北陸に高光大船というみんなから尊敬される念仏者が
「自分は人の手本にはなれない、
だけど見本ぐらいにはにはなれるだろう」
と言われたという。
私はこの言葉に何かホッとする安らぎをおぼえる・・・
手本になることは立派なことには違いない・・・
だけど阿弥陀さまの智慧に照らされた私の姿は、
自分中心で煩悩三昧(欲・怒り・愚痴)の日々であり、
とても手本になれるような姿(身口心)は
一つもない恥ずかしい自分を知らされる。
浄土真宗に帰すれども
真実の心はありがたし
虚仮不実の我が身にて
清浄の心はさらになし (親鸞聖人和讃)
見本という私は、立派な自分を取り繕う訳でもなく、
ありのままの自分でいいんですね!
よろづのことにつけて、
往生にはかしこきおもいを具せずして、
ただほれぼれと弥陀の深重なること、
つねにおもひいだしまゐらすべし。(歎異抄)
阿弥陀様のご本願は「手本になれない」私を
「見本のまま(このままの私)」を救う為の願いでありました。
南無阿弥陀仏
「自分は人の手本にはなれない、
だけど見本ぐらいにはにはなれるだろう」
と言われたという。
私はこの言葉に何かホッとする安らぎをおぼえる・・・
手本になることは立派なことには違いない・・・
だけど阿弥陀さまの智慧に照らされた私の姿は、
自分中心で煩悩三昧(欲・怒り・愚痴)の日々であり、
とても手本になれるような姿(身口心)は
一つもない恥ずかしい自分を知らされる。
浄土真宗に帰すれども
真実の心はありがたし
虚仮不実の我が身にて
清浄の心はさらになし (親鸞聖人和讃)
見本という私は、立派な自分を取り繕う訳でもなく、
ありのままの自分でいいんですね!
よろづのことにつけて、
往生にはかしこきおもいを具せずして、
ただほれぼれと弥陀の深重なること、
つねにおもひいだしまゐらすべし。(歎異抄)
阿弥陀様のご本願は「手本になれない」私を
「見本のまま(このままの私)」を救う為の願いでありました。
南無阿弥陀仏