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プロイェシュチ爆撃の殊勲者たち〜国立アメリカ空軍博物館

2024-03-18 | 航空機

タイダルウェーブ(潮流)作戦を報じるフィルムです。

The Ploiesti Raid 1943 [Operation Tidal Wave]

画像悪すぎ。


■ タイダルウェーブ作戦における名誉勲章受賞者


左上から時計回りに:
ベイカー、ケイン、ジョンソン、ヒューズ、ジャースタッド

1943年に行われたプロイェシュチ製油所への大々的な爆撃は、
アメリカ側に多大な犠牲をもたらしました。

その時わかっているだけで500名もの乗員が未帰還になり、
死者は310名に上ったこともお伝えしましたが、
今日はその作戦遂行において名誉勲章を叙勲された人々を紹介します。

まずは生還した指揮官から。

第44爆撃群司令官 
レオン・ジョンソン大佐
Col Leon Johnson



ジョンソン大佐は、警戒態勢にある敵の防衛線と灼熱の火災、
遅発爆弾の爆発をくぐり抜け、第2波を指揮した堅実さと勇気が評価され、
名誉勲章を受章しました。



博物館に展示されている飛行服とゴーグルは、
ジョンソン大佐が8月1日のプロイェシュチ空襲で着用したもの。
パッチは戦前の第3攻撃群のものがそのまま付いています。

ジョンソンは最終的には将軍として1965年に退役しました。

第98爆撃群司令官
ジョン・"キラー"・ケイン大佐
Col John ”Killer'”Kane


この日、山岳地帯の密雲状態を回避している間に、
彼の部隊は集団編隊の先頭部分とはぐれてしまいましたが、
遅れても目標に向かうことを選択しました。

完全な警戒防御、集中的な対空砲火、敵戦闘機、
先の部隊が投下した遅延爆弾による危険、油火災、
目標地域上空の濃い煙にもかかわらず、
彼は石油精製所に対して編隊を率いて攻撃を続行。

ケインの爆撃機「コロンビア万歳」は、エンジンを失い、
対空砲火を20回以上受け、予備燃料を使い果たし、
北アフリカの基地に到着する前にキプロスに不時着しています。

後3人は作戦で戦死した人たちです。

ロイド・ヒューズ中尉(死後)
2nd Lt. Lloyd Herbert "Pete" Hugues



編隊の最後尾を飛ぶB-24のパイロットだった彼は、
激しく正確な対空砲火と密集して配置された弾幕風船をかいくぐり、
低い高度で目標に接近させましたが、爆撃前に機体は高射砲を受けます。

彼は機長として損傷した機体を不時着させるより
作戦の続行を選択して爆撃を完了させました。

その後川に機体を着陸させようと試みますが、
被弾して燃えていた左翼が飛び、機体は地面に落ちて
彼を含む5人が死亡、2人は重傷で死亡、残りは捕虜になりました。

戦死時彼は少尉任官してまだ半年目の21歳で、
前年には結婚したばかりでした。



遺体は現地の人々の手で埋葬されていましたが、
1950年には身元が判明して故郷に帰されています。

アディソン・ベイカー中佐(死後)
Lt. Col. Addison Baker




アディソン・ベイカー陸軍中佐は、当作戦で
「地獄のレンチ」(Hell's Wrench)と名付けられたB-24に搭乗し、
5つのうちの2番目の編隊の先頭機として飛びました。

彼の機を含む何機かは、先頭機が間違った地点で旋回したため、
目的地ではなくブカレストに向かっていることに気づき、
通信を試みましたが、先頭機が警告する電話にも応じなかったため、
ベイカーは編隊を崩し、残りを率いて正しいコースに復帰しました。 

ベイカーの機は最初にプロイエシュチに到着し、
敵のレーダーを避けるため低空飛行をしていましたが、
対空砲に被弾し、火災を含む深刻な損害を受けます。

しかし彼もまた、機を不時着させるより任務を完遂させるため、
爆弾を目標に投下することを優先しました。



爆弾投下後、ベイカーは低空を飛行していた「地獄のレンチ」を、
乗員がパラシュートで降下可能な高度まで上昇させようとしましたが、
被弾していた機体はその途中で炎上し、乗員全員が死亡しました。


空軍博物館展示:ベイカー中佐に授与された勲功賞等

ベイカー中佐の遺体はその後行方不明のままでしたが、
作戦から80年後の2017年、関係機関が遺骨を掘り起こし、人類学的分析、
状況証拠、ミトコンドリアDNAとY染色体DNA分析により、
遺骨を正確に特定し、あらためてアーリントン墓地に埋葬されました。

彼は当時36歳で、作戦に参加したメンバーの中では最年長だったため、
特定が比較的早くできたということがあるそうです。

ちなみに、最新の鑑定法を使った今回の特定作業で、
今まで身元のわからなかった80名の乗員のうち、36名が特定されました。

 ジョン・ジャースタッド陸軍少佐(死後)
Maj. John Jerstad



シカゴの名門大学ノースウェスタンを卒業後任官した彼は、
ヨーロッパで出撃を重ね、1943年には25歳で少佐に昇進していました。

当時彼は93爆撃群とは関係がなかったにも関わらず、
プロイェシュチ爆撃の潮流作戦に自ら志願し参加しています。

彼はベイカー機長操縦の「ヘルズ・ウィンチ」の副機長を務め、
爆撃終了後、低空飛行から炎上しつつある機体の高度を上げ、
乗員がパラシュートで脱出できるように機長と共に試みましたが、
前述の通り、機体は墜落し、乗員全員と運命を共にしました。

ジェルスタッド少佐は作戦後行方不明とされていましたが、
死後7年目に発見され、死亡が確定しました。


冒頭写真左から
ベイカー、ジャースタッド、ジョンソン、ヒューズ
(ケインは写っていないと思う)


博物館には、ナビゲーターだった
レイモンド・ポール ・"ジャック"・ワーナー中尉が、
8月1日の空襲で着用していたシャツも展示されています。

ワーナー中尉は対空砲火で左腕を切断されそうになりながら、
被災した機体からパラシュートで脱出し、
パラシュートが開いた瞬間に地面に激突し、死を免れました。

彼は1944年の秋に釈放されるまでルーマニアで捕虜になっていましたが、
現地の病院の看護婦が彼の破れたシャツを修理してくれたので、
ずっとこれを着ていたということです。

このワーナー中尉についての経歴はあまりありませんが、
死亡を伝えるサイトのHPに、陸軍少佐として紹介されていました。

帰国してからは軍役から引退していますが、
捕虜になっていたことを考慮されて昇進したようです。

死後2階級特進というのは日本で耳にしますが、
アメリカではむしろ引退後の年金補償の点などを考慮して、
慰労の意味でこういう特進があるのかなと思いました。

余談ですが、ワーナーの本名は「レイモンド・ポール」であり、
あだ名の「ジャック」の要素がどこにもありません。
これは、姓が「ワーナー」であったことから、当時の有名人、
ジャック・ワーナーの名前で周りからも呼ばれていたのだと思われます。


Operation Tidal Wave - 178 B-24 Bombers vs. Hitler's Gas Station

こちらは非常にわかりやすいタイダルウェーブ作戦の説明です。
編隊離陸直後から1機が墜落、低空飛行に入った途端、
グループが分かれて進路を間違え、混乱したと言っています。

そして、このやりとりをドイツ軍が傍受し接近に気がついたと。

そして、結論としてアメリカの爆撃作戦は失敗で、
製油所は、結局終戦まで
「ヒットラーのガソリンスタンド」
として機能し続けたことを強調しています。

次回は、当作戦に参加した唯一の日系アメリカ人、
ベン・クロキについてお話しします。


続く。







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1 Comments

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渡洋爆撃 (Unknown)
2024-03-19 04:55:32
このところ、米軍の戦略爆撃のお話しが多いですが、すべて陸軍機なので、海軍の爆撃機を調べて見たところ、陸上機はなかったみたいで、戦略爆撃は陸軍の任務だったんですね。

渡洋爆撃をやるには、天文航法の知識と天測の技量が必要です。1,500km往復で、島も多い地中海ではぐれたり、目的地に行き着けなかった機体がいるということは、この頃はまだ天測の技量が低かったと想像します。こういう経験が、後の日本に対する戦略爆撃の基礎になったのでしょうね。
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