ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

バトル・オブ・ブリテン〜ボストン 第二次世界大戦国際博物館

2020-05-06 | 博物館・資料館・テーマパーク

 

さて、今日のテーマは、「バトル・オブ・ブリテン」です。

まだ日本が真珠湾攻撃を行う前の1940年7月から、数ヶ月間にわたり、
ドイツ軍がイギリスに侵攻するための前哨戦として、まず
イギリス上空の制空権を奪取するために行った一連の空中戦、
これらを「バトル・オブ・ブリテン」(英国空中戦)と称します。

 

1939年9月。

ナチスがポーランドに侵攻してから2日後に、イギリスはドイツに戦争を宣言しました。
チャーチル首相が、ヨーロッパを征服する計画に干渉するな、という
ヒトラーの要求を拒否するという形になり、ドイツはこれを受けて
1940年7月からイギリス海峡を介してドイツ空軍を攻撃に向かわせたのです。

結果、イギリス空軍(RAF)はドイツ空軍に勝利し、ヒトラーに
第二次世界大戦での最初の大敗をもたらしました。

しかしドイツはこれらの軍事的損失にもかかわらず、イギリスの都市を爆撃し続け、
1941年5月まで「ザ・ブリッツ」(電撃)と呼ばれるキャンペーンを行いました。
(『1941』でダン・エイクロイドが『ドナルドがやったのか?』と言ってたあれです)

これらの爆撃で亡くなった英国市民は4万人から4万3千人に上るといわれています。

当博物館では「バトル・オブ・ブリテン」テーブルと呼ばれているものです。

このテーブルは、バトル・オブ・ブリテンの戦闘期間にRAF戦闘機司令室で使用され、
敵機とRAF戦闘機の位置情報が刻々とをプロットされたその実物です。

レーダーやその他のソースからの情報は、ヘッドホンを介して
このテーブルを担当する専門のプロッターに中継されました。

この情報には、航空機の高度、プログレッシブマップの座標、および
「フレンド・オア・フォー」(敵または味方か)の識別情報が含まれていました。

テーブルにはこのような地図が描かれており、
ドイツ空軍が到達するポイントを座標で表します。

こちらは、イギリス軍の女性部隊Women's Auxiliary Air Force(WAAF)
プロッターに情報を加えていっている様子。

ロンドンのスタンモアにあった司令部での写真だそうです。

下にいるブロンドのお嬢さんが一人何がおかしいのか笑っていますが、
上の階から見ている
おぢさんにも、顔を綻ばせちゃっている人もいます。

真面目にやれ(笑)

テーブルの写真奥に写っているのは、スピットファイアのコントロールパネルです。

これが英独軍の間で行われた空戦を高所から撮影したもの。
ドッグファイトの痕跡が空刻まれた瞬間。


左:RAF戦闘機パイロット

右:RAF戦闘機パイロット(1940年夏)

彼らの足元にある説明は、左を「夏用」としているのですが、
どう見ても右が夏用だと思います。(そうですよね)

RAFというのは皆さんもご存知だと思いますが、

Royal Air Force(英国空軍)

の略です。

 

バトル・オブ・ブリテンは114日間続きました。

その間、RAF並びに同盟国軍のパイロット544人が戦死し、
1880機を超えるドイツ軍機と1550機のイギリスの航空機が破壊されました。

たとえば、RAFの「スピットファイア」パイロットの平均余命は
4〜6週間だったといわれています。

また、この航空戦の大きな特色の一つとして、RAF戦闘機の
500人以上の搭乗員が、外国籍であったことが挙げられます。

イギリス空軍は消耗率の高いパイロット要員を補うため、
イギリス連邦諸国やイギリスの植民地だけでなく、外国からも
パイロットを採用して戦地に赴かせていました。

その内訳と参加人数です。(wikiによる)

ポーランド 145–147
ニュージーランド 101–115
カナダ 94–112
チェコスロヴァキア 87–89
ベルギー 28–29
オーストラリア 21–32
南アフリカ 22–25
フランス 13–14
アイルランド 10
アメリカ 7–9
南ローデシア 2–3
ジャマイカ 1
パレスチナ 1
バルバドス 1

カナダとオーストラリア、ニュージーランドは英連邦繋がりでわかるとして、
なぜポーランドがこんなに多いかというと、ポーランド亡命政府が
イギリス政府と協定を結び、自由ポーランド陸軍とポーランド空軍を
イギリスで編成していたからです。

そして、このポーランド人パイロットたちは戦前には高度な訓練を受けており、
さらに実戦経験も積んでいたベテランで大変練度が高かったといわれています。

たとえば、第303コシチュシコ戦闘機中隊は、他より遅れて参戦したにも拘らず、
バトル・オブ・ブリテン期間の全戦闘機中隊のなかで最高の撃墜数をあげました。

これは、イギリス側の全パイロットの5%にすぎない人数で、
バトル・オブ・ブリテン期間中の全撃墜記録の12%を達成したことになります。

この戦いでエースとなったポーランド空軍の

スタニスワフ・スカルスキ(Stanisław Skalski)1915- 2004

は、この時の功績で戦後将軍になっています。

彼の部隊は精鋭揃いで「スカルスキ・サーカス」と呼ばれたそうですが、
熟練の航空隊を「サーカス」(例:源田サーカス)と呼ぶのは
この辺りから出てきたのかもしれないと思ったり。

Josef František.png

チェコスロバキアから参加しエースになった、

ヨゼフ・フランチシェク軍曹(Josef František、1914-1940年10月8日)

没年月日を見ると、空戦で戦死したようですが、事故による墜落で、
ホーカー・ハリケーン戦闘機の墜落原因はわかっていないそうです。

なんでも、
ガールフレンドにいいところを見せようとアクロバット飛行中失敗した
という噂もあるそうで、それが本当ならガールフレンドは一生のトラウマものですな。

ちなみにオーストラリア空軍ですが、バトル・オブ・ブリテンの間に
日本軍が瞬く間に太平洋のイギリス領を占領してしまったため、
自国防衛のために、とっとと切り上げて帰国しています。

まず、右上の時計を見てください。
プロット室の写真に同じのが写っているのですが、これは
RAF戦闘機の司令室で使用されていた時計です。
文字盤には王冠のマークと「RAF」の文字が見えます。

マネキンがきている制服は、

Leicestershire(レスターシャー、イングランドの一地方)の
Home Guard (民兵組織)のユニフォームだそうです。

ホームガードとは第二次世界大戦中のイギリスで編成された民兵組織で、
ナチス・ドイツによる本土侵攻に備えて、17歳から65歳までの男性で組織され、
募集によって総兵力は150万人までになったといわれています。

ナチス・ドイツでいうと国民突撃隊や日本では国民義勇隊というところです。


ドラマ「おじいちゃんはホームガード」より(嘘)

 

ラジオで首相が呼び掛けた直後、政府が見込んでいた15万人を
大きく上回る24万人の志願者が、24時間以内に手続きをしました。

ただし資格者は、むしろ戦場に行かない若年か老年層に限られました。
写真のおじいちゃんも第一次世界大戦のベテランで、昔取った杵柄なのでしょうか。

「素晴らしき戦争」で皮肉られた祖国防衛のための自己犠牲ですが、
あの悲惨な第一次世界大戦を経験していた多くのイギリス人男性が、それでも
いざ国難となったとき、自分の愛する人たちを守るために
立ち上がったという事実を嗤うことはアッテンボローにも許されるものではないでしょう。

写真のユニフォームは「LDV」という腕章をしていますが、これは

Local Defence Volunteers

地域防衛ボランティアの頭文字です。
名称はその後チャーチルの命令で「ホームガード」に改められました。

こちらも同じレスターシャー地方の
Civil Defense Corps (市民防衛軍)の制服。

ただしこれはバトル・オブ・ブリテンにはなんの関係もなく、
1949年に主に冷戦核攻撃などの国家緊急事態が起きたときを
想定して結成された防衛隊です。

隣のレスターシャー繋がりで手に入れた展示ではないかと思われます。

ヨーロッパ全域をカバーできた大英帝国軍の航空勢力図とともに。
RAFの使用した飛行機の写真は、左上から順番に

ハボック  HAVOC 対地攻撃、軽爆撃機、夜間戦闘機

ハドソン HUDSON 哨戒、爆撃機

メアリーレット MARYLET

ホイットレー WHITLEY 爆撃機

マンチェスター MANCHESTER 爆撃機

メリーランド MARYLAND  輸送機

トマホーク  TOMAHAWK 戦闘機 (アメリカではP40ウォーホーク)

リベレーター LIBERATOR 偵察、哨戒 爆撃、掩護

ディファィアント DEFIANT 夜間戦闘機

カタリナ CATALINA   水上艇、偵察、哨戒爆撃機

アメリカで製造された機体が結構多かったことがわかりますね。

 

1940年、英国王室から関係者に送られたロイヤルクリスマスカードです。

バトル・オブ・ブリテンの期間中は、バッキンガム宮殿も空襲を受けました。
この爆撃で宮殿内のスタッフが十五人負傷、一人が亡くなりましたが、
国王ジョージ六世(英国王のスピーチのあの人)と妻のエリザベスは、
ほとんど退避することなくロンドンに留まり、国民の尊敬を集めたといわれます。

その年のロイヤルクリスマスカードには、その年の9月9日に投下された爆弾によって
損壊した宮殿のプールの前に立つ国王夫妻の写真が選ばれました。

撮影した日にちは9月10日となっています。

クリスマスと新年のご多幸を祈って」

という定型文がなにか別の意味に見えてくる強烈なカードです。

 

続く。

 


ノーマン・ロックウェル連作「四つの自由」〜ボストン 第二次世界大戦国際博物館

2020-05-05 | 博物館・資料館・テーマパーク

Sell / Auction Norman Rockwell Four Freedoms Posters at Nate D Sanders

2019年に閉館してしまったボストンの軍事博物館、
第二次世界大戦国際博物館の展示物をご紹介しています。

このように展示品はケルビンのボールを始め、16インチの戦艦の砲弾、
日本海軍の対空砲(ホッチキス製)、爆雷(右)などが並んでいます。

アメリカ海軍の水兵がジャケットを着ているマネキンの後ろは
日米戦の舞台となった太平洋地域に絞った地図です。

大東亜戦争のことをアメリカ人が「パシフィック・ウォー」と呼ぶのがよくわかります。

海軍省検閲済みの市販の大東亜鳥瞰図定価40銭。
昭南島(シンガポール)、ハワイ、パナマ運河主要部の地図、
そして戦局写真ち米英海軍勢力一覧表がおまけについています。

これに付されている説明には

「1942年に印刷された太平洋地域のこの日本地図には、
自然資源などの採掘地が記されています。
米国とちがい、自然資源の確保は、日本が経済を近代化し
成長するという野心に不可欠でした。
この地図はゴムその他の生産地が示されています」

とあるのですが、ちょっとこの説明は?です。

こちら普通にハワイの地図ですが、アメリカから見たら、
「日本人はこのような地図を見ながら虎視淡々と以下略」
の証拠にみたいに思えるのかもしれません。

さて、ここからは戦費公債購入を呼びかけるポスターシリーズです。
アンクルサムがバールのような物を持って腕まくりをしつつ、

「ジャップ・・・次はお前の番だ!」

次、というのは第一次世界大戦の次ということでしょうかね。
アンクルサムは『Uncle Sam』つまりUSでアメリカの擬人化です。

バターンとコレヒドールで捕虜になったアメリカ軍人を取り囲む日本兵。
「忘れることのないように」「仕事をやり通せ!」とあります。
敵への怒りと復讐心を掻き立てやる気を煽る戦時高揚ポスター。

「まさか戦争終わってるんじゃないだろうな」

これも公債ポスターですが、兵士の着ている服が微妙すぎて
彼がアメリカ軍なのか日本軍なのかわかりません。

敵地に必死の思いで潜入してきたら、もう戦争は終わっていた
(もちろんアメリカの勝ちで)という意味なのか、
戦争が終わったことを知らずに戦っていた日本兵なのか・・。

こちらは志願兵募集のポスター。
肩にハクトウワシをのせたアンクルサムが上着と帽子を投げ捨て、
腕まくりしながら敵に歩み寄る様子が描かれています。

いわゆる「リメンバーパールハーバー」ポスター。
今でも米軍はヒッカム基地に揚っていた銃痕のある星条旗を保持しているそうです。

「ここでの死者の死を決して無駄にしてはなりません」

左はアメリカ海軍の潜水艦の写真、右は貶しているの褒めているのか?
メガネで出っ歯の人相の悪い日本人が勉学に励んでおります。
こんな顔して勉強するやついないっつーの(笑)

なんて書いてあるかというと

「もしあなたがジャップのように一生懸命頑張れば
私たちは東京をそれだけ早く叩くことができるのです」

ということは、アメリカはとりあえず日本人が勤勉で働き者、
ということを認めてくださっていたってことですかね。

それはいいけどこのポスターの男の顔は酷すぎない?

 American Poster: Save Freedom of Speech............. Buy War Bonds ...

公債購入を呼びかけるポスターは、人気のイラストレーター、
ノーマン・ロックウェルも手掛け、彼の最高傑作とされています。

この「言論の自由」というポスターは、1941年の
ルーズベルト大統領の一般教書演説をテーマに描かれたものです。
ロックウェルは大統領の言葉次のようにアレンジしました。

欲望から解き放たれること (Free=解き放たれる)

恐れから解き放たれること

崇拝の自由

言論の自由

1943年のサタデーイブニングポストに掲載されて以来、再版を重ね、
戦争中には400万という史上最も複製された作品の1つになりました。

戦争債権の販売は、ルーズベルト大統領とモーゲンソー財務長官ののもと、
財務省は全国ツアーで「4つの自由」をうたい、
1億3300万ドルを超える戦争債券を売りあげたといわれます。

公債を売るためにボブ・ホープ、ビング・クロスビー、そして
ジャック・ベニーなどのエンターテイナーが献身的な協力をし、
また、「四つの自由」というタイトルの交響曲も作曲されています。
(今日全く聴かれることはないようですが)

ロックウェルは戦争協力のためのさまざまなポスターを描き、
1977年にフォード大統領から大統領自由勲章を授与されました。

オリジナルはストックブリッジのノーマンロックウェル博物館にあり、
わたしはこの実物を見たことがあります。

Amazon.com: WholesaleSarong Save Freedom of Worship 1943 Buy war ...

同じくロックウェルの「四つの自由」のひとつ「信仰の自由」
ルーズベルトの演説より、ここに描かれているのは8名の祈る人で、
下段右の帽子の男性=ユダヤ人、ロザリオを持った若い女性=カトリック、
と異教であれどもアメリカ人としてその信仰の自由は保証される、
ということを表しています。

 

「四つの自由」の三つ目、「恐れからの自由」です。

絵は、両親が見守る中、この世界の恐怖に気づかずに
ベッドで安らかに眠っている子供たちをあらわしています。

子供たちの布団を整える母親、そして立っている父親の手には
現在進行中の紛争の恐怖を報じる新聞が握られています。

しかし、彼の注意は完全に彼の子供たちに向けられており、
憂慮すべき見出しには向けられていません。
この 父親は、絵画の中で鑑賞者、つまり

「古典的ないわゆる’ロックウェル・オブザーバー’」

の役割を与えられています。

手には眼鏡があることから、彼はもうすでにこの
「ベニントン・バナー」を読み終えたところでしょう。
新聞の見出しは一部が隠れているものの、

"Bombings Ki ... Horror Hit"

というもので、いずれにしても穏やかでないニュースであることは確かです。

なおこの絵はロンドンの爆撃の最中に描かれたということです。

 

「欲望からの自由」は別名「サンクスギビング・ピクチャー」、
または「I'll be home for Christmas」として知られています。
「4つの自由」シリーズの第三作目で、描かれているのは
バーモントのロックウェル自身の友人や家族で、
それぞれを撮った写真を元に作画されました。

当時も今もアメリカで大変人気のあるポスターですが、戦時中、
飢えと困難に耐えていたヨーロッパでは、ずいぶん反発されたようです。

 

オーブンから出したばかりの七面鳥に釘付けになる皆の目、
テーブルの上のフルーツ、セロリ、ピクルス、クランベリーソースなどは
アメリカ人なら誰でもノスタルジーを感じずにはいられません。

アメリカの繁栄と自由、そして伝統的な価値観を象徴する作品は
アメリカ人には熱狂的に受け入れられました。

ただ、ヨーロッパ人の反発と同じく、欲望からの自由がどうしてこのシーンなんだ、
という説は当時からあったようです><

ガスマスクの使い方に対する広報宣伝です。
絵柄と全くそぐわないのですが、

「あなたのガスマスクを手入れしてください。
ナップサックや枕にしてはいけません」

って、わざわざポスターにするようなこと?

Give 'em both Barrels (彼らにバレルを与えよ)

こちらは兵士ですが、向こうはリベットを持った民間人です。
ジーン・カールの作品で、兵士が前線で戦うことができるように
後方における産業での戦争協力を呼びかけているのです。

 お上はこれが戦争に勝つために労働が重要であることを訴える
良いポスターであると満足していたようですが、肝心の工場労働者の調査によると、
このポスターに描かれている労働者がギャングにしか見えないため、
多くの人がFBIの
戦争犯罪を喚起ポスターだと思っていたということで・・・、
つまり画力に若干の問題があったと。

ドンマイ(笑)

ニューヨークセントラル鉄道で、列車修理の仕事に
女性を募集するポスターです。

「男性を戦いにいかせてください」

実にダイレクトです。

潜水艦に爆雷を装填する水兵が、

「奴らにこいつを喰らわせてやれ!」

海軍の志願兵募集ポスターです。

アメリカで発行されたこのリーフレットは、

「わたしは抵抗をしません」

と赤字で書かれており、これを持っている日本人は人道的な扱いを
保証されるとあります。
英文では、

「この紙を持っている日本人をすぐに
最寄りの公務員に連れて行ってください」

とあり、日本語で

「上の英文の内容は、『この人はもはや敵ではなく、国際条約により
完全に身の安全が保証されるべき者なり』ということが書かれている

左図は当方に来ている諸君の戦友の一部」

として、捕虜収容所で笑っている日本兵の写真があります。

日本軍の兵士は捕虜になるのを拒んで自決する者が多く、
通訳の日系二世はその説得が大変だった、とも言われています。

 

ここからは戦時中の人種隔離政策を表す資料となります。

 

上二つの小さな看板はいずれも差別政策に法って、
白人と「カラード」でシャワー室が分けられたもの、そして
「カラード」専用の待合室の札。

下は真珠湾攻撃以降、日本人排斥の法律が正式に発令され、
地域から出ていき収容所に入ることを布告するもの(左)、
英語と日独伊三ヶ国語で書かれた「エイリアン・オブ・エネミー」
身分証明書を郵便局で申し込むこと、というお知らせ(中)
収容所への入所を勧告する公報(右)です。

 

日系人としてアメリカ軍に入隊し、ヨーロッパ戦線で負傷した
トム・カサイとその妻、ルースの写真。
手紙は、トムがフランスで負傷したことを伝えています。
パープルハート勲章はその時に授与されたものでしょう。

下のニューヨークの病院から発行された通知書によると、
カサイさんは左腿に銃弾を受けたということです。

トム・カサイという人がロスアンジェルス育ちで水泳のチャンピオンだったこと、
陸軍に入隊し、真珠湾攻撃の頃には厨房で働いていたことが書かれています。
彼が軍に入隊した後、妻と彼の両親はアリゾナの強制収容所に入所し、
そこでカサイが負傷したことを知らされ、ルースはニューヨークに駆けつけました。

実家はマーケットを経営していたようです。

左の日系人青年はフランク・マサオ(マス)・イモン。
戦争前はニュースリポーターとして働いていました。

開戦後は諜報局で語学研修を受け、通訳の任務を行いました。
右上の日記には、真珠湾攻撃の報を受けて衝撃を受けたことが記されています。

イモンさんが情報局の訓練で使った教科書には、

「NO TOUCH PROPERTY OF MAS 」(マスの所有物につき触るな)

とシールが貼ってあります。

このケースには敵に配布するためのプロパガンダ・ビラが展示してあります。

どこの国が作成したのかわかりませんが、アメリカ兵に向けて
なんのために戦っているのかとか、命を無駄にするなんて気の毒に、
みたいな言葉を投げかけ厭戦気分を書き立てようとしています。

骸骨化した兵士のイラストが妙にアニメっぽい。

オーストラリアに旗をたて、嫌がる女性を拐おうとしているアメリカ、
ニュージーランドは隣から傷だらけになりながらアメリカを攻撃しようとしています。
どうもこの比喩の意味がわからないなあと思いつつ、次のを見ると、

日本から打ち寄せてくる波に立ち向かい溺れるオーストラリア兵、
後ろで太ったアメリカ人(ルーズベルトらしい)が、
オーストラリアの領土を抱え込んでいます。

手書きの文字は

「オーストラリア人が尊い血を流している間、ルーズベルトは
彼の利己的な目的を予定通りに進めているのである」

オーストラリアは連合国に加わり太平洋における戦争で日本と戦いましたが、
そこに至るまでアメリカの戦争に参加させられることに反対する世論が
オーストラリア国内にもたくさんあったということなんですね。

そりゃ、オーストラリアにしてみれば別に日本に盗られた土地もないし、
アメリカに付き合って戦争するのはごめんだ、というひとがいたとしても
全く不思議なことではありません。

当時の反米論がこんな形でプロパガンダしてたってことになりますが、
今までこんな角度から米豪関係を見たことがなかったのでちょっと新鮮です。

 

そしてここからはどこで収集したのか、日本に関するグッズの展示。

三国同盟が締結された時に提灯行列で祝われたというその証拠、
ハーケンクロイツの印刷された提灯が展示されています(笑)

この大きさから見て戦艦級以上の中将旗でしょう。
割れた先を折りたたまないと床についてしまうくらいです。

詳しい説明はなく、博物館の人に尋ねたのですが、ただ
「長門の中将旗」ということしかわかりませんでした。

この中将旗が博物館閉鎖後どうなっているのか、そして
今後どこでどうなるのかが気になって仕方ありませんん。

 

 

続く。

 

 


ボストン 第二次世界大戦国際博物館〜真珠湾攻撃

2020-05-03 | 博物館・資料館・テーマパーク

ある年の夏、アメリカに行くと必ず滞在していたボストン郊外の街に
軍事博物館があったことを、偶然インターネットで検索していて知りました。

第二次世界大戦中の軍事資料を一堂に集めた、

The International Museum of World War II

という名前の博物館です。

1999年からあったというのですが、実際にボストンに住んでいた時期も含め、
毎年この地域に滞在しながら全くその存在を知りませんでした。

もっとも住んでいた頃もその後も、軍事博物館などというものを
検索したことなど一度もなかったのでそれも当然かと思われます。

というわけで、存在を知った2018年の夏、東海岸滞在中に
わたしは一度だけここを見学してきたのですが、驚いたことにその後

2019年、突然博物館そのものが閉鎖され、消滅してしまいました。

しかも、わたしが訪問してこの時に撮影できた展示品はごく一部で、
残りはまた次回渡米した時に、と思い開館情報を調べると
閉鎖したというお知らせが出てきて唖然、という次第です。


どちらにしてもコロナ騒ぎで今年の渡米は叶いそうにありませんが、
この、地球上のどこに行っても今は見ることができなくなった
貴重な歴史遺物をご紹介して、ありし日の博物館を偲びたいと思います。

今回は、その展示の中から対日戦に関する資料をご紹介していきます。

とにかくこの博物館に足を踏み入れるなり圧倒されたのが所蔵物の多さです。

時間があれば残らず写真に収めたかったのですが、それも叶わず、
結果として閉鎖によって永久にその機会が失われてしまいました。

さて、画面中央にあるのは、訓練に使われていた
アメリカ海軍の潜水艦の潜望鏡一部分です。

1941年ごろに使われていたものと説明があります。

日本帝国海軍提督用儀礼服も一揃いマネキンに着せてあります。

展示物は数が多すぎてほとんど説明がないのですが、この絵は
まだ日本に本土空襲が行われる前に、

「もしアメリカ軍が本土にやってきたらどうなるか」

ということを予想して描かれたものだと思われます。
その理由は、実際に本土攻撃を行っていないP-38などが描かれていることで、
爆撃されているのは軍需工場や港など。

サラリーマンや子供連れの女性などが山に避難していますが、
実際の空襲は都市を無差別に焼き払うようなものだったため、
工場付近から逃げれば何とかなるというようなものではありませんでした。

空をたくさんのB-24リベレーターが飛んでおり、実際にも
B-24は本土空襲を行っていますが、B-29登場以降はそれが主力となりました。

ちなみに、広島で捕虜になっていて原爆で死亡したアメリカ人は
B-24の搭乗員であったということです。

「時は迫れり!!」

というこの時計の意味するところは・・?

まず、ガダルカナル、ブーゲンビル、タラワ、マーシャル、アドミラルティ、
ニューギニア、サイパン、グアム、パラオ。

全てのかつての日本の領地だった土地に立った日の丸は
この順番に連合軍によって奪取されていったことを表すために
旗竿が真っ二つに折られてしまっています。

5分前にあるのはフィリピンで、フィリピン侵攻に先立ち、アメリカが
攻略したのはパラオ諸島、その直前がサイパン・グアムでした。

この絵が描かれたのは1944年(昭和19年)の10月から3月までの間でしょう。

フィリピンが陥ちれば次は日本本土である、と啓蒙しているのです。
現に、レイテ沖海戦で聯合艦隊壊滅後、日本軍は完全に補給を断たれ、
レイテ島10万、ルソン島25万に部隊が取り残された形となり、1945年6月以降は
ジャングルを彷徨いながら散発的な戦闘を続けるだけとなりました。

多くが餓死、あるいはマラリアなどの伝染病や戦傷の悪化により死亡。
大岡昇平の「野火」はこの戦地での惨状を描いたものです。

大正天皇の御真影。
写真を元にレタッチ?されていますね。

「大正三年十一月十四日印刷 同年同月十七日発行
画作兼印刷発行者 日本東京市浅草公園第五区?番地
天正堂 土屋鋼太郎

実写版でリメイクされた「火垂るの墓」で、御真影が燃えてしまったので
責任をとって一家心中する校長先生なんてのが出てきていましたが、
これは少し「やりすぎ」な設定としても、戦時中には
皇族の写真発行については政府が干渉するようになったのも事実です。

皇室のブロマイドや絵画は1890年くらいから市井で大量に売られ、
商業誌や新聞にも掲載されていました。
とくに皇室グラビアは人気があり、商業誌の売り上げにも寄与したそうです。

大正時代には大正デモクラシーなどの影響もあり、イギリス型の
「開かれた皇室」を目指す動きが強まりました。
この写真は御在位されて3年後のもので、この後大正天皇が
病床に伏されるようになると、留学中の皇太子殿下(昭和天皇陛下)の写真が
グラビアを飾るようになってきます。

日中戦争が始まるまでは、御真影を神の如く崇めるような文化はなく、
この写真風版画も、火事の時にもち出せなければ責任をとって云々、
というような悲壮な信仰の対象にはなっていなかったのは確かです。

しかし日本国民の皇室と天皇陛下に対する敬愛は、戦前と戦後で
根本的に全く変わっていないとわたしは信じています。

左は土屋貞男さんの出征を祝うためののぼり。
アメリカにこれがあるということは、土屋さんは外地で戦死し、
どこかでアメリカ兵がそれを発見し「記念品として」持ち帰ったのかもしれません。

右はおそらく航空兵が敵機を認識するために使われたものです。

飛行するXFM-1-BE 36-351号機 (1937年撮影)

上のベル FM-1「エアラクーダ」は、第二次世界大戦前に
ベル社がアメリカ陸軍航空隊向けに試作した戦闘機ですが、
飛行性能が悪く、開発は中止されました。

にもかかわらず日本にこのようなものがあったということは、
この頃は開戦前でまだ両国の情報は遮断されていなかったということですね。

下のダグラスA-20エドワード・ハイネマンの作で、
アメリカのみならず連合国で多用された双発攻撃機です。

イギリスでは「ボストン」、夜間戦闘機としては「ハヴォック」
アメリカ海軍ではBDと呼ばれていました。

こちらは戸松茂さんが入営の際につけたたすきで、
「祈 武運長久」と書かれています。

戸松さんも、どこかの戦地で亡くなったのでしょうか。

向こうに和服のマネキンがいますが、なぜか展示品の中に
着物と帯があったようで、わざわざ黒髪の日本人風のマネキンを調達して
展示しています。

この写真のデータは、残念なことにいくつかの写真とともに
消えてしまい、皆さんにお見せすることができなくなってしまいました。

アメリカ潜水艦の模型(年代物)の向こうには
昭和20年の日付のある寄せ書き。
海軍の部隊で全員が名前を書いたものだと思いますが、
階級などは全く名前に添えられていません。

これも説明がないので断言はできないのですが、左下に
英語で誰かが誰かに寄贈したと思われるサインがあることから、
日本に爆撃を行なった航空機から撮られた写真だと思われます。

「東京上空30秒前」という映画で登場した模型の空撮シーンと
酷似していますが、東京空襲の時かどうかはわかりません。

割れたゴーグルは撃墜された飛行士の遺品でしょうか。

 

そしてここにもあった、真珠湾攻撃をしらせる無線電報。

AIRRAID ON PEARL HARBOR X THIS IS NO DRILL

珍しく説明が添えられているので翻訳しておきます。

「日本軍の真珠湾への攻撃は1941年12月7日、
ハワイ時間の午前7時48分にはじまった。

353機の戦闘機と艦爆と艦攻が6隻の空母から二波に分かれて出撃。
アメリカ軍にとっては全くの不意打ちであった。

銃に人員が配置されておらず、弾薬庫には鍵がかかっており、
航空機は翼を並べて飛行場の格納庫に駐機されていたのである。

きっちり90分間で空襲は終了した。
2,403名が死亡し、1,178名が負傷した。

8隻の戦艦が損壊し、そのうち4隻が沈没、巡洋艦3隻、そして
駆逐艦3隻が損壊あるいは破壊され、188機の航空機が撃破され、
159機がダメージを受けたのであった」

全くの不意打ちであればこれほどやられても当然です。
いまさらですが、ルーズベルトはどうしてこれほどの被害が出ることを予想しながら
知らんふりをしていたのか、理解に苦しみます。

もし極秘にそのことを真珠湾に警告して米軍に迎撃させたとしても、
彼の望み通り、開戦にこぎつけるという結果に変わりはなかったと思うんですが。

 

この電報の横には、日本が中国進出後にアメリカを始め各国から
(ABCDラインですね)禁輸措置を受けて”バーンアウト”したことが
さらっと書いてありますが、そのあとはおおむねこんな風に続きます。

「アメリカ側は日本のステルス攻撃に対する注意が全く欠けていた」

「アメリカ政府は日本が開戦したがっていることを知っていたが、
ハワイが攻撃されることを全く予想していなかった」

「日本の攻撃は予想外(unthinkable)であったため、その前に
日本のミニサブ(潜航艇)が駆逐艦に撃沈されたという報告も、
航空機がレーダーに捕らえられていたという報告も上がらなかった」

「日本軍は全てをきっちりと行い、その運命の朝、
艦船はもちろん航空機もオイルタンクも、ドライドッグも爆破した。

続く戦況も日本が優勢であったが、6ヶ月後、アメリカ海軍は
ミッドウェイで帝国海軍を打ち破ることによって軌道修正をした」

そして、攻撃のおわったヒッカム基地の惨状。
炎上爆発が起こっています。

海軍の写真班によって撮られた真珠湾攻撃の写真。
USS「ショー」DD-373が爆破炎上する瞬間です。

12月7日、 「ショー」はドライドック で 爆雷システムを調整していました。
日本軍の攻撃で、三発の爆弾を受け、 炎上。
必死の消火活動が行われましたが、総員退艦の命令がだされた直後、
前方の弾薬庫がは爆発したのがこの写真です。

その後仮修理を経てサンフランシスコで艦首を取り替え、
1942年8月31日にパールハーバーに戻り、終戦まで活躍しました。

彼女に与えられたあだ名は

「A Ship Too Tough to Die」(死ぬにはタフすぎる船)

というものでした。

説明がなかったのですが、おそらく真珠湾攻撃で戦死した水兵の一人でしょう。

上の写真の意味が全くわかりません。

総員配置のためのメモ

艦尾で育ったサトウキビを食べないように注意してください。
おそらく毒性化合物の扱いです。

????

写真を遠くから撮ったので日本語が読めません><

日本のグラフィックマガジンに掲載された真珠湾攻撃の記事ですが、
なぜかご丁寧に英訳されております。
これも大変読みにくいのですが頑張って翻訳します。

ハワイでのアメリカの太平洋作戦基地への奇襲!

海鷲たちが水平と垂直に空を横切って織りなす猛烈な攻撃で、
厳重に警戒された真珠湾に侵入し、我特殊潜航艇も加わり、
空中と海の両方から猛烈な攻撃が行われた。

我が軍のこの輝かしい成功は、全世界の耳目を魅了した。
さまざまな敵の艦艇や航空機の破壊は、一度に20隻の艦艇、
460機以上の航空機にのぼり、地球を恐怖で震え上がらせた。

見よ!

海鷲たちの大軍勢は港に易々と進入し、無力な敵の多くの船のうち、
まず2隻を屠り、艦攻中隊は小物には目もくれず、戦艦に向かう。
攻撃の雄叫びは朝の沈黙を一瞬にして震えさせた。

今日まで厳重に保護されていた真珠湾は一瞬にしして血塗られ、
アメリカに目に物見せたのである。

本文の日本語と照らし合わせることができないの残念です。

冒頭のハワイ攻撃を報じる第一報に続き、こちらは
日本がアメリカに宣戦布告したというヘッドラインが踊ります。

写真のベッドに寝ている人は真珠湾で負傷した海軍軍人でしょう。

こちらはちゃんと日本語が読めますのでそのまま書いておきます。

海鷲飛躍 ハワイの奇襲

12月8日午後2時、大本営海軍部は宣戦の大詔渙発直後、
早くも大戦果を発表して曰く

『帝国海軍は本8日未明、ハワイ方面の米国艦隊並びに航空兵力に対し、
決死的大空襲を慣行せり』

と。
あゝ迅雷耳を掩う(おおう)の暇もない世紀の壮挙!
三千四百海里の波濤を蹴ってハワイ付近に達した我が航空母艦から
飛び立った海鷲は、暁の漠雲の中に飛び込む、やがて
断雲の間から島が目に入る、占めた(ママ)布哇だと思うまもなく、
オアフ島の山々が瞭(はっ)きりと見えてきた。

指揮官旗を先頭に機体は山肌すれすれに飛ぶ。
遥か前方の島はフォード島である。

その周囲に黒い小さい艦(ふね)らしきものが點々と見える。
軍艦だ、紛れも無い敵太平洋艦隊である。

なんたる天佑ぞ!何たる神助ぞ!
搭乗員の面はいやが上にも緊張する。

攻撃部隊はこの時あるを期して長年月猛特訓せし神業を縦横に発揮し、
世界第一と称する同軍港の覆滅を目指し、今将(まさ)に
雄渾無比の電撃奇襲作戦を敢行せんとするのである。

こちらにもご丁寧に英訳がつけられておりますが、
漢字に振り仮名の多いのを見ると、この絵と文章は、
子供向けの海軍ファン向け雑誌に載せられたものだと推察されます。

もちろん、ちゃんと海軍省の認可番号が振ってありますが、
まさかアメリカ人もこれが少年雑誌向けとは思っていない様子・・・。

 

続く。

 


ミズーリ艦上の降伏調印式〜ウェストポイント博物館

2020-05-02 | 歴史

ウェストポイントに併設されている軍事博物館の収蔵品は、
アメリカ陸軍ならではの歴史的にも貴重なものが数多くあるのですが、
ここまできて、わたしたち日本人にとって特に注目すべき展示が現れました。

冒頭写真(残念ながらボケてしまいました)は、1945年9月3日、
フィリピンバギオ市のキャンプ・ジョン・ヘイ(Camp John Hay・元米軍保養地)で、
旧日本軍フィリピン総司令官山下奉文(ともゆき)陸軍大将が署名した
降伏文書で、南西方面艦隊司令長官 大川内傳七海軍中将とともに、
どちらも自分の名前を英語で署名しています。

ネットを検索したところによると、昔はここに山下大将が所有していた
日本刀も一緒に展示してあったらしいのですが、どこにも見当たりませんでした。

単に写真を撮り忘れただけという可能性もありますが、このわたしが
ウェストポイント軍事博物館にきて、日本に関するものを
見逃すはずがないので、おそらく展示されていなかったのだと思われます。
(でも実はあったとかならすみません)

ところで、この写真、皆さんも一度はご覧になったことがあるでしょう。

マッカーサーがミズーリ艦上で日本の降伏調印証書にサインしているところですが、
写真のマッカーサーの右手の横、机の上をご覧ください。

なんか万年筆がたくさん置いてありませんか?

そう、マッカーサーはこのサインを5本の万年筆を使って行ったんですね。
もちろん、それを戦利品として取っておくためにですが、なぜ5本も?

そして、そのうちの一本が冒頭写真に写っている万年筆です。
博物館の説明によると、これが

「マッカーサーが最初に使ったペン」

だというのですが、どうしてここにあるのでしょうか。

 

さて、ここで、「赤城」の巨大模型があったエンパイアステート航空博物館の
降伏調印式のミズーリ艦上での写真を思い出していただきましょう。

ほらこれ、これですよ。

マッカーサーの遁走後、後を引き継いでフィリピン軍の指揮を執り、
その結果、降伏して日本軍の捕虜になってしまったウェインライト将軍

彼を抱き抱えているマッカーサーは、自分の敗走を棚に上げて
ウェインライトがフィリピンで降伏したことを非難し、
おまけに捕虜待遇における叙勲に反対していました。

で、今回初めて知ったんですが、上のサインしているマッカーサーの
後ろに立っている軍人、この人誰だと思います?

ジョナサン・”スキニー”・ウェインライト大将その人なのです。

 

展示には、

「彼はペンをジョナサン・ウェインライト大将に贈呈し、
大将はこれを『大変素晴らしい贈り物だ』といった」

とあります。
この万年筆はウェインライトの息子と思われる、同名の
ジョナサン・M・ウェインライト五世大尉から寄贈されました。

つまり、マッカーサーは、降伏調印文書にサインした万年筆を
その場でウェインライト大将にプレゼントしたのです。

ウェインライトをミズーリ艦上に呼びつけたのは誰か、もう明白ですね。

 

ここで残りの四本の万年筆はどうなったか見てみましょう。

陸軍士官学校ウェストポイント

海軍兵学校アナポリス

妻ジェーン

そして、

アーサー・パーシバル陸軍中将
(シンガポール陥落の時山下奉文に降伏した司令官)

つまり、おわかりいただけただろうか。

マッカーサーは、降伏調印式に、かつて日本に降伏した敗将二人を呼びつけ、
その二人に万年筆を与えるというアイデアを思いついたというわけです。
それなら最後の一本は妻じゃなくて自分がもらっておけば良かったんでない?

という嫌味はともかく、ウェインライトはもちろん、パーシバル中将だって、
「敗軍の将」枠でわざわざクローズアップされたくはなかったと思うがどうか。

マッカーサーという人をわたしは全ての歴史的人物と同じく、
好きとも嫌いとも思いませんが、この後に連合国軍最高司令官として
赴任した日本を

「私の国」(My country)

と呼んでいたことなどと考え合わせると、この万年筆も
ウェインライトの件も、マッカーサーという軍人の外連味というのか、
おべんきょはできても人望がなかったという噂を証明している気がします。

白洲次郎も、畏れながら昭和天皇もマッカーサー嫌いだったようですが、
(白洲はお堀の横を通っても明治生命ビルからは顔を背けるくらい)
このレベルの方々から見てわかる「邪悪」なものがあったのかもしれません。

うがった見方をすれば、降伏調印式の時も、マッカーサーが
本当に呼びたかったのは自分の弱みを握るウェインライトで、
かといってウェインライトだけ招くのは邪推されるので、
無理やり「敗軍の将枠」を作りパーシバルを呼んだのではなかったでしょうか。

マッカーサーは、ウェンライトが周りに唆されたりして
自分について何か言い出す前に、
名誉と勝利を分かち合うことで
懐柔し、口を塞ごうとしたに違いないとわたしは思っています。

 

「どうしてこれがここにあるんだろう」

わたしとTOはこれを前に思わず呟きました。
ミズーリ艦上で調印された公式文書(コピーではない)が
目の前のケースに収められていたのです。

まず、マッカーサーがなぜミズーリ艦上が選んだかというと、

1、洋上であれば式典を妨害されることがない

2、ミズーリが時の大統領トルーマンの出身州だった

3、海軍側に花を持たせるため

でした。

ミズーリはかつてペリーが日米和親条約を調印したときに
旗艦ポーハタン号が停泊させていたのと同じ位置に停泊しました。
これら全てもやはりマッカーサーの演出であったそうです。

出といえば、式中掲揚されていた星条旗のうち一つは
真珠湾攻撃時にホワイトハウスに飾られていた48州星条旗、
もう一つは、1853年の黒船来航の際、ペリー艦隊が掲げたものでした。

そして、海軍では乗艦している最高指揮官、つまりこの場合は
ニミッツに対する将官旗をマストに掲揚するのが慣例のはずが、
この時にはマッカーサーの要求で陸軍元帥旗も揚げられました。

ご存知の通り、マッカーサーとニミッツは誰もが知る犬猿の仲で、
親の仇ではないかというくらい憎み合っていたわけですが、
この特別措置に対し、ニミッツは内心どう思っていたでしょうか。

 

日本帝国政府を代表して重光葵が、そして大本営を代表して
梅津美治郎参謀総長が署名しました。

ところで、実物の署名を見てわたしが思ったのが、筆跡の乱れです。
両名ともに字はかすれ、梅津大将は書き直しをしているなど、
ご本人たちには不本意な書だったのではと慮られます。

改めて重光全権大使のサインする姿を見て納得しました。
足の悪い重光氏がテーブルに手をついて、立ったままサインしています。

ちなみに右側で重光氏のシルクハットとステッキを持っているのは
内閣情報局第三部長、加瀬俊一氏
前にも書きましたが、オノ・ヨーコの伯父さんに当たります。

それでは梅津大将のサインしている姿をご覧ください。
やっぱり立ったままで、中腰になってサインしています。

こんな姿勢ではちゃんとした字が書けるわけがありません。
他の代表の署名中の写真を見ると、座っている人もいますが、
この状態を見るかぎり、座るとサイン出来なさそうですね。

東京湾 1945年9月2日0908、
アメリカ合衆国、中華民国、英国、ソビエト連邦、そして他の関連する
対日戦争の連合国において受け入れられる。

連合国軍最高司令官総司令 ダグラス・マッカーサー

「マック」と「アーサー」の間が離れていて最初誰のサインかわかりませんでした。
これは、いうまでもなく、名前を5本のペンで書いたからです。
「ダグ」「ラス」「マック」「アーサー」「tの横棒」
と分けたのではないかと思われますが、どうでしょう。

その後、各国代表者がサインを行いました。
マッカーサーはこのときアメリカ合衆国代表をニミッツにして、
海軍に花を持たせる配慮をしています。

上から順番に、

アメリカ合衆国代表 チェスター・ニミッツ海軍元帥
中華民国代表 徐永昌陸軍大将
イギリス代表 ブルース・フレーザー海軍大将
ソ連代表 クズマ・デレヴャンコ陸軍中将
オーストラリア代表 トーマス・ブレイミー陸軍元帥
カナダ代表 ローレンス・コスグローブ陸軍大佐
フランス代表 フィリップ・ルクレール陸軍大将

オランダ代表 コンラート・ヘルフリッヒ海軍大将 
ニュージーランド代表 レナード・イシット空軍少将

この署名の時、カナダ代表のコスグローブ大佐が、勘違いから
ポカミス
をやらかしました。

ここにあるのは連合国用ですが、関係者がもう一種類、
日本用に同じ書式にサインしたとき、コスグローブ大佐、
まちがえて、自分の欄ではなく一段下にサインしてしまったのです。

これが日本用。
カナダ代表の欄が空欄になっていますね。
コスグローブ全権が
フランスの書名欄にサインしてしまっています。

Cosgrave CANADA 1945.jpgコスグローブ・只今チョンボ中

その後の流れはこうでした。

フランス代表→気づかずオランダの欄にサイン

オランダ代表→間違いに気づくもマ元帥に言われてニュージーランド欄にサイン

ニュージーランド代表→やはり気づくも仕方ないので欄外にサイン

つまり戦犯?はカナダ代表だったのですが、サインが終わると、
彼は皆とともに祝賀会のため艦内に入っていってしまいました。
(この祝賀会には日本代表は呼ばれなかった模様。当たり前か)

 

気づいていたオランダ代表が祝賀会に向かう前に日本代表に、

「これ、カナダさんが間違えてるんですけど・・いいんですか?」

日本側、困惑。

サザーランド中将「まま、ひとつここはこれで・・・・。
(連合国用には間違いはなかったし、どうせ日本用だから)」

重光葵不備な文書では枢密院の条約審議を通らない!」

日本側「もう一度各国代表にサインし直しさせてもらえませんかね?」

サザーランド「皆食事中だしだめですな(そんなこと俺言えねーよ)」

日本側「そこをなんとか・・・・」(必死)

サザーランド「仕方ないなあ、じゃ私が訂正サインしますよ。
  ならいいでしょ。これで我慢して。ね? ちょちょいのちょいと」

というわけで、日本側も納得し、9時半に下艦を行いました。

実物をもう一度見ていただくと、左側にサザーランドのサインが4つあり、
代表の国名も手書きで直してあって、実に適当な感じです。

こういうことに人一倍?きちんとしていないと気が済まない国民性ゆえ、
全権団は、これによって敗戦の屈辱をことさら噛み締めたに違いありません。

 

ちなみに、このとき、ミズーリ上空ではアメリカ海軍機の編隊と、
陸軍のB-29爆撃機が祝賀飛行を行っていたそうですが、
艦上ではそういう騒ぎになっていたため、少なくともサザーランドと
日本代表は
これを見ている場合ではなかったと思われます。

 

続く。