ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

TAPS(鎮魂喇叭)が鳴るとき〜アメリカ陸軍士官学校 ウェストポイント

2018-11-09 | アメリカ

不肖宮嶋茂樹氏の「鳩と桜 防衛大学校の日々」に掲載された
防大生たちのひたむきな表情と真摯に明日の防人を目指す姿を見るうち、
またウェストポイントについて無性に書きたくなりました。

見学者のための「ウェストポイント紹介ミュージアム」展示、
前回の続きからご紹介していくことにしましょう。

このミュージアム、卒業生の寄贈によって建てられたものですが、
とてつもなくお金がかかっています。

アメリカでは事業に成功し、功なり名を遂げた卒業生が
自分の卒業した大学に、莫大な寄付を行うものですが、
ウェストポイントの場合は実業家ではなく政治家かもしれません。

特に保守派の政治家なら、アナポリスかウェストポイントを出ていることは
大変な強みになるため、ドナルド・トランプは実はこの点
密かな劣等感を抱いているらしい、という話をどこかで聞いたこともあります。

 

さて、パスポート のミュージアムの中には講演会なども行えるホールがあって、
ここでは15分ほどの「ウェストポイントの歴史」を上映していました。

南北戦争で「青と灰色を率いた」とあります。

英語の「ブルー・アンド・グレイ」にはいろんな意味があるのですが、
一般的には南北戦争における連合軍のブルー、反乱軍のグレイをいいます。

わたしがこの意味を最初に知ったのはジャズの名曲、
「オールド・フォークス(Old Folks)」の歌詞でした。

彼らを理解しようなんて思わないこと
ブルーとグレイ、どちらのために戦ったとか
なぜなら彼はそれは外向的で民主的だから
もうやりたいようにやらせてあげればいいんだ

毎晩夕食の後 彼のおなじみの話が始まる
あの日リンカーンのゲッティスバーグでの演説を
彼がどんな風に聴いたかなんて話が 

どちらのために、ってこの爺さんはブルー(北軍)だろ?
リンカーンの演説を聞いてたってことは。
というツッコミはともかく、かつての戦士も今はただの爺さん、
彼らがいなくなったらこの世界は寂しくなるね、という歌です。

自分もまたその「オールドフォークス」となる運命は無視か?



さて、この絵に描かれた二人は両軍の将と思われますが、(誰かわかりません)
「リード」の意味は、つまり北軍のグラント将軍、シャーマンはもちろん、
南軍の
リー将軍もジョンストンも、全員が陸士出身だったということです。

同じ陸軍士官学校を出ていながら互いに殺し合いをしたことに対し
何か反省の一言はないのか、と思わずツッコミを入れてしまいましたが。

南北戦争についての話では、アメリカ人でない我々には全く知るすべもない
同級生同士の戦いとか、
そういう「秘話」がたくさんありそうですね。

出たよ、「ロング・グレイ・ライン」。

coralさんにいただいた各国各軍隊の行進比較映像によると、
はっきりいって彼らの行進が一番「なってなかった」わけですが(笑)
こうしてみると昔ながらの灰色の「肋骨服」を未だ変わらず継承し、
深々と儀礼用帽子を被り歩く姿は、やはり凛々しくかっこいい。

以前も話題にした同名の映画、DVDを取り寄せましたので
面白かったらまたここでご紹介するつもりです。

映像ではウェストポイントの厳しい訓練の様子が次々と映し出されました。
防衛大学校では陸上要員となることを進路決定して行う訓練ですが、
こちらは最初から陸上要員なので入学するなりガンガンいきます。

まあ、厳しいってもこんな低いところなら落ちても大丈夫。
楽勝楽勝!って感じが、やっている人の表情にも感じられますね。

しかし遊びやないんやで。これは。

しかし一通りの基礎を学んだ後は同じことを高所で行います。
さすがに落下する可能性をを想定して安全ベスト着用です。

これはミュージアムの天井にあった実物大模型ですが、
これ実際にやってみるとかなりきつそうです。

次のコーナーに足を踏み入れて驚きました。
実物大の士官候補生の私室が再現されているのです。

わたしたちはその時息子を大学の寮に見送ったばかりで、
その意味でも一般大と軍学校の違いがよくわかりました。

まず・・・・広い!

クローゼットは同じくらいの大きさでしたが、とにかく
家具などを置いていないスペースが広すぎます。

こういうものも部屋に置いておくんですねえ・・。
本物ではなく訓練用の銃だと思うんですがどうでしょう。

正帽は夏冬用、儀式用三種類を並べられる棚。
学生生活に必要な全ての衣類に加え、私服(一着だけ)、
そして一番右にパジャマも掛けてあります。

ベッドがとても高くて、ベッド下にトランクなどを収納するのは一般大と全く同じ。
ベッドの毛布はOD色で、ホテル式のメーキングをすることになっており、
掛け布団は自衛隊のようにきっちりと四角く畳んでおきます。

しかし、いろんなところであの自衛隊名物「バームクーヘン畳み」
を見てきたわたしの目には、この畳み方は甘い。甘すぎる。

写真だと本物みたいですが窓の外に見える景色は写真の合成です。
実際にある部屋から見える景色をそのまま再現しています。

勉強机の上にある本棚には、

「アメリカン・ポリティックス・トゥデイ」

「ミッション」

「マイクロ・エレクトロニクス」

「エクスペリエンス・ヒストリー・1877」

「デジタル・エレクトロニクス」

などの本が並んでいます。
どれも教科書なんでしょうか。

これによると、候補生宿舎のことを「バラック」と言います。
バラックでは36名を一単位とする学生隊での生活を基本とします。

バラックでの生活で最も大切なことは、部屋を清潔に保つこと。
そして整理整頓を欠かさないこと。

これは世界的に軍隊というものはそういうことになっているからで、
埃をためないとかベッドメーキングは完璧にとか、
それらや装備や制服の手入れがちゃんとできているかどうかを
定期的に検査されるというのも防大と全く同じです。
(ベッドが外に放り投げられたりするかどうかは不明)

この「SAMI」と呼ばれる威儀清潔検査は土曜の朝に行われますが、
プリーブ、新入生にとってありがたいことに、抜き打ちではなく
日も決まっているので事前に掃除をしておくことはできます。

甘い、と防大出身者なら全員が口を揃えていうことでしょう。

チェックを行う上級生は、写真右側のバインダーを持って部屋を周り、
チェックリストに印をつけていくのです。

どれどれ、そのチェック項目とは?

「フロアに掃除機はかかっているか」

「調理道具が部屋にないか」

「カーペットに掃除機はかかっているか」

「デスクの後ろもちゃんと掃除してあるか」

って、要するに掃除してあればいいんだろ!と言いたくなりますが、
まあ要するに上級生が小姑のようにデスクの上を撫でて、
埃のついた(かどうかわからない)指にふっと息を吹き、

「ダメだな」

などとサディスティックにダメ出しをするわけですねわかります。

次のコーナーでは「カデットの1日」として、候補生生活を紹介しています。
おヒマな方は上の英文を読んでいただければわかりますが、とにかく
朝起きてから晩寝るまで、候補生の生活はみっちりとスケジューリングされ、
未来の指揮官になるために必要なカリキュラムをこなさなくてはなりません。

起床は5:15。
そんなに早く起きて何をするかというと、ランニング(など)です。
身なりを整え20分で朝食を済ませると、7:30には授業が始まります。

写真のように、最新の設備を使った科学系の授業や、
あるいは体力テストを伴う肉体鍛錬なども授業としてしょっちゅう行われ、
クラスとクラスの間の移動は早足で行われます。

アナポリスと違って地下道なんて洒落たものはここには存在しないので、
どんな天候でも彼らは移動を屋外で行うことになります。

しかし、わたしが訪問したこの夏の日、その日差しの強さと蒸し暑さは
悪名高き日本の都会と寸分変わらぬ過酷なものでしたし、
冬は冬でとにかく内陸特有の猛烈な寒さに襲われるここウェストポイント。
移動一つとっても結構大変なのではないかと推察されます。

1210、軍学校らしく皆で整列して食堂まで行進。
そして4,400人が一緒に食事をとります。

左の上から二番目は「ミッドデイ・スナック」を楽しむ候補生たち。
厳しいといっても食べ盛りの青年たちの集団ですのでおやつも必要。
おやつと言いながらピザ一切れ(アメリカのはでかい)とか、
メープルクリームがけパンケーキアイスクリーム添えを楽勝でかっくらってそうですが。

1250からの「ディーンズ / コマンダンツ・アワー」というのは
説明がないので詳細はわかりませんでしたが、学部長とか司令官とか、
とにかく偉い人の前で発表とかをさせられるんではないかと思います。

そして午後の授業は正式には1355に始まります。

面白いのは1615からの防大で言う所の「校友会活動」(クラブ活動)を
ここでは「マッカーサー・タイム」と称していることです。

検索してもなぜこれをこう呼ぶのかわかりませんでした。

夜1900、全員がフルドレスに着替えてディナーを取ります。

しかし、そこはアメリカ人、食事時間は30分で、食後は
自習したりテレビでスポーツ観戦したり、趣味の音楽演奏に興じたり、
というわずかながら楽しい自由時間を過ごすことになります。

朝5時に起きる割には就寝時間は遅く、なんと2330。
6時間も寝られないことになりますが、日中眠くないのかしら。

消灯時間のところに「タップス(TAPS )」とありますが、
このタップスというのは皆さんもおそらくご存知の喇叭譜のことです。

Taps

つい自分の趣味で海軍のタップスを揚げちゃったよ。

こちら譜面の読める人のために。

夏にアメリカで観た「ザ・ラストシップ」の最終シーズンにも、
ボロボロの艦上でタップスを吹鳴するビューグラー、という
アメリカ人にはたまらんに違いないシーンが挿入されていました。

タップスは「鎮魂喇叭」ですが、ウェストポイントではこれを
「ライツ・アウト」、つまり消灯時間の喇叭として演奏しています。

 

あるウェストポイント卒業生はこう言っています。

「2330、タップスがスピーカーを通じて構内に鳴り響く時が
1日のうちわたしの好きな時間だった。
その20秒かそこらの時間、わたしはこの国のために戦って
そして斃れていった人々のことに想いを馳せるのだ。

いつの日か、わたし自身の葬送でこの旋律が演奏されるだろう。
わたしは祈るのだ。
その時、わたしがこの旋律の表す名誉と敬意を捧げられるに
相応しい存在でいられますように、と


続く。



ジョセフ・ヒコ〜彼レ如何ニシテ亜米利加人トナリシカ

2018-11-08 | 日本のこと

メア・アイランド海軍工廠跡の展示には、一見海軍工廠となんの関係が?
と思われるようなテーマのものもあるのですが、それも辿っていくと
「船」や「海」に関係のあることだったりします。

「アメリカ彦蔵」と言われ、日本人で初めてアメリカの市民権をとった
ジョセフ・ヒコこと濱田彦藏の写真を見たときもはて?と思いましたが、
よく見ると、こんな・・・

 

「KANRIN MARU」コーナー?
隣にはここメア・アイランドに寄港した事があるあの
咸臨丸についての紹介があるのですが、ヒコは別に咸臨丸とは関係ないのに・・。

まあ、遠い国日本から船でやってきた、ということでまとめたのでしょう。

ここに書いてあることをそのまま翻訳してみます。

ジョセフ・ヒコ(播磨国に浜田彦藏として生まれる)は、
1837年9月20日生まれ。

自然発生的にアメリカ合衆国の市民となった最初の日本人であり、
また日本で最初の新聞を発行した人物である。

彼の父親は地方の地主で、亡くなった後彼の母は再婚した。
彼は寺子屋(temple school)で学んでいたが、12歳になった時
その母親も死亡したため、エリキ丸という貨物船に乗っていた
継父に養育されることになった。

彼らが船で江戸(東京)に観光に行ったときのこと、
太平洋で台風に見舞われ、乗っていた船が難破した。

17名が助かって海で漂流していたところ、彼らを通りすがりの
アメリカの
貨物船「アウックランド」が発見し、救助したのである。

そのまま彼らはアメリカに連れてこられ、カリフォルニア、
サンフランシスコににやってきた最初の日本人となった。
時は1851年2月のことである。

貨物船の料理人だった「センタロー」という人物は、
写真を撮影された最初の日本人となった。

 

まず、彼が寺子屋で学んでいたことですが、裕福な家の子弟は
普通寺子屋に行くことはありませんでした。
これは、おそらく彼の父が亡くなり、母が再婚した相手が
船員であったことと無関係ではないでしょう。

 

それから「センタロウ」という料理人が最初に写真を撮られた日本人、
という記述ですが、これは仙太郎ではなかったという証拠が近年出てきました。

平成18年(2007年)3月27日放映の『開運!なんでも鑑定団』
にてスイスの写真研究家、ルイ・ミッシェル・オエールから
彦蔵(ジョセフ・ヒコ)の写真の鑑定依頼が寄せられたのです。

鑑定した結果、彦藏がサンフランシスコ到着後に撮影されたものと断定、
これが日本人を撮影したダゲレオタイプ写真の
最古の記録を塗り替える大発見となったのでした。

お宝データ

当時14歳の彦藏の肖像です。

しかし、濱田彦藏、決して美青年というのではありませんが、
怜悧さがその目の光に見て取れ、冒頭画像に選んだ写真でも
不鮮明ながら彼が魅力的な人物であったらしいことが想像されます。

今なら雰囲気イケメンと言われるタイプかもしれません。

関係ないですが、こんなページが見つかりました。

濱田彦藏のオリジナルTシャツ

こんなの誰が着るの。

 

翻訳の続きです。

1852年、一行はマシュー・ペリー艦隊司令官にマカオに同行した。
日本の鎖国解放交渉をする手伝いに抜擢されたのである。

ヒコはその時に出会った通訳(アメリカ人)に、一緒にアメリカに戻り、
彼の手伝いをするために英語を勉強してくれないかと頼まれた。

当時彼は15歳で、一般的にいうと、語学習得にはもう年齢が経っていますが、
おそらく滞在期間の1年で、彼は相当英語が喋れるようになっていたので、
それを見込まれアメリカに連れて帰られた、ということになっています。

しかし、これは日本語のWikipediaとは大きく内容に相違があります。
ウィキ記事をまとめると、

アメリカ政府より一行を日本へ帰還させるよう命令が出る

ペリーの艦隊に同乗し帰国することになり1852年香港に到着

しかし、ペリーがなぜか現れない

待っている間、香港で出会った日本人・力松(モリソン号事件での漂流民)
の体験談を聞き自分達がアメリカの外交カードにされるかもしれないと懸念

10月に亀蔵・次作とともにアメリカに戻る←今ここ

この時、一行の中でサスケハナ号に乗って日本に行ったのは仙太郎だけで、
ヒコ三人以外は皆香港で日本人に匿われ、のちに清国船で帰国しています。

とにかく、この博物館の説明は無茶苦茶で、彦藏が
日本に戻ってペリーの通商交渉の手伝いをしたことになっています。

しかし気を取り直して続きを翻訳します。

ヒコは1853年アメリカに到着した。
彼はボルチモアにあるローマカトリック教会の学校に入学し、
1年後「ジョセフ」という洗礼名を与えられた。

1957年西海岸に移った彼は、当時のカリフォルニア議員だった
ウィリアム・M・グィンの秘書としてワシントンDCに同行。

1858年までグィンの仕事をする中、ジェイムズ・ブキャナン大統領に会い、
日本の紹介を行なった史上初めての日本人となった。

その後彼はジョン・M・ブルック少佐に同行して中国並びに日本の
沿岸部を調査する航海にも参加している。

同年6月、彼はアメリカ市民となる権利を付与された最初の日本人となった。


さて、この部分、Wikiではどうなっているでしょうか。

サンフランシスコに帰国後、税関長のサンダースに引き取られた。

その後、ニューヨークに赴く

んん〜?
議員秘書の話はどこに行ってしまったの?

ウィリアム・グィン

この部分は日本のwikiが無茶苦茶です。
英語のウィキではグィン上院議員のことはちゃんと書かれています。

1853年、日本人として初めてアメリカ大統領(ピアース)と会見した。

おそらくボルチモアにピアースが来た時に会ったのでしょう。

またサンダースによりボルチモアのミッション・スクールで
学校教育を受けさせてもらい、カトリックの洗礼も受けた。

1858年にはピアースの次代の大統領ジェームズ・ブキャナンとも会見した。

そして1858年、日米修好通商条約で日本が開国した事を知り
日本への望郷の念が強まった彦蔵はキリシタンとなった今では
そのまま帰国することはできなかったので、帰化してアメリカ国民となった。

 

上院議員の秘書になったという話を省略してしまうと、ヒコが
どうしてブキャナンと会見できたかわかりませんね。

最後の段では、ヒコがなぜアメリカ国籍を取ったかが説明されています。

当時日本人が渡航で海外に行くことは禁じられていました。
漂流していたのを助けられ外国に連れていかれたただけならともかく、
現地で洗礼を受けてジョセフという名前になってしまった以上、
再入国拒否どころか国禁を犯したかどで逮捕される恐れがあったのです。

これを避けるには、日本の法律が適応されないアメリカ人として入国するしかありません。
つまり、彼は、

日本に帰国するために日本人であることを捨ててアメリカ人になった

ということになります。
このパラドックスはさぞ若い彼を苦しめたことと思われます。

 

お次は英語版Wikiです。

1859年ヒコはUSS「ミシシッピ」で日本に帰国した。
彼はアメリカ領事であったE・ドアーに会い、通訳の仕事を得る。

1860年横浜で貿易商館を開き、そこで
サンフランシスコからパートナーがくるのを待っていた。

日本のウィキではこの「ドアー」がタウンゼント・ハリスとなっています。
どっちが正しいのかもうわかりません(投げやり)

 

ところで、本日冒頭に描いたヒコは、日本に帰国した頃のものですが、
何歳くらいだと思われますか?


横浜に着いたとき彼はまだ22歳。
アメリカで上院議員の秘書をしていたのはその2年前なのです。
二十歳の若者が一度ならずアメリカ大統領に謁見し、祖国について話す。

これは彦蔵が決して凡庸な人間でなかったことを意味します。

 

ところで、赤字にした部分に「パートナーを待っていた」とありますね。
(日本語のWikipediaには記述なし)はっきり書かれていないのですが、
彼が待っていた「パートナー」とは、次の記述から女性だったと思われます。

「しかしながら、その関係は1861年3月1日に解消(dissolved)された」

サンフランシスコから恋人を呼び寄せたものの、彼女は
日本の生活に馴染めず、3月1日付でお別れをしたってことじゃないでしょうか。

なんで日付まではっきりわかっているのかわかりませんが。

「失意の一年を送った後(after doing poorly for a year)
ヒコはUSS「キャリントン」でアメリカに戻る」

つまり、彼は「失恋帰国」をした、というのです。
ところが日本のwikiではこれが、

「当時は尊皇攘夷思想が世に蔓延しており、身の危険を感じて帰国」

となっています。
どちらが正しいというより、どちらも正しかったのではないでしょうか。

 

この帰国中の1862年には、なんと彦藏、ブキャナンの次の大統領、
アブラハム・リンカーンとの会見を果たしました。

政治家でもないのに、三代にわたる合衆国大統領と公式面会した日本人は、
現在に至るまで濱田彦藏ただ一人だと思うのですがどうでしょうか。

帰国後、彼は「漂流記」という体験記を日本で出版しています。
漂流したときのことのみならず、アメリカでの体験もそこには描かれていました。
そして、その流れで、彼は「海外新聞」という日本語の新聞を出版し、
これが日本における2番目の(最初はその2年前に発刊された『官報バタビヤ新聞』)
新聞となりました。

これを「国内初めての新聞」として、彼を

「本邦民間新聞創始者」「日本新聞の父」

とする向きもあるようです。
ただし、赤字だったせいで海外新聞は数ヶ月で廃刊となっています。

この数ヶ月の間にリンカーン暗殺が起こり、「海外新聞」では
このことを記事として取り上げた唯一の日本の新聞となりました。

彼はその後も京都と大阪での想い出を綴った「困難の時」、また、
1869年起こった米騒動についての見聞記も書き残しています。


33歳で造幣局の創設に関わり、35歳で大蔵省で国立銀行条例の編纂に関り、
茶の輸出、精米所経営を行うなど、語学力と人脈を生かして
公私にわたり大活躍を続けた彼ですが、もっとも大きな彼の功績は、
木戸孝允伊藤博文に薩摩藩に非公式に呼ばれ、合衆国憲法
英国憲法について彼らの質問に答えたことではないかとわたしは思います。

これは、大日本帝国憲法制定の20年も前から、木戸らが世界の憲法について
調べるなどしてその準備を始めていた、ということを表します。

彼らは彦藏を長崎に呼び寄せて彼をエージェントに据え、
彼は、ほぼ2年間、無償でその仕事をしていました。

しかものちに彼は伊東博文が英国に訪問することになった際、
その英語力を生かしてHMS「サラミス」の手配を行うなど、
私心のない働きを日本政府に対して行なっているのです。

HMS Salamis 

このように彼は自らの数奇な運命から得ることになった技能と経験を生かして
祖国のために粉骨砕身働き、かつ
国政に限りなく近い場所に居ながら、
決して政治に携わることはありませんでした。

なぜなら彼はアメリカ人だったからです。


ジョセフ・ヒコ、濱田彦藏が心臓病のため61歳で亡くなったのは
1897年のことでした。

アメリカ市民であった彼の亡骸は青山墓地の外国人区域に葬られました。

墓石には、横書きで刻まれたアルファベットの彼の名前の下に

「浄世夫彦之墓」

と当字のジョセフ・ヒコの名が刻まれています。
彼の日本名は、墓石に刻まれている碑文の冒頭の

浄世夫彦ハ元名ヲ濱田彦蔵ト云フ

という一文に残るのみです。

アメリカ国籍を取得した時、つまりアメリカ人となった時に、
彼は日本の名前、濵田彦藏を完全に捨て去ったのです。

アメリカ人である彼は日米のどちらに住むことも可能でしたが、
両国間を往復しながらも結局日本に骨を埋める選択をしました。

日米の伝記には決して出てこない当時のアメリカでの過酷な体験が
彼にそれを選ばせたのではないかと思うのはわたしだけでしょうか。





 

 

MiG-15と朝鮮戦争時代の航空機〜スミソニアン航空宇宙博物館

2018-11-07 | 航空機

ウドバー-ヘイジーセンター、スミソニアン別館の展示です。

入って右側のコーナーを歩き、一周してきたとき、
前にもお話ししたブラックバードSR-71の尾翼に気がつきました。

スカンク・・・・。

途端にブラックバードを開発したロッキード社のプロジェクトチームの

「スカンク・ワークス」

という名前を思い出してしまうわけですが、それにしても可愛いですね。
英語のウィキによるとロゴはこれ。

スカンクが腕組みして考えている→スカンク・ワークス

というコンセプトは同じながら、明らかに機体に描かれたロゴがキュート。
(個人的な意見です)

この名前は、プロジェクトチームの設計室が何かの工場の目の前にあって、
その匂いがあまりに酷いため、電話に出た人がつい自虐って、

「はい。こちらスカンクワークスです」

と漫画に出てくる蒸溜所の名前で答え(アメリカ人らしい!)、
それがウケたので正式名称にしてしまったという経緯があります。

ちなみにスカンクワークスはその後、あのF-117を生み出し、
今でもアメリカの航空産業の最先端を突っ走っております。


さて、今シリーズはそのブラックバードも投入された、
ベトナムー朝鮮戦争の翼をご紹介します。

  

「航空機の形の変遷」と右側にあり、先日来
「ミッドウェイ」シリーズでお話ししてきたクーガーパンサーがあります。

左上は一足早くご紹介したB-26インベーダー、その下は
どう見ても無駄に大きすぎるコンソリのB-36ピースメーカー

大陸間爆撃機(インターコンチネンタル・ボマー)の癖に
どの口でピースメーカー(笑)などというやら。

岸首相ではないですが、ついこう言いたくなりますね。
責めているわけではありませんので念のため。

ちなみに、「核武装は抑止力」という核保有国のスタンダードな
エクスキューズは、この頃盛んに行われていた(圧倒的な米のリードでしたが)
米ソの核開発競争から生まれたらしいですね。

そして左の一番下、これが・・・・、

ノースアメリカン F-86A セイバー

 

 ベトナム戦争時代は「ミグの小道」(MiG Alley )と呼ばれる
最危険空域に出撃しては、MiG-15と戦った戦闘機。

セイバーはアメリカで作られた最初の後退翼ジェット戦闘機です。

朝鮮戦争におけるヤルー川上空の空戦で

「偉大な戦闘機」

としての評価を得ることになりました。
中国国境を超えて敵を追跡することができないにも関わらず、
セイバーのパイロットは記録的な撃墜をMiGに対して立てたのです。

セイバーの設計者は鹵獲したドイツの空力データを研究し、後退翼は
高速時の制御が従来のものより容易であることを突き止めたのです。

このF-86Aは、朝鮮戦争でMiG-15との間に行われた空戦を知っています。
金浦にあった航空基地から邀撃に上がることが多かった、
最初のセイバー飛行隊第4戦闘機部隊のマークを付けています。

朝鮮戦争 1950−1953

これを見て、朝鮮戦争がたった3年しか行われなかった、
というのが何か不思議な気がするのですが、それはともかく。

朝鮮戦争とベトナム戦争の間の航空攻撃というのは、
従来の武器で限られた体制で行われました。

広いフォーメーションを取る第二次世界大戦の時の重爆撃機は
目標を定めるということは滅多にありませんでした。

北朝鮮も北ベトナムも、その戦略的施設は空襲に対して脆弱で、
彼らの後ろ盾となっていた中国とソ連こそが敵であるとして
アメリカはこれを攻撃することに消極的だったのです。

 

アメリカ側にとってどちらの戦争も空軍、海軍、海兵隊の戦闘機と
爆撃機の総力を上げて敵の供給ラインを攻撃したという構図でした。

ピースメーカーのような核も搭載出来る爆撃機などの航空戦力は
はっきり言ってどちらの戦争にも決定的な役割となりませんでした。

 

と書いてあります。そうだったんだー。
その割には左の写真、盛大に爆弾をバラまいておりますが。

おっとこれはあの憎っくきB-29ではないですか。
なんとB-29、ビンテージながら北朝鮮に爆撃機として投入されていた模様。

 

そして写真右側が、あの

ミコヤン・グレヴィッチ MiG−15 戦闘機

です。

ミコヤン-グレヴィッチ設計事務所は、冷戦期初頭のジェット戦闘機、
最も有名なMiG−15の主力設計者として華々しく航空界に登場しました。

初飛行は1947年、指導者であったヨシフ・スターリンの要望で
先進的かつ高高度における要撃機としてデザインされたものです。

MiG−15はそのスピード、駆動性、そして重武装が可能なことで
朝鮮戦争において劇的なデビューを果たし、
かつ西側諸国に衝撃を与えたといわれています。

ミコヤンの設計のユニークだったところは、動力にイギリスの
ロールスロイスから取り寄せた、

ニーン・ジェットエンジン

を取り寄せて、これを無許可でコピーし改良したものを積んだことです。

言いたくはないですが、こういうルール無視をするのって
共産主義国家の技術者に多いって感じがしますね。なりふり構わないっていうか。

しかも、ロールスロイスのエンジンそのものも、ミコヤンが
ロールスロイス社のパーティに招かれた時にビリヤードで勝ち、
の褒美に購入の許可をもらった、という経緯がありました。

まあしかし、くれると言っているものを貰わないのは馬鹿、
盗める技術を盗まないのは阿呆、というのがあちらの常識。

お人好しなロールスロイス社を彼らは出し抜いたと思ったでしょうし、
ソ連ではそんな彼らはヒーローだったでしょう。

おそらく、今でも。

 

朝鮮戦争の間、MiGー15はアメリカ軍のF-80シューティングスター
そしてF-86セイバーと制空権(エアー・ドミナンス)を巡って対峙しました。

 

画期的だったのはまずこれがソ連にとって初めての
後退翼を持つジェット戦闘機だったことで、さらには
コクピットは与圧されており、イジェクトシートが装備されていました。

これらもそれまでのソ連が持っていなかった機能ばかりです。

このMiG-15は、そのシリーズが最も広く製造された航空機といわれ、
その派生形は17,000種類に及ぶと言いますから驚きます。

その十分の一の1,700でもそりゃ多い、となりそうですが。

このことを、Wikipediaにはこう記してあります。

派生型は量産されたものだけでも数知れず存在し、
西側ではいまだにきちんとした認識はされていないようであるが、
初期型のMiG-15、改良主生産型のMiG-15bis、
複座練習機型のMiG-15UTI(またはUTI MiG-15)
の三つの名称を把握しておけば大抵は事足りるであろう。

・・・事足りるって何に足りるんだろう。

というツッコミはともかく、これだけ種類が膨大になったのは、
ソ連以外の国でも生産され、それに全て改修型、派生型が生まれたからです。

アメリカ軍の航空機の進化は、兵器を装備する航空機のサイズ、
または能力に合わせた兵器の開発によって推進されてきた面があります。

朝鮮戦争ではB-29に対して行われた高周波電力伝送のメソッドを使った
短距離のナビゲーションシステムが使われ、たとえ目標の天候が悪くても
爆撃機の広範囲への攻撃を可能にしてきました。

ベトナム戦争ではますます洗練された「賢い」兵器が投入されるようになり、
その結果、過去の多くの爆弾は「アホ」ということになりました。

(現地の説明には本当にこう書いてあります。”dumb"= 馬鹿・うすのろ)

これらの新しい精密兵器は、

「戦略的爆撃は、大規模な爆撃機タンクを搭載する
大型爆撃機で行われ、ゆえに民間人の死傷者数が多い」

という従来の常識的な考え方を覆したと言ってもいいでしょう。

とはいえ嫌味な言い方をあえてさせていただくとするなら、
第二次大戦末期、アメリカ軍が東京を空爆することになったとき、
仮にこのころの技術があったとしても、それでもなおかつ
あのカーチス・ルメイがその爆撃方法を選んだかどうかは疑問です。

 


さて、このような新しい精密攻撃を行う兵器が、様々なバリエーションで
航空兵力に搭載されるようになってきたわけですが、その結果として
1991年のペルシャ湾岸戦争では巡航ミサイルが艦船ならびに
B-52爆撃機から発射され、レーザー誘導爆弾がF-117(ナイトホーク)、
A-6イントルーダーなどから落とされ・・・・いわば「新しい波」が
イラクを攻撃したということになります。

攻撃航空機のタイプによる効果の違いではなく、あくまでも
敵に与えた実際のダメージを勘案することで開発された攻撃法は、
空中または地上のターゲットを対象とした精密兵器の開発によって
一層強化されていくことになります。

ロッキード T-33A シューティングスター

シューティングスターというと、わたしなど入間での墜落事故と
その墜落機を操縦していたパイロットたちの自己犠牲を思わずにいられません。

これは「Tバード」という名称で知られていたロッキードの練習機で、
アメリカでは1947年から、偶然のようですがセスナの「ツィート」
T-37に交代する1957年まで空軍で使用されていました。

当博物館所蔵のT-33A-5-LOは、1954年まで空軍で運用され、
その後はワシントンD.C.のナショナルエアガードのものとなり、
1987年には博物館に寄贈されていたものです。

機体を見てものすごくピカピカしていることに気づきませんか?

生まれて一度も塗装されたことのない飛行機だからなんですね。
自然の金属地は磨き上げるとここまでなるという驚くべき見本です。

練習用にしか使われたことがなく、その時に装備していた銃は
展示に当たって全て取り外されました。

 

こんなものも飾ってありました。

やはりMiG−15を運用していたポーランド空軍将校のフライトスーツです。

1953年3月5日、ポーランド空軍のフランシスチェク・ヤレツキー大尉は、
4機のMiG-15とともにポーランドのストロプ基地から哨戒に出ましたが、
レーダーにソ連軍機を発見したため増槽を落とし、隊形を崩して急降下しました。

ところがソビエト軍は彼らの迎撃をすでに予想しており、
「Oparation Krest」と名付けられた警戒迎撃システムコードを準備して
つまり飛んで火にいる夏の虫を待ち構えていたのです。

隊形を解散して一機でやってきたヤレツキー機はソ連軍に追いかけられました。

彼はデンマークのボーンホルム島にアメリカ軍がいることを知っていたので、
そこに逃げ延びて着陸することで追手から生還することができました。

このジャケットの説明の最後はこのようなものです。

「このフライトスーツはヤレツキー大尉が自由世界
(フリーダム)への必死の飛行の際に着ていたものである」

いやまー、いいんですけどね。
アメリカ基地を「フリーダム」だと思ったからそこを目指した?
流石にそこまで考えていなかったと思うけどどうでしょう。 

ここにあるヒューイはもう紹介がすんでいますが、残っていたのがこれ。

シコルスキー HO5S-1

海兵隊で負傷者救出のために投入されたヘリで、デビューは
朝鮮戦争の最後の年になります。

他のヘリのように負傷者を外付けの担架に乗せる方式ではなく、
二人の死傷者と付き添い一人を内部に乗せることができました。

フロントのバブルウィンドはそのものが開くので、
内部へのアクセスが簡単ですし、後部にマウントされたエンジンは
搭載重量の制限を飛躍的に大きくしたといわれます。

ヒンジの改良によってローターの動きに安定性が増し、
さらには夜間飛行も可能になりました。

 

このHO5S-1は朝鮮戦争に参加して生き残った数少ないヘリの一機で、
VMO-6部隊に配備され、朝鮮戦争で重症を負った海兵隊員を、
少なくとも五千人以上輸送したといわれるヘリコプターです。

戦後は民間のヘリコプター会社に払い下げられ、
エアタクシーや農薬散布、配線のテストなどの仕事をしていましたが、
スミソニアンに寄贈され、朝鮮戦争で活躍した頃の塗装を施されて
かつて戦場から人命を救っていた頃の姿を後世に残しています。

 

続く。

 

 

呉の街を歩く〜入船山公園-地方総監部-JMU-歴史の見える丘

2018-11-05 | お出かけ

さて、呉散歩編、「朝の部」です。
帰国以来時差ボケが今や正常化して(アメリカから帰るとしばらく早起きになる)
毎日漁師とは言わないけれど、農家の人並みに早起きになってしまったわたし、
この日も元気に夜明け前に目覚めました。

どこまで歩きに行くか、と考えた時まず脳裏に閃いたのは
自衛隊記念日の行事が始まる前に潜水艦基地を車で見に行ったことがあり、
そのときの、潜水艦が白煙をあげているあの景色です。

「アレイからすこじまの潜水艦基地まで歩いて朝の潜水艦を愛でよう」

早速所要時間を調べると、片道36分。
これなら行って帰って来られる、と判断しホテルを出ました。

グーグルの案内した経路にとんでもない「落とし穴」があるとは知らず・・・。

ホテルを出たところにある境川は朝の引き潮のせいで川底が見えています。
しょっちゅう水没しているためボロボロになった階段は、これも
おそらく旧海軍時代からのものらしく、木の骨組みが露出してきています。

流石に呉教育隊のみなさんは早起きですね。
朝の清掃タイムらしく、庭箒を持った自衛官の姿が柵越しに見えました。

左の塀の向こうは呉教育隊、右は基地業務隊などがある自衛隊の領地です。
赤い壁は、これ全て呉地方総監部の長官庁舎のレンガに合わせているのです。

自衛官(多分)がランニング通勤しているのも呉ならではの朝の光景。

呉地方隊の門は二ヶ所あって、こちらがいわゆる通用門。
昨日の追悼式などの時にはこちらから入場します。

通用門はカーブの突き当たりにあるので、公道通行車が全て
左折して行く中、呉地方隊関係者の車だけが直進してきます。

このため、「自衛隊に用がある車はウィンカーを点滅せよ」
というお達しが大きく看板に書かれるようになったと見られます。

門内に入って行く車は自衛官の出勤車だと思いますが、
どんなに見慣れた車でも警衛の自衛官は後部座席をチェックしています。

考えてみたら朝の自衛隊基地の通勤風景などを見るのは初めてです。
歩いて門内に入る人は私服がほとんどですが、たまに制服もいました。

新しく完成した呉音楽隊の練習棟。
この無機質なこと、もしこの表札がなければ工場か給食センターにしか見えません。
必要最小限の機能に全力投入し、後は極力ご予算を絞ったという感じありありです。

いや別に、エントランスに(前のように)錨のマークをあしらったり、
植え込みにト音記号を作れとは言いませんが、もう少しなんというか
全体的に音楽隊がいることがわかるような工夫とか潤いというものをだな。

防音設備やレコーディングなどの装備はおそらく完璧なんでしょうけど。

入船山公園の斜面。

今いるのは数字の「487」のあたり。

終戦直後(1947年)はこうなっていました。
黄色で囲んだプールがあったらしいところに音楽隊と官舎、そして
自衛隊の援護業務隊を作ったということになります。

ここは現在「市民広場」という名前がついているらしいです。
あの「市民」のせいで、市民という言葉の印象が無茶苦茶悪いんですけど、
こんな名前がつけられたのも、元々ここが旧海軍の練兵場だったからでしょう。

終戦後にはここでイギリス連邦占領軍が式典を行ったり
演習をしたりしていたそうで、その名前も

「ANZAC PARC」

と変えられておりました。
ちなみにANZACというのは

Austrarian and New Zealand Army  Corps
(オーストラリア・ニュージーランド軍団)

から生まれたアクロニムです。
どちらもイギリス の旧植民地で地理的にも近いので
元々同盟国だった両国は、ここ日本の呉に占領軍として
合同で乗り込んできていたんですね。

(ちなみに彼らは占領が終わり帰国する際、旧軍時代の
家具や調度などを結構な数勝手に持ち帰り、さらには
勝手に長官庁舎を改装してやりたい放題だった模様)

赤で囲んだところに「十字」が上空から見える建物がありますが、
これは現在国立病院機構呉医療センターとなっています。

今は「この世界の片隅に」の「聖地巡礼」先となっている階段は
海軍病院に続く道でした。

戦時中は敵に対し、赤十字が見えるように屋上にペイントして
空爆を避けるようにと指示していたというわけです。

そして青で囲んだところは現在も残る鎮守府長官庁舎です。

そのままてくてくと487号線の歩道を歩いていきますと、
呉地方総監部の正門が現れます。

もっと真正面から撮りたかったのですが、警衛の人に見られるので
彼らが死角となるこの角度から一枚だけ撮らせてもらいました。

 

この487号線は、大変交通量の多いところです。
総監部と道を隔てて反対側に点在する官舎から、その昔は
ここを通って直接出勤できたらしい歩道橋がありました。

今は敷地内に入ることができないのはもちろん、横断歩道があるので
おそらくこれを使用する人は皆無なのではと思われます。

ふと思いついて歩道橋を上まで登って見ました。
なんと地方総監部庁舎のマーヴェラス!な眺め。

総監庁舎は2年ほど前に文化財に指定されましたが、よくぞ今まで
この美しい建物をそのまま現役で使い続けてくれたものだと思います。

道の右側をさらに進んでいきますと、そこにはJMUの正門が。
車で出勤する人も門でカードリーダーを通すようです。

自衛隊もですが、こういう企業では関係者以外の入場は厳しく制限されます。

「ものづくり日本大賞」というのは、HPによると

「新時代のものづくりに挑戦する人」

に与えられる奨励賞です。
調べてみたところこれが大変な数の受賞者で、JMUが受賞した
第7回には内閣総理大臣賞だけで7件42名。
経産大臣賞18件、特別賞15件、優秀賞18件という大盤振る舞い。

もしかしたらハズレなし?とか考えてしまったのですが、
それはともかく、JMUの受賞は

革新的構造・施工技術「構造アレスト」で実現した
安全・環境性能に優れるメガコンテナ船

に対する評価でした。
少し前まで「NYK LINE」というコンテナ船が工事中だった記憶がありますが、
それがそうで、この開発により、

「安全性能が高く、環境性能の優れた大型コンテナ船を実現した。

 このことが評価され、造船業としては異例の大量受注を獲得している。」

ということです。

ここまで歩いてきたら右側に歩道がなくなってしまったので左に移動。
見えてきたぞピンクの船が。

一番最初に出現する船渠。
今は何にも行われていません。

どお〜〜〜〜〜ん(効果音)

なんとここでもONEの蛍光ピンクのコンテナを建造中だ。
これを見るに、縦にちょっとずつつ増やしていく感じで作るみたいですね。

「大和大屋根」は産業遺産に指定されたので今後も使い続けます。

以前も同じ場所から写真を撮ったことがありますが、あの時とは
カメラの性能がずいぶん違うので、細部がよくわかります。

ふと山の斜面を見ると、五重の塔があるのに気がつきました。
真言宗萬願寺というお寺の五重の塔で、夜はライトアップされるそうです。

ここの境内から見る呉港の眺めはそれは素晴らしいとか。

Googleさんはアレイからすこじまにいくにはとにかくまっすぐ行け!
とおっしゃるのでその通りにしたら道がこれしか無くなりました。

地下道だと・・・?

なんなのこれ。
ただしこの地下道、隅っこにお掃除セットが置いてあって
チリひとつなく異様に綺麗です。

というのも、ここを通る人というのはその全員がJMUの社員で、
呉駅方面から来るバスから降りると全員がここを通り、
右に曲がって出社するためだけに作られた地下道だからでした。

地上に上がってみるとそこには逆車線のバス停があるのみ。
嫌な予感がしてバス停の向こうまで行ってみたら

歩道がありませんでしたorz

なんと、徒歩ではこの道沿いに歩いていくことはできないのです。
仕方なくわたしは今まで来た道を戻り始めました。

これはバス停のベンチのサラリーローン(死語?)の宣伝ですが、
「エリース」という名前にピンと来たので写真を撮っておきました。

戻る道沿いに、これも以前一度紹介している「歴史の見える丘」、
つまり呉中の石碑的なものをまとめて置いてしまったぜ!的な
なんでもありの一角が現れます。

この慰霊碑には、終戦直後の枕崎台風、昭和42年の集中豪雨、
平成7年の水害などが全て刻まれています。

この澤原為綱翁の像のように、戦時中金属供出で像が無くなり、
台座だけになったものも、市街地から運ばれてきています。

戦後になってもう一度澤原さんの像を作るという話にはならなかったんでしょうか。

そして「戦艦大和の碑」。
海軍墓地にも壮麗な碑があるわけですが、それだけではなく
こういうところにも建ててしまうという・・。

「大和碑」の前にあるのはただし戦艦「長門」の徹甲弾です。

反対側から見た「噫戦艦大和之碑」。
なぜ「噫」が付くのかは謎です。

この碑についてはあネットに情報が出てこないのですが、
昭和44年当時、まだ生存していた旧海軍軍人や自衛隊の海将などが
地元政財界とともに発起人となって建造したらしいです。

呉軍港の造船船渠に置かれた基礎石なども、ここにまとめてあります。
読みにくいですが、明治年間に着工された船渠の礎石。

「第6工場」「明治22年起工」などの石をまとめたタワー。
このレンガは旧鎮守府開庁当時の庁舎建材、土台の縁石は
境川にかかっていた二重橋の踏み石をそのまま持ってきたそうです。

明治27年6月起工。
これらは全て海軍工廠の礎石です。

呉地方隊の通用門まで戻ってきました。
正面をバッチリ写真に撮るのは憚られたので、少し離れてから
振り向いて素早く一枚撮ったのですが、拡大してみると
警衛の自衛官たちがちゃんとこちらをチェックしていました。

さすが怪しい動きをしている怪しげな人物を見逃さない(笑)

ホテルの近くまで帰ってきて驚きました。
1時間前まで川底が見えていたのに、溢れそうに水嵩が増えてます。

一体どういう仕掛けでこんなことになったのでしょうか。

 

というわけで二日にわたって呉の街を歩いてみましたが、
やはり車の目線とは違う発見があり、呉の街の別の面を知った気がします。

今度はなんとかして潜水艦基地まで歩いていくぞー!

 

終わり。


呉の街を歩く〜ピンクの船に華麗に掌返し

2018-11-04 | お出かけ

呉艦船巡りのレポートを読んだ方からメールを頂きました。
このクルーズを運行しているのは(有)バンカーサプライという海運会社で、
夏の呉における水害の際には、遊覧船や定期船を稼働して
被災者を江田島や離島に輸送するなど尽力されたということです。

さて、その艦船巡りを終えてホテルの部屋に一旦帰り、
しばらくPCに向かっていたのですが、ふと今日の晩は何を食べよう?
と考えた時、ここまで来たのだからクレイトンベイホテル まで
歩いていって「愚直たれ」関連メニューを頂くことにしました。

早速ホテルを出て、スマホの道案内に従って川沿いに出ます。

実はわたし、今回アメリカ滞在時に毎日歩き回ったせいで、
(アメリカはモールといっても広大なので、車で移動しても
買い物などしているとあっという間にかなりの距離を歩くことになる)
今や一日1万歩歩かないと気が済まない体になってしまったのです。
地方出張の際も運動靴を持っていく有様。

(ただし季節限定で暑くなるとやる気がなくなる模様)

今回の呉訪問でも、ほとんど初めて自分の足で街を歩いてみよう、
写真を撮りながら・・・と楽しみにしていたのです。

今までタクシーでしか行ったことがなかったので、
ものすごく遠いようなイメージがあったクレイトンベイホテルですが、
調べてみたら今いるホテルから徒歩17分というではないですか。

今のわたしにとっては17分なんて近すぎて物足りないレベル。
目標の1万歩にはとても届かないけど、歩かないよりマシです。

早速靴を変え、肩にカメラを下げてホテルを出ました。

境川の古い(おそらく海軍が作った?)パイプの鉄橋の上に、
サギさんと鵜さんが仲良く止まっていたので一枚。

川沿いを歩きながら、呉教育隊をさりげなく観察していると、
これは間違いなく海軍時代のものだと思われるレンガの建物発見。

屋根だけ葺き替えて今も倉庫か何かに使っているようですね。

鉄扉で覆われた小さな窓が一面ずつしかないところをみると、
弾薬とかそういうものの倉庫だったのではないかという気もします。

それにしても窓の右上の白丸は何でしょうか。

Googleマップがこちらに行けというのでその通り歩いて行くと、
三菱日立パワーシステムズ(株)呉工場の横に出ました。

MHPSは、GE、シーメンスと並びトップ3というくらい
火力発電分野ではシェアを占めている大会社です。

三菱と日立どっちやねん!というこの名前なんですが、実は
東日本大震災後、両社の顧客である電力会社の経営が苦しくなったため、
GEやシーメンスとも渡り合えるように統合した結果なんだとか。

工場内はまだあかあかと灯が点っています。

海側に向かって歩いていくと、いきなり現れるてつのくじらのノーズ。
よくみると艦体に不思議な形の切れ込みがたくさんありますね。
特に砲弾のような形、これは何の機能があったのでしょうか。

ついでに貼っておくと、これが「てつのくじら」あきしおを、
現在の居場所に設置した時の写真。

実は「てつのくじら」のすぐ隣のブロックに(株)日立物流、
その一軒おいて隣にエンジニアリング・ヒロという会社がありまして、
どうやらこの作業を行ったのは超近場のこの2社だったみたいなんですよね。

左上で「あきしお」を釣り上げている起重機船の名前は
このパネルによるとなんと「武蔵」だそうです。

前にも書きましたが、「あきしお」の設置に際しては、
深夜、歩道を取っ払い(段差があるとダメなので)、
信号を止めて一晩で運搬と据付を済ませてしまったそうです。

このパネルは日立物流の正門に埋め込んでありました。

二河川の河口湾に突き出る突堤に、海上自衛隊第101掃海隊があります。
呉の掃海隊基地がどこにあるのか、この散歩で初めて知りました。

基地といっても突堤に面した二階建てのこぢんまりした隊舎ですが。

第101掃海隊には艦番号730の「くめじま」、そして
この731の「ゆげしま」がいます。

この日「くめじま」は外出中だったようですね。

フリッツ・ラングの「メトロポリス」に白黒で出てきそうな光景。
三菱日立パワーシステムズの一角にあるので、工場のパイプ的なものが
全部集めてある塔だと思いますが違ってたらすみません。

二河川を渡る「かもめ橋」に差し掛かりました。
この川にはなぜか二車線の橋と歩道専用橋が二つかかっていて、
その間にブルーと年代を感じさせる茶色のパイプ橋、
これらが二本渡されているのです。

(つまり橋が各種4本架かっている状態)

最初のサギと鵜の止まっていたこの橋もそうでしたが、
呉の川にかかるこの「パイプ橋」、「水管橋」であれば水、
あるいは電力線かガス管を渡すためのものだそうです。

昔は左の歩道橋と古い水管橋が架かっていたのが、
交通量の増大で戦後もう一つ車用の橋を敷設し、さらに
水管橋も新しく作ったというのが予想される歴史的経緯です。

二河川(にこうがわ)を渡ります。

灰ヶ峰を水源とする川ですが、その姿が変わったのは1886(明治19)年、
この地に海軍区が制定され呉鎮守府が置かれることになり、
安芸郡呉港を軍港として整備することが決まったからでした。

つまり呉鎮守府一帯に安定して上水を送り込む軍用水道の水源として
大日本帝国海軍により二河川の開発が始まり、まず明治時代に
二河峡内に取水口「二河水源地」が造られ、大正時代には貯水地
「本庄水源地」が建設された、というのが歴史に残っています。

さらにいうと、河口部の現在の呉市築地町、つまりこれから行く
クレイトンベイホテルのある一帯は、1927年(昭和2年)に
帝国海軍によって埋め立て工事とそれに伴う大規模な河川改修の末、
出現した地区だったということもわかりました。

というわけなので、先ほどのこの水道橋は、当然のことながら帝国海軍が
上水を引くために昭和2年敷設したもの、ということになります。

呉という街は海軍が作ったということをあらためて実感させられますね。

さて、時は下り平成の世になって、帝国海軍呉鎮守府長官庁舎の主は、
海上自衛隊呉地方総監と名前を変えたわけですが、その総監は
海軍の作った呉という街においてこんなプレゼンスを展開しておられました。

いやー、歴代呉鎮守府長官も、次の世紀で海軍中将がこんなことをやれるほど
世の中がある意味平和になっているなんて想像もしてなかっただろうな。

 

前回このクレイトンベイホテルで、わたしは「愚直たれうどん」を食し、
それはお世辞下心忖度抜きでまことに美味しいものだったわけですが、
その呉濤(ごとう、って読むのかな)にも感謝状が飾ってありました。

しかしそれにしても・・・

「想像を絶する愚直さ」「無理難題」「水を得た魚のように」

この賞状の文章考えた人、誰?

 

実はこの晩、当ホテルのカフェで提供されている「がんすバーガー」を
一足先に試食してみようとここまでやってきたのですが、
そのカフェが会社団体の貸切になっていたため、呉濤で
まだ愚直たれうどんを提供していないか尋ねてみたのです。

「申し訳ありません。
あのメニューは期間限定でしてもう終了してしまいました」

というマネージャーのお言葉に、わたしはここで普通の
レディース御膳を頂いて帰ったのでございました。

帰りにかもめ橋の西詰で見かけて感動したこのトマソン的建築。
建物の中に階段がないので、外付けの階段で二階に上がるという・・。

廃屋なのか?それとも使われているのか?
よく芸予地震で倒れなかったなあと思われるこのデンジャラスな造形。

こういうのを見ると廃墟(じゃないかもしれないけど)好きの血が
わーっと騒いできます。

さらに角度を変えると、なんと看板が。
看貫(かんかん)という言葉は変換もできないわけですが、
サマセット・モームの「アンティーブの三人の太った女」という小説では
体重を量る、という言葉をこう翻訳していたのが記憶にあるのみです。

ここは何かを計量する場所であることはわかった。
それが「川原石」なのか?
「川原石」というのはこの計量所の持ち主の名前なのか?
そもそも計量してそれを買うのか?売るのか?

インターネットで検索してみたのですが、それらしい記述はみられず。

かろうじてマピオンで出てきた情報は電話番号と(電話はあるんだ)
ジャンル:精密機械器具 というもの。

精密機械・・・・・がこの建物の中にぎっしりとあったらすごいなあ。

ものすごく気になるのですが、どなたかこの企業?について
情報をお持ちの方はおられますでしょうか。

さて、空けて翌日。
わたしは自衛隊記念日の式典が始まるまでの自由時間を利用して、
呉の街を散歩することにしました。

今まで車で主に移動していた街ですが、歩いて見る景色は
またずいぶん違ったものになると思われます。

昨夜のトマソン的建物や水管橋みたいな発見もあるわけだしね。

ホテルを出て境川のほとりをまず歩き出しますと、
やっぱり目に飛び込んでくるのはあの蛍光ピンク・・・。

20bさんに頂いた情報によると、これがあと少なくとも
半年は続くということですが、御察しの通りで、
わたしはこの散歩によって、クルーズでは遠くに見えていた
さらにもう一隻のONEのピンクコンテナ船を確認したのですが、
それは次回にお話しします。

それより、20bさんの情報で注目したのが、このONE という会社が、

Ocean Network Express

2017年設立の日本の海運会社

川崎汽船31%、商船三井31%、日本郵船38%

という統合会社であるということです。

昨夜横を通り過ぎたMHPSもそうであったように、
外国の同種大企業と対等に渡り合うことを目的の一つとして
このような統合が行われたと考えていいのでしょうか。

そういう経緯を考えると、この蛍光ピンクには、日本の造船業界の

「まだまだ負けるわけにいけんのじゃあ!」(なぜ広島弁)

というZ旗的意味合いが込められているような気がして、
途端に手のひらぐるんぐるんに返してみるわたしでした。

Z旗的、というのは背水の陣の覚悟、つまり吹っ切れたという意味です。
そう思えば、このピンクも「ホルモン系」ではなく、日の丸の紅白を
混ぜ合わせ(てちょっと蛍光をまぶし)た国粋色に見えてきませんか?

・・・・・・・・・・・・・・。


・・・・見えませんかそうですか。

と、とにかく日本の造船業、がんばれ!

 

呉散歩編、続く。

 

 


呉艦船めぐり再び〜潜水艦の白煙

2018-11-03 | 軍艦

呉港をめぐる「艦船巡りクルーズ」、続きです。

客引き兼添乗員兼解説の方の白いジャンパーは
クルーズを企画している会社の支給品だそうです。

「今はいいんですが冬もこれなので寒いです」

クルーズで解説はされませんが、こういうのにも注目してみる。
「工作部」とあるここは正確にいうと

呉造修補給所 工作部

造修補給処は英語で「リペア・サプライ・ファシリティ」。
修理し、補給を行う後方支援組織です。

「総務科」「計画調整部」「艦船部」「武器部」「資材部」

と並んでこの「工作部」があります。

工作部では各艦艇の修繕に関わるでしょうし、例えば
ここではなく江田島にLCAC専門の調整・修繕を行うところがありますが、
そこも造修補給所工作部の一部門です。

続いて見えてきたのは掃海母艦「ぶんご」。

向こう側に見えるのは輸送艦「くにさき」です。

「ぶんご」の甲板上にいた数人の乗員が手を振ってくれたので、
船の何人かが自衛艦旗を振ってそれに応えました。

「女性隊員がいますね」

宮崎で行われた掃海隊訓練のとき、艦内を案内してもらいましたが、
その時女性の幹部が指揮官配置についていると聞いたものです。
掃海艇にはまだまだ特殊(艇長がそろそろ誕生しているかもしれない)
ですが、掃海母艦には女性乗員が普通に1割くらいいる印象です。

それよりわたしが気になったのは艦腹の黒い傷跡。
何かにぶつけて擦ってしまいましたかね。
手すりに赤い旗が結びつけてあるのも気になるんですが、
この傷とは全く無関係でしょうか。

こちらも修理中らしい、艦番号3513、練習艦「しまゆき」。
2013年、海上自衛隊史上初の女性艦長(大谷美穂二佐)を
戴いた練習艦でもあります。

大谷二佐と同日、やはり練習艦(せとゆき)艦長となった東良子二佐は、
その後一佐に昇進し、現在護衛艦隊司令であるのは皆さんもご存知でしょう。

「せとゆき」の艦橋を拡大。
CIWSはじめアンテナなど、艦橋の下部分がカバーで覆われているので、
おそらく全面的に塗装を行う(行なった?)のだと思われます。

輸送艦「くにさき」が見えてきました。
人生初めて参加した観艦式で、乗っていた「ひゅうが」の隣の
「くにさき」が出航していく様子をこれも初めて見て感激したものですよ。

海軍の伝統を受け継ぐ出航の儀式、なんて美しいんだ!

ってね。(〃'∇'〃)ゝ

というわけでわたし的には非常に感慨深い思い出のある「くにさき」。
「くにさき」の横には「油ぶね」が横付けしてお仕事中。

YO37は支援船第1種たる燃料補給船です。
自船の周囲にオレンジ色の浮きをめぐらせていますが、
これは万が一オイルが溢れてしまったとき、海に広がらないように。
だと思います。

「おおすみ」型輸送艦にはLCACを2隻搭載しますが、
「くにさき」にはどうなんでしょう。乗るのかな?

えーと、これはドアが両側に開いて、ラッタルが降りてきているところ?

解説の人が「一番小さな護衛艦」と繰り返していた「とね」。
ちなみに同じ名前の居酒屋が呉市内にありますが、ここには
代々「とね」艦長が写真とサインを贈呈する決まりがあるようです。

ちなみに戦前、巡洋艦「利根」というのがあって、
こちらは流石に普通の巡洋艦なので「とね」の二倍の全長でしたが、
初代の防護巡洋艦「利根」は奇しくもほぼ同じ大きさ
(利根=109.7m とね=109.0m)でした。

ちなみに今年の練習艦隊司令官である泉海将補が、かつて
艦長を務めたたことがあり、艤装艦長は、あの練習艦「かしま」の

「女王陛下にキスされて光栄に思っております」

で有名になった上田勝栄2等海佐(当時)でした。

 

ちなみにこの岸壁は有名な「大和」の写真が撮られたバースだそうです。

船はずいずいと進んで、潜水艦基地付近に差し掛かります。
「しお」型潜水艦が見えてきたぞ!
おまけに着岸してすぐらしく、背中にいっぱい人が乗ってる!

潜水艦は皆同じように見えますが、水上艦より見分け方は簡単で、
まずセイルの前部が直角なら「おやしお型」、カーブがあれば「そうりゅう型」。
後ろの潜舵がまっすぐ立っているのが「しお」、斜めのX舵なら「りゅう」型。

さらに、艦橋の小さなドアが丸いのは川崎重工製、
ドアに角があるのは三菱重工製、という区別もできます。

というわけでこいつは川崎重工生まれの「おやしお」型ということになります。

しかしこんなシーンは初めて見ます。
たくさんの乗員が全員潜舵に正対して傾斜に並んで立っているの図。

舫かけ作業の一環でしょうか。

ちなみに区別といえば、この写真で黒っぽい服を着ているのは幹部、
ブルーの作業着は曹士です。

迷彩服はどちらもが着ると思いますがどうでしょう。

なぜ岸壁に自転車があるのか。

はともかく、興味津々でこの作業を見るうちあることに気がつきました。
ダイバースーツを着た人がいる!

あーもう、後ろのピンクなんとかならないかな(イライラ)
せっかく潜水艦乗員の着岸後の作業を写真に撮れるチャンスなのに、
このピンクが写り込むせいで画面にいまいち緊迫感がな〜い!

という怒りはともかく、ここにはダイバーが三人もいることがわかります。
なんだろう。なんのためにダイバースーツを着ているんだろう。

ホースで水をかけているわけはわかりますよ。
解説の方が、

「潜水艦は港に帰ってきたらまず艦体に水をかけて、
潮を洗い流すんです」

と言ってましたから。
ちょっとびっくりしましたよ。
海に沈むものなのに、いちいち水洗いしてるんですか我が軍は?

US-2やP-3Cが海上を飛んだ後必ず水で洗うのはもっともだと思うし、
そうしないと機体が傷んでしまうというのはよくわかるのですが。

いやでもこれ、自衛隊だけでしょ?
アメリカ海軍が原潜にいちいち水をかけてるなんて想像できません。

ホースで艦体に水をかけて半世紀、この道のレジェンド、みたいな海曹。
(あくまでもイメージです)
ホースが金剛力士像のスカーフみたいになってます。

その向こうの「しお」型潜水艦はただいま充電中。
朝ここにくると、朝日を浴びながら白煙をだす潜水艦の
実に麗しい光景が見られるものですが、帰還後にもやります。

潜水艦は帰還すると艦体のハッチ部分にこのような「舷門」を立てます。
お天気が悪くても雨が艦内に入らないし、ハッチを一眼から隠せますね。

そうそう、解説の方は

「潜水艦が停泊してすぐにすることは、ハッチにカバーをかけること」

とも言ってました。
ハッチのドアの厚み=艦体の厚みなので、カバーで隠してしまうのです。

ラッタルを渡ってきた民間の作業員が、セイルを登って行きます。
もう一人の写真を撮っているおじさんに、教えてあげたのですが、
あっという間に丸いドアの中に消えていきました。

こちらは白煙を吐いている「しお」型の向こう側のやはり「しお」。
こちらの潜水艦のハッチカバーは全て黒で統一されています。

潜水艦基地のあるアレイからすこじまの海沿いには、
ご覧のような戦前から伝わる赤レンガの倉庫が立ち並びます。
いずれも現役で使われているようですが、やはり旧海軍時代から変わらない
岸壁の素材と相まって、本当に風情があります。

解説の方が自衛隊基地ではないところに泊まっている
この民間船についての説明を始めました。

「じょうみち丸」

という名前のこの船は、「イルカに乗った少年」で有名な
(というかこの歌しか有名にならなかった)城みちるさんという
地元出身の歌手の同級生が、同氏をリスペクトしてその名前を冠した
貨物船なんだそうです。

船が回り込めなかったので微かにしか見えませんが、
船橋に「イルカに乗った少年」のイラストが描かれてます。

イルカにのった少年 城みちる(1974)

城みちるさんは解説の人によると現在

「電気屋の店員をしている」「時々地元のイベントに出る」

そして、

「さすがは元芸能人、という感じで普通の人とは違うオーラがある」

とのことでした。
画像検索すると現在のお姿を見ることができますが、
「ほぼビデオのデビュー時そのまま」と言っても
過言ではありません。

某沢田研二さんにはいろんな点で見習ってほしいものです。

さて、「じょうみち丸」のところでクルーズ船は帰途につきます。
帰りにこのしお型の横を通りかかったら、甲板で幹部が
こちらを双眼鏡?でガン見しているのに気がつきました。

やっぱりクルーズ船に怪しい動きをしている中国人とかが
いないかどうかチェックしているのかしら。

文化産業遺産(だっけ)に指定された「大和の大屋根」が奥に見えます。

呉港にきて真っ先に目に留まるのはこの「大和のふるさと」の文字です。
最初にここにきた頃にはまだ「IHIマリンユナイテッド」といったものですが、
その後いつの間にかJMUという名前に変わりました。

海側から呉地方総監部の長官庁舎を臨む。
手前の地下司令室は、「ディア・ボス」でも紹介されていましたね。
TOの職場の人たちが皆で観ていて、後から

「あの地下壕、ぜひ一度見てみたいです!」

と興味津々だったそうです。

わたしは「池や」の天ぷらをぜひ食べてみたいと思いました。

というわけで、艦船巡りツァーは終了しました。
わたしはこの夜も、次の朝も呉の街を歩いてみたのですが、
またそれは別の日にお話しします。

 


呉艦船めぐりふたたび〜ピンクの巨大コンテナ船

2018-11-01 | つれづれなるままに

今日のお話の前にこの写真を見ていただけますか。

予約していた不肖宮嶋茂樹氏の写真集、

「鳩と桜 防衛大学校の日々」

が昨夜手元に届きました。
一般書籍として売られているわけですが、装丁からは
まるで「防衛大学校卒業アルバム」の雰囲気が漂っています。

注文しようとして驚愕したのが9,180円也というそのお値段ですが、
このことを知り合いにいうと、

「写っている防大生の親は必ず買いますから」

なるほど、それで卒業アルバム仕様なのか・・・。

不肖宮嶋氏ご本人によると

「防衛大学にも入学要綱やパンフレットはあるが、
外国からの要人にもうすぺらいパンフを贈呈するのも
ちょっとばつ悪いときもあるかなということで、協力をいただけた」

ということです。
なるほど、防大からも要人用に購入が見込まれるということですね。


しかし、防大生の親でなくとも、不肖宮嶋氏が防大に密着して
レンズを覗き続け、撮影した防大な、いや膨大な数の写真から選ばれた
防大生たちの姿には心を揺さぶられること請け合いです。

例えば昨年の音楽まつりでわたしは儀仗隊を撮影する
不肖宮嶋氏のお姿を見かけてここで紹介しましたが、
写真集には
儀仗隊の写真は一枚だけしか掲載されていないのです。

開校記念祭での棒倒しも5カットでうち2カットは応援団。

1年前の練習艦隊帰国行事にも不肖宮嶋氏は、本作出版元である
文藝春秋の腕章をつけて撮影しておられましたが、
練習艦隊下艦の時にはもう任官していて「防大生」ではないためか、
その時に撮られた写真は一枚もありませんでした。

それだけ選りすぐりの写真だけが掲載されているということは、
実際に手に取ってを見れば深く納得できる写真集だといえます。


かつて海軍兵学校の生徒を写した「ああ江田島海軍兵学校」のカメラマン、
直継不二夫氏は、そのあとがきに

「写真を撮られている時生徒たちはレンズになんらの関心も払っていない」

と驚愕したことを残していますが、この「鳩と桜」においても、
訓練中の彼らの様子からは雑念を全く感じさせないひたむきさと
ピンと張りつめた心身の緊張が痛いほどに伝わってきます。

「ああ江田島」との大きな違いは、今時らしく、恒例の
卒業ダンスパーティの
写真が結構な数(5カットも)あることでしょうか。

あとは男女一人ずつ使って、結構色々ある防大の各種制服を
「制服図鑑」として紹介していることで、家族関係者だけでなく、
防大ファン(というジャンルがあるのかどうか知りませんが)にも、
お勧めの一冊であると思います。

さらに不肖宮嶋氏ご本人の言葉をブログから転載しておきますと、

「これから防衛大学への入学をめざそうとする受験生の皆さんはぜひ参考に。
現役の防衛大生、OB,OGの皆様は青春時代の思い出に。
そして開校以来65年もたつのに、あまり知られる機会が少なかった
防衛大学の日常をぜひご覧になっていただき、将来の国防を担う
幹部自衛官がどうやって育てられるか目にしていただき、
ご安心あれ。」

写真集装丁箱の裏側の写真で目を引くのは、
一本に続く長い長い線。
全然意味は違いますが、アメリカ陸軍士官学校の象徴的な言葉、
「ロング・グレイ・ライン(長き灰色の線)」を思い出しました。

そういえば不肖宮嶋氏がこの写真集を撮るきっかけというのも
アナポリスの写真集を手にしたことだったといいます。

 

 

 

さて本題です。
呉に来たものの、その日の午後からなんの予定もなくなった、

ということになったとき、あなたはどうしますか?

わたしに思いつくのは、大和ミュージアムか港めぐりくらいのものだったので、
「てつのくじら館」で呉総監ドックをお約束通りお昼に食べ、
さてどちらにしようかとミュージアムまでぶらぶら歩いて行くと、
大和ミュージアムの横で看板を持ったクルーズの客引きに声をかけられました。

「30分後に出航しますよ」

同乗するのが中国人だらけだったら嫌だなあと思いつつ、

「混んでます?」

と聞くと、さっきのツァーの半分もいない、という返事。
トワイライトクルーズで自衛艦旗の降下を見ることも考えましたが、
今にも雨が降りそうだったので、諦めて30分後の便に乗ることにしました。

時間にデスクの前に行くと、客引きさんが解説者も兼ねていることが判明。
わたしがカメラを持っていたせいか、

「後ろの席に座ると船の両側に移動して写真が撮れますよ」

と乗艦時に声をかけてくれました。
デッキの後方には反応してくれた自衛官に振るための旗が立ててありますが、
それとは別に添乗員が配ってくれたのがこの自衛艦旗。

「今なにかと話題の自衛艦旗ですけど」

と言いながら配り、さらには憤懣やるかたないといったご自身の、
この件に関するコメントをズバズバ言っていてヒヤヒヤしました。
元自衛官なら、まあその気持ちはわからんでもありませんが、
何しろ昨今、
どんな面倒臭い人が乗ってるかわかりませんからね。

5分前にデスク前に集合し、それから桟橋まで歩いて乗船し、
乗船したと思ったらあっという間に出航していました。

ところで今見えている岸壁は年代物に見えますが、
やはり旧海軍時代に建造された部分なのでしょうか。

さていよいよクルーズの始まりです。
解説は必ず最初にてつのくじらである「あきしお」の説明から。
あきしおの手前には「しんかい」があって大きさの違いが比べられます。

「あきしお」の手前に戦艦の測距儀部分のようなものが見えますが、
公園に戦艦「大和」の甲板部分と同じ大きさが再現されていて、
ちょうどここに艦橋があるという設定なのです。

昔、大和ミュージアムを観に来たところてつのくじら館と共に
休館日だったため、仕方なく息子とこの公園で遊んだので知ってるのですが。

早速JMUのドックに入渠している艦番号158「うみぎり」に遭遇。
これ、何をしているかわかります?

予想なんですけど、主砲の砲身を点検か付け替えしてるんじゃないかな。
全体をカバーで覆ってあるし、今見えているブルーの砲身は
ダミーかあるいは新しいブツのカバーじゃないかと思うんですが。

ところで、BSの「ディア・ボス」ご覧になりました?
芸人さんが突撃体験の一環としてなんと潜訓でダメコンをして、
(させられて?)マジになっていた(怒ってた?)のには驚きましたが、
それはともかく、番組中、彼らが呉港で撮影したシーンのバックに
ことごとく写り込んでいましたよね。

このピンク色の物体が。

今回呉に来て結構驚いたのが、建造中の巨大なピンクの船です。
喫水線下の錆止めの赤とのコンビってなんちゅうカラーリングや、と、
遠目に見た途端呆れかえったのですが、近くで見るとこれがまたすごい。

14000tのコンテナ船、「ONE GRUS(ワン・グラース)」です。

Grus、って星座の「ツル座」のことなんですって。
全長364mということなので、「大和」より100m大きいということになります。

この船について調べるとどの記述もこの色を「マゼンタ」と称しているのですが、
実際見たところ紅紫色と称されるマゼンタというより、
「濃い蛍光ピンク」にしか見えないという・・・・。

しかしこの巨大な船になぜわざわざこの色を選んだかね。

並んでいるのが同型船の「ONE COLUMBA(ワン・コルンバ)」
コルンバは「はと座」(ってのがあるんだ・・)の意味で、どうやら
この船は「ONE+鳥系星座名」という命名基準のようです。

解説の人がクイズを出しました。

「どのくらいで一隻が完成すると思いますか」

近くに座っていた女性が

「半年・・・?」

「当たりです!」

半年でこの巨大なコンテナ船ができてしまうなんてすごいですが、
わたしはまた別のことを考えていました。

「半年もの間、呉の人はこのピンクの塊を毎日見せられてるんだ・・」

目立つという意味ではこんな目立つ色もありませんが、
はっきり言ってなんというか・・・・イラっとくる色なんですよね。

一般的にピンクというのは女性ホルモンを分泌させると
医学的にも認められた色ですが、
こちらは同じホルモンでも焼肉でおなじみの
「朝◯ピンク」といいますか(この意味わかる?)。

上品どころかその正反対である!と「裸の王様」の子供のように叫びたい。

鳥の星座の名前を付けるならもう少しそれらしいシルバーとか、
イメージに添った色というものがあるんじゃないかと思うんですが。

タグボートが押す場所を指定してあります。
このピンクの塊に立ち向かっていく曳船のクルーの身になってほしい。
絶対目がチカチカするわ!

さて、という話はそこそこにして。
今回のクルーズで唯一すれ違ったのはタグボート「なさみ丸」。

三陽海事という曳船事業がメインの会社のタグだそうですが、
この三陽海事、本社が大阪駅前第2ビルですって・・。
懐かしいというか、関西にいた時のことを思い出すなあ。

客引き兼添乗員が言ったように、確かにこのツァーは人少なめ。
余裕で好きなところに座ることができ、さらに写真を撮るため
後部のデッキをもう一人のカメラ持ちのおじさんと一緒に
右往左往することができました。

おじさん「ここにもたれると揺れても大丈夫だよ」

わたし「すみません。ありがとうございます」

人多すぎだと、場所取りで殺気立つ傾向にあるカメラ持ちも、
これだけ余裕があれば和やかなもので、つい

「金持ち喧嘩せず」

という金言を思い浮かべたりします。

添乗員は話を聞いていると、

「三年前に退官した」「掃海母艦に乗ったことがある」

ということまではなんとなく端々からわかりました。
このツァーは元自衛官が解説を行うので、どこかの軍港クルーズのように
聞きかじりで適当なことを言わないのが大変評価できます。

ここからは自衛隊基地に係留されている自衛艦たちです。

訓練支援艦「くろべ」JS Kurobe, ATS-4202

「黒部」というと真っ先にダムが浮かびますが、訓練支援艦の命名基準は
初代の

「あづま」群馬県吾妻峡(ただしこちらはあがつまきょう、と読む)

現役で次級である

「てんりゅう」長野県天竜峡

と同じく渓谷です。

訓練支援艦とは、主に対空射撃訓練支援用に無人標的機を管制する艦艇で、
その甲板にはオレンジ色のドローンの姿が確認できました。
(焦点がどうしても手前のネットに合わさってしまいすみません)

「くろべ」はBQM-74EチャカⅢBMQ-34AJファイアービー、という
二種類の標的機を積んでおりますが、こちらはチャカIIIの方。
日本電気がノースロップ社と提携して作ってるそうです。


そうそう、話題はそれますが、ノースロップといえば!

さっき息子とサンクス・ギビングのことでスカイプしていて、
彼がボランティアで参加している大学救急隊の先輩が、この度、
ノースロップ社かロッキード社どちらかに就職が決まったという話を聞き、
当たり前なんですが、やっぱりアメリカの工科大学なんだなあと感動しました。

ちなみに息子のようなインターナショナル・スチューデントは、どんなに優秀でも
ノースロップ、ロッキード、GEの武器部門、レイセオンなど、
軍需会社に入社することはできません。(多分これからは中国系米人も難しくなる)

先輩はこの後、アメリカ国籍が正当なものであるかとか、
バックグラウンドに怪しい人物がいないかとか、
(急に中国人と結婚したりした人が親戚にいたらアウトかも)
そういう厳しいスクリーニングを経て正式に入社が決まるのだそうで、
入社のあかつきには、F-35に関わる仕事に就くことになっているのだとか。


余談ついでに、息子がボランティアをしている救急隊というのは
大学の救急車に実際に乗り込んで傷病者を緊急搬送することができる
資格を取り、
そのレベルに応じて「ルテナント」「キャプテン」などの
階級も貰えるそうで、
息子は参加してわずか1週間くらいで

「貴様は見所がある」(英語で)

というF-35先輩の鶴の一声によってすでに一階級昇進したんだそうです。
(ただし今階級がなんなのかはわからず)
救急隊の制服もあるんだそうですが、あまりに警官のと似ていて、
「安全上の理由で」、つまり警官と思われると不当な襲撃を受ける恐れがあるので
パレードの時くらいしか着用することはないそうです。

しかし、こんな形で我が息子が本物の「中尉」になるとは思わなんだ。

 

全く関係ない話で終わってしまってすみません。


続く。