住職の独り言

~ご縁に触れて~

聴聞

2022年04月26日 | 独り言
昔、三重の村田静照という立派な和尚様が、「ご参詣の皆さんは、お浄土参りの有り難い身になるためにお参りされているかもしれんが、それは間違い。どうか、地獄行きの身になって下さい」と、おっしゃったそうです。
 普通、聞法とは、仏様の有難さを聞かされ、だんだん法悦が増すことだと思いがちです。しかし、それは誤りで、実は、地獄真っ逆さまの自己の値打ちを聞かせてもらうこと以外にはない。地獄行きの身と本当に知らせてもらわなければ、引き受けて下さる仏様のご苦労にも気付かせてもらえない。だから、この高山へ来られての観光気分はここまで。これから先はしっかり地獄行きの身になって下さい。
 それには、どこまでも自己を問題にせねばならない。本当の自性、自己の値打ちを聞かせていただく。皆さんは、「自分の事は、自分が一番よくわかってる」と思っておられる。しかし、ここで言う自己とは、真実の仏様からご覧になった姿のことです。だから、本当につまらん、浅ましい自分だと気づかせてもらうことが、大事なんですね。
 では、自分を知らされたら、それでしまいかといえば、さらにその自分にかけて下さっている仏様のご苦労、仏願を聞かせてもらわねば、聞法にはならない。この二つのどちらかが欠けても、信心決定は難しい。自分の側ばかりを問題にしていては、おみのりは聞けない。といって、仏様の有難い事ばかりで、自分自身がお留守では、単に有難い物語の拝聴に過ぎず、自己が問われてはきません。
  そういう意味では、自己を聞くことは、同時に仏様のご苦労を聞かせてもらうことに他ならない。常に、仏様の願いは、この私にかけられているのだが、残念ながら「オレが、オレが」の心で、そこに気付けずにいる。それで「分かっている、知っている」を捨てて、「気づかなかった、見過ごしていた」地獄行きの姿や仏様のご苦労を聞かせてもらうことが、大切なことだと思うのです。

(増井信師~信心の点数より~転記)


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