ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

体験型装備展示の意味するもの〜ドック型強襲揚陸艦「アルビオン」

2018-08-11 | 軍艦

さて、晴海で一般公開された強襲揚陸艦「アルビオン」に乗艦し、
車路になっている傾斜を昇って甲板にたどり着きました。

車輌が展示してあり、その上には海兵隊のいかつい兵士が。
太い腕に筋肉隆々な体躯、炯炯たる鋭い目つき。

・・これは何人か殺してる顔ですわ(比喩表現)

こちらにも。

予想通り甲板のうえは黒山の人だかりです。
それにしてもこの人の動かなさ、ただ珍しい装備を見ているだけではなさそう・・。
よくよく見ると、装備の周りに列ができてるじゃありませんか。

ええっ、もしかしたら車輌の上の銃の前に座らせてもらえるの?
まさか・・・・と思ったら、本当でした。

一度でいいから本物の銃の前に座って写真を撮りたい、
と願う少年と元少年、時々女性が甲板に長い列を作っていたのです。

車上の海兵隊員は一人ずつ銃の前に座らせ、カメラなりスマホを受け取って、
写真撮影をするために動員されていたのでした。

こちらはヴァイキング。
今緑の帽子の人が銃を構えています。
しかし、手間も時間もかかるこんなサービスをこの炎天下によく・・。

素晴らしい。王立海兵隊、なんて太っ腹なんだ!

こちら「コヨーテ」車上のロイヤルマリーンも、時々このように
誰に向かってかはわかりませんが、ポーズを取りながら、
にこやかに、というのではありませんが、実にフレンドリーな感じで
次々とやってくる日本人の相手をしています。

そうそう、車上のマリーンだけでなく「コヨーテ」も撮っておかなくては。
さっき艦内の壁にたくさん吊り下がっていたベルトのようなものは、
このように使われる(もしかして牽引用?)らしいことがわかりました。

ライトや信号灯が海中で浮遊物に当たって破損しないように、
車の前部にはガードが装着されています。

「コヨーテ」の武器は前部座席と後部上段に搭載されており、
今回皆が乗せてもらえるのはその後ろ側です。

ライフル銃を真横から撮ってみました。
銃座が車体に固定され、車両に座ったまま安定した姿勢で撃つことができます。
男子なら一度くらいこれで実際に撃ってみたいかも・・。

こちらも順番にのぞいて見ることができます。
この海兵隊のお兄ちゃんも、肘から先は(おそらく腕の根元まで)
倶利伽羅モンモンを入れています。

これはミニガンというやつでしょうか。

皆無茶苦茶楽しそう。

銃の型番とかはわかりませんでした。

それにしてもこの人の背中、汗でびっしょり濡れてますね。
とにかく甲板の暑さは大変なものでしたが、皆暑さもなんのその、
目を輝かせて銃を覗き込み、照準を合わせて引き金を弾いています。

甲板の上にはウォータークーラーが3台運び込まれて、
水分補給をすることができました。
わたしが手前のクーラーから水を注ごうとすると、
そこに座っていたおじさんが親切にも、

「こっちのが冷たいよ」

と教えてくれました。
わたしがこの日日焼けから肌を守るために掛けていたストールが
肩から落ちていたのを目ざとく見つけて、

「おネエさん引きずってる、引きずってる」

と教えてくれた人もいますし、全体的に雰囲気も和やかというか、
観艦式のあの殺伐とした雰囲気とは全く違うこの日の艦上でした。

おかげで人混みのなかで不快な思いをすることも全くなく、
心から楽しく過ごせたことをご報告しておきます。

女性なのにこんな巨大な無反動砲?を担いでる?

ということはありません。
三脚で固定した

NLAW(次世代型軽対戦車ロケット弾)

Javelin(対戦車ロケット弾)

(のどちらか)の下に潜り込んでスコープを覗かせてもらえるのです。
画像を検索すると、これ、実戦では普通に肩に乗せて撃ってます。
ということは、そんなに重くないのかな・・・。

指導しているマリーンの肩には「ロイヤルマリーン・コマンド」とあります。
この写真で気がついたのですが、この対戦車砲は練習用らしいですね。
砲身の上に「 DRILL」と書いており、砲口はダミーです。

アロハの人が担いでいるのがジャベリンだと思うのですが・・。
ちなみに「ジャベリン」とは槍投げ、または槍投げの槍を意味します。

それにしてもこの熱気を観よ。

東京ビックサイトでサバゲーに使うモデルに目を輝かせているのと
ほぼ同じ層の男たちが、嬉々として本物の銃に触るために
我慢強く順番を待っている様子は、なかなか微笑ましいものがありました。

つい夢中になって後ろに人がいるのにいつまでもブツを離さない人もあり。

わたしはこの光景からも日本の歪んだ現状を思わずにはいられませんでした。

一般公開で装備の銃を持たせたところ、たちまちパヨラーが発狂して大騒ぎ、
その後市民が銃火器に手を触れる機会は全くなくなったというのは一例です。

「武器を見せるな、持たすな、人目から隠せ、ないことにしろ。
つまり武器を持ったら戦争になる!っていう考えですよね」

「武装しなければどの国も戦争を仕掛けてこないって理屈に繋がりますね」

「そういうのを『ダチョウの平和』っていうんですよ」

こんな呆れた「常識」に屈しざるを得ない自衛隊の皆さんに対し、
国民の一人として隔靴掻痒のようなもどかしさと共に慚愧の念に絶えません。

自衛隊にこんな忖度をさせている責任は、実はわたしたち一人一人にあります。

海上自衛隊でもおなじみ、防火や救助のためのグッズ展示。
防火服の上にある測距儀みたいなのは何でしょうか。

Warfare、というのは交戦状態を意味する言葉で、

「The Warfare Department はHMSアルビオンを軍艦たらしめるものです」

というタイトルの元に、搭載できる最大の車両が

チャレンジャー2戦車

であることや、

LCUs(Landing Craft Utility)汎用揚陸艇

LCVPs(Landing Craft,Vhiecle, Personel)上陸用舟艇

4隻などを搭載している、という説明、さらに
2機の汎用ヘリコプター、ファランクスCIWS、

GPMGs(General Purpose Machine Guns)20mm汎用機関銃

Mk 44 6-barrelled Mini-gunsミニガン

を舷側に備えていることが書かれています。

それにしても皆さん、この景色を見て何か変だと思われませんか?

そう、女王陛下の強襲揚陸艦、一般見学というのに

柵がないのです。

もちろんこの向こうは海、と言ってもキャットウォークがあるので、
万が一端っこから落っこちたとしても大したことにはなりませんが。

自衛隊ならキャットウォークがあっても柵を張って、しかも
見学者にはもたれないようにとかいう注意が入るはずです。

「かが」の事故のように、自分で勝手にふらふらと歩き回り、
その結果穴に落ちたとしてもそれは自己責任。
軍艦の艦長がそんなことに責任を取らされることはありません。

日本以外の国ではだいたいそうなっております。

こちらでは匍匐姿勢による銃撃のエア体験ができます。
各銃に一人説明のマリーンが付いてくれるのが嬉しい。

ここは野営セットでしょうか。
テントも寝るだけのスペースにはこんなに低く建てるんですね。

つい先日海自のサマーフェスタでもお目にかかったばかりの
AED(自動体外式除細動器)人形にロイヤルネイビーの艦で再会しました。
救急医療セットの展示台になっているのは簡易式折りたたみベッド。

このコーナーでは防弾チョッキを(多分)試着できるぞ。
二人掛かりで装着してくれ、仕上げにはヘルメットも被せてくれるというサービスの良さ。

この甲板で見た光景は全くのカルチャーショックでした。

イギリス海軍は、おそらく自国でも一般公開の際には同じように
見学者に老若男女を問わず、装備を公開して、触ってもらい、
自国の防衛の実態を余すことなく知ってもらうということを
常日頃から普通にやっていて、ここでも同じことをしているのでしょう。

当然です。それが「普通の国」の軍隊というものです。

今、アメリカのニューアーク空港で飛行機を待っているのですが、
テーブルに備え付けのアイパッド(これで食べ物を注文する)では、
ゲームの待ち時間にすかさず海軍のそれはそれはかっこいいCMを入れてきます。


一方日本では、自衛隊に入隊を志望する人員が最近減少しているので、
年齢制限を引き上げるというニュースを最近耳にしました。

自衛隊がもしこの日の「アルビオン」艦上のような展示をやったら、
というか、もしここまでできるような組織であったら、おそらくですが、
ここまで募集に苦労するようなことにはなっていないはずです。

 

ついでに、この際真面目にいいますが、自衛隊の志願者を増やすためには、
まず大前提としてもっと国民が軍人にリスペクトを持たなくてはダメだと思います。

大災害の時には自衛隊の力をちゃっかりあてにする癖に、
学校や
自治体で募集をさせてくれないとかは論外です。

また、一見味方のようでも、自衛隊員の労働環境をやれブラックだの
日常必需品にも困窮してるだの、殊更論って可哀想だ気の毒だと叫ぶ人を、
当の自衛隊員たちは決して
自分たちの代弁者であるとは見なしていない、
むしろ自衛隊反対と叫ぶより
「タチが悪いと思っている」とわたしは最近
「中の人」から伺ったので、
ここにこっそりと書いておきます。

 

続く。

 

 


艦底のウェルドック〜ドック型強襲揚陸艦「アルビオン」

2018-08-10 | 軍艦

晴海埠頭に来襲した女王陛下のドック型揚陸艦、「アルビオン」。
いよいよその中に入っていくことになりました。

揚陸艦の中に足を一歩踏み入れた途端、なぜ見学の列が
硬直したように遅々として進まないのかその理由が氷解しました。

入って直ぐのところにいきなりミリヲタならずとも目を輝かせて
興味津々で食い入るように見てしまう珍しい装備があるではないですか。
しかもムード満点、偽装網までデコレーションしてあります。

「こりゃー動きませんわ」

わたしと連れは頷きあったのでした。

乗艦した入り口の直ぐ右には、こんな車両が。
現地には説明が全くないので、何かわかりませんでした。

車両置き場で見張りをしている若い人、眠そう(笑)

ここに展示してあるのも岸壁にあった「ヴァイキング」ですが、
通信車両らしく、機器が展示されていました
左下は簡易アンテナでしょう。

直撃弾を受けても壊れない(たぶん)ハードユースのパソコン。
左はパナソニック製です。

ヴァイキングはドアを開けて展示してありました。

全員が写真を撮りながらなので、当然先に進みません。

ギザギザのブレードを備えたローラー、「ロードレイヤー」

見学者の質問に、

「イエス、こんな風に地面を均すものだよー」

とアクションしながら説明しているロイヤルネイビー。
彼の階級はNATOコードのORー2、一等兵です。

ローラーを真横から見るとこんなになってます。
このページを見ると、このロードレイヤーの使い方がわかります。

ローラーに巻かれているのはブレードではなく金属の板で、
これを地面に押し付け、
自分で板を踏みつけながら均していくわけです。

ロードレイヤー車を横から。
ローラーに巻かれた金属板をタイヤが踏んでいることに注意。

移動の時にローラーはどういう状態になるんでしょうか。

ローラーの向こうには冗談抜きで息を呑むような光景が展開してました。
ウェルドックと呼ばれるデッキ状の格納庫です。

岸壁の舷梯から乗艦した水陸両用車両は、ここに見える傾斜を降りて、
艦尾部分にあるハッチから展開し、揚収されます。

「ヴァイキング」以外にも舟艇や車両が格納されています。
右側の車両はとてもそうは見えませんが、ここにあるということは
水陸両用車で海に浮くことができるはず。

艦体はちょうど縦に半分で仕切られており、こちらは
ご覧のように下まで降りて見学ができるようになっていました。

何を見ているのかわかりませんが、とにかく人がいっぱいです。
わたしも連れも午後から用事が入っていたのでここはパスしました。

ところで、わたしはこの部分を見学しながら、ある「臭い」に気がつきました。
よく海岸近くで嗅ぐことのある、魚介類や海藻の腐ったような匂い。

それがここに立つと、どこからともなく立ち昇ってくるのです。

「なんか・・・磯臭いですね」

「まあしょっちゅう船や車を降ろしたりあげたりするわけですし」

ただ、もし運用しているのが海上自衛隊なら、毎日清潔にして
こんな匂いがするまで放置しておかないのではないかという気もしました。

この後、見学コースは甲板に続きます。
壁に掛かっているのは舟艇の取り外し式モーターのようです。

ベルトのようなものは舟艇に乗る際に使う安全ベルトだと思われます。

普通の陸用車両はこの階(岸壁と同じ高さ)に格納されています。

展示されている(というか普通に格納されている)車輌を見ながら歩いていくと
見学路が傾斜の車路が甲板までつながっていくという流れ。

現地の説明が一切ないので苦労しましたが、画像を検索していると
英語のオークションページにこの車が出品されているのを見つけました。

ROYAL MARINES WINTER/WATER LAND ROVER WOLF
110 HARD TOP

なんとイギリス陸軍ではランドローバーを標準採用していることが判明。

「ウィンター/ウォーター」というのは防寒装備と水密性を備えた、という意味です。
シュノーケル(車の右側についている煙突のようなもの)の装備で、
フロントガラスまでの水深でも走行が可能ですし、また
エンジンを予熱させる流体エンジンヒーターの装備などの改修点により、
車両や乗員は極限状態においても活動することができます。

海兵隊で運用されているのは強襲上陸作戦用の特殊深度走行型で、
潜望鏡付きのシュノーケルのほかは防水加工された電子システムおよび機器を装備し、
必要時にはヴァイキングのような完全防水装備の車両と一緒に行動できます。

また後部ドアはストラトにより支えられており、水の流入を許すことで
車両が漂流されるのを妨げ、着岸直後には急速な排水をすることができ、
車両による上陸演習時においても、乗員の身体が濡れることもありません。


ちなみにオークションでいくらの値がついて売れたのかどうかはわかりませんでした。

HMT600装甲車 コヨーテ(SUPA CAT社製)

Coyote Training

映像は冗長ですがお時間のある方はどうぞ。
究極のオフロード車っぷりがよくわかります。

別バージョンの名称は「ジャッカル」。
「コヨーテ」の先発でこちらは少し小さなタイプになります。

そして、今回最も驚きだったことの一つ。

見学者は艦内で一切階段を使わず、この車輌運搬用のスロープで
甲板まで上り、同じ車路を降りて退艦します。

この写真でもお判りかと思いますが、傾斜角はかなりのもので、
この坂を車輌に乗って移動するなんて信じられないほどです。

 

ところで、ロイヤルネイビーのHPから活動記録を調べてみると、
「アルビオン」は少なくとも7月8日(一般公開のほぼ1ヶ月前)には
日本に寄港していて、この日に保土ヶ谷にある英連邦兵士の墓地に
公式に弔問していることがわかりました。

HMS Albion proves big in Japan on landmark visit to Tokyo

文中、「東京の横浜墓地」とありますが、これはもちろん間違いです。

英連邦戦死者墓地は横浜にある「もう一つの外人墓地」です。
第二次世界大戦における捕虜の死者や戦後のイギリス連邦占領軍の任務中の
病死・事故死者も含む約1,800名が埋葬されています。

なお、このページによると、「アルビオン」は来日してすぐに
横須賀のアメリカ海軍第7艦隊で1ヶ月に亘り修理を受けたそうです。

やっぱり日本では憲法の関係で修理も頼めないので、ということでしょうか。


艦長のティム・ニルド大佐は今回の訪問について、

我々は東京の訪問者として目を見張るような素晴らしい週末を楽しみました。
六千人を超える人々にご支援を頂き、また体験を共有することで
偉大な二つの国の間に強固な友情を築くことができたと思います」

そして

「われわれの訪問は、グローバルな英国海軍の活動をを証明するものであり、
当然のことながら、日本との緊密な関係を築くことが目標でありました」

と語っています。

この日の多くの見学者にとっても、「アルビオン」を通して
イギリスという国への理解が若干なりとも深められたことでしょう。


続く。



乗艦〜王立海軍ドック型強襲揚陸艦「アルビオン」

2018-08-09 | 軍艦

ところでイギリス海軍の強襲揚陸艦がどうして日本にいるのでしょう。

現地で聞いた話によると、陸自の水陸両用部隊との合同訓練のためでしたが、
英語wikiによると、

In April 2018, Albion was dispatched to the Asia-Pacific
to assist in enforcing sanctions against North Korea.

北朝鮮への制裁措置の一環としての派出であると言い切ってますが、
入港行事での挨拶で艦長のティム・ニールド海軍大佐は

「『アルビオン』の寄港はイギリス海軍がアジア太平洋地域の
安全保障に、グローバルに関与する姿勢を示したものです」

とし、

「海上自衛隊との連携し、お互いに学び合いたい」

「東京港で多くの方と交流して日英の友好を深め、
日本文化に触れることを楽しみにしています」

と述べるなど、非常にソフトな印象です。
まあ、実態はそうであったとしても、

「日英同盟で今度はロシアじゃなくて黒電話をビビらせてやろうぜ!」

とは言いませんわね。

晴海埠頭に翩翻と翻るユニオンジャックの美しいことよ。

ところで自衛隊の旭日旗にいちゃもんつけているお隣の国の人たちは、
ユニオンジャックも、トリコロールも、スターアンドストライプスも、
その全てが彼ら基準で言うところの「血塗られた旗」であることを
こっちに文句を言う前に少し思い出していただけると幸いです。

「アルビオン」の艦番号はL14。
L1は「ローリー級ドック型揚陸艦」の1番艦「ローリー」で、
こちらは1962年の就役です。

Lは「Landing」、上陸のL、厳密にいうと

 landing platform dock (LPD)

となります。
定義は揚陸艦のうち、艦内に持つウェルドックに収容した
上陸用舟艇を用いた揚陸を主体として行う軍艦です。

舟艇はウェルドックから直接海上に出て、揚陸を行います。

「スラスターすね」

連れが白黒のマークを指さしました。
サイドスラスターの設置位置喫水線上に記されるマークです。

そりゃ強襲揚陸艦がタグボートに頼るわけはないでしょう。
と思ったのですが、「アルビオン」晴海入港の写真を見ると、
どうもタグボートが入港作業を支援してるんですよね。

乗り物ニュース

岸壁との間には浮き台(ポンツーン)をかましていますが、
盛大に艦体から水が噴き出していて浮き台を洗っていました。

今日は日曜日なので、休暇を取って東京見物に繰り出す乗員の姿も。
どこへ行きますか?
浅草雷門、それとも秋葉原かな?

艦長の挨拶ではないですが、ぜひ日本文化を楽しんでくださいね。

乗艦を待つ列はじわじわと進んで、ようやく「バイキング」のところまでやってきました。
途端にカメラを構えて激写する(というか暇だし)人々。

こうして見ると陸自の装甲車みたいですが、どっこいここれは
王立海兵隊の誇る水陸両用艇(車?)だったりするんだな。

こんなキャタピラ(商品名)履かせているのによく浮くなあ。

浮いているところを見たいと思って探したのですが、この画像しかありませんでした。
確かに浮いてますが、限りなく不安な感じです。

調べてみると陸上では65キロ、水上での時速は5キロ。
一般に人間の歩行速度と同じくらいということになります。

こういう部分も海水に浸かることを前提に作られているわけだが・・。
お弁当箱みたいなのは「可燃液体」で、取り扱いを間違うと、
木が枯れてお魚が干上がっちゃうとシールで警告してあります。

こんな不安定なものをどうして2両連結するのかという気もしますが、
後ろの車両には運転席がなく、その分人員が8名乗り込むことができます。

主武装は車上の重機関銃なので、シールドが標準装備されています。
てことは、天井は開くということですかね。

またウィンドウのところに筒がありますが、これはどうやら
グレネードランチャーではないかと思われます。

個々の車体には番号が基本手描きでペイントされてます。
それにしてももう少しちゃんと描くという考えはないのか。

「RF」のRは多分「ロイヤルマリーン」だと思うのですが、
Fは・・・フォ、フォース?

ちなみに、ロイヤルマリーンのモットーはラテン語で

"Per Mare, Per Terram" 

英語で"By Sea, By Land"、海に陸に、という感じですか。

並んだ列が時々全く動かなくなるのは、持ち物検査の列を4つに分け、
それぞれ違うテントに誘導して、かつ検査を行うのはそのうち一つだけ、
と決めていたためであることがここまできて判明しました。

わたしの荷物を点検した若いマリーンは、黙々とカバンを覗き込んでおりましたが、
どんな過酷な現場でも微笑みを絶やさない自衛隊のみなさんと違い、
この時点で既に魂が幽体離脱しているのか、目が死んでいました(笑)

きっとその晩は次々と日本人の荷物を調べる夢(やってもやっても終わらない)
を見たんじゃないでしょうか。

メイソンさんの水筒はグレネード型(笑)

荷物のチェックを終えても、列は一向に進みません。
こちらは出口となりますが、まだここは始まったばかりでガラガラです。

乗艦はここから、一列になって行います。
入り口の警備をしていたこの二人、かっこいいので何人にも
写真の撮影を求められていました。

この日の見学者。99パーセントが男性です。

たまに女性もいましたが、子供連れのお母さんがほとんど。
写真を撮らせて、といったらマリーンの兄ちゃん、屈んでくれました。

「アルビオン」艦体につけられたトレードマークは、かつて

「COMBINED OPERATIONS」水陸作戦司令部

第二次世界大戦時、ドイツに対抗する連合国間で結成された同盟の
司令部(戦争省管轄)のものでした。

今では機能していませんが、徽章は「第3コマンド」という
「アルビオン」の強襲揚陸部隊を含む旅団が引き継いでいます。

艦尾側舷側には舟艇とそのデリックが見えます。

このボートは両舷に1隻ずつ装備されていました。
色がどす黒くて、なんだか凄みがあります。

まあこれなら、多少汚れてもほったらかしておいて大丈夫?

浮き台が「タツミ」という港湾業者のものであることが判明。
(株式会社辰巳商會)

こういう大型艦の時には防眩物ではなく浮き台を挟むようです。

「うらが」の甲板にも既に見学の人の姿が見えます。

というわけで、ようやく舷門までたどり着きました。
舷門では物々しい銃を携えた警衛係の乗員(海軍)がお出迎え。
通り過ぎるほとんど全員が彼らを写真で撮りまくっていて、
若いロイヤルネイビー君は少し恥らう様子で、カメラを向けると
真面目にポーズを取ってくれました(冒頭)

そんなによく知るわけではありませんが、イギリス人というのは
一般的にアメリカ人ほど初対面の愛想は良くなく、
人見知りの傾向が実に日本人と似ていて、それを乗り越えると
アメリカ人よりも親身にに付き合ってくれるという印象です。

彼のこの時の様子から、ああやっぱりアメリカ人とは違うなあ、
とイギリス滞在で感じたことを思い出しました。

 

続く。

 


「ガンダムは搭載してません」〜強襲揚陸艦「アルビオン」来航

2018-08-07 | 軍艦

今ボストンです。

息子が留学を始めるので、生活の立ち上げ支援を口実にくっついてきました。
今年は恒例のアメリカ滞在を後ろ倒しで行うことになったため、
いつもならサンフランシスコにいる時期に渡米して
1ヶ月の東海岸での生活をスタートさせることになったものです。

出国の日の暑さは相変わらず地獄の釜のようでした。
今日を限りにこの暑さともおさらばだわ!ホーッホッホッホ!
と内心高笑いしながら迎車に乗り込んだわたしでしたが、
ローガン空港を一歩出るなり、強烈な日差し、蒸し暑い空気に愕然。
なんのことはない、これじゃ日本と全く一緒です。

ボストンの夏ってこんなだったっけ。

そう、ベストシーズンといわれる6月しか暫く知らなかったため、
8月には日本並に蒸し暑い天気であることをすっかり忘れていたのでした。


ともあれ今回の出発までにしなければならない用事が多く、
特にコメントへのお返事ができなかったことをお詫びします。

 

さて本題、晴海埠頭にイギリスの揚陸艦「アルビオン」が来るので
見に行きませんか、とお誘いを受けたのは明日が出発という日でした。

他の艦ならそんな忙しいときに、わざわざこの暑い中晴海まで行くものか、
というところですが、どっこい今回やってくるのは女王陛下のHMSです。

これを逃したらロイヤルネイビーの艦などいつ見られるかわかりません。

午後からも用事が入っていたので、朝一で見学することにして、
駐車場に停めるために、なんと公開時間の2時間前に現地に到着です。

案外車で来る人は少ないらしく、駐車場はこの時間にはガラガラでした。

まず、デッキに出ていつもお馴染みの東京湾の光景を写真に撮ります。

8時なのに太陽がギラギラと照りつけ、ものすごい湿度。

「開洋丸」は水産庁の保有する漁業調査船で、もちろん現役です。
海保の観閲式で紹介した漁業取締船の「照洋丸」も昔は調査船でしたが、
今では「開洋丸」が現在水産庁が保有する唯一の大型漁業調査船です。

デッキに上ってみました。
「アルビオン」と一緒に公開されているのは掃海母艦「うらが」。

外国の軍艦が公開されるときには、必ず海自の艦がエスコートして、
このように仲良く並んで停泊しているのがいつものパターンです。

エスコート艦は横須賀地方総監部から派出されるようですが、
日本は強襲揚陸艦を持ちませんので、カウンターパート?として
大型の掃海母艦が選ばれたのかもしれません。

昨夜は夜間の電飾も行われたようです。
もしかしたら両艦の交流パーティなどもあったかもしれません。

甲板では早くも見学用の展示の用意が始まっています。

デッキの上から「うらが」の展示魚雷を撮っておきました。
阪神基地隊の「アイドルと学ぶ日本の海上防衛」のパネルディスカッションで、
基地隊司令がホワイトボードに描いていた機雷の絵を思い出してしまいました。

MN103機雷、「マンタ」の模型も展示していました。

「うらが」には去る5月の掃海隊殉職者追悼式の前夜、
高松港で行われた艦上レセプションでお世話になったばかり。

しかし、高松港で見るより艦隊が小さい気がする・・・。
これは、高松港と晴海埠頭の大きさの違いもありますが、
何と言っても・・・・・、

どおお〜〜〜〜ん。

と大きな強襲揚陸艦「アルビオン」が横にいるせいです。
この巨大な艦体と比べれば掃海母艦ですらスマートに見えてきます。

ほらね。

自家用艇が「アルビオン」の写真を撮りに近くに寄ってきていました。

デッキから見ていると、おお、女王陛下の海兵隊員の姿確認。
やっぱり強襲揚陸艦といえば海兵隊なんですね。

今調べたところ、揚陸要員は通常で310名、最大で710名搭載できるとか。
何しろ彼らはかつてあのノルマンジー上陸作戦にも参加してますからね。

ノルマンジーといえばあのオマハ・ビーチの死傷率があまりにも高く、
プライベートライアンなんかで戦後有名になりすぎて、英国とカナダは
参戦したことすらあまり語られない傾向にありますが。

それにしても、遠目にもさすがいいカラダしてるねえ君たち。

艦首側にはグレーのCIWS付き。

イギリスは近接戦闘用の兵器を国産していないので、
アメリカのレイセオン社製ファランクスを採用しています。

レドームが灰色なので、これは同社の最新型

Block1B BaseLine2

です。
砲身の右側には赤外線センサ(FLIR)を装備しています。

「アルビオン」艦首と艦橋。
艦首はバルバス・バウですが、海面から上のラインは直線的です。

見学者を受け入れる舷梯の前には見たことないオフロード車が!
これは

BVS 10 バイキング

という水陸両用車だそうで・・・こんなものが水に浮かぶのね。

遠くから見てもロイヤルマリーンの皆さんのガタイの良さとともに
肘から先にびっしりと刺青しているのがわかります。
袖を捲り上げることが多いので、ファッションで入れるみたいですね。

ところで自衛隊って、刺青入れてたらどうなるんですか?

海軍の艦艇のカラーは国によって全く違います。
日米は少し似ていますが、イギリスのグレーは日米より
若干明るくて薄く、少し青を加えたような色味です。

ところで模型界隈の常識ですが、昔は日本海軍も工廠によって
グレーの色合いが少しずつ違っていたそうですね。
こだわる人は、その色味の微妙な違いですら正確に再現するのだとか。

舷側にオフィサーの人影発見!

続いてブルーの作業服にベレーをかぶった乗員の姿も。
若いので水兵かと思ったら、階級章は大尉でした。

しかし、体のど真ん中に階級章とは・・・。

やっぱりあれかしら、遠くから階級章を見分けて、
敬礼されるのかするのか判断しやすいようにってこと?

ちなみにイギリスでは中尉の事を「サブ・ルテナント」というようです。

艦体にはライトアップするためらしいライトがたくさん突き出しています。
どうも標準装備みたいなんですが、なぜライトアップ?

この照明器具、航行中は畳んで艦体に添わせて置くことができるようです。

日本は揚陸艦を持たないので、この日のほとんどの見学者たちにとって、
「アルビオン」が生まれて初めて見るドック型揚陸艦になったことでしょう。

わたしはアメリカで「元揚陸艦でノルマンジーにも参加しました」
というフェリーにロングアイランドから乗ったことがありますが、
それもほとんど原型がわからないくらい改装されていましたし。

後ろのアンテナはイギリス国産製品で(BAE)

997型レーダーARTISAN 3D
Advanded Radar Target Indication Situational Awareness and Navigation)

といい、最近996型から換装されたそうです。
メーカーは

「900以上の標的を追尾可能な他、マッハ3で移動するゴルフボール大の標的も識別可能」

と豪語しているとか。

こちら、キッチン勤務の調理係らしい男女が乗艦していきます。

こちらは下士官かな?

さて、ここまでは朝現地に車を停めてデッキの上から撮った写真です。
この後、一階に降りてみたら、すでに何十人単位の列ができていました。

今から並んだら早く乗艦できるんだろうなー、と思いつつも、
あまりの気温の高さにその気力をすっかり無くし、車の中で
ギリギリまでクーラーをかけて時間をつぶしました。

誘ってくださった方が到着したのも待ち合わせ予定より10分遅く、
揚陸艦なんて大きいんだし、早く並んだって一緒だろう、と思ったのです。

が、その時には長蛇の列はこんなことに(笑)

列は早く進み、岸壁で待つことになりましたが、カバンの中をチェックするのに
各列一人しか人員を手配していないので、遅々として進みません。

太陽にジリジリとあぶられながら、

「こんなに待つのなら来てすぐ並んだ方がましだったかな」

と思うも、後の祭りです。
ただ、話し相手がいるのといないのでは全く時間の感じ方も違いました。

ふと上を見ると、海軍と海兵隊の比較的偉そうな軍人さんたちが
黒山の人だかりを上から眺めています。

この表情・・・ドン引きしてる?それか呆れてる?


ちなみに、「アルビオン」の一般公開にあたり、産経新聞は

英海軍のドック型揚陸艦「アルビオン」が3日、
東京・晴海埠頭に入港するにあたって、
在日英国大使館は
「ガンダムは搭載していません」と粋なツイートをした。

アルビオンは、人気アニメ「機動戦士ガンダム」シリーズに登場する
宇宙世紀0083年の宇宙・大気圏内両用強襲揚陸艦と同じ名前。

英国大使館のツイッターは1日、
「ガンダム0083は搭載していませんが、
たくさんの皆さんのお越しをお待ちしています」
とつぶやいた。

と報道しています。
このことは早速wikiの「アルビオン」のページにも掲載されていますが、

「ブリティッシュジョークを披露した」

って・・・。
確かにユーモアではあるけど、厳密には反体制的で皮肉、人種ネタを含む
いわゆるブリティッシュジョークではないような気がします。

英国大使館が我々を喜ばせるためにリップサービスしてくれたのは確かですが。

さあ、揚陸艦「アルビオン」の艦内で何を見るのかわたし?

続く。




ミッドウェイ戦闘機隊 vs.MiG〜空母「ミッドウェイ」博物館

2018-08-06 | 軍艦

 

空母「ミッドウェイ」飛行甲板の展示を順番にご紹介しています。
固定翼機をほとんど見たかなというところに、ファントムIIがありました。

「ミッドウェイ」は2度大改装を行なっていますが、そのうち一回は
主にジェット機搭載を可能にするためのものでした。

改造期間は2年。工事は艦席を一旦海軍から外して行われました。
前にお話ししましたが、最大の改造点はアングルデッキに変わったことです。

着艦する飛行機をメインのフライトデッキと角度を変えることにより、
たとえアレスティング・ケーブルをフックが引っ掛けることができなくとも
前に駐機している飛行機に突っ込むことなく飛び立つことができ、
何より離着艦の作業を同時に行うことができるようになりました。

という思想のもとに今の空母というのはああいう形になっているのですが、
我が「いずも」に航空機を搭載することになった時にどうするつもりなのか、
実はわたしはその点を大変気にしております。

この時に「ミッドウェイ」は改装に2年かけたと言いますから、例の
「日本人技術者マジチート」理論でいくと、たとえアングルドデッキへの変更でも
半年でやってしまうはずですが、さて、今はどうなんだろう。


冗談はともかく、この改装によって艦首にスチーム式のカタパルトをに2基、
アングルドデッキの先にも非常用を1基設けて、エレベーターを交換しました。

ファントムIIなどの大型になった艦載機に対応するためです。

改装後、艦席を海軍に戻した「ミッドウェイ」には、

VF-151 F-4ファントム戦闘機(ヴィジランテス)

VF-161 F-4ファントム戦闘機(チャージャズ)

という音速ジェット機部隊が乗り込むことになりました。
ちなみに爆撃機部隊は

VA-115 A-6イントルーダー攻撃機(イーグルス)

VA-56 A-7コルセア攻撃機(チャンプス)

VA-93 A-7コルセア攻撃機(ラヴェンズ)

の三部隊であり、あとはヘリ部隊、電子戦機、早期警戒機という陣容です。

世界最強と言われた機動部隊の最初の任務は、1958年、

中国が

台湾を解放するという理由のもとに

台湾隠岐の島を攻撃し

海上封鎖を行なった

(第二次台湾危機)

の時でした。
台湾危機という言葉すら初めて聞く、という方もおられるかもしれません。

1950年代から90年代にかけて中華人民共和国(中国大陸)と
中華民国(台湾)の間での軍事的緊張が高まった一連の出来事のことです。

この時なぜ中国が台湾を攻撃したかというと、アメリカとの軍事緊張を作ることで、
ソ連に原爆製造技術の供与を要請するためだったという説があります。

 

ハワイの真珠湾から台湾に直行した「ミッドウェイ」は、そこで
ワシントンからの中国攻撃命令を待ち続けました。

この時日本の元総理石橋と周恩来の会談が決裂していたら、
アメリカは戦闘態勢に入り、
そうなればソ連も台湾を攻撃することで
間違いなく第三次世界大戦、
しかも核戦争が起こっていただろうといわれています。


さて、ここまでは実際の戦闘を行わずにきた「ミッドウェイ」がいよいよ
実戦を経験したのは ベトナム戦争でした。

「ミッドウェイ」は当時最新鋭だったF-4ファントム戦闘機を載せて
フィリピン近海でオペレーションに参加することになります。

1965年3月。

戦闘機隊VF-21はビル・フランク艦長率いる「ミッドウェイ」の
一員として南東アジアに展開しました。

アメリカ人曰く北ベトナムに率いられた「コミュニスト」の暴動を抑える、
ということで展開された

「ローリング・サンダー作戦」

・・・・というより、わたしたちには

「北爆」

と一言で言った方がピンときます。

つまり南北に分かれた ベトナムを統一しようとして起こったもので、
ぶっちゃけ内戦ですが、アメリカが南ベトナム 支援のために介入したため、
長期の大戦争になってしまいました。 

 

北爆による空戦に最初に投入された迎撃戦闘機はF-4BファントムIIでした。

VF-21、通称「フリーランサー」に課せられたミッションは、
直ちに「攻撃ー爆撃」という前代未聞の二役機能をもつ
ファントムに適応し全員がこれに習熟すべし、というものでした。

1965年6月7日。
2機のVF-21のファントムが4機の北ベトナム軍のMiG-17と会敵しました。

ファントム部隊はそのうち2機をレーダー誘導中距離空対空ミサイル
AIM-7DIIIで撃墜することに成功しました。

これがベトナム戦争が始まって初めての敵航空機撃墜となりました。

最初に撃墜したのはルイス・C・ペイジ中佐と
右のジョン・C・スミス大尉のファントムです。

同じ空戦で二番目にMiG撃墜を果たした二人。
デイビス・ボストン大尉(右)とロバート・ドレムス少佐。

彼らの撃墜はベトナム戦争における最初の戦果であっただけでなく、
「ミッドウェイ」20年の歴史上で艦載機が果たした撃墜となり、さらには
ファントムという最新鋭機にとっても初記録となりました。

 

1966年2月。
まだまだ泥沼のベトナム戦争は続いていましたが、「ミッドウェイ」は
再び延命のための大掛かりな改造を受けることになりました。

15年寿命を延ばすという目的で行われたこの改造は4年に及び、
予算も膨れ上がって当初の二倍となる200億円以上となりました。

前にもこの大改造については述べましたが、あまりにお金がかかったので、
フランクリン・D・ルーズベルト」(CV-42)のために計画された
同様の近代化はやむなくキャンセルされたというくらいでした。

フライトデッキの大きさを前の1.4倍に大きくし、艦載機用のエレベータも
またまた取り替えて重い飛行機にも対応できるようにし、さらには
二基のカタパルトもパワーアップしたものに付け替えられたのですから当然。

この他にも、最新のエレクトロニクス機器を搭載したり、艦内の空調を
セントラル・エアー・コンディショニングにするなどの改造が加えられました。

本欄でもご紹介した「フォクスル」に、造船会社からの超豪華な
改造工事完成記念のプラークが飾ってありましたが、つまりあれは
これだけ儲けさせてくれて神様仏様ミッドウェイ、の証だったわけです。

ますます大型化していく搭載機をにらんだ改装でしたが、
それでもF-14トムキャットを搭載することは最後までできませんでした。

 

この「ミッドウェイ」の大改造が終了したのは1970年のことです。
翌年の1971年から、まだ続いていたベトナム戦争に復帰しました。

1972年4月。

ウェイン・オコネル艦長率いる「ミッドウェイ」は、再び南東アジアに展開しました。

アメリカ第7空軍とアメリカ海軍第77任務部隊がおこなった一連の
航空作戦「オペレーション・ラインバッカー」に参加するためです。

北ベトナム空軍にアメリカ軍の戦争捕虜を解放させること、そして
終戦に向けての方法を探ることが目的だった、と現地の説明にはありますが、
一応ウィキの説明も書いておくと、北に送られる物資を停滞させるためでした。

12ヶ月の間、ハイテンポで敵への攻撃作戦が繰り出され、
「ミッドウェイ」の艦載機部隊VF-161「チャージャーズ」はその空戦で
驚くべき戦果を達成することになります。

5月18日、MiG−19を撃墜したO・ブラウンとヘンリー・バーソロミー大尉、
同日やはり撃墜したP・アーウッド、J・ベル大尉の四人。 

18 MAY

72

MiG-19

VF-161

Chargers

F-4B

Phantom II

AIM-9

Sidewinder

LT H. A. Bartholomay

LT O. R. Brown

 

18 MAY

72

MiG-19

VF-161

Chargers

F-4B

Phantom II

AIM-9

Sidewinder

LT P. E. Arwood

LT J. M. Bell

 

23 MAY

72

MiG-17

VF-161

Chargers

F-4B

Phantom II

AIM-9

Sidewinder

LCDR R. E. McKeown

LT J. C. Ensch

First of two kills on the same day

23 MAY

72

MiG-17

VF-161

Chargers

F-4B

Phantom II

AIM-9

Sidewinder

LCDR R. E. McKeown

LT J. C. Ensch

Second of two kills on the same day

12 JAN

73

MiG-17

VF-161

Chargers

F-4B

Phantom II

AIM-9

Sidewinder

LT V. T. Kovaleski

LT J. A. Wise

Last air-to-air kill of the Vietnam

この時期のファントムの撃墜記録が表になっていたのであげておきます。

 

1972年の5月23日に大金星を挙げた二人、
マッケオン少佐(左端)とエンッシュ大尉(そのとなり)。

1日に二機のMiG−17を撃墜しました。

1973年1月12日、「ベトナム戦争における最後の空戦」においてMiG17を撃墜した
コワルスキ大尉(左から二番目)とワイズ大尉(その右)。

一番左は「ミッドウェイ」艦長フォーリー中佐です。

この空戦がベトナム戦争の最後の空戦になったのは、三日後の1月15日、
ベトナムとの停戦協定が調印され、戦争が終結したからでした。

最後の撃墜を決めたコワルスキ&ワイズのファントムであるというペイント入り。

ベトナム戦争「最初」と「最後」の撃墜を果たした「ミッドウェイ」戦闘機隊は、
戦後海軍最高の部隊として、その功績を讃えられ表彰されています。

そこでもう一度岸壁から見上げた「ミッドウェイ」艦橋の写真を見てください。
これで、マーキングされた飛行機のシルエットの意味がわかりましたね。

つまりこれは撃墜したMiGの数なのです。

ファントムのスプリットベーンにも撃墜したMiG8機がが描かれています。

ベトナム戦争中撃墜されたMiGの総数は63機。
そのうち海軍航空隊によるものが20機であったことを考えると、
ベトナム戦争途中で4年間も改修のため参加していなかった
「ミッドウェイ」戦闘機隊の実力が図抜けていたかということです。

しかし、そのために払った犠牲も決して少ないものではありませんでした。
海軍の航空機損害は 合計54機。
そのうち戦闘での損失は43機。

F-4B/J ファントムII 8機(+3の非戦闘損失)
A-7A/C/E コルセアII 22機(+3の非戦闘損失)
A-6A イントルーダー 3機
F-8J クルセイダー 2機(+3の非戦闘損失)
A-4F スカイホーク 5機(+1の非戦闘損失)
RA-5C ヴィジランティ 1機
RF-8G 2機(+1の非戦闘損失)

「ミッドウェイ」は同年3月サンフランシスコのアラメダ海軍基地に戻りましたが、
その艦載機部隊は多くのパイロットを失ったのでした。

 

 

続く。

 


600隻艦隊構想「彼女が延命された理由(わけ)」〜空母「ミッドウェイ」博物館

2018-08-04 | 軍艦

 

 Lockheed S-3 「バイキング」Viking 

艦上対潜哨戒機「トラッカー」S-2の後継機となるS-3「バイキング」は
アメリカ海軍初のジェット式対潜哨戒機です。

ちなみにプロペラ機時代の対潜哨戒機というのは2機1組になって行う

「ハンター・キラー・システム」(1機がレーダーで水上目標捜索を行い、もう1機が攻撃)

を用いていたのですが、1機で行えるようにした最初の対潜哨戒機がS-2です。

遠くからこうして全体を眺めて見ると、ペイントがそのままのせいもありますが、
どうも全体的にずんぐりとしてスマートとはとても言い難い機体の形をしています。
これは「ヴァイキング」の胴体が輪切りにするとほぼ四角形をしているからです。


機体の底から海面に投下して対潜哨戒を行うソノブイの穴が空いているという
P-3でおなじみのシステムはもうすでに「ヴァイキング」に搭載されています。


コクピットにはちゃんと誰か座っているという設定です。
Daniel D Beintema少佐、と名前が記してありますが、検索すると
元海軍パイロットで、今ではUSS「ミッドウェイ」の運営に力を持っているとかなんとか。

コクピットガラスの下の名前は

Bruce  W. Chuchill 大尉

とありますが、この人は検索にはかかってきませんでした。

博物館に貢献してくれた元パイロットの名前を感謝の意を込めてこのように
機体にペイントして残す、という慣習があるのかと思われます。

艦載機として設計されているので、翼は畳んで収納できるようになっています。
翼の中身がどうなっているのかこの展示を見ればわかります。

パイロンに牽引しているのはサイドワインダーでしょうか。

ピトー管に注目してみました。
ピトー管は流体の動きを測定することで航空機の速度を中にいながら知る仕組みです。
特にジェット機では速度がわからないと着陸することができなくなるため、
ピトー管のマスキングは飛行前に必ず外さなくてはなりません。

赤い「フライト前に外す」と記されたテープはこの確認のために付いています。


国内自衛隊の飛行機のメンテなどをする会社に見学に行った時、
どうしてピトー管が二つないといけないのか聞いてみたことがあります。

答えは

「一つだと万が一一つがダメになった時にこまるから」

というものでしたが、今ウィキで調べたら

「横風の影響を考慮して補正した数字を出すため」

であることがわかりました。
多分どちらも正しい理由なんだと思います。

「バイキング」は省スペースを目標に作られていて、例えばディスプレイも
様々なセンサーから上がってくるデータを同時に解析することができます。

そして例えば潜水艦がウロウロ(プラウリング)しているといったような
重要な局面に対処するため、翼とターボファンエンジンの組み合わせは
クルーズコントロールを容易にしました。

レーダー、ソノブイ、時期検出器、電子探査機、そして魚雷。

 S-3は空母機動隊の対潜戦を驚異的に強固にしたといえましょう。

 

ところで、「ミッドウェイ」が湾岸戦争に参加したときのこと。

ペルシャ湾で海戦を迎えた「ミッドウェイ」が緊張と次々に飛び立つ
哨戒艦載機のための飛行作業でクタクタになっている最中、一機のバイキングが
後方から近づいて来ました。

「ミッドウェイ」にはバイキングの飛行隊はありません。

しかもこのとき「ミッドウェイ」は敵に電波をキャッチされないように
EMCON(電波を使わないで通信するシステム)になっていました。


エアボス「スキッパー、(艦長)バイキングが着艦しようとしているが
一体どうなっているんだろう」

艦長「全くわからん。仕方ない、緊急着陸態勢を取ろう」


パイロットと通信ができないので、とにかく着艦の準備が取られました。
近づいて来るバイキングに、LSO(着艦のためアプローチする航空機に
高度などの態勢を指示する役目の白ジャージ)が

「高度を下げろ」

と何度も指示を出すも、高度を下げられなかったのかアレスティングケーブルに
フックをかけることができなかったバイキングはフルスロットルで飛び立ち、
もう一度着艦に挑戦しようと、ランディング・パターンに入りました。

「あいつは一体誰だ?
なぜミッドウェイに降りようとしてるんだ?」

最初のランディングをミスして、もう一度ランディング・パターンに入った直後、
エアボス(大佐。フライトオペレーションの総責任者)は、「ミッドウェイ」近くで
フライト・オペレーションをしていた別の空母の管制周波数を捉え、
送信はできないものの、管制官とパイロットの会話を受信しました。

そこで交わされていた会話は・・・

「バイキング、今どこにいる?報告せよ」

「どこにって、ファイナルです。
私の目の前がフライトデッキです!着艦します!」

「何言ってるんだ!お前の機を目視できてない。
ウェイブ・オフ!ウェイブ・オフ!

バイキングのパイロットは自分の空母を間違えたのでした。

「ミッドウェイ」のサイズや煙突から出ている煙を見れば、
自分が降りるはずの
原子力空母とは全く違うことは一目瞭然なのですが、
どうやら彼は極度の疲労で判断不能に陥っていたらしいのです。

(スコット・マクゴー著’ミッドウェイ・マジック’)

湾岸戦争の時、艦載機部隊のパイロットは、対戦哨戒の他にも、
ネイビーシールズを輸送したり、イラク兵の捕虜を運んだりと、飛び続けました。

フライトから飛行機が戻って来ると、エンジンを回したまま給油し、
パイロットと乗員が入れ替わってまた飛ぶという状態が続いたのです。
これを「ホットシート」フライトと呼んでいたそうです。
シートが冷える暇もない、ということですね。

疲労困憊したパイロットは、飛行が終わるとフライトバッグとヘルメットを持って
ふらふらとフライトデッキを降りていき、どこか適当なところで
横になって寝てしまうので、時間になったらそれを起こしてまた乗せて・・・。

この時艦を間違えた原子力空母艦載のバイキングのパイロットも同じ様態で、
もしかしたら着艦作業の時にすでに疲労で朦朧としていたのかもしれません。

そのせいなのかどうか、やはり湾岸戦争中航空機の事故は何件か起こりました。
しかし、「ミッドウェイ」だけは湾岸戦争中一機の事故も起こさず、
一機も艦載機を失うことはありませんでした。

これはまさに「ミッドウェイ・マジック」だったと言えましょう。


ところでついでにお話ししておくと、「ミッドウェイ・マジック」とは、
1945年から退役の1992年まで、丸々47年間というもの、
ベトナム戦争、そして湾岸戦争という二つの戦争を挟んで試験や哨戒、
そしてピナツボ火山噴火などの災害派遣をことごとく無事にこなし、しかも
海外を(ってそれは日本だったりするわけですが)母港にして18年間、
一度もアメリカ本土に帰ることがなかった稀有なこの空母を讃えた尊称です。

長年日本でその任務を果たしてきたため、彼女は

「Tip Of The Sword」(剣の切っ先)

とも呼ばれていました。

老齢になってもなかなか引退せず、他の同時期に就役した空母艦船が
ほとんどくず鉄になってしまった頃に、わざわざ日本で改造を施してまで
彼女が延命させられていたその理由は、1989年、アメリカ海軍がソ連海軍に対抗して

600隻艦隊構想(600-ship Navy initiative15)

艦艇600隻、15個航空機動群、4個水上打撃群という編成を謳った
キャンペーンが繰り広げられた時期が、ちょうど彼女が引退するかどうか、
という時期と重なっていたからでした。

この構想が打ち出された時、米海軍の艦艇数は475隻しかなく、
目標までのあと二割をどう確保するかという問題が生じます。
そこで、原子力空母の建造を急ぐとともに、船の形をしていればなんでも、
とまでは言いませんが、古い軍艦を引っ張り出して来るしかない、
とアメリカ海軍は考えました。

映画「バトルシップ」で、主人公が記念艦「ミズーリ」を復活させていましたが
あれを地でやってのけたのです。

嘘みたいな話ですが、本当にモスボールされていたアイオワ級戦艦

アイオワ」「ニュージャージー」「ミズーリ」「ウィスコンシン

に、トマホークとハープーンを積んで、現役復活させたのでした。

そこまでやったのですから、40歳過ぎた「ミッドウェイ」を延命し、
次の空母が完成するまでのつなぎにするなど余裕です。

というわけで、その後継となる予定の

原子力空母「ジョン・C・ステニス」CVN-74

の1997年就役まで保たせるために「ミッドウェイ」は日本で延命工事を受けました。

この1986年の改修は今でも関係者の語り草となっています。

アメリカ国内で行えば確実に2年はかかると言われた大改造を、
日本の技術者たちは予算をオーバーすることなく半年でやってのけたのです。
これには当時「ミッドウェイ」の艦長であった

ライリー・ミクソンRaily Mixon)

も度肝を抜かれ、日本の技術力の高さに驚きました。

皆さんも、もし「ミッドウェイ」を見学することがあったらその少なくない部分が
メイド・イン・ジャパンであることを思い出してください。


しかし、好事魔多し。

もともと、度重なる改修のおかげで船体がすっかり重くなり、
艦尾が艦首より低く沈んでしまい、その結果飛行甲板が
艦尾から艦首にかけて緩やかな坂になってしまっていたことで、
特にファントムIIの着艦の安全性に問題が生じていた、というのが改装の理由です。

もともと「ミッドウェイ」は

「USSロックンロール」

とあだ名がつくほどよく揺れ、少し波が荒れただけでも動揺が大きくて、
大型化する艦載機に対応できなくなってきたという事情もありました。

そのため、不要なて配線や鉄を撤去して艦隊の重さを400トン減らし、
代わりに船体側面に浮力を増すためのバルジ(ブリスター)を追加して揺れを減らし、
浮力を増すという計画に則って行われたのが今回の改装です。

次期F/A-18の運用に備えて、カタパルトを強化する工事も行ないました。

 

いよいよ改装が終わり、勇んで外洋に出るため横須賀をでた「ミッドウェイ」、
ところが湾を出た途端に1mの波で揺れだしたのです。

艦載機が1機も乗っていない状態で、しかもこんな小さな波で揺れるなんて・・。
ミクソン艦長はこの揺れを感知した時、同時に身の毛がよだったと言います。

改造を設計したアメリカ人技師は、

「プロジェクトを急いでいたので十分に設計する時間がなかった」

と説明(言い訳?)したそうですが、とにかく揺れは前よりも酷くなってしまったのです。

これで前より仕事が大変になったのがパイロットとLSOでした。
揺れる甲板に着艦するパイロット、着艦をパイロットに指示するLSO、
どちらも命の縮む思いをすることが増えたと思われます。


そして揺れやすくなった「ミッドウェイ」、初の長期航海でご丁寧にも
4つの台風に遭遇し、そのうちルソン島での強風では、それまでの人生で
初めての揺れ角度24度を記録し、達成記念Tシャツが作られることになりました。

ただ悪いことだけではなく、プリスター(付け足したコンパートメント)のおかげか
浮力が増し、小回りが利くようになったということです。

(ジロミ・スミス著『空母ミッドウェイ』)

ちなみに、4分の1の工期で改修を完璧にやり遂げた日本の技術陣は、
工事の段階で

このこと(改装後揺れが酷くなるであろうこと)に気が付いていた

といわれています((((;゚Д゚)))))))


「しかしこんな改装して大丈夫なのかね」

「一体何考えてるんだろうな、アメさんは」

「まあ、俺たちは頼まれた仕事を1日でも早く完璧にこなすだけさ」

「そうだ、この際我々の技術力の高さを見せつけてやろうぜ」(キリッ)

みたいな会話もあったんでしょうなー、きっと。


そして最後に。

「ステニス」就役までは引退できないはずだった「ミッドウェイ」が
92年に引退することができた理由は、実にシンプルでした。

1991年、ソビエト連邦が崩壊し、冷戦が終わったからです。

 

続く。

 

 

 

 

 


スピットファイアー・ガール〜メアリー・エリス

2018-08-03 | 飛行家列伝

先日、久しぶりに婆娑羅大将からコメント欄に通信をいただきました。

ご無沙汰しております。
こんな記事と写真が流れてました。


Spitfire Short@SpitfireShort

I am sad to report the death of ATA Association Commodore
& First Officer 'Spitfire Girl' Mary Wilkins Ellis. Aged 101,
she flew 400 Spitfires and 76 different types of aircraft during WW2,
died this morning at her home on the Isle if Wight. 

第二次世界大戦中、イギリス空軍の飛行機を工場から前線基地まで運んだのは
輸補助部隊(ATA)のパイロットたちでした。

彼らが操縦したのは戦闘機から爆撃機、輸送機などあらゆる種類の軍用機、
 
ハーバードハリケーンスピットファイア , ウェリントン爆撃機

などですが、ATTAの女性パイロットはその中の一機の名前を取って

「スピットファイア・ガールズ」

と呼ばれていました。
スピットファイアーガールズの最後の一人で、
先日7月24日101歳で亡くなったその人の名はメアリー・エリス

婆娑羅大将はこのエリスという名前に反応?して情報を下さったようです。
アメリカの女性航空士官について調べたことがあるわたしも、
イギリス空軍の輸送部隊に女性がいたことまでは全く知りませんでした。

ところで、このエリスさんが93歳の時に後席とはいえ、
スピットファイアの操縦席に乗る様子がyoutubeに残されています。

Spitfire Girl

前席の女性パイロット、キャロリンは1:48のところでメアリーに操縦桿を任せます。

"You have control, you have control !"

再びコントロールを取ったキャロリンはメアリーのために空中で回転を行い、
メアリーはわっはっは、と豪快に笑っております。
彼女も乗る前に「65年ぶり」と言っていたはず。
一般の93歳の女性ではこうはいかないでしょう。

 

メアリー・ウィルキンス、のちのエリスは1917年農家に生まれ、
幼い時から飛行機に憧れていました。
彼女の実家の隣にはロイヤル・エアフォースの基地があったのです。

11歳の時、両親に連れていかれたサーカスで、複葉機での
「ジョイ・ライド」を体験し、すっかり飛行機に夢中になった彼女は、
操縦を学び自分で操縦して空を飛びたいと熱望するようになりました。

16歳になった時、飛行クラブでレッスンを始め、免許を取得し、
世界大戦が始まるまでは民間でパイロットとして仕事をしていました。

そして1941年、彼女はATA (Air Transport Auxiliary、補助航空輸送部隊)
に熱望の末めでたく入隊しました。
冒頭に描いたメアリー・エリスの左胸の徽章に「T」が見えますが、
これは同部隊のウィングマークです。

軍組織に所属しているエリスさん、ということは、もしかしたら
「エリス中尉」が実在したのか?と期待しますよね。
(わたしだけだと思いますが)

しかし残念ながら、ATAはあくまでもシビリアン・オーガニゼーション、
民間組織なので、パイロットに軍の階級は与えられておりません。

ただ、冒頭の死亡記事では彼女の階級を

「ファースト・オフィサー」(First Officer)

としていますが、これはRAF(王立空軍)でいうと、
ファースト・ルテナント(大尉)相当ですから、こちらは
「エリス大尉」(もちろん中尉相当だったこともあるはず)です。

 

ところで前述の通りATAのパイロットは男性だけではありませんでした。

男性の場合、資格が「正規軍のパイロットになれない人」だったので、
元パイロット、つまり片手片足、あるいは片目を失った、
というような人材で部隊は構成されることになりました。

そのため、彼らを

ATA="Ancient and Tattered Airmen"(老&害航空隊?)

と揶揄する向きもあったそうです。

昔、当ブログでは空港での暗号を間違えたためにイギリス軍によって
機を撃墜され死亡した女性パイロットについて書いたことがあります。
彼女、

エイミー・ジョンソン

もATAのファーストオフィサーでした。

ATAにおいてメアリー・エリスは大戦中、76種類の飛行機、
のべ1000機を、生産工場から航空隊に輸送しています。

 

アメリカでもそうでしたが、イギリスでも、女性パイロットは
国内の輸送だけを担当し、危険な前線への輸送は男性飛行士が行いました。

さらに、ジュネーブ条約に則って、一般市民と女性からなるATTAが輸送する機には
武器は搭載できないことになっていたのですが、一度輸送中の機体が
ドイツ軍に撃墜されたあと、王立空軍輸送隊に限り銃が積まれました。

それでも前線への航空機輸送は敵に狙い撃ちされることも多く、
戦時中には174名もの男性パイロットがドイツ軍に撃墜され戦死しています。


さてところで、ATAの女性パイロットは「ATAガールズ」と呼ばれていました。
(スピットファイアーガールズはその派生系ではないかと思います)

 

中でも有名になったATAガールズを何人かご紹介しましょう。

ポーリン・ゴアー司令(Pauline Mary de Peauly Gower Fahie 1910-1947)

ATAを組織し、自らその司令になったゴアー司令が集めた最初のメンバー8名には
エイミー・ジョンソンのほか、オリンピックのスキー選手ルイス・バトラー
アイスホッケーの選手、貴族で政治家の娘、元バレエダンサーなどがいました。

マリオン・ウィルバーフォース( Marion Wilberforce 1902-1995)

彼女もゴアー司令が選んだ最初の8人の一人で、副司令でした。
インテリで投資家、柔道をしていたという一面もある彼女は、
80歳まで空を飛び続けました。

撃墜されたエイミー・ジョンソンは彼女の同僚だったので、彼女は
エイミーの死後何かとコメントを求められましたが、実は彼女、
エイミーについては実力の割に有名すぎじゃないの?と思っていたようです。

よくあることですが、エイミーは若くして非業の死を遂げたので、
ただでさえ高かった
名声は不動のものになってしまい、
実力派を任ずる彼女にとってはこのことが面白くなかったのでしょう。

モーリン・アデール・チェイス・ダンロップ・デ・ポップ
Maureen Adele Chase Dunlop de Popp
 (1920-2012)

いわゆる美人枠?

というわけではなく、ATAは同盟国から国籍を問わず搭乗員を募集し、
いわば「外人部隊」の一面もあったのです。
モーリーン・ダンロップもブエノスアイレス出身です。

この写真はモデルを依頼されてポーズをつけたものではありません。
彼女がフェアリー・バラクーダ艦上雷撃機を輸送し終わってコクピットから降り、
ギアを外して髪をかきあげた瞬間をカメラマンが撮ったのです。

この瞬間彼女はカバーガールとしても有名になりました。

彼女のような存在は、女性パイロットの存在を世間に広く知らしめました。
その美しさで彼女らもまた参戦したのです。

ディアナ・バーナート・ウォーカー
Diana Barnato Walker MBE FRAeS (1918−2008)

名前の後ろにずらずらとついているのは彼女のタイトルで、
MBEは大英帝国勲章の受賞者であること、FRAeS は
王立宇宙航空学会のフェローシップを持っていることを意味します。

外国人がいるかと思えば、とんでもない富豪の令嬢もいたのがATA。

ディアナ・ウォーカーは18歳の時、エドワード8世国王の主催する舞踏会で
デビュタントとして社交界デビューを行なっています。

父親はベントレーの会長、祖父はヨハネスブルグでダイヤモンドを発掘していた
デビアスの創始者で、母方の祖父母は有名な株式仲買人。
両親は結婚式をリッツ・カールトンで挙げています。
また、恋多き父親の再婚相手は炭鉱の所有者一族の出といった具合。

戦争が始まって、彼女は看護士の資格を取ります。
そして、さらにATAの訓練を受け、輸送パイロットになり、

スピットファイアハリケーンムスタングテンペスト

などの戦闘機を運ぶだけの技量を身につけました。

特に彼女が輸送したスピットファイアは260機に上るといいますから、
彼女こそが「スピットファイア・ガール」と言うべきかもしれません。

ちなみに彼女は戦後もテストパイロットを続け、

イングリッシュ・エレクトリックライトニング戦闘機

でイギリス女性として初めて音速を超えたパイロットとなりました。

これらの経歴を見ると順風満帆の栄光ある人生を送ったように見えますが、
実は彼女はその連れ合いを一度ならず2度までも航空機事故で失っています。

婚約者だった部隊長のハンフリー・ギルバートは乗っていたスピットファイアが
農場に墜落して殉職、2年後に彼女は今度は王立空軍の輸送隊司令官、
デレク・ウォーカーと結婚するのですが、デレクも程なくムスタング輸送中、
撃墜されてこちらは戦死してしまいます。

わたしと結婚しようとする男は飛行機で死んでしまうんだわ!

と思ったからかどうか知りませんが、彼女はその後の人生、
結婚しないことを誓い、(と言うことになっています。
本人がそういったのでしょうか)次の恋人、レーシングパイロットの
ホイットニー・ストレートはなんと妻帯者でした。

男の方も伯爵の娘である妻と離婚する気など全くなかったようですが、
愛人であるディアナとの関係は結構おおっぴらにしていたようで、
二人の間には子供もあったということです。

「わたしは完璧に満たされていた」

とご本人は言っておられますが、さてストレートの奥さんの立場は?

ヘレン・ケリー Helen Kerly (1916–1992年)

この人も美人枠かしら。
というか、美人だから名前が残っているとも言えますね。

彼女は輸送隊で主に戦闘機スピットファイアを輸送し、
戦時中に叙勲された二人の女性パイロットのうちの一人になりました。


ところで、最後に。

ATAの女性パイロットが日本のTV番組(NHKBS)で紹介されたそうですが、
その番宣記事というのが、なんというか、ひどいです。

差別を乗り越え、危険を承知で飛び続けた女性たちのうち、
10人に一人が命を落としたという。

プライド高き空軍の男性パイロットたちが女性の実力を認めたがらなかった反面、
多くの軍人をボーイフレンドにして浮き名を流したパイロットもいたという。

まあ、色々といいたいことはあるけど、まず「差別」が真っ先に来るのはどうなのよ。
それから二番目の構文、前段に対する後段が全く「反面」になってないんですが。

観てもいないので、この番組のいう差別というのが具体的に何かはわかりませんが、
どうせ何か男性パイロットから嫌がらせを受けたとかいうことだと思います。

しかしね。

言わせてもらえば、女子航空隊そのものが、国内の輸送に任務を制限されていて、
その大前提として差別(というより区別)の上に成り立っていたわけですよ。

だから、「差別を乗り越えて」なんて構図はそもそも存在しないのよ。
もう、頼むからスイカに塩の手法でお手盛りの紹介するのやめてくれんかな。

しかも賃金について、こんな事実もあります。

ATAに所属したアメリカのジャクリーン・コクランは帰国後、
女子航空隊WASPを創立することに尽力しましたが、そのWASPでは
女性パイロットの給料は男性の65パーセントに留まったのに、
ATAでは男性と全く同等の給料が支払われていたというのです。

ますます乗り越えるべき差別(感情的なものでなく公的な)が
本当にあったのか、と問いたくなりますね。

まあ、昨今のテレビなど、オールドメディア界隈では

「自分が差別だと思えば差別」

らしいので、弱者強者の二元論で言う所の「弱者の側」は差別されていた、
と括ってしまう方が(ドラマとして)美味しいのかもしれませんけど。

さらに文中「10人に一人が命を失った」とあり、実際にも
ATAは全体で15名の女性パイロットの殉職者をだしています。

女性パイロットの総数が168名だったわけですから、10人に一人、
というのはまあ間違ってはいないわけですが、これもなんだかね。

 ちなみにATAの男性パイロットの総数は1152名、先ほども書いたように
そのうち亡くなったのが174名ですから、こちらは6.6人に一人となります。

差別だなんだいう前に、ちゃんとこちらも報じて欲しいですね。


と最後は案の定NHK批判になりましたが、今回RAFの女性パイロットについて
知るきっかけを頂きました
婆娑羅大将に御礼申し上げてこの項を終わります。

 

 

 

 


護衛艦「さざなみ」見学〜平成30年阪神基地隊サマーフェスタ

2018-08-02 | 自衛隊

阪神基地隊で行われたサマーフェスタシリーズ、最終回です。

サマーフェスタというイベントに行くのは今回初めてだったのですが、
暑さに考慮しているのか開催は2時までとなっていました。

わたしは「ちはや」見学の後、プールにラジコン潜水艦を観に行き、
移動の合間には野外ステージのパフォーマンスも聴きながら、
精力的に?イベント消化をこなし、最後の「さざなみ」見学に向かいました。

「さざなみ」と同じ岸壁には掃海艇の「なおしま」もいました。
「なおしま」は以前の訪問で見学を済ませているので、今回はもし
「さざなみ」の見学が終わって気力と時間が残っていたら、ということで
前を通り過ぎました。

「なおしま」では見学も受け付けていて、混雑した場合を考えて
後甲板から乗艇させて舷梯から降りるというコースを設けていたようですが、
ご覧のように入場者は若干遠慮気味。

人がいないところに自分が率先して入って行くのをなんとなく避ける
日本人気質(他の国のことは知りませんが多分)ってやつでしょうか。

「さざなみ」の艦首部分では撮影会状態。

「さざなみ」のイメージキャラクター、金太郎ならぬ「漣太郎」、
さざなみたろうの顔出しパネルも用意されていました。

もちろんモデルは金太郎。

金太郎のイメージは気は優しくて力持ちですが、「さざなみ」には
海上自衛隊で初めて民生品が採用されています。

これは強力であると同時に操作性に優れ、オペレーターにとって
使いやすく優しいシステムであることとかけています。

「太郎」は長男につける名前です。(イチローは長男ではないらしいですが)
民生品システム採用の1号艦、つまり長男であるという意味もあります。

漣太郎くんと名前通りのさざなみのモチーフの描かれたバナー。
舷梯の下には三人が待機するというのが基本みたいですね。

見学路はまず前甲板から。

前甲板越しに臨む六甲山脈と神戸港。

画面で見ると爽やかですが、実際は湿気で物凄い不快指数です。

主砲の周りには乗員(幹部と曹クラス一人ずつ)の説明を聞くために
いつも人が集まっています。

「さざなみ」の主砲はオトー・メララ54口径127ミリ速射砲、
対空、対水上目標に対し用途に合わせた弾薬を選択して発射します。

自衛隊では「こんごう」型、この「たかなみ」型に搭載されています。

いろんな自衛艦で主砲を見ましたが、砲塔の砲身両脇に梯子がついて
上に登れるようになっているタイプは初めてのような気がします。

なんのために階段があって上で何をするのか、調べてもわかりません。
現場で聞けばよかった・・。

弾薬と薬莢?が並べて展示してありました。

「さざなみ」の127ミリ砲は基本無人操作です。
砲塔内は無人化されていますが、下部揚弾ホイストへの給弾は人力で行うので、
この弾薬を手で抱えて給弾する役目の人が二人配置されています。

最大発射速度で発砲する場合、砲塔には8名が配置されます。

砲弾に書かれている文字に

ダイキン工業(株)

の名前発見。
ダイキンといえばエアコン、と世間の人は思いがちです。
というか、エアコンの生産ではアメリカのキャリアを抜いて世界一位である
このダイキン、エアコンの他にもフッ素化学の分野でも高いシェアを持ちますが、
元はと言えばダイキン、大阪金属工業として創立当初、軍需産業として

伊号潜水艦の空調

を手がけていた経歴を持ちます。
なんと伊潜、冷房付きだったんですね。
南方に展開させるために空調は必須だったようですが、
それでも艦内は
30度にはなったそうです。

ところで先ほど体育館のプールを泳いでいたU-boat、冷房は知りませんが、
手塚治虫の「アドルフに告ぐ」によると暖房はなかったみたいです。


ウィキによると、ダイキンが砲弾を作り始めたのは昭和26年となっています。

朝鮮戦争が始まって1年以内であり、陸上自衛隊の前身である
警察予備隊はすでに組織されていた頃に当たります。

空調機械と砲弾がどう結びつくのかというと、

砲弾連射の熱換気装置を作るよう海軍から依頼があり、
その技術がエアコンに活かされた

ということなので、エアコンが先ではなく砲弾が先のはず、つまり
大阪金属時代の戦争中に砲弾を作っていたはずなのですが、
なぜかダイキン工業のHPにはその辺の社史は割愛されています。

まあ、こういうのはブラザーミシンなど、軍需に関わったが、
戦後はそんなことはなかったというふりをしている企業に
ありがちな傾向なので別に驚きません。

軍需産業だからといって今頃目の敵にするパヨっちも世の中には多いので、
「雉も鳴かずに射たれまい」としているのかもしれませんね。

ダイキンは軍需産業だから不買!のループ

ちょっと面白かったので。
ここのコメントにもありますが、それをインターネットで呟くことの馬鹿馬鹿しさよ(笑)

ちなみに現在、防衛省向けにダイキンは以下の装備を納入していますが、

96式40mm自動てき弾銃用擲弾
06式小銃てき弾
120mm戦車砲弾
105mm戦車砲弾
84mm無反動砲弾
81mm迫撃砲弾
120mm迫撃砲弾
155mmりゅう弾砲弾
50口径5インチ砲弾薬包(127mm速射砲弾)
62口径76mm砲弾薬包(76mm速射砲弾)

これって、陸海自衛隊の砲弾のほとんどなんじゃあ・・・。

「さざなみ」は昨年、「ロナルド・レーガン」を含むアメリカ艦隊と自衛艦隊の
共同訓練を南方海域で行なっています。

また、創作では架空戦記「超空自衛隊」に出演しております。
災害派遣派出中の「さざなみ」が補給艦「おおすみ」らとともに
大東亜戦争中の過去にタイムスリップするというよくある話ですが、
特異なのがタイムスリップした主流艦が「おおすみ」、補給艦であること。

つまり、戦闘ではなく近代的な後方支援が当時の日本軍に行われたとしたら
あの戦局はどうなっていたでしょう、という話らしいです。

これ面白そうだけど、誰か読んだ方おられませんか。

左舷沿いに見学路を後ろに進んでいくと上部に見えてくるのが
90式艦対艦誘導弾。

SSM-1Bは「むらさめ」以降の護衛艦の必需品で、「あさひ型」にも搭載されています。

ころで、七隻目のイージス艦は「まや」でしたね。
神戸出身としては嬉しい限りです。

わたしは進水式に出席される方から前の日に模型写真付きで

27DDG、順番だと「なち」「はぐろ」「たかお」「まや」あたりでしょうが、
兵庫県民の元気が出そうな名前だとの事前情報を頂いています(笑)

というメールを頂いており、事前にまやであることは知っていました。
前日に知っていたからといって威張ることでもありませんが。

 HOS-32(三連装短魚雷発射管)は両舷に1基ずつ装備されています。

後甲板にはヘリコプターがローターを広げたままで展示されていて、
両側ドアからコクピットに座らせるサービスをしていました。
コクピットには座ったことがあるので列に並びはしませんでしたが、
この写真で後部も公開していたことに気がつきました。見に行けばよかった。

護衛艦というのはメカは内部に集中しているため「ちはや」のように
見学順路でメカメカしい(by・unknownさん)内部に興奮、ということがありません。

そこで格納庫でのラッパ展示や装備などの紹介イベントが行われるわけですが、
ここでは耐火スーツの着用体験ができます。

もう少し涼しかったらそういう気にもなるかもしれんけど、この時の気温では、
着ている人を「よくやるなあ」と感心してただ見るだけ。

ラッパの展示を終わった後は、なんと!
見学者に実際にラッパを体験するという大サービス中でした。

信号ラッパはバルブがなく、息で高さを調節するというのは知っていて、
ただ全く吹いたことはないのでどんなものだろうと興味はありましたが、
人の楽器を吹く勇気が、わたしにはどうしても出ませんでした。

子供と話すときには子供の目の高さでね!

こちらでは救急救命の実践的指導を受けられます。

AEDの使い方を覚えられるコーナーのようですね。

自動体外式除細動器は心停止をした人に行われる救急救命装置で、
救急車到着の間までにこれを使うことで助かる命も増えたということです。


各地の消防本部や日本赤十字社の都道府県支部、または
病院や保健所で講習会が行われているそうですが、サマーフェスタの
艦艇見学で講習が受けられるなんてお得だと思いませんか。


そのとき実習希望者が現れました。
心臓に腕を組んで当て、体重をかけて押していますが、見ていて

「なんか見たことあるのより速いなあ」

と思った途端、

「もう少しゆっくりお願いします」

と指導が入りました。

格納庫からは艦内に入ることはできず、見学路はそのまま外に繋がっています。
それとは別に、艦橋を見学するための列ができていましたが、
そろそろこちらも暑さで体力に限界が来ていたので、まっすぐ外に向かいました。

朝と同じ道を通って駐車場に向かい、停めていた車に乗り込んだのですが、
シェイドも何もなしで長時間炎天下に停めていた車はハンドルも座席も焼けて
しばらくは席に座ることもままなりませんでした。

しかもこのとき借りたノートという車、走っている間はエアコンが効きますが、
停止しているときには送風だけなので、走り出しは大変辛い思いをしました。

実は基地隊の方から、お昼をもし出店で買って食べるのならば
ぜひ館内を利用してください、とありがたい申し出をいただいていましたが、
現地で買えるもので食べたいものといえばかき氷だけだったので、
とりあえずもう一度朝チェックアウトしたホテル神戸オークラに戻り、
朝ご飯を食べた同じレストランで昼ごはんを取りました。

レストランの窓からは海上保安庁の巡視艇「あわぎり」PC-40
が停泊しているらしいのが見えます。

何度もここに来ていますが、巡視艇が係留されているのに初めて気がつきました。
今までも目には止めていたけど、意識しなかったのかもしれません。

向こうの大型船は「神戸エキスプレス」

宮崎カーフェリーが運行する神戸〜宮崎を往復するフェリーで、
新港第3突堤、三宮フェリーターミナルを発着場所にしています。

この後、TOがチケットを持っていたので、なぜか三宮にあるサウナで
親子三人汗を流して帰ることになりました。
サウナなど行ったことがないので、当初あまり乗り気ではありませんでしたが、
行ってみるとサウナつきのおしゃれなお風呂屋さんという感じ。

出た時にはすっかりさっぱりして、疲れも吹っ飛びました。
何よりこの日にかいた汗を流してから飛行機に乗れるのはありがたかったです。


ところで今回、大阪伊丹空港に久しぶりに行ったらものすごい改装を遂げていました。

特に変わったのがバゲージクレームで、あまりにも設備が新しいせいで、
空港を降りた途端ターンテーブルのゴムのものすごい匂いが鼻についたくらいです。

付随するターミナルビルの内部にも新しいお店がたくさんできていて、
夕食は家族の意見が一致してマグロ専門店黒門市場になりました。

 

というわけで色々あった阪神基地隊サマーフェスタも終了しました。
自衛隊の「今」について、また色々と知ることができたような気がします。

ちなみにこの日の目玉だったアイドル参加パネルディスカッションの経緯を
後から主催側に伺ったところ、
もともとこのアイドルグループ、彼女らを
阪神基地隊前司令が「登用」したのは、やはり予想通り、
人寄せパンダにして
募集適齢者を呼び込みたい、という下心?からだったようです。

しかし、実際アイドル目当てに集まってくるのは、コメント欄でも言われていた通り、
自衛隊に入ることなど全く考えていないor色々と無理そうなコアなファン層ばかり。

そこで、彼女らを使いつつ、少しでも当初の目的に近づけるアイデアはないか?
と考えた結果が、今回の特別企画だったというわけです。

わたしも書きましたが、阪神基地隊側でも、最後の方には立ち見も出たことを、
それなりの広報効果はあったのではと感じておられるということでした。

サマーフェスタの最大の目的は広報です。

アイドルを目当てにやって来た人が自衛隊に入隊するということはありえなくとも、
物珍しさで立ち止まってみただけの人たちが、初めて知った、聞いたと思うことから
少しでも自衛隊への理解と関心を深めることができたのなら、
十分それは成果と言ってもいいのではないかとわたしも思います。

 

最後になりましたが、今回お招きくださいました阪神基地隊司令、
阪神基地隊の皆様方に心からお礼を申し上げます。