ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

乗艦〜海上保安制度 創設70周年記念観閲式及び総合訓練

2018-06-10 | お出かけ

掃海隊殉職者追悼式についてのご報告も終わり、ようやく
海保観閲式の話題に戻ることができます。

ところで、当ブログエントリのカテゴリーには、海保の観閲式を
カテゴライズするものがなくて、どうしようと悩んだ結果

「お出かけ」

にさせていただきました。
海自でも海軍でもないので、いまいち納得いきませんが仕方ありません。

 

さて、今回は5月18日の出来事からお話します。

少し前に海保観閲式のチケットを鉄火お嬢さんから回していただき、
初めての海保関係のイベントに参加することに心躍らせながら、

「さて、チケットの確認をしておこうか」

と思ったのは観閲式前日の夕方1650くらいのことでした。
ところが、

「・・・・・あれ?」

チケットが入っている緑の封筒が、いくら探してもありません。

しばらく血眼で探した末、どうしても見つからないので鉄火さんに相談。
もうこの時には、誰かが見たらわたしの顔は蒼白になっていたと思います。

すぐに鉄火お嬢さんは、チケットを回してくれた方に連絡を取ったり、
通し番号はわかっているので、海保の偉い人から話をつけてもらうとか
アイデアを出して下さったのですが、(本当にご迷惑をおかけしました<(_ _)>)
如何せんその時には官公庁の業務は終了しており、確認の取りようがありません。

 

そもそも、どうしてチケットがなくなったかというとですね。
捨てちゃったんですよ。ゴミと一緒に。

それを確信したのは、鉄火お嬢さんが送ってきてくれたのと類似の
緑色の封筒、しかも捨てたと思った封筒が書類入れから出てきた時でした。

この捨てていい封筒の代わりに、チケット入りの方を紙ゴミにまとめ、
その日の朝、ゴミ集積所に持っていったのです。もちろん自分でね。

こういう時、心底自分が嫌になるわけですが、とりあえず最後まで諦めず、
足掻くだけ足掻いてみようと、わたしは、やはり
海保の観閲式に行くとおっしゃていた知人に事情を話し相談しました。

「どなたか海保の偉い人ご存知ないですか?」

チケットの現物がなくとも、偉い人の鶴の一声で、通し番号さえあれば
乗れるような超法規的措置は取れないか、と考えたわけです。

 

この知人というのは、自衛官なら知らない方はいないというくらい、
粉骨砕身、昔から私心なく自衛隊を応援しておられるNさんという方です。

昨年の横須賀地方総監部での練習艦隊帰国行事の時、たまたま
隣同士に座ったのがご縁で、おつきあいさせていただいているのですが、
交友範囲のとにかく広い方なので、もしかしたら、と思ったのでした。

すると、Nさん、

「もしよろしかったら余っているチケットお使いになりますか」

 

ゴミ集積所までいって、すでに資源ごみが回収されたことを確かめてから、
わたしは鉄火お嬢さんに平謝りし、急遽このNさんと一緒に
横浜港から出航する「いず」に乗ることになったのでした。

ちなみに失くした方は「だいせん」の乗艦券でした。

海自の観閲式であれば、朝一で並んだりするわたしも、
急遽余っていたチケットをいただくことになったからには、
Nさんが提案された、1030(ちなみに1000乗船開始)に桜木町駅前集合、
それから歩いて海保基地まで、という予定に大人しく?従う他ありません。

駅前から海保基地まではこの「汽車道」を通っていきます。

昔このブログにも書いたことがあるのですが、明治年間に開通した
貨物列車の線路を残してプロムナードにしているのです。

線路道を跨ぐようにデザインされた「ナビオス横浜」。
まっすぐ行くと赤レンガ倉庫に到達します。

海上保安庁の防災基地は、赤レンガの真横に位置します。

門内に入り、埠頭を歩いて行くと、骸骨のマークをつけた
警備船がいました。

海賊退治?の展示を行う際の「海賊役」はここから出航していたんですね。

海賊マークの巡視船は全部で3隻いました。
海保の観閲式について詳細与り知らぬわたしにも、この旗をつけた巡視船が
どういう役割か想像がつき、ワクワクしてきたものです。

「海保の観艦式ってもしかしたらものすごく面白いんじゃ・・?」

岸壁の向こうに今日乗船する予定の「いず」が見えてきました。

この日は朝からどんよりとした曇りだったにも関わらず、何も考えずに撮影し続けた結果、
このように写真が悉くお見苦しくなってしまったことをお詫びします。

乗艦前には「いず」の前のテントで受付とボディチェックを行いました。

しかし、この受付とセキュリティチェックを通ってわたしは思いましたね。

「チケットがなかったらこれ絶対入れてもらえなかったわ」

例えば通し番号のメモを見せて、

「チケット失くしてしまったのでこの番号でよしなに」

と訴えたところで、ここにいる人のほとんどは、そういうことを
独断で
決定する権限など持っていそうにない職員です。
たとえ奇跡が起こって海上保安庁長官に連絡がついていたとしても、
それを証明する書類でも持っていない限り、

「チケットを持っていない方をお乗せすることはできません」

で終わってしまったに違いない、と。

まあつまり、Nさんに連絡を取ったのは正解だったということです。

乗船はもう1時間も前から始まっていたので、船上にはかなりの数の人が見えます。

いよいよ乗艦、じゃなくって乗船。
海保は巡視船なので大きさにかかわらず「船」と呼びます。

たり前ですが海保の船、自衛艦とは随分色々と違います。

これはボートを揚げおろしするためのデリックのブームだろう、
ということくらいはわかりますが、ブームに「古河ユニック」という
クレーンの専門会社の企業名が大きく入っているのも不思議な感じ。

ブームの角度を表すケージ、針が稼働しているかどうかは謎。

甲板にまず出てきました。
哨戒、じゃなくて巡視ヘリコプターを搭載するという構造上、
ヘリ搭載艦に似ていますが、構造物の上の景色は決定的に違います。

CIWSも三連装魚雷ももちろんアスロックも当然ですがありません。

そのことに軽く驚きを感じる、というのも、わたしがすでにどっぷりと
海上自衛隊文化に首まで浸かっていていることを意味します。

と思ったら、武器があったー!

掃海艇などでもおなじみ、M61バルカン砲が。
海保の巡視艇にはあらゆる事態に備えて兵装を施してあるのですが、
あくまでも「護身」「警告」を目的としたものとなっています。

航空機を撃墜したり、艦船を沈めたりする必要はないので、
発射の威力もかなり落としてある、と聞きましたが確認してません。

また、船体をステルスにする必要も全くない巡視船は、
塗装も目立ちやすい白と青、そして部分的に赤を使ったりします。

わたしなどそもそもこの赤の部分がなんなのか、想像すらつきません。

熱狂的な海自フリークの知人女性は、

「白はダメ。グレーのフネでないと萌えない」

ときっぱり言い切っておりましたが、わたしはそこまでではありません。
グレーへの偏愛はもちろん既定路線ですが(笑)
それはそれとして、
海保の白と青の船って視覚的に実に美しいと思うんですよね。

そう、こういうのを見ると、胸のときめきは抑えがたいものがあります。
おわかりいただけますでしょうか。

フェンネルのブルーに記されたマーク、そして

「Safety」

「Search and Rescue」

「Suvey」

「Speed」

「Smart」

「Smile」

「Service」

の7つのモットーを表す「S字章」、(ちょっと盛り沢山すぎる気もしますが)
「Japan Coast Guard」の表記、全てが「ネイビーブルー愛」を掻き立てます。

ちなみにこの時、PLH32「あきつしま」は、受閲船隊を編成するため
一足先に行動海面に出発していくところでした。

海保の観閲式は、海自とは違い、受閲船に人を乗せません。

海自もできればそうしたいところなんでしょうけど、年々観艦式に
応募してくる人数が増える一方の現状では致し方ないのでしょう。

わたしとNさんはまず船内見学に出かけました。
一般客への公開を、海保は甲板と一部のキャビンだけに制限していて、
操舵室などには立ち入り禁止されています。

その代わり、上甲板階の広い部分(大会議室らしい)を解放して、靴を脱ぎ、
休憩ができるようなスペースを作ってくれていました。

丸窓も、護衛艦などでは艦長室でしか見たことがありません。
こんなものを珍しがっているのは多分わたしくらいだったと思います。

どこかで見たことがあるような佇まいだなあ、と思ったら「宗谷」でした。
会議室から出ると広い廊下が通っており、ドアが並んでいます。

ここで、Nさんがドアを開けて中から出てきた保安官を捕まえ、

「中を見せてもらえませんか」

といきなりお願いしました。

「いいですよ」

細マッチョイケメンの保安官は実に快くドアを開けてくれたのですが、
ベッド一つに執務机の、言うなれば空母「ミッドウェイ」の
飛行長クラスの大きさの部屋で、その広さにびっくりしてしまいました。

「こんな広い部屋に一人なんですか!」

聞いて見ると彼は3等保安正とのこと。

「海自だと三尉ですね・・・・うーん・・・」

Nさんも流石に驚いています。
よっぽど乗る人数が少ないのかと思ったらそうでもなく、(最大時110名)
これは海自でいう士官以上の特権のようでした。

「保安正って皆個室がもらえるわけですか」

「わたしは海保大学を出ているのですが、教育機関ではタコ部屋生活でした。
夜はいびきの合唱でしたね」

曹士に相当する保安士と保安士補は(初めて聞いたよこの言葉)
「いず」の場合下甲板の居住区で寝起きすることになっているようです。

もしかしたら海上保安庁、旧海軍より士官特権が大きい・・・?

 

乗艦するなり海自とのカルチャーギャップのカウンターパンチに見舞われ、
いろんな意味で衝撃の多い海保体験となりそうな予感がしてきました。

さて、これからどんな航海が待ち受けているのでしょうか。

 

続く。

 

 


「掃海隊員の歌」〜平成三十年度 掃海隊殉職者追悼式 於 金刀比羅神社

2018-06-09 | 自衛隊

 金毘羅宮における本年度の掃海隊殉職者追悼式が行われる日になりました。

車は追悼式終了後の食事会が行われる旅館の駐車場に停めて、
そこから出発しているシャトルバスで会場近くまで運んでもらい、
そこから少し参道を下っていくと追悼式会場です。

山門前には「五人百姓」といって、古くから金刀比羅宮に奉仕してきて
境内で商売を許された五軒の飴屋さんがあります。

ミカさんにはここで売っているべっこう飴、「加美代飴」を
家族の人数分いただきました。

ここに来るとつい立ち寄らずにはいられないひやしあめの屋台。
生姜を入れるかどうか、聞いてもらえます。

ひやしあめ屋さんの舞台裏。
大村崑の「元気はつらつオロナミンC」の看板を廃物利用。

さてそろそろ、と会場に向かい始めると、隊伍を組んだ儀仗隊の列が
颯爽と追悼式会場に向かって階段を降りていくのを目撃。

参拝客は皆目を丸くするように立ち止まって見ています。

殉職者追悼式が行われることは、参道から少し入ればわかるように
大きな案内が出ています。

本日の天気は雲が太陽を隠し、晴天ではありませんが、むしろ
列席者にとっては大変凌ぎやすい天候だったと言えます。

会場で地レンジャー発見。

自衛隊のリクルートを行う地元協力本部のことを地方連絡部、略して
「地連」と言っていた頃には、
存在していた「地レンジャー」ですが、
略称地本となった今は絶滅しました。

しかしこの本部長はレンジャー出身なので、
「地レンジャー」とお呼びしても良いかと思われます。

この日緑の制服を着ておられる地レンジャー本部長に

「まだ制服を新しいのに変えておられないんですか」

と質問すると、

「今日その質問100回くらいされてるんですけど」

と憮然として答えられました。
将官と新入隊員クラス、つまり上と下からじわじわと新しくなっているので、
真ん中の佐官クラスはもう少し後になるのかもしれませんね。

というわけでわたくしの席は、ここ。
一番前から執行官と幹部、政治家、歴代地方総監、そして掃海隊員、
と続き、掃海隊司令の真後ろです。

会場全面にテントを張る設営法は去年と同じ。
それまでは真ん中を通路として列席者が通路を挟み、
向かいあう形になっていたのですが、去年からこの形に変わりました。

これだと慰霊碑も国旗掲揚も見えないのではないか、などと、
去年追悼式が終わった直後、僭越ながらいくつか進言させていただいたのですが、
今回、追悼式の直前、それに対してこのようなご返答をいただきました。


1️⃣ 参列者の席の向きについて

慰霊碑に正対することが正しい座り方であり、
後方の席の方はテントの影になり見えにくくなりますが、
参列者が200名を超え、さらに朝日岡が慰霊碑に対し
長方形となっているため、止むを得ないものと考えています。

したがって配席は昨年どおりとします。

2️⃣ 儀仗隊の動線について

儀仗隊は本来待機場所から正面に出てくるもので、
参列者席の中央を通すやり方は礼式上、本来の姿ではないと考え、
本年度も昨年どおりとします。

3️⃣ 現職自衛官の配席について

ご指摘のとおり追悼式執行者は呉地方総監であり、
現職が掃海殉職者のご遺志を顕彰するものであります。
現職自衛官が最後列に位置するのは適切ではないため、本年度から
歴代総監、歴代掃海隊群司令の次に配席し献花順も改めました。

 

一番大切なことは殉職者に捧げる慰霊の形であり、それゆえ
列席者が慰霊碑に正対すべき、というお答えには得心がいきました。

何より、呉地方総監部が、たかが一般人のわたしごときの具申を拾い上げ、
検討してくださったことに対し、感激するとともに深く感謝する次第です。

まだ到着していない列席者の席もありますが、儀仗隊はご覧のように
微動だにせず待機しています。

会場の入り口でご遺族を迎え、政治家をエスコートするために待つ式執行官。

ここに見える金毘羅宮の宮司の名前、「琴陵」はことおかと読みます。
現権宮司琴陵容世氏は、金毘羅宮の宮内にブロンズ像のある

琴陵宥常(ことおかひろつね)[1840~1892年]

の子孫で、琴陵は代々権宮司を務めてきた家の名前でもありますが、
その一人琴陵宥常は「金刀比羅宮」と言う神社名の「名付け親」でもありました。


ところでみなさんは、金毘羅宮がなぜ海の守り神となっているかご存知ですか?

こんぴらさんは象頭山という金毘羅宮が祀られている山そのものが神様という考えなのですが、
昔からこの山が航海するものの目印となっていたことが起源と言われています。


そして「海の神様」といえば琴陵宥常にまつわるこんな話もあります。

1886年、イギリス船「ノルマントン号」が紀州沖で沈没する事故が起きました。

この時、イギリス人船員は全員助かったのに、日本人乗客は全員水死し、これが
人種差別的な対応によるものではないかとして裁判にまで発展しています。

ノルマントン号事件

この事件の後、琴陵宥常は海上安全を祈願し、「大日本帝国水難救済会大旨」を作成し、
水難救助活動に携わる団体への顕彰、補償などを行うことを目的に
「海の赤十字」とも言われる「大日本帝国水難救済会」を創設しています。

現在、同会は

公益社団法人日本水難救済会

として、沿岸地に設置された民間ボランティア救助組織、
救難所に対する支援を行なっています。

殉職隊員の遺族の皆さんの入場です。

式典は、

国旗掲揚

霊名簿奉安

黙祷

に続いて追悼の辞が何人かによって行われました。

儀仗隊による敬礼・弔銃発射

が終わると、名前が呼ばれ、献花が行われます。
献花はまず遺族の方々から始まり、そのあとは前列から順番に行われるので、
わたしの献花の順番は現職自衛官のあと、最初ということになりました。

そして、呉音楽隊による追悼演奏が行われたのですが、

前日の立て付けの通り、追悼演奏の最初が歌付きの「掃海隊員の歌」。

独立日本の朝ぼらけ 平和の鐘は鳴り響き
大国民の度量を持て 雄飛の秋は迫りけり
今躍進の機に臨み ああ 掃海は世の鑑

このあと「軍艦」と「海行かば」が演奏される、と確か
昨日司会が言っていたはずなのに、曲は続きました。

・・・・あれ?二番も歌うんですか?

海上保安の重責をその双肩に担いつつ荒天怒涛もなんのその
浄めつくさん 機雷原 防衛庁(省、に変えて歌っていた)
内にその名あり  
ああ 掃海は世の鑑

周りを見ると、皆配られた小冊子の歌詞を見ながら聴いています。

実はこの「掃海隊員の歌」、五番まであって、三番は
「北は室蘭稚内」と始まり、後段には英霊眠れ安らけく」

四番は

「肉弾砕く釜山港」「痛恨虚し対馬沖」

と、ストレートに朝鮮戦争などの表現が出てくるのです。
この三番と四番を歌うのかどうか、ドキドキしながら聴いていると、

挺身集う臨関掃 精鋭すぐる吉見沖
良心こめし丈夫が 水も漏らさぬこの布陣
成果は挙がるかくやくと ああ掃海は世の誠

という最終の五番だけを歌い、演奏は終わりました。

食事会の時に地方総監が暴露?したところによると、
やはり直前まで一番だけで終わる予定だったのが、どういう経緯か、
1、2、5番を急遽演奏することになったということです。

気の毒だったのはリハなしぶっつけ本番で歌わされた指揮者でした。

確かに1番は朗々と歌い上げていたのですが、2番、5番と、
明らかに声が遠慮がちだった謎が解けたというわけです。

「この次はちゃんと練習させるようにします」

食事会でご挨拶した時、地方総監がわたしになぜか恐縮しておられましたが、
音楽関係者としてはこの事情を聞いて歌手に大いに同情しました。

その後、霊名簿を降納し、国旗を降下して式典は恙無く終了しました。

歌、現場の設営、献花の順番、運営の全てに遺漏なく、曇りがちな天気も
列席者にはある意味天助となって、厳かで心に残る立派な追悼式となりました。

まあ、確かに中にはつまらない追悼の辞を述べた「小物議員」もいましたが、
この追悼式にとって全くどうでもいい話です。(断言)

毎年恒例の、遺族と自衛隊等による記念写真撮影。

カメラクルーの姿が見えますが、これはNHKの制作で、
またしてもどなたか遺族の方を追いかけているのだと聞きました。

去年の殉職者を扱った番組の内容を人伝に聞く限り、また今回も

「戦争の後始末をさせられて命を失った気の毒な人たち」

的なコンセプトで番組が作られるのは間違いないと思われます。
どなたか番組を視聴された方、またぜひご報告お願いします。

霊前へのお供えは果物、鯛、餅、酒に野菜、昆布など。

海軍の艦内帽を被り、杖をついて参加されている方を見ました。
かつて殉職者の同僚として共に掃海に当たった方でしょうか。

大正11年に東宮殿下がの御時とあります。
ということは、皇太子時代の昭和天皇のこととなります。

追悼式の後は、金毘羅宮を下山したところにある料理旅館で
遺族の皆様を囲む昼食会が行われました。

追悼式の後なので「乾杯」ではなく「献杯」を梅酒で行いました。
月桂冠のボトルが置かれていますが、飲めないわたしには無縁のものです。

この時隣に座った方が、現在大企業の子会社の社長をしておられる元自衛官で、
共通の知人がいたことから、初対面なのにすっかり話が弾みました。

執行官、呉地方総監池太郎海将のご挨拶。
この時に、指揮者の歌の後半がぶっつけ本番だったことが暴露され?

「後になるにつれだんだん声が小さくなってしまって、申し訳ありません」

という言葉には会場から暖かい笑いが起きました。

ご遺族代表で挨拶をされた方。
この方の親族である掃海隊員は、触雷ではなく、艇の沈没で殉職されました。

殉職当時追悼式で読み上げられた式辞は、当時遺族の手に渡り、
何年もの時を経てこの日皆に公開されたということになります。

語尾が「なり」「けり」で書かれた式辞は、今のものよりいわば格調高く、
より濃く当時の空気を感じさせ、皆は真剣に聞き入りました。

この方の甥御さんは、殉職者の遺志を継ぎ、長じて海上自衛隊に入隊、
現在航海長として練習艦隊随伴艦「まきなみ」に乗り組んでおられます。

宴はたけなわでしたが、わたしは飛行機の時間があるので、一足先に会場を離脱しました。

飛行場の芝に「さぬき」と書かれていることをこの時初めて知りました。

離陸。
次に高松にくるのは一年後でしょうか。それとも・・・。


今年も戦後の日本の海の安寧を取り戻し、復興の足がかりとなった
尊い掃海活動に命をかけられた殉職隊員の皆様に対し、

追悼の誠を捧げることができたことに微かに安堵を感じながら、
わたしは翼の下に広がる讃岐の地に別れを告げました。

 

終わり 

 

 

「うらが」艦上レセプション@高松港〜平成三十年度 掃海殉職者追悼式

2018-06-08 | 自衛隊

金毘羅宮で次の日に行われる掃海殉職者追悼式の立て付けが終了しました。

立て付け終了後、執行者呉地方総監、掃海隊群司令ら幹部が
信仰について司会役の総務課長らと問題点の洗い直しをしています。

なんか無駄にかっこいい。

その後、車で1時間かけ、高松市内のホテルにチェックインしました。

今年もシングルの予約が取れなかったので、仕方なくツインをツイン料金で取りました。
チェックインの時にフロントで「一人で泊まる」というと、フロントマンが
なぜか二枚あった朝食券を一枚引っ込めようとするので、

「いえ!それはいただきます」

と強く言い切り、二枚もらって一枚をミカさんに献上いたしました。
こちとら二人分払ってるんだから当然の権利よね。

着替えと帰って寝るだけの部屋ですが、ベッドが二つあると、
遠慮なくそのうち一つにモノをぶちまけていくことができたので便利でした。

今年はお城跡側の部屋です。

約1時間半でチェックインと着替えを済ませ、高松港に突撃。
今年の艦上レセプションは「うらが」で行われます。

「うらが」さんには、かつて日向灘の訓練でもお会いしています。
掃海隊の機雷除去訓練を見学するために「えのしま」に乗った時ですが、
昼ごはんを「うらが」でいただくために「えのしま」を接舷しようとしたら、
その日は大変波が高く、舷梯を架けることがどうしてもできませんでした。

当時の掃海隊群司令、岡海将補が「うらが」の舷側に立って、ハンドマイクで
接舷を断念することを謝っておられるのを見たのがまるで昨日のことのようです。

岡司令はその後退官され、お食事をご一緒する機会は永遠に失われました。

岸壁埠頭に座って、しみじみと「うらが」舳先を眺めている女性。

もう乗艦が始まっていたので、入って行きました。
わーい、みんながにこやかにお迎えしてくれてるー。

高松港埠頭にあるレストラン「ミケイラ」には去年お昼ご飯を食べに訪れました。
景色もいいし味もおすすめです。

レセプションに訪れた客は、必ず会場入り口で呉地方総監と
掃海隊群司令にご挨拶をさせていただきます。

着物の女性は、わたしの知り合いの防衛団体会長が最近スカウトしてきた会員。
着付けの先生だそうです。

お料理にはサランラップがかかっているので、大阪の時のように
開始前から人が食べ始めるということにはなりません。

なるほど、これから大阪でのレセプションではこうすればいいのでは・・。

格納庫の壁には「うらが」と掃海隊についての知識を周知すべく、
わかりやすい説明のパネルが掲げられています。

「うらが」のエンブレム、かんむり座のモチーフが
命名の元となった浦賀水道の走水神社に祀られている日本武尊の
冠伝説にちなんでいることはここで初めて知りました。

開始前、甲板後部から。
甲板の広い掃海母艦でのレセプションは、「かしま」艦上のように
芋の子洗う状態には決してなりません。

その広いスペースを利用して、甲板には機雷も展示されています。
これは係維式機雷K-13で、この台座ごと海に沈めると、
ツノのある機雷部分だけが係維、つまり糸に繋がれて海面付近まで浮き上がり、
赤いツノに航行する艦船が接触すると爆発する、という仕組みです。

係維機雷のうち「磁気機雷」かもしれません。

「うらが」の後ろには阪神基地隊からやってきた「あいしま」「つのしま」がいます。
今年も去年のように日曜には体験航海が行われたのでしょう。

レセプションが始まり、偉い人の挨拶が行われました。

指揮執行官の呉地方総監。
手前の男性は掃海殉職者のご遺族です。

レセプションの雰囲気を軽快な音楽で盛り上げるのは呉音楽隊メンバー。
バンド名は「マリーンナイツ(海の騎士)」です。

ボーカルも加わり、「スィート・メモリーズ」などを素敵な歌声で聞かせます。

「YMCA」が演奏された途端、周りがほぼ全員と言っていいほど、
その直前に亡くなった西城秀樹を話題にし始めました。

ある年代以上の人たちにとってはヒデキは関心の有る無しに関わらず
歌手にとどまらないアイドルの象徴みたいなものでしたからね。

自衛艦に乗ったらカレーを食べずして何かを食べたとは言えません。
というわけで、「うらが」カレー初体験です。

カレーをよそっている人を写真に撮ろうとしたら、彼は
ピタリ!とおたまを止めて、シャッターを切るまでポーズしてくれました。

というわけでこれが「うらが」カレー。
黒いスパイスのような粒が見えることからも想像できるように、
かなりのスパイシーカレーでした。
具は・・・ビーフだったと思いますが美味しかったことしか記憶にありません。

とかなんとか会場を回遊しているうちに、自衛艦旗降下の時間になりました。
降下を行う乗員が5分前から旗竿の前で静止して時を待ちます。

じか〜〜ん!

同時に電飾が灯ります。

♪ ドーソードドミー ドーソードドミー ミミソー ミミソー
ミードミソーソー ミードドドー♪

ソーソソソーソ ミードーミードー ソーソソソーソー ミードーミードー
(最初に戻って♪で終わる)

この日は女性乗員が風で竿に巻きついた旗を外していました。

「あいしま」「いずしま」でも同じように降下が行われていたはずですが、
喇叭の音はそちらからは聞こえてきませんでした。

母艦の喇叭を聴きながら行なっていたのかもしれません。

降下終了。

灯りが点くと同時に、闇が一層濃く降りてきたように感じます。

レセプション会場にも電灯が灯るとより華やいだ雰囲気が漂います。

この日、わたしは会場でいろんな方と初めてご挨拶をさせていただきました。

自称「オールド・セイラー」氏。
地元の郷土作家。
江田島に生まれ育ち、幹部学校のことならなんでも知っているという方。
某防衛団体の会長にスカウトされて会員になった着物の先生。
掃海隊が高松港にくると必ず駆けつけてくるという熱心なファン。

「オールド・セイラー」氏はこう書けば当ブログ読者なら自衛隊関係の方ならずとも
きっと誰かわかる、東日本大震災の時の海自出動部隊指揮官だった方です。

後は掃海隊の司令官クラスの方々。

なんどもお会いしてすっかり顔なじみになった掃海隊司令が
もうすぐ転勤されると聞いたときは少しさみしい思いをしました。

開始から約1時間、めぼしい食べ物はほぼ食い尽くされた模様。

気がつけば高松港の玉藻防波堤灯台、通称赤灯台が赤く光っています。
世界初総ガラス張りの灯台で、内部に灯りがともると全体が赤く光ります。

本州と高松を結ぶコミューター、四国フェリーの「しょうどしま丸」。
緑のうどんの絵の下には「うどん県」と書かれています。

屋台はカレーの他には天ぷらと焼き鳥。
焼き鳥は割と早くに終了してしまったので、天ぷらを無くなる前に
一つ食べておこうと思ったら、前に並んでいた方が、

「ほらあんた食べなさい」

と順番を譲ってくれ、それでは、とエビ天一ついただきました。
ちなみに天ぷら屋さんの後ろにいる男性は、かの

「北の馬鹿者が」

の元司令です。

楽しんでいるうちに蛍の光が鳴りだしたので素直に退出。

地面のテントは明日行われる地元地本の広報ブースです。
掃海艇での体験航海の他にも、陸自が乗り物を持ってくるのかもしれません。

舷側に立つ自衛官は、一人一人に

「ありがとうございました」

と声をかけて見送ってくれます。

掃海母艦は大きいので、舷梯が長くて比較的急です。

わたしはこの日長いスカートを履いていたので、階段を上る時には
裾を踏まないように持って歩いたのですが、下りでは手すりを持つので手が使えず、
結果的に裾で階段を掃き清めながら降りていくことになりました。

帰って洗濯すればいいや、と思いながら構わず降りていたら、後ろの自衛官
(しかも帽子にカレー付き)が
ご丁寧にも声をかけてくださいました。

「裾・・・・持ちましょうか」

海軍軍人って、皆さんジェントルマン。

だがそれだけは断る。

岸壁に降りてからも、ここでまず呉地方総監が降りてくるのを待ち、
写真を撮るというミカさんに付き合って長時間立っていました。

防衛政務官の艦内見学が長引いて出てくるのに時間がかかり、
おまけに地方総監の退出シーンの撮影に失敗するし・・・

どう失敗したかというと、この大きさでしかお見せできないくらい。

電飾で彩られた掃海艇兄弟を撮りに行きました。

わたしたちの前をついさっきまで制服だった掃海隊司令らが、
私服に着替えて汗をかきながら通り過ぎていきます。

「風呂入ってきたんで暑いです」

この時に聞いたのですが、掃海艇などは司令とか艦長が一番にバスを使うため、
偉い人が早く入ってやらないと皆が入れないのだそうですね。

最後に「うらが」の電飾を撮りに艦首のところに行きました。

ところでこの写真を見てちょっとゾッとしました。
舳先のところにいるの、もしかしてさっき見た女の人でわ((((;゚Д゚)))))))

正面から。
「いずも」の時のように三脚もミラーアップ機能も使っていませんが、
埠頭のブイにカメラを乗せて固定して撮りました。

ミカさんに聞いたところによると、後ろの掃海艇二隻のマストの赤と青のライトは
通常点灯しない(だったっけ)ものなんだそうです。

海面に映る電飾が美しいですね。
わたしにとって最後に見る「うらが」に別れを告げ、埠頭を後にしました。

レセプション中枝豆一個しか食べていない、と豪語するミカさんのために、
(逆になぜ一個だけを食べることになったのか、むしろそちらが不思議)
去年地元の人に教えてもらって、ミカさん、わたし、そして元海将の三人という
シュールな取り合わせでうどんを食べに行った、「鶴丸」に再び。

わたしも、パーティではあまり食べていなかったので、さっぱりした梅うどんは
美味しくいただけましたが、
それより朝早かったため眠気と戦うのが大変でした。

 

さて、一夜明ければ、いよいよ掃海隊殉職者追悼式です。

 

続く。

 




立て付け〜平成三十年度 掃海隊殉職者追悼式 於 金刀比羅宮

2018-06-07 | 自衛隊

さて、金刀比羅宮の一角にある掃海隊殉職者の慰霊碑前で、
明日執り行われる予定の追悼式の立て付けが行われています。

前回「建て付け」か「立て付け」かふと疑問に思ったと書いたところ、
エントリがアップされてすぐ、元自衛官から一言

「立て付けなり」

というメールをいただきました。


そこで調べてみたところ、この「立て付け」という言葉、
「建て付け」、つまり会場の設営という意味ではなく、式典など
行事の前に一通り本番の予定を実施するという海軍用語なのだそうです。

つまり海上自衛隊が海軍から引き継いだ言葉の一つらしいのですね。


「立て付け」とは、本番通りに通して予行演習をおこなうことで不具合を洗い出す、
といういかにも海軍らしい慣習ですが、これさえすれば本番は完璧、
というものではもちろんありません。

いかに慎重に前日立て付けを行なっても、たとえば

引き渡し式で授与すべき自衛艦旗がない!

というようなことが起こってしまうのをわたしは実際に目撃しています。

ちなみにあの件をブログにアップしてから、合計三人の元自衛官から、

「実はわたしの現役時代にも似たようなことが・・・・」

と全く個別に打ち明けられました。
長い自衛官生活で、皆、それかそれに近いことを一度くらいは経験しているのです。

いかに組織として完璧を期しても所詮は人間のすることですから、
何かの弾みで事故は起こるということなのでしょう。

これは自衛隊だからとか、戦後だからというのではなく、
きっと海軍時代にも色々とあったはずだとわたしは思っています。

根拠はありませんが。

これが掃海隊殉職者の顕彰碑です。
この碑については以前も書きましたが、掃海任務で殉職された七九柱の名前が
刻まれており、刻まれた文字は吉田茂の揮毫によるものです。

会場ではリハーサルのリハーサルが続いています。
最後の国旗降下に入りました。

国旗降下に対し儀仗隊入場。
上衣がセーラー服でない以外は本番と同じスタイルで行います。

国旗を扱う時、それがリハーサルであろうが、リハーサルのリハーサルであろうが、
自衛官は必ず国旗に対して正対し敬礼を行います。

この時には本殿を参拝していた呉地方総監や掃海隊群司令は到着しておらず、
時々「総監の現在位置」を知らせる報が入ってきていました。

リハのリハでの内容について、その場にいる自衛官の間で協議が始まりました。

特に儀仗隊については実に入念に調整を行います。
儀仗隊長は三尉。

先日二尉が約30名の指揮官であることを「まきなみ」での体験航海のログで
書きましたが、その法則でいうと、三尉はまさにこの儀仗隊の
10名程度を指揮する指揮官である、ということかと思います。

つまり防大を卒業したばかりの幹部は、いきなり10名程度の部下を持つということですね。


それから、この写真で海士の着ている制服の襟が、

「セーラー服ではないのにセーラーカラーのようなデザイン」

であることに気がつきました。
開襟なのですが、どことなくセーラーカラーを思わせる形になっています。

学生時代にセーラー服を着ていた女子として言わせて貰うと、
セーラーカラーって、あれ、結構それだけで暑いもんなんですよ。
そこだけ布が二重になっているわけですからね。
たかが布一枚ですが、日本の夏には結構な意味を持ってきます。

わたしはこの時防暑用にキャンバス地のサマーハットをかぶり、
虫除けのつもりで白っぽい薄手の長袖の上着を着ていたのですが、
テントの下で写真を撮っていると、暑くて暑くて、ミカさんに

「どうしたんですか、顔真っ赤ですよ」

と心配されてしまいました。

この第二種制服には、夏の過酷な炎天下で日常の任務に当たる海士たちに
ちょっとでも負担を軽くしようというデザイナーの意図が見えます。

アイロンがけの手間もこれならかなり軽減できるでしょうし。

慰霊碑前の広場の一角には、前にも書きましたが江田島兵学校の桜があります。
兵学校出身の殉職者のために江田島から運んできて植えたものと思われますが、
この桜についての由来などは今に至るまでわかっていません。

そこに本殿への参拝を済ませた呉地方総監と掃海隊群司令が来場。
執行者立ち会いのもとで「立て付けの本番」が始まりました。

呉地方総監などの「役割札」を胸にかけた自衛官が本番通りに動き出しました。

地方総監も副官も、本人がいるのにどうして代役を使うかというと、
立て付けというのは「本人の練習」のためというより、全体的な進行に対する
問題点の洗い出しを目標としているからだと思われます。

入場に続き国旗掲揚。
儀仗隊は国旗を頂点とする三角形を作るような位置に整列します。

捧げ銃は「銃の敬礼」。
着剣した銃で行います。

捧げ銃が終わると、銃の台座を地面につけて右手で銃を軽く支え、
左手で剣を外し、腰のホルダーに装着します。

手首の角度や手の添え方、銃を置く場所、全てがピシリと揃っていますね。
ここにくるまでに何度も練習を重ねているからこそです。

わたしは本番には慰霊祭に参列するという立場で来賓席に座るので、
残念ながら弔銃発射の瞬間を写真に撮ることはできません。

だからこそ前日の立て付けに参加しているわけなので、チャンスはこの時だけ。

「前に出てもいいと思います?」

ミカさんに小さい声で聞いて、行くなら今ですよといわれ、前方に回り込みました。

弔銃発射に先立ち、隊長が慰霊碑前の霊名簿、七九柱に向かって敬礼を行います。

儀仗隊は海士ばかりで構成されますが、一番端に一人海曹が立つ決まりのようです。
リハーサルなので、幹部役の自衛官は敬礼をしますが、遺族役(右側)は行いません。

それにしても、この海曹の腕の惚れ惚れするような筋肉を見よ。

空砲を撃つ瞬間銃口から見える炎がちょうど写りました。
兼ねてからわたしはこの弔銃発射、全員ではなく、何人かしか
実際に撃っていないのではないかと思っています。

もし9名が全員空砲を撃ったら発射音はこんなものでは済まないでしょうから。
確かめようがないのでそれが正しいかどうかは謎のままですが。

発射が終わり、銃を傾けて持ち直します。

退場。
銃の台座には「うらが」と通し番号が打ってあり、
彼らが列の順番どおりの番号の振られた銃を持っていることがわかります。

続いて、慰霊演奏のリハーサルが始まりました。
ここで、追悼式始まって以来初めての試みが行われることを知りました。
例年演奏だけの「掃海隊員の歌」に、今年は歌が加わるのです。

指揮者でもある呉音楽隊副隊長が、イントロを指揮すると同時に
指揮棒をマイクに持ち替えて、朗々と一番を歌い上げました。

確かに、この「掃海隊員の歌」、メロディだけではあまり意味がないと感じる人もいて、
カメラマンのミカさんなど兼ねてから「歌も歌えばいいのに」と言っていたとか。

わたしもこの時無骨な男性の声で歌われてこその歌詞であると感じ、
この演出?に
心から感嘆した次第です。

追悼演奏では、「掃海隊員の歌」の他、「軍艦」「海ゆかば」などが演奏される予定のようでした。
少なくともこの時はそうなっていたと思われます(伏線)

 

立て付けが終了後、呉地方総監池海将や総務課長、管理部長、そして
呉音楽隊長(演奏されないのに監督のために来られていたようです)と
ご挨拶をする機会がありました。

音楽隊長に、先日の練習艦隊出航の時、呉音楽隊のコンマスだったクラリネット奏者が
「かしま」に乗って出航していくのを目撃した、という話や、
わたしが見てきた呉音楽隊の色々について、
気が付いたことなどをお話ししたところ、

「・・・・詳しいですね」

とびっくりされました。
まー、東音、横音、呉音についてはちょっとした追っかけみたいなもんですし。

ところでこの時、池海将を通じてとても嬉しいプレゼントをいただきました。
呉音楽隊新作CD、「HOMAGE」です。

八木澤教司氏の作品集であるこのCD、タイトルの『オマージュ〜海の守り詩』は、
呉音楽隊創設60周年記念に委嘱された作品で、儀礼曲「海のさきもり」を曲中に取り入れ、
同曲に対するオマージュが込めてあります。

昨年の自衛隊記念日に行われた呉での式典でも演奏されました。

「オマージュ」〜 海の守り詩/八木澤教司 作曲

このCDの解説のブックレット、曲目解説、ソリスト紹介などが後半には
英語翻訳されて掲載してあるのが目を引きます。

練習艦隊に乗り組んだ同隊クラリネット奏者の小村一曹が、世界の寄港地で配るためではないか、
と思ったのですがいかがなものでしょうか。

そして国旗降下が行われ、立て付けはここに終了いたしました。


この後は高松港に係留した「うらが」艦上で行われる
レセプションへの出席をすることになっています。

 

続く。

 

 

 


平成三十年度 掃海隊殉職者追悼式 於 金刀比羅神社〜参拝

2018-06-05 | 自衛隊

わたしが掃海隊殉職者追悼式の本番前日に現地に向かったのは、
幹部による本殿参拝とたてつけ、式典のリハーサルを見るためでした。

 

自衛隊で儀式などの会場を設営することを「たてつけ」というのですが、
耳ではよく聞くこの聞く言葉、今タイプしていて

「建て付け」なのか「立て付け」

なのかわからなかったので、ひらがなで記しました。
どなたか正確なところをご存知の方がおられましたら教えてください。

(アップされてすぐ、『立て付け』であるとご指導をいただきました。
ありがとうございます) 

掃海隊殉職者追悼式については、ここですでに一度取り上げました。

元民進党の野党議員が、追悼の辞にかこつけて、明らかにモリカケ問題を
政府に当てこするというゲスな真似をやらかし、その場の顰蹙を買い、
ただでさえゼロに近い支持率をまた減らしていたので、そのお手伝いをするべく
そのことだけにフォーカスしてここで取り上げましたが、本当のところは、
本来の追悼式を取り扱うのに不愉快な話題を混ぜたくなかったのです。

というわけで、追悼式前日の午前中からお話しします。

朝一番の便に乗り、一年ぶりの高松上空にやってきました。

高松自動車道が大きく海岸線に迫っている、ここはさぬき市の
青木海水浴場付近ではないかと思われます。

使用機材はANAの新しい飛行機と聞いていましたが、外に出て見ると
今時ガルウィングではないのがちょっとびっくりでした。
タラップからは機内清掃の人たちが乗り込んでいます。


空港からレンタカーを借り、ナビには金刀比羅神社の参道に面した
資生堂のカフェの位置をセットして出発です。

ところが、そのカフェの名前を入力しようとしてなかなかうまくいかず、
おかしいなと思ってネットで調べたら、(便利な時代です)
「神椿」を「玉椿」と勘違いしていたことが判明しました。

それにハッと気付くと同時に、去年、さらには一昨年も、
「神椿」と「玉椿」を勘違いしたことを思い出しました。

わたしはボケ老人か。

気を取り直してナビの指示通りに車を走らせると、このGPS、
参道と平行に走る、地元民しか通らない超狭い一本道を案内しやがったので、
たどり着くまでの間、向かいから車が来ないかヒヤヒヤ。

おかげでスリル満点のドライブとなりました。

というわけで「神椿」の駐車場に無事車を停め、おなじみの
「えがおみらいばし」を渡っていきます。

この橋、わざわざカフェと駐車場を結ぶためだけに山中に作ったんですよね。

忽然と山中に現れるモダンな建物。
お茶屋や、昔ながらの土産物屋兼飲食店しかないこの近辺で、
そのセンスの良さで鄙には稀な佇まいを見せる建物です。

資生堂と金刀比羅神社の繋がりについては昔このブログでも取り上げました。

聖地にあるせいか、いつ来ても「気」の良さを感じる店内。
追悼式で金刀比羅神社に来る時のわたしの密かな楽しみとなっています。

この日7時の飛行機に乗るために5時起きして以来、
水と紅茶以外何も口にしていなかったので、これが朝ごはんです。

なんとなく白身魚のカツサンドを選んでしまい、

「ビーフカツサンドも食べてみたかったかな」

と軽く後悔するのも、去年と全く同じであることに気がつきました。


実はこの間、自衛官だけが参加して執り行われる、神主が祝詞をあげる
正式な慰霊祭が行われているのをわたしは知っていましたが、

去年現場で感じた、「わたしがここにいてもいいんでしょうか」という場違い感、
ブログに上げるために神事を写真に撮るのは如何なものかという思いから、
今年は見学を遠慮しました。

目にも鮮やかな緑を愛でながら、お茶をお代わりなどして過ごしていると、
掃海隊を撮ることをライフワークとしているカメラマンのミカさんが登場。

二人で挨拶をしていると、横を白い制服の自衛官の団体が通り抜けました。

追悼式を執り行う呉地方総監と掃海隊群司令、そして阪神基地隊から
第42掃海隊司令ら掃海隊員のうち幹部が恒例の食事会を行うのです。

ミカさんに、

「下で食べないか誘われたんですけど、一緒にどうですか」

とお誘いいただいたのですが、そんなとんでもない、と一人で待っていると、
ちょうど観桜会の時に同地方隊に着任された、パリッパリの一尉が、
わざわざ名刺を持ってご挨拶に来てくださいました。

単に見物に来ているだけのわたしなどに、と恐縮いたしました。

例年、この食事会が終了してから、幹部のうち地方総監と群司令は
「海の守り神」でもある金刀比羅の神に内々に参拝を行います。

これは防衛省自衛隊の幹部としてというより、四方の海を護る使命を帯びて
任務を遂行する海の防人としての安全祈願であろうとわたしは解釈しています。

 

何年か前にそういう慣例があることをミカさんに教えていただいてから、
何回か、それを写真に撮る彼女に付き合って本殿まで参拝を兼ねてきていますが、
幹部が参拝に向かう様子を目の当たりにしようとすると、彼らより先に
山頂にある
本殿まで、長い階段を上って到達していなくてはなりません。

下で食事を済ませてきた彼女から、

「まだまだみなさん食事は終わりそうにないです」
(その心は食事にワインが供されているから)

という報告を受けるも、自衛官の脚力というもののすごさを知悉しているので、
わたしたちは彼らがまだ食事をしているうちに石段を上り始めました。

上の旭社を左手に見ながら、賢木門(さかきもん)をくぐります。
この辺りは、石段を上ってきて上がった息をつけるところ。

最後の急な石段を上る手前にある鳥居と手水。
上から陽が射してくる、この光景はいつ見ても神々しいと思います。

これが百度石のある最後の難所、御前四段坂です。
さて、頑張って上るぞー!と気合いを入れて足を踏み出すと・・・

ここであっさり追い抜かれましたorz

日頃鍛えている人たちなので、こんな階段(下から七百八十五段、
神椿からなら二百八十五段)くらいなんでもないんだろうな。

海上自衛隊の白い制服は境内でも人目を引きます。

左側は神札授与所。
制服を着た自衛官が必ず誰か一人はお守りを買い求めています。

その前の玉砂利越しに見えるのは右側に見える本殿への渡り廊下。
南渡殿と言います。

拝殿前にある大きな御神木のクスノキ。
幹の周りは4〜5mありそうです。
高さは25メートルなんだとか。

拝殿ではなんと珍しい、お賽銭の回収作業をしていました。

しばらく待っていると、記帳を行い、祓厄殿でお祓いを受けた
幹部を迎えに、神官が渡り廊下を進んでいくのが見えました。

神官、大変お若くていらっしゃる。

玉砂利のところには、下から登って着たツァーが集合し、
黄色いベストのガイドが本殿などの説明を始めました。

黒い服の女性は最近すっかりスマートになったミカさんです。

神官を先頭に、呉地方総監、掃海隊群司令、地方総監副官、群司令副官らが
渡り廊下を本殿に向かいます。

着任して今年が初めての追悼式参加となる掃海隊群司令は、
久しぶりの掃海隊出身です。

一行が一礼して拝殿脇から本殿に入る姿を確認してから、
わたしたちは
すぐさま追悼式場まで下山することにしました。

絵馬殿の屋根は修理中です。

旭社の拝殿でいつも目を引くマルキン醤油の奉納缶。

式場に到着すると、設営は終わり、慰霊碑前にはすでにテントが立っていました。

そしてすでに現場ではリハーサルのリハーサルらしきことが行われている模様。
青い事業服二人は掃海隊員遺族役、現在行われているのは献花のリハです。

テントの向こうでは儀仗隊が細かくチェックを受けております。

花のリハーサルのために、わざわざ白菊の造花を用意するというこの仕事の細やかさ><

呉地方総監役の女性隊員が、霊名簿の降納を行なっているところです。

国旗掲揚、国旗降納のリハーサルも入念に行われます。

次回、儀仗隊が参加してのリハの様子をお伝えしたいと思います。

 

 

続く。


卒業式

2018-06-04 | つれづれなるままに

「いずも」電飾の欄にも少し書きましたが、先週末息子が高校を卒業しました。
公立校しか知らなかったわたしには私学の卒業式は初めてのこと(そして最後)です。
ちょっとイベントとしても面白かったので、この場を借りてご報告します。

全てにおいて物事を確認するのが後手後手に回る傾向のわたし、
息子に「卒業式っていつだっけ」と聞いたとき、実は同日に行われた
阪神基地隊の開隊記念行事に行くという返事をした後でした。

「大抵のことなら自衛隊行事を優先するわたしも、流石に息子の卒業式とあっては
人(の親)としてそちらを優先せざるを得ません」

そう返事をして泣く泣くお断りを入れたのでした。

卒業式は二日にわたって行われます。
一日目の最初に行われるのが、近くの教会での卒業ミサ。

大変由緒のあるカトリック教会です。
学校には教会もあり、チャプレンもいますが、いろんな宗教の生徒が
集まってくるということもあって、宗教的な行事を強制されることはなく、
学期の最初と最後に出席をすればあとは自由参加です。

しかし卒業の時だけは正式なミサを荘厳に執り行うことが決まっています。

教会の前方に見えるこの日本画はキリシタン弾圧で殉教した親子でしょうか。

聖堂の後方にはパイプオルガンと聖歌隊のバルコニーがあり、
生徒と音楽の先生が演奏を行なっていました。

卒業生入場後、司祭が振り香炉による炉儀を行います。
ちなみにこの炉儀はカトリック教会のみで行われます。

ミサは聖歌と経文の合間に信徒たちが「アーメン」とか「聖霊とともに」
といって合いの手(っていうんじゃないと思うけど)を挟んで進行します。

ミサ全体で約1時間を要します。

そして司祭がお高いところからお説教を行いました。

その後、卒業生に対し司祭から神の祝福が授けられます。

ガウンと角帽は事前に用意し、写真撮影と床からの裾の高さを調整し、
本番に臨むことになっています。

帽子のタッセルは、卒業式の最後のセレモニーの瞬間まで、
左側にしておかなくてはなりません。

ミサが終わり、両側に卒業生が立ち、参列者は知り合いに挨拶しながら通り過ぎます。

ジスイズマイサン。

最後は階段に並んで全員で記念写真。
このあと、アワードの授賞式のために学校に全員で移動します。

学校のオーディトリウムのスクリーンでは、卒業旅行の画像が映し出されていました。
群馬の山中でレンジャー訓練、じゃなくて、ラフティングとか滝に飛び込むなど、
ワイルドな活動を行ったそうです。

そのうち卒業生が入場。
これは先日行われたばかりのプロムでの一コマ。

息子(右から三番目)にはこのためにスーツと靴を新調してやりました。
彼はブルーのドレスの娘に花束をあげた(恒例に則って)ようです。

この日のイベントは、成績優秀者の表彰です。

まず、先生が二人、掛け合い漫才のようにユーモラスに生徒全員の紹介を
エピソードを交えながら行います。

そして、各科目について、「メリット」そして「ディスティンクション・スタディーズ」
という優秀賞が最初に授与されます。

最初の生徒はもらえる賞が一つとか二つですが、表彰が後に近づくにつれ、
数がだんだん増えていくのです。
もちろん全くもらえない生徒もいます。

これは実にわかりやすく成績の順番がわかってしまうシステムでもあり、
あとでTOと

「もらえない子には意味残酷なセレモニーかもしれないね」

「もしかしたら成績発表の前に先生たちが生徒全員について触れるスピーチをしたのも
私たちは成績だけで生徒を見ているんじゃないという気遣いなのかな」

などと話し合ったものです。

途中でプレゼンテイターが代わり、そこからは「メリット」だけでなく、
「アウトスタンディング・コントリビューション」という
「特にその教科に優れているで賞」が授与されるようになってきます。

ここからが兵学校で言うところの恩賜の短剣組です。

ムスコが♪───O(≧∇≦)O────♪キター

4教科でのアウトスタンディング・コントリビューション、6教科でのディスティンクション、
そして6教科でのメリットを戴きました。

親としては、専門にする予定のフィジックス(ハイレベル)で
アウトスタンディング略をもらえたのがとても嬉しかったです。

 

そしてか学校からの賞とは別に、日本文化の普及を推進する協会から、
特に歴史の先生の推薦を受けて「日本の城」についての論文に対し
特別賞を戴きました。

「教師の私自身が初めて知る視点を与えられるほど素晴らしい研究だった」

賞品は木製の(多分日本産)ケースに入った木製ボールペンです。

さて、戦いすんで。(戦いじゃないか)
わたしとTOは学校近くのカフェにお昼を食べにいきました。

そこで食後のデザートに出てきた生プリン。

ニワトリさんの中には黄身が内蔵されていて、それをこのように
ポトンとプリンの上に「産み落として」戴きます。

一つをシェアしようと言ったのに、甘い物好きのTO、
抹茶掛けバージョンをお代わりしました。

このニワトリさんは即お買い上げとなりました。

明けて次の日、実はわたしは前日の「いずも」撮影で疲れたままでしたが、
学校で卒業式の本番が行われました。

「威風堂々」の調べに乗せて全員が入場します。

卒業演奏というのか、プログラム最初にMKがアレンジし、
セレクトしたメンバーで「シェルター」が演奏されました。

ちなみに譜面を書いてやったのはわたしです。

Porter Robinson & Madeon - Shelter (公式ビデオ) (A-1 Pictures & Crunchyrollによるショートフィルム)

シェルターとは「庇護」を意味し、巣立つ者がそれまでの庇護者に
感謝を込めて送ったメッセージ、というのが歌詞の内容です。

「シェルター 日本語訳」

続いて四人の卒業生による「思い出ぽろぽろ」。
笑いを交えて学生時代の思い出を振り返りました。

そして、一人一人が親や友人に対するメッセージとともに名前を呼ばれ、
卒業証書を受け取ります。

ここから「タッセル・セレモニー」が行われます。

左側に垂らしていたタッセルを、スクールマスターの掛け声とともに、
一斉に右側に移動させるのです。

タッセルを掛け替えることは一つのステージを終え、
新しいステージに向かう準備をおこなう、という意味があります。

準備を整えた卒業生たちは近くの者と抱き合って祝福しあいます。

最後に全員での「イッツ・タイム」(グリー)の合唱。
この時に何を歌うかは半年くらい前から協議して投票で決まりました。

MKはこの時、パーカッションを担当しています。

退場は二人ずつ・・・。

ですが、二人で打ち合わせてちょっとしたパフォーマンスをします。

ファイトー一発!

ケータイで自撮り。

ダンスは基本。

コマネチ・・・?

レセプションまでの間、幼稚園時代の教室を見て思い出に耽りました。

ここからは体育館でのアフターセレモニー。
卒業生は自分の知り合いや先輩後輩に招待状を出し、
招待された人は花やメッセージを持って訪ねてきます。

後輩。

主席と次席。

友達のお母さん。

仰げば尊し和菓子の恩。

ガールフレンド?(じゃないと本人談)

訪ねてきてくれた人とは必ずハグ。

親友。

息子(手前から三人目)とその友人たち。

友達とそのおばあちゃん。
おうちに泊まりに行った時にはカレーをご馳走になりました。

a

二人を撮っていると、あっという間に周りから人が集まってきて、
結局集団写真になります。

最後のイベントが帽子投げ。
これをもって、息子はめでたく学校を卒業いたしました。

 

長いようであっという間の18年間、秋からは親元を離れていきますが、
彼を生んでから今日まで、何か夢でも見ていた気分です。

母親としては寂しいような気もしますが、これからの彼の人生を
遠くから見守ってやりたいと思っています。

 

 

 

 


護衛艦「いずも」の電飾 @ 横浜大さん橋

2018-06-03 | 自衛隊

 

この週末、息子の卒業式セレモニーが二日続けてありました。
その1日目が終わり、一人で車を走らせていたところ、知人から
このような写真が届きました。

「今日は横浜大桟橋でいずもの一般公開をやっているようですね。

大きさが実感?出来るように海軍の空母と並べて見ました。
上の写真で上から大鳳、いずも、翔鶴です。

いずもは引けを取りません。カッコいいと思います。」


「いずも」は「翔鶴」よりこんなに大きかったとは。

それはともかく、早速わたしは次の日の艦艇一般公開を検討したのですが、
大変残念ながら次の日は卒業式の本番があります。
大抵のことなら自衛隊行事を優先するわたしも、流石に諦めざるを得ません。

そこで、疲れた体に鞭打って、家に帰ってから着替えて、
日が沈んから行われるに違いない電飾を撮りにいくことにしました。

教えてもらって、全体が撮れる汽車道の延長からまず撮ってみます。
まだ電飾は点灯されていません。

それにしても大きい。陳腐ですがこれしか言いようがありません。

マリーンルージュは横浜港を就航するレストランクルーズ船です。

日が沈んで一層闇が濃くなってきました。

横浜といえばおなじみのみなとみらいの光景。
手前は警察署で、裏手には警察の巡視艇が係留されています。

巡視艇ですので「営業終了」ということはなく、夜間でも巡回を行います。

「いずも」は大桟橋にこの週末係留し、二日に渡って広報活動を行います。
昼間の艦内一般公開では格納庫から航空機用昇降機で甲板に上がり、
飛行甲板を見学することができます。

なぜか陸自音楽隊による音楽演奏、太鼓の演奏などがあり、
先着500名に豚汁が振舞われるという豪華イベント。

もう少し早く知っていたら、この日行事が終わって駆けつけたのになあ・・。

ちょっと横から撮ってみようと思い、通路を通って山下公園に行ってみました。
なんとびっくり、海沿いの遊歩道には、いずれも三脚に設置したカメラの放列が!

皆ご自慢のカメラで「いずも」の電飾を撮りにきたんですね。

わたしがここで悩みながらカメラをいじったりシャッターを押したりしていると、
なぜか何人にも

「何撮ってるんですか」

とかなんとか聞かれました。
他にいっぱい人がいるのに、なぜわたしにだけ聞くんだろう。

多分、他の人のプロっぽい感じとは違う、隙というか、
声をかけても怒られなさそうな感じがあったんだろうなあ。

一人目は、少し話すと外国の方とわかる男性。

「あそこにいるのは軍艦ですか」

「海上自衛隊のヘリ搭載艦ですよ」

「飛行機が飛ぶんですか」

(ここで日本人ではないことに気がつく)

「飛行機じゃなくってヘリコプターですね」

「あの橋は・・・」

「ベイブリッジです」

「レインボーブリッジは見えませんか」

「あれは東京ですのでここからはちょっと無理ですね」

人民解放軍のあるお国の方かしら、とちょっと興味が出て、

「旅行ですか?どちらから?」

と聞くと、なぜか

「近くに住んでいます」

しかしあまりこの辺のことはよく知らない模様。

「明日一般公開で艦内が見られますよ」

と言いかけてなぜかやめたわたしでした(笑)


二人目、子供連れの家族のお母さん。

「皆何を撮ってるんですか」

「あれは海上自衛隊の以下略」

「いつもあそこにいるんですか」

「今日明日だけです。明日は中に入れますよ。
お子さんが喜ぶから行って見られたらどうですか」

さりげなく見学を宣伝するわたし(笑)


三人目、自転車の男性。

「それで撮ったらどんな風に写るんですか」

わたしが上の写真を見せてあげると、

「いつも船とかよく撮られてるんですか」

に始まり、ひとしきりカメラ談義に突入しました。
実は談義するほどカメラのことなんて知らないんですがね。

「しかし、そういうスタイルで撮っておられると、なかなかいいですね」

単なる綿の白シャツに無印良品で買ったチノパンとスニーカーですが。

「なんでも形から入ることにしてるので・・・」

とかなんとか適当なことを言いつつ、その場をフェイドアウトしました。

元の陸橋の上に戻った頃、「いずも」の電飾が点灯されました。
時計を見るとフタマルフタキュウ、8時半からの点灯のようです。

この写真は青っぽく撮ってみたかったので、ホワイトバランスを「蛍光灯」で、
シャッターをミラーアップにしてみました。

Nikon810にはブレの原因となるミラーの振動を軽減するために、
ミラーアップという機能が付いているのですが、これを使ってみたのです。

それはいいのですが、ミラーアップでシャッターを押すと、
気が遠くなるくらいシャッターが切れるのに時間がかかります。

ぽちっとな、と押してから、シャッターが切れるまで待っている間に
現場でスクワットを軽く10回くらいできます。やらなかったけど。

ここでわたしは「いずも」が係留されている大桟橋に行ってみることにしました。

三脚を担いだまま移動です。

大桟橋に続く道を歩いていくと、「象の鼻突堤」という、
まさに象の鼻のようなカーブを描く形の突堤があります。

そこからのみなとみらい地区の眺めは最高で、
赤れんがパークのライトアップされた赤レンガの建物までが一望できます。

「フルノ」の機器を搭載した船ごしに撮ろうと三脚を立てていたら、
釣りをしていた人が、

「やっぱり見えている通りに撮れたりするんですか」

と話しかけてきました。

「見えている通りに撮れなくて苦労しているんですよ」

と笑いながら答えるわたし。
逆に、

「何か釣れるんですか?」

と聞いてみると、

「向こうの人はいまさっき何々を(忘れた)釣りましたよ」

「えーすごーい」

馬鹿みたいな反応ですが、他になんて言っていいかわからなかったのです。

大桟橋のウッドデッキに到着。
ここにもたくさんのカメラを持った人たちが三脚を立てています。

その大半が男の人で、観閲式や観艦式などで大きなカメラ持参で
朝の暗いうちから並んでいそうなオーラの人たちばかり。

どうして皆がわたしに声をかけるのか、少しわかったような気がしました。

同じような写真ですが、こちらはベイブリッジを背景に入れてみました。
ベイブリッジのタワーがブルーにライトアップされているのを初めて知りました。

電飾のやり方というのは自衛隊法で決まっていて、船の形を問わず、
艦橋から山形に舳先と艦尾に向かって垂らし、さらに艦首には
水面に向かって一筋電飾線を張ります。

それにしても「いずも」ともなると、舫の張り方がすごい。

舷門からは見ていると上陸していた隊員が時々帰ってきていました。
上陸の時には制服は着ていないので、帰ってくると舷門に立っている人が敬礼しても、
乗艦する人は敬礼を行なっていません。

一般公開の時にはここから乗艦し、艦載機エレベーターで上まで運ばれるのでしょう。

ボートを搭載している艦体比較的後方の右舷側を撮ってみました。
ボートを置いてあるところが明るくなったと思ったら、見回りが懐中電灯で
この部分に異常がないか見回っているところでした。

艦尾のファランクス・シウスとベイブリッジのマッチング。
昔と違って、今の電飾はLEDなので、安全面からも楽になったのではないでしょうか。

この日の月がちょうど「いずも」を彩る電飾の灯と同じ大きさです。

月といえば。
「いずも」甲板に設置されたアンテナが収納されているらしい、
スポンソンという丸いものの向こうに見える月。

月齢16.6の、満月から二日だけ欠けた状態です。

大さん橋のウッドデッキを上に向かって登ってみました。
ここにも三脚がいくつも立っています。

それにしても、このデッキの上、海からの風が容赦無く吹き付け、
6月になったとはいえ湿度の極めて少ないこの日は、日が沈むと
ただでさえ結構寒かったので、わたしは震えあがりました。

ここはデートスポットでもあるのですが、昼間の陽気に合わせて
ノースリーブを着てきたデート中の女性を目撃しました。

寒さのせいで無表情になっている彼女を、自分の上着を貸すこともなく
ただ連れ回しているこの男性がフラれるのはおそらく時間の問題であろう、
とわたしは預言者のように心の中でつぶやきました。

「いずも」の電飾ごしに、山下公園の氷川丸の電飾、
そして横浜マリンタワーが見えます。

NORQ-1スーパーバード衛星通信アンテナとマリンタワーの組み合わせ。

 
もう一度、アンテナと月。
なかなか風流なものでございます。


この写真を最後に、わたしは大さん橋を後にしました。

今回内部を見学できなかったのは残念ですが、その代わり
日頃あまりみることのない夜の「いずも」を見ることができ、
ついでに夜間撮影の練習にもなりました。

ちなみに、大桟橋の現在状況は、ライブカメラで見ることが出来ます。

 
 
 
 
追加。日曜日の朝0940現在。
 
「いずも」の出航を見るために人が桟橋に集まっているようです。
この後もう一度見たら出航が始まっていました。

 
0957。
 
 
0959。
 
 
1010。
 
 
1017。
 
 
1020には画面から完全に姿を消しました。
それにしてもこの画面に映ってた人、ライブカメラの存在を知らないんだろうなあ。
 
 
 
 
 

横須賀入港〜平成三十年度 海上自衛隊練習艦隊 体験航海

2018-06-01 | 自衛隊

さて、朝10時に晴海を出港してここまで着た時、時計は1240を指していました。
「まきなみ」、いよいよ横須賀に入港です。

米軍基地のこんな様子も船の上からしか見ることはできません。
ちなみにレンガの建物の

「DRY DOCKS 5↔︎4」

は、ドックに入渠する海上の船に向けてわかるように書かれました。
ちなみに4号ドックが完成したのは日露戦争直後の1905(明治38)年、
5号ドックはイギリス海軍の「ドレッドノート」ショック以降世界の趨勢となった
建艦競争に呼応する形で建造が始まり、1916年に完成したものです。

「かしま」はもう最終の接岸態勢に入っています。

 

 

岸壁には音楽隊が待機しており、横須賀地方総監が挨拶をする
台も用意されているようですが、一般客の姿はありません。

あくまでも横須賀入港を歓迎する行事ということなのでしょう。

わたしたちのいた左舷ウィングに、黄色い立ち入り禁止ラインが張られ、
ブリッジから「まきなみ」艦長大日方二佐が出てきて配置に就きました。

わたしは邪魔にならないようにラインの外からかぶりつきで見学です。

ブリッジ横の速力標が、ちょうど目の前の位置にやってきました。
艦の両側のこの赤い籠の位置で、速力を表すシステムで、
両側の籠がこの高さにあると、それは「微速」という意味です。

速力標の横で信号旗を合図があれば揚げ降ろししようとする二人の海曹。
左はこれから旗を揚げる係、右側は降ろした旗を受け取る係。

何を待っているかというと、左舷にいる艦長の号令によって接岸した瞬間です。
接岸した瞬間というより、速度が0になる瞬間かもしれませんがわかりません。

微動だにせず、発動の瞬間に備えています。
この女性海曹は先ほど「まきなみへようこそ」と手旗信号した人では・・。

その(接岸か速度0かどちらかの)瞬間「U」らしき旗が揚がりました。

そして上から「回答旗」など三旒の旗が降ってきます。

翻っている時に思うよりずっと旗って大きいんですね。
これを雨の日に行うと、結構大変なのでは・・・・・。

「まきなみ」接岸前から、風に乗って横須賀音楽隊の演奏が聴こえてきていました。

音楽隊の演奏は、「かしま」を横須賀に歓迎するためのものです。
そのせいか「錨を上げて」はなかったような気がします(笑)

ヴェルニー公園からはたくさんの人が見ていますが、この中には
わたしの知りいもいたはず。

こちら、最後の瞬間までずっと入港作業を見守り続ける大日方艦長。

艦長の操艦は、言葉を発するとそれを同じウィングにいる人が復唱し、
舵手まで伝言で届けるという、当たり前ですが原始的な方法で行われます。

こればかりは昔の帆船だろうが最新のイージス艦だろうが変わりありません。

自分の号令一つで、大きな艦体を自在に動かす仕事。
やっぱり艦長配置というのは艦乗りの本懐なのだろうと、
横で大日方艦長の操艦ぶりを見ていて思いました。

さて、下艦の時間が近づきました。
わたしたち一行は再び招集をかけられ、格納庫に集合です。

いつの間にかヘリの後部にかけられていた立入禁止索が外され、
ヘリ甲板そのものへの立ち入りができなくなっていました。

格納庫で永遠と思われるほど長い時間待ってから、ようやく列が動き出しました。
この黄色いものはなあに?

ヘリのトウイングをするトーバーでしょうか。

やっと格納庫から舷側に出ることができました。
「護衛艦まきなみ」のバナーのある舷梯の下には、
万が一人が落ちた時のためにネットが張られています。

このことも、わたしは写真を見て初めて気が付きました。
一般人を乗せて航海する時、自衛隊とはここまで細心を払うのです。

 

この舷梯のどこから下に人が落ちる可能性があるのか、と思いません?
もしかしたらカメラや携帯を落とすことを考えてるのかもしれませんが。

乗艦者が全員降りきるまで、彼らは敬礼で見送ります。
左の運用員の女性海曹、今日は特に目立ってましたね。

岸壁に降り立ち、まずは「まきなみ」を見上げてみる。

右二人の女性海曹以外は、「まきなみ」乗組の実習幹部たちのようです。
十数人だけのようですが、彼らは航空志望でもあるのでしょうか。

少なくとも、わたしが晴海で話をしたブラボー三尉はそうでしたが・・。

「まきなみ」の実習幹部をバックに自撮りするカップル。

「かしま」の前を通った時写真を撮ろうと考えていたのですが、
「まきなみ」から降りた後は、グループごとにまとめられ、
きっちりそのまま裏を通って外にリリースされました。

門で警衛の人に乗艦の際に渡された番号札を返して、退出です。

あれ、この看板前に見たときは違うものだったような気が・・。
リニューアルしたんでしょうか。

メルキュールホテルにランチの予約を取っていたのですが、
全員が「できれば歩きたくない」モードだったので、
横須賀駅前からタクシーに乗ろうとしたら、一台も来ず、
諦めてスカレーくんの写真を撮ってから歩き出しました。

昨晩遅くまで仕事をしていて、今朝はギリギリまで寝ていたため、
何も食べずに乗艦してしまったという若い男性参加者は、
初めての自衛艦クルーズだったこともあって、半死半生でした。

ヴェルニー公園ではバラが綺麗に咲いています。

お待ちかね、メルキュールホテル上階のレストランのランチビュッフェ!
ここの売りはその都度湯煎で温めて自分でトッピングするパスタです。

右側にピンクのボウルがありますが、これは「イチゴクリーム」。

「パスタにイチゴクリームかけるの?」

と皆は騒然としていましたが、一人チャレンジャーが試してみました。

「・・・・どう?」

「思ったよりいけるけど・・・今じゃないっていうか」

そんなの食べなくてもわかる。

ここの窓から見る軍港の眺めは最高です。

手前に「はたかぜ」がいます。

この時のわたしには知るべくもなかったのですが、この時からきっちり
一週間後、わたしは海保の観閲式で海上自衛隊代表として展示を行う
「はたかぜ」の雄姿に心躍らせることになります。

米軍基地側のミサイル駆逐艦娘たち。
艦体が汚いとか手入れがなっとらんとか、軍人精神がたるんどるとか、
だからアメリカ人は大雑把って言われるんだよ、とか言ってごめんねー。

「かしま」さん、そして「まきなみ」さん、ありがとうございました。
彼女らはこの9日後、同じ岸壁から遠洋航海に出航していきます。

ところでメルキュールホテルの一階の売店で、「しらせ」「ひゅうが」
「きりしま」などの缶入り艦艇カレーの中に、新作発見!
なんと、

「ちびしまカレー」

ですよみなさん!

艦番号1.74、横須賀地方隊のどこかの倉庫に定係されている
あの「ちびしま」、ついに!カレーが発売されました。

電車で帰らなければならないのに、思わずセットをお買いあげです。

「ちびしま」というだけあって、お味は

甘口、子供用

というのが泣かせるじゃーありませんか。
辛すぎるカレーが実は苦手なわたし、大変美味しくいただきました。

皆様もぜひお試しください。

その日家に帰ったら、外猫が「お疲れー」と出迎えてくれました。

 

練習艦隊体験航海シリーズ 終わり