一枚起請文 (法然聖人の御遺言であります)
中国や日本の智慧ある方々が議論を重ねて言っておられるような、乱れ心を修めて、阿弥陀如来のお姿やお浄土の世界を思い描く観念の念仏ではありません。
また、学問して念仏の功徳や意味を詳しく知った上で申すような特別な念仏でもありません。
ただ、極楽往生の為には、南無阿弥陀仏と申して、疑いなく往生すると思いとりて念仏する他には、これといって特別なことではありません。
念仏者は三心(至誠心・深心・廻向発願心)という心の持ち方や、四修(長時修・無間修・恭敬修・無余修)という態度を具えなければならないと申しますが、これらはみな、南無阿弥陀仏の念仏によって必ず往生させていただくと思い定めて念仏申す人の上に、おのずから具わるのもなのです。
もし仮に、これ以外にも奥深い教えがあって私が隠しているとしたら、私は釈迦・弥陀二尊の大悲にはずれ、弥陀の本願のお救いにあずかることは出来ないでしょう。
念仏の教えを信ずる人は、たとえ釈尊一代の教法をよく学ぶとも、一文字さえも知らない無学・無智の身になりきって、尼や入道などの無智のともがらと同じ身であるとわきまえ、智者のような振る舞いをせず、ただ一向に念仏申すべきです。
証の為に両手印をもってす。
浄土宗における安心と起行は、この一枚に記したことに尽くされています。私、源空の考えはこの外にまったく別の儀はありません。私が亡くなった後、よこしまな説をなすものを防ぐ為に、ここに所存を記しました。
建暦二年正月二十三日 大師在御判