う重爆撃機の掩護を行う戦闘機が、RAF戦闘機を空中戦に誘い込むことであり、
これは緒戦においてはある程度の効果があったといわれます。

当時のRAFパイロットは技量も高く、また戦闘機の性能もすぐれていましたが、
いかんせん保有する機体が少なすぎたのです。

その状況を覆したのがRAFの高い暗号解読能力とレーダー警戒網でした。
空中機動隊はこれによって得た情報を最大かつ効果的に利用し攻撃を行いました。

 

ルフトバッフェが当初の攻撃目標を変更したことも、結果的に有利に運びました。
当初、彼らはレーダー基地と前線の航空基地の攻撃を計画していたのですが、
いろいろとあって(?)
ロンドン市街に空爆目的を変更したのです。

なぜこれが良かったかというと、ロンドン都市空襲の間、RAFは
緒戦の空襲で破壊されていた基地を修復、
消耗し崩壊寸前だった
RAF戦闘機軍団を回復させることができたからでした。

1940年9月15日、ロンドン空襲を経てバトル・オブ・ブリテンは終了しました。
ドイツ軍は侵攻艦隊をすぐさま解散したものの、この後8ヶ月にわたり、
イギリスは「ブリッツ」と呼ばれる夜の定期的な都市攻撃に見舞われることになります。

それでは写真と共に説明していきます。

1940年9月7日、ルフトバッフェは人口密度の高いロンドンのドックエリアに
昼夜を問わない激しい攻撃を開始しました。

翌朝は地域全体で火事が猛威を揮いましたが、結果として
夜間攻撃への切り替えはある意味失敗であることが判明します。

確かに彼らは物理的に大きな損害を与えることができましたが、
かえってイギリス人の士気は燃え上がったのです。

 

スミソニアン博物館の第一次世界大戦について取り上げたとき、
戦略爆撃は民衆の戦意を喪失させることを目的として始まった、
と歴史的な経緯について説明したことがありますが、それでいうと
ドイツ軍の都市爆撃は「失敗」であったといえるかと思います。

真珠湾攻撃も、この一撃でアメリカが打ちのめされて和平交渉に応じるなどと
考えた日本の読みは外れ、「リメンバーパールハーバー」で一丸となった大国に
完膚なきまでに叩きのめされたのは歴史の示す通り。

この壮大な社会実験?から得られた結論があるとすれば、戦略爆撃は
一度や二度の短期ではかえって逆効果であるということです。

一国の市民の戦意を完全に喪失させるためにはそれこそ執拗に繰り返す夜間空襲や、
なんなら原子爆弾を投入するしかない、という言い方もできるかもしれません。

イギリスの防衛の鍵。

それはレーダー基地、監視ポスト、オペレーションセンター、そして送電線でした。
これらのネットワークによって提供された情報が戦闘機集団の戦いを支援しました。

この写真は、敵機の位置情報を送信するRAFのコマンドオペレーションセンターで、
実働スタッフは全員女性軍人です。(奥に責任者らしいおじさんが一人)

ハインケルHe111爆撃機KG55が海峡を越えてイギリスに向かいます。
しかし、He 111の貧弱な防御兵器はRAFのハリケーンスピットファイアの前に脆弱でした。

名機と言われたメッサーシュミットBf109及び110護衛戦闘機も大きな損失を被りました。

ロンドンのバッキンガム上空を浮遊するのは

弾幕気球(Barrage Balloons)

弾幕気球は第二次大戦のイギリスがまさにドイツ軍の攻撃に備えて考案したもので、
「阻塞気球」とか「防空気球」と訳したりします。
気球をケーブルで係留して浮かべ、敵機の低空飛行を牽制します。

シェイプがなんとも金魚のようで可愛い ´д` ;

たかが風船と思われるかもしれませんが、戦闘機よりは大きいサイズなので、
十分に抑止力はあったようです。

戦隊司令からドイツ軍の爆撃機襲来に対する迎撃命令を受けて
ハリケーン戦闘機に乗り込むために全力疾走するRAF601、
ロンドン郡所属戦隊のパイロットたち。

緊張感と躍動感に心惹かれて食い入るように見てしまう写真です。

ルフトバッフェの攻撃を迎撃するためスクランブルをかけている
第501飛行隊の2機のホーカー・ハリケーン

スーパーマリンのスピットファイアほど有名ではなかったものの、
ハリケーンはバトル・オブ・ブリテンの戦闘機軍団の主力となりました。

スピットファイアより遅く、機動性にも劣るとされながらも非常に効果的に戦果を納めたのです。

 

■ スーパーマリン・スピットファイア

それではバトル・オブ・ブリテンの主役、スピットファイアについてです。

スーパーマリン スピットファイア Mk. VII

スピットファイアは英国航空史におけるレジェンドです。

ホーカー・ハリケーンと共に、バトル・オブ・ブリテンではドイツ空軍から
イングランドを守ることに成功し、戦争中はあらゆる主要戦線で活躍しました。

そのパフォーマンス、そして操作性は大変優れています。

もともと同機は「マリン」という機体がアップグレードして「スーパー」、つまり
「スーパーマリン」になったものですが、このときのエンジン出力の増大にうまく対応し、
機体も丈夫で長年の耐用年数を誇りました。

Mk.VIIは140機しか生産されていませんが、史上2番目の高高度バージョンです。

ここに展示されている機体は1943年5月、評価のためにRAFが工場から
アメリカ陸軍航空に譲与されたもので、アメリカで飛行していました。

戦後の1949年、米空軍は機体をスミソニアンに寄贈しています。

コクピットの写真。
イギリス機なので単位がメートル、kgとなっているのがいいですね。
(いまだにアメリカのポンド・フィート法に全く慣れないわたし)

イギリス上空を飛ぶスーパーマリン・スピットファイアMk VII
誰しもこの独特な翼の形に目が奪われることでしょう。

この翼は、高高度でのパフォーマンスを向上させるために追加された設計で、
翼端が極端に細長くなっているのが特徴です。

博物館に展示されているスピットファイアはこのマーキングを採用しています。

この俯瞰図は、スーパーマリンスピットファイアに特有の、
スリムな胴体と楕円の翼がよくわかる角度となっています。

MK.Iは、バトル・オブ・ブリテンで活躍したバージョンです。

北アフリカに展開していた第154飛行隊のスピットファイアMk. Vb

バトル・オブ・ブリテンが終わった後、スピットファイアは
フランス上空でルフトバッフェの掃討を続けました。

その後、彼らはアメリカの爆撃機を援護しましたが、その航続距離の短さから、
大陸からの爆撃機の流れの出入りをカバーするには限界がありました。

スピットファイアは地中海、中東、東南アジアを含む他の全ての戦場で使用され、
様々な条件下において役割を果たすことが証明されました。

さて、スピットファイアについては次回もお話しするのですが、
ここで最後にぜひ観ていただきたい動画を挙げておきます。

William Walton : Spitfire Prelude and Fugue. Video clips.

わたしの好きなイギリスの作曲家のひとり、サー・ウィリアム・ウォルトン
1942年にスピットファイアの設計者、レジナルド・ミッチェルの伝記映画のために書いた

「スピットファイア・プレリュードとフーガ」
 Spitfire Prelude and Fugue

を、空駆けるスピットファイアの勇姿に合わせたビデオクリップです。

前半のプレリュード部分では第二次世界大戦中の実写、
後半のフーガになってからは現存する機体が華麗に空を舞う映像となっており、
特に前半ではドイツ軍戦闘機や爆撃機を撃墜しているシーンなどもみることができます。

スピットファイアの飛翔ををイメージして作曲されたので当然とはいえ、
音楽と映像の融合の妙にはちょっと感動してしまいました。


続く。

 


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3 Comments

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TACは駆け足 (Unknown)
2021-07-04 09:21:04
>緊張感と躍動感に心惹かれて食い入るように見てしまう写真です。

今でも言うかどうか、わかりませんが、冷戦時代、航空自衛隊ではよく「TAC(戦闘機部隊)は駆け足」と言っていました。当時、脅威であったソ連空軍が音速で飛来すると、一分間で我が国に約20キロ近付くので、一秒でも早く迎撃出来るように「駆け足」という意味です。

第二次世界大戦当時の戦闘機だと時速600キロくらいなので、一分間に10キロ、イギリス本土に近付く計算になります。当然「駆け足」ですね。

>イギリス機なので単位がメートル、kgとなっているのがいいですね。
>(いまだにアメリカのポンド・フィート法に全く慣れないわたし)

音速は時速600ノット(一時間に600マイル飛ぶ速さ)なので、一分間に10マイル近付きます。異国の度量衡は、日本のに換算するとややこしくなりますが、そのまま使うと、感覚的には、メートル法より便利なものもあります。
返信する
バトル・オブ・ブリテン前 (お節介船屋)
2021-07-04 10:36:55
ドイツ空軍はポーランドやフランスの戦いで大いなる戦果を挙げていました。爆撃機による工業地帯、運輸通信の中枢、兵站基地を攻撃する戦略爆撃と陸軍作戦との緊密な協力で電撃戦で陸軍の破竹の勢いを助長していました。

その編成はいくつかの航空艦隊から攻勢され、イギリス攻撃にはブリュッセルに司令部のある第2、パリの第3、ノールウェー、デンマークの第5航空艦隊でした。艦隊には数航空団があり、戦闘機、爆撃機、偵察機の混成でした。各航空団は独立で担当地域の陸軍の要請に応じて柔軟に対応していました。戦力の中心は爆撃機でユンカース88、ハインケル111、ドルニエ17の双発中型爆撃機で大型は第1次世界大戦の後遺症で開発が出来ていませんでした。急降下爆撃機ユンカース87は命中精度は高かったのですが防御力に欠点があり、速度も遅く、対空砲火に弱い事がありました。戦闘機はメッサーシュミット109で局地防衛と地上軍護衛の目的で製造され航続距離が十分ではありませんでした。またメッサーシュミット110は速度が遅く、旋回性能が悪く、軽快性の欠けていました。すなわち中部ヨーロッパでの戦い用でありバトル・オブ・ブリテンに適合が疑問でした。

一方イギリス空軍は1918年設置されましたが当時の思想の戦略爆撃に影響され爆撃中心でしたが1936年組織改編で、爆撃機軍団、戦闘機軍団、沿岸航空軍団、訓練軍団の機能別の編成としました。
初代戦闘機軍団司令官ヒュー・ダウディング大将が開発部門にいた当時開発されたハリケーンとスピットファイアが1936年から本格的生産となっていました。
敵の来襲を早くキャッチするため様々な実験がされていましたが芳しくないレーダーの可能性を高く評価していたのがダウディング大将であり、レーダーによる早期警戒のネットワークと迎撃戦闘機の地上管制を連携され、効果的な防空システムを作ろうとしていました。素晴らしいのはレーダーの開発で完璧さを追求しないで、その実現を早く図ろうとしたことでした。防空システムのもう一つの高射砲と阻塞気球、対空探照灯部隊が陸軍でしたが空軍の統制下におかれました。各軍団が連携して防空は一つのシステムとしてダウディング大将一元的指揮となっていました。

フランスの戦いで要請の基づき戦闘機を派遣し損失していましたがチャーチル首相の方針で5月19日以降フランス派遣を中止し、本国防空に備えました。またチャーチル首相は航空機生産省を新設し、新聞社主ビーバーブルックを大臣とし、増産に拍車を掛けました。この大臣素人でしたが専門家の細かい注文は無視し、経営者の手腕で大胆に特にハリケーンとスピットファイアを優先して増産に専念しました。

7月10日に始まったとされていますが当初はイギリス海峡を航行する船舶の攻撃でありイギリス空軍の対応や改善は速く、主翼裏側の塗装変更、機銃弾道修正、ハリケーンプロペラ改良、操縦席後部装甲板取り付け、燃料タンク防護、高オクタン価燃料の採用、レーダー操作技術向上、脱出パイロット救助の海上救援隊設置がなされました。

いよいよ8月13日ヒットラーの「アシカ作戦」発動で熾烈なバトル・オブ・ブリテンが開始されました。

参照日本経済新聞出版社野中郁次郎等共著「知略の本質」
返信する
バトル・オブ・ブリテン (お節介船屋)
2021-07-05 10:31:33
防空の矢面に立ったのはフランス正面のロンドン地区担当のバーク空軍少将の第11戦闘機群でした。8月15日イングランド南東部の飛行場が攻撃されましたが迎撃は上手くいきませんでしたがドイツもめぼしい戦果が得られませんでした。ドイツは延べ1,790機を投入、75機を失いました。イギリスは延べ1,000機の迎撃で34機を失いました。

8月24日ドイツは戦術転換、ユンカース87は使い物にならないので引上げ、戦闘機の数を増加、直接掩護と爆撃機の上空の間接掩護としました。昼間はイギリス戦闘機の弱体化狙いの飛行場、夜間は工場等の攻撃とされました。8月24日から9月6日までドイツ出撃数延べ13,700機、イギリス迎撃延べ10,700機、損害ドイツ380機、イギリス300機でした。イギリス第11群はパイロットの損耗が激しく危機的でしたが他の群から航空隊毎入れ替えたり、補充を受けたりしつつ対応していました。

突然9月7日以降ドイツは方針変更でロンドン攻撃に集中、第11群は戦力回復の時間的余裕が出来ました。

9月15日ドイツは波状攻撃を掛けてきましたが何時もの陽動作戦は実施せず、戦闘機の直接掩護も不十分でイギリス側損害26機に対しドイツ60~185機を失いました。ドイツ自らの戦術や兵器に深刻な疑問が生じ、イギリスの防空壊滅や制空権確保が永遠に不可能と思い知らされました。

9月17日「アシカ作戦」翌年春まで延期とヒットラーが命じました。

この日以降攻撃は続行されましたが10月に入ると夜間で高空からメッサーシュミット110改造の戦闘爆撃機だけの都市攻撃に規模縮小されました。

10月31日イギリス政府はドイツによるイギリス本土上陸侵攻の危機は去ったと判断しました。

「ブリッツ」と呼ばれた夜間爆撃は11月中旬までロンドン集中、その後工業地帯、港湾地域でしたが軍事的な効果は大きくなかったですがイギリスの迎撃も勝利とは言い難く引き分けでした。

1940年末までに民間人戦没者23,000人、重傷者32,000人でしたが国民の戦意は失われませんでした。7月から10月末までパイロット戦死450名でしたが戦力絶頂期のドイツ空軍と互角に戦い、敵の目的を打破し、自国の生存危機を切り抜けたバトル・オブ・ブリテンでした。

参照日本経済新聞出版社野中郁次郎等共著「知略の本質」
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